芙美子の死|林芙美子 「放浪記」を創る(20)
だぶんやぶんこ
約 7044
戦争が終わり、疎開から戻り、泰といつも一緒だった時は終わる。
猛烈に忙しい作家としての日々が始まった。
発行禁止もすべて解除され、続々と芙美子の単行本が出版されていく。
忙しいのは嫌いではなかった。
疎開中、ずっと思い続けていたことが、溢れ出し小説となる。
働き続けた戦前にも増して、猛烈に書き始める。
執筆依頼に応えて戦中戦後のあれこれを書きながらこれだけでは収まらない何かを感じる。
自分の心をきっちりと、映し出す必要があった。
そこで、1948年には我が家を離れ、熱海で芙美子の戦後と向き合う。
戦争社会に迎合し甘い果実を味わったが、庶民の目で真っ直ぐに現実を見て、素直な思いを書いてきたつもりだった。
だが、戦争は負け終わった。
今、綺麗事に書いてはいけない。戦争で踏みつけにされた庶民の現実を書かなければならない、書きたいとの思いで一杯となった。
声高に戦争平和を唱えることで終わらせてはならない。
平凡な幸せを求めながら、歯車がずれ、幾多の生きるための変遷を経ながら、出口のない暗闇でうごめく人たちの声が迫ってくる。
その声を真正面から受け止め書き綴ることが芙美子の戦争責任の取り方だとはっきりと分かる。
こうして、短編の傑作『晩菊』が綴られた。
芙美子は、社会に翻弄されながらも、たくましく・したたかに、生きる庶民の代表として、惨めな現実の中で、はいずり回りながらも負けることなく、青春時代を生きる人たちを書き続けていた。
だが、今は、違う。
戦争に加担した責任を負い、戦争で傷ついた人たちを、芙美子なりに、まっすぐに描き、反戦の思いを書き残していくことに命をかける。
今を一生懸命生きている人を、気負わず淡々と皮肉っぽく、また優しく描く。
戦後の芙美子は、一段と人間を、特に女人を、厳しく突き放しつつ暖かく描く。
一つの区切りをつけ我が家に戻り、ますます書きたい想いが増してくる。
戦争に関わった庶民の虚しさ、踊り踊らされて傷つき倒れていく人を描くのだ。
林芙美子の傑作『浮雲』を綴り始める。
泰も育ってきた。
朝ご飯だけは、母と夫そして泰との幸せな家庭生活の時とする。
お手伝いさんの「朝ご飯です」の声に応えて、どんなに遅く寝ても、食卓に着き、時には童話や小説の話しをしたり、読み聞かせたり、家族団らんを楽しむ。
至福の時だ。
朝食は定番で、サラダとコーヒ牛乳それにバターとイチゴジャムがたっぷり塗られたパンだった。
童話作家として、ゆったりと家族を第一に仕事が出来たらどんなにか楽しいだろうと思いながら食べる。
そして泰を近くの学習院小学部に入る。
泰をどのような事情で引き取ったか、実の両親が誰かを一切、誰にも言わないし、誰も聞かない。
ただひたすら愛情を込めて、泰を抱いた。
泰のために知的で裕福な家庭を築きたい。
夫や母のために十分な用意も必要だ。
夫、緑敏はもう十分働いた、蓄えもあるから安心するように言うが、不安でたまらない。
書き続けたいし、書かなければならないことが、湯水のようにわいてくる。
止まることはできない。
原稿依頼はことごとく、無理を承知で引き受けた。
仕事過多による疲労が溜まっていく。
夜10時ごろから執筆を始め、深夜の4時に就寝するのが日課となった。
それでも朝は7時に起床して、皆と朝ご飯を食べ、それからも、人と会い、作家としての生活をこなす。
そして、書くのだ。
普通の人でも持つはずがない暮らしだった。
その上、濃いコーヒーとタバコを愛する。
これだけは譲れない。
芙美子の健康によくなかった。
肺炎で一度、入院してしまった。
それでも、仕事は減らさなかった。
動悸が激しくなり、持病の心臓弁膜症で家の前の坂道も登れない状態となる。
このままでは死ぬと分っていながら、仕事を続ける。
死を目の前にしても、書き続けることが芙美子の希望だった。
誰にも止めようがない。
芙美子には戦後はなかった。
長くは生きないことがよくわかった。
そこで、意を決して、姪、福江を再び、鹿児島から呼びよせる。
母キク(-1989)の世話を頼む。
鹿児島市の三州バスで働いていた福江だったが、芙美子の求めに応じて、やって来た。
芙美子と緑敏と母キクと福江そして泰、家族が揃った。
福江に全てを委ねたいと心密かに思う。
芙美子は自分の生き様を振り返る。
女流作家の第一人者の地位を守るために、ライバルへの冷たい態度やあからさまに見下したような言い回しは、いつものことだった。
自己主張が激しく、認められないと、相手を激しく厳しく悪し様に言い放つ怖さがあった。
守りたい人と排除したい人がはっきりしていた。
人がどう言おうともこれが、芙美子であり、愛しい。
成功した作家への周囲の妬みもあり、芙美子の言葉が意図的に取り上げられ真意と違った意味に使われることが増えていた。
芙美子への暴言誹謗中傷は数多い、それぐらいでひるむ芙美子ではない。
自分の生きざまからそれも良しとの余裕もできてきた。
戦争責任を償い、戦争を否定するため書き続けることは容易ではない。
戦後生まれで、戦争を知らない世代の未来をどのように表現するか、思い悩む。
戦後の経済復興が軌道に乗り始めていた。
人々の生活は安定しつつあり、未来に希望を持つ人たちが増えていく。
乱世を生き抜く作家、芙美子は、この現実をどう表現すればいいのか、思い浮かばない。
芙美子は、財を成し、社会的に認められ、愛する家族に恵まれる、サクセスストーリーを実現した。
その芙美子が庶民の目でどう表現すれば読者に受け入れられるか、答えは出なかった。
放浪の作家、芙美子と幸せオ-ラが満ちている芙美子とは違っていく。
変幻自在に自分を演じてきた芙美子だったが、限界に来た。
泰の喜ぶ童話を書き、夫の絵を添え絵本作家としての芙美子の姿が目に浮かぶ。
だがそれは読者が求める流行作家、林芙美子ではない。
読者なしに芙美子は存在しない、いつも読者の期待に応える作家でいたいし、そうであるしか読者を得られない。
戦後の混沌とした中で、芙美子だけがこんなに幸せでいいのか。
考え続け、平和の世となった今、書き続けて答えを見出すしかないと書き続けた。
芙美子の戦後の活躍はめざましい。
出版ブームが起きており、次々に創刊される雑誌に書きまくった。
「中央公論」「婦人公論」「主婦の友」に4本の連載、合間に短編、随筆、紀行文を何本も書いている。
「めし」の連載はそんな多忙を極める中で始まった。
そして、1951年(昭和二六年)6月28日、心臓麻痺で急逝する。
「主婦の友」で新しく始める食べ歩き連載のため、銀座「いわしや」で取材を終え、帰宅後の夜、苦しみはじめ、そのまま亡くなった。
48歳の短い、あまりにも潔い生き方を貫き、最期を迎えた。
夫、緑敏も呆然と立ち尽くすしかなかった。
とても信じられない出来事だった。
肉体的に限界に近い執筆活動だとは思っていたが、いつも奇跡を起こす芙美子だ。
これぐらいで死ぬとは思っていなかった。
不死身の芙美子のはずだった。
どうかして仕事を減らすよう、できなかったかと悔みもしたが、この生き方を芙美子が望んだのだ。
直後に、遅れている原稿を取りにきた編集者がいた。
林家のただならない雰囲気にとまどいながらも、原稿を取りに来た旨を告げた。
すると、芙美子は亡くなったという返事だった。
いつも冗談を言って煙に巻いたり、見え透いた嘘を平気で言う芙美子だったから「まだ原稿ができていない口実でしょう。信じませんよ」と答えを返した。
すると、茶の間に安置されている芙美子の前に連れて行かれた。
本当だったのだ。
来る人来る人数多いが、皆信じられない顔でぽかんとして、衝撃を受けて帰った。
今をときめく流行作家の死が衝撃のニュースとして世に伝えられた。
絶筆が『めし』だった。
芙美子なりに作家としての戦争責任を取り、庶民派の作家であることの証明のように書き、死んだ。
葬儀委員長をした川端康成は「皆さんそれぞれ芙美子に対する思いがあるでしょうが、故人となった今すべてを忘れましょう」と言った。
文人仲間には激しく強く主張し、自己中心に生きた芙美子を知る川端康成は、冷静に芙美子を追悼したつもりだった。
実際は、芙美子と康成はとても親しい。
文芸界を率いる川端康成としてのユ-モアと負い目を表現しただけだった。
川端康成は、芙美子の人気がどれほどのものか知っていた。
康成以上に、人気があることを。
芙美子は人気者だったのだ。
一般の参列者は、道に溢れ身動きできないほどで、皆が驚く長蛇の列だった。
芙美子は、近所の人、読者の思いの代弁者であり、大衆の、庶民の味方だった。
庶民派を貫いた芙美子にふさわしい旅立ちだった。
夫、緑敏は、いつものように芙美子の死から葬儀がすべて済むまで、そっと側にたたずみ見守り続けた。
24年と長い年月を共に過ごした、伴侶だ。
最近は、芙美子を押さえ動かせるのは、緑敏だけだと言われていた。
芙美子を押さえる事は誰も出来ないことを、誰よりも緑敏がよく知っていたが。
芙美子を支えるマネージャーとして、忙しい日々を過ごすことに満足していた。
やりっぱなしの芙美子の後を、静かにきれいにしていくことに追われるのも面白かった。
芙美子に信頼され甘えられて、手のつけようがないやんちゃな芙美子を見守るのに、疲れる日々だったが、充実していた。
それが、突然終わった。
あまりに寂しく受け入れられなかった。
緑敏は、ある日突然、我が家に登場した泰のことでよく悩んだ。
なぜ養子が泰になったのかよく分からなかった。
南方戦線に行って帰ってからは、芙美子の機嫌が悪く、ゆっくり話し合うことはなかった。
芙美子は、家族に憧れて子が欲しい、そして緑敏に父として、籍を入れて欲しいと甘えてよく言うようになっていた。
ついに、泰を得て、父、緑敏・母、芙美子・子、泰として籍に収まった時、感極まって泣きじゃくった。
泰を可愛がり、緑敏に絵を頼み、一緒に絵本を作ろうと熱心に言う幸せそうな顔を見て緑敏も喜んだ。
これでよいと思っていた。
芙美子の葬式の後、身近に真実を知る人がいることがわかり、養子の経緯を詳しく聞き、芙美子から聞いていた話と一致し、氏素性もほぼはっきりし、芸術に関係ある父母の子だとはっきりした。
緑敏は、芙美子の思いが図りがたくて不安だったことを思うと笑ってしまった。
芙美子は、赤ん坊に関する手紙を、数多く残した。
出生の秘密をスキャンダル風に書いたり、芙美子自身の子であるかのように書いたり、全くの拾い子のように書いたり、と訳のわからないことばかりだ。
最後まで、旺盛な小説家魂に溢れ、ひとつの事柄に、いくつもの表現・解釈を加えて書き残し、題材にする。
緑敏は、天国の芙美子に「かなわないなあ」とつぶやく。
芙美子は多くの人を魅了し、愛された。
裏切られ失恋し捨てられたと言うけれど、芙美子にふさわしい恋人でありたいと願うが、叶わず、去っていっただけだ。
失恋したのは、相手だったのだ。
芙美子はいつも愛の勝利者だった。
緑敏に出会う前も、結婚してからも、パリでの華麗な恋愛遍歴も、その後の編集者との親しい関係でもいつも愛される人だった。
しかし芙美子が愛し続けたのは、緑敏だけだった。
芙美子の愛の呪縛にがんじがらめになっているのも緑敏だけだった。
芙美子が亡くなってもいつも緑敏の側にいて、しているのが分かる。
それが、福江だった。
芙美子によく似た容姿性格の福江を残していた。
23歳年下で、緑敏を尊敬する眼差しを崩さないところが違っていたが。
芙美子が福江を何故に緑敏のそばに残したのか、考えもしなかった。
だが亡くなってしまうと、監視なのか、芙美子の代わりに愛するようということなのか、思いを巡らすようになっていく。
すぐに、福江は、緑敏の優秀なマネ-ジャ-となる。
福江に支えられ、芙美子の後始末をしながら、次々出される本や映画権などなどの著作権収入を確保していく。
福江は、泰を育て、母、キクの世話をすることを第一としながら、緑敏に必要不可欠な人となっていく。
緑敏は、芙美子の遺作から生まれる収入で、裏山を次々購入し、故郷信濃に近く東京からも便利の良い蓼科高原に別荘を建て、銀座に画廊を開いた。
芙美子の残してくれた財産で生きていることを感謝し、芙美子の作家としての業績を分かりやすく残すことをライフワークとする。
幸せだった。
1954年、母、キクを、福江と共に看取り、福江との入籍を決める。
緑敏は芙美子の夫として、福江はキクの孫としての役目を終えたと思えたからだ。
新しい二人の門出とし福江が泰の母となり、家族となるのは、芙美子の願いだと思えるようになっていた。
ところが、泰は、次第に情緒不安定な難しい年となった。
どのように育てれば、芙美子の願いが叶うのか悩むようになり、泰の両親となることに不安が生じ、結婚は延期した。
1959年、泰を伴い、蓼科高原(長野県茅野市北山)の別荘に行き、のんびりと親子の時間を持った。
ところが、泰は、帰りの汽車のデッキで転んで頭部を強打し亡くなってしまう。
まだ学習院中等部1年の16歳だった。
これから未来が開かれるはずのかけがえのない子、芙美子の大切な宝をなくし、申し訳なく、緑敏は落ち込む。
それからまもなく1960年、「中林画廊」の近くに「フォルム画廊」を開いていた親しい福島繁太郎が亡くなった。
長くパリに滞在し、芙美子をパリの画廊に案内した一人だ。
美術評論家として、名を成した。
繁太郎が、芙美子から頼まれ購入し預かっていた絵が戻ってきた。
叫びの芸術家として後世に残るシャイム・スーティン(1893-1943)の絵「心を病む女(狂女)」だ。
物怖じしない上流の女性が描かれている。
大きく見開いて据わった目、引きつった顔面、緊張のゆるまない肩先や両腕、振り乱した髪などに異様な緊迫感があり、強烈な表現だ。
その描き方が、芙美子のお気に入りだった。
芙美子が亡くなり、泰も亡くなり、そして福島繁太郎も亡くなった。
1959年(昭和三四年)4月、西洋美術全般を展示する国立では初めての国立西洋美術館が出来て、展示品を募っていた。
そこで、緑敏が持っていても、芙美子の思いは生かせないと、泰の名で「心を病む女(狂女)」寄贈する。
こうして、芙美子の宝は、自らが書き残した作品だけになる。
緑敏は、これで良いと、スッキリとする。
芙美子がみんな見通していたような気がした。
自分のすべきことは、芙美子の存在そのものを、そのまま後世に伝えることだと決めた。
福江と共に、もう一度芙美子の足跡をたどり、整理していく。
芙美子の死後20年が過ぎ、全集の企画編集が始まり、編集者が緑敏を訪ねた。
膨大な資料は系統立てて整理され、完璧なまでに年譜が作られており、編集者は喜び、緑敏の力を思い知る。
ようやく区切りをつけたと福江に笑いかけ、ありがとうと頭を下げた。
名実ともに、緑便の伴侶は、芙美子から福江に変わっていた。
「芙美子が書いたスト-リ-を、ただ歩いているだけだ。叶わいなあ」とぼやきながら、ついに、1972年(昭和四七年)緑敏は、福江と結婚し、林家の籍に入籍する。
長く待たせた福江を労りながら、1989年、福江に看取られ安らかな表情で、芙美子の元に旅立つ。
「幸せだった。ありがとう。芙美子のマネ-ジャ-として生きた人生は充実していた。それが生きがいであり、幸せだった。あとは思うようにしてくれ」と福江に感謝し別れの言葉とする。
そして、緑便の痕跡に通じる絵など、すべて処分し、芙美子だけの家として後世に残して欲しいと遺言した。