芙美子、特派員への道|林芙美子 「放浪記」を創る(14)
だぶんやぶんこ
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母と沢井が家族に加わり、まもなく、近所に別居した頃、1933年9月。
芙美子は、共産党に資金提供した疑いで、逮捕され、耐えられない屈辱を味わう。
知人である共産党員に寄付の約束をしただけなのに、9日間拘留され、厳しい取り調べを受けた。
以後、芙美子は社会運動から、一線を引くと決める。
家族を抱え、働く身だ。
逮捕拘束となると、書けなくなる。それは嫌だ。
もともと芙美子には思想を重んじる意識はない。
まもなく沢井喜三郎(1887-1933)が亡くなり、かけがえのない家族を大切にしたい思いが一層強くなる。
1934年、芙美子31歳、夫と共に大好きな油絵を描き始める。
今までも時には一緒に描いたりしていたが、夫と共に描く喜びを初めて知った気がするほど、楽しく、幸せを感じる。
一人になった母、キクは、芙美子の家に戻ってきた。
最愛の人を亡くし、気落ちしている母へ、贈り物を考える。
叔父の戸籍に入れられていた芙美子の本籍を、母と住む下落合に分家して新しく本籍地とし、戸主、林芙美子とし、母の本籍も移す。
やっと戸籍上で、母子が揃った。
新しい戸籍謄本を見て芙美子は涙がにじんだが、母はうなづいただけだ。
どこまでわかっていたのかはわからない。
それでも、二人の名が並んだ戸籍を見て、うれしそうだった。
本籍地も移し新たな戸籍を作り、生活も落ち着き、夫に支えられ絵を描く幸せを満喫する。
共同生活者であり、芙美子の保護者でもある、夫、緑敏の存在は大きいと改めて思い、今を大切にしたい。
翌1935年、各地を廻る講演も増え、招待され講演のための旅であっても、現地取材が出来る。
豪華な旅の経験を積むことで、小説の素材が増えていく。
『放浪記』が映画化されて、作家以外の収入も増え、知名度も高まった。
芙美子の充実した日々が続き、自信溢れる作家となる。
9月「牡蠣」を出版、リアリズム小説家として流行作家の地位を固める。
今までは自伝を小説に仕立てて人気を得ていたが、初めて自伝を離れ客観的に組み立てた小説として発表した。
庶民の生き様を、主に女性の視点で、暖かくまた冷たく、包みこんだり突き放したりと、鋭く冷静に表した。
共感したり反発しながらも引き込まれてしまう芙美子の感性は活きているが、芙美子の生活とは違う世界を描いた。
『放浪記』から脱出できなかった芙美子がやっと新しい表現法を見つけ、読者に受け入れられたのだ。
芙美子は、初めて小説家になったと喜びをかみしめる。
あまりに嬉しくて、自費で、出版記念の会を開き、一流の文人を集めた。
私小説しか書けないとあざけ笑った小説家・評論家に、どうだとばかりに見せつけ、賑やかに楽しんだ。
1936年、満州・中国へ自費で一等での旅をする。
誰にも束縛されることなく、リアリズム小説家として、中国の現状を見ておきたかった。
1937年(昭和一二年)には、夫、緑敏が召喚される。
空気のような存在で側にいることを当然だと思っていた緑敏がいなくなり、戦時下にあることを思い知る。
たまらなく寂しい。
夫を戦死させたくないし、取り戻さなくてはならないと動き始める。
11月、緑敏は、看護兵(衛生兵)として「武漢作戦」に出兵した。
芙美子は、緑敏に逢いたくて、12月、毎日新聞特派員となり、南京・上海に行き従軍作家になる。
翌年早々、日本に戻る。
1938年(昭和一三年)国家総動員法が施行される。
9月、内閣情報部編成のペン部隊の一員として、中国に派遣され、漢口攻略軍に報道記者として従軍した。
中国との戦いが激化する中、揚子江を船で上り、兵隊とともに、漢口に行軍一番乗りする。
「戦場で死の恐怖危険に冒されながら戦う。兵隊さんありがとう」との文を書く。
兵隊たちの日常を丹念に描き上げた。
「南京大虐殺」が行われた直後だったが、その事実を、芙美子は知らなかった。
南京は、日本の占領下であり、日本政府は資本を入れ、日本以上にインフラ整備、教育の拡充がされていた。
安心していける場所であり、友好な関係に思えた。
大虐殺があるなんて信じられなかった。
芙美子の見た緊張感がありながらも、平穏な南京の町の状況を文章にし、伝えた。
帰国後は、各地で報告公演を行い、国のために戦う兵隊の生の姿を伝える。
聴衆は大きな拍手で、喜び受け入れた。
戦争により翻弄される庶民の生活を知っている芙美子だが、従軍作家として大きな収入を得る。
以後も、毎年のように、中国・朝鮮や訪れ、戦況を伝える。
緑敏は、有能なマネージャー兼秘書役だった。召喚され、いなくなり、仕事にも差し障りが出てくる。
今まで片時も離れず側に付き添っていた緑敏がいないことに、耐えられず、伝手をたどり除隊を願った。
それにプラスして、芙美子の軍への貢献度を認められ、1939年(昭和一四年)緑敏は除隊となる。
働きかけが功を奏し、ホッとする。
芙美子のかけがいのない伴侶、緑敏であり、いない家は、空虚だ。
改めて緑敏の存在の大きさを感じる。
感激の再会だった。
二度と離れないと抱きつく。
夫、緑敏は自宅に戻って間もなくの12月、以前から話が進んでいた下落合の土地を購入する。
芙美子も気に入っていたが、緑敏がいなくなり、何も進まず、止まっていた。
「今後何が起きるかわからない、家を建てよう建てられる」と緑敏は言い、芙美子はうなづき、購入となった。
自宅用地を得て、建築が始まり、ルンルンになって、1940年12月小林秀雄らと朝鮮へ講演旅行。
1941年5月、雑誌寄稿のため四国旅行に行く。
ここで、今までの苦労に感謝して、夫、緑敏と共に行くことを実現させる。
芙美子は、それほどの力を持つようになっていた。
緑敏はカメラマンとして同行し、二人仲良く何処にでも行くことが出来た。
「新婚旅行だね」と芙美子はいたずらっぽく笑う。
この間、自宅の建築は進み、8月、新居が完成し、引っ越し。
引っ越しは、夫、緑敏に任せ、書き続け、9月には、満州国国境各地を慰問旅行。
12月、文壇統制が厳しくなり「放浪記」などが発行禁止となった。
生活のために、国策に反する行為はできなくなったのだ。
国策に沿った特派員生活は、多くの収入となり、頼らざるを得ない。
それでも、国家権力の言いなりにはなりたくなく、どこかに芙美子らしさを出す文を書くために、人知れず努力する。
芙美子は、中国が好きだった。
国際都市ハルビンは、芙美子をパリに導いてくれた町だ。
満州には、日本の権益が拡大している頃から訪れ、広大な土地があり、進んだ文明があり、洗練された美しい町として、日本人が多く移り住んでいく様子を見続けている。
日本の資本で街づくりが進み、日本の庶民にも夢と力を与える地となり、その地の人々とも仲良く暮らしていた。
日本国は、占領地ではあるが、日本人と同じような学問を身に着けられるよう配慮した。
差別はあったが、中国人を日本人と同じになるよう扱ったのだ。
多少の軋轢は感じたが、南京大虐殺が起きるほどの緊張関係はなかったと思う。
日本以上に資金が注ぎ込まれ、インフラ整備が進み、住みやすい地となっていた。
そんな中国から得るものが多く、書きたい素材が多くあった。
特派員としての仕事を適当にすると、芙美子の構想する小説のための取材をした。優遇される特派員の役目に便乗して、芙美子の仕事もバッチリとしたのだ。
こうして、芙美子は、中国からいろんな多くの情報を得た。
作家として望む必要な取材を続け、それは芙美子の感性を豊かにした。
中国を舞台にした小説を書きたい思いが満ちてくる。
帝政ロシアによって作られた、国際都市ハルビンは、洗練された美しい町であり、バレーやオペラの文化もあふれており、日本人が多く移り住んだ。
そうした中に、日本が設立した国立大学、ハルビン学院があった。
杉原千畝も学んだ。
それだけではなく、対ソ工作の中心基地でもあった。
様々な国のスパイが暗躍する街だった。
芙美子は、この地で友となった人たちから、生きるためのしぶとさ・肝の太さ・けなげさをひしひしと感じ学んだ。
放浪の人、芙美子は、尾道から西欧・中国へ目を向け、目を凝らし、市井の人の心を見つめ、つかんでいく。
大好きな中国と戦うことは、納得できない事だった。
1942年4月、壷井栄と江田島海軍兵学校を見学し、帰途、尾道による。
尾道に降り立つとそれだけで、元気を得る。
尾道は故郷として芙美子を迎えてくれていると、何者にも代えがたいほど嬉しい。
7月、川端康成夫妻と京都旅行。
戦争下であっても、知人友人との一時を楽しむ。
川端康成夫妻と、言いたいことを言い合いながら仲良く旅行した。
こうして、優雅な流行作家の暮らしを続けるが、戦争下では心は晴れない。
それでも、それゆえ、報道特派員として、仏領インドシナやジャワ、ボルネオにまで足を伸ばし、8か月も滞在し、つぶさに戦時下の人々を見る。
この頃から、戦争の見たくない部分を見続けた。
関東大震災の悲惨な状況の中で生きた経験がある。
戦争の悲惨な状況に他の報道特派員は目を背けたが、芙美子は凝視し、どの現場へも率先して駆け付けた。
そして敵兵・味方兵を問わず、死傷者からの声なき声を聞き続けた。
1943年5月に帰国し、以後は、だんだんと戦争に対し口を閉ざしていく。
勝てない戦いではないか、戦争がもたらせたものは何なのか、疑問が出てくる。
この頃から、生きる意味を考え、戦争後を考え始める。
報道特派員として、生きることと死ぬことの境目のない世界を見た。
多くの死、戦争のもたらす悲劇を見、戦意高揚に結果的に大きく貢献したのだ。
こんな情況で、芙美子が書き遺すべきことは何かを思う。
それでも、日本に戻ると、書き続け、変わらず、流行作家として胸を張る。
だが、戦争とはいつ死んでもおかしくない状況になることだと見てしまった。
いつ死ぬかわからない、そんな事実が胸にずきんと来た。
芙美子には家族があり、家がある。何をどう残せばいいのだろう。