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10 福沢桃介(1868-1938)とは|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 11820

(さだ)(やっこ)の二度目の伴侶、福沢桃介は福沢諭吉の娘婿として有名だ。

だが本人は「日本の電力王」と呼ばれた時が一番うれしそうだった。

1868年(明治元年)桃介は埼玉県吉見町で岩崎サダと婿、紀一との間の二男に生まれる。

桃介の実家、岩崎家は、戦国時代、武田勝頼に仕えた武士だが、武田氏の滅亡で、甲斐国から武蔵国に移って土着し、代々名主を務めた名家の分家。

父、紀一は、北足立郡原市町(上尾市)の名主、矢部家の生まれだ。

次男であり望まれて、母、サダの婿となる。

教養があり、書画を鑑賞し、漢詩をつくり、歌をよむ風流人だった。

母、サダが継いだ岩崎家の分家。

時は幕末、名主と言っても苦しく、分家に際して分け与えられたのは横見郡荒子村(埼玉県比企郡吉見町)に一反(三百坪)の農地だけだった。

しかも父、紀一には、農業は無理で、定職はなく、生活は困窮していく。

仕方なくサダは金物屋を開くが、間もなく行き詰る。

もっと賑やかで商売がうまくいく地に移るしかないと、桃介が幼少の頃、埼玉県川越市に一家で移住する。

紀一は、達筆だったため、その才を活かして、提灯屋を営む。

しかし収入は少なく、生活は苦しい。

子供たちに満足な学業を続けさせることはできなかった。

桃介は、はだしで学校に通った。

貧しさがつらく身に染みて「一億円の金持ちになるのだ」が口癖の上昇志向に取りつかれた少年に育つ。

貧乏に対して、極端に耐えがたい屈辱を感じる性格となった。

その後、本家の岩崎家は川越の八十五銀行の設立者の一人となった。

本家の引き立てで、紀一は八十五銀行の書記の仕事をするようになり一家の暮らしは少し落ち着く。

桃介は、幼少時から誰もが認める天才だった。

1883年(明治一六年)桃介のあまりの優秀さに「神童」とのうわさが広まり、周囲に学問で身を立てることを薦める人が現れる。

一家の生活の苦しさは皆が知るところであり、お金がかからずに学ぶ方法を探す。

そして、近くに住む慶応義塾教師、真野観我に、学費や学生生活が安く済む方法を教えてほしい、そのように便宜を図ってほしいと頼んだ。

真野観我が動き、本家の援助もあり、恵まれた条件で慶応義塾に入る。

しかしまもなく、本家の当主は新事業に手を出し、失敗し、没落してしまう。

それからは、父のわずかな送金を頼りに、厳しい学生生活を送らざるを得なかった。

桃介の兄弟は、男3人、女3人。

育太郎・桃介・れん・てる・紀博・すい。

兄弟姉妹は多く実家の経済の苦しさはよくわかっていた。

弟妹のためにも、実家を頼らないと決意。

そこで、自力で貧しい学生生活から抜け出ために、奨学金を得る。

これしかなかった。

1886年(明治一九年)容姿に自信のあった桃介は、慶応義塾の運動会に奇抜な格好で出場し注目を浴びるよう奮闘する。

奨学金を得て将来の展望が見いだすためには、福沢家の目に留まるのが一番の方法だと、考えた行動だった。

その目立つ格好を、福沢諭吉夫人とその娘、次女、房子が強い関心をもって見つめた。

諭吉夫人と次女房子が、桃介の素行や出身を調べると、成績優秀な素晴らしい学生であるとのお墨付きを得る。

房子は、桃介に一目惚れだった。

ぜひ親しく付き合い、結婚したいと言う。

桃介は、奨学金を望んだだけだったが、諭吉の家に招かれ、房子との付き合いが始まった。

こうして、桃介と房子の結婚を進めたいと、妻と子が諭吉に頼む。

諭吉にも異論のつけようがないほど優秀な桃介だった。

桃介は、房子の婿にと望まれた。

予想以上の成果であり、あまりの幸運に、心動く。

ここで、諭吉は、福沢家の婿として養子に迎えたいと条件を出した。

桃介は海外留学を希望する。

諭吉は承諾する。

桃介は房子と結婚することを承諾する。

この話がまとまった時、(さだ)(やっこ)と出会った。

桃介は、(さだ)(やっこ)と付き合い始めると、(さだ)(やっこ)に夢中になり、(さだ)(やっこ)との結婚を願うようになった。

福沢家の一員になるのではなく、自活したい思いも強くなっていた。

父のようにはなりたくないと思うようになった。

だが、将来の夢は留学して偉くなることだった。

出身は普通、成績は優秀だが慶應義塾卒業だけでは、将来の選択は限られている。

留学して、学び、成果を上げることでしか、豊かな暮らしは実現出来ない。

諭吉が、早く結婚するように迫る。

実家のためにも、自分のためにもそれしか道はないとの考えに戻り、房子を取る。

(さだ)(やっこ)をあきらめ、裏切ったのだ。

1887年(明治二〇年)桃介は、福沢家へ入籍する。

岩崎姓から福沢姓に変わるが、諭吉は桃介を疑うかのように福沢家の相続権は与えなかった。

桃介は、養子になる条件はアメリカ留学でありそれだけで十分で、気にしなかった。

帰国後、福沢諭吉の次女、房子と結婚する約束で、アメリカに留学する。

桃介の渡米に先立って、結納がとり交わされ披露宴には、岩崎家の本家当主、藤太郎も出席した。

この頃、藤太郎は本家を立て直し、一応名士の体裁は整えていた。

桃介の家からは、両親も兄弟も呼ばれなかった。

桃介は、馬鹿にされた、と屈辱でやるせなかった。

福沢家関係者から祝福を受け、多額の学費を援助するのだから、成果を上げるようきつく言われただけだった。

福沢家とは付き合いたくないと、心底思う。

桃介は諭吉の冷たい仕打ちを心に刻み、必ず見返すと冷めた決意で渡米する。

婿養子としてお披露目した以上、もう諭吉の息子だ。

離縁は難しいと、桃介は養子の立場を有効に使うと決めた。

これからは諭吉の息子として、屈辱をバネに飛躍を試みる。

思う存分好きに生きるのだ。

天下に轟く福沢諭吉の養子なのだ、思い通りになるとうなづく。

渡米後まもなく、父、紀一、川越町で、48歳で亡くなる。

続いて翌1888年(明治二一年)母サダ、川越町で、48歳で亡くなる。

両親とも留学中に亡くした。

両親の死を聞き、やむを得ない逃れられない死だったのだろうが、出来れば、桃介が出世し豊かな暮らしを味わわせてやりたかった、と残念だった。

アメリカに居り、日本に戻ることは出来ない。

余裕の金もなく、何もしないのが一番良いと無視した。

兄弟姉妹は、弔電もなく、便りもしてこない桃介に失望する。

諭吉が桃介の実家と親しい付き合いをしようとはしないし、それどころか、無視する態度を知って以来、桃介は、実家を隠すようにしていた。

諭吉の前や、諭吉と縁ある人の前では、一切、実家の話はしなかった。

だからと言って実家を低く扱われていいということではない。

実家を馬鹿にされると向きになって怒った。

父も精一杯仕送りしてくれた。

ただ、あまりに子が多すぎ、仕送りとは言えないほどのわずかな金額だけだったが。

子を持った以上それなりの責任を果たすべきだと、無責任な子作りをした父母を許せなかった。

それでも、両親の死を一人悼む。

両親には、桃介が誇りだった。

福沢家に婿養子で迎えられたことを、だれかれとなく自慢した。

桃介もその様子をよく知っている。

息子として周囲に得意がって語る楽しみを与えた、それだけで十分な孝行だと思う。

残された弟妹は、本家を頼るしかないが、本家にもそれほどの資力はなく苦労が待っていると思え、可愛そうだった。

子が成人するまで面倒を見るのが親だろうと、あまりに早い死が腹立たしくもなる。

両親が亡くなった時、長男の兄、育太郎は、一家を構えていた。

一番家計が苦しい時に成長し、小学校だけ終えると、丁稚奉公にでた。

だが、ここで踏ん張り、独立して、洋物商を営む。

弟妹の面倒をよく見た、よく出来た兄だった。

後には、川越商業会議所の副会頭を務め、川越の有力実業家の一人となる。

息子に洋画家の岩崎勝平がいる。

目立たないように、桃介が支援したことも影響している。

長女、おれんは、絵画を好み、15歳より修行し、20歳で滝和亭上野公園開催の内国勧業博覧会に入賞し、将来を期待された。

だが、父母の死から間もなく22歳で、若くして亡くなる。

次女、おてるは、出渕家に嫁ぎ、東京に住んだ。

三男、紀博は、学業を続けたかったが、父母の死であきらめ、独学の道を歩むと決め、書道と、易学を研究し、独自の自由な生涯を送る。

書道家として名が知れる。

3歳だった一番下の妹おすい(1885-1960)は、本家の祖母、キミに育てられた。

祖母が亡くなると、勉学の志高く学びたいと姉、おてるを頼り、神田三崎町の国語伝習所に通う。

ついで、女子美術学校(女子美術大学)に学び、卒業する。

この間、隣に住む現代日本のグラフィックデザインの基礎を築いた洋画家、杉浦非水と愛し合い結婚する。

歌人として生き、アララギ3歌人の一人となり「杉浦翠子」との名で「激情の歌人」と呼ばれる歌を詠った。

1933年(昭和八年)、アララギ派を批判脱会し、歌誌「短歌至上主義」を創刊、知性を重んじる歌を詠う。

桃介は両親を留学中に無くし葬儀にも立ち会わなかった。

両親が一番愛し誇った桃介の冷たい態度に、兄弟姉妹は強く非難した。

桃介は家族を見捨てたと、良い感情は持たない。

そのため、その後、家族とは疎遠で、家庭的には孤独の人となる。

桃介にゆとりが出来ると弟妹の役に立ちたかった。

だが、そのときには、皆それぞれ独立し独自の道を歩んでおり、桃介の支援はいらないと拒否した。

桃介は、帰国すれば、福沢諭吉の養子として、諭吉の意に沿うように生きなければならない。

とても嫌なことだが、逃れようがない自分で決めたことだ。

そこで、せめてアメリカ滞在中は自由にしようと留学中、福沢家からの送金で派手に遊んだ。

生まれて初めて、お金がある自由な時間を持つことができたのだ。

留学生活は、素晴らしかった。

追加の送金を頼んでは、ぜいたくな留学生生活を満喫した。

諭吉の指示など気にすることなく、興味を持った鉄道・電気など夢中になって学んだ。

諭吉は不満だった。

遊び呆けて多額の仕送りをねだり続け、娘婿の留学生活としてはあまりに不謹慎で、許せないと、早く帰るよう迫る。

もっと学び遊びたかったが、仕送りが立たれては日本へも帰れなくなる。

言われるままに引き上げる。

1889年(明治二二年)11月帰国。

約束通り12月、福沢諭吉の次女、房子と結婚。

結婚と同時に、諭吉が房子の生活のために北海道炭坑鉄道会社への就職を決める。

炭鉱と鉄道の払い下げを受け11月創立したばかりの会社だ。

21歳の若さで、留学帰りの桃介は、破格の待遇で入社する。

諭吉の娘婿として、特別の待遇を得たのだ。

前途は有望だと、桃介は、自尊心を満足させた。

翌年四月、北海道に向かう。

貞奴と出会って以来、桃介の心は貞奴への愛が強くなった。

その心を見抜いた諭吉は、桃介を好きになれない。

それでもその優秀さは、福沢家に必要だと、房子との結婚を推し進めた。

留学時の暮らしぶりは、怒りさえ持ったが、房子のために我慢した。

桃介は、そんな諭吉の敷いた路線の上を生きることになる。

屈辱も感じるが、職を見つける力もなく、受け入れざるを得なかった。

それでも、法外にも思えた収入を得て、暮らしは、驚くほど豊かになり、落ち着く。

恵まれた暮らし、幼い時からのあこがれだった。

このことは、正直嬉しかった。

だが、すぐに、諭吉の敷いた路線の上を生きるのは、おもしろくなく、満足できなくなる。

仕事が投げやりになる。

周囲も、諭吉の娘婿、桃介をどう扱うか戸惑った。

何も望まないし、何も言わなくなる。

ついに、桃介は、何も仕事をしなくなった。

やりたい仕事がなく、やる気がせず月給泥棒と呼ばれるほどに、ボーっとした勤めぶりとなる。

並の大卒の給料の三倍ほどの収入を得ながら働かないのだから、恨まれた。

諭吉は、その様子を聞き、1991年(二十四年)1月、東京支店へ転勤させた。

北海道炭坑鉄道会社、東京支店が、出来たからだ。

桃介の勤務内容が悪いのを許せず、諭吉が直接指導監督すると決めたのだ。

同時に、房子が妊娠し、つわりがひどく、知り合いの少ない北海道で生みたくないといったからでもある。

母、錦が房子の不安定な精神状態を心配し、東京に戻すよう頼んだ。

東京に戻ると、桃介は諭吉に叱られ、房子は福沢家に戻り母、錦らに見守られ長男を生む。

桃介は諭吉が何を言おうと気にしない。

「妻子から解放された。東京に戻れてよかった」と気分爽快だ。

房子は、桃介を愛したが、桃介は房子を愛せなかった。

嫌いではないが、伴侶としての魅力を感じることはなかった。

房子に福沢諭吉が重なり、福沢家の重圧を感じてしまう。

新婚の北海道での暮らしは、満たされていたが、どこかよそよそしかった。

桃介は、北海道で採掘される石炭を関西・東京・海外へ販売するための販路開拓を任せられた。

得意の分野だった。

開設したばかりの支店であり、誰も文句は言わず、思うようにできた。

売り上げを上げればいいのだ。簡単だった。

石炭の重要性、会社の価値は知り抜いている。

諭吉の婿の名は価値あり、どこに行っても熱心に話を聞く人がいた。

話がうまく、説得力もあり、思い通りに会社の業績を伸ばすことができた。

経営手腕を磨いていく。

1894年、日清戦争が起きると、世の中、戦争一辺倒となり国内輸送がまひする。

桃介は、この状況を見越して、いち早くノルウェイ船三隻をチャ-タ-して輸送手段を確保した。

輸送に問題を生じなかった。

その先見の明に、周囲は驚き、ますます業績を伸ばす。

その利益で、イギリス籍の貨物船を購入し、自前の輸送手段を持ち、より業績を伸ばそうと張り切った。

ところが、働きすぎで肺結核になり、入社六年弱で休職、そのまま、退社する。

北里柴三郎の養生園へ入院し、次いで、大磯海岸で療養の生活となる。

失意の療養生活に入ったが、蓄えたお金と十分な時間を得て、長年興味のあった株取引を勉強しつつ、始める。

 株を通じて、日本の未来を先取りする思考方法を巡らすのだ。

面白かった。

戦争景気と重なり、桃介の狙いは的中し、株取引は大成功で、財産を作る。

ここで、固く深く決意していた、福沢諭吉からの自立の第一歩が始まる。

念願だった独立事業化の道を歩み始める。

築いた資産を活かし、1898年(明治三一年)、王子製紙株式会社の株を買い占め、取締役に就任する。

その地位をうまく使って、利根川水力電気株式会社発起人総代に選任された。

ここから、自らの事業展開が始まる。

1899年、京橋三十間堀(東京都中央区)で丸三商会を創業した。

経営者となり、実業家として成功するのだ。

だが、実業家としては手持ち資金が少なく、諭吉の資金援助を受け創業した。

諭吉が桃介の実力を認めた証だと受けた。

また、諭吉の婿であることを活用しなくては、営業は成功せず、諭吉との協調を打ち出す必要があった。

1900年(明治三三年)順調に業績を伸ばし、さらに事業の拡大を狙った。

諭吉の資金援助から早く脱したいとからだ。

諭吉から、有形無形の圧力を感じ、自分の思い通りの会社とすべく、利益を焦った。

新しい大きい取引の契約を成立させた。

その時、桃介の強引な経営方針に反対した銀行側が融資を断った。

契約を履行できず、あっけなく、倒産する。

融資を断られた原因は、諭吉が桃介の経営方針に反対したからだった。

桃介は、諭吉の影に敗れたのだ。

大きな負債を負い、王子製紙株式会社取締役などすべての役職を辞任する。

すべてをなくしたことと、心労が重なり、肺結核が再発し京都で入院する。

創業し業績を上げ諭吉の呪縛から脱するはずだった。

そして、房子と離縁し一人で生きる道を描いていた。

ところが、全く反対になった。

自分の意志を通し、恐れていた貧乏の道が目の前となったのだ。

「もうダメだ」と悲嘆にくれた。

だが、桃介は、倒産し、一文無しとなっても、諭吉の婿だった。

諭吉が手配した手厚い看護を受け、小康状態にまで回復する。

やっと落ちつきを取り戻した1901年(明治三四年)福沢諭吉67歳が亡くなる。

桃介33歳、敵はいなくなった。

気分爽快で瞬く間に元気を取り戻す。

諭吉の後継となる長男、一太郎・次男、捨次郎は、桃介の実業の才に遠く及ばなかった。

普通のよく出来た御曹司だった。

比べて、桃介は誰の目にもずば抜けた経営の才があった。

もう福沢家で、桃介に注意する者はいない。

諭吉の重しが取れ、事業意欲に燃えた桃介は、本来の活動を開始する。

福沢家を脅威に感じなくなり、自由に経営の才を発揮する。

出会いから、あまりにも偉大な諭吉による束縛を感じ、反発的行動をしてしまった。

諭吉の干渉も強く激しかった。

まずは、すべてを忘れ、一から出直そうと、東京を離れたいと、北海道炭礪鉄道会社に再入社する。

前の失敗に懲りて、のんびりと、かつ真面目そうに働きながらも、公然と株取引を始める。

1906年10月、退職までの五年間で、またしても株取引で莫大な利益を上げる。

豊富な資金を手にして、退職する。

帝国肥料株式会社を資本金三百万円で、設立、代表取締役となる。

1907年1月、岩崎清七と資本金千万円で日清紡績株式会社(中央区)を発足させ初代専務取締役に就任した。

続いて、紡績工場近くに、東武銀行を創る。

カブトビールを買収。まもなく、持株を売却し撤退。

瀬戸鉱山株式会社を設立。岡山県にて銅山を経営。

北海道では北炭の元社長、堀基から農場を譲り受けて農場経営。

興味のあるあらゆる職種に手を広げ、それぞれの価値将来を学び、自らの生きる道を探っていく。

すべて単純な利益追求のみを目指した強引な手法での経営だった。

冷酷な豪腕実業家として評価され、確実に大きな資金を蓄えていく。

1906年11月、佐賀県で水力発電を計画する広滝水力電気株式会社が設立された。その時、大株主となった。

1908年、創業社長、三浦碧水の勧めで、豊橋市(愛知県)の電力会社豊橋電気の株を買い筆頭株主となる。

桃介には、もう一つの顔があった。

貞奴の名前が高名になると、密かに支援者になった。

長年想い続け、申し訳ない思いを持ち続けた貞奴のために何かしたかった。

貞奴の望むだろうことは何でもした。

それでも、諭吉の生存中は、密やかだった。

諭吉の死後、隠すことなく、(さだ)(やっこ)の後援者に名を連ねる。

さらに実業家として名を成した桃介は、堂々と貞奴を支援し、莫大なお金を捧げた。

そして、貞奴と顔を合わせる機会を増やしていく。

1909年3月、名古屋市の電力会社、名古屋電灯の買収に着手。

8月、福岡で福博電気軌道株式会社を設立、大株主となって自ら社長に就任した。

電気事業を確実に利益の見込める事業であると確信し、手当り次第株を買い占める。

そのためもあり、趣味の旅行も兼ねて全国各所に行き、電気事業の今後を探り、事業の展開を図る。

翌1910年(明治四三年)6月末、名古屋電灯の筆頭株主となる。

引き続き、島根県の浜田電気、千葉県の野田電気の株を買い占め、社長に就任。

四国・徳島県の四国水力電気(旧・讃岐電気)社長にも就いた。

長崎県佐世保市の佐世保電気の社長となる。

 それぞれ、社長となり、経営に直接携わり、電気事業を知り尽くす。

電気事業以外にもガス事業に目をつける。

19010年4月、日本瓦斯株式会社(資本金二百万円)が発足するとその社長に就任。

国内各地にて計画されつつあったガス事業を統括、経営することも目指す。

桃介は、利益追求の結果倒産した苦い経験もあり、公共的な事業を起こし、名誉ある実業家になりたいと様々な企画を考え、実行していた。

東京・大阪で試みたが、財閥が支配して新規参入の余地がなく挫折した。

そこで名古屋を中心とする実業界に目を付けた。

名古屋では、財閥の力は弱く、まだ多少は参入のチャンスありと判断した。

残るはここしかないと、覚悟を決めた。

名古屋電灯筆頭株主であることをてこに、名古屋での事業展開に重点を置く。

1912年(明治四五年)5月、第一一回衆議院議員総選挙に立候補して当選。

立憲政友会公認で、全く縁のない千葉県郡部から出馬した。

それでも、トップ当選し、知名度を高める。

貞奴に音二郎に負けない男であると見せつける為だった。

衆議院議員代議士になり小会派、政友倶楽部を組織する。

だが、政治家では志を成し遂げることはできないと、人脈作りだけで、一期でやめる。

 音次郎亡き後の貞奴に存在価値を見せることができ、充分、満足した。

1914年(大正三年)、満を持して名古屋電燈株式会社の社長に就任する。

筆頭株主だったが、直接経営し、名古屋に根をはやしたかった。

ようやく実現し、身も心も震えた。

ただの名義だけの乗っ取り屋では終わるつもりはなかった。

貞奴に相応しい名誉ある実業家になるのだ。

社長として名古屋を拠点に木曽川水系の電力開発に乗り出す。

桃介の待ち望んだ、公共的事業での成功の道筋が出来た。

続いて1918年、木曾電気興業株式会社を設立、社長となり木曽川や矢作川での電源開発に着手する。

親会社の名古屋電灯は、配電事業に特化し、桃介は両社の社長となった。

1921年、関西水力発電株式会社と合併し、1922年には東邦電力株式会社となる。

この間、桃介の勢いは止まらない。

思い通りに事業展開していく。

だが、旧勢力の財界人からは、新興の成り上がりだと、おそれられ、嫌われていく。

次第に、頭打ちになっていく。

敵ばかり作っては事業の遂行は難しいと悟る。

旧勢力と手を携える事業でなくては、ならない。

その時、(さだ)(やっこ)の協力が必要であり、なしでは、事業は遂行できないとはたと気づく。若いときから、貞奴を伴侶としたかったが、今、桃介が桃介らしく生きるために必要不可欠な人が貞奴なのだ。

そこで、苦肉の策を取り、必死の愛の告白となり、(さだ)(やっこ)の愛を得た。

 (さだ)(やっこ)を伴侶とし、勇気100倍力がみなぎる。

名古屋を拠点として、(さだ)(やっこ)と共に活動を始める。

名古屋の公共的事業で財閥となると的を絞り、他の地域の活動を止めていく。

愛知電気鉄道・電気製鋼所・名古屋セメントなど関連する会社を設立、社長となる。

こうして、1919年(大正八年)に賤母(しずも)発電所(はつでんしょ)を築いた。

賤母(しずも)発電所(はつでんしょ)は、1908年水利権を得ていたが、発電所建設には、お金がかかりすぎし、木材輸送、住民の理解など難問があり、そのままになっていた。

だが桃介は物ともせず、ふんだんに資金をバラマキ、智恵を振り絞り、完成させた。地域で必要とされる以上の発電が可能となった。

ここで関西方面への送電開始し、11月、大坂送電線株式会社を設立し社長となる。

次に、北陸地方を中心とする電源開発構想を持つ日本水力株式会社と大坂送電線株式会社と木曾電気興業株式会社の3社合併を成し遂げる。

北陸地方から関西への電力供給をするためだ。

1921年、合併により新会社、大同電力株式会社(戦時統合で関西電力となる)が設立され、社長となった。

桃介は、五大電力会社(東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力)の中で、東邦電力の社長を経て、大同電力の社長となり、押しも押されもしない経営手腕を持つ大実業家となった。

(さだ)(やっこ)の力を得て、桃介は天賦の才能を生かした。

天才的経営感覚の持ち主と高い評価を受ける。

1923年(大正一二年)の読書(よみかき)発電所竢工の頃が絶頂期だ。

1921年に着工し1924年12月完成までの間、幾度も洪水に見舞われた。

予想以上の大洪水が起き、仮設橋が倒壊し、工事が進まなくなった。

そこに、関東大震災(大正十二年九月)が起き、金融情勢が悪化。

建設資金の調達が困難になり、頭を抱える。

この絶体絶命の危機の時、身体を張って米国ジロン・リード社に外債発行を願い、民間企業として初めて外債を得た。

誰もがありえないと思う奇跡を起こし、資金不足を切り抜けたのだ。

こうして、日本初の本格的ダム式発電である大井発電所など木曽川に七か所の発電所を建設した。

この事業によって「日本の電力王」と呼ばれる。

日本近代産業の振興に大きな足跡を残した。

1926年(大正一五年)、事業が軌道に乗り出すと後進に道を譲り、東京に戻る。

そして帝国劇場株式会社取締役会長に就任する。

貞奴の恩に報いるはずだった。

 だが、貞奴とすれ違いの暮らしとなり、欲求不満が募る。

1928年(昭和三年)病気がちになって60歳で実業界を引退してしまう。

帝国劇場株式会社取締役会長も辞めた。

貞奴は、最大最高の伴侶の援護を失い、苦境に立たされる。

桃介は、貞奴にも引退して欲しかった。

そして、二人でゆっくりした老後を送り、看取られ亡くなりたかったが、貞奴は引退の気はなかった。

看病に時間を取られるのも困った。

それでも、5年間、桃介の世話と貞奴の児童劇団の経営に必死で取り組んだ。

だが、力尽き、1933年、桃介を妻のいる本宅に戻るよう促し、追い返す。

桃介は、妻のもとに戻り、5年後、1938年(昭和一二年)に渋谷の自宅で69歳の生涯を閉じた。

桃介は妻、房子に自分の生き様を語り、何度も、離婚を申し出ている。

妻は、自分で選び結婚した桃介であり想いは変わらないとはっきり言い続けた。

そのため、離婚に同意できないし、生き方も理解も出来ないと。

ただ、思い通り好きにすればいいとあきらめ、桃介の生き方に干渉しなかった。

貞奴の配慮で、桃介は房子のもとに戻り、妻に看取られ亡くなった。

房子は、桃介の妻としての役目を十分に果たし、自尊心を保つことが出来た。

桃介と房子の仲は戻ることはなく、桃介は静かな緊張の中で最晩年を過ごし、房子の厳しい目に耐え、死を迎える。

房子は、桃介の願いを拒否し、屈さなかったただ一人の人でもある。

桃介は、実業家であり、種をまくより実を結ばせ刈る人だった。

最後には実家の妹などとも交流し、一見、平穏な家庭生活を営む人となり逝った。 貞奴に看取られたかったが、叶わぬ夢となった。