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浮気調査専門 俵屋探偵事務所 俵屋万歳

鄙村ゆとり


約 99143

プロファイル1「they are strange(奇妙な奴ら)」

 

壱の巻

 
 
ことのはじまりは、彼の浮気だった。
ことのおわりは、あたしの失恋だった。
 
 
2年前、雪が舞い散る3月。
「こんにちはっ」
身を屈めて、恐る恐るアルミ扉を開いた。建て付けが悪いのか耳障りな音がギイギイ鳴った。
意外にも室中は日当りがよくてこざっぱりとしていた。それもそのはず、部屋は家具といえる物が何もない。唯一、衝立てが部屋の奥にあるぐらいだ。来た場所を間違えたかな、不安で扉の文字を裏側からもう一度確認した。
反転した文字を頭で元に戻してみる。“俵屋探偵事務所”と読める。
間違いない合っている。だけど誰もいない。
「どなたかいらっしゃいますか」
返事はない。スマートフォンのマップでもう一度位置を確認した。落とされたピンの位置はいま自分がいる場所と重なっている。やっぱり場所はここで間違いない。
その時、衝立ての奥から一匹の猫が姿を現した。
茶と白の斑模様のアメリカンショートヘアだった。シッポを立て背中を丸めこちらを威嚇する。
Meowww!!
「まさか、あなたがここのあるじ?」
meow!
「その返事はnoだといいんだけど」
meow!
「ごめんなさい。あなたに相談してもねえ・・・」
せっかく足を運んだのに、無駄足だったか。引き返そうと扉の取っ手に手を掛けた時、さっきの鳴き声より1オクターブほど低い物音が耳に入ってきた。
zzzzz …
あたしは躯中の筋肉を固めて振り返った。猫があたしにおそいかかってくるんじゃないかと思ったから。だけども、振り向いたその先に猫の姿はなかった。
zzzzz …
また聴こえた。衝立ての向こう側から聴こえた。猫の声ではない。
がらんとした部屋にそろりそろり足を進める。あたしのブーツの足音が部屋の壁に跳ね返って反響する。それに呼応するかのように例の物音が重なる。
zzzzz …
誰かいる!?そう確信した。衝立ての向こうだ。
猫が飛びかかってきやしないか、警戒しながら、あたしは衝立ての前で持っていたビニール傘を両手で握りしめ肩まで振り上げた。
「ごめんくださあい」
蚊の鳴くような声で呼びかけた。返事はない。代わりに・・・
meow! × zzzzz…
さっきの二つの音が交じって返って来た。これで猫以外に何者かがこの衝立ての向こう側にいることは明白になった。
あたしは思い切って衝立ての裏を覗いた。あったのは古い木製のロッキングチェア。その上に踏ん反り返って男性が居眠りしていた。お腹あたりに擦り切れたブランケットを、頭部には薄汚れたカウボーイハットを乗っけている。
さっきの物音は彼の鼾だったんだ。そしてあの猫が男性のお腹の上に乗っかってあたしを睨みつけている。
この人が探偵さん・・・!?
そうとしか考えようがない。この部屋には男性と猫しかいない。だったら俵屋という探偵が彼で、お腹の上の猫は彼のペットだ。
振り上げていたビニール傘を降ろした。猫に警戒させないよう、あたしは自慢のスマイルを作った。
寝ているところを起こすのは気が引ける。だけどこのまま猫とにらめっこしているのも耐えられない。だからあたしは彼を起こすことにした。そうよ、あたしはお客さんだもの。なにを遠慮することがあるの。
「あのう・・・すみません」
男性は目を覚まさない。
「すみません!!」
声を張り上げてみた。それでも彼は起きなかった。一歩近寄り、深呼吸してお腹に力を入れ呼びかけようとしたところで返事があった。
「うるさいぜ」
驚いたことに子供のように甲高い声だった。
いえ、彼は目を覚ましていない。まだ鼾をかいている。
「万歳は起きねえよ、ちょっとやそっとじゃ」
二歩後ずさった。
「一旦眠りについたら火事でも起きねえ男さ」
喋っているのは猫だ。男の腹の上で前足を舐めながら上目遣いであたしを睨んでいる。
「ば、ばけねこ!」
「なんてこと言いやがる失礼な!こう見えても由緒正しい血統書付きだぜ」
あたしはさらに二歩下がってビニール傘を再び振り上げた。
「近づかないで、近づいたらぶつわよ」
「おめえわかってんのか。自分からここに来たんだよ。なんで俺がぶたれなきゃなんねえんだ」
猫が歯を向いて毛を逆立てたので、あたしはいよいよ噛み付かれると思って逃げ出した。飛び出した時にブーツの爪先を衝立ての土台に引っ掛けてバランスを崩した。衝立てと一緒にあたしは部屋の真ん中に倒れ込んだ。
いくつかの恐怖が綯(な)い交ぜになってあたしは金切り声を上げていた。女の絶叫と衝立てが倒れるけたたましい音。これで目を覚まさない人はいない。
捲れ上がったスカートを直してあたしは衝立ての上に立ち上がった。
後ろを振り向くと、猫はまだ男のお腹の上に乗っかっている。そして男は気持ちよさそうにロッキングチェアの上で口を開けて眠っている。
どうやら火事でも起きないって本当らしい。
「頼むぜ。うちの事務所の数少ない備品壊さねえでくれよ」
逃げようとするあたしを猫が制する。
「待てよ。このまま帰んのかよ。まだ相談聞いてねえぞ。部屋荒らしに来ただけじゃねえか」
もう相談なんてどうでもいいわよ。こんな気味悪い探偵事務所はごめんよ。
あたしは“俵屋探偵事務所”と書かれたアルミ扉の取っ手を掴んだ。すると、扉の向こうに誰かの影が見えた。お客さんなら「やめておきなさい、ここは」そう言ってやろうと思った。だけどその前にあたしを逃がして。
想像もつかないことがまた起きた。
磨りガラス越しに見えるお客さんは扉も開けていないのに、あたしの目の前に顔を突き出した。その顔がまたあたしの想像を超えていた。丸い毛虫のような眉毛に、唇の真ん中だけに塗られた真っ赤な紅、あたまには尖った黒い煙突のような帽子。これって歴史教科書で見たことのある貴族のいでたちだ。
「あ、あなたは?」
あたしは震える声でこの得体のしれない人物を誰何した。
「橘英麻呂(たちばなのひでまろ)と申す」
「英さん!お帰り」
背後で化け猫がこの貴族に声を掛けている。ということはこの人、探偵事務所の人?
よく見ると体が透けている。嗚呼、生身の人間じゃない、絶対にない。あたしは思い余ってこんなことを訊ねていた。
「お生まれは?」
「寛仁二年。いまの世で言うなら西暦1018年、筑前の生まれでござる」
ってことはあなた幽霊ですよね。そう言うまえにあたしは気を失っていた。
 
 

弐の巻

 
「笑顔に、こんなこと、言っちゃっていいかな・・・」
口籠る丸美の薄紅に光る唇を眺めながら、あたしは彼女の次の言葉をいっそ遮ろうかと思った。
「見ちゃったのよフィアット。しかも白」
白いフィアットなんて日本中どこにだって走っている。たいして珍しくない。
「助手席にいたの、誰だと思う?」
クイズのつもりなら回答拒否。丸美はなぜか楽しそう。
「あれはぜったいに、沙羅よ」
「どうしてそう言い切れるの」
丸美の作り話であって欲しい。・・・なんてことがあったらどうする? くらいで締めくくって欲しい。少しは怒ったフリするだろうけど、そこまでなら許してあげる。
「だってほかにいる?普段からオーガンジー被っているやつ」
「いるでしょう、東京にはそんな人も」
沙羅はウェディングなんかで使う白いオーガンジー生地が好きで帽子もそれで揃えていた。
丸美はサンドイッチの最後の一切れを口に放り込んで言った。
「わかるよ、笑顔が謙太郎君を疑いたくないのは」
「ちょっと待ってよ。仮にフィアットに乗っていたのが沙羅だとしてよ。隣が謙太郎だって決まったわけじゃないでしょう」
早くお昼休みが終わって3時限目の講義が始まればいいのにと思った。
「シルエットがねえ、あまりに似ていたから・・・」
そんなの当てにならないわ。
丸美が言うには、先週土曜日の朝、首都高速湾岸線を千葉方面に向かって走る白のフィアットを見たというのだ。
その日、謙太郎とあたしは甲府のフラワーガーデンに花を見に行く約束をしていた。ところがその日の朝、謙太郎から母親の具合が悪いから病院へ連れて行くといってキャンセルしてきた。彼の実家は船橋競馬場の近くにある。だから首都高速湾岸線を走っていても不思議はない。
だけど目的地がディズニーリゾートだとしたら母親の病気とはまったく関係がなくなる。まさか彼の母親がディズニーランドで倒れたわけではないでしょうし。
どうして丸美がそんな現場を目撃できたのかと言えば、彼女もディズニーランドに行ってたから、彼氏と。フィアットの後ろを走っていたと、彼女は言う。そこで見たことを講義の合間の休み時間に話してくれたわけだけど、そんな話訊きたくなかった。
「謙太郎じゃないわ」
あたしは中庭のベンチから立ち上がって次の講義室へ向かった。
「待ってよ笑顔。わたし黙っておこうか迷ったんだよ。でも言わないのも友達としてどうかなと思って・・・」
だったらどうしてそんなに口の端が上がっているのよ。これだから女友達は信用ならない。あたしは丸美を無視して講義棟の階段を駆け上がった。歩きながら昨晩届いた彼からのメッセージを見返していた。
“今日はごめんな。病院に行ったらただの風邪だってさ。大袈裟なんだからな、うちの母ちゃん。明日は念のため実家に残るので、下宿には戻らない。”
わざわざ処方された薬の写真を添付してきた。でもその写真、患者の名前と日付が見えないので誰の薬だかわからない。
謙太郎を信じている。あたしは丸美の話を訊いても彼を疑ってはいなかった。それに沙羅ならぜったいあたし、勝てる自信あるもの。彼女わがままだし、胸もぺっちゃんこだし、タバコ吸うし。
謙太郎はタバコ吸う女は嫌いだって言ってた。だから沙羅はあり得ない。丸美の話は嘘だ。或は見間違いだ。シルエットで謙太郎だってわかったって、丸美が謙太郎のことどれくらい知っているって言うの。
講義が終わって、丸美が「さっきのことだけど・・・」って切り出したので完全に無視してあたしは謙太郎の下宿先に向かった。今日はいるはずだった。深夜のバイトがあるからこの時間は寝ているはずだ。
謙太郎の下宿は大学から2駅離れた日暮里にあった。あたしは彼の部屋の合鍵を持っている。それは謙太郎から彼女と認められた証。いつ来てくれてもいい、合鍵を預かっているのはそういう意味だ。だからあたしは何の連絡もしないで謙太郎の下宿を訪ねた。これまでもそうだったし。
彼の下宿は3階建ての学生マンション。比較的古い造りで、駐車場契約込みで月4万5千円はかなり安い物件だった。彼がそこを選んだ理由は、自宅から通えという親の意向を無視して下宿しているため生活費を自分で稼がなければならなかったからだ。
それと、もうひとつ。あたしと半同棲生活をするため。あたしは週の半分は謙太郎のマンションで生活していた。あたしと謙太郎はほぼ結婚を前提とした付き合いをしていた。大学を卒業したら完全同棲生活に切り替えるつもりだった。
そのせいもあってあたしは就職を真面目に考えていなかった。謙太郎と一緒に生活しながらアルバイトでもしていこうかな、程度に考えていた。
マンションの鍵を回そうとすると、鍵は開いていた。彼は眠っているはず。不用心だなっと思ってそっと扉を開く。
そこで見たのは靴脱ぎ場のフェラガモのパンプス。勿論あたしのではない。そんな高い靴あたしは持っていない。部屋の中から話し声が聞こえて来た。
「そろそろ帰るわ」
「まだいいじゃないか」
「笑顔と鉢合わせになったらまずいでしょう」
沙羅の声だった。
「バイトが深夜シフトの時はあいつ来ないよ。俺が夕方まで眠っているのを知っているから」
彼女はあたしと同じ大学の同じ学部。謙太郎も同じ学部だった。
だから謙太郎と沙羅が話すこと自体全然不思議じゃない。だけど、この場所ではどうだろう。同じ学部生同士とはいえ、男女で話す場所だろうか。しかもさっきの会話、誰と鉢合わせですって。
沙羅とはあたしも仲が良かった。もとは謙太郎も含めて男女6人の気のあう仲間で、大学1年生の時、ドイツ語のクラスが同じだったことから一緒に行動するようになった。冬は信州にスノボーに行ったし、夏は宮古島にダイビングをしに行った。上高地では狭いテントの中でひしめき合って寝たりもした。幻の芋焼酎を手に入れるんだとか言って、謙太郎のフィアットと丸美の彼氏の車に分乗して鹿児島まで車中2泊の旅をしたこともあった。
あたしたちはいつだって小さな出来事を膨らませて、笑いに変えていた。時間が許す限り時を共有した。眠るのさえもったいないと感じた。
そんな中で恋に落ちる者が出るのは必定で、2組のカップルができた。あたしと謙太郎。丸美と彼女の彼氏洋輔。何だか自然にパートナーが決まっていたって感じ。あたしと謙太郎の方が早くて1年生の秋からつき合っている。丸美たちはそれより1ヶ月遅れ。沙羅ともうひとりの男の子も、かなり頑張ったんだけど、沙羅が彼の申し出を断った。沙羅のタイプではなかったみたい。
そしてあたしと謙太郎は、3回生の後期からグループを離れて二人だけで行動するようになった。あたしたちにとってはその時間の方が大切になっていたから。
でも沙羅とは大学で会えば、ランチを一緒に食べたり、ケーキを食べに行ったり、たまにはワインを飲みに二人女子会を開いたりした。その沙羅が謙太郎の部屋にいる。それも二人っきりで。あたしはこの状況をどう理解してよいのかわからなかった。丸美の目撃証言は信じていなかった。彼女とは同じゼミになってから、かえって難しい間柄になっていた。ほどほどの距離をおくようになっていた。だから彼女があたしを不安にさせるようなことを言うのも頷けた。
扉を閉めるに閉められず、数センチほどの隙間から二人の会話を盗み聞きしているあたしは頭の中が混乱していた。
これにはきっと何かの理由がある。ここで相談しなければならない何かの理由が。だから二人は会っている。例えばあたしのサプライズ企画を練っているとか(そういった企画をあたしたちは互いによくやっていた)。来月あたしの誕生日だし。きっとそうだ。誕生日企画の打ち合わせよ。だからここを選んだんだ。
「彼女、気づいていないの?」
「そんなヘマはしないよ」
やっぱり。内緒で誕生日会の相談をしているんだ。
「だけど、こんなのいつまでも続けられないでしょう」
「わかってる」
「わかってるって、どうするつもり?」
「もう少ししたら話すから」
「わたし怖い。彼女がそれを知ったら・・・」
何だか違う、誕生日会の打ち合わせとは・・・。
「帰るわ」
椅子を引く音が聞こえた。沙羅が立ったんだ。
「送るよ」
「いいわよ。誰かに見られたらどうするのよ」
「おととい、何万人といる中、いたんだぜ。もう遅いよ。隠したって」
「わたしたち順番間違えてるかもね」
スリッパの音が近づいて来たので、あたしは音を立てずに扉を閉めた。そしてマンション出入り口とは反対側の角に回って身を隠した。
沙羅の姿が見えた。オーガンジーのホワイトハットを被っている。玄関口、沙羅を覆い隠すように謙太郎が彼女の前に立つ。オーガンジーだけが彼の体幅から食み出している。そのオーガンジーを謙太郎が取った。彼の頭が沙羅の背丈まで降りた。その行為はあたしの位置からでは確認できなかった。
沙羅はコートの裾を翻して去って行く。赤い半纏姿の謙太郎が玄関から沙羅の姿を見送っている。謙太郎が手を振る。沙羅も手を振る。
謙太郎はスリッパ姿のまま、沙羅の姿が消えるまでずっと見送っていた。その彼の姿をあたしはずっと眺めていた。揺れて見えたのは溢れる涙のせいだったろう。
彼が部屋に戻った後も、あたしは動けなかった。目の前に彼の部屋があるのに、海の向こうより遠く感じた。合鍵はあるのにその扉は開きそうになかった。
 
あたしは街中を彷徨っていた。謙太郎からのメッセージが入っていた。
“おはよう!って、もう日が沈む時間だよな。これからバイト。ちょい気分はグレー(泣)”
訊きたい。彼に本当のことを。それが怖くてあたしはメッセージを返せない。
”おはよう。いつお目覚めかしらね、他の女に。さっき部屋にいた●羅とはどんな関係?”
ここまで文書を作って消した。これを送ると、あたしと謙太郎はどうなってしまうんだろう。
この時点でもあたしはまだ謙太郎を疑っていなかった。いえ、信じていたかったというのが正しい。謙太郎は浮気などしていない。沙羅とはただの友達として会っているだけだ。もともとあたしたちは仲のよい友達じゃない。ディズニーランドに行ったからってどうなのよ。部屋で会っていたからってどうなのよ。そんなの友達同士だったら普通じゃない。そう自分に言い聞かせていた。
そしてあたしは例の場所に辿り着く。
狭い路地の電信柱に、黒のマジックインクで書かれたビラが貼ってあった。
“浮気調査専門 俵屋探偵事務所 お気軽にご相談ください この角すぐ”
お気軽に相談、そのフレーズが頭に残り、あたしは訪ねていた。運命を変える探偵事務所に。
 
 

参の巻

 
目が覚めた時、堅い椅子に座らされていた。それがあの古い木製ロッキングチェアだとわかるまで、暫く時間を要した。
「ここは・・・?」
体を起こした時、椅子が大きく揺れた。ギシリと床がきしむ音がした。ふと誰かに見られている気がした。視界を遮る衝立ての上からあの猫があたしを睨みつけていた。
「ば、化け猫!」
「またかよ。だいたい無礼なんだよ、おめえは」
甲高い声。だけど人間が喋るのと全く同じ調子で吐き捨てるように言った。さらに不思議なことに猫が衝立ての上を足も動かさないのに滑っている。いや宙に浮いて飛んでいる。そのまま衝立ての角まで飛行し、あたしの正面に姿を見せた。
「お目覚めか?」
だが現れたのは猫だけではなかった。このロッキングチェアで眠っていたあの男性だった。猫は男性の頭の上に乗っかっている。だから浮いているように見えたんだ。
どこの国の人?っと思いたくなるような出で立ちだった。男性は薄汚れたカウボーイハットを目深に被り、ピンクのスカーフ、糸のほつれたウェスタンベスト、よれよれのコートにブーツ・・・!?いや違う、履いているのはゴム長靴だ。口髭を蓄え、彫りが深い。一見して日本人には見えない。流暢な日本語を話しているのが不思議な感じだった。
「いい夢見たばい?僕もその椅子で居眠りすると必ずいい夢を見るけんね」
「いい夢?」
あたしはつい今しがたまで見ていた夢を思い出した。謙太郎と沙羅が玄関口でキスをしている夢だ。でもこれは夢じゃない。あたしはそのシーンを目撃している。
「最悪の夢だった」
椅子から立ち上がろうとした。だけど、揺れる椅子でバランスを崩し、また椅子に体を落とした。
「そりゃあ残念ばい。もう一辺居眠りすっと?」
調子狂う。何この男?オールドウェスタン風の恰好しているくせに、話し言葉は九州訛だし。
「結構です」
そう言った後に思い出した。あたしはどうしてここで眠っていたのか。
「そういや、さっき出たのよ、そこに」
あたしは衝立ての向こう側を指差した。部屋の扉を擦り抜けて来た幽霊のことを言ったつもりだった。
「出たって何が?」
男が訊ねる。あたしは幽霊が名乗っていた橘なんやらという名前を思い出そうとするが正確に思い出せなかった。
「英さんさ、この娘の言ってるのは」
言ったのは猫だ。
「いかんばい。またお客さん驚かしたと?」
すると、衝立ての向こうから声がする。
「麻呂はただ名乗っただけでござる」
衝立ての壁が浮き上がって何かがニョキニョキと姿を現す。やがてそれは人の顔になった。またしても気を失いそうになった。
「先ほどは失礼仕った。驚かすつもりはござらんだが、勤めから戻ったら、貴殿に遭遇したでござる」
衝立てから首だけをだして幽霊が言う。
「英さんにばったり会ったっちゃね。そりゃあ驚くのも無理はなか」
男は大きな口を開けて笑った。もう何から話していいのかわからなかった。とりあえず、ここから逃げよう、それがあたしのこの時の判断だった。
「すみません。あたし急ぎの用がありますので、これで・・・」
肘掛けに手を突っ張り今度は体をゆっくりと持ち上げた。揺れるロッキングチェアを背後に、あたしはオールドウェスタンスタイルの男に会釈をして立ち去ろうとした。横を過ぎ去る時、男に上腕を掴まれた。
「まあ、まあ、そう慌てることなか」
何言ってるの、慌てさせているのはあなたたちよ。それに用があるって言ってるじゃない。
「浮気の相談ばい?」
「だから急いでいるの。相談はもう結構」
「英さん、頼めると?」
冬だというのに、英さんは扇子を取り出して、パタパタ胸元を煽いだ。その扇子も実物の物ではない。だって紙の向こうが透けて見えている。英さんは目を閉じて何事かを考えている。わずか数秒後に目を開いて英さんが呟く。
「恋仲は赤い半纏を羽織った若者、密通相手は白い布地を頭に乗せた女子(おなご)。二人が接吻していたところを貴殿は盗み見なさっておいでであった」
「盗み見ですって!?」
心外だ。あたしが後ろめたいことをしているみたいじゃない。謙太郎と沙羅のほうがこそこそと会っているんだから。
それにしても、この幽霊なんでそんなこと知ってるの?
「うちはそんじょそこらの探偵事務所とは違うたい。どんな疑惑も暴きだすことができるたい」
大した自信ね。
「あんたが見ていた夢のワンシーンを引っ掻きだしたばい。夢の印象的なシーンはしばらく網膜に残るけんね。英さんはそれを見ることができるたい」
これもまだ夢なのかしら。
「英さんは人の過去も見ることができるたい。1000年前の人ばい。今と昔を自在に行き来しとるけん」
そんなことされたらプライバシーも何もあったもんじゃない。
「猫が喋るのはどういうカラクリ?首にスピーカーでもつけているの?」
猫がカウボーイハットの上からあたしを怖い目で睨んだ。
「カラクリだと!?喋っちゃいけねえのかよ!?万歳、なんとか言ってやってくれよ」
「彼はいつの頃からかこんな風に喋りだしたばい。なして喋れるんかは僕にもようわからん」
やっぱり化け猫じゃない。
「要は天才なのよ、俺」
猫は自慢げに鼻の下を舐めた。
「ばってん、茶柱は僕の大切なパートナーたい」
「茶柱?」
「俺の名だ。シッポが茶柱に見えるんだってよ」
言っている意味がよくわからない。
「あのう、念のため確認させていただきますけど、ここって探偵事務所ですよね」
「ごもっとも」
男は小さく頷く。
幽霊と人間の言葉を喋る猫と、変なおじさん・・・!?これでまともな探偵活動できるのかしら。
男の頭の上の猫が衝立ての上に飛び移る。
「うちは他の探偵事務所ではお手上げの難問ばいくつも解決しとります。ほじゃけん、安心して相談してくれんね」
男が名刺を差し出した。“浮気調査専門 俵屋探偵事務所 所長 俵屋万歳”
笑顔と万歳か。この組み合わせなら全世界平和になれそう。
衝立ての上から猫が、衝立ての中から幽霊が、あたしを見ていた。不気味な笑顔で。
あたしは不安な表情で彼等を見つめ返すことしかできなかった。
 
 

四の巻

 
「グループ内の他の女の子に彼氏の気持ちが移ったと、そげんこつばよーあるばい」
ロッキングチェアに座る万歳さんが言った。あたしは用意してくれた折り畳み式パイプ椅子に座っている。座り心地はもうひとつだけど、向かい合わせで話をするならこっちの方が機能的だ。
「でもまだ信じられない。謙太郎と沙羅が・・・まさか」
万歳さんの膝の上から茶柱が口を挟む。
「キスしているところ見たんだろう。ここは日本だぜ、そんなのただの間柄じゃあねえ」
「だけど・・・キスだかどうだか・・・」
あたしが見たのは謙太郎の背中越しに沙羅の体が重なっただけで、キスをした場面を見たわけではない。確かに顔の高さは合わせていたけど。
すると茶柱があたしの逃げ場を塞ぐように言う。
「男と女が別れ際、玄関先で体近づけたら、他に一体何すんだ?キスに決まってんだろ」
何も言い返せなかった。
「おめえにゃあ悪いが、こりゃあ調査するまでもねえ。100%浮気だぜ」
茶柱を恨めし気に見つめた。
「それでどうして欲しいんだ。彼氏に浮気してますって証言させて欲しいのか」
かぶりを振った。
「じゃあ、どうして欲しいんだ」
「あたしはただ、真実が知りたいだけ」
「だからよお、真実はもう見えてんだって。ディズニーランドに二人で行ってんだろ。彼氏の部屋でこっそり会ってんだろ。完全な黒じゃねえか」
「それは・・・友達だから」
「どこまでお人好しなんだおめえ。普通行くか、彼女に内緒で他の女と二人っきりで夢と魔法の国へ。しかも自分の車に乗せて。そりゃあ立派なデートだろ。違うか!」
「謙太郎は男子も女子もおんなじようにつきあえる人だから」
「しようがねえお嬢さんだな。セックスしてるところまで見せなきゃわかんねえのか。なんなら証拠集めてやるけどよお」
万歳さんが茶柱を窘(たしな)める。
「そげな言い方したらいかんばい。鍋島さんはどげんしてええかわからんばってん、ここに相談に来たんじゃ。なあ?」
救われた気持ちで万歳さんに向かって頷く。
「うちは浮気を暴くだけが商売じゃなか。事実を知った後、どげんしたらええか一緒に考えるんじゃ」
「いいけどよ万歳。金はちゃんと取れよ。あんた無料相談ばっかやってっから、こんな空っぽの事務所で商売してんだぜ。中国産のキャットフードはもううんざりだ。脂の乗った焼き魚とか食ってみてえよ」
そう言うと茶柱は横向いて体を丸めた。
「あのう、お代金ってどうなっているんでしょうか。もう既に費用かかっているんですか」
茶柱の話を聞いて、あたしは支払いのことが心配になった。そういえばまだ費用のことについて何も聞いていなかった。
万歳さんがボロボロのファイルをデスクの引き出しから引っ張りだしてきた。ファイルを開いて彼はあたしに料金体系の説明をしてくれた。
「基本料金3万円。こりゃあ、他に比べるとばり安かね。ばってん、相談だけなら料金は必要なか」
めくったページの一番上には確かに相談無料と書いてあった。
「基本料金の他にかかるものは?」
「証拠物件を取るなら、別に3万円必要たい」
それはさっき茶柱が言ってた証拠集めみたいなことね。
「消費税は?」
「ぜんぶ含まれてるたい」
すると、6万円か・・・。思ったより安い。それならあたしのバイト代で支払える。
万歳さんは見積もり料金を、専用見積書に手書きで書いてあたしに渡してくれた。あたしはそれに一通り目を通してから言った。
「お願いしちゃおうかな。こんなもやもやした気持ちでいるくらいならハッキリさせた方がいいもの」
「任せんしゃい。きっちり調べるたい。そいにしても鍋島さんは運がええ。英さんがおる時に来たばい。彼はいつでもおるわけじゃないけんね」
幽霊がいたから運がいいって変な言い方。
名前が出たからか、英さんが衝立ての向こう側から通り抜けてすうっと姿を現した。その出現の仕方はまさに幽霊そのもの。
あたしは身を引いた。だけど、前より少し慣れてきている。
「勤めでござるな」
万歳さんはあたしに最終確認をした。
「浮気行動調査及び証拠物件収集、以上の仕事を進めてもよかとね?」
「お願いします」
「ここに署名を」
万歳さんは注文書が挟まれたバインダーを差し出す。あたしはテストの答案の氏名を書くかのように走り書きした。
あたしから注文書を受け取るや否や、万歳さんは英さんと茶柱に言った。
「森村謙太郎の浮気調査を開始すったい」
「任せておかれよ、俵屋殿」
茶柱は衝立ての上に飛び移ってシッポを立てた。
「決定的シーン押さえてやるぜ」
万歳さんはあたしに向かってこう呟いた。
「浮気は事前の不安より事実を知った後の処置の方が大変ですたい。鍋島さん覚悟はよかですか」
あたしは丹田あたりが重たくなるのを感じながらしっかりと頷いた。
 
万歳さんから連絡があったのはそれから1週間後のことだった。
大学は春休みに入っていて、あたしは学校にもバイトにも行かなかった。外に出る気にもならなかった。この1週間、謙太郎からは二日に一度くらいの間隔でメッセージが入っていたけど、それはどれもあたしを誘うものでもなく、外へ足を向けさせる内容ではなかった。例えば、“ゼミ、欠席5回はマジやばいと思ってたら藤木通してくれた。とりあえず留年セーフ”とか、“車検代12万円。今月のバイト代全部消えた”とか、こんな感じのものばかり。
あたしたちの付き合いにはなんら関係ない。あたしはメッセージを返す気にもなれず、謙太郎がこの文章をどんな気持ちで送っているのだろうかと不安を隠せず考えたりした。
そんな不安が結構募りに募った時に、万歳さんから調査の結果を報告したいと電話があったので、あたしは久しぶりに外出した。考えてみれば、あの日万歳さんの所を訪ねてから、玄関の取っ手にさえ手を掛けていないことに気づいた。その気になればあたし、この部屋で2週間は籠城できる。でもちょうどお米や食料品が尽きかけていたので、買い物ついでに外出できてよかった。
玄関を出ると、風が随分暖かくなっていた。駐車場の裏に植えられている梅が八部咲きで甘酸っぱい香りを運んで来る。春がそこまで来ているんだなあと感じた。
だけどあたしは季節の移り変わりを楽しんでいる余裕はなかった。万歳さんの事務所に行くまでの気持ちは、あの時の心境によく似てた。高校入試の結果を見に行った時。校舎の玄関口に張り出された合否掲示を見るまでの緊張。お腹が痛くなるようなプレッシャーだった。その時の心境を思い出した。大学の合否結果を思い出さなかったのは、結果がインターネットで見られたから。大学のキャンパスまで行く必要がなかったし、指定校での推薦だったから落ちる可能性は限りなくゼロに近いって聞かされていたから。
久しぶりの緊張に、電車を降りてからトイレに駆け込んだ。朝から何も食べていないのに吐き気もした。結局トイレに座っていたけど、何も出なかった。
狭い路地を抜けて雑居ビルの暗い階段を昇り、2階のアルミ扉の前に立った。1週間前に見た俵屋探偵事務所の文字を見て、緊張感が最高潮に達した。
「もう聞かなくてもいい。帰ろうかな」
そんなことを呟いていると、いきなり目の前に人が出て来てあたしの前で跪(ひざまず)いた。
「鍋島殿、よう参られた。さあ、殿中へ」
扉は開いていない。またもや英さんが扉をすり抜けてきたのだ。
「相変わらずね。そんなお出迎えだと、客人逃げちゃうわよ」
「左様でござるか。礼を尽くしたつもりでござったが」
「あたしが来ること、事前にわかるの」
「鍋島殿がこの館に近づいてこられた時から察しておった。何ぶん、麻呂の時代はそれができなければ命が危ない故、貴賓の出迎えだけでなく、夜盗なども多ござったからな」
1000年前は大変だったのねえ。英さんのお出迎えでさっきまでの緊張が薄らいだ。
からっぽだった部屋が一変していた。
以前そこには何もなかった。衝立ての向こう側にロッキングチェアとアンティーク調のチェストが1つあるだけだった。ところが、今回訪ねた部屋には応接セットが置いてあった。それとスチール製の書棚&キャビネット、それが壁沿いに合計4つ。衝立ては前の位置と変わらない。おそらくあの向こう側にはロッキングチェアとチェストがあるのだろう。
応接ソファに茶柱が目を閉じて眠っていた。シッポをくるくる回している。眠っているのか、起きているのかわからない。
「鍋島殿、ご到着にござる」
英さんがあたしの来訪を告げる。茶柱が目を閉じたまま言う。
「金は持って来たよな」
「勿論よ」
いきなりお金のことから入る?この猫、ホント感じ悪い。あたしは鞄の中の封筒をイメージしてなんならいま渡したって構わないと思った。封筒の中には7万円入っている。この前、万歳さんから聞いた6万円にお礼をプラスしている。それは寸志だ。でもこれであたしの手元には今月分のお米と食料品を買うお金しか残っていない。
「この応接セットは?」
「昨日届いたんだよ」
「少しは探偵事務所らしくなったわね」
「まだ支払いはすんでねえよ」
「ローンてこと?」
「違うわい、後払いさ」
それで、あたしのお金のこと心配してたのね。
衝立ての向こうから万歳さんが現れた。
「笑顔さん、待ってたばい」
今日は居眠りしていなかったんだ。
「さ、さ。そこに腰掛けんしゃい。珈琲でよかと?」
「ええ」
「ミルクと砂糖は?」
「あ、ああお願いします」
ここで珈琲を入れてくれるのかしら。見渡してもそんな設備はなさそうだけど。
すると、万歳さんはノートの切れ端に、“ブレンド2つ 1つはミルク砂糖あり”、と書いて茶柱の口にくわえさせた。
「蘭館たい」
ノートの切れ端をくわえた茶柱は、開いた窓から隣のビルのベランダに飛び移り、ひらりひらりと階下へ降りて行く。
茶柱の姿が消えてから、万歳さんはあたしの前にゆっくりと腰を降ろした。
「結果がまとまったたい」
あたしは生唾を飲み込んだ。
 
 

伍の巻

 
「毎度、ブレンド2つお持ちしました」
珈琲が届いたのは万歳さんが衝撃的な証拠物件を見せてくれた後だった。
運んで来たのは多分男性。トレイにカップを2つ乗っけて立っている。黒い巻スカートにデニムジャケット、足下はアスレチックウィンターブーツ、髪はポニーテール、耳には派手なピアス、どこか中性的な人だった。
ポニーテールは万歳さんとあたしの前に珈琲を並べると、レシートを万歳さんに渡した。そのレシートに“蘭館”と書かれていた。蘭館というのは珈琲屋さんの店の名前だったんだ。
「2枚切っておいてくれ」
ポニーテールは笑顔で頷いてからこう言った。
「チケットこれでなくなりました」
「もう切れたんか?」
「残りちょうど2枚でしたから」
「しょんなかね。ビリケン、新しいんば頼む」
そう言うと、万歳さんはポケットから千円札4枚を取り出し彼に渡した。
「今日は随分若いお客さんがご来店ですね」
ポニーテールはお札をデニムジャケットのポケットにしまうと、トレイを脇に挟んであたしにウィンクした。
「さっさと帰りんしゃい。マスターに叱られっと」
万歳さんは珈琲を啜りながら掌を2、3度回してポニーテールを追い払う仕草をした。
「カップはいつもの所に置いててください。あとで取りに来ますから」
「わかっちょる」
「毎度ありがとうございました」
ポニーテールはもう一度あたしにウィンクを送り出て行った。
あたしは万歳さんに訊ねた。本題に戻りたくなかったからかも。
「あの人ビリケンっていうんですか?」
「そうたい」
「幸運の神さま(ビリケン)に似ているからですか?」
でも似てなかったな。万歳さんは首を横に振る。
「本名は亀山健太郎。僕の高校時代の同級生がオーナー経営しちょる珈琲店の息子たい」
「けんたろう?」
その名はあたしを敏感にさせる。
「偶然同じやったとね。笑顔さんの彼氏と」
「どうしてビリケンなんですか?」
「亀はかけっこでいつもビリたい。それと名前の最初の一文字を取って、ビリケン。マスターも息子をビリケンと呼んどるたい」
「ああ、なるほど」
あたしは彼の奇抜なファッションと安っぽいとウィンクを思い出して微笑んだ。なんだかそのニックネームがぴったりだった。
「うちの準探偵員たい」
「ビリケンさんが?珈琲店の店員じゃないんですか」
「それもしちょるが、うちの仕事も手伝ってもらってるたい」
「探偵って感じじゃないですけど・・・」
「ああ見えて、一橋大法学部の現役学生たい。2浪ばしちょるけど」
「一橋大生!?」
そうは見えない。
「弁護士の卵たい」
人は見かけによらないなあ。
そう見かけによらない。あの優しかった謙太郎があたしを裏切っていたなんて・・・。
テーブルに並べられた写真の1枚を手に取った。そこに写っていたのは、雨降る中謙太郎が沙羅の肩を抱いて歩いているシーンだった。他にも街中で食事をしているシーン、車内でキスするシーン、そして決定的だったのが彼の部屋で性交をするシーン。それらをさっき万歳さんから見せられてあたしは声をなくした。いずれもこの1週間以内の出来事らしい。あたしがマンションから一歩も外に出なかった間に、二人はこうして密かに、いえ、密かにじゃない。二人が食事している場所はあたしと謙太郎がいつもデートで使っていた六本木の居酒屋だ。なんて堂々たる裏切り。
震える声であたしは呟いた。
「これ全部本当なんですか?」
できれば嘘であって欲しい。そう願う気持ちがこう言わせた。万歳さんは眉間に皺を寄せて「残念やけど」と小声で呟いた。
だけどまだ信じきれない。だってここまでの写真がどうして撮れるのか。車内や部屋の中の写真、これらなど、その空間にいなければ収められない写真だ。
「どんな仕掛けをしたんですか?」
その点を追求した。或は防犯カメラでも仕掛けなければ絶対に撮れない。トリックならば暴いて嘘だと言わせたい。
「再現してみせちゃろか」
万歳さんは前後左右を見渡して言った。
「英さん!英さん、おるか?」
姿を消している幽霊の英さんを探している。
「お呼びでござるか、俵屋殿」
すると予想に反して、英さんは前でも後ろでもまた左右でもなく、頭の上から逆さまになってゆるゆると降りて来た。
「英さん、得意のあれ見せてやってくれんね」
見上げて万歳さんは言った。
「どこをでござるか?」
「ここで結構。僕と笑顔さんばい」
「承知仕った」
そう言うと、英さんはまた姿を消した。次に万歳さんは自分のパソコンを開いて、動画会話ソフトを立ち上げた。すぐに何者かから通話呼び出しがあった。英さんと名前が示されている。
万歳さんが呼び出しに応じると映像が映し出された。そこには呼び出した者(英さん)の姿はなかった。その代わりに誰かの頭が2つが映っていた。一人はカウボーイハットを被っている。そしてもう一人は、あたしだ。あたしの頭頂部だ。
顔を上げた。天井から誰かがあたしを撮っている。しかし、そこにはカメラもパソコンもない。もう一度テーブルのパソコンを見た。やはりあたしの頭が映っている。試しに手を頭の上に乗せた。すると画面のあたしも手を頭に乗せた。つまりこれはリアルタイムの画像ということ。
「撮られているんですか?」
「見てのとおりばい」
「撮っているのは英さん?」
「お察しのとおり」
「英さんが謙太郎の車の中や部屋に忍び込んで映像を送って来た?」
「英さんが居る時でほんにラッキーやったな、居らんだらこげな決定的証拠は押さえられんたい」
万歳さんは顔を綻ばせて言うが、あたしはそんなことラッキーだともなんとも思わない。寧ろグレーのままでもよかった。
「これでもまだ信用せん輩もおるけんね、そやけん、我が探偵事務所ではもうひとつ決定的な物証を取るたい」
これ以上見せてもらわなくても結構。そう言おうとしたけど、万歳さんはパソコンの録音再生ソフトを開いた。スピーカー音量を上げて録音していた音声を流した。小さな雨音がザアーザアーと雑音に交じって聞き取れた。その中に、こんな会話が拾われていた。
“この雨じゃあ別々の傘で歩いた方がよくない?”
“冷めてんなあ、いいじゃん、ちょっとぐらい濡れたって。1本の傘に入るほうが恋人っぽいだろ?”
“あら、私たちって恋人だったかしら”
“いまさら何だよ。俺本気だぜ”
“だったら、きちんと清算してよね、笑顔とのこと。私嫌だから、いつまでもこんな状態”
“わかってるって。言ってんだろ、もう少し待ってくれって。必ずあいつには話すから”
“謙ちゃん”
“なんだよ”
“騙してないわよね、私まで?”
“何を言い出すんだ急に。俺、ちゃんと沙羅の気持ちに応えてるだろ”
会話の内容に触れたくなかった。代わりにあたしはこの集音技術について訊ねた。
「どうしてここまで拾えるわけ!?」
雑音が混じっていても屋外でここまでの会話を録音するには相当至近距離にいなければ盗れない。探偵が側にいたとすれば、彼等だってこんな無防備な会話はしなかったはず。
万歳さんは指を口に当ててシーッとあたしの質問を遮った。二人の会話にはまだ続きがあったからだ。
“騙せるほど器用な男じゃない”
“どうだか”
“疑うんだったら疑えばいいさ”
“別に疑ってはないけど・・・”
“沙羅だけを愛してる。ホントだってば。神に誓って言える”
“そこまで言うとかえって嘘くさい”
“じゃあどう言えば信じてくれんだ?”
“・・・そうよね。謙ちゃんごめん、いやな言い方したね私”
“いいけどね”
“拗ねないの。まだこの関係に不安があったから確認したかったのよ”
“無意味だぜそんなの”
“うんうん。あっ!見て見て、かわいい。アメリカンショートヘアね。でもこんな雨の中どうしたんだろう。ずぶ濡れ。飼い主とはぐれちゃったのかな”
そこであたしは万歳さんの膝の上で丸くなっている茶柱を見た。茶柱が薄目を開けて笑う。
「このぐらいのこと朝飯前だぜ。奴らの視界に入らねえように盗聴器の拾う範囲をキープするんだ。この他にもまだまだあるぜこいつらのバカな会話」
そして万歳さんが茶柱の首輪にぶら下がっている鈴に見せかけた盗聴器をあたしに見せる。
「人間の踏み込めんところも茶柱なら入って行ける。盗聴で我が探偵事務所に敵(かな)うところはなか」
驚いたことに、録音は謙太郎の部屋の中の会話まで拾っていた。部屋に盗聴器を仕掛けたのかと思ったが、そうではなく、茶柱が部屋の屋根裏に昇って拾ったらしい。確かにそんなこと忍者でもなければ普通の探偵にはできない。茶柱が拾っていた謙太郎と沙羅の会話は、通常では拾えない場所が数々あった。しかも油断している二人の会話に浮気を決定づける証拠がいくつもあった。
ここまでの証拠を突きつけられて、あたしはどうしていいのかわからなくなった。
万歳さんがポツリと呟いた。
「黒ですたい、この森村謙太郎という男は」
それは浮気確定ということ。
「笑顔さんとこの男の寄りを戻させたいと思うとった。ばってん、この男は質が悪か。悪いことは言わん。別れんしゃい。その方が笑顔さんにとってよかですたい」
万歳さんが新たな写真をテーブルに置いた。そこに写っていた人物もあたしがよく知る女性だった。
「ま、丸美!?」
信じられないことに、謙太郎と丸美がベッドで交わっている写真だった。声が震える。
「あ、あり得ない・・」
万歳さんは首を振る。
「さっきお見せしたとおり。残念ながらこれも・・・」
真実だと言いたいの。奈落の底に突き落とされた気分だった。
丸美は知っていたはず。謙太郎が沙羅と浮気していたことを。知っていながら、さらに彼女は謙太郎と寝ていた。
仲の良いグループ?とんでもない誤解だった。男と女はこんなにも表と裏を使い分けることができるの?それともあたしの周りだけそうなの?
あたしの心の声を聞き取ったかのように万歳さんが呟く。
「この家業をしとるとわかる。世の中、こげなことばっかりたい。とりわけ男は、どんだけ愛しとると囁いても隙ばあったら違う女(おなご)に手を出す生き物たい。こりゃあ生まれつき体にセットされとるプログラムじゃけん治せんばい。ばってん、騙された女の方はやりきれん。なんも悪いことしとらんばい」
俯くあたしの肩に手を掛けて万歳さんは言った。
「悪いことは懲らしめんといかん」
それから万歳さんは立ち上がり、衝立ての向こうに何かを取りにいった。
暫くして万歳さんが書類を持って来た。テーブルに置かれた書類は“復讐依頼発注書”と書かれていた。
「復讐?」
「したくなかと?」
したい。できることなら謙太郎をこてんぱんにやっつけてやりたい。でも発注というからには・・・。
「追加料金取られますよね」
「当然。ばってん、僕も笑顔さんのお味方したいけんね、半額でよかよ」
「もう手持ちがありません」
「1万5千円たい」
見透かされたかのようにちょうど財布の残金ぴったりだった。でもこれは帰りに商店街で食糧を買うために取っておいていたもの。これを使うと明日から水だけで生きていかなければならない。
「いまは無理」
「よかよか。支払いは復讐が終わってからまとめてもらうけん」
それでいいなら、来週奨学金が入るからなんとかなる。
「懲らしめてくれるんですね?」
万歳さんが微笑む。
「徹底的にお願いします」
「任せんしゃい」
言ってウェスタンベストの辺りを力強く叩いたものだから彼はケホケホ咳き込んでいた。
 
 

六の巻

 
男が極上の快楽を知る瞬間にセックスがある。男はそれ欲しさに、また違う味を欲するが故に抱く相手を変えたりする。しかしそこには暗黙のルールがある。とりわけ独身の男女ならば厳しいルールが。
それは避妊。
謙太郎は沙羅と会っている。場所は湾岸沿いのホテル。
これで何度目だろうか。沙羅がまたも声を上げる。“イッチャウ”
謙太郎は相手の表情を満足げに眺めながら、激しく腰を揺する。上腕三頭筋が張りつめる。前後の動きがさらに速くなる。
「イクゾ」→「キテ」
発射寸前のこのやり取りにはある種の約束があって成立する。
「イク・イク・イク・イク」
いちいち男も最後は煩(うるさ)い。そんなにアピールをしなくても勝手に行けばよいものを。
男は自分の液が女の奥襞(ひだ)に届かないことを信じ切って声を上げる。女も熱い液体が溢れないことを確信して男を受け入れる。謙太郎と沙羅も同じだった。
謙太郎の背中が反り返って最大限に膨張した腰棒が沙羅の奥深い部分に達する。と同時に彼の液体が薄いビニールの中に注ぎ込まれた。
「サ・イ・コ・ウ」
事が終わった後、謙太郎から洩れた言葉だ。
そして二人は暫し余韻を楽しむキスを交わし、ゆっくりと躯を離す。引き抜く時の無様な音は快楽のお釣り。
謙太郎は先にベッドサイドのティッシュボックスを引き寄せ沙羅に渡す。性交渉の爆心地を拭うためである。
そして彼は自分の事後処理を行う。締め付けられたゴムを萎んだ腰棒から引っぱり取る簡単な作業である。
ところが・・・
「マジか!」
謙太郎の声が暗い寝屋に響く。
「どうしたの?」
沙羅が彼の背中を見つめながら訊ねる。
「割けてる」
「何が?」
「コンドーム」
「うそ!?」
そして二人同時に沙羅のピンク色の襞に目をやる。僅かに白い液体の残滓が流れ出ている。
「シャワーしろ、早く!」
謙太郎が指示する。
「冗談、どうして?」
「知るかよ!」
謙太郎の手には使用後のコンドームがある。先っぽが割けて、あるはずの中の白い液体は空っぽだった。
「今日は危ない日よ」
「だから早く行けって!」
沙羅は素っ裸のままシャワールームに駆け込んだ。
 
あくる日の晩。
謙太郎は懲りもせずまた同じホテルに来ていた。だが相手は沙羅ではない。
「もう丸美だけにしちゃおうかと思ってんだ」
「そんなこと信じない」
「嘘じゃないって、結構本気だぜ」
「いいよ、謙太郎が浮気性なのは私知っている。私との関係も序(つい)ででしょうけど、私それでいいよ」
「そんなこと言うなよ。俺、浮気してるつもりなんて全くないぜ。沙羅とのことも終わらせようと思ってんだからさ」
「同じこと、沙羅にも言ってるでしょう」
「ないない」
謙太郎は舌を出した。既に二人は裸だった。こんな会話をしながらも、すべきことは着々と進めていた。
「沙羅は私たちのこと知らないんだよね。だったら私が知らない人と、謙太郎は寝ている可能性十分ある」
「だから俺そんな節操のない男じゃないって」
「でもこれって三つ又だよね、四つ又、五つ又だってやりそうじゃん、謙太郎なら」
「俺の中では一つ一つケリつけてるんだって。笑顔とはもうなんでもない」
「それ、笑顔知ってる?」
謙太郎は歯切れの悪い返事をする。丸美は謙太郎を追いつめて楽しんでいる風でもある。
「うっせえーな。いまは丸美が好きなんだよ」
強引に丸美をベッドに押し倒した。開いた彼女の口に舌を抉じ入れる。右手で丸美の左の乳房を掴む。
丸美は抵抗しない。ここに来ている理由はこれが目的だから、彼女が抵抗する理由が見つからない。
昨夜のことが謙太郎の頭をよぎったが今日は大丈夫だろと高を括った。自分の腰棒に装着する前に、コンドームに水を入れて穴が開いていないことを確かめていたからだ。
そして今宵も、彼は丸美を何度も昇天させ、多量の雫をベッドの上に飛び散らせた。最後に自分の大きくなった腰棒を丸美の奥深くに挿入した。この時には昨晩の沙羅との一件は頭から消えていた。
謙太郎が背中を反り上げて声を発したところでその行為は終わった。
束の間のまどろみの後、謙太郎は体を起こし腰棒を丸美の中から引き抜いた。
驚いたことにコンドームにはまたも彼の精液が残っていなかった。
「洩れてる!?」
丸美の驚きの方が大きかった。謙太郎は二夜連続だが、彼女は初めてだ。
「嘘、できちゃうじゃない!」
丸美は泣きながら、謙太郎の向こう脛を蹴り飛ばした。
 
2件のアクシデントが彼の欲情にストップをかけた。さすがに次の日の晩、彼は誰とも枕を共にせず、一人で自分のマンションに籠もり二人の女性に発散した子種のことに頭を悩ませた。
これまでこんなことは一度もなかった。彼には不思議でならなかった。丸美との時は穴が開いていないことを確かめておきながら洩れていた。
因みに二人の女性は性交後、アフターピルを服用し避妊対策を講じたが、2ヶ月後、沙羅が妊娠してしまい、謙太郎は彼女に堕胎をせがみ、その術費と多額の慰謝料を支払うことになる。
つまり復讐は大成功だったわけである。ただ笑顔がそれを知るのは、もっと後のことだったが。
 
避妊失敗。仕掛けたのは他でもない俵屋万歳である。
彼は今回の浮気調査で森村謙太郎が、金曜日と土曜日の夜に湾岸沿いのホテルに足を運ぶことを突き止め、一番安いDタイプの部屋を使うことも調べ上げていた。
笑顔から復讐の仕事依頼を受けたその週の金曜日と土曜日、万歳はホテルで張っていた。首尾よく謙太郎はやって来た。そして彼が使う部屋を事前予測し、その部屋の前で待ち、謙太郎がフロアで部屋選択ボタンを押したと同時に解錠した部屋の扉をそっと開き茶柱だけを侵入させ、自分は同じフロアの別部屋に一人籠もり、茶柱にはベッドサイドに備え付けてあるコンドームを取り替えさせた。
万歳が用意したコンドームは裏側にナイフでごく薄い切り込みを入れておき、性交すると破れる仕掛けになっていた。コンドームは銀色の包装に入れ直し、一見しただけでは中身が入れ替わっていることなどわからない。
ベッドサイドのコンドームを取り替えると、茶柱はベッド下に潜り込み、後は謙太郎達が事を終えて部屋を出るまで息をひそめて隠れている。謙太郎が出るのを待って、同じフロアで待機していた万歳に扉を開けてもらい部屋を出る。こういった仕掛けだった。普通の猫にはできない。茶柱だからできる芸当だ。
結局このことがきっかけで謙太郎は沙羅とも丸美とも別れるはめになった。二人の女性が謙太郎の誠意のない態度と、いい加減な行動に嫌気がさしたのである。そのことを笑顔は万歳から電話で聞いた。
だがその後、謙太郎は性懲りもなく笑顔に再び連絡を入れて来た。
「いまから会わないか?」
「誰と?」
「いや、勿論俺とだよ」
「なんで?」
「だって、俺たちそういうのじゃなかったっけ」
「そういうのってどういうの?」
「言わすなよ、そこまで。わかってんだろ?」
「沙羅や丸美としていること?」
電話の向こうで声が詰まるのがわかった。
「あたし彼女たちのスペアじゃないからね」
「違うよ、誤解だって笑顔!どう聞いているのか知らないけど、俺は最初から笑顔だけなんだから」
「それじゃあ、4人でじっくり話し合いましょうか」
そんな場所に謙太郎が来られる訳がない。袋叩きに会うことがわかってるんだから。
「会って話がしたい。沙羅や丸美のことなんて関係ない。どこからそんな話が出てくるんだ。意味わかんねえよ」
よく言うわ。証拠突きつけてやろうかしら。でもあたしはもうその機会も彼には与えたくなかった。
「もう金輪際連絡してこないで、あたしのそばをうろつかないで・・・あなたの姿を視界にも入れたくないわけ、あたし」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ笑顔。話を聞いて・・」
そこであたしは電話を切った。すぐに謙太郎から着信があったけど出なかった。それどころか彼の痕跡を全て消去した。電話番号、メール、LINE、Twitter、Facebook、全ての繋がりをブロックした。
 
 

七の巻

 
再び万歳さんのもとを訪ねた。お仕事の委託金を支払うためだ。
「ありがとうございます。でも沙羅と丸美には少し悪いことをしちゃったな・・・」
「それくらいいいんじゃねえのか。他人の男を取り合った罰さ」
茶柱はそう言い捨てると、万歳さんの膝の上で体を沈めた。
「麻呂も左様心得る、鍋島殿は当然の報いをされたまで」
天井から降りて来た英さんも同調してくれる。英さんによると昔はもっとドロドロとした不義密通があったらしい。こんなのは序の口なんだって。
あたしはこの奇妙な面々にもすっかり慣れていた。
そこへビリケン(亀山健太郎)が珈琲を運んで来た。万歳さんがオーダーしたのだ。
「毎度です、ブレンド2つ」
この日のビリケンはピンクのカラーシャツに薄い色メガネ、あたまにはメンズカチューシャをしていた。やっぱり中性的だ。
「いらっしゃい笑顔ちゃん」
この人にいらっしゃいって言われるのも違和感があったけど、あたしは笑顔で応じた。
「こんにちは、いつも美味しい珈琲をありがとう」
ビリケンはそんなことには目もくれず、あたしの隣に腰掛け、矢継ぎ早に質問してきた。
「青学だよね?」
「そうですけど」
なんか見下されている感じがする。
「お酒飲む?」
何、唐突に?
「最近は何も喉を通らなかったんで」
「わかる、わかる。彼氏が浮気してたんじゃね」
この人何が聞きたいんだろ?
「青学の南通りに旨いワインバーがあるだろ?」
知ってる。以前沙羅と行ったことがある。少しお高いお店だ。
「あの店の店長、僕の先輩でね、地下のワインセラーは一緒に作ったんだよ」
「そうなんですか」
どうでもいい話。
「どういまから、おいしいワインをお勧めするよ」
それはあたしを誘っているわけ?
そこでようやく万歳さんが割って入った。
「もうよかビリケン、悪か癖たい。ここで何もやることはなか」
どういう意味かしら?
「できればこういった若い子がいいですね、万歳さん。いつも歳差のあるマダムばっかりで辟易してますよ」
「それが君の仕事たい」
「仕事って?」
今度はあたしが二人の間に割り入った。
「ビリケンはうちの準探偵員たい」
「それは以前お聞きしました」
「彼はホストの経験があるたい。マダム受けがよかばってん、たまに浮気相手の引き剥がしに使うとるっちゃ」
なるほど、要するにそれは刺客ってことね。ここの探偵事務所ってそんなことまでするんだ。
「専ら復讐カードだけど、僕が出て行くのは。例えばほら、亭主の浮気相手だった女性を僕が寝取っちゃって、最後に捨てれば、ね、全部奇麗になるでしょ」
そうなのかな。それにしてもこんな浮ついた男がそんなところで役立つなんて、しかも弁護士の卵だって言うんでしょう、ホントに変わった奴。
「ばってん、もう踏ん切りはついたとね笑顔さん?」
謙太郎とのことを訊ねているらしい。カウボーイハットを指で押し上げて和やかな表情をあたしに向ける。
「あんなバカ、もうどうだっていいです。もっと早く気づいておけばよかった」
「女性は男が余所見しとる時は自分をコントロールできんけんね」
「でもさっきの復讐劇を聞いて溜飲が下がりました」
「よかよか」
万歳さんは笑って膝の上の茶柱の背中を撫でた。
「あっ、それでこれ、伸ばし伸ばしになってすみませんでした」
あたしは現金の入った封筒を万歳さんに渡した。万歳さんは首を竦め苦笑いでそれを受け取った。
「これで応接セットの支払いができるたい」
万歳さんは中身を取り出して、鼻歌まじりに枚数を数えだした。が、すぐに彼の顔色が変わった。
「こりゃあ、笑顔さん。なんじゃろ」
あたしは彼が謝礼の1万円を入れていたことに驚いているのだと思った。
「構わないんですよ、ほんのお礼です」
「お礼?いやいや、そげなもんは要らんけん。お代だけでよか」
万歳さんはお金を封筒に入れ直し、あたしに返そうとした。
「全部返されても困ります。お仕事お願いしたんですから」
あたしは万歳さんがお代さえ受け取らないのかと思った。
「正規料金だけでよか。お礼は不要じゃ」
あたしは万歳さんの瞳をじっと見つめて溜め息をついた。
「わかりました。それなら」
そう言って封筒から1枚抜いて彼に差し出した。万歳さんが瞳をまん丸に開いてあたしを見つめる。
「笑顔さん、これはどげん解釈すればよか?」
「だからお代です」
そこで万歳さんはようやく理解したらしい。
「あちゃー、笑顔さん。誤解しとっとね」
「誤解?」
頷いて万歳さんは伏し目がちに言った。
「代金は合計で25万5千円たい」
「に、にじゅうごまん、ごせんえん!?」
ひっくり返りそうになった。どうやったらそんな金額になるの?
「冗談はやめてください」
「こげなこつ、冗談は言わん」
そこで茶柱が口を挟んで来た。
「まさか、おめえ、値切ろうってんじゃねえよな」
値切るも値切らないも、全然価格が違うじゃない。
「説明してください。どうして25万5千円もの金額になるんですか?」
「この前、笑顔さんに見積書渡しとるね、あれ持ってる?」
そういや貰ってたな、でも自宅に置いて来た。だって料金は把握してたから。持参して来なかったと言ったら万歳さんは見積書の写しをあたしに見せてくれた。それは確かにあたしに渡した見積書のコピーだった。
「よかと、ここに浮気行動調査基本料金3万円とあるばい。それに証拠物件収集3万円、笑顔さんは復讐ば依頼しよっとね、そやけん1万5千円も加えるたい」
「ですよね、それら合計で7万5千円ですよね、消費税込みで」
「いいや、ここ、ここ」
万歳さんが指差した箇所は浮気行動調査基本料金3万円の後ろだった。そこに1日当たりと記載がある。
「1日3万円ってことですか!?」
聞いていない。万歳さんが言うには、1日3万円で探偵調査が7日間に及んだ。ってことで21万円がそれ。それに証拠物件収集3万円+復讐料金1万5千円を加えて25万5千円。
だけどあたしは納得いかない。
「詐欺じゃないですか、そんなの」
すると茶柱が気色ばんで反論してきた。シッポを立てて。
「おめえよ、自分が見落としておいてなんだ詐欺ってえのは、ちゃんと書いてあるだろ!」
よく見れば最後の欄に総費用は調査日数によって加算と書いてある。でもそんなの素人にわかるわけないじゃない。
「無理です払えません。そんな金額」
「そりゃあ、おめえ、泥棒だぜ。サービス受けて金払わねえってのは。大学行っててそんなこともわかんねえのかよ!」
「だってまさか探偵事務所ってそんなに高いとは思わなかったから」
「バカいえ、これでもうちは他に比べて2割以上安いんだぜ。よく知りもしねえくせに言うんじゃねえぜ、まったく。よお、万歳、警察に突き出そうぜ、こいつ。うちはな、こういった仕事柄、警察とも深く繋がってんだぜ、なめんなよ!」
なめてないけど警察は待ってよ。あたし就活控えてるのよ。警察に逮捕されたりしたら何もかも終わりじゃない。
「ちょっと待って」
「待てねえよ。払うか払わねえか、払わねえなら警察に突き出すしかねえよな」
「払う、払うから。いまは待って」
どうしよう。差額17万円。こんな大金持ってないし、親にも言えない。
「バイトして返せよ」
「そんな急に稼げないよ、残り17万円ものお金。それにあたしだって学校あるし、これから忙しくなるんだから」
ちょっとあたし居直ってるかも。
「あんなあ、てめえが払ってくれねえと、うちが借金かかえちゃうんだぜ」
「いや、その支払いは家具屋に待ってもらうけん、どげんかなる。ばってん、笑顔さんの学校生活の方が心配たい」
なんていい方。ありがとう。
「こうしたらどうじゃろ、暫くうちでバイトしてもらうっちゅうんは。学校ば終わっちから来て貰う」
「あ、あたしがですか?」
「そう、ここで働くっちゃ、ただし稼ぎの半分はうちが取る。それで残り金額を返済してもらうたい」
「い、いえ、あのう。あたしそんな・・・」
「いいねえ、しょっちゅう笑顔さんに会えるわけか、ここで。たまに珈琲サービスしちゃうかな」
ビリケンが嬉しそうな笑顔を見せてくる。
「しょうがねえなあ。おめえ借金返すまでは辞めんなよ。扱き使ってやるぜ」
茶柱もなんだか乗り気になっている。
「及ばず乍ら、麻呂も笑顔さんの手助けをいたし候。ご安心あれ」
何よ、何、勝手に話が進んで行く。あたしまだオッケーって言ってないんだからね。
「よおし、決まったばい、今日から笑顔さんもうちの探偵員たい」
恐ろしい探偵事務所。あたしの一存なんてないんだ。
しかしこの万歳さんの提案があたしの人生を大きく変えることになる。
 
 

プロファイル2「incest(近親相姦)」

 
 

壱の巻

 
相談に来た男性はグレーのスプリングセーターに黒のチノパンといった出で立ちだった。地味だが見かけはそれほど悪くなかった。それより名前の方が印象に残った。
「猪苗代です」
人名なのか、地名なのかよくわからない。お名前ですか?と聞き返したくなった。
「猪苗代海道です」
どうやらそれがフルネイムらしい。
万歳さんは来客があると必ず蘭館から珈琲を取る。この日も茶柱を使いに出し、ビリケンに珈琲を3つ持って来させた。隣で調書を取るあたしの分も入っている。
ビリケンは客が男性だとわかると興味を示さず、軽いウィンクをあたしに投げてさっさと引き上げた。後ろ髪は今日もポニーテールだ。
万歳さんは猪苗代海道に珈琲を勧めて、それからこう言った。
「どげなご相談でしょう?」
海道は珈琲カップを持ち上げたまま呟いた。
「恋人に言い寄って来る男がいるんです」
夫婦関係じゃなく未婚の男女の恋の縺れであることがわかった。この関係はつまり“横恋慕”だ。記録簿にこの字を書きたかったけど思い出せず、横れんぼ、と薄く走り書きした。後で調べて書き直すつもりで。
「なるほど、それは気が落ち着かんですね」
万歳さんは顎髭を摩りながら同調する。
「その男は僕より遥か年上なんですけど、彼女にしつこくつきまとって」
因みに海道が受付票に書いた自分の年齢は27歳だった。
「幾つです?」
万歳さんが訊ねたのは相手の男性の年齢だ。この流れならば。
「30歳です」
「30?」
聞き返す万歳さん。訊ねられた対象が違うことに気づいた海道は慌てて言い直した。
「いえ66歳です」
「相手の男の年齢ばい?」
海道が力なく頷く。
万歳さんの膝の上にはいつも茶柱が眠っている。彼はここの事務所の者以外に人の言葉を話せることを見せない。まさしく猫を被っている。あたしの時はずけずけ喋ってきたくせに。それと、英さん。万歳さんからお客さんの前に出て来ちゃいけないって止められている。だからいまここにいない。もっとも英さんは1000年前の人だから、よく昔の時代に里帰りするらしい。この時代に現れるのはそう頻繁にあることではないらしい。ここ最近あたしも会っていない。
「恋人はお幾つです?」
「30歳です」
「66歳と30歳。そりゃあ離れとる」
「そうなんです。だから心配で心配で」
そう呟いてから海道は続けた。
「俵屋さんのところでは、こういったケースも扱ってもらえますか?」
不思議そうにこの若者を見つめる万歳さん。
「実はここに来るまでに他の探偵事務所にもあたったんですけど、すべて断られました」
断られる?どうしてだろ。探偵事務所ってそんなけちくさい商売だっけ。
「ひとつお訊ねしてもよかと?」
「どうぞ」
「猪苗代さんの恋人はその66歳の男とどげな関係になっちょりますか?」
あたしは記録簿の“浮気相手との関係性”の欄の上にペンを構えた。
「わかりません」
海道の唇が震えていた。何かを彼は隠している。そう感じた。
「でも光理には絶対その気はないんです。あの男に無理矢理つき合わされているだけなんです」
「なるほど」
あたしは構えていた欄にクエスチョンマークを入れた。
今日も万歳さんはカウボーイハットを目深に被っている。ハットの廂を揺らしながら頷いている。
あたしは“相談者の相手”の欄に“恋人”と書き、その後ろに“ひかり”と書き加えた。名前がいま初めて出たからだ。“光理”と書くことはのちに知った。
「もうひとつお訊ねします。猪苗代さんは光理さんとどのくらいお付き合いされとります?」
当然確認しなければならないことだ。今度は“交際期間”の欄にペンを構える。
返って来た答えは耳を疑うようなものだった。
「27年です」
「はっ?」
万歳さんがそう反応するのも無理はない。あたしもペンを置いて海道の顔を眺めた。
「もう一度」
万歳さんに促され海道が繰り返す。
「はい、27年間付き合っています」
「それはどげん意味ですか?」
海道は自分の年齢を27歳だと書いている。おかしい。
「僕が生まれたときからです」
万歳さんの顔つきが少し険しくなった。
「もう少し具体的に話して貰えますか?」
「はい。彼女はもともと僕の母です」
ここでよくやくわかった。どうして他の探偵事務所が彼の相談を断ったのか。これは浮気ではない。
「恋人だと思い始めたのは、僕が高校生の頃からです」
「ちゃちゃ、猪苗代さん。それはなんですか、あなたまさかお母上とご関係を・・・?」
これで彼が肯定すれば所謂ところの近親相姦である。そうなればうちでもお断りせざるを得ない。
「ですからさきほども言いましたが、いまは恋人なんです。当然それにも及びます」
万歳さんは大きく息を一つ吐いた。
「あなたがお母上をお慕い申されるのは大事なことですたい。ばってん、それはまずか」
「どうして?」
海道が不服そうに訊ねる。
「日本では近親相姦罪はありませんが他の国では違法です。その行為は国際上倫理に悖りますばい」
「どこの国であろうが関係ない。愛し合ってるんです。何が悪いのです」
居直る海道に万歳さんは腕組みして顔をしかめた。
「それで相手の66歳というのは?」
万歳さんは質問を変えた。
「ある日突然僕たちの間に大悟が現れたんです」
大悟というのが、どうやら海道の母親の浮気相手らしい。あたしは“浮気相手”の欄に“だいご”と記入し、さっき書いた“光”との間に一本の線を走らせた。
ここで万歳さんが指摘する。
「おかしかね、さっきあなたは恋人、即ちお母上の年齢を30歳と仰られたばい。ひょっとして継母ね」
そう考えるのが妥当だ。
すると、海道が躊躇うように呟いた。
「じつは嘘です、30歳というのは。本当の彼女の年齢は44歳です」
「嘘はいかんよ猪苗代さん」
「申し訳ない。でもこれ見てください」
ポケットからスマートフォンを取り出す海道。その中のある写真を見せてくれた。それは彼曰く最近写したものだという。
「光理です、これが」
あたしと万歳さんは顔を見合わせて驚いた。写っている女性はとても44歳には見えない。20歳台といっても十分通じる。
「えろうお若い方ばい」
「歳が離れているとまわりが不思議がります。だから僕たちは恋人に相応しい年齢で通しているんです。光理は十分それで通ります」
確かに恋人だと言っても誰も不思議がらないだろう。しかし二人には17歳の差がある。ということは光理が海道を生んだのが17歳の時ということになる。日本の法律では女性は16歳から婚姻は認められている。あり得ないことはない。だがまた随分若くして産んだもの。普通なら高校生の時に産んだ子供ってことになる。
そんなことよりいくら歳の差が近いとはいえ、息子と性的肉体関係を結んでいる彼女の心境が理解できない。
「猪苗代さん、これはえらく難しか相談たい。うちは浮気調査専門じゃけん、あなたのお話に浮気が見つからん」
「そんなことありません。光理は僕の恋人なんです。恋人が奪われたらこれは浮気でしょう」
万歳さんは腕組みしたまま渋い顔をしている。
「噂で聞いたんです。ここの探偵事務所は浮気調査だけでなく、その後の解決まで関わってくれるって」
「それは本当ばい・・・ばってん・・・」
「お願いします。大悟を光理から引き離してください」
海道がテーブルに手をついて頭を下げた。
「ちょっち困りますたい。調査すら難しか案件です。引き離すなんぞお引き受けしかねます」
「そこをなんとか」
さらに頭を下げる。そして立ち上がり、万歳さんの横に来て跪き土下座する。
「顔ば上げてください」
「お願いします」
「どげんすっかねえ・・・」
万歳さんが相談しているのはあたしではない。膝の上の茶柱だ。囁くような声で茶柱は言う。
「面白そうじゃねえか、やってみたらどうだ。ただし追加料金とれよ。正規料金じゃ割り合わねえ。笑顔の負債もまだだしな」
あたしのことまで言われるとは思わなかった。茶柱は憎たらしい微笑みを見せる。あたしはあかんべーをしてやった。
「とりあえず頭上げてください」
万歳さんは海道の腕を取って立たせた。万歳さんは珈琲を口直しに飲み込んで、さっきの話を続けた。
「しかし・・・またなして歳差離れた66歳の男が近づくとね?」
確かにそうだ。光理が実際44歳だとしても、大悟が66歳なら、そこにも大きな歳の差がある。それは海道と光理の歳の差以上。
「父親です」
「いまなんと?」
珈琲カップを口元で止めたまま訊ねる万歳さん。
「大悟は光理の父親です」
あたしは持っていたペンを落とした。海道はもう一度繰り返した。
「刀根山大悟、彼は光理の実の父親です」
「す、するとあなたのご祖父」
頷く海道。
「ということは・・・なんですか、ご祖父とお母上も肉体関係を?」
「おそらく・・・」
万歳さん、どうする?この案件相当厄介なことになりそうよ。
 
 

弐の巻

 
「やってみろって言っちまったけどよ。ありゃあ、やべえな」
茶柱が呟く。
海道を引き取らせた後、あたしたちはソファに体を預けて睨めっこしていた。さすがに3世代に股がる常軌を逸した関係に茶柱も口を歪めた。世間にはいろんな不節義な話もあるけど、ここまでの話は聞いたことがない。
「で、どうするよ。受けた以上やんないわけにはいかないぜ」
万歳さんは衝立てに貼ってある9頭身美女のヌード写真を眺めている。どこから持って来たのか知らないがそれは今年のカレンダーになっていた。女性客が引きますよと忠告したら、万歳さんは「それは違う」と反論した。例えば亭主の浮気に悩む妻の場合、真実味のある浮気相手より、グラビア女優やアドルト女優に現(うつつ)を抜かしてくれたほうがいい。だからここに来る女たちにとってはこういったポスターがあるほうが却って安心するんだという。また男の場合もこんなポスターを好んで貼る相手の方が話がわかってもらえるだろうということで心理的バリアが少なくなるという。
本当かしら。
「まだ間に合うんじゃない」
あたしはこの仕事を断ることを仄めかしたつもりだった。ところが万歳さんは全く違う解釈をした。
「そんとおり。まだ間に合うたい。海道君の目を覚ませて道理にかなった恋を教えてやるたい」
「そ、そういうことじゃなくって、引き返すならいまって言ってるのよ」
「そん必要はなか。こげな難しか仕事もうちなら引き受けると噂が立てば売りになるたい」
「そんな売り必要ないんじゃない」
万歳さんは首を振る。
「彼がここを訪ねたのも何かの縁たい。うちがこの問題ば扱うんもやっぱり縁たい」
縁で首を突っ込むにはちょっとやばい気もする。茶柱が手足を伸ばし身震いさせた後、万歳さんの膝からテーブル越えて正面のソファに飛び移った。振り返りあたしたちと同じポーズで足を組んだ。どこまで人間の真似をするんだろうこの猫。
「正規料金ってのは納得いかねえけどな」
万歳さんは海道に料金の説明をし、あたしの時より丁寧に日数の試算をした後で契約書にサインをさせた。茶柱がいう追加料金は含めていない。
「まずは、関係者の身元を徹底的に調べ上げるたい」
万歳さんはこの調査をするにあたって調査班を2組に分けた。あたしと万歳さんは彼の住む街の役所に向かう組。
茶柱はビリケンと組んで海道の自宅へ向かう組。
そしてうちの切り札がここに参入する。
「皆々様方、暫くぶりでござる」
橘英麻呂が帰って来た。
「英さん!お帰りなさい」
あたしは喜色一面彼を出迎えていた。ただ残念なことに彼の手を握ることができない。仕方がないのであたしは英さんの透ける手を両手で包んだ。
「いいところに来てくれたばい」
万歳さんもさぞ心強いことだろう。何しろ英さんがいれば何だって証拠を取り揃えられる。
「早速だが・・・」
「相、分かり申した」
万歳さんが言う前に、英さんは彼の意図するところを察していた。
「海道、光理、大悟の過去の経緯を調べればよろしいのでござるな」
「そのとおり」
万歳さんは嬉しそうに頷いた。
「では全員調査開始!」
あたしは万歳さんの後について事務所を飛び出した。
 
練馬区役所の駐車場。遅咲きの桜がまだ咲いていた。路面には散った花弁が散在していて、時折風で下から雪が降っているみたいに舞い上がる。
あたしたちは狭い車内で溜め息をついていた。
万歳さんの手には先ほど司法書士を介して取り寄せた戸籍謄本が・・・それには猪苗代海道の家族構成が書かれている。
「まさかですよね」
彼の気怠そうな横顔を見ながらあたしは呟いた。カウボーイハットが睫毛の上まで降りていた。何処を見ているんだろう。
海道と光理は実の親子ではなかった。
戸籍謄本にあった海道の母親の名は景子。光理ではなかった。そして海道の父親の名は大悟。祖父だと思っていた男が実は父親だった。
「だったら光理は誰なのかしら?」
海道に関するその書類からはそこまで判別できない。しかしさすがはプロの探偵だ。万歳さんはすでに光理の身元がわかる書類も入手していた。別ルートで弁護士を使って彼女の謄本も取り寄せていた。そしてその書類を画像で万歳さんのパソコンに送らせていた。
万歳さんはそれをあたしに見せて言った。
「どうやら姉ちゃんたい」
送られて来た戸籍謄本には光理の母も景子となっていた。海道の母親と同じだ。光理の出生が海道より17年早い。同じ母親から産まれていて出生が先ならば17歳年上でも姉ということになる。だが父親が海道の場合とは違っていた。光理の父親は孝司といった。
「これは、異父同腹ってことですか」
「難しか言葉使うね笑顔は。ま、そーゆうこったい」
万歳さんは顎をしゃくってあたしに微笑みかけ、それから外の桜の木を眺めた。
「それじゃあ、彼の話を信じれば、姉と弟の不貞になりますね」
それでも近親相姦には違いない。
「だけど大悟と光理は直接の血縁関係にない。こちらは義理の父親ということになる」
おそらく海道と光理の母親景子が前夫孝司と離婚した後、再婚したのが大悟ということだろう。
だから光理は景子の連れ子ということになる。大悟からすれば血のつながらない娘である。
「却って悍ましい。連れ子に手を出しているなんて」
これだって近親相姦に違いない。大悟と景子が婚姻関係になったのが35年前。つまり光理が9歳の時。そして海道が産まれたのがそれから8年後。光理が17歳の時。光理は義父の大悟をその当時どう受け止めていたのだろう。戸籍上からはそれ以上のことはわからない。
「家族関係はこれではっきりしたばい。次は彼等の行動たい。海道の言っていたことが本当かどうか」
万歳さんは唇をすぼめて堅い表情を作った。彼の言っていることは、茶柱とビリケンの調査を待って真相を掴むということだろう。果たして姉と弟の肉体関係があるのか、義理の父と連れ子の肉体関係があるのか。
「さてと、うまいモンブラン食いに行くばい」
急に話題を変える万歳さん。顎髭を摩っている。
万歳さんは甘いものが大好きでよくお菓子を差し入れしてくれる。
「モンブラン?」
彼の瞳を覗き込むように、あたしは反芻した。万歳さんは嬉しそうに頷いて言う。
「腕のいいパティシエの店が近くにあるけん」
「構いませんけど・・・」
「他はたいしたことなかけんね、ばってんモンブランだけは抜群たい」
そういうことか。別に嫌いじゃないからいいけど・・・だけど案外、探偵って仕事も気楽な稼業なのかな。そんなことを思ったりした、彼の仕事ぶりを見ていると。
万歳さんはさっきまでの気怠い表情などどこかに置き忘れて来たかのように嬉し気な顔でハンドルを切った。
はらはら舞う花びらの中を車は発進し、やがて環八を北進する。近くと言いながらお目当ての店は車で40分ほどかかった。その間、万歳さんは仕事の話は一切せず、どうしてパティシエという言葉が日本で普及したか、どうして和菓子職人をパティシエと呼ばないか、あたしにとってはどうでもいい話を延々と講釈してくれた。まるで大学の講義を聞いているみたい。
モンブランは確かに美味しかったが、万歳さんが一口食べる毎に「どぎゃんね?」「ちごうとるやろう」「旨かばい?」コメントを求められるので、なんだか食べた気がしなかった。できれば女の子同士で行ったほうがよかったかも、ここは。
さてと、調査の続きはというと、茶柱たちの行動調査結果が出たのがそれから3日後のこと。
これもまた衝撃的な報告だった。
 
 

参の巻

 
東京にもまだこんなところが残っていたのか。都電荒川線からほど近いこの場所、狭い路地と低い瓦屋根の長屋はそこだけ半世紀前の景色だった。
海道と光理の住む家はこの長屋の一棟で、表札はかけていなかった。
擦り切れた畳部屋には女性がひとり、それが光理であると茶柱はすぐに察知した。蜘蛛の巣だらけの屋根裏の僅かな隙間から、彼は部屋の様子を伺う。ビリケンはいざという時のために屋外で待機している。
光理はカモメドラッグストアとプリントされたエプロンにアイロンをかけている。彼女の勤め先がおよそ掴めた。続いて彼女は男物のカッターシャツのシワを伸ばす。洒落た2重襟のデザインから若者向けであると推察できる。つまり海道のものだ。
「なるほどな、確かにありゃあ、44には見えねえ」
光理の実年齢は44歳。しかし世間には30歳で通している。
「色気のありすぎるおばさんだぜ」
少し皮肉を込めて囁いた。
玄関を開ける音が聞こえた。海道が帰って来た。彼は昨日のカジュアルな恰好から一転、スーツで上下を固めていた。仕事着だろう。彼の職業は不動産業だと聞いている。なるほど身なりには気を使う職業だ。それにしても自分たちが住む場所には随分無頓着だと茶柱は思った。
「カムフラージュだな」
彼は呟いた。つまり、そこそこ稼げてはいるが、訳あって人目につかない生活をしたい。でなければ海道は探偵事務所に足を運ばない。それだけの余力があればこそ探偵事務所に調査を依頼したのだ。一方の姉、光理はアルバイトだろう。ああいったエプロンを支給されるのはその種の仕事に多い。
この二人、実は姉、弟でありながら近所には夫婦と偽ってここでひっそりと暮らしていた。
海道は上着をハンガーにかけてネクタイを緩めた。それから光理の横に腰を降ろした。二人の間に会話はなかった。それでも二人が暫し見つめ合って唇を合わせた自然な流れは、これが日常的な行為であることを連想させた。
「あいつら・・・姉ちゃんと弟でもマジチューできんだな」
陶酔している二人を屋根裏から覗き見しつつ、茶柱は首をひねった。
ところが次の瞬間、光理は顔を背けて弟の唇を外した。
「海ちゃん、もうやめよう、こんなこと」
外された唇を恨めし気に見つめる海道。表情に溜め込んだ性気が漲る。お預けをくらった男がよく見せる顔だ。言葉もなしに、海道は唇のポジションを戻しにかかる。その動作が勢い余って光理を畳の上に押し倒す。彼女の素足がアイロンの取っ手にぶつかる。
「危ない!やめてよ」
アイロンが倒れて注入された水が洩れ出ている。それを見て海道はコンセントを引き抜いて箪笥の上に置いた。彼の頭の中を占拠しているのはその行為が可能なスペースを確保すること。
立ったついでに彼は、折り目の奇麗についたスラックスを脱いでこれもまたハンガーにかけた。
倒された光理はというと、彼の行動をぼんやりと眺めている。何度となく繰り返されたこの行為に、彼女は無抵抗になっているようにもみえた。
今度はゆっくりと光理の躯に接近する海道。閉じられた彼女の唇と、閉じられた膝を力任せに開けにかかる。光理の眉間に幾筋かの皺が寄る。
「何が恋人だ。こりゃあレイプじゃねえか」
寝屋の浮気シーンは見慣れている茶柱だが、こんな強引なケースは初めてだった。
「ま、しかしこれで一つはわかったな。レイプだろうがなんだろうが海道と光理には性的関係があるってことが・・・」
茶柱はその先の二人の行為を見届けず、屋根裏を後にした。外で待っていたビリケンと合流すると「やっちゃってるぜ」と呟いた。
茶柱は体に纏わり付いた蜘蛛の巣を丁寧に前足で拭った。
 
光理は義父大悟とも逢っていた。正しく言えば大悟からストーカー行為を受けていた。
最初は偶然やって来たのかそのあたりはわからない。しかしカモメドラッグストアに初老の男性が現れた瞬間、光理は身を隠すようにバックヤードへ逃げた。
「ど、どうしてここに?」
大悟は栄養ドリンクを2本買うと、さっさと店を出て行った。光理とは接触していない。退店する大悟の姿を認めて、光理は胸を撫で下ろした。
それから1時間後、光理が仕事を終えて従業員駐輪場の自転車に股がった時だった。何者かに腕を掴まれた。
光理の顔が蒼白になった。
「待ってたぜ」
大悟が笑う。ここで待っていたということは彼は光理の働いている場所を知っていたということだ。
「そんな驚いた顔せんでもいいだろう。お前の父だぞ」
光理がかぶりを振る。
「血は繋がっていなくても俺たちは親子だよ」
「もう近づかないで」
「逃げられないって、お前は俺から」
「静かに暮らしているのよ。お願いだからもう関わらないで」
「随分な言い方だな、俺がムショに入っていたのは誰のせいだ。母親殺しのお前の代わりに26年間も塀の中にいたんだ。あっちの方もずっと我慢だった。なにしろ塀の中では女を見ることがない。娑婆に出て来たら昔みたいに慰めてもらおうと思ってたんだ、おまえに(ルビ)」
大悟が醜悪な顔を見せる。大悟は光理の髪の毛を掴んで引っ張った。光理は自転車を放す。倒れた自転車が隣の自転車を倒し、5台がドミノ倒しになった。
なぎ倒された自転車を見て、この場を早く離れた方がいいと大悟は思ったのか、光理の肩をがっしり捕えて強引に連行した。光理は唇を噛み締めて虚空を見つめていた。
大胆にも二人はドラッグストアからほど近い公園の障碍者用トイレに入った。大悟はあたりを見渡して誰にも見られていないことを確認してから、先に光理を押し込み、それから自分も尻から中に入り扉を閉め鍵をかけた。
20分後。大悟の目的は達せられた。光理の口内に放出して彼は動きを止めた。場所が場所だけに二人が声を張りあげることはなかった。またそうはさせないよう大悟は彼女の口を封じた。
「まだこれで終わりじゃないからな」
そう呟いて大悟は扉を少しだけ開き、外に人がいないことを確認してから、急ぎ足で立ち去った。
後に残された光理は、剥ぎ取られた衣服を身につけ、口を何度も濯いだ。彼女からは何の言葉も洩れださなかった。しかしその表情に覆い難い苦痛の陰が残ってた。
光理がトイレから出て来た。何事もなかったかのように佇まいを直してドラッグストアの駐輪場に向かう。彼女が凌辱を受けていた間に、ドミノ倒しになっていた自転車は直されていた。また何台かはなくなっていた。他のアルバイトも帰宅したのだ。
光理は自転車を押して帰った。大悟に凌辱された部分をサドルでまた刺激したくなかったからである。
この後も大悟は何度か光理を誘い出し、場所を変え残り薄いはずの性欲を光理の躯で満たした。
 
この大悟と光理の過去のやり取りを調べたのは英さんだった。万歳さんとあたしが丁度チェスに興じていた時だった。最近あたしたちはチェスにはまっている。戦績はあたしの3勝2敗。どうやらこの手のゲームは万歳さんよりあたしの方が強いみたい。
英さんの報告を聞いて、万歳さんは持っていたナイトの駒をとんでもない場所に降ろした。
「母親殺し?光理さんが?」
「左様、大悟がそう言ったでござる」
「それはない。景子さんを殺したのは大悟たい」
万歳さんとあたしは既にそのことを調べていた。
刀根山景子、つまり光理と海道の実の母親は26年前、夫の刀根山大悟によって殺害された。死因は家庭用包丁で胸を刺されたことによる失血死である。大悟は妻を殺害した後、警察に出頭してきて、「自分がやった」と自白した。包丁には大悟の指紋が残っていて、彼の衣服には夥しい量の血が付着していた。それが刀根山景子の血であることは鑑定の結果立証されている。動機は子供の養育について意見が違い、口論となりついカッなって刺してしまったというのである。法廷は大悟の自白を認め罪状を殺人罪として懲役30年を言い渡した。そして大悟は服役し26年間刑務所にいた。刑に服している間、模範囚を演じ4年早く出所できるようになった。
そこまでが各方面からの書類に基づいて調べ上げたところだった。ところが英さんの話は殺人者が違う。彼はなんといっても大悟と光理さんが話した内容を聞いている。書類より信憑性は高い。万歳さんもそれは認めざるを得なかったようだ。
「ばってん、光理さんがそこまで大悟のされるがままになっちょるというのは英さんのいうことが正しいというこったい」
「麻呂も大悟の言っていることは事実だと思うでござる」
「でも実の母親を殺す?義父とうまくいかないのは当然としても実母を殺害するなんてこと考えられる?」
あたしたちは顔を見合わせて唸った。英さんが言った。
「大悟が言ったでござる。昔みたいに慰めてもらおうと思ってたと。光理を指して言ったでござる」
万歳さんが呟いた。
「それは26年前にもあったというこったい。レイプが」
「だとすれば光理さん、まだ高校生ぐらいよ」
 
 

四の巻

 
光理にとって、母親の再婚相手は父ではなかった。浮気して母を裏切った実父、孝司のことも大嫌いだったけど、目の前の男はもっと嫌いだった。
それは彼女が高校2年生の夏休みに起きた。
硬式テニス部の彼女は夏休みもほぼ毎日学校での練習があった。
その日は部活を12時で終え、友達と帰りにアイスクリームを食べて帰宅した。暑さで体が参っていたので、部屋の空調を22℃設定にしてベッドに横たわった。たちまち睡魔が襲って来て彼女は制服姿のまま眠りについた。
自宅マンションには彼女ひとりだけだった。というのも、母親は駅前の書店でアルバイトをしていて夕方まで帰って来ない。義父は、置き薬の配置販売業をしているのでやはり日中は家にいない。
どれくらい眠っただろう。効きすぎた冷房のせいか、彼女は寒さを感じて目を覚ました。なんだか足がスースーするなと思い起き上がると、誰かがスカートの丈を持ち上げていた。
彼女は咄嗟に助けを呼ぼうとした。すると、男が彼女の口を塞いで言った。
「叫んだら殺す」
冗談に思えなかったのは、男が実際に刃物を持っていたことである。それは殺傷力の低いポケットナイフだったが、こんなのを鼻先にちらつかせられれば誰だって恐怖に支配される。男は彼女の義父大悟だった。
置き薬の配置販売業なら時間の融通はきく。大悟は自分の裁量でいつでも家に戻ることはできた。この日、彼は外回り中に光理が家に戻る姿を目撃し、景子がいない条件を鑑みて自分の義理の娘に接近を企てた。
眠っている娘の姿を見て大悟は欲情した。日に焼けた両脚を眺めるうち、その奥が見たくてたまらなくなった。そして彼は後ろ手にポケットナイフを持ったまま、もう片方の手で彼女のスカートの中を覗いていた。そこを光理に気づかれたわけである。気づかれることは覚悟していた。だからポケットナイフを所持していたのだ。
「言うとおりにしろ。傷つけはしない」
彼女は震えた。が、震えは22℃まで下がった室内温度から来ているのではない。大悟はポケットナイフを口に銜(くわ)えて、光理の衣服を剥がし始めた。ブラウスのボタンを外し、スカートのホックを外し、下着だけにした。寒さと恐怖で彼女の上下の歯がガチガチぶつかり合った。
「すぐに済む」
父親だとは思っていなかった。自分の母親が愛しているのだから、この男と同居することには我慢した。だけどこの場合は違う。これを我慢しろと言われる覚えがない。
3ヶ月後には弟か妹が産まれる予定だった。母親とこの男の間に子供ができた。光理にとっては初めての弟妹だった。だから大悟がまさか自分にこんな行為を働くとは思いも寄らなかった。仮に彼と二人っきりで自宅に居ても、彼女にはその想像はできなかった。
しかし大悟の方は虎視眈々と光理を狙っていた。17歳の彼女の肉体は39歳の彼には禁欲押さえ難い対象となっていた。どんな甘い味がするのか。それは婚姻関係を結んだ妻、景子には決して求められない空想の味だった。
景子が妊娠していることも、彼の性的欲求が娘に向かう条件を整えた。
こうして大悟は機会を待っていた。光理と二人っきりになる機会を。同意など得られない。だから最初から彼は義理の娘をレイプするつもりだった。
初めてのレイプは、光理にとって消し難いトラウマとなった。その後も度々、大悟は光理に恐怖を与え、性行為を強要した。いずれも景子が不在の時だった。
光理は母親にそのことを相談できなかった。景子は大悟を愛していたし、産まれて来る子供と幸せな家庭を築くことを夢見ていた。前夫との離婚があり、景子が今度こそ家庭を守りたいと願っていることは光理にもわかっていた。いまの夫が自分の娘に手を出していることを知ってしまったら彼女は一体どうなるのだろう。そのことを考えると怖くて、光理には義父の自分への性的虐待を拒むことができなかった。
大悟の行動は次第にエスカレートしていった。光理が完全に自分の意のままになると悟ったからである。在り来りの性行為では満足しなくなり、彼は光理の手足を縛った。笞で彼女を打った。いわゆるSMプレイに陶酔し始めたのである。
それでも光理は拒めなかった。笞の痕を母親や友達に見られないよう夏でも肌を隠した。
やがて弟が産まれた。光理にとって17歳年下のこの弟は、欠けた愛情を埋めてくれる天使だった。景子はこの子に海道と名を付けた。
海道が産まれてから大悟の光理への性的虐待は収まった。それはそのはず、景子と海道が一日中家にいるのだ。彼が娘に手を出せるはずがない。
だが一旦禁断の味を知った男が、そう長く禁欲できるはずがなかった。加えて彼は子供を産んだ妻とのセックスに興味を持てなくなっていた。刺激が無さ過ぎるのである。だから彼は押さえ難い性欲を娘の体でしか晴らせなかった。
ついに大悟は、景子と海道が居る間にも光理の部屋に忍び込むようになった。
彼女に声を出させぬよう、猿轡をつけてSMプレイを繰り返した。それは専ら真夜中だったが、却って不自然だった。妻と同じ寝室を離れて、長時間帰ってこないとなると、さすがの景子も不審に思う。
ある晩、トイレに行ったと思っていた夫があまりに長く戻って来ないので、景子はすやすや眠っている赤ん坊の海道を確認してから床を出た。
トイレに彼はいなかった。おかしいと思って彼女は娘の部屋に行ってみた。
そこで景子が見たものはあまりに悍ましい光景だった。娘がベッドに縛られ夫の責めを受けている。
「なにをしているのよ!」
大悟は一瞬だけ振り返った。だが、景子を無視して再び光理に入り込んだ。この男の精神は壊れている。
「やめなさい!」
景子は側にあった娘のラケットで大悟に殴り掛かった。しかしラケットは簡単に掴まれ大悟に押収された。
景子の叫び声で海道が目を覚まし泣き出した。
「光理を離して!」
景子の金切り声が響く。なおも光理の上に伸し掛かる大悟に、景子は台所から果物ナイフを持ち出した。
「離せ!」
叫んでナイフを突きつける景子。大悟は光理から体を離し、景子の手首を取った。そしてナイフを叩き落とし景子を床に捩じ伏せた。
大悟の目が血走っていた。馬乗りになり景子の首を両手で絞める。
これを見た光理は、縛られていた縄から腕を強引に引き抜いて床に落ちてあった果物ナイフを手に取った。海道の泣き声が一層大きくなった。
光理は大悟の背後から果物ナイフを振り下ろした。背後の殺気に気づいたのか大悟は身を躱した。振り下ろされたナイフはそのままの勢いで下に組み伏せられていた景子の左胸に深く突き刺さった。
後ずさりする光理。呆然と立ち尽くす。
景子の頬の血の気がどんどん無くなっていく。
まだ赤児の泣き声は続いていた。しかし彼が望む母のお乳は二度と貰えなかった。
 
翌朝大悟は警察に出頭した。「妻を殺した」と自白した。
彼の頭の中にあったのは、光理を犯罪者にしてしまえば自分の娘に対する性犯罪が白日の下に晒される。これも無罪では済まない。それにこの場合、光理には情状酌量の余地があるだろうが、自分の方に刑が重くなることを大悟は予感した。また妻の首を絞めた自分が殺害に全く関与していないと逃げ切れるはずがない。
それなら自分が罪を負って、娘との姦淫を隠してしまった方がその後の修正が効く。そこまで大悟は考えていた。だが、懲役が30年に及ぶとまではその時考えていなかった。
光理はどうしたかというと、殺害現場から逃げた、いや逃がされた。大悟が光理を逃がした。そこに彼女が居ては大悟の計画が狂う。彼は光理に幼い海道とともに逃げるよう半ば脅して立ち去らせた。
放たれた光理は赤児を負ぶって、行く宛もなく都会の陰に消えた。
 
「と、いうことでござる。今回は麻呂も見るのが辛かったでござる」
「そんな・・・」
あたしは今しがた英さんから聞いた光理さんの過去の話に言葉を失った。
「こりゃあ、俺たちの仕事の範囲を超えてるぜ」
茶柱が身を奮わせて言った。
「殺した人間が夫ではなく、実の娘だったってことだろ。冤罪じゃねえか」
笑顔が気色ばんだ。
「大悟が無罪だって言いたいの茶柱は!?」
「そんなことは言ってねえ」
「言ってるじゃない」
「だがな、現実殺したのが光理なら裁判のやり直しってことになるぜ。大悟にも罪はあるが、光理も無罪ってことにはならねえ」
「大悟が自白して刑を終えたんでしょう。だったら事件はもう済んだことじゃない。光理さんが罪を負うことはないわ」
「笑顔ちゃん、そんな簡単なもんじゃないよ、刑法は」
珈琲を届けに来ていたビリケンが諭すように言った。
「何よあなた偉そうに・・・2浪してるくせに」
「ヒドいなあ、2浪は関係ないだろ」
ヌードカレンダーの前でビリケンは口を尖らせた。束ねたポニーテールを解いて頭を振った。長い茶髪が肩まで届いていた。これで一橋の法学部って言うんだから信じられない。
「まあまあまあ」
そこで万歳さんが止めた。あたしもつい感情的になったのは悪いけど、光理さんのことを思うと可哀相で、彼女に罪を着せたくなかった。
「どっちにしろ証拠が出せんばい。英さんに法廷に立ってもらうわけにもいかんし」
「だわな、昔の出来事を見て来たのが幽霊ですって言ってもな、誰も信じねえぜ」
「麻呂は頼まれればどこでも行き申す」
万歳さんと茶柱は苦笑した。勿論英さんを裁判所に連れて行く気などない。
「けどよ、俺たちは浮気から真実を暴くのが仕事だぜ。過程で殺人犯が変わっちまったんだったら、前提も変わってくるだろ」
「あたしたちは依頼人の海道さんから、光理さんの男女関係を調べてくれって頼まれているんでしょ。殺人事件を調べているわけじゃないわ」
「そんならそれはもう終わってるぜ。光理と大悟には昔から性的関係はあった、いまもある。同意かどうかは別としてな」
「それにもうひとつあるんでしょう。頼まれてることが」
再び髪を後ろで整えゴムで括りながらビリケンが言った。
「ああ、万歳が安請け合いしちまったからよ」
「大悟を光理さんから引き離すんでしょう。どうしますか」
「何もてめえが心配するこたあねえぜ。学生は珈琲だけ運んでればいい」
「僕もここの仲間です」
「準探偵員にアブねえことはさせられねえ」
「なんだか嫌だな、その言い方・・・」
ビリケンはまた口を尖らせた。
「そげんことより残されたもうひとつの問題は、なして海道が姉と関係を持つようになったかたい」
「そのことでござるが・・・」
再び英さんが口を開いた。
 
 

伍の巻

 
あの凄惨な事件から17年後。
都電線沿の一地区に光理と海道は溶け込むようにして暮らしていた。
34歳になった光理は、弟と二人で暮らす家計を女手一つで支えていた。職を転々と変えたが、このときは精肉店で働いていた。
あの時赤ん坊だった海道は高校2年生になっていた。彼はあの事件のことを知らない。また父親が誰であるかも知らされていなかった。光理のことを彼は母親だとずっと信じ込んでいた。17歳年上の姉は母親として通る。母子の方がここでは住みやすい。光理は海道を自分の子供として育てて来た。海道も光理を「お母さん」と呼んできた。
しかし偽の母子関係に異変が起きた。
ある日のこと。光理が脱衣カゴから衣類を取り出していた時、自分の下着がなくなっていることに気づいた。これまで外に干していて洗濯物が盗まれることはあった。しかし家の中でなくなることなどなかった。
さほど気にも留めていなかったが、海道の部屋を掃除していた時、机の引き出しから何かが食み出しているのを見つけた。開けてみると、それは無くなった光理の下着だった。
光理は事態がよく飲み込めなかった。何故自分の下着がこんなところにあるのか。だがさらに下着の下にある物を発見して光理は驚愕する。
それは自分の裸の写真だった。
よもや自分の裸の写真を海道の部屋で見つけるとは思わなかった。写真は全部で3枚あった。1枚が脱衣所で全裸になったところの写真、あと2枚はいつどこで取ったのか、スカートの中を写した写真。
これを海道が何に使っていたのかは、さすがに光理でも予想はつく。
高校生だ。女性の体に興味を持っていても何の不思議もない。他の男の子は、こんな地味な写真ではなく、もっと刺激的な性描写シーンをパソコンか携帯電話から入手していることだろう。或はガールフレンドと大人顔負けのプレイに興じる者も少なからずいるかもしれない。だから海道が性に目覚めていても不思議ではない。
だが相手がいけない。母親(姉)ではそうはいかない。自然だなどと言ってはいられない。
「いつからあのこ・・・」
小学生までは一緒にお風呂も入っていた。下の毛が生えかかって来た頃も、平気で光理の前を裸でうろうろしていた。中学校を卒業するまで、冬は同じ布団で寝たりした。それでも彼は光理を母としか思っていなかった。
高校生になってからも好きなタイプの女の子のことを光理に話していた。つまり、その時まで彼の中では光理は母だったのである。
脱衣所の全裸写真は、髪の形から最近のモノだ。光理は2週間前に髪を短くした。ショートヘアのその写真がここ2週間以内に撮られたものだということを立証している。
光理はどうしていいかわからなかった。下着と写真を元の状態のままにして引き出しを閉めた。
学校から帰って来た海道をどう迎えればいいだろう。光理は悩んだ。
その日、海道が帰宅したのは午後7時半すぎ。何事もなかったかのように光理は海道に接したし、海道もいつものように多くは語らない。
夕食後、光理はお風呂に入った。脱衣する際、物音が聞こえたので、振り向くと扉がわずかに開いている。その向こうに海道の顔が半分見えた。慌ててバスタオルを取った。それを胸で巻いて光理は扉を開ける。だが海道はその場から既に離れていた。
またある日の晩。
眠っていた光理は、近くに生暖かいものを感じて目を開いた。生暖かいはずである。海道の顔が間近にあるのだから。
動けなかった。声を上げようにも、海道の唇が自分の唇に覆い被さり声が出せなかった。
海道はついに行動に出た。母の下着や写真で慰めていた感情がついに収めきれなくなった。
押し付けた唇から舌が伸びて来た。教えもしないのに、こんなことはできるのだと切迫した中で思ったりした。赤ん坊の頃から息子として育てて来た男の子からキスをされている。その状況はとても理解し難いものだった。
にも関わらず、どこか冷静な自分を感じた。
ひとつ光理は忘れている。一旦欲情に火がついた男性は、若かろうが、年老いていようが、また近親であろうが止ることを知らない。青い暴走が始まった。
光理は許してしまった。彼女の脳裏に17年前の出来事が蘇った。義父に犯された自分が、いままた弟に体を開いている。大悟と海道は実の親子である。父の血が息子の体にも流れている。血なのだろうか。光理はそんなことを考えたりした。
その後も海道の暴走は止らなかった。17歳の肉体から精製されるエネルギーは枯れない。彼は溢れ出るエネルギーを母の体に放出し続けた。また光理もそれを受け入れた。
息子の危険な行動を自分の肉体で押さえておけるなら押さえようと考えたからか、光理は海道の求めを拒まなかった。
そうして10年が過ぎた。
光理と海道は母子から恋人に変わっていた。
そこへ刑期を終えて獄中から出所して来た大悟が現れたのである。
偶然、海道は光理と大悟が都内のホテルに入って行く瞬間を見ている。堪らず海道は光理に尋ねた。
「誰、あの老いぼれ」
光理は義父の存在を海道に話していない。この先も絶対に明かすつもりはない。
「仕事関係の人よ」
「歳いくつ」
「60くらいかしら・・・」
「そんな老いぼれと仕事で関わりあるわけ?」
「そ、そうよ・・・」
「店の外で?」
「店によく来るお客さんなのよ。ほら、常連だったら外でも声かけられるでしょう」
「常連だったら一緒にホテルに行くのか」
光理の顔色が変わった。見られたのか、といった焦りが出ている。
「誰なんだ」
光理は口を閉ざした。
「言えよ」
海道は顔を紅潮させている。
「その気があるから着いて行くんじゃないのか」
「ただお喋りしてるだけよ」
「そんなわけないだろ、そんな場所でお喋りだけなんて」
光理はそれ以上口を割らなかった。
「もう絶対会わないでくれ。光理は僕のものなんだから」
頷く光理を海道は抱き寄せた。彼女の表情に苦悩が残っていた。
だが、光理はその後も何度か大悟と会った。彼女には断れない理由がある。母親殺しの罪を被ってもらった大悟に、26年の刑期を受けた義父に、彼女はどうしても断れなかった。
そんな彼女の行動をうすうす察知した海道が、俵屋探偵事務所を訪ねたのである。
 
「依頼人も相当アブねえ野郎だ。母ちゃんだと思ってた女の下着を盗み、裸を盗撮するとはよ」
英さんの話を聞き終えた茶柱が言った。
「おかげで海道と光理さんの関係もよくわかったたい」
万歳さんは英さんに向かって頭を下げた。そして珈琲カップを持ち上げた。だがカップは空っぽだった。ビリケンが持って来たポットから万歳さんのカップに珈琲を注いだ。
「おお、悪かねビリケン」
万歳さんは注がれた熱い珈琲を品の悪い音を立てて啜った。
「今回は単なる浮気とは随分異なりますね。どうします?」
ビリケンがポットを抱えたまま訊ねる。
「どげんかして大悟から光理さんを引き離さんといかんたい」
それが海道からの依頼だった。
あたしは英さんの話を聞いて胸が悪くなっていた。同じ女性として大悟も、そして海道も許せなかった。
茶柱はミルクをひと舐めしてから言った。
「DNAかね?同じ女性を親子で奪い合っているとはよ、正気の沙汰じゃねえ」
茶柱には暖かいミルクを用意してあげた。彼は珈琲飲めないから。冷蔵庫には常に茶柱用のミルクが入っている。
「海道からも引き離さないといけないわ」
「けどよ、俺たち奴から仕事受けちまったんだぜ。光理を奪っちまったら契約違反だろ」
「お金返せばいいじゃない」
「そうはいかねえよ」
茶柱はシッポを立てた。
皆がそれぞれ違うところを見つめ会話は途切れた。
 
 

六の巻

 
万歳さんとあたしは海道と彼の職場近くの喫茶店で会った。調査結果を報告するためだ。
「二人にはこれまで数えきれないほどの性的関係があったですたい」
万歳さんはいきなり結論から入った。
「それも普通の関係じゃなか」
「何を言ってるんですか!あのじいさんと光理が出会ったのは最近ですよ。ちゃんと調べたんですか!」
前のめりになる海道を、万歳さんは「まあまあ、そう興奮せんで」と宥める。
「それに普通の関係じゃないってのも何ですか!回りくどいこと言わずにハッキリ言ってください!」
海道の声があまりに大きかったので、店内が一瞬静まり返った。
依頼人をこれほど興奮させておきながら万歳さんは憎らしいほど落ち着き払って珈琲を啜っている。
「笑顔、あれを」
万歳さんがあたしに指示する。クリアファイルから海道と光理の戸籍謄本のコピーを取り出した。
「これを見てください」
海道がそれを手に取る。
「ご自分の家族関係もご存知ないと仰られたけん、調べさせていただきました」
「家族なんて僕にはないようなものでしたから、全く興味ありません」
「ですが、それが重要なことですたい。光理さんとあなたは母と子ではない」
「そうですよ。恋人ですから」
「ちゃっちゃっ。そうではなくて・・・」
万歳さんはオデコを摩った。
「姉と弟ですたい」
「馬鹿な」
海道がコピーをテーブルに放り投げたので、万歳さんがそれを掴み上げてその箇所を指す。
「あなたの本当の母上は猪苗代景子。で、光理さんの母上も猪苗代景子。つまりあなた方は同じ母上からお生まれになった姉弟ですたい」
海道の顔色が変わった。
「そんなはずない」
「ではこれはどうですかな。あなたのお父上が光理さんに近づいとる66歳のあの爺さんだということは」
万歳さんが戸籍の父親の箇所を海道に突きつける。そこには確かに父、刀根山大悟と書かれていた。
「嘘だろ!」
「戸籍に嘘は書かんですたい。あなたの父親は刀根山大悟。光理さんからすれば義父です」
「義父?」
頷く万歳さん。静かに光理さんの戸籍を上に置き換える。
「彼女のお父上は高見沢孝司。猪苗代景子さんとご結婚されたが40年前に離婚されとる。その後景子さんは刀根山大悟と再婚ばしちょります。高見沢孝司との間にできた光理さんを連れて。ですけん、光理さんにとって大悟は血のつながらん父親です」
「なんですか、そしたら光理は僕の親父と関係を持っていたってことですか」
「そういうことです」
海道が拳を強く握った。
「さっき俵屋さん、数えきれないほどの性的関係って言いましたが、それはいつから」
「17の時から性的虐待を受けてきました。バリきつか虐待だったとです」
「バリキツイ?」
「サディスティックプレイですたい」
海道は首を振った。
「17歳の時からって言いましたよね?おかしい。その頃、僕はもう生まれていて、いまの場所に住んでいた。でもそこであいつの姿を今まで見たことがない。僕が奴を見たのは最近のことだ。ブランクが空きすぎている」
「光理さんが性的虐待を受けたのはわずか数ヶ月のことですたい。その後大悟は26年間刑務所におりましたけん」
「刑務所!?犯罪者なんですか奴は」
「罪状は配偶者殺人」
「おかしいと思ったんだ。光理が母親でないとすると、どうして僕の母親がずっといなかったのかと。つまりそれは大悟が僕たちの母親を殺害したということですね」
万歳さんは少し間を取ってから珈琲カップを持ち上げると同時に呟いた。
「いや、殺したのは大悟ではなか」
「どういうことですか?刑務所にぶち込まれたんでしょ」
「身代わりたい」
「身代わり?」
「殺したのは光理さんです」
「光理が?嘘だ!」
興奮する海道とあたりを見渡して、万歳さんはこう言った。
「猪苗代さん、ここからはうちの事務所で話しましょう。ここでは証拠物件もお見せできんですし」
既に万歳さんは書類を鞄にしまって店を出る支度をしている。あたしもそれに合わせてノートを鞄にしまった。
海道はスマホをチェックした。自分の仕事の予定を確認したのだろう。
「いいでしょう。行きましょう。それが嘘であることを僕は信じています」
 
事務所に着く頃に雨が降り出した。時計の針は午後2時を指しているのに事務所の中は薄暗かった。
茶柱が上品な猫かぶりをしてソファの上で眠っている。本当は起きているのだが、彼は会話に入らないよう眠ったふりをしている。
英さんは自分の役目を終えた時、「麻呂の時代も血の近い男女が契りを交わすことはござったが、ここまで乱れてはおり申さなんだ。おそろしき時代になったものよ」、こう言い残して姿を消した。
万歳さんは事務所に戻るとすぐに蘭館に電話をかけた。さすがに茶柱を使いに出すわけにはいかなかったようだ。彼は珈琲を注文して電話を置いた。
数分後に珈琲を届けに来たビリケンに、万歳さんはソファに座るよう言った。
海道が待ちきれないといったように身を乗り出す。
「で、さっきの話ですけど、どうして光理が母親を殺すんです?何かの間違いでしょう」
「ナイフが向けられた先は義父だった。ばってん、刺した相手は景子さんだった」
「どういうことですか?」
「大悟が身を躱したからたい」
「どうして大悟にナイフを?」
「景子さんの首を絞めて殺そうとしたからたい」
「だったら光理に罪はない」
「いやそれは違う」
ビリケンが口を挟んだ。
「刑法210条過失致死罪が適用され、やはり罪にはなります。それに光理さんはナイフを持ってたわけですから殺意を完全に否定するのは難しい」
茶髪でもこう言えば一応法学部らしい。
「この場合さらに重い重過失致死傷罪もあり得ます」
「だけど、光理は逮捕されず、大悟が刑務所に入った・・・。万歳さん、あなたはさっき身代わりと言いましたが、それはどういう意味です。どうして奴が光理の身代わりになるんです?」
「大悟は妻景子さんの首を絞めて殺害を図ったばい。それを制した光理さんが誤って景子さんを刺した。大悟にも当然重い刑が課せられるたい。だなビリケン?」
「仰る通り。この場合、刀根山大悟にも重過失致死傷罪が適用され、さらに光理さんから告訴されれば親告罪によって強制わいせつ罪、未成年者略取・誘拐罪も適用される。例え刑期は殺人罪より短くても、刑期を終えた後の影響はこちらの方が大きい、社会的批判などを考えればね。刀根山大悟はそこまで考えたのではないでしょうか」
さすがだ。法律のこととなれば強い。
「だから光理の身代わりに・・・」
「それを大悟は笠に着て、出獄後、光理さんに迫ったばい。ゆう通りにせんと真実ば話すと」
「俵屋さん、それらが本当だとどうして信じられます?あなたの言っていることは26年も前のことですよね。大悟があなたに話したんですか、そんなことあり得ない。だとすればそれらはすべて仮定の話だ。そうでしょう?」
「仮定ではなか。証拠ば見せて差し上げるたい」
万歳さんがあたしに目配せをした。あたしはパソコンをテーブルに置いて、incest(近親相姦)と付けられたプロファイルを開いた。そこに保存されている幾つかのアイコンを画面に並べ順に開いていった。
1つめから強烈だった。
「こ、これは・・・」
海道は絶句した。
17歳の光理さんが縄でしばられ猿轡をはめられ大悟に下腹部を責められている姿がそこに写っていたからである。
「・・・これは合成でしょ?」
「合成ではなか。26年前に実際あったワンシーンですたい」
顔が光理さんでなければ、アダルトビデオから取って来て合成したと言ってもわからない。実際海道はそう疑ったのだろう。
次の写真は、もっと凄惨だった。光理が母景子に果物ナイフを突き刺しているところだった。
「これはあり得ない。だってそうでしょう。この現場に誰がいたんですか。あなた方の誰かがいたんですか?そうだとすればあなた方も共犯者になる」
海道は唾を飛ばしながら手を振る。
「どげん解釈されるかはお任せするが、これも紛れもない真実の映像たい。勿論これを警察に出したりはせん。出しても猪苗代さんと同じく信じてもらえんからね」
万歳さんは構わず次の写真を見せるよう合図を送る。
出て来た画像は、つい先日の光理さんが大悟に障碍者用トイレで強姦されたものだった。大悟が彼女の口に無理やりペニスを押し込んでいるシーンだった。
「もうやめてくれ!」
「これも実際あったことたい」
「嘘だ、嘘だ!」
「光理さんは抵抗できん。なしてだかお分かりやろう。さっきの写真のとおり彼女は母親を殺害してしもうたからたい」
「でたらめ言うな!こんなの誰も信じないぞ」
「だったらこれはどげんですたい?」
万歳さんが目配せする。あたしは頷いて4枚目の写真を表示させた。そこに映し出されたのは10年前、海道が光理の下着を嗅ぎながら彼女の全裸写真を見て自慰行為をしているところだった。
「見覚えはなかろうの、自分のことだけん。ばってん、やった覚えはあるたいね」
冷たい笑いを浮かべる万歳さん。そして万歳さんは小声で「次」と言ってあたしに最後の写真を映し出すよう指示した。
1枚目の写真と酷似していた。光理さんが縄でしばられて下腹部を責められている姿だった。ただ責めているのは海道だった。
「お父上(ルビ)と同じことしておられる」
また胸が悪くなった。この猟奇的な一族に。
「ど、どこでこれを?」
「うちはいつ、どこであろうと、どげん証拠でも取れる。な、ご相談されてよかったばい?」
「全部本当なのか?」
「全部本当たい。ばってん、写真じゃ人の本当の気持ちまでは見えん」
「人の気持ち・・・?だろうな、あんたたちに俺の気持ちなんてわからない」
万歳さんは首を振る。どうやら海道のことではないらしい。
「おそろしかおなごね、光理は・・・」
 
 

七の巻

 
あの日の晩。つまり光理がナイフを握った日。
刃を向けた相手は義父大悟、だと思っていた。ところが違った。
「猪苗代さん、あなたの母親を殺したんは光理さんですたい」
「何度も言わなくて結構。でもそれは彼女にとっては辛い事故だ。殺意はなかった」
「そげんこったなかですたい。殺すつもりだったのがはじめから景子さんだった」
「誰のことを言ってる?」
「光理さんですたい」
「馬鹿なことを言うな!光理は大悟にナイフを向けたんだろ。万歳さん、あなた、さっきそう言ったじゃないですか」
「確かに向けた先は大悟だった。ばってん、それは大悟の下に景子さんがいたから狙いが重なっただけばい」
「身を躱したんでしょう、大悟が。だったら大悟じゃないだろう狙いは」
「光理さんが彼に退くよう言ってたらどげんですたい?」
「言うはずない。母親の首を絞めている男を刺そうとしているのに」
万歳さんが再び頷いたので、あたしはパソコンの動画を流した。それは英さんによって過去から送られて来た映像だ。26年前の景子さん殺害シーン。その直前からの大悟、景子さん、光理さん3人の行動が映し出されている。
景子さんが娘の上に体を合わせている大悟に果物ナイフを突きつけるところ、そして大悟がそれを躱し景子さんから果物ナイフを手放させるところ、光理さんがベッドに縛られた状態から手足を引き抜いて果物ナイフを手に取るところ、そして問題のシーンが次だ。
「お義父さん、そこどいて!」
流されている映像からは確かに、光理さんらしき声で景子さんから離れるよう指示している。
「聞こえましたと?」
万歳さんはいつもよりさらに低い声で訊ねた。
「あなたたちの仕事は全部嘘だ!26年前の写真も映像も、ましてや声などどうして取れる。これは光理の声じゃない」
万歳さんは説明を続けた。
「光理さんは大悟に身を躱させ、景子さんの心臓を突き刺すつもりだった」
「あり得ない!」
「動機についてお話せねばならんね。光理さんが景子さんを殺した」
「動機などあるはずがない」
「ばってんそれがあるんじゃな」
二人が黙って顔をにらみ合った。
「光理さんは危険な性の遊びに嵌まってしもうた。サディスティックなプレイに快楽を感じるようになってしもうた」
海道は黙って聞いている。
「光理さんは17歳の夏から義父に性の手ほどきを受け快楽の味を知ったばい。勿論最初は大悟の異常なプレイに恐怖した。ばってん、受け続けるうちに快感に変わっていったばい。大悟に抱いておった嫌悪感は消え、代わりに異常な偏愛に変わった。弟が生まれて母が家にずっといるようになってから光理さんは性的欲求が堪っていった。光理さんの中で景子さんはいつしか快楽を取り上げる邪魔者になっとったんじゃ。そのとどめがあの日。義父から責められ快楽に浸り込んでいた時に、景子さんがそれを邪魔したばい。光理さんにとって母は決定的な邪魔者になった」
海道は大きく息を吐いた。しかし言葉は何も出なかった。
「自分と大悟の関係を壊す存在である景子さんを、光理さんは消したいと思った。それがあの場面で昇り詰めた」
「でも警察は彼女が殺したとは思っていない。殺したのはあくまでも自白した大悟だと思っている。だから光理の殺意がどこにあるかなんかは別に問題じゃない」
「そうですかな?」
万歳さんは笑った。
「その殺意が自分に向けられていると感じ始めたあなたは、実の姉光理さんに畏怖した。彼女にとって待っていた男が26年ぶりに帰って来た以上、代役が今度は邪魔者になってしまったばい。何度かあなたの食事に光理は毒物を盛った。それをあなたは気づいていた」
海道の唇が震えている。
「そこで、あなたは探偵を入れたばい。光理さんと大悟の間をうろつく者がおれば、あなたの身も安全だし彼女は諦めて自分の所へ帰ってくるだろうと期待して」
海道が震える唇を開いた。
「光理に殺されるのはいい。だけど大悟に取られるのだけは我慢ならない。光理は僕のものだ」
「光理さんは染み付いた性癖をあなたで晴らしておっただけたい。仕込んでくれた親が戻ってくればあなたは用なしじゃ」
「そんなことはない!光理は僕を愛している」
海道はテーブルを握り拳で叩いた。コーヒーカップが跳ね上がり転がった。幸い全部中は空っぽだった。
海道がぽつりと呟いた。
「彼女から仕掛けたことだった」
「高校生の時ばい?」
頷く海道。
「まさか、光理が覗き見されるとわかっている部屋であんなことをこっそり一人でやっているなんて・・・」
聞いたことある。男性は女性のオナニーを見ると異常に興奮するって。海道もそのひとりだった。
「最初からあなたの性欲をこちらに向ける意図だったたい。毎夜見られる光理さんの自慰行為に今度はあなたが嵌(は)まってしまった。まして彼女は見た目より遥かに歳若い。あなたが母だと思わなくなるのも仕方がなか。それ故あなたは光理さんの下着を盗んだり隠し撮りしたり、いけないと思いながら想いを募らせた」
観念したかのように海道は項垂れた。
「そのとおりです。何時の頃か僕には光理が偏愛対象になって、過激なビデオより彼女とやることを夢想するほうが遥かに興奮した」
「そしてついに彼女から弟を誘い込んだ。義父にされたプレイを再現してもらうために」
「彼女が用意してくれる性玩具は当時の僕には刺激が強すぎました。でもその刺激に僕は溺れて行ったんですね。お陰で他の女性とおつきあいすることも、普通の恋愛もできなくなっていた。光理だけを独占できればいい。そうずっと思ってきましたから」
「そこへあの男が帰って来たばい」
「俵屋さんに調べてもらうまでもなく、奴が僕の父であることは知っていました。刑務所に入っていることも」
頷く海道。
「それでも大悟に戻って行く光理を見てどうしようもなくなったんです。彼女から僕は疎まれるようになりましたし。だから誰かに大悟を引き離してもらいたかった」
「そこまではできないとはじめに言ったと?」
「俵屋さん、光理を取り戻すことはできないんでしょうか」
万歳さんは溜め息まじりに言った。
「またそこに帰ると?そいでええんか猪苗代さん?あなたこの機会を逃すと二度と人を愛せんようになるたい」
 
悲劇が起こったのはそれから3日後のことだった。
仕事を終えた光理が大悟と向かった先は、海道と光理の住む長屋だった。二人は海道が働いている昼間の時間に逢っていた。そこならホテル代も要らない。何より光理が所持している性玩具が使える。
大悟は光理の体を縄でしばり長押に吊るした。彼女の声を抑えるために猿轡も使った。
66歳の大悟は自分の性欲より、光理に快楽を与えることに彼の快楽を置き換えていた。
その行為が終わりを迎えようとしていた頃、何者かが部屋に侵入してきた。海道だった。
手には包丁を握りしめている。振り返った大悟の首筋目掛けて包丁を横降りした。刃は老人の喉元を切り裂いた。声を出す間もなく大悟は脚を折って崩れた。海道は老人の上に股がり躯中をメッタ刺しにした。息絶えている大悟に海道は刃物を突きつけ続けた。畳の上は血の海と化していた。
縛られた光理はこの惨劇を間近で見ることになった。逃げ場もない。また声も封じられている。
彼女は思ったはずだ。早くこの弟を殺しておけばよかったと。
自分から恋人を奪った老人を始末した海道は、ゆらりと立ち上がった。返り血を浴びた彼の顔は肌の色が見えないほど赤く染まっていた。
海道が何かを囁いた。しかし光理にはその声は聞こえなかった。彼女はいま吊るされているこの恰好で、過去にこの弟に何度も昇天させられた。
だがいまはこれまで感じたことのないエクスタシーを感じている。自分はきっと凶刃の生け贄になる。快楽、この上ない快楽だった。飽き足りたSMではない。究極のマゾヒズムだった。
海道は包丁を落として腰のベルトを外した。ズボンを脱ぎ、ブリーフを脱ぎ、反り立った男根を見せた。そのままの恰好でゆらゆらと光理に近づく。
足を上げ縛られた状態の光理の股に男根を押し込み激しく突き上げる。
やがて彼は泣きながら奇声を発し射精すると、男根を引き抜いて落ちていた包丁を掴み、光理の腹部を切り裂いた。何度も何度も切り裂いた。
「最後は僕だ、最後は僕のだ。光理、おお光理、光理・・・」
嗚咽交じりに叫びながら彼は畳の上に崩れ落ちた。
外は激しい雨が降っていた。
 
ミルクが熱すぎたのか茶柱はあたしに言った。
「温めすぎだ!」
「作ってもらって文句言うな!」
「猫舌って知らねえのかよ。こんな熱いのは飲めねえ!」
「うるさいわね、おいとけば冷めるでしょう。ちょっとぐらい待ちなさいよ」
レンジで5秒温めればいいところを、あたしはうっかり10秒やってしまった。だから茶柱のミルクは蘭館の珈琲と同じくらい熱々の状態になっていた。
「自分はうまい珈琲飲んでいいけどよ、俺はいつだって特売商品なんだぜ。温度ぐらい気を使えよ」
「それじゃあ、次からは冷めたのをそのまま出すわ!」
「俺はそこいらの野良猫じゃねえんだ。温めのミルクしか飲まねえんだよ」
「面倒くさい猫!だったら自分でやれば」
あたしは茶柱にあかんべーしてやった。隣でビリケンが笑っている。
「それにしても、今回の件は最悪でしたね」
首を振る彼のピアスが揺れた。
「俺、最初に言ったろ、この仕事は受けるなって」
茶柱がしっぽを立てて言う。
「違うでしょ!それあたしが言ったの。あなたは追加料金を取れって言ったの!」
結局海道は捕まり、大悟と入れ替わるように刑務所に入った。しかし彼の場合は果たしていつ出所できるか。検察側は被告の極めて身勝手で残忍な行為に極刑を求めている。記事にすれば実の父親と実の姉を刃物で殺害、ということになるが、そこに潜む狂信的な真相はきっと明かされない。かといって、俵屋探偵事務所が掴んだ過去の悍ましい証拠類を出すことはない。
「真実を探る仕事っちゃあ、これが辛かね」
万歳さんはカウボーイハットを指で少し押し上げてから顎髭を摩った。
「暴かなければ誰も傷つかないこともあるたい。探偵業はそこが辛か、依頼されれば調べる、調べれば誰かが傷つく。ちゃっちゃっ、辛かねえ」
万歳さんはジュルジュルと独特の品のない音をたてて珈琲を啜っている。
しかしこの件がそうだっただろうか。暴かない方がよかったのだろうか。
確かに、この依頼はうちでしか真実は掴めなかっただろう。英さんのような秘密兵器は他にはない。絶対ここまでは突き止められない。
万歳さんは渋面で腕組みしている。茶柱は細い目をさらに細めて瞬きしている。ビリケンはヘアクリームをつけ直して髪型を整えている。
みんな暗い表情だった。
「ねえ、いまから日比谷公園行かない?どこかでお弁当買って」
唐突にこんな提案をしてみた。
「何しに?」
茶柱は短い足を組んでいつものように気怠そうに返して来る。
「チューリップがいっぱい咲いてるの」
どんよりしたムードを払いのけたかった。
「いいねえ。俺、店帰って余ってる食材でサンドイッチ作ってくる。10分ほど時間くれる?」
ビリケンが乗って来てくれた。あたしは笑顔で頷いた。こいつ軽いけどこういうところ好き。
「どう、万歳さんも?」
「よかね。チューリップはよか。何と言っても愛の告白じゃけん、花言葉は」
急に花言葉を出されて戸惑った。「そ、そうね」何だか知らないけど同調しておいた。
「いや、待てよ。失恋やったかいな」
するとビリケンが事務所を出る間際に突っ込む。
「万歳さん、それは白いチューリップです。赤は愛の告白で合ってます」
そうなんだ。チューリップは花の色で花言葉が違うんだ。だけどこの連中どうしてそんなことまで知っているんだろ。
「だっちゃね。よかよか、赤いチューリップば見に行くたい」
日比谷公園には色とりどりのチューリップが咲き乱れているはず。赤だけなんて無理なんだけど。
仕事柄、浮気や偏愛や失恋ばかりを見ている彼にとって、赤いチューリップは何か大切なメッセージがあるんだろうな、きっと。
でも、誰に愛の告白するつもりだろうね。万歳さん。
 
 

プロファイル3「boundary(境界線)」

 
 

壱の巻

 
アスファルトから陽炎がゆらゆら上がっている。
何もこんな暑い時期に面接試験しなくてもいいのに。
スーツに身を固めたあたしは、背中を流れる汗を感じながら事務所に戻ってきた。
「おお、就活生、試験どうだった?」
部屋の空調はあまり効いていなかったけど、茶柱にとってはこれ位が丁度いいのだろう。彼、寒いのが苦手だから。
「まだわかんないわよ。結果は来週だから」
「内定ゼロだってな」
「うるさいわね。受けた会社がまだ2つしかないからよ。そんな簡単に行くはずないじゃない」
大学4年生。8月。就職試験の真っ最中だった。春から活発に行っていた会社説明会にはほとんど参加していなかった。だから情報もなくぶっつけで試験に望むしかなかった。あたしが受けられる会社は数がかなり限定されていた。
特に行きたい企業があるわけではなかった。それで力が入らなかったっていえば言い訳だけど、同級生たちが就活を本格化させる中であたしはひとりぶらぶらしていた。
当然結果なんて出るはずがない。受けた会社は化粧品の老舗企業と、大手出版会社。エントリーシート、パスしたのが不思議だったけど、試験ではやはり通用しなかった。2社とも不合格。
でも、その結果を見てもがっかりしなかった。背伸びしていることぐらい自分でわかっていたから。それより寧ろホッとしている自分に“どうしたいの?”って問いかけてみたかった。
今日受けて来た会社は、もう少し自分の身の丈に合わせた中堅規模の旅行会社、ABCトラベル。別に旅行に興味があったからじゃないけど、うちの大学からの就職実績がかなりいいってキャリアセンターの人から勧められて受けただけ。ABCトラベルの人事担当者は、政策立案能力の高い女性を求めているって語っていた。きっとあたしのことじゃないだろうなあ。
「いいじゃねえか。ここで雇ってもらえば」
茶柱が言葉があたしの気持ちを大きく揺さぶった。実を言うと、それが頭にあるから就活に力を入れなかったのは事実。あたしはこの探偵事務所で働いてもいいって本気で思い始めていた。
「ただし、ここは安いぜ。知ってるだろ笑顔、俺のキャットフードもミルクもいつも特売品だ」
知っている。あたしだってここでアルバイトしてもう4ヶ月になるから、俵屋探偵事務所の経営状態は十分理解している。あたしのアルバイト代は半分が借金返済に当てられていたから手取りは月々4万円しか貰っていない。これであたしが正規雇用になったら、どう逆立ちしたって経営は回らない。
「ちゃんと内定貰うわよ。今回のは自信あるんだから」
いや嘘、自信なんてない。最後に人事担当者から「鍋島さんから当社に入りたいって意気込みが伝わって来ないんだよなあ」と留めを刺されている。これで内定が取れたら奇跡だ。
ということで、あたしは大学生活最後の年で、進路の壁にぶつかっていた。
そこへ万歳さんとビリケンが帰って来た。見ると二人ともシュノーケルを持っている。
「おお笑顔、ちょうどいい所に」
万歳さんが相好を崩す。
「海にいくたい」
「うみ?」
突然何言い出すんだろう。困惑した表情を作るあたしを見て、ビリケンが補足する。
「さっきね、うちの店でテレビ見てたら千葉に奇麗な海があるっていうもんだから。万歳さんいきなりシュノーケル持っているかって訊ねるわけ」
ビリケンはもかなり乗り気みたい。
「昔は親父と潜りによく行ってたからね、道具は揃ってた。親父も誘ったけど店閉めるわけにいかないから僕たちだけで行こうかって言ってたんだ」
そこへ“飛んで火に入る夏の虫”の如くあたしがいたわけね。
「さ、行くばい!」
「えっ、いまから?」
汗ばんだブラウスの下にまた汗が流れるのを感じた。
「ちょっと待って。あたしのこの恰好見てわからない?」
「こげな暑か時に、なしてスーツば着よっと?ちゃっちゃっ、脱ぎんしゃい、じぇんぶ脱ぎんしゃい」
取りようによってはセクハラね。
「好きで着ているわけじゃないわ。あたし大学4年生よ」
「そいがどないした?」
「もう!就職活動してるの!海なんて行ってる場合じゃないのよ!」
その割りにのんびりやっている自分に、嘘つけと突っ込みたくなる。
「就活にも気晴らしが大事だよ」
ビリケンまで。あなたは弁護士になるからいいけど、あたしは仕事探さなきゃこのままだと就職浪人よ。
「真っ黒に日焼けして就職試験受けに来る学生なんていないわ」
「却って目立ってよかばい」
好きなこと言って。
その時である。
「ごめんください。こちら探偵事務所かしら?」
万歳さんとビリケンの背後に、品のよさそうな女性が立っていた。
 
30歳前後だろう。いやもっと若いか。
「浮気を専門になさっているとか・・・」
日傘も、帽子も、手袋も白だった。声音も色に例えれば白のような気がする。
振り向いた万歳さんは、婦人を応接椅子に招いた。
「うちはそれの専門ですけん。どんな浮気も調べます」
万歳さんは突っ立っていたビリケンに指図する。
「なんばしちょっとね!珈琲たい」
言ってすぐに婦人に訊ねる。
「アイスでよろしかですと?」
「お構いなく」
頷く婦人。膝に置いた指が細くて奇麗だった。
ビリケンは残念そうにシュノーケルを万歳さんから預かって店に戻って行った。頭に描いていた房総半島の海がフェードアウトしていく。
婦人は矢田桜子と名乗った。相談はどうやら夫の浮気のようだった。最も多い相談案件だ。万歳さんが得意とするところでもあり対応にも心なしか余裕が伺える。
「ほう、ご主人の?何か掴んでおいでですか?」
桜子さんは暗い表情で呟いた。
「夜の回数が減りました」
「失礼ですが、桜子さんご結婚されて何年です?」
「3年です」
「なるほど、それでいまは週に何回ほど?」
あたしはリクルートスーツのまま記録を取っている。
「週末に1回きりです」
「以前は?」
「欠かさず3回ありました」
「いつぐらいまで?」
「去年の12月まではほぼそのペースで」
「12月を境に週に1回に減った・・・。それがご主人の浮気のせいだと?」
「多分」
「心当たりは?」
桜子さんは俯き加減で呟いた。
「職場に彼を狙っている女性がいるみたいなんです。その子は仁八のファンらしくて」
夫の名前は矢田仁八というらしい。
「その女性はご主人とどげな関係です?」
「同じ部署の部下で浜口智子という女の子です。確か年齢は彼より5つ下で、明政大学卒業です」
あたしは彼女の口から出る人物の名前と関係性、情報を記録簿に書き込んで行く。でも桜子さん、よくここまで調べている。同じことを万歳さんも思ったらしく・・・。
「桜子さんはお知り合いですか、その女性と?」
「いいえ」
「詳しかところまでご存知ですね」
「夫のLINEを見ました、彼がトイレに行っている隙に」
よくある浮気発覚のシーンだ。妻はこのチャンスを伺っているのに、夫はスマートフォンのパスコードを入れた状態のままでお風呂やトイレに行ったりする。時にはパスコードを妻の前で堂々と入力して見られているのも知らずスマートフォンを置いて部屋を出る馬鹿な男もいる。
桜子さんもLINE情報を盗めたということは同じことをしたに違いない。
「浜口智子って名前があり毎日メッセージのやり取りしていました。彼女からひっきりなしに誘いがあって夫もそれを承諾していて・・・」
「なるほど」
「私、彼女のFacebookも調べたんです。彼女の年齢も職場も学歴もそれでわかりました」
だから探偵業が不況に陥るわけ。うちが経営状態厳しいのは行き過ぎた情報社会のせい。何しろ探偵に頼まなくても夫や彼氏の浮気なんて簡単に調べられるから、桜子さんのように。
「浜口智子とご主人に性的関係ばあるとですか?」
万歳さんがこう訊ねるのはさっき桜子さんがご主人とのセックスの回数が減ったと言ったからだ。
「わからないから調べてもらいに来たんです。でもきっとあるわ。でなければ減らすはずないもの」
結婚したことないからあたしには分からないけど、結婚後3年経って週に1回ってどうなのかしら。普通じゃないの。でも彼女にとっては3回あったものが1回に減ったのでそれが浮気相手に起因することになるのか。桜子さんの思い詰めた表情を見つめながら、自分の10年後を予想したりした。でもイメージできなかった。
「仁八と智子の関係について洗いざらい調べてください。どんな小さなことでもいいです。教えてください」
万歳さんは大きく頷いてから言った。
「お引き受けいたします。ばってん、これだけは約束してください。真実が明るみに出た後も安易に離婚せず良好な関係を取り戻す努力をすると。それが受諾条件ですたい。よろしかね?」
「ええ、わかったわ」
桜子さんは簡単に承諾したけど、大抵の女性は相手の男の浮気が明白になった瞬間から報復したがる。だから万歳さんは関係修復にこだわる。そこは約束させておかなければならないんだって。探偵事務所が単に夫婦や恋人の浮気を暴くだけになってしまえば、社会的役目はない。だけど彼等の未来を明るくする仕事に変わって行けば探偵業はずっと続けて行けるはずだ、そう万歳さんは言う。
でも儲かってないんだけどね・・・。
 
 

弐の巻

 
仁八と智子は度々食事を共にしていた。あたしたちは二人を追跡してそれを掴んだ。だけど二人は食事を終えると別々の家路に着く。その後に何かがあるわけではない。いつもあさっりと別れる。
つまりあたしたちが調べた限りにおいては、二人の間に性的関係はなかった。
「どう思います、万歳さん」
車の助手席から彼に訊ねた。ルームミラーには違う方向に歩いて行く仁八と智子の姿が映っていた。
「智子の方が好いとっとね」
「やっぱりそう思います?」
「ばってん、仁八はそげな気持ちはなさそうたい。あれば間違いなく次の場所に行くけん男は」
「そうですよね。だとしたらこれは智子の片想い。仁八側からはセーフってことですか?」
万歳さんは小さく頷いた。
「断ればいいのに、好きでもないなら」
仁八の優柔不断な態度に腹が立ってきた。これじゃあ、智子も可哀相だ。女にとって質の悪い男だ。
ところが万歳さんは違う見解を持っていた。
「同じ部署、しかも部下。仁八は断りにくいたい。上の立場のもんは部下にそっぽ向かれたら仕事できん。とくに異性には気を使うたい、一旦縺れたら修復は難しか」
「ったく、これだから近頃の男は頼りないのよ」
万歳さんは横で笑っている。
「おかしいこと言ってる、あたし?」
首を振る万歳さん。でもまだ笑っている。
「何がおかしいの?」
「思い出したたい」
「何を」
「笑顔が謙太郎君とつきあっていた時のことを」
まさかここで別れた彼氏のことを持ち出させるとは思わなかった。
「随分強くなったばい。そげなこった言う女の子じゃなかった」
「あいつのことは関係ないでしょう!それに強くなったってどういうことよ。まるであたしが男性化しているみたいな言い方ね」
万歳さんにそんなこと言われたくない・・・。
彼が頭を下げる。でも目は笑っている。
「強いってのはそういう意味じゃなか。つまりハートが強くなったというこったい」
万歳さんあなたちっともわかってない。それでよく探偵やっているわね。
「そうなの・・・わかった」
あたしもちっともわかっていない。
 
結局、仁八と智子との間に、浮気を決定づけるものは見つからなかった。
あたしたちは次の調査を始めた。
茶柱とビリケンは終日仁八の行動を追尾した。あたしと万歳さんは、仁八の交友関係や昔の友達をあたった。よく学生時代の友達と出会って恋に発展した、なんてことあるから。
だけど、調べても調べても、仁八から浮気を臭わせる女性は出て来なかった。
代わりに、茶柱が、彼のパソコンにダウンロードされたアダルト映像を見つけたけど、それは健康的な成人男性なら誰でも入手するものだと、万歳さんは仁八を弁護した。万歳さんもダウンロードしているのかしら。
調査から1週間が経った。仁八が浮気しているような女性の存在はやっぱり見当たらなかった。高校時代の友達、大学時代の友達にもそれらしき人物はいなかった。勿論、智子のように仕事上で接する若い女性は他にもいたけどそれは浮気じゃない。彼も仕事の一線を超えるような発言を一切していなかった。
「浮気するタイプじゃねえな、この野郎。面白くねえ」
茶柱が吐き捨てるように言った。
「この男はシロですよ。これを浮気とされたら世界中の男は全部クロだ」
ビリケンも後押しする。もっともあなたは世界中のどの男性より、浮ついた行動が目立つから世界の規範から食み出しているけどね。
「どうします。彼女呼びます?」
あたしは桜子さんにここまでの調査結果を伝えるか訊ねた。すると万歳さんが難しい顔をして言った。
「まだ解けていない問題があるたい」
「何だよ?」
茶柱が面倒くさそうに呟く。
「セックスたい。桜子さんとのセックスの回数がなして減ったのかまだ判明しとらん」
「おいおい、万歳。そこはスルーしていいとこだぜ。いいか、結婚して3年になる夫婦だぜ。週に1回もやってんだろ。いまじゃ多いぐらいかもしんねえ。毎日やってたらそれこそ盛りのついた猫だぜ」
自分を卑下した表現ではなさそうだった。彼は自分が普通の猫だと思っていない。
「大事なポイントはそこじゃなか。急に減ったこったい。その頃に仁八に何かがあったと考えるのが妥当たい」
「俺はわからねえけどよ。人間の男にはあるんじゃねえのか、急に性欲が減退することって。なあビリケン」
振られたビリケンは笑ってこう応じた。
「僕にはあまり経験ないなあ・・・」
でしょうね、あなたは年中盛りの着いた猫だから。
「減った2回を誰かに持って行かれた。そう考えられんと?」
「考え過ぎだぜ。見ただろ、万歳。この1週間、あいつはお勤めのように女房と1回やったきりだぜ。あとの2回は消えたんだよ。萎んで行く性欲とともに」
茶柱の言う通り。仁八は他の女性とセックスなんてしていない。だから桜子さんとのセックスが週1回になってしまったのは、誰かに浮気してるんじゃなくて、彼のその気が失せたから。そういうことじゃない万歳さん?
だけど万歳さんは納得していないようだ。腕組みして衝立てのヌードカレンダーを見つめている。
その万歳さんの横顔をあたしは見つめている。
調査は続行された。万歳さんはあと1週間、仁八の行動を追いかけると宣言した。あたしと茶柱は不承不承調査につきあった。
茶柱とビリケンは仁八を、あたしと万歳さんは智子を追うことにした。
調査再開3日目、動きがあった。なんと仁八から智子を誘い出したのだ。仁八が智子にメッセージを送ったのは間違いない。なぜなら、彼女が大喜びで「どこへ連れて行ってくれるんですか」と返信していたからだ。なぜそのやりとりが拾えたかと言えば、万歳さんが智子のパソコン画面を読み取れる位置に監視カメラを設置していたから。勿論屋外から、隣のビルの屋上に取り付けていた。かなり高性能カメラで1000メートル先の活字が鮮明に読み取れる。万歳さんはこれをロシアから極秘ルートで輸入したといっていた。日本では手に入らない、軍用品だからともいっていた。どんなルートだろう。あらためて探偵ってかなり危険な仕事なんだって思った。あたし安易に考えすぎてたかな。
その夜。仁八と智子は新宿の韓国ダイニングバーで食事をした。
二人の会話はテーブル下に潜り込んで盗聴器を仕掛けた茶柱によって一部始終拾われている。これもよく考えれば危険な調査よね。茶柱は店の人に見つからず身を隠せたけど、万一見つかったら彼もただじゃすまない。飲食店に忍び込む猫なんて下手したら保健所に連れて行かれてしまう・・・ってことを考えるとこの仕事、いい加減な気持ちじゃできないわ。
仁八の声が聞こえる。
「今日のあれ、ありがとう。感謝しているよ」
智子が訊ねる。
「あれって?」
「顧客苦情調査報告。まさか既に作ってくれていたなんてね。大助かりだった」
「矢田さんの仕事範囲でしょう」
「言ったっけ?」
「言ってません。でも矢田さんがそれ、月末までに仕上げなくてはいけないことはわかってました」
「さすがだ。明政大の岩本ゼミだけあって出来がいい」
「岩本先生は関係ないわ。別にたいしてお世話になってないもの」
「俺の指導教授はもういないけど、同じく大してお世話にはならなかった」
二人の笑い声が聞こえる。なるほど、この二人同じ大学出身だったのね。どうりで話が合う訳だ。
「矢田さん、今日はどうして誘ってくれたんですか。こんなこと初めてだったからびっくりしました」
「さっきも言ったとおり日頃の浜口さんの働きぶりに対する感謝さ」
「それだけですか?」
「それだけとは?」
「仕事の評価までということですか?」
「どこまでの評価を期待してる?」
「私のこと女性としてどうご覧になってますか?」
仁八の声が詰まるのがわかった。しかし彼は智子にストレスを感じさせない程度の間をおいてこう言った。
「素敵だと思うよ」
 
車の中でこのやりとりを聞いていたあたしたちは、顔を見合わせて頷いた。
「やっぱり智子が本命かしら?」
万歳さんはまだ頷いている。でもそれはあたしのコメントに対してではなさそうだった。タイミングがあっていなかったもの。
「さっきの智子の発言でわかったことだけど、これまで仁八から智子を誘ったことはない。これが初めて。ということはよ、きっと仁八の中で葛藤があったのよ。本当は智子のことを彼も気に入っているけど、狭い社内で恋に落ちてしまったら仕事がやりにくい。だから彼は精一杯自分をコントロールしていた。だから彼女とは深入りしなかった。例え智子がそれを望んでいるとわかっていても。桜子さんとのセックスが減ったのは、彼の気持ちが智子にいくらか移っていたから。でもついに彼は行動に出てしまった。どうかしら?」
「ちゃっちゃっ、よかよか。大したもんたい。準探偵笑顔も推理がうまくなったばい」
「いやだな〜、その言い方。なんだか子供扱いされているようで」
万歳さんは苦笑いした。
準探偵の推理はやはり準探偵どまりだった。結果はあたしの思っていたことと全く違った。多分万歳さんもそれは見抜いていたから苦笑いしたんだ。
 
酔いが回る前にと思ったのだろう。仁八はメインディッシュの肉が出る前に切り出した。
「これで最後にしよう、二人で食事に行くのは。こんなことを続けていれば君を傷つける」
仁八が声を落として呟いた。今度は智子の声が詰まるのがわかった。
「僕は君を女性として愛する気持ちを持ち合わせていない」
「・・・さっきまでの高揚が嘘みたい。結局私のこと嫌いなの?」
「好きとか嫌いとか両端にわけるものじゃないよ」
「要するに私ふられたわけね」
「もともと、付き合っていたわけじゃないだろ」
「私の気持ちはご存知だったでしょう」
沈黙する仁八。
「そうね、そう、矢田さんには大切な奥様がいらっしゃるものね。最初から私が入る隙間なんてなかった」
「・・・ごめん」
その一言に何かを無理やり押し込んだような歯切れの悪さがあった。
結局のところ浜口智子じゃなかった。
だったら何が仁八のセックスを抑制しているのか。隣を見ると、万歳さんが目を閉じて顎髭を摩っていた。
 
 

参の巻

 
調査は再び振り出しに戻った。
「これ以上調べたって何も出てこねえぜ。どこまでやるんだ」
不貞腐れたように茶柱が言う。
万歳さんは答えない。唇を堅く閉じて衝立てのヌードカレンダーと睨めっこしている。
すると、ビリケンが妙なことを言い出した。
「ひとつ気になることがあるんです」
彼はこの調査で茶柱とともに仁八の尾行を担当していた。
「この2週間、彼は仕事帰りにシネマを観てます」
「要するに映画だろ?恰好つけた言い方すんなよ」
シネマという言い方が嫌だったのか茶柱が突っ込む。
「誰かと一緒に観てたの?」
そこが気になって訊ねてみた。
「いや、一人なんだけどね」
「なーんだ。そんなの気にするほどのこと?」
「でも2週続けて、同じ映画だよ」
「よくある。気に入った映画なら」
あたしも以前謙太郎と同じ映画を続けて観たことがある。感動した映画ならロードショーの間に観とかないと大型スクリーンでもう見れなくなるから。
「何曜日ばい?」
万歳さんが訊ねる。
「水曜日です」
ビリケンが答える。少し間をあけてから万歳さんが質問を続ける。
「どこで?」
「渋谷のTOHOシネマズです」
「他の曜日は?」
「ありません」
万歳さんのアンテナに何か引っかかったみたい。でも茶柱は笑い飛ばす。
「単に一人で観たかったんだろう」
「水曜日ーー」
万歳さんが語尾を引っ張って呟く。
「レディースデーたい」
そうか、あの映画館は毎週水曜日、女性1100円だ。でも待って、仁八には関係ないじゃない。同じことを思ったらしく茶柱が突っ込む。
「おちんちん付いている奴には関係ねえじゃん」
これを無視して万歳さんはビリケンになおも訊ねる。
「他に仁八が途中立ち寄った所は?」
ビリケンは仁八がこの1週間に足を向けた場所をスマートフォンから引っ張りだした。
「ええと、月曜日がジュンク堂でしょ、火曜日がファミマ、水曜日がさっき言った映画館、そして木曜日がまたジュンク堂、金曜日がフルーツキングダム、土曜日と日曜日は家から一歩も出ていません」
その中で、万歳さんのアンテナに引っかかったのは金曜日だった。
「フルーツキングダム?確か六本木の洋菓子店たい。一人で?」
あたしも何度か行ったことある。有名なパティシエの店で店内でスイーツを食べることもできる。
「そうです、彼は一人で珈琲だけ飲んでいました」
「スイーツは?」
「食べていません。男は安くないですから」
「どういうことだ?」
茶柱がビリケンに訊ねる。
「金曜日はレディースデーで、スイーツがどれも2割安いんです」
知ってる。あそこは金曜日に女性客でごった返すのよ。でもわざわざそんな時を選んで仁八は珈琲を飲みに行ったの?
「レディースデー・・・」
万歳さんの瞳が一際大きく開かれた。
 
次の水曜日。
またも仁八は仕事帰りにシネマを観た。3週続けて、それもまた同じ映画だった。作品名は「ひまわりの影」。テーマパークで働く有期雇用の女性スタッフが、昼間は絶やさぬ笑顔を、園から一歩外に出ると笑顔を消し人を寄せ付けぬ行動を取る。自分の裏側に潜む破壊的欲望から彼氏を殺し、家族を殺し、自分も最後には死んでいく話だ。でもこんなのどうして3回も観たくなるのかあたしにはわからない。あたしの批評が間違っていないと思う証拠に、映画館内は人は疎らで、ロードショーなのにこれじゃあ赤字興行だと思う。
上映中隙をみて館内に忍び込んだ茶柱が、仁八の座る位置を確認した。空いているのに彼は最後列の一番左側の席を選んでいた。しかも彼は映画を観ていなかった。目を閉じて眠っている。
「なんだよ、居眠りに来てやがったのか、どうりで人気のないのを選んでたわけだ」
上映が終了して、仁八は席を立った。茶柱はすぐには出ない。次の回が始まりまた隙をみて館内を出るつもりだった。合間の準備時間は人の出入りが多くて目につくからだ。
その間、ビリケンが仁八の後を追う。俵屋式探偵鉄則その1、尾行は相手を見失わないよう必ず複数で行う。
次の上映が始まった。茶柱が館内を後にしようと最後列席の陰から出ると、一人の女性客が近づいて来る。慌てて茶柱は元の場所に身を隠した。館内は暗いからまず見つかる可能性は低い。が、それでも猫がいるとなると大騒ぎになる。だから彼は慎重に様子を伺った。
さっきの回よりも人は少なかった。それもそのはずこれが本日最後の上映だからだ。
その女性が座った席は、最後列の一番左側から2つめ。つまり仁八がさっきまで座っていた席の隣だった。
「何故そこへ座る?」
普通、人はこのような場合一番端に座りたがる。茶柱は首を傾げた。さらに驚いたことに彼女もスクリーンを観ていなかった。座るなり目を閉じた。
「何なんだこいつらは」
女性は映画が終わるまで目を閉じたままだった。茶柱は最後の回も館内を出ることができなかった。それは彼女の行動を追うべきだと思ったからだ。
映画館を出た彼女は駅に向かい電車に乗った。さすがに茶柱もそこまでは追いかけることができず、その日は追跡を断念した。
 
尾行対象が変わったのはここから。あたしと万歳さんが今度は仁八を追う。茶柱とビリケンはあの女性を探し尾行する。女性の顔を見たことがあるのは茶柱だけだから。果たして女性を見つけられるか不安だったけど案外その機会はすぐにやってきた。
金曜日。仁八はまたもフルーツキングダムに足を運んだ。レディースデーだというのに男が一人で悠然と珈琲を飲んでいる。店にとって厄介なのは一人客に相席はつけにくい。だから彼の前の席は空いている。満席の中で彼の前だけが異彩を放っていた。
彼が伝票を持って席を立った。勘定を済ませ店の外に出るのと入れ替わるように、例の女性がフルーツキングダムにやって来た。
「奴だ!」
ビリケンに抱かれていた茶柱が囁いた。二人は予め店の外で張っていた。何故茶柱は抱かれていたかというとペット猫の設定だったから。六本木で放し飼いはおかしい。だからビリケンの飼い猫。そういう設定を取った。茶柱はとっても不満そうだったけど。
それはともかく、女性が仁八を追ってくると予想したのだが、それがずばり的中したわけだ。女性はさっきまで仁八が座っていた席の前、つまり空席だった場所に座る。
万歳さんとあたしは、彼が女性と何らかの接触を取るのか注目していた。ところが仁八はその女性に目もくれなかった。店を出る時に二人はすれ違っている。だけど二人ともまったく知らん顔だった。ということは、二人は知り合いじゃない、そういうこと?
「だとしてもできすぎているわ。二人とも偶然そこに座ったなんて考えられない」
万歳さんは渋い顔をして二人の背中を交互に見ている。
 
女性の正体が判明した。名前を河口真緒という。西日暮里の食品スーパーでアルバイトをしている。茶柱とビリケンが彼女を尾行して勤め先を、それから住んでいる場所を突き止めた。名前は職場のタイムカードからわかった。年齢まではわからないが、見かけからしておそらく仁八とそう変わらないだろう。しかし肝心の仁八との関係が掴めなかった。
この年齢で正社員でないというのは、旦那さんがいるのだろうと予想したが、彼女の住むマンションには同居人はいなかった。
その後もあたしたちは仁八と真緒を尾行しつづけた。驚いたことに、二人は他の場所でも仁八が座った席の隣に真緒が座る奇怪な行動を繰り返していた。勿論席が空いていない時は、彼女が違う席に座ったりもした。しかし基本彼女は仁八の座った席の隣が空くまで待っていた。或は彼がわざわざ2席空いている席を選んでいたとも言える。仁八はそこに自分の荷物を置いたりして、他の客が来ることを拒んでいるようだった。
これでは一見、二人は直接会っていないようだが、時間をずらして会っているようなものだ。ただ会話はできない。それでも二人が時間をずらして決まって隣同士で座ることがその後も度々見られた。
ストーカーという線も考えた。だけど、ストーカーなら仁八のすぐ後を追いかけ続けるはずだ。彼女は仁八がいなくなってから彼が居た場所に居続ける。これをストーカーというだろうか。
「ストーカーじゃねえよ。ストーカーなら店にまで入らねえ。外で待ち伏せしてる」
茶柱の言うとおりだ。一つ腑に落ちないのは、二人の行動は必ず仁八が先だということ。仁八がいた場所に、後から真緒がやって来る。その逆はなかった。つまり真緒がいた場所に、仁八が後からやって来るといったことは。
鍵を握るのは、仁八がレディスーデーがある場所を選んで、しかもそのサービスが実施される日にわざわざ利用していたこと。これは真緒の出費負担を少なくすることを考えてのことだろうか。真緒の収入では確かに正規の映画料金1800円から割引価格1100円になるのは大きい。
「なんでそんなことするのかしら?」
「だよな、そんなんだったら初めから仁八が出してやればいいのによ」
あたしと茶柱は互いに頷いた。このやりとりにビリケンが加わる。
「でも二人の関係性が見えない以上、仁八が真緒の代金を出す理由がありません」
「そこなんだよな、これほどぎりぎりまで接近しているのに、あいつら繋がらないんだよな」
茶柱の言うとおり、二人はすれ違うことはあるけど顔を合わせることはない。だから当然、恋人同士のような男と女の関係にもならない。
「浮気どころか、このままじゃただの他人だ。だろ?」
「家に帰ってから連絡取り合っているなんてことないかしら?例えば今日観た映画面白かったね、とか」
「どうだかな。でもそれだってよ、わざわざ家でやることか、だったら直接話せばいいじゃん」
「話せない事情があるとか・・・」
万歳さんの眉が動いた。
「話せない事情?」
そう呟いた後、万歳さんがソファから立ち上がった。
「それたい!話せない事情がきっと二人にはあるたい」
「どんな?」
「わからん。ばってん、会いたくても会えん理由がある。だから時間をおいて仁八の残り香がある場所に、真緒は座るたい」
「いい推理だ、万歳。でもな、そんなのいくら尾行したって理由は見つからねえぜ」
万歳さんは横目でちらりヌードカレンダーに目をやった。
 
 

四の巻

 
8月の下旬、受けていたABCトラベルから最終面接の通知がきた。
通ってたんだあたし、この間の人事担当者面接に。
次の面接は来週の火曜日だった。役員面接だと通知には書いてある。ここまで来たらうちの大学での内定の可能性は75%以上だってキャリアセンターの人が言ってた。あとの25%はどういった理由で落ちたんだろう。あたしはそのことの方が気になった。
最終面接のことは事務所のみんなに黙っていた。尾行調査が続いていたし、いまはなんだかそんな気になれなかった。
調査の方はというと、河口真緒のことはいくら調べても仁八との関係性が見えなかった。というより、河口真緒という存在が、彼女の住んでいる街には登録されていなかった。
万歳さんは彼女の住民票を取るために本人名義の偽装保険証コピーと架空の委任状を用意したが、役人は「そんな人はここにはいません」と、にべもなく書類を突き返された。偽装だったからではない。本当に河口真緒という女性がこの街にはいなかったのだ。だったら彼女が住んでいる住所はどこの役所に登録されているのか。
「偽名を使っとるね」
車の中で万歳さんが呟く。
「本当の名前じゃないの、河口真緒は?」
「おそらく」
「どうしてそんなことする必要があるの?」
「本名を出せない訳があるからたい」
万歳さんは口をへの字に曲げて当たり前のことを聞くなという顔をしている。
「そりゃあ、そうだけど。名前も隠して仁八の後を追いかけているの。やっぱりストーカーみたい」
もし彼女が仁八のことを好きで後を追いかけているんだとしたら、これは潔くない。
「名前を隠す多かケースとして・・・」
そう言って万歳さんが挙げたのは3つあった。ひとつは人を殺した、ふたつはドメスティックバイオレンスのような身近な者の暴力から逃げる、みっつは過去の自分と決別したい何かを持っている、だった。
真緒の姿を思い浮べて、あたしはその3つをひとつひとつ当てはめてみた。
「人を殺したなら、いくら偽名を使っていてもあんな堂々と映画館にひとりで来たりはしないわ」
この推理には万歳さんも同意らしく満足げに頷いた。
「誰かからDVを受けていることは否定できない。だけども、彼女のあの行動でDVから逃げているとは想像がつきにくい。顔は隠していないし、街中にも出てる、人と多く接する食品スーパーはリスクが高い。夫がいるようにも見えないし」
正社員でないのは、偽名で暮らしているからだろう。正規雇用となったら社会保険に入るから身元がわからないと雇ってもらえない。だから彼女は偽名で通せるアルバイトを働き口にしているんだ。
「やっぱりDVは考えにくい。彼女にはその手の類いの悲壮感はないもの」
万歳さんはこれにも同意だったらしく、「多分合っとる」と呟いた。
「みっつめは・・・過去の自分と決別したい何かか。それは難しいわね。だって過去に何があったかはいくら彼女のいまを追いかけても見つからないもの」
あたしはそのあとに、“あの人がいれば別だけど・・・”という言葉を飲み込んだ。
偽名を使っているから、彼女の経歴を辿ることもできない。だけどひとつ考えられることがある。
「彼女の過去にアプローチできなくても、仁八の過去はある程度わかるわね。或はそこで彼女が仁八と交錯しているとすれば何か手がかりが掴めるかも」
「よか判断たい。ばってん仁八に女性の影はあったと?」
あたしは黙って首を振った。そうなんだ、色んな方面から聞き込みもしたけど、彼は学生時代に特定の女の子と付き合っていなかった。
探偵の聞き込み方法というのがまたスゴくて、この手の調査は仁八と仲の良かった友人には直接聞かない。情報がすぐ洩れるので。探偵は当人からある程度距離のあった、でもかろうじて繋がりはあった、そういった友達を選んで行く。その際、まずネットワークを持っている人物であること、次に脛に傷を持つ者、そしてお金に強欲であること、そういった者を探し出す(どうやらそういった情報ネットワークも探偵社会にはあるらしい、詳しいことは万歳さん教えてくれないけど)。見つかればその者の情報からまず集め、臑の傷を広げつつビジネスの取引を進める。比較的簡単に相手は落ちる。勿論これは仕事なので契約書も交わす。情報価値に応じて報酬を上げると言ってあるからその者も必死で集める。あたしたちは顔を見せることはない。その人物を介して当人の周辺の情報を少しずつ少しずつ範囲を狭めて詰めて行く。
これが俵屋式探偵鉄則その2だそうだ。こんな技能、旅行会社では必要ないけど。
という訳で仁八の高校時代、大学時代の交友関係は粗方調べたつもり。
「決してモテなかったわけでもないんだけどね」
実のところ仁八は高校時代に同級生の女子から告白されている。また大学時代にも何人かの後輩から告白を受けている。つまり彼に女の子が近寄らなかったわけではないのである。
「ばってん、仁八は彼女を作らんかった」
「好きなタイプじゃなかったんでしょう」
「その歳頃の男は好きなタイプを探してでも、こちらからいくもんたい」
「だけど仁八は全く自分からは女の子に近寄っていない」
彼の学生生活って専ら男子としか交友を持っていない。つまんなかっただろうなって同情したいけど、それは彼がそうしたわけで・・・。専ら男子ばかり?女性の影はない?
「そうかひょっとして!?」
ようやく気づいたかといった顔で万歳さんは大きく頷いた。
「同性愛者ってこと?」
いや、待って。だったら変だわ。彼には桜子さんという妻がいる。彼は女性と結婚している。そもそも今回の相談は桜子さんからの夫の浮気を調査してくれというもの。彼女と仁八は週に3回セックスしてたんだから、仁八が同性愛者だったらそんなことできるはずがない。
「女性には興味がなさそうだけど、セックスはできる・・・。そんなこと可能?」
「可能たい。バイセクシャルなら」
「バイセクシャル?」
「いわゆる両方の性を愛せる者たい」
「仁八がそれだというの?」
「疑う価値ありたい」
「でも女の子は遠ざけていたでしょう」
「遠ざけていたんではなく、多分仁八は男の方が好きだっちゃ、女が嫌いではなく」
「だったら仁八の後を追っている真緒はどちら?彼女はもしかして・・・男なの?」
「それも疑う価値ありたい」
「だったら名前を変えていることの筋が通る」
「考えられるのは性同一性障害。いわゆる生まれつきの身体的性別とは異なる性を持つ人のことばい。真緒がそれだとまだ断定はできんが」
そう、その仮説なら万歳さんの言うみっつめが成立する。つまり過去の自分と決別したい何かが。真緒の場合、決別したいのが男の体だったとするならば。
「すると真緒は男の名前を持っている・・・」
だから市役所に登録されているのは男性の真緒の名前。
「本名が割り出せれば真相解明に一気に近づく可能性あるわね」
しかしそれを如何にして調べるか。一番手っ取り早いのは公的な身分証明書を見ること。そこには彼女の、いや彼の本名が書いてあるはず。確か彼女は職場までミニバイクで通っていた。だったら運転免許証を持っている。それを見ればわかる。でもどうやって?彼女が自分の本名が書いている運転免許証を容易に見せるはずがない。
免許証を盗み見るのは諦めた。さすがに彼女から奪う訳にもいかないし、提示を求めるわけにもいかない。それは警察しかできない。で、どうしたかというと、あたしたちは彼女の郵便物を調べた。
彼女のマンションに届く郵便物の中には公的証明書に関する通知も含まれているはず。それを見れば彼女の本名が記載されているはずだ。
早速、万歳さんはこの指示を茶柱とビリケンに送った。真緒をマークしている彼等は彼女のマンションのすぐそばにいたからだ。
「河口真緒が男ですか!?」
電話に出たビリケンが声を上げるので、万歳さんが窘(たしな)めた。
「声が大きいばい!」
「すみません。あまりに唐突だったので」
「まだ確証は取れていないばい。それをビリケンに頼みたい」
「はい。何を調べればいいですか」
「マンションの郵便受けには入れると?」
「入れますよ。無防備な古いタイプのメゾネットですから」
「郵便物の宛名を全部チェックして欲しいっちゃ。そこに男性名らしきものがあるかどうか」
「わかりました。では一旦電話をきります」
そう言ってビリケンが電話を切ってから、7分後。彼から連絡が入った。
「ありました、ありました」
大きな声を上げると万歳さんに叱られるので、ビリケンは興奮しながらも精一杯声を殺していた。
「宛名は?」
「ガス料金通知に、梶谷悠介と書かれています。これ明らかに男性の名前でしょう」
「でかしたビリケン!」
珍しく万歳さんが興奮している。さっきビリケンを叱りつけたのは自分なのに、今度は万歳さんの方が声が大きい。
万歳さんは振り返りあたしにこう言った。
「梶谷悠介という名前の同級生を調べるたい」
それは仁八の高校時代と大学時代の同級生ということだ。つまり万歳さんは仁八と悠介が学生時代に男友達以上の特別な関係になっていた、そう踏んでいるのだ。
あたしたちが作った情報探索ネットワークがここでもいきた。高校時代の仁八の男友達の中に、梶谷悠介はいた。クラスは一度も同じではなかったらしいが、二人は随分仲が良かったとのことだった。
高校生の時には、特に仲の良い同性友達ができるものだが、彼等はその範囲に収まらない。
「要するに、仁八はバイセクシャルだけど女性より男性の方が好き。悠介は男性だけど、女性になりたい。二人の欲望はすれ違っているようだけど交錯するものが存在しそう」
悠介という両性に股がる存在がいたから仁八は、普通の女性に見向きもしなかった。また悠介は心が女性だから男性に恋いしたい。でも彼の心の内を同級生の男の子に話したら彼は変人扱いされる。そこに仁八という格好の対象がいた。だから二人には太く交錯する関係になれた。
「ということはよ、二人は高校時代からずっとこんなすれ違う会い方をしてたわけ」
「いや、それは考えにくい。高校時代は男友達として付き合っていたばい。ばってん、その後、悠介が女性に変身してからおそくらこげな会い方に変わったと考えるべきたい」
「でもどうして?会えばいいんじゃないの、普通に」
「仁八には桜子がいるたい」
「ああ確かに。桜子さんからするとこれは浮気になる・・・のかな」
「それに悠介は真緒と名乗ってみても中身は男性ばい。二人が男女のような性的関係を結ぶことはできん」
だったら浮気にならないか。
「性的関係が持てないことは理解できるけど、でもなんで二人はあんなすれ違うような付き合いをするんだろう。直接会うのはタブーだから。だとしたらあんなことして何になるの?」
万歳さんもそこが解けないらしい。難しい顔をして車の窓を開けた。
 
 

伍の巻

 
二人を追っていて共通点があることに気づいた。
茶柱とビリケンの報告では、真緒、いや悠介は午前1時になると床に入る。
「えっ、それじゃあ仁八と同じだわ」
あたしと万歳さんも仁八の寝室が消灯する時間を確認していた。それはやはり午前1時だった。
「これって何かあるのかしら?」
珈琲を運んで来たビリケンはトレイを脇に抱えるとソファに腰を沈め言った。
「寝る時間までLINEしているとか。ほらあれって眠くなるまで続くだろ。それでどちらかがおやすみと言えば終わり」
「なるほどね、水曜日と金曜日は直接話こそしていないけど、家に帰ってからその日観た映画のことや、食べたスイーツの話をする。それなら別々に行動していても感想のやり取りはできるわ」
ビリケンの推理にあたしは相槌を打った。
「でもおかしかねえか、奴ら映画なんて全く観てねえぜ。寝てたんだから。ストーリーに関する話なんてできるわけねえ。それにフルーツキングダムでは仁八は珈琲しか飲んでねえ。やはりスイーツの感想なんて言えるわけねえ」
それもそうね。
「それによ、仮に仁八が家でLINEを夜中までしてたとすれば、桜子が気づくだろ。そうでなくても彼女は亭主の浮気を疑ってるんだから」
「桜子さんからそんな話は聞かなかったわ」
「なにより、桜子は一度仁八のスマホのLINE見てるんだぜ。パスコード知ってるかもしれないし。だから家での通信媒体でのやり取りの可能性は低いぜ」
万歳さんは茶柱の推理に深く頷いた。
「だったら同じ時間にベッドに入るのは何故?」
「あのなあ、だいたいの人間は夜中10時から1時くらいに寝るんじゃねえのか、猫はいつ寝てもいいけどよ。だからあいつらが同じ時間に寝たからってそんなにびっくりするようなことか?」
そう言われたらそうも思えるな。
「仮に同じ時間にベッドに入ることを示し合わせていたとするだろ、何ができんだ?」
茶柱はビリケンとあたしを交互に見て目を吊り上げた。
「セックスできんのか?同じベッドじゃねえんだぜ。何もできやしねえよ」
それにも反論の余地はない。就寝時間が同じだってことはやはり取るに足りないことだったようだ。面白い共通点だと思ったのにな。
その時、誰かがこれに異を唱えた。
「夢の中でも恋はでき候」
誰?
「昔は、こういったものでござる。”夢のうちに あひみんことをたのみつゝ くらせるよひは ねんかたもなし”」
この声、この節。あの人が帰って来たんだ。
「英さん!」
登場はいつものように建て付けの悪い扉を開くことなく素通りして来る。
「しばらくぶりでござった。皆々様方、息災であらせられるか」
あたしは嬉しさのあまり彼に抱きついた。勿論両手は空を切ったけど。
「いいところに戻ってきやがったぜ。さては出るタイミングを見計らってたな」
憎まれ口を叩いているがやっぱり茶柱も嬉しそうだ。
「俵屋殿、たったいま戻り申した」
「待ってたばい英さん。もうここからは英さんしか頼めん仕事だった」
「なんなりとお申し付けくだされ」
二人のやり取りの最中だけど、あたしはさっきの英さんの和歌に話を戻した。
「さっきのほら、“夢のうちに・・・”ってやつ、あれどういう意味?」
英さんは1000年のタイムトラベルをするうちに、昔の言葉をあたしたちにわかるよう伝えてくれる術を学んでいた。高校の古典の先生の眠たい授業より英さんの解説の方がずっとわかりやすい。
「切ない想いを抱く男と女が夢の中で逢いたいと願う歌でござる。麻呂の時代には夢の中で逢瀬をすることはごく自然でござった」
「それはつまり、夢の中でセックスができるってこと?」
「鍋島殿、契りを結ぶのに互いの身などいかほどのこともない。大切なのはこころでござる」
こころねえ、いまいちあたしには実感なかった。でも英さんから恋愛について言われるとなんだか重たいのよ、そこらの人間が言うより。何しろ1000年前の大先輩だから。
「英さん的には、仁八と悠介の間に何か特別な関係あると思う?」
「鍋島殿、そう焦られるな。麻呂はまだこたびの件、よく知り申さん」
「あのね、バイセクシャルと性同一性障害の方の恋愛が存在するかどうかってことなんだけど・・・」
「何を申されておられるのか麻呂にはようわかり申さん。それは大和言葉でござるか?聞き慣れぬ言葉でござる」
そりゃそうか、バイセクシャルや性同一性障害なんて英さんの時代にあるわけない。彼が戸惑うのも無理ない。
前のめりになりすぎなあたしを、万歳さんが窘(たしな)める。
「落ち着きんしゃい笑顔、英さんには細かな説明は必要なか。少し時間を渡せば彼はすべてが見えるけん」
そうだったわ。英さんはあたしたちのこれまでの調査を見て来ることができるんですもの、説明なんて要らない。
 
「なるほど、こたびもまたややこしき依頼でござるな」
万歳さんとビリケンがお流れになっている千葉の海にいつ行くかって話で盛り上がっている間に、英さんが今回の調査の全貌を把握したらしい。
「英さんの時代には考えられないでしょうね、こんな愛し方」
自嘲気味にあたしは言った。ところが英さんから返って来たのはまたあたしの歴史認識を覆すようなものだった。
「可愛いものでござる、この程度は。麻呂の時代には、公然と稚児を寵愛する習慣がござった。男色は特別なことではござらん。かの有名な藤原頼長殿も源義経殿も、武蔵坊弁慶殿もみな男色家でござった。なかには長刀を腰に差しながら、おなごのこころを持つ“武士(もののふ)”も居り申した。即ち、言葉は変われど、麻呂の時代から男女の入れ替わりは存在してござった」
そうなんだ。こういったことが歴史教科書には書かれていないのよね。ここでも高校の日本史の教師より英さんの講釈の方が面白いと思わざるを得なかった。
「仁八殿と悠介殿の場合もおそらくは、男色の範囲でござろう。ただひとつ、同じ場所に行ってすれ違う行動から夜の就寝後までが何の目的で行っているかわかり申さん」
「野郎達、何もやらかしてねえからな」
茶柱の言う通り、仁八と悠介は何もしていない。だからこれを桜子さんの心配する浮気に結びつけるのは相当無理があると思う。
「ともかく、英さんに見て来てもらうたい。二人の過去と、どぎゃん夢心地でおるんか」
いよいよ浮気調査は大詰めを迎えた。
 
その日の晩、ビリケンの提案で、あたしたちはラーメンを食べて、その後ボーリング場に出かけた。英さんにお仕事させておきながら遊ぶのは気が引けたけど、もうあたしたちができることはなかったから。因みに茶柱は事務所で留守番。だって彼はラーメン屋に入れないし、ボーリングの玉なんて投げられるはずがないから。
驚いたのは万歳さんがすっごく上手だったってこと。
「これで5連続ですよ!」
一掃されたピンを見てビリケンが驚嘆の声をあげた。そこには1フレームから5フレームまで黒い蝶ネクタイのようなマークが並んでいた。5連続ストライクだった。
「プロ並みじゃあないですか」
そういうビリケンも5フレームまですでに3回のストライクを取り、89得点を叩き出している。彼も相当上手い。だからボウリングに行こうって言ったんだろうな。ところが自分より上手い人がいたなんてビリケンも想像しなかっただろう。それもまさか自分より15歳も年上のおじさんに。
あたしはレーンにボールを置いてくるだけだから、向こうまでボールがレーンに乗っ掛かってくれればよしってとこ。スコアは気にすることもない。5フレームで23得点。
その後も万歳さんはストライクを重ね、なんと9フレームまで失敗なしのパーフェクトペース。ビリケンも健闘はしたけど万歳さんには及ばない。
回りが騒がしくなってきたのは、9フレームでストライクを取った後から。あのカウボーイハットのおじさんは誰だって少し騒然となった。プロなのかという囁きが聞こえて来る。
この人、探偵よね。どうしてこんなに上手いの?それに何故ボーリングする時までカウボーイハットを被っているわけ。投げにくいでしょうに。
そして彼は10フレーム第1投目、即ち10投目も難無くストライクを取った。あたしの横に座って次の投球まで待っている短い間に、万歳さんはラーメンとビールの臭いのするゲップを3回立て続けにした。あくまでも彼にとっては食後の遊びなんだ。こんな娯楽感覚でやっているおじさんがパーフェクト取っていいのかしら。
あたしとビリケンの方が興奮して来て「あと2投、やっちゃいなよ!」って嗾(けしか)けた。
11投目。ボールは軌道を外れることなく、これまで通りストライクコースを辿った。万歳さんは投げた後もゲップをしていた。奇麗にピンが飛び散ってレーンには立っているピンは1本もなかった。
集まって来た観衆が歓声を上げる。
スコアボードにはもうここまでで290得点が記録されている。その下のあたしが最終53得点。Gマーク(ガター)が7つもある。ビリケンは万歳さんに話題を攫われてしまったけど、10フレームを3投終えて219得点をあげた。これだってプロ並みでしょう。ビリケンやるじゃん。弁護士やめてプロボーラーになればいいのに。
さて10フレームの第3投目を目前に控えた万歳さんは、回りの興奮など他所のことのように、「酔いがまわってきたばい」と今頃になっていう。
「何いってるの、あと1つでパーフェクトよ。ここまで来たら取ろうよ」
あたしは回りの期待を代弁した。ところが万歳さんは眉を顰めてこう呟いた。
「耳目を集めちゃいかん。失敗したばい」
何を言ってるのかと訊ねると、「探偵はこげな注目を浴びちゃダメたい。仕事がやりづろうなる」
そんなことを心配してたの。で、あのスコア。この人の底が見えない。
もうここまで注目を集めてしまったら引くに引けない。“私、探偵ですから”っといってここから退散する訳にもいかない。
彼が最後の投球動作に入った。あまりにも緊張感がなくてびっくりした。万歳さんにとってボーリングのスコアが300得点だろうが、290得点だろうがそんなのは大した違いがないのかもしれない。
背中の後ろにボールが回った時、万歳さんは何事かを呟いた。
「終わったとね」
そしてボールは大きく軌道を外れ左の溝にはまった。観衆の失望の声と溜息が漏れる。
ボールの行方も追わず万歳さんは引き返して来る。
チェアに戻るなり、あたしたちに言った。
「いまそこで英さんから調査が終わったと報告を受けたばい」
まさか最終投球の際に英さん、万歳さんにそんなこと報告に来たの。彼は姿を見せずに万歳さんに近づくことができる。それを観衆もあたしたちも見ていない。でもどうしてまた、このタイミングで万歳さんに伝えにくるの。
「戻るたい、事務所に」
万歳さんはカウボーイハットを一周ぐるりと回してから、戻って来たボールを掴んでそこから退散した。
頭上に表示されたスコアボードには290得点の数字が浮かび上がっていた。一番右端にGのマークで締めくくって。
 
 

六の巻

 
ボーリング場から車をすっとばして帰ったが、事務所に着いた時には、茶柱と英さんが談笑していた。幽霊と猫の会話ってそれだけでも不思議な光景(あたしはもう何の違和感もないけど)。それよりもあたしたちより早く戻れる英さんの空間移動の速さに舌を巻く。いいよね幽霊は何時何処へでも行けて。
パーフェクトを逃したのに、万歳さんはそんな後悔など全く見せずに、ソファに腰を落とすなりいきなり本題に入った。このあたりに探偵のプロ根性を感じる。
「二人はどげな愛し方をしてきたっちゃね?」
英さんは座らない、というか足がないから座れない。いつも空中に浮遊している。今回は衝立ての前でゆらゆらと浮いている。英さんの透けた体のその向こうにヌードカレンダーが見える。そんな位置に浮かなくてもいいと思うんだけど、英さんは別に意図してやっているわけじゃないんだろうな。いつもこのポスターを見て考え事をする万歳さんもこの時は表情が違った。きっとその向こう側なんて見てないからだ。
「男色のはじまりはいつの世も同じでござる」
いつの世もって、あたしたちこの時代しか知らないし、そんな世界自体、未知の世界だ。
「18の時すでに、互いの性器に触れおうてござった」
「ホモセクシュアル特有の行為だな。相手に抜いてもらうんだ」
茶柱が呟いた。でもなんで猫がそんなこと知っているんだろう?
「だけど、悠介は気持ちは女性ですよ。だから通俗的な男色とは少し違うような・・・」
ビリケンが言うのはわかる。そう、彼等の場合は単純な男と男でもない。
「平安王朝時代でも同じでござる。広く男色は男性性器を持つ者同士が愛し合うものであり、故に、悠介殿が女性役に回るだけにて候」
「何だい、ってことは悠介がケツを突き出してたってことか?」
「もう少しオブラートに包んで言ってくれない」
あたしは茶柱に向かって眉を顰めた。
「いや茶柱殿の仰せの通り、悠介殿の臀部に仁八殿の男根を突き入れて居り申した。それは19の時からずっと仁八殿がご結婚されるまで」
「仁八が結婚してからはなかったのね?」
「桜子殿と契るようになられてからは、悠介殿とはお会いになっておられんかった。されど昨年師走、偶然街中で、仁八殿と悠介殿は遭遇してしまったでござる」
「それで12月から・・・」
「抑えて居られた想いが再燃してしまったでござる」
なるほど、元恋人と再開してしまったから妻とのセックスが減ったのね。
「ところで、悠介はまだ男性のままなんですか?つまりその、性転換手術はしていないんでしょうか?」
ビリケンと同じことを訊ねようと思ってた。そこよそこ、悠介の体はいまどうなっているの?
「麻呂が見たところでは、悠介殿には残っておいででござる」
「まだ“ちんぽこ”はあるってことだな。だったら性転換手術は受けていねえ。俺もそれはないと思ったんだよ。ありゃあ、結構するぜ」
「睾丸を出すのに15万円。ベニス切除で50万円。女性器に作り替えるのに80万円。女性ホルモン注射で月1万円。初期手術だけで僕の学費より高い。それほどのお金をスーパーのアルバイトで出せるはずがない」
「おめえ、やけに詳しいな」
「今回の調査にあたって調べましたから」
「準探偵も立派になったもんだな」
ビリケンは笑っているけどあたしはどうもその言い方気になる。上から目線って感じで。
「要するに、仁八の恋人は桜子と結婚するまでは、悠介だけだったばい。それが桜子と結婚して恋人と別れた。ばってん、そげにうまく気持ち切り替えられるっと?」
万歳さんは誰に問いかけたんだろう。仁八の気持ちを聞いたってそんなの誰もわからない。
「それがバイセクシャルなんじゃねえのか。男も愛せるけど、女ともやれる。そうだろ?」
この茶柱の同意を求める問いかけも誰に求めているんだろう。この中にバイセクシャルはいないわけだから誰もそんなことわからない。
「古来からこの国には、恋に性別は関係のうござった。奈良王朝時代に、“夢のごと 思ほゆるかも はしきやし 君が使の数 多く通へば ” とも歌われて居り候」
英さんだ。彼がこの困難な問いかけに和歌で答える。風雅だわ。でも昔の人の情感っていまのあたしたちにはダイレクトに伝わらないよね。
でも有り難いことに英さんは必ずそこを伝わるように解釈してくれる。いっそ国語教師になればいいのに。無理か、それはさすがに。
「これは大伴家持公が藤原久須麻呂殿に送られた相聞歌にござるが、“夢のように思われる、お慕いしている貴方様の使者が頻繁に来てくださるので”、という男性への愛が込められた歌でござる。しかし家持公には御従姉妹様の坂上大嬢という正妻が居り申したし、他に妾も居り申した。男性にも恋をし、女性にも恋をする。斯様にこの時代は見事に二つの性愛を使い分けて居られる。奈良王朝時代から続いており候故、気持ちの切り替えなど容易いことにござる」
「小難しいこと言いやがって、要するに大伴家持もバイセクシャルだったってことだろ?」
「左様でござる」
「で、なんだい、英さんあんたもか?」
「左様でござった」
微妙に語尾は変えたけど、英さんもバイセクシャルだったんだ。そうよね、ずっと昔にお亡くなりになった方だもの、そうであったというべきなんでしょう。
「だから悠介の気持ちもわかるってことかい?」
「悠介殿の辛さは、お慕い申し上げておった殿方が自分から離れて行く、それはそれは心が引き裂かれる想いでござろう」
「仁八の結婚だな」
「如何にも」
万歳さんがここで核心に迫る質問をした。
「英さん、そいで二人は夢の中でなんばしちょっとね?」
「契りを交わしておられる」
「契り?それはいまの言い方だとセックスってことかしら?」
「んな訳ねえだろ!穴に入れられねえよ」
このエロ猫どうにかならないかしら。
「聞かせてくんしゃい、どげんしたら契りば結べると、別々で眠っている状態で?」
「俵屋殿、子種を注ぎ込むことだけが契りだと思おておられんか」
英さんをじっと見つめる万歳さん。頬杖をついて瞼を閉じた。深く考える時の彼の仕草だ。
「また、おかしなこと言い出したぜ。今度は奈良王朝時代には遠距離セックスがあったって言うんじゃねえだろうな・・・」
「あんたは黙ってて!」
品のない猫を叱りつけてやった。英さんはこの調査の一番重要なことを話そうとしているんだから。
「仁八殿と悠介殿は、水曜日と金曜日は午前1時に床に入り、性交を試みられておいでじゃ。二人の頭の中で昔行った行為を再現されておる。特に悠介殿はその間、おなごが性交中に見せる忘我の状態に入られて居り候」
「オーガズムってやつですね」
ビリケンが間の手を打つ。
「仁八殿も意識の中で男根を突き出され、夢精にまで至って居り候」
夢精って、男子が中学生の時に経験するあれでしょう、寝ている間に勃起して朝パンツが濡れているって、あれ。30歳を超えた男性にも起きるの?
「そこまではさすがに確認できなかったな。彼のパンツの中までは」
ビリケンの言う通り、尾行しててもパンツの中や眠っている時の快楽までは掴めない。そこまで探偵が知るのは無理。英さんがいない限り。
「まさしくお二人は夢の中で性交をなさっておいでじゃ。精神の上で契りを結ばれて居るのでござる。ただ肌が触れておらぬだけ、それだけでござる」
肌が触れていないだけ?性行為にそんな大きなことを抜いて考えられるっていうの?英さんの言っていることも、仁八と悠介の境地もあたしの想像を超えている。
にしても英さんの論理を通せば、仁八は妻以外と週に2度セックスをしているということになる。現実に射精しているんだから週3回体外に放出していることになる。それなら以前と回数の帳尻が合うし妻とあとさらに2回するなんて難しいことなんでしょうね。
万歳さんは実感に乏しいのかまだ頬杖をついたままだ。
「英さん、質問していいかしら」
想像が及ばないので、あたしは話を先に進めようと思った。
「なんでござる?」
「その水曜日と金曜日の日中、二人が時間差で空間共有しているでしょう。あれは何のために?それも、席を並んだ位置で入れ替わりで座るって」
英さんは一つ頷いてから扇子を取り出してパタパタやった。夜とはいえ、確かに蒸し暑い。事務所の空調の設定温度は節電のため28℃にしている。そのせいもある。でも幽霊も暑いの?
「仁八殿と悠介殿は陰陽師の末裔でござる」
陰陽師?どこかで聞いたことあるな、それ。するとビリケンが・・・
「ああ、安倍晴明だ」
安倍晴明?それも聞いたことがある。
「天文道、陰陽道、暦道すべてに精通した占術士でござる。天文道を極められた安倍晴明殿は麻呂が生まれる13年前に没しておられる」
「安倍晴明は疫病神退治なんかで有名ですよね。家紋は星印だし、なんかこう神秘的な魔術師って感じだな」
魔術師?
「魔術師ではござらんが、呪術を体得された官職でござる」
「ちょっとちょっと、安倍晴明はこの際どうでもいいのよ。その陰陽師の末裔に話戻して。それがどう関係あるの?」
あたしは軌道修正した。ここは寄り道するところじゃないから。肩を竦めてビリケンはぺこり頭を下げた。
「陰陽師には、物忌という施術がござる。物忌とは願うことを成就するために日常的な行為を控え穢れを避ける陰陽師の呪術でござる。即ち、仁八殿と悠介殿は逢わず行き違うことにて物忌を行っておられるのでござる」
「逢いたいけど逢わない。それで願いが叶うことになるの?」
「現実にその夜、お二人は逢うてござる、夢の中で。これほど近づき乍ら触れることもせず顔を合わせることも禁じる、それ故お二人が夢の中で逢えるのでござる。それが彼等の物忌にて候」
「それじゃあ、同じ映画を観たり、人気のスイーツ店に行ったりっていうのはあまり関係ないのね」
「それは悠介殿が望んで居られる擬似デートでござる」
「擬似デート?」
「左様」
英さんからデートなんて言葉が出たもんだから少し違和感を感じた。この場合、彼は逢い引きって言いたかったのかな。あたしたちが理解できるようにかなり現代語訳してくれてるんだろうな。
「お二人は顔を見合わせること、肌を触れ合わすことを互いに禁じてござる。故にその代わりとして仁八殿の残虚像を感じる同じ場所で悠介殿は同じ時間の共有を自ら作り出すのでござる」
「同じ時間の共有を作り出すって、どういうことかしら?」
「仁八殿の居た場所には彼の息、匂い、体温、生命の力が残り漂っておいででござる。それを悠介殿は、ご自分の体内に取り入れるのでござる。さすればお二人は、いや悠介殿にとってはあたかも実際にデートしていることと変わり申さん。これぞ陰陽師の呪術の力の為せる技でござろう」
「二人はどこの陰陽師の子孫?」
「陰陽師を代表する二大名家の出自でござる。仁八殿は賀茂家、悠介殿は安倍家。故に、斯様な恋愛ができるのでござる」
「安倍家ってさっきの安倍晴明の・・・?」
「ご子孫でござる」
ちょっとちょっと、これ相当根が深い案件じゃない。
 
 

七の巻

 
真相は解明した。確かに。これ以上の調査はもう必要ない。
だけど、あたしたちはこれをどう桜子さんに伝えればいいのだろう。万歳さんもそのことに頭を痛めていた。
「正直に話すしかねえだろう。あなたのご主人はバイセクシャルでした。男と夢の中でやってました。いまも昔の“男”に恋してますって」
変わらず言いたいことを言う茶柱に、あたしは質問してやった。
「だったら調査報告書にどう書く?浮気相手はあり、なし、どっち?」
「そんなのありに決まってんだろ」
「じゃあ、密会はあり、なし、どっち?」
「あり、になるだろうな」
「肉体関係は?あり、なし、どっち?」
「英さんが言うには、ありだろう」
「あなたの意見を聞いているのよ、どっち?」
「そんなの俺の意見なんて関係ねえだろ。一般論なんだからよ」
「一般論なら、ありにはならないわ。そうでしょう。現実に仁八と悠介は体を合わせていないんだから」
ビリケンが専門的な観点で口を挟む。
「笑顔ちゃんの言うとおり。法律では浮気の定義を肉体関係があること、つまりセックスがあれば夫婦間の貞操義務に違反する不貞行為だとしている。でも彼等の間にセックスはない」
「ケツに突っ込んでもか?ありゃあセックス以上の貞操義務違反じゃねえのか?」
バカ猫、下品さは一向に直らないわね。
「それは桜子さんと結婚する以前のことでしょう。だからそのこと自体は浮気と何ら結びつけられないわ。でしょうビリケン?」
肯定の仕草として彼得意の軽いウィンクを投げて来る。
「そもそも論ですけど、同性愛は現行法で不貞行為として認められる可能性が極めて低い。なぜなら不貞行為とはあくまで異性と性行為を結んだ場合にのみ認定されるもので、同性愛ではこの性行為が立証しずらいんです」
「そうなんだ」
これにはあたしも驚かされた。
「悠介は戸籍上は男性ですし、いくら女を装ってみても男性の物が付いているわけです。浮気と認定されることはありません」
「だったら初めからそう言えよ。他に言いようがねえんだったら。これは浮気にはなりませんって、桜子によ」
「そんな簡単にいかないからどう彼女に報告するか悩んでいるんじゃない、ね、万歳さん」
あたしは万歳さんの方をちらりと見た。また瞳を閉じて考えている。そろそろ結論を出して欲しいんだけどな。
zzzzz …
えっ、またあ〜。そう万歳さんはあたしたちが相談している間居眠りしていた。
「万歳さん!」
少しヒステリック口調で呼びかけた。
「起きねえよ、ちょっとやそっとじゃ。一旦眠りについたら火事でも起きない男さ」
初めてここに来たときに茶柱が言った言葉とおんなじ。
「もう、お気楽なんだから!」
「こうでもなきゃあ、探偵なんてやってられねえぜ。真面目に考えてたらよ。人の超デリケートな話ばっかり関わるんだからな。まともにやってたら禿げるぜ。でも万歳は向いてるよ、探偵に。これぐらい度胸すわってなきゃあ、やれねえ商売さ」
そうなんだろうな探偵って仕事は。一番見たくないところばっかり見る職業だ。多分一番しんどくて割の合わない職業だと思う。大学生が卒業後に就く仕事じゃない。
でも、そんな仕事を誰かのために淡々とこなしているこの人の・・カウボーイハットに隠れた寝顔を、あたしは下から見つめあげた。髭面もこれでよく見れば可愛いかな。
「もっともこいつは、ストレス溜めないふりして溜めてんだろうな。でなきゃ、禿ねえぜ」
「茶柱、いま何て?」
「ストレス溜めてるってことよ、こいつなりに」
「いえ、その後・・・」
「万歳の頭か・・・髪の毛ねえよ」
「うそ!万歳さん禿げてるの?」
「見たことねえのか?」
「だってこれ・・・いつも被っているから」
あたしは彼のトレードマークを指差した。
「その下はいい感じで禿げてるぜ」
いい感じってどんな感じ?
「取って見てみろよ」
茶柱がそう言うのであたしは、そっと彼のカウボーイハットに手を伸びした。1、2、3で思い切って帽子を取った。現れた頭は、奇麗に剃られていた。一本の髪の毛もない。
そこでようやく万歳さんが目を覚ました。きっと頭がスースーしたからだろう。火事でも起きないはずなのに、帽子を取られる方が刺激が強いんだ。
「そんな頭してたのね」
意外によく似合っている。万歳さんは寝ぼけ眼であたまを摩っている。
「手入れが大変たい」
「そうなの?」
「髭は放っておいてもよかばってん、上は毎日剃髪せねばならんたい」
「毎日剃るの?・・・ということは髪は生えて来るんじゃない」
「いかにも」
「それじゃあ、髪が抜けてハゲになっているわけじゃないわけ?」
「言い訳よ、言い訳」
茶柱が茶化す。
「どうして剃っているの?」
語りにくそうにしている万歳さんの代わりに茶柱が、本当かどうかわからない理由を明かす。
「償いだ」
償い?何の?
「万歳は、昔嫁さんに内緒で浮気して離婚騒動を起こしてんだ。その時に嫁さんに対する謝罪から頭を丸めたのさ。それをいまも続けてる」
「万歳さん、奥さんいたの?」
彼は極り悪そうにヌードカレンダーに視線を向けた。そう言えば聞いたことなかった、万歳さんが既婚者かどうかなんて。てっきり独身だと思ってた。
「まあそんな感じの人がおったばい」
過去形か、そしたらいまは・・・。
「捨てられたんだよ、相手が悪いぜ」
「どういうこと?」
「デカだもんな。許してもらえるはずがねえ」
「刑事?」
「よお万歳、八束ちゃん、いまどこにいるんだ?」
あれっ?あたしなんか変。息が苦しい。
万歳さんがどう返事したのか、覚えていない。だけどあたしは自分の中で何かが崩れて行くのを感じていた。
そう、あたし就活しなきゃいけないんだ。
 
「納得できない!」
彼女が言っているのは支払額に対してではなく、思いもよらない調査結果についてだった。
「どうして仁八は女の私より、男に2回も出せるのよ!」
夢の中とはいえ、亭主が自分以外の、しかも男性に週2回、空想の中でセックスしていることに、桜子さんは納得できていない。
彼女の前に出された請求額は57万円。調査が存外長引いたことで当初想定していた金額より、2倍ほど高くなっていた。そのことにも彼女は面食らっていたが、それ以上にまさか自分の夫がバイセクシャルだったことに衝撃を覚えている。
「奥さん、彼は決して特別ではなか。誰の中にも同性に興味を持つ意識が潜んでおるたい。仁八さんは少しだけそれが強かっただけたい」
「高校時代から付き合っていたんでしょう、その男と。筋金入りのホモじゃない!結婚する時には何も言わなかったくせに。私を騙していた。絶対許さない!」
「それでもご主人はあなたを愛してた。ほじゃけん結婚後は一度も彼とは肌を擦り合わせとらん」
「隠れてデートしてたんでしょう」
「それをデートと言ってよかか疑問たい」
「いま思えばおかしかった。どうして彼は自分の下着を自分で洗濯するのかと思ってたけど要するに男同士で漏らしたパンツを私に見られたくなかったから・・・こんなことならいっそ浜口智子とやってくれてた方がよほど諦めがつく」
「ご主人も苦しかったはずですたい。ばってん筋は通されとる。あなたとしかいわゆる性行為はしとらん。あなたが週1回に不満だとしても」
「俵屋さん、これは訴えられるんでしょうか」
「奥さん、それは考えんほうがええ」
「いえ、裏切られたんです。私訴えます」
万歳さんはビリケンをちらりと見た。ビリケンが身を前に乗り出す。
「残念ですが、奥さん。訴えても勝ち目はありません。確かに民法770条では不貞な行為についての具体的な定義はなく、もちろん同性愛についての記載もありませんから、法律家の解釈にもよります。しかし仁八さんと悠介さんの間には、少なくとも奥さんとご結婚されてから性行為がない。だからこれは不貞行為でもありませんし、浮気でもない」
「だったらいいです。私裁判で勝ちたいわけじゃないですから。離婚します」
ここで万歳さんがカウボーイハットを取った。丸めた頭に桜子さんは一瞬驚いたようだが、それについて何か触れることはなかった。
「奥さん、約束したですたい。この仕事をお受けする時に」
「何をですか?」
「真実が分かっても離婚はせんと。良好な関係を取り戻す努力ばすると」
「お互いのために離婚した方がいいと思うの」
「仁八さんはきっとそう思うとりはせんですたい」
「あなたに何がわかるの!」
「この頭です」
桜子さんは脈略のない万歳さんの話に、呆れた顔を見せた。
「僕も妻に離婚を突きつけられとります。原因は僕の浮気ですたい」
「まあ、呆れた。浮気専門調査の探偵事務所の所長さんが自ら浮気を・・・!?よくそれでお仕事なさっているわね」
「ずっと反省しとります。妻が許してくれるまで坊主頭でおります」
「あなたの勝手でしょう。奥様はきっとそれでも許さないと思いますけど」
桜子さんは語気を強めて言った。
「仕方がないですたい。それでも僕は許してくれるまで待ちます。離婚するのは簡単です。ばってん愛が残っとる方は辛か想いばしますけん。あまりに簡単に離婚するもんじゃなか。自分の経験から申し上げます」
桜子さんは横を向いて溜め息をついた。
「仁八さんは、あなたを愛しておられる。その証拠に、浜口智子の申し出を断り、梶谷悠介にも触れんようぎりぎりのところで耐えておられる。この先も仁八さんは梶谷悠介と肉体関係に及ぶことはないですたい」
「気休め言わないで!」
「気休めかもしれません。ばってん、奥さん。世の中の男はほとんどが女房以外のおなごにも勃起もしますし、風俗に通ったりもします。もっと手近にアダルトDVDで抜いたりもしちょります。それはごく自然なことですたい。仁八さんが週に2回、夢の中で悠介さんに射精しとるのと、ひとり部屋でアダルトDVDを見て射精しとるのと、どれほどの罪の差がありますか」
詭弁なようにも聞こえるけど万歳さん上手いこと言う。
「まだアダルトDVDの方がよかった・・・」
桜子さんは力なく呟いた。
「セックスの回数にこだわらず、仁八さんを愛してあげて欲しい。あなたが仁八さんを想いやれば彼は、またあなたに比重を戻しますたい」
「そうかしら?」
「バイセクシャルですけん。女も男も愛せます。彼を引き戻せるかどうかはあなた次第ですたい」
「わかりました・・・」
「よか。それでよか」
つるつる頭の万歳さんの顔に笑顔が戻った。
「俵屋さん、ひとつお願いがあるんですけど・・・」
桜子さんが呟く。
「何ですかな?」
「もう少しお安くしてくださらない。夫にばれます、こんな大金を支払ってしまえば。それも彼の浮気調査に出したなんてことが知れたら私の方が離縁される」
万歳さんは頭を叩いて豪快に笑った。
「難しかねえ、ほんに夫婦間は難しか。よかですたい。まけましょう。それで夫婦が円満になるなら。ただし2割引きの分割払いです。それ以上は譲歩できんです。よかですか?」
桜子さんは渋い顔をして頷いた。それでも決して安くないものね。でも、まけてくれるんならあたしの時もそうしてくれればよかったのに。分割ができるっていま知ったわ。
 
この仕事をしていて思う。浮気ってひとことで言うけど奥が深い。想像もしないいろんなケースがある。
どの浮気についても言えることだけど、ダメージが大きい。心もお金も。だから浮気なんてしない方がいいに決まってる。でも浮気の相談は来る。うちみたいな小さな探偵事務所にも。それぐらい世の中は浮気で溢れ返っているんだ。
万歳さんは自分の浮気に自戒も込めて世間の浮気を少しでも円満解決しようとしている。儲からない商売だけど、それはそれで彼の掲げる社会的使命に叶っているんだろうな。
あたしは・・・あたしはこの先、何をしていけばいいんだろう
 
 

プロファイル4「disperse(散開)」

 
 

壱の巻

 
ABCトラベルからの最終面接の結果が届いた。合格だった。
あたしは内定が取れたことより、どうして最終面接が合格したのか不思議でならなかった。
役員面接をパスする可能性はキャリアセンターの人曰く75%だから、そこだけとれば合格したことは不思議じゃない。
だけどあたしの場合は、十中八九あとの25%になる予定だった。あたしもそれを覚悟していた。ところが結果は合格。あの会社の選考基準をあたしは疑った。
最終面接はなんの緊張もなく望んだ。
「それで・・・鍋島さんなら、当社にどんな貢献ができますか?」
この会社で2番目に偉いという専務からこう訊ねられた。
「考えたことがありません」
もうこの時点でアウトだったはずだ。貢献する気がないと言っているようなものだから。
「他にどこか決めている会社がおありですか?」
あたしの受け答えに専務は、本命からの内定を得ていると思ったのだろう。
「いえ、ありません」
専務の呆れた表情に、あたしはやっちゃったと思った。そこで席を立っていればよかったのかもしれない。だけどあたしは冗談のつもりである提案をしてみた。
「貢献でもないですが、御社の業績をあげる秘策があります」
秘策と聞いて専務が興味を示した。
「ほう、それはなんですか?話してみてください」
「浮気旅行を商品にすれば必ず売れます」
「浮気・・・?」
専務の顔から笑顔が消えた。こりゃあ完全に怒らせたかな。
「御社の売り上げのトップは夫婦旅行ですね。確か総売上の60%を占めています」
「そのとおりです」
専務は隣の人事課長と目を合わせ、顎の下で手を組んだ。
「ですがそこにしがみついていては御社の未来はありません」
専務は頷き、人事課長はするどい視線を向けて来る。
「浮気している男女の数の正確な統計データはありませんが、相当数に昇ると思われます。しかも世の男性、女性は浮気に自分たちの裏金を惜しみなくつぎ込みます。浮気している男女が取りたい行動のひとつがお忍び旅行です。浮気旅行を商品化すれば夫婦旅行を凌ぐほどに売れると思います。ただし行き先は観光地ではなくて人目につかない奥秘境なんかがいいですね」
「鍋島さんは面白いことをいう」
専務の顔が引き攣っている。あたしは悟った。このおやじも浮気をしている、間違いない。そして浮気旅行を既に経験ずみだ。
「そんな不謹慎な商品出せるわけないでしょう」
如何にも神経質そうな人事課長が切り捨てる。面白いからあたしは食い下がってやった。別にこの案を実現して欲しいわけじゃないから。
「表にだしてはダメです。会員サイトを作ってそこで紹介すべきです」
「そんなクローズにして売れますか?」
専務は半信半疑、でも興味ありといった表情に変わっている。
「このような商品は口コミで勝手に広がっていきます。それに浮気をする人は、禁断の恋の成就に面倒なことを厭いません。だから隠れた場所に自分たちが欲しい商品が売られていると知れば必ず寄ってきます」
「だからそれが不謹慎なんだよ、君。うちがそんな商品手がけられるわけないだろ」
人事課長が切れた。あたしは別になんとも思わない。遊び半分だったから。それはそれで今は誠意に欠けていたと反省している。
「売り上げを上げたいのであればというご提案です。同じことを考えていてこの競争激しい業界で果たして生き残っていけるでしょうか。私ならばそういった斬新な企画を打ち出しますが」
このあと専務と人事課長が黙ったのでこの時点で落ちたなと思った。
だけど、結果は違った。
初めて貰った内定通知にあたしは正直迷った。最終面接ではあんな適当なことを言っておきながら、いざ内定を手にすると、この会社に行ってもいいかなという気にもなった。
内定を取ったことは事務所の誰にも話さなかった。彼等はあたしが最終面接に残っていたことも知らない。茶柱なんかは、あたしがここでアルバイトを続けるもんだと勝手に思っている。
 
悩んだ末にあたしは本命を受けることにした。
「万歳さん、相談があります」
それは延び延びになっていた房総半島への海水浴の日取りを彼がビリケンと話し合っている時だった。
「なんだ?」
「悪いけどビリケン、席外してくれる?」
ビリケンは怪訝な顔をして言う。
「海の相談なら僕も入れてくれよ」
「その相談じゃないの」
「だったら何だよ」
「あなたがいたら話せない相談よ」
幸い茶柱は出かけている。英さんはまたどこかの時代に去っていった。いまこの事務所にはあたしと万歳さんとビリケンの3人しかいない。何かを察したのか万歳さんはビリケンに言った。
「この続きはあとでするばい」
ビリケンは渋々事務所を出た。
生温い空調機の送風があたしと万歳さんにあたる。あたしは額からじんわり汗をかいていた。ABCトラベルの最終面接では緊張しなかったのにいまは手が震えている。
万歳さんが訊ねる。
「どげんした笑顔?」
あたしは緊張を吹き飛ばしたかったので最初からど真ん中へボールを投げた。
「万歳さん、あたしここで働きたい」
虚をつかれたように万歳さんは目を見開いた。だけどすぐにいつもの穏やかな表情に変わりこう言った。
「既に働いとるたい」
「準探偵員じゃなくてよ」
「なんね、就活うまく行っとらんとね?」
あたしは内定の話を万歳さんに打ち明けた。
「よかったばい。行きんしゃいそこへ。笑顔に合うとる。ばってん浮気旅行はいかんばい」
最終面接の様子まで喋っちゃったもんだから万歳さんは浮気旅行のことには眉を顰めた。
「そうじゃなくてね。あたしここで働けるなら他どこへも行くつもりないの。ここが第一志望だから」
「本気で言うとるんね?」
あたしは真顔で頷いた。
「相談とはそのこと?」
もう一度頷いた。さっきよりゆっくりと。
「あちゃ〜。笑顔、間違っとるばいその判断は」
首を振ってあたしは言った。
「間違っていない。万歳さん、あたしを面接して欲しいの、採用面接」
「わかっとっとね、うちの状況」
「別にいまの賃金でもかまわない」
「そりゃあアルバイトじゃけん。正規の探偵員なら法定賃金を渡さんとまずい。ばってんそれはできん」
「あたしね、ここで働いてわかったの。俵屋探偵事務所はまだまだ稼げる探偵事務所だって。随分惜しいことしてるわよ万歳さん」
「惜しい?」
「うん。例えばね、浮気調査専門ってやっぱり勿体ないわ。だってうちは他にもいっぱい調査できる力持っているんだもの。素行調査や人探し、結婚調査なんてこともできる。浮気に限定すべきじゃないと思う。あたしにチャンスをくれればもっと仕事取って来るわ。そうすればあと一人ぐらい雇っても大丈夫でしょ」
万歳さんは大きく一つ息を吐いた。
「ダメなんじゃ。うちは浮気だけしか扱わん」
「どうしてよ」
「八束と約束したたい」
確か、万歳さんの奥さんの名だ。刑事さんだったわね。
「1つの浮気をした罪滅ぼしに、僕は100の浮気を止めるまで許してもらえんたい。それが八束との約束たい」
「まあ、そんなことを・・・」
「浮気だけたい。うちが取り扱うんは。だから儲からんでもええ」
「困るわ、それじゃあ」
「なして笑顔が困るたい。仕事も見つかったばい?」
「そうじゃない。そうじゃないの。あたし茶柱や英さん、ビリケンと一緒に働きたいのよ。あたしが働ける分ぐらいは稼いでもらわないと困るのよ。で、一番困るのは・・・万歳さんが八束さんにいつまでも未練残していること。たった一度の浮気でずっと彼女に償い続けていること。その頭といい・・・」
あたしは万歳さんのカウボーイハットを奪い取った。
「なんばしよっとね」
トレードマークを取られて色をなす万歳さん。
「万歳さんにいつまでも未練持たれちゃ、あたし困るの」
「なして笑顔が困る。何も困りゃせん」
万歳さんは帽子を被り直してソファの背もたれに憮然とした表情で座り直す。
「浮気になってしまうでしょ」
「どげん意味ね?」
「もういい加減気づいて」
その時、南側の窓が乱暴に開いて茶柱が飛び込んで来た。
「大変だ、万歳!八束が撃たれたぜ」
 
 

弐の巻

 
新宿の交差点。茶柱がパトカーや救急車の物々しい騒動に物見すると、見覚えのある女性が血まみれで担架で運ばれて来る。尾川八束だった。
驚いた茶柱は付近にいた警察官や見物人の話を盗み聞きして情報を集めた。それによると、八束たちはマークしていた麻薬密売組織のアジトを突き止め踏み込んだらしい。八束は後詰めで突撃班から外れていたのだが、アジトからの逃げ口がもうひとつあることに気づいて、その出口を単独で防ぎに回った。麻薬犯のいるビルの3階トイレの窓から隣接するマンションまでは幅1メートルほどで丁度いい位置に隣のマンションの廊下のガラス窓があった。そこを割って飛び移れば逃げ切れることに彼女は気づいた。そこで彼女は隣の窓ガラスの近くの廊下まで行き、麻薬犯の侵入に備えていた。
すると彼女の予想どおり麻薬犯2名がその逃げ口から脱出を図った。他の仲間たちは別の出口から逃げ出そうとして、待ち構えていた警察に一網打尽、取り押さえられた。
八束のいる方面に逃げた麻薬犯はひとりが首謀者、もう一人がその警固である。首謀者を逃がすため、他の者達は敢えて警察の網にかかったという訳である。
彼等と出くわした八束は銃を構え、二人に制止を求めた。だが、警固の男は制止を聞きいれず八束に向かって来た。八束は威嚇射撃を行った。男の足下に弾が飛ぶ。しかし男は怯まない。知っているのだ。目の前の刑事は自分を撃てないと。八束は銃をやや上げて彼の足に標準を合わせた。「撃たなきゃ捕まえられない」焦る彼女は引き金を引いた。しかし弾は彼の横を通り過ぎる。その隙に男は八束に飛びかかってきた。懐まで入られてはしまえば銃を使えない。二人が揉み合った。
いくら八束が刑事と謂えど、取っ組み合いになると男性には勝てない。剣道3段の腕前だが、竹刀もない状態では太刀打ちできなかった。八束は男に捩じ伏せられた挙げ句、不覚にも手にしていた銃を奪われた。
それでも八束は果敢に麻薬犯を取り押さえようと手錠を取り出した。そこを男に撃たれた。
弾は一発目で彼女の胸部を貫通した。膝が折れる彼女に男はもう一発撃った。弾は頭部を掠め、彼女は血に染まる床に伏した。
首謀者と警固の男は伏した彼女を尻目に逃走した。
銃声に気づいた警官が八束のもとにやって来た時には、首謀者と警固の男の姿は既になかった。倒れている八束を見て、警官は救急隊を呼んだ。
 
八束が運ばれたのは都内の大学病院。そこに汗だく丸坊主の男が駆けつけた。俵屋万歳である。病院へ向かう途中カウボーイハットを飛ばした。だが彼はトレードマークを拾いにもいかなかった。
八束はオペ室に入っていた。彼はその場所を聞き出し、廊下を走った。途中看護婦から走らぬよう注意されたが、彼の耳には全く入っていなかった。
オペ室の前で息を切らせ、万歳は点灯している手術中の文字を睨みつけた。
彼から遅れること15分。あたしと茶柱が大学病院に到着した。
唇を噛み締め目を閉じている万歳さんを見つけ、あたしは1列後ろのシートに座った。声をかけられるような様子ではなかった。だけど茶柱は待合室に誰もいないのをいいことに、人間の言葉を喋りだした。場所もさることながらいまはタイミングが不味い。そんなことぐらい感じ取りなさいよ。
「心配すんな。八束は大丈夫だ。死なねえ」
万歳さんは押し黙ったままだ。
「刑事をしてりゃあ、こんなこともあるぜ」
慰めにもなんにもならないじゃないそんなこと言ったら。万歳さんは応じない。剃髪した頭が紅潮しているようにも見えた。
「探偵もやべえところに踏み込むが、警察ほどじゃねえ。俺たちにはそこまでできねえ。八束は勇敢な刑事だよ」
あたしは茶柱の無用なお喋りを制止しようとした。その時、オペ室の表示灯が消えた。
万歳さんが立ち上がる。しかし待てども八束さんは出て来ない。一般病棟には移さないんだ。とすれば集中治療室に入る。それは事態がかなり深刻であることを意味する。
ようやく執刀医らしき医師が出てきた。汗で濡れた緑色の着衣が手術の大変さを物語っている。万歳さんに気づいて彼は近づく。先に口を開いたのはこれまで押し黙っていた万歳さんの方だった。
「先生・・・助かりますか」
医師は万歳さんの出方から察して言った。
「ご家族の方ですね」
「夫です」
嘘じゃない。万歳さんと八束さんはまだ戸籍の上では夫婦のはず。
「やれることはやりました。あとは彼女の回復力次第です」
「命には別状なかとですか?」
「リハビリは必要になってくるでしょう。だが生命の危機までには及びません」
安堵の息をつく万歳さん。その横で茶柱も息をつく。
「猫?」
そこでやっと医師は茶柱の存在に気づいた。その顔に不快感が漂う。
「あなたの猫ですか?」
「いえ、あたしの猫です」
万歳さんに悪影響が及ぶことを畏れ、あたしは罪を被った。病院に猫は連れて来てはいけない。たとえこんなませた人間のような猫でも。
「ダメですよ。動物は。患者さんに動揺を与えかねません。すぐに出して」
茶柱を抱いた。あたしの飼い猫というシチュエーションにしたつもり。耳元で茶柱が囁く。
「なんで俺が病院患者に動揺を与えんだよ。わかってねえなアイツ。猫は病人に安らぎと安心を与えんだぜ。所謂ヒーリングって奴だよ。テレビで言ってたぜ」
「ちょっと黙っててよ!」
あたしは茶柱の耳元で囁いた。茶柱を抱いてそこを離れた。
その後、医師は万歳さんに“妻”の状態について詳しいことを明かした。家族に対する説明責任があるからだ。
「右胸部は肺に穴があいています。しかしこれはひと月ほどで塞がるでしょう。胸骨も折れていますがこれも安静にしていればひと月ほどで動けるようになる。ただ・・・」
「ただ・・・?」
万歳さんの不安が高まる。
「ただ、なんです先生!?なんぞマズいことでもあるとですか?」
「側頭部に受けた傷が問題です」
「側頭部?」
そこで初めて万歳さんは八束さんが頭にも弾を受けていたことを知る。
「頭も撃たれとったですか?」
「ええ」
「まさか植物人間になったりせんでしょうね、先生?」
「それはないでしょう。しかし大脳左半球にある言語野に傷を受けています。脳の神経細胞は再生しない。場合によっては言葉を話せなくなるかもしれません」
「言葉を・・・?」
「まだわかりません。そういった可能性も否定できないということです」
「話せなくなる、八束と・・・」
医師は言葉を継いだ。
「ご夫婦の意思疎通は言葉だけではありませんでしょうが、大切なコミュニケーション手段を失うことも想定しておかれたほうがよい」
残酷な言葉が万歳さんの胸にも突き刺さった。
 
あとからビリケンも大学病院に駆けつけた。病院玄関口で佇んでいたあたしと茶柱を見つけて彼が訊ねる。
「どうした、こんなところで?」
「追い出されたのよ」
「俺が悪いのかよ!?」
茶柱が恨めしそうにあたしを見る。ビリケンが訊ねる。
「八束さんどうだ?」
「命には別状ないって」
「よかった」
「それがよくもないのよ」
「後遺症でも残るのか?」
「うん。それがね・・・」
あたしは万歳さんからさっき聞いたことをビリケンにも伝えた。
「言葉を失う・・・」
「・・・かもしれないって話よ。まだそうと決まったわけじゃないわ」
「万歳さん大丈夫か?」
「落ち込んでる」
「そうだろうな。八束さんとの約束、あと少しだったんだから」
思い出した。他人の浮気を100回止めることで彼は八束さんから許しを得るはずだったんだ。
「あと少しって?」
「もう96件を万歳さん解決してたんだ。残り4件で達成。そしたら万歳さん、八束さんと寄りを戻すはずだったんだけど」
そこまで行ってたんだ。100回にこだわってた万歳さんの気持ちが少しだけ理解できた。あと4回は彼にとって八束さんとの復縁までのカウントダウンだったんだ。
あたしの胸の内はもやもやしていた。採用面接を中断され、あたしの告白も無視された形でいまに至る。八束さんと別れて欲しいと願っていた自分に嫌気がさす。それでもあたしの万歳さんへの気持ちが消えたわけではない。
 
あたしたちは事務所に戻った。
「ねえ、茶柱」
「なんだよ?」
「さっきの話・・・あたしの言い方悪かった。ごめん反省してる」
その話を聞いたのは、さっきの帰り道でのことだった。あたしが茶柱に、どうして八束さんのことを知っているのかと訊ねたことがきっかけだった。銃で撃たれた八束さんを見て彼はすぐに彼女だとわかったわけだから、八束さんとの面識がかなりあったはず。あたしは八束さんのことをもっと知りたかった。だから茶柱に、八束さんとの関係について訊ねてみた。
すると、彼はこう漏らした。「元祖オーナーだ」
つまり彼は最初八束さんに飼われていたということ。二人が結婚してからも茶柱は一緒に暮らしていたらしい。だけど、万歳さんの浮気をきっかけに八束さんが家を出て、その後は八束さんの所ではなく、万歳さんの所に留まった。
不思議に思った。何故八束さんに飼われていた猫が、万歳さんのもとに留まったのか。
だからあたしは続けて訊ねた、冗談まじりにこう・・・「どうして?うるさいから売られたんでしょう」と。
そうしたら茶柱が急に怒りだして、「人をなんだと思ってる!?売られるったあどういうことだ!随分上から目線だな!」
彼の勘所に触れたのか。かなりの剣幕だった。その後は気まずい雰囲気のまま、ここまで戻って来たわけ。
それにしても彼はホントに猫なのかしら。だって「人をなんだと思ってる」なんて猫が言う?そこも何かひっかかってたのよね実は。
事務所に着いて、あたしはまだ胸中渦巻いていた疑問が気になって仕方がなかった。まずは彼に謝った。
茶柱はそっぽを向いたまま鼻を鳴らした。
「ごめんね」
もう一度詫びた。茶柱はしっぽを左右に振って答えた。それはもうわかったから、という合図だった。
でもそれ位で諦めるあたしじゃない。だってあたしプロの探偵をめざしているんだもの。
「で、どうして八束さんの元を離れたの?」
「しつこいぜ」
「もともとは彼女の猫でしょう」
「猫っていうな!」
「猫じゃない。どうして猫に猫って言っちゃいけないの?」
「そんじょそこらの猫と一緒にすんな!」
彼はそこのプライドが高い。猫扱いすると怒る。難しい奴。
「あなた、八束さんから何か頼まれてたんじゃない?」
茶柱の体が一瞬震えた。
「頼まれてねえよ。何も」
「あなたが万歳さんの浮気をばらしたんじゃない、八束さんに。ひょっとして」
「バカやろう、何を根拠に言い出すんだ。ふざけんじゃねえ」
茶柱の狼狽の仕方にあたしは察知した。
「万歳さんが自分から言うわけないもの。しかもあれほど慎重な彼が浮気がバレるような行動したというのも不思議」
「八束は刑事だぜ。自分で調べるのは御手の物だ」
「それはあるわね。刑事だから万歳さんの行動の異変に気づいた。でも証拠がない。そこで八束さんはあなたを使って万歳さんの浮気を調べさせた」
「いいねえ、その発想。おめえもいい探偵になるぜ」
あたしは茶柱の細く開かれた瞳を覗き込んで言った。
「茶柱、あなた一体何者?」
 
 

参の巻

 
彼女がその子猫と対面したのは、まだ生まれてひと月たった赤ちゃん猫の頃だった。
アメリカンショートヘアの子供が4匹生まれたので、よかったら一匹貰ってくれないかと近所のおばさんから頼まれた。見れば掌に乗る程のサイズで、奇麗な茶と白の斑模様の毛並みが可愛くて、その場で即引き取ることを承諾した。
その頃、八束は独身だったが、マンション内で猫を飼うことにした。彼女はその猫を茶柱と名付けた。名付けの理由は立てたシッポがお茶に浮かぶ茶柱を連想させたのと、何より縁起がいいからだった。
八束にとって茶柱は家族であり友達であった。
もう一人茶柱の飼い主がいた。それは八束の同居人だった。彼女には結婚を約束した恋人がいた。安西徹平という同職の刑事で、二人はこの頃には既に一緒に住んでいた。そこに赤ちゃん猫が加わったのだ。
二人は茶柱を子供のように可愛がった。やがて結婚する二人は茶柱を家族の一員として迎え入れていた。
だが、悲劇がおきた。徹平が死んだ。刑事である彼は、麻薬取り締まりの任務についており、麻薬組織の壊滅をミッションにしていた。ところが、背後にある反社会組織に命を狙われ夜襲にあった。複数の男達にさんざん殴打され、仕舞いには刃物で滅多刺しされ息絶えた。
八束が麻薬組織を追う仕事についているのは、死んだ徹平の無念を晴らすためだった。
フィアンセを亡くした八束は、深い哀しみに暮れた。その彼女を救ったのが茶柱だった。彼がずっと側にいてくれたおかげで八束は哀しみの淵から這い上がることが出来た。
しかし、ただ彼がいたからというだけではなかった。徹平の死後、茶柱は何故だか人間の言葉を話すようになった。
それはまさに徹平の生き写しだった。彼と瓜二つの口調で話す。八束はすぐに悟った。この猫にフィアンセの魂が宿ったのだと。
以来、彼女は茶柱と共に過ごして来た。それはとりもなおさず徹平と過ごして来たことと同じだった。
しかし、そんな彼女にも次第に変化が現れ始める。人間同士でも一緒になれば気持ちが離れることもある。ましてや八束と茶柱では人間と猫である。当然それは起きる。八束が別の男性に恋をした。俵屋万歳だった。
万歳と八束は仕事の中で知り合った。その頃、浮気以外に人探しなどの調査も請け負っていた万歳の事務所に、八束はよく足を踏み入れていた。失踪事件などで万歳が捜査協力していたからである。
そして二人が一緒に暮らし始めるのは、それから1年半後のことだった。結婚はそのさらに半年後だった。
万歳の元へ嫁いでいく八束とともに茶柱も居を移した。八束は茶柱の中に住む徹平の存在を明かさなかった。八束にすれば元カレを含め3人で生活しているようなものだったが、茶柱がそれを承諾してくれていたので、彼女は茶柱を手放さなかった。
幸いにも万歳が甚(いた)く茶柱を気に入ってくれた。彼は何故茶柱が人間の言葉を話せるのかを不思議がらず、よき相談相手として、また探偵活動のパートナーとして、茶柱を迎え入れた。
それから5年が過ぎた。ここで万歳が過ちを犯す。
魔が差したといえば蓋然性の低い誤ちに聞こえるが、彼の浮気相手は相談者、即ちお客様だった。浮気相談を持ちかけられ、亭主の浮気を探り出すうちに情感が移った。クライアントの境界線を超えてしまった。何のことはない。違反を取り締まる者が自分からねずみ取りにかかってしまったのである。
万歳の異変に気づいた八束は彼を問い質す。しかし万歳はそれを否定する。あくまでもその女性とは仕事での関係だと。八束は女の勘で万歳の浮気に確信を抱いた。
そして彼女はここで茶柱を利用する。茶柱に万歳の尾行を依頼した。徹平の生まれ変わりである茶柱だ。万歳の素行調査は、頼まれずとも自らやるつもりだった。それが八束から依頼されたのであれば堂々と行える。それに万歳を疑っている彼女なら、証拠を突きつければすんなり受け入れるはずだ。だったら、決定的証拠を突きつけて、彼女から万歳を引き離すチャンスだ。そうすればまた、茶柱は八束と二人で暮らせる。この時茶柱はこう考えていた。
だが、この茶柱の思惑は別の方向へ逸れる。
彼は万歳と浮気相手の女性が行ったホテルの名前と日時をすべて調べ上げ、八束に伝えた。八束はこれを万歳に突きつけた。「証人がいる」とまで言って。
万歳は自分が尾行されていたことをこの時知る。探偵である。ここまで仔細に調べ上げられていれば、つけられていたことぐらいわかる。それがまさか茶柱であったとは露程にも思わなかったが。
彼は観念して八束に白状した。それで彼女が許してくれることを期待した。浮気調査の後、夫婦がしこりを持ちながらも元の家庭に戻るケースを彼は幾度か見て来たからだ。
だが、八束はそうではなかった。彼女は万歳を許さなかった。離婚届にはんこを押して彼女は万歳に突きつけた。
万歳は承諾しなかった。自分は八束を愛している。判を押すつもりなどないとそれを彼女に突き返した。
彼女は言った。ならばひとつ条件がある、と。
「もしもあなたがわたしを本当に愛しているというのなら、その証拠を見せて欲しい」
どんな証拠を見せればいいのか彼が訊ねると、彼女はこう言った。
「100組の浮気カップルを元の鞘に戻してあげる。いわゆる世直し救済活動ね。それが果たせたならもう一度戻ってもいい」
万歳は彼女が出したこの条件を飲まざるを得なかった。
「世直し救済活動か。面白い。やるばい。ほじゃけん、それまで待っていて欲しか」
そして彼は浮気専門の探偵事務所を設立した。茶柱は万歳のもとに預けられた。八束が「役立つでしょうから」といって預けた。内実は八束の密偵である。万歳の行動を見張る役割だ。
しかしこれは完全に茶柱の計算が狂った。皮肉にも茶柱は、万歳とともに世直し救済活動に乗り出していく。万歳と八束の寄りを戻すために。英さんやビリケンといった奇妙な面々達と。
 
「っつうことだ。これでいいか!?」
追求されて全てを自白した茶柱は、ソファで短い足を組んでぷいと横を向いた。ポーズもさながら人間だ。
「やっぱりそんなことだったのね」
いろいろとおかしいと感じることはあった。いくら人の言葉を喋れるといっても彼は中身があまりに人間くさい。
「だったらあなたまだ八束さんのことを愛しているのね」
「死んだのが燃えるような恋をしていた時だからな。そりゃあなかなか割り切れんぜ、俺だけそこで止ってんだからよ」
「よくそれで万歳さんとこれまで一緒にやってこられたわね。謂わば恋敵でしょう」
「初めはそう思ってたさ。けどな、あいつは不思議な男だ。いつの間にか奴を助けてやりたいと思うようになってた」
茶柱の言いたいことがあたしにもよくわかる。そう、助けたくなる。っていうか側にいてあげたくなる。それはきっと男女、関係ないんだろう。
「で、どうするの?あなた。万歳さんが100組達成したら、八束さんのところに戻ることになるんでしょう。そしたらあなたまた二人と一緒に暮らすわけ。変な三角関係を続けるわけ」
「どうすっかな。その時になって考えようと思って来たけど・・・どうすっかな」
茶柱の顔がなんだか人間に見えて来た。この迷い方、猫じゃない。猫の表情じゃない。徹平って人に俄然興味がわいた。
でもどうすっかなって、あたしもどうすっかな・・・。
 
心配していたことが起きた。
八束さんの傷は医師の忠告したとおり頭部が元に戻らなかった。彼女は言葉を発する能力を喪失した。
万歳さんは仕事を中断してずっと病室にいる八束さんの側についていた。彼女のリハビリにも付き合った。所長のいない俵屋探偵事務所は閉店休業状態になっていた。
そんな状態なのに、あたしは大学卒業後の仕事先を、ABCトラベルではなくこの探偵事務所に決めた。
あたしは万歳さんにそのことを告げた。だけど彼は何も言わなかった。
彼はあたしを雇うとは一言もいってない。つまりあたしは内定を蹴ったにもかかわらず他のどこからも内定を貰っていない就職浪人の立場だった。大学のキャリアセンターの人にも叱られた。唯一の内定を蹴って、いったいどこに就職するんだと。探偵事務所のことはさすがに話さなかった。どうせ話しても「バカなことはやめておきなさい」と通り一遍のことを言われるだけだ。あたし、もう常識的な未来など考えていない。だからキャリアセンターに行く意味もない。ある意味大学を卒業するのだってどれほどの価値があるのかとさえ思っていた。
言葉を失った八束さんはずっと病室の窓の外ばかり見ていた。
万歳さんは八束さんの側に居続けた。そして言葉をかけ続けた。
「茶柱を預けてくれてよかったばい」
八束さんはまるで聞こえていないかのように反応しない。聞こえていないはずはない。聴力は損なっていないから。
「彼がおらんと僕の仕事は成功しとらん。彼のおかげたい、ここまでできたんは」
返せるのは沈黙だけだが、万歳さんには多分それでよかった。“妻”との時間を共有できることに彼は満足しているようだった。
「君を愛した者どおし、徹平君とも仲良くやってきたばい」
八束さんの顔が瞬時に強ばった。なぜそれを万歳さんが知っているのかという顔だ。
「最初に茶柱の言葉を聞いた時から気づいとったばい。こりゃあ徹平君だと」
八束さんは驚きの目で万歳さんを見つめる。
「なして徹平君のことを僕が知っとるかってことやね?」
確かにそれを彼女は聞きたかったはずだ。
「あの口の悪さは徹平君そのものたい。僕と徹平君は君と仕事する前からの仲だっちゃ。彼が死んだと聞いた時はショックだった。ばってんいまは徹平君と以前のように仕事をしとる感覚たい」
八束さんが何かを話そうとしている。だが言葉は出て来なかった。そこまでわかっていながら何故自分たちと暮らしていたのか、きっとそう訊ねたかったに違いない。
「また3人で一緒に暮らさんとね」
万歳さんからの思いもよらぬ提案だった。この提案を八束さんは受け入れるのだろうか。だけど彼女の口からはその答えは聞けなかった。
やわらかい日差しに包まれた笑顔だけが彼女の意思を伝えていた。
 
あの不思議な猫、いや徹平さんの生まれ変わりの茶柱は、また新たな能力を身につけた。ホントどうにも変わった猫だ。猫って言ったらまた叱られるかな。
「病院にばかりにいて仕事しなくて大丈夫なのかって言ってるぜ」
病室で茶柱が話しかけているのは万歳さんだけど、彼が伝えようとしていることは八束さんの言葉だった。
茶柱は言葉を発せない八束さんの気持ちが摑み取れるようになっていた。
「っつうかよお、八束は仕事をしなければ寄り戻せないって警告してるんだぜ」
「わかっとる。ばってん、いまはここにおりたいっちゃ」
茶柱のしていることは要するに八束さんの通訳ってこと。八束さんと目を合わせれば彼女の言いたい言葉を読み取ることができるらしい。
茶柱が八束さんの代わりに言った。
「そんなことを頼んだつもりはないってよ」
八束さんが頷いているところをみると、茶柱の言っていることは合っているんだ。
「ちゃっちゃっ、相変わらずつれなかね」
万歳さんはまるめた頭を摩りながら困ったように言った。
「あと4回どうすんだよ。やんのか、やんないのか?」
これは茶柱のセリフ。
「八束がよくなってから続けるたい」
横で聞いていたあたしは内心ホッとした。万歳さんこのまま探偵活動止めちゃうんじゃないかと思ってたから。そうなるとあたし完全に無職になる。まだ彼の了解を貰ったわけではないけど、あたしは卒業してもあの事務所に通い詰めるつもりだった。
「えっ?まじかよ」
これも茶柱のセリフ。だけどそれは八束さんの言葉を拾った後の彼の驚きの声だった。
「残り4回からは自分も手伝うってよ」
「誰が?」
「八束だよ」
「何を?」
「だから、おめえの仕事をだよ」
なに、なに、それって八束さんが探偵事務所に来るってこと?
「もう許してやってもいいらしいぜ。でも約束だから100組の救済活動はやるんだってさ、おめえと一緒に」
それって八束さん、刑事を辞めるってこと?そうなるとあたしどうすればいいの?
「この体じゃ刑事は続けられねえ、でもおめえの手助けぐらいはできる、そう八束は言ってんのさ」
万歳さんどう答えるのだろうか。あたし耳を抑えていたい心境だった。だけど答えなど聞く必要がなかった。次の瞬間、万歳さんは八束さんを上から抱え込むように抱きしめていたから。
あたしは二人から顔を背けて病室の窓の外を眺めた。
黄葉したイチョウがあたしには皮肉な色彩に思えて仕方がなかった。
 
 

四の巻

 
空は晴れ渡っているがまだ肌寒さが残る3月。この日があたしの大学生活最後の日だった。
卒業式なんてこんなものなのかな。壇上のお偉い方々が順番に祝辞を述べているけど、それが自分に向けられているものだとはとても思えなかった。
形式ばったクダラナイ式典はわずか40分たらずで終了した。卒業式会場から解放された同級生たちは恩師や学友とキャンパスのあちらこちらで写真に収まっている。朝から時間かけて着付けしてもらった袴姿の女の子たちはせっかくの晴れ姿を残すのに懸命だ。あたしは上下黒のスーツで参列した。袴姿や着物、民族衣装の留学生達の中に混じると、存在感ゼロ。だけどそれでいい。あたしは卒業証書だけを貰いに来たのだから。
キャンパスの中庭ではしゃぎ合う同世代の若者達を冷めた目で見ながら、あたしは黒子のように存在感を消してすり抜けていく。
ここで4年の歳月をかけて学んだことってなんだったろう。頭の中にそんな問いが浮かんでは消える。答えなど持ち合わせていない。ゼミ仲間で最後に集まる謝恩会が都内のホテルで開かれることになっていたけどあたしは参加するつもりはなかった。
「笑顔!」
足早に正門を過ぎ去ろうとしていた所で自分を呼ぶ声に気づいた。
振り返るとキャンパスのシンボルである巨木の楠を背に、森村謙太郎が立っていた。
別れたのは1年前だけど随分昔のように思える。あれ以来彼の姿を何度か見かけることはあったけど、あえて接触は避けて来た。それに電話番号もメールもLINEもTwitterもFacebookも、彼との繋がりをブロックしてたから、話すことなど一度もなかった。
それが学生生活最後の日にここで声をかけられるとは。
あたしは目だけを合わせて黙った。謙太郎が何を言い出すのか待った。
「けじめだけはつけておきたいんだ」
何を言い出すのかと思ったら・・・。
「何のこと?」
「俺、笑顔に振られたと思ってない」
今頃何言ってるの?
「別れるって言ってないだろ」
そんなセリフを言って欲しいかったわけ?
「未練がましいと思うだろうけど、俺、やっぱりお前のことが好きだ。だから・・・」
「だから?」
「やり直したい」
「本気で言ってるの?」
唇を堅く結び頷く謙太郎に、あたしは2歩、3歩と歩み寄った。
彼の顔をこうして真正面から見るのも久しぶり。黙っていればいい男なのになあ。
「ありがとう、そんなこと言ってくれるなんて、とっても嬉しいわ」
謙太郎の顔に強ばった笑みが戻る。
「これがあたしの答えよ」
そう言うとあたしは彼の頬を力一杯殴った。平手じゃなくてグーでね。
歪んだ表情で自分の頬を押さえる謙太郎。まわりにいた者たちが足を止めこの男女の縺れ劇を興味津々で見ていた。
あたしは謙太郎を睨んで言った。
「あたしの声聞こえたかしら?」
恨めし気にあたしを見つめる謙太郎。
「まだ何か言って欲しい?」
彼は大きく溜め息をついて言った。
「ないよ、もう」
「そう、それじゃあ、さようなら」
「ああ、あばよ」
顰めっ面の元カレと楠に背を向けて、あたしは4年間の学生生活にピリオドを打った。
 
気づけば蘭館に足を運んでいた。
「いらっしゃい」
ポニーテールにエプロン姿の男性が振り返る。
「ああ、そうか。卒業式だったんだな今日。おめでとう笑顔ちゃん」
抱えていた卒業証書の黒い筒でわかったんだろう。
「ありがとうビリケン」
隅っこの照明が届かない暗い席に腰を降ろした。
「いつものでいい?」
頷くあたしに呼応するように、彼がレジ横の珈琲チケットを1枚切る。
そういや、万歳さんも作っていたな珈琲チケット。いや実はまだ万歳さんの珈琲チケットはここにある。半分ほど残っている。だけどそれが使われることはない。
珈琲をあたしの前に置いてビリケンが前に座る。
「結局、行くことになったんだって、ABCトラベル?」
「大学出たのに働かないわけにいかないからね」
肩を竦めてからあたしは珈琲を一口啜った。
一旦は断ったABCトラベルに、あたしは恥も外聞もなく「もういちどチャンスいただけませんか」と電話を入れた。すると、あの人事課長が出て、「うちを馬鹿にしているのか!」と一喝され電話を切られた。当然だ。ところが、その5分後。携帯電話が鳴って、出るとABCトラベルからだった。同じ人事課長が、「専務の了解が出ました。いまから来られますか?」と言う。「いますぐお伺いします」と答えて本社ビルのある新宿へ向かった。専務があたしの再内定を認めてくれたのだ。「こんなことは異例中の異例ですよ」と人事課長から嫌みを言われたが、「すみません」と何度も頭を下げた。いまここを蹴っていくところがどこにもない。
「いろいろあったもんな」
ビリケンは言葉を選んでいるようだった。いつもならここでウィンクするはずなのに、彼は腕組みして俯いた。派手なピアスが揺れる。
そういろいろあったのよ。
「どこ行ってしまったんだろうな」
ぽつり呟くビリケンの横顔を通り越して、あたしはマスターが入れているサイフォンの湯気を眺めていた。
 
あたしがそれを見つけたのが10日前。
建て付けの悪いアルミ扉に一枚の張り紙があった。
“永らくのご愛顧誠にありがとうございました。下記へ移転しました。
とある浮気町一丁目
浮気調査専門俵屋探偵事務所 俵屋万歳”
ドアに鍵はかかっていなかった。部屋の中は空っぽだった。ただひとつ、昨年のヌードカレンダーがシミの付いたコンクリート壁に取り残されていた。
「これだけは置いていったんだ・・・」
古いカレンダーと、準探偵員は使えない、そんなところか・・・。
万歳さんが逃げた。
何も言わず、ある日忽然と姿を消した。
退院後一緒に仕事をしていた八束さんも、茶柱も、それに英さんもあたしの前から消えた。二度と姿を見せなかった。
置いてけぼりをくったのはあたしとビリケン。ビリケンは弁護士になるため勉強しているから、いいようなもの、あたしはそうじゃない・・・。
知っていたくせに、万歳さん。あたし、ここで働くことしか考えてなかったのに。
ふと、ここであった様々な出来事が頭に去来した。
大変なことも多かったけど楽しかった。それはきっとここにいた仲間たちのおかげだ。
あの奇妙な連中はいまどこに・・・。
彼等との出会いは夢だったのか。そう思えるほど、彼等は突然現れ、突然消えた。
「万歳さん・・・いつかまたどこかで出会えるかな?」
誰もいない空っぽの部屋で、あたしはいつまでも胸の大きな女性の裸を見つめていた。