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誕生日対悩める若き青年

村本 耕輔


約 8210

吐 露

 

 2017年1月28日、私は二十歳の誕生日を迎えた。ついに成人である、聖人ではない、いたって普通の汚い成人だ。「おめでとう!」そんな声が聞こえてくる。誕生日を迎えると、地球という星では周囲の者に祝福してもらえる風習がある。人間だけなのかは分からない。野生の生物たちも、密かにそれぞれの誕生日を記憶していて、実は人目につかないところでご馳走の獲物を掻き集めて盛大に歌って踊って宴会をしているのかもしれない。楽しそうである。彼らに季節以外の、日にちという概念は無さそうのなので可能性は低いが。いかにもピクサーとかディズニーが描きそうな設定だ。

ここまで見るとまるで何を言いたいのか分からないであろうと思うので、話を本筋に戻す。ごめんなさい、野生生物たち。ついこの前誕生日を迎えた私は、誕生日が近づいてくる段階からある感情を抱えていた。

 

嫌だなあ。

 

楽しみだなんて思えなかった。もはや誕生日なんてなくならないかなとさえ思う。これは地球上においては珍妙な話だ。父母との血縁関係の、ドロドロした事情は私にはない。強く誕生を恨まれた権力者の落とし子でもない。普通に祝われても問題のないそこらの人間だ。だが、問題がないのは表面の話であって、内側においては負の感情がなんとか海峡並みに渦巻いているのだ。

 

 

27日(一日前)

 

私が誕生日を厭い始めた原因はバイト先のLINEのグループにある。私のバイト先は某大手塾で、在籍生徒が卒業後に働くので自然と皆の仲は良い。私はどうだろう。まあそれはいいのだが、仲が良いということは、それぞれの誕生日の把握も済んでいる。それぞれの連絡先表のようなものに、なぜか誕生日の項目もあるのだ。バイトの者は20数名いるので、定期的に誰かの誕生日が来る。祝いたがりがその度に、「○○誕生日おめでとう!!」とグループLINEに投稿する。すると、他の20数名もそれに追随する。

「おめでと!」

「○○さんおめでとうございます(笑顔の顔文字)」

「おめ!」(でとう、まで言えよ。)

「○○19歳おめでとう!これでお酒が合法に飲めるね!笑」

「おめでとうございます。」

「良い一年にしてくださいね!」

という風に、まるで社会主義下で衣服のバリエーションがなくなったため、それぞれなりのアレンジや着こなしの違いで個性を見せるように、全く同じ表現はタブーとして皆思い思いの表現をする。そして、当事者は「みなさんありがとうございます!」と締め括る。

この現象が私に大きな陰を落としているのだ。大学生以降、「自分に素直に」、をスローガンに掲げている私は、思ってもいない言動や偽りの関係性から出来るだけ距離をとることにしていた。ただし、そうはいかない場合も当然多い。バイト先で敢えて反感を買い、仕事がし辛くなるのは非生産的だ。おめでとうの流れが始まれば不本意ながら私も祝辞を述べる。しかし、その時指を動かしている私の顔は真顔だ。たいていの場合気持ちが伴わない。

自分が他人にこうなのだから、大衆的人気を得た試しがない私の番になったら、他の20数名の大半は、私と同じように、思い思いの祝辞を真顔でスマートフォンに打ち込み、無心で送信ボタンを押し、仕事をさっさと済ませたとばかりに自分の世界に戻っていくのだろう。真顔で顔文字や絵文字を付け加えている様はホラーだ。このことは近い将来、宇宙人が現れて仲良くなった時に、いずれ問い質されそうだ。

「なぜ地球人は思ってもないことをするのですか?」

返答に窮して絶句する地球人の様は容易に想像がつく。思ってもないことの裏には、様々な思惑があるのだが、彼らには理解してもらえないだろう。彼らの視点で描く文章があったら新鮮で面白そうだ。それはともかく、素直におめでとうを受け止められない私にとって、20数名分の、記号化したおめでとうは、辛辣だ。

耐震工事が未だ進行中の心がこれに耐え難いことは19歳の誕生日の時にひしひしと体感済みであったので、前日から私はわなわなと独り震えていた。

 

27日。いくら誕生日が嫌だとはいえ、成人することに何も感じないほど無機質な私ではない。時の流れを感じ、感慨深い気持ちが少しした。午前は寝て過ごし、午後から大学に向かった。授業のまとめのテストが一つあり、それを満足にこなし帰宅する。あとは日付が変わるタイミングが勝負だな、などと思いながら電車に揺られていると、予期せぬことが起こった。

「誕生日おめでとう!」

バイト先のグループLINEの通知を見て私は愕然とした。誕生日を間違えられたのだ。実は連絡先表に載っている誕生日は28日ではなく27日になっており、前の誕生日が来る前に冗談混じりに誤りを訂正しておいたのだが、年度が変わり新しくなったメンバー版の連絡先表にまで頭が回っていなかった。完全にやられた。

しかし、これはチャンスでもあるのではないか。他の者がベルトコンベアのように追随するまえに、素早く楔になるような返信が出来れば、これから流れる無機質な川を堰き止め、明日の本番もなかったことに出来るかもしれない。

 

「すみません、言いにくいのですが、明日がその日なんです。」

「勝手に気持ちは受け取るので明日は大丈夫です。ありがとうございました。」

 

完璧だ。不測の進軍に対し、被害を最小限に留め、かつ敵軍の動きを完全に停止させる一手。名将たる我ながら素晴らしい対応だ。

「えええー!27日って書いてあったよ…。」

画像付きで当人は必死に自分の無実を主張した。気の毒だ。完全にこの先輩は悪くないのに。祝い間違えなんてもし自分がしてしまったら……、深夜に住宅街を走り回らずにはいられないほど恥ずかしい。

先輩には気の毒だが、この後に私の意図を汲んで他の者が続かなかったことは、自己中心的だが、喜ばしいことだった。後は明日ケーキを食べるのみだ。

日付が変わる前に布団に潜り、スマートフォンを背にして眠りに就こうとした。明日でもう未成年でなくなってしまうのか、そう考え出すとなかなか寝付くことができなかったが、そのうち瞼が重くなり、目の前は暗くなった。

 

 

28日(当日)

 

自然とアラームの鳴る前に起きた。最近こういうことが多い。私は起きるとまずスマートフォンを確認する。リマインダーという、タスクをお知らせしてくれるアプリを確認し一日の動きを把握するためだ。それと同時にLINEに目がいく。まあまあの数のトークが溜まっていたようだ。誕生日当日ということもあって、少し開くのが億劫だったが、開くとそこには予想だにしなかったトークがあった。

バイト先のグループLINEにトークが溜まっていたのだ。開くとそこには堰き止めたはずのおめでとうの文字が多くはないが並んでいた。いったい何がおっこったのだ。私の前日の対応に抜かりはなかった。

画面をスクロールして遡ると、決壊の原因が見つかった。同期の比較的仲の良い男子が「大丈夫と言われたけど勝手に祝うね笑 おめでとう!」と日付が変わったタイミングで送っていたのだ。大丈夫と言われてまで祝ってくれるとなると、そこに本物の精神が通っている気がして、不覚にもちょっと嬉しいが、その後に、しっかりと私の前日の策略に気付かぬまま、おめでとうの通知だけを見て、追随するものが7人出てしまった。やられた。とんだ誕生日の幕開けだ。

はじめこそ策略が決まり、圧勝かと思われたが、何事も気を抜くものではない、大どんでん返しが最後に待っており、20数名の内9名に祝われてしまうという、苦い結果となってしまった。おめでとうと言われる人数を必死に抑えようとするのと、おめでとうと沢山言ってもらえるように頑張るのは、おそらく同じくらい難しく、辛い。どっちもどっちだ、虚しい。

不測のおめでとうを何発も食らった私は朝から疲れていた。疲れを癒すために風呂に入ることにした。冬の風呂の格別さといったら。追い炊きした湯船に浸かりながらスマートフォンをいじっているとメールがいくつか届いた。開くと、登録しているウェブサイトなどからだった。件名を見てギョッとした。

 

件名:お誕生日おめでとうございます!

 

死角からのジャブに思わずよろけた。もはや誰かも分からない、というか自動送信という本当の意味で無機質なもので届いたのだ。サイト等に登録する時も誕生日を詐称しなければならないのか…。でも、詐称したらしたで、何でもない日におめでとうございます!と届くのもまた辛い。自動送信メールに非はないが、私が任天堂にほんのりと苛立ちを覚えたことはここに報告しておこう。追加攻撃にも何とか耐えきった私は、頭まで風呂に沈ませ、ブクブクと息を吐いた。

 

風呂を上がる頃には疲れも取れ、晴れ晴れとした心境だった。大学生は1月後半から2月にかけて授業の締め括りであるため、レポートを適当に書いたりしながら一日の大半を過ごした。誕生日なので少し豪華な夜ご飯を食卓で囲う。さっと平らげ自分の分の食器をキッチンに運び、ケーキが出てくるまでバラエティ番組を見て時間を潰す。家族も食べ終えたようで、紅茶を入れ、ケーキが出てきた。私の好きなガトーショコラだ。蝋燭が2本立てられ、火が点いている。ということは、この後行われる風習をみなさんはご存知だろう。完全に忘れていた、これがあることを。

そう、ハッピーバースデートゥーユーだ。

私が、誕生日が嫌いな理由として、もう一つ大きな面積を占めているのが、羞恥心だ。誕生日はそのサプライズ性と幸福感のために、非常に特殊な空間が形成される。羞恥心がずば抜けて高い私としては、多くのストレス対象なのだ。人前で祝われる場合は、周りの人々を気にしてしまい全く楽しくないし、バースデーソングに至っては、歌われている間にどんな顔をすればいいのか分からない。去年、一昨年、高校生の頃、中学生の頃、どんな顔で歌を聴き続けてきたのか思い出せないのだ。

母親が電気を消し、陽気に歌い始める。

「ハッピーバースデートゥーユー、ハ…」

私は首を横に振り、手を振り母親に必死に歌うことをやめるようにジェスチャーした。恥ずかしすぎる。今回はハッピーバースデートゥーユーに一度しか耐えられなかった。私の記憶が正しければこのキラーフレーズは最低でも4回唱えられるはずだ。しかも、3回目は、途中でディアー◯◯くーん、などといった感じで全員全くタイミングが合っていない謎の変則箇所もあり、羞恥心がずば抜けて高い私にとっては最難関ソングなのだ。

急いで蝋燭をフッと吹き消し、特殊な空間を形成させないようにあくせくした。配られたガトーショコラを黙々と頬張る。美味しい。だが、今はそれどころではない。蓄積した羞恥心をフォローしてあげなくてはならない。ハッピーバースデートゥーユー一回分で完全にメーターを振り切っている。紅茶を啜るが、猫舌なので熱くて飲めない。温度保ちすぎだボケ!と罪のない紅茶を心の中で罵倒しながら、居た堪れなくなって私は洗面所に逃げ込んだ。

どうやればこの照れ、羞恥心とバランスが取れるのか、脳が咄嗟に下した判断は変顔だった。自分でもどうしてこうなったのか分からない。

羞恥心の目覚めとともに、小学校卒業以降は変顔を苦手としていた私が変顔をするというのは相当だ。鏡に向かって全力で顔という顔を捻じ曲げていく様は、歌舞伎役者の見得にも引けを取らない形相だった。名前を團十郎とかに変えられるかもしれない。1分ほどぐぐぐと鏡とにらめっこをし、気が済んだ私は、家族に動揺を悟られてはならないので、スッと真顔に戻り自室に戻った。人間、他人の目がないところでは何をしているか分かったものじゃない。狂気。

何とか乗り切ったものの、バースデーソングの扱い方はもっともっと考えなければならないだろう。これに限らず、その場合どういう顔をしたらいいのか分からない状況がこの世には多い。駅の階段で転げ落ちてしまうが、何事もなかったかのように振る舞う人を目の前にした時、夜の浅草で吐瀉物に気付かずそれを踏んでしまい、足を滑らせたカップルを目の前にした時。どうすれば良いのだ。状況別表情パターンの教科書や授業が義務教育にないとこのような男がちらほら社会に蔓延ることになる。そしてそのことで苦しんでいる国民がいる。日本政府は大事なことを見落としてきたのだろう。

 

布団に潜り込み、体勢を幾度と変えながら、頭の中で成人したなあ、と呟く。成人したことに対して、様々思うところはある。愚痴が多いが。まあそれは別の機会にして、今は眠ろう。もう私は二十歳になってしまったのだから。

 

 

29日(一日後)

 目は覚めたが、肌寒く、なかなか起きることができない私は、布団の中で長いこともぞもぞしていた。もう成人なのだが実感がてんでない。いろいろと考えた結果、私はまだガキのままでいよう、そう決意してテレビの録画を消化するために何とか布団から這い出てリビングに向かった。

すると、母親から、姉の彼氏が家に後で来て私に祝いのケーキをくれるらしいとの伝言があった。一難去ってまた一難去ってまだ一難。はあ、仲良くさせてもらっている相手ならまだしも、挨拶をする程度の仲の相手からケーキは辛すぎる。その彼氏さんは姉ともう5年以上お付き合いしている方なので、普通は私も仲良くなると思うだろうが、中学の頃に姉は、自宅に彼氏を連れてくるたびに相手が違ったほど散らかった恋愛をしていたため、どうせすぐ別れると高を括っていたのが間違いだった、私は距離を縮めるタイミングを見失いずるずるここまで来てしまったのだ。明らかにテンションが下がっている私に母親は「ちゃんとお礼言いなさいよ」と嗜める。そんなことは分かっている。それに伴う心的ストレスに私は頭を悩ませているのだ。バースデーソングと同じだ。どんな顔をすればいいのか分からない。

そうこうしているうちに自宅のピンポンが鳴った。

「おじゃましまーす。」

と姉と彼氏が家に入ってきた。心を強く保って頑張ろう。そう思って挨拶をし、ケーキの礼を言おうと思ったのだが、彼らの手には何もない。どういうことだ。さては母親がこの後ドッキリ大成功のプラカードとヘルメットを装着して陽気に出てくるのか。いや、それでドッキリ大成功では弱すぎる、視聴率もクソもない。彼らが部屋に消えていき拍子抜けしている私に、母親から追加情報があった。ケーキはまだお店にて鋭意制作中で、一時間後に取りに行くのでそれまで時間を潰しに家に来たということだった。私はこれから一時間も、来たる一日遅れのバースデーケーキfrom大して仲良くもない姉の彼氏、を待たなければならないのか。もはや用があるから外に出ると嘘をつこうとさえ思うが、流石に逃げ出すには遅い。またしてもやられた。この三日間やられてばっかりだ。

 

自室で大学のレポートに取り組んでいると、いつの間にか一時間が経過していたらしい、母親がドアをノックして入ってきた。

「ケーキ出来たみたいよ、早く来て。」

来てしまったか、この時が。私は渋々といった様子で部屋を出た。リビングに行くとケーキがテーブルの上に置いてあった。姉とその彼氏は部屋から少し出てこちらを伺っている。

「おお、ありがとうございます。」

とボソボソ私は礼を言った。姉の彼氏は何やら恥ずかしがってこちらには近づいてこない。恥ずかしがるなら渡そうとか思うなよ、と羞恥心上級者の私は思ってしまう。お互い恥ずかしがっているこの状況は何なのだ。告白成功後のカップルか。彼女の弟に成人と誕生日を祝うためにケーキを用意するも恥ずかしくて自分では渡せない男の取扱説明書を今すぐ渡してほしい。またもや居た堪れなくなった私は、「ケーキは夜ご飯の後で食べるわ」と、その場で食べたりして疲労の膨らむ状況を予期して、楔の一手を打ち込んだ。母親も自然と納得し、私はそそくさと自室に逃げ帰った。

部屋で落ち着くと、姉の彼氏の取扱説明書を欲しがっていた自分の様子がまるっきりブーメランであったことに気づいた。周りの方々は常にこうしたもどかしさを私に抱えながら接してくれていると考えると身の引き締まる思いだが、仕方がないそういう人間なのだから。ああ、疲れた。怒涛の三日間だったなあ。振り返りながら布団に寝っ転がると、布団のぬくもりからか、まだ昼すぎであるのに、すぐに睡魔がやってきて、私はあっという間に眠りに落ちた。

 

 

心 言 (震 源)

 

夢か現実か分からないが、どうやら私はこの三日間を振り返っているらしい。

羞恥心の問題はずっと変わらないのでなかば諦めモードだが、祝辞のやり取りにはまだしこりが残っている。誕生日付近の祝われる現象についてだ。もちろん本当に祝いたくて祝う場合もあるが、おめでとう、ありがとう、と言葉を送ったり発したりする際に、心と言葉が一致していない場合が多くあることもまた事実だ。私自身、グループLINEのようなおめでとうと言わないと悪い心象を持たれると思って送っている場では哀しいことに、心と言葉が正比例していない。素晴らしい言葉たちが形骸化してしまう状況が多くあるのだ。

誕生日に限らず、生活の中で、言葉や行動を決定する感情や思考の震源が自分の中にないというのは、なんとも哀しき事態だ。私がする場合も相手からされる場合も。仕方がないし、それが社会的動物である人間の選んだ道なのだが、どうしても心と言がリンクし、偽りのない自己を表現できる世界に生きてみたいと思ってしまう。

心言一致。

これは楽園に近い幻想だろうか。

完全な楽園は、それはそれで怠惰になりそうなので、あれだが、今より少し生きやすくすることは、今の我々にも可能だと思う。目の前にある人間関係を思い浮かべてみてほしい。もしそこに本心がなく、偽りだけがある関係がいくつか浮かぶならば、一度関係性を見直すことも必要なのではないだろうか。私は実際に見つめ直した結果、友人が非常に減った。もう大変なほどに減った。だが、これで良かったのだと感じている。減った関係性の多くはもともと築いても築かなくても変わらないものだったのだと思う。クラスでの空白を埋めるためだけの喋り相手。SNSで人脈の豊富さを見せつけるためだけの知り合い。そんなものはくだらない。くそ喰らえだ。何と言われようと今はそう思っている。

自分に本当に必要なあの人やあいつら。みなさんにとってのあの人やあいつらは一体誰だろう。今浮かんだ人たち、その人たちこそが、あなたに、心の底から「おめでとう!」と言ってくれる人たちなのだ。「生まれてきてくれてありがとう!」と言ってくれる人たちなのだ。素晴らしい言葉は、素晴らしい関係性があってこそ、その真価を発揮する。人と人がいなければ、言葉も何もこの世界には生じない。数の問題ではなく、想いの大きさこそが人生の財産だ。

まずは頭に浮かぶ大切な関係たちから大事に守っていこうではないか。そこでは生活の中で溜まる心言不一致の鬱が、どんどんと解消できるはずだ。

 

誕生日は嫌いだが、誕生日に気付かせていただいたことも、どうやらあったようだ。誕生日に「ありがとう」と言わなければならない。いや、でもなあ。それよりも多くの辱めを受けた気もする。というか最後の印象で決めそうになっていた。危ない、危ない。全然、嫌なことの方が多い。ああ、やっぱり誕生日は嫌いだ。さて、ではどうしようか。

悩むということは、これから言おうとしていた言葉は偽りになってしまうということ。まだ、私には心言一致で誕生日を肯定することは出来ないようだ。でも、仕方がない、そんな単純にはいかない話だ。よし、こういう時は素直にいこうじゃないか、これからは。

 

私は誕生日が嫌いだ。