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5 貞奴の夫川上音二郎(1864年―1911年)とは|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 14395

(さだ)(やっこ)が銅像に残さなくてはならないと走り回った、伴侶、川上音二郎。

愛し愛された最高の伴侶だった。

明治維新の四年前の1864年(元治一年)、福岡市博多区で父、川上専蔵と母、ヒサの長男に生まれる。

その後六人の弟妹が生まれ、七人兄弟の長男、跡取りとして育つ。

貞奴に身近なのが、音二郎の弟、磯次郎と妹の子、シゲ(1887-)・つる・澄子。

父の川上専蔵は、中対馬小路(博多区須崎町)で四国の藍玉を商う「紺屋」だった。

代々黒田藩の御用商人を務めた大きな藍問屋であり、音二郎の祖父・弥作は名字帯刀を許されたほどの名士だった。

父、専蔵は次男だったこともあり、本業を支えるとともに、船問屋・石炭の卸も営んだ。

遊芸好きで、歌舞伎役者を贔屓にし、散財する困った面もあった。

音二郎はそんな環境のなかで育った。

音二郎は、博多を去った後も川上(父の兄)本家と親しい関係を続ける。

後には、従兄弟の岩吉が、音二郎の会計を任されることになる。

(さだ)(やっこ)の実家と同じく、父、専蔵は、新政府への取引の移行に乗り遅れ、商売はジリ貧状態で、熱意をなくしていた。

母、ヒサは、そんな夫に見切りをつけ、音二郎に賭け、新政府との取引で、商売を盛り返そうとした。

まずは学問と、学ばせた。

学問好きの母、ヒサが溺愛しただけあり、音二郎は賢かった。

論語・孟子を学び、旧制福岡中学校に進学し、学問に励んだ。

ところが、母、ヒサは1877年、13歳の時、亡くなってしまった。

母が亡くなる頃、父母の仲はよくなかった。

母が亡くなると、母の愛情を独占していた音二郎は、父から疎まれていく。

多くの幼子が残され、育てる母親が必要だった。

父は、翌1878年(明治一一年)、再婚した。

継母は、音次郎の弟妹を育てていくが、あまりに濃密な母の愛を全身で受けていた音次郎とは合わない。

音次郎は、家族の中で浮いた存在になった。

ついに、継母と喧嘩して、家を飛び出した。

西南戦争が始まり、西郷隆盛が1877年9月、自死し終結してまもなくだった。

博多は、戦争のために軍備・軍人が集結し、賑わい、戦後は復興のための物資を運ぶ船でごった返していた。

その雑踏の中で、音二郎は、船に乗り込んで隠れた。

すると、大阪に向けて出航してしまう。

最初は、驚きどうすべきかおどおどしていた。

だが、船内で見つかり事の次第を問われると、天性の口八丁手八丁で相手を煙に巻くことができた。

ここから、落ち着き自信を得て、船問屋も営む藍問屋「紺屋」の跡取り息子の武者修行の話を始め、創り上げた。

船長は、感激し、激励し「がんばれ」と大阪まで乗客として扱ってくれた。

そして「ここからは、一人でやり抜くように」と大阪で降ろしてくれ、別れた。

急な展開で、大阪に来てしまった。

どうすべきか悩むが、ここまで来た以上、京都から東京に移った首都を見ておこうと飲まず食わずで、旅した。

東京にたどり着いた時、一銭もなかった。

餓死寸前の将来ある少年を見捨てるはずがないと、食べ物を得るために増上寺に駆け込んだ。

食事にありつけ、一息つくと、住み込んで手伝いをすることにした。

大手を振って東京市中を観察しつつ、お寺の下働きをする日々が始まる。

そのうち、福沢諭吉が、犬の散歩で増上寺門前を通ると知る。

「これは良いことを知った」と機会を待ち構えて、諭吉が通ると、向学の志の高いことを訴えた。

練りに練った口上に、諭吉は耳を傾けた。

そして、うなづいた。

「(慶応義塾)学校で働くように、講義を受けるように取り計らうから」と慶応義塾の用務員に採用し、聴講生となった。

だが、講義は音次郎の知識欲を満たすものではなかった。

諭吉の望むように、まじめに働くことも、勉強もすることもできなくなる。

育ちの良い学生に、武勇伝や博多・大阪の状況を話し、どう生きるべきか煽動するようになる。

説得力ある弁舌の修行にはなったが、諭吉は怒り慶応義塾の用務員はクビになった。

それからいろんな仕事に就く。

推してくれる人や、知り合いがいないと、うまくいかない現実の厳しさを知るだけだ。

東京では生きて行けず、将来の相談をすべきだと、博多に戻り父に会う。

「もうダメだ」とやけくそになっていた。

やりたくない仕事だが、家業を継ぐしかないと気持ちが固まってもいた。

しかし、店はひっそりしていた。

商売がうまくいっていないことが一目瞭然だった。

父は「何の援助もできない。ひとりで頑張ってくれ」というだけだった。

それでも、老舗の店であり知人は多い。

そこで、巡査の職を紹介してくれ、一時勤める。

治安を守るため必死の警察の状況を知る。

西南戦争の顛末を、関心を持って自分なりに学んだ音次郎だ。

政治への志があり、政治の世界に飛び込みたかった。

大阪・京都・東京を見てきた音二郎は、博多では満足できず、二度と戻らない決意で、関西へと船で戻る。

実家の現状を知り、勇気が湧いて、覚悟が生まれたのだ。

きっと功をなし、名を挙げて戻ると決意した。

大阪から京都へ行く。

首都が東京に移り、かっての重要性・にぎわいをなくし、新政府に反発する人が多くいた。

音次郎の価値観と共通するところがあり、ここに落ち着こうと思う。

働き口を見つけなければならない。

必要とされ、優遇されるのは、治安維持のために働く警官だった。

生き方とは違い、博多でも勤まらなかった警官だが「食うためにはやむを得ない」と募集に応募し、博多での経験を滔々と述べた。

実際は僅かの間だったが。

実家が身元を保証したおかげで、音二郎は、すぐに巡査になる。

政府を攻撃する人を弾圧する役目を担うことになった。

音二郎には、出来ない。

薩長の藩閥政府に対抗する反政府の自由党の主張をじっくりと聞き、学び、共感し、その主義に賛成した。

弾圧の立場を取りながら、自由民権運動を推していく。

まもなく、自由民権運動の壮士となり、自由民権運動を守ると立ち上がった。

弾圧する政府の番人から弾圧される側に変わった。

警官は、すぐにクビだ。

めげることなく、壮士として、熱弁を振るい、ちょっとした人気者になっていく。

1882年(明治一五年)「日本立憲政党新聞(大阪毎日新聞の前身)」が創刊された。

政府批判を繰り返す記事ばかり書き、すぐに発禁処分を受けてしまう。

編集長も辞め、新聞社は名ばかりとなった。

編集長を探し、体制を立て直そうとするが、編集長のなり手がなく困っていた。

そんな時、音二郎の名が挙がり、音次郎は名義貸しを頼まれる。

音二郎はまだ18歳だったが、お金がなく困っていた。

収入にもなり名ばかりで良いとの話に、すぐに乗り、編集長を引き受ける。

こうして、新聞の再発行が出来、音二郎は感謝された。

役に立ったといい気分だった。

それだけでは収まらないのが、音二郎。

「日本立憲政党新聞」を読み、共有するところもあるが、自分ならこう書きたい、書くべきだと思いがふつふつ湧いてくる。

名ばかりでは飽き足らず、1883年(明治一六年)から「自由童子」と号し、一人前の壮士になった気分で勇んで政府攻撃の記事を書き、編集長の職務を果たしていく。

その上、大阪を中心に政府攻撃の演説も行ない始める。

新聞発行も演説も許される範囲を大きく超え、度々検挙されることになった。

全く気にせず、書き続ける。

そんな音二郎を見込んで立憲帝政党が誘い、音次郎は、党員になる。

福地桜痴(ふくちおうち)らが、1882年、結成した政党だ。

天皇主権を政治要綱に掲げ、自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指した。

音次郎には、共感するところもあったが、相容れない部分も多く、離脱した。

次に、自由党に入党し、政談演説を行う。

自由党は、板垣退助らが設立した。

自由主義は尊皇主義と同じであることを掲げ、自由民権の意義を主張した。

藩閥政府による政治を批判し、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由や集会の自由の保障などの実現を掲げだ。

実現に向けて、自由民権運動が展開された。

だが、政府の方針と対立し、弾圧される。

自由民権運動への弾圧が激しさを増して行く中、音二郎が党員となり、政府攻撃の演説を行なった。すぐに、検挙される。

以後、釈放されては検挙の繰り返しで100回を超す逮捕釈放が続く。

すると、不死身の自由民権活動家、自由童子を名乗る音二郎の名は、広まり、人気が高まる。

1880年(明治一三年)、「政治ニ関スル事項ヲ講談論議スル為公衆ヲ集ムル者」を規制する、集会条例が出来た。

観物場(かんぶつじょう)(見世物小屋)、寄席、劇場のいずれでも、政治の論議が禁止となった。

次第に規制を強め、音二郎が、政治演説出来る場はなくなっていく。

音二郎は父の影響を受け、芸事も好きで寄席もよく行っている。

なにか演説できる策はないか思案する。

江戸時代から寄席では演劇は禁じられていた。

明治になっても東京では、1869年(明治二年)10月に寄席での「歌舞伎ニ同ジキ所作芸ヲ禁ズ」とされた。

1877年(明治一〇年)2月には「寄席取締規則」が制定され全国で「演劇類似の所作」が禁じられる。

カツラや大道具の使用もダメだった。

怪談『牡丹灯籠』で有名な三遊亭円朝は、やむなく、道具を捨て、扇子ひとつで所作をこなす素話(すばなし)に絞った。

近代の落語の源流だ。

10月「寄席取締規則」が改正された。

「安寧ヲ害シ、正邪ヲ誤リ、倫理ヲ乱リ、其他醜猥ノ所為」が禁止となる。

盛り上がっていた自由民権思想が該当し、寄席で話すこと禁じられた。

 そして、集会条例が出来て、観物場(かんぶつじょう)(見世物小屋)、寄席、劇場全て禁止となった。

ようやく、講談師なら政治演説が出来ると知る。

早速、1885年(明治一八年)、講談師の鑑札を取得。

講談とは、独特のしゃべり調子と小道具を使い、筋道のある内容を語る芸だ。

音次郎は、ニワカ芝居(関東では茶番劇)という検閲を受けない即興芝居を行う。

即興芝居を繰り返し、経験を積み、人気を得た。

ついに、1887年(明治二十年)から「改良演劇」と銘打ち一座を率い興行を始める。

自由民権運動弾圧が激しさを増し、反政府演説は出来ない状況だった。

そんな中、世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目落語家、桂藤兵衛の作)を寄席で歌った。          

だが、続かなかった。

音二郎は、何度も逮捕され政治活動を禁じられていた。

そのため「改良演劇」で規制の網を逃れ表現しようとしたが、監視は厳しく、政治活動と見られてしまった。

監視下では、観客も来ない。

やむなく、歌舞伎役者、中村駒之助(1872-1900)に弟子入りする。

芸人の世界に身を投じ、芸能をカクレミノにして政治批判をすると決めたのだ。

京都阪井座で中村座の一員として自作自演の政治芝居『東洋のロビンソン南洋嫁ケ島』を上演する。

これが音二郎の芸人としての初舞台だ。

大当たりだった。

音次郎の自作自演の芝居を面白いと応援してくれた中村駒之助。

だが、あくまで弟子だ。

真面目に修行せず、いつも舞台中央にいたがり、日の当たる場所を動かない音二郎に困ってしまう。

座員の手前もあり、辞めささざるを得なかった。

自信を得た音次郎は、気にすることなく次に、落語家の桂文之助に入門する。

すでに、芸人として通用する力を持っており、人気はあり、捕まらない範囲で、寄席で収入を得ることにしたのだ。

話す内容はつまらなくなり、不満だが、収益はあり、得たお金すべてを貧しい人々に分け与え、自己満足する。

我こそ自由民権運動の壮士だと胸を張った。

音二郎の名は広まる。

修行より主演が好きな音二郎は一人では面白くない。

仲間を集め、神戸の(えびす)座で『改良演劇西洋美談、斎武義士自由の旗揚』を上演する。

パントタイム的要素「身体を使ったおしゃべり」を取り入れた。

その表現は目新しく、大入りだ。

演劇での表現活動に自信を持つ。

収益のすべてを白米にかえ生活に苦しむ人々に分け与えた。

自由民権の壮士として生きることが目的であり、充実感があった。

音二郎は、演劇での思想表現の幅を広げていく。

もう少し面白く世の情勢を伝えたくなる。

ここで、1888年(明治二一年)の秋、世情を風刺した「オッペケペー節」を始めた。

「オッペケペー節」は、人情噺や演劇のあとに付け加えられて、観客をリラックスさせ、芝居や噺の印象を際立たせるための、いわばオマケ。

だが、拍手喝采で大入りとなる。

オマケの方が有名になり「オッペケペー節」を見に、観客が押し寄せる。

自由民権運動への弾圧の嵐が吹きまくる中、主義主張を貫くための苦肉の策が「オッペケペー節」だった。

ところが、主役となった。

『オッペケペー節』は、日清戦争時に最高潮を迎える。

壮士(そうし)芝居(しばい)(書生芝居)は、1888年(明治二一年)12月、()(どう)定憲(さだのり)が大阪で「大日本壮士改良演劇会」を始め、不平士族の窮状を訴えた芝居であり、新派ではこれを始めとした。

音次郎も壮士(そうし)芝居(しばい)(書生芝居)を始めた一人だ。

音二郎のヒット作に朝鮮の改革を図ろうとした大井憲太郎らの大阪事件に取材した『美人一滴の血涙』がある。

1889年(明治二二年)岡山市の常盤座で上演し、拍手喝采の大人気となった。

演劇の内容は即興で練れたものではないが、題名のつけ方、演じ方、観客の心をつかむのがうまかった。

一番驚いたのが、その事件の主人公、岡山在住の福田英子だ。

事件そのものも一部の人しか知らない事だった。

英子もその一部に関わっただけだ。

なのに、地元岡山での上演で、英子が事件以上に有名になった。

舞台の英子が本人以上に観客の胸に残り、ものすごい盛況なのだ。

音二郎は演劇が持つ影響力の大きさに満足する。

英子は見るべき内容ではないと怒った。

大阪事件の本質を曲解されてしまうと恐れた。

『オッペケペー節』では、自由民権思想の明快な文脈を持つ歌詞を使わない。

意味を不明瞭にし、雰囲気と、擬態語で、高らかに歌うのだ。

「権利幸福嫌ひな人に、自由湯をば飲ましたい、オツペケペーオツペケペツポーペツポーポー、固い上下の角取れて、マンテルズボンに人力車、意気な束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで、うはべの飾りは好いけれど、政治の思想が欠乏だ、天地の真理が分らない、心に自由の種を蒔け。オッペケペー」。

大人気者となった音二郎は1890年(明治二三)の夏に横浜に来た。

港の近く(中区伊勢佐木町)の寄席の丸竹亭に「滑稽新作落語 浮世亭」という看板を立てた。

すぐに人気ものになるはずだったが、まだ、知名度が低かった。

客入りは悪く、一座の給金や弁当屋さんへの支払いもできないほどになった。

関西から役者を呼び加え、書生芝居をするしかないと考えるが、資金がない。

音二郎は、伊藤痴遊(いとうちゆう)(1867-1938)を頼って横浜に来ており、苦しい事情を話した。

伊藤痴遊(いとうちゆう)は、横浜出身で、板垣退助(1837-1919)や犬養毅(1855-1932)を師とし、教えを受け、自由党に入った。

政府の演説禁止に対抗し、講談で主義を広めようと講釈師となり、政治講談を始めた。巧みな話術で絶大な支持を受け、国会議員となる。

 音次郎が師とし、東京で力を試したいと頼った。

同志、音次郎の苦境に「任せるように、大丈夫だ」と太鼓判を押し、救いの手を差し伸べた。

横浜蔦座の興行師を紹介し、上限二百円の約束で資金を借りる手配をした。

こうして8月24日、横浜蔦座で、一座を率い『松田道之名誉裁判』など演じる。

関東での壮士芝居の始まりだった。

痴遊もこの芝居の幕間に出て演説した。

座員十名余りズラリと並んで、音二郎は陣羽織に後鉢巻で、三味線や太鼓に合わせて、時局を風刺した歌を、面白く唄い、大受けに受けた。

オッペケペー節がさく裂し全開したのだ。

ここで、痴遊の幼なじみの吉永(よしなが)(よし)(のぶ)が、大口の寄付を申し出た。

吉永(よしなが)(よし)(のぶ)とは、政治信条・生き方まで共通点があり、気が合い、親友となる。

音二郎の芝居の脚本は『美人一滴の血涙』のように壮士芝居を始めた角藤定憲に倣って新聞の事件報道からとった。

政党運動の隆盛期であり、芝居は大入りが続く。

1891年(明治二四年)3月、吉永(よしなが)(よし)(のぶ)から資金を得た音二郎は、座長となり堺市の「卯の日座」で「改良演劇」一座を創り、書生芝居を旗揚げした。

興行は大成功。

自由民権運動の広告塔となった書生(しょせい)芝居(しばい)壮士(そうし)芝居(しばい))。

大評判となり、新派の骨格として成長する。

新演劇とは、歌舞伎を批判しながら見よう見まねで、素人が自己流で演じる演劇でもあった。

リアルな立廻りや現代をそのまま舞台にし、演じる演劇であり、観客にとって身近で面白かった。

発声・セリフ廻し・義太夫・囃などなど、旧劇である歌舞伎を真似て、うまく取り入れた。

新しもの好きの一般観客からは好評であったが、伝統芸としては技術が伴うものではなかった。

それでも各所で発生し、大流行となった。

同年11月、伊井蓉(いいよう)(ほう)(1871-1932)が「男女合同改良演劇」を行う(せい)美館(びかん)一座を起こした。浅草吾妻座が初演になる。

音二郎一座に参加し独立した、佐倉藩重臣だった漢学者・劇作家として高名な依田学(よだがっ)(かい)(1833-1909)の後援を得て、音二郎とは違う純粋に芸術至上主義を志向する新演劇運動を造っていく。

日本初の女優と言われる千歳米坡(ちとせべいは)(1855-1918)を見出したゆえにできたことだ。

千歳米坡(ちとせべいは)は、東京下谷の桜木町に生まれ、貞奴と同じ芳町の芸者だった。

新演劇への女優登場は米坡が最初で、新鮮で、大評判となる。

貞奴は、同じ地元から日本を代表する16歳年上の女優が生まれたことに勇気を得る。

音二郎の勢いは止まらない。

いよいよ東京に乗り込む。

東京の劇場は、実績のない音二郎を最初は拒否したが、次第に受け入れられ、多くの観客を集めていく。

1892年(明治二五年)7月には、山口定雄が浅草で一座を起こし、河合武雄や喜多村緑郎らの女形が育つ。

喜多村緑郎は、後に「新派の三頭目」とまで言われる写実派の名優となる。

音二郎と合わなかったが、後には貞奴と組む。

そんな時、音二郎の新演劇の人気が高いとの評判を聞かれた、皇后陛下が興味を持たれ御前で披露する。

ここで、音二郎の地位名声が一気に世間に広まる。

1895年には、市川団十郎が後ろ盾となり、念願の歌舞伎座で『威海衛陥落』を上演できた。

団十郎は弟子たちを率いて音二郎の芝居を見に来た。

音次郎は、市川団十郎を師と仰ぐ。

1896年(明治二九年)四月、九月、伊井蓉峰・川上一座を脱退した高田実・喜多村緑郎らが大阪で合流して成美団(せいびだん)を結成した。

以降、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰』、菊池幽芳の『己が罪』、泉鏡花の『滝の白糸』など新派の古典とされる演目を上演していく。

新派を目指す俳優が、着々と、力を付けていく。

 演劇の多様化、進化が大きな波となり、湧き上がった。

そんな時、音次郎と貞奴は知り合い、結ばれる。

音二郎は、貞奴とともに一座を率いて、1899年、アメリカ合衆国で興行を行う。

翌1900年には、ヨ-ロッパに渡り、パリ万博で公演。

続いてヨーロッパ各地でも公演し、大盛況だった。

そして「オッペケペー節」をレコードに録音。

これが日本人初のレコード吹き込みとなった。

このころの新派は、歌舞伎に比べ、知的レベルの高い観客に支えられている。

刺激的挑戦的な演劇活動を進め、離合集散を繰り返し、人気も質も高めていく。

新派も歌舞伎座で興行し、歌舞伎役者が新派の演目に出演するようになる。

1900年(明治三〇年)代初めから歌舞伎が「旧劇」「旧派」対する新演劇が「新派」と呼び分けられる。

 音二郎は、二度の海外公演を終え、1902年(明治三三年)、団十郎の住まう茅ヶ崎にけいこ場を兼ねた自宅を持つ。

帰国翌年から『意外』『又意外』『又又意外』を好評のうちに連続上演。

日清戦争が始まると戦地まで飛んでいって視察し、戦争劇を連続上演、そのリアルさに人気が集まる。

身体で感じ今見てきた、状況・時事をユーモアたっぷりに、皮肉っぽく上演する。

当意即妙さで、観客は沸き大盛況が続く。

音次郎は、翻訳劇を公演するが、より日本の観客が理解できるために、脚本家に翻案(ほんあん)を頼む事にする。

芝居の脚本は座付(ざつき)作者(さくしゃ)(専属作家)が座員に合わせて適当に作っていた。

小説を原作とすることはなかったが、音次郎は小説の翻訳であり、脚本家に任せた方が、よりリアルな演劇になると考えた。

シェイクスピアの『オセロ』の翻案(ほんあん)脚本を、硯友社の江見(えみ)(すい)(いん)に、破格の千円の脚本料を提示し、任せた。

音二郎が、尾崎紅葉との和解と広告を兼ねて企画したのだと、大きな話題となって、盛り上がった。

 音二郎と尾崎紅葉は、著作権をめぐり、犬猿の仲だった。

著作権は、出版の権利〈版権〉と演劇脚本や楽譜の〈興行権〉とに分れており、届出制だった。

出版する場合には「興行権所有」の五文字を印刷しないと、興行権の権利を主張できない。

 小説は、江戸期の仮名垣魯(かなかきろ)(あや)らの戯作文学から尾崎紅葉を中心とする硯友社や幸田露伴の紅露時代に変わっていた。

その尾崎紅葉が、弟子、泉鏡花の『義血侠血』(『読売新聞』連載)を1895年(明治二八年)出版するとき「興行権所有」の文字を印刷しなかった。

著作権があるのだから、十分だと考えた。

ところが、音二郎はこれに眼を着けた。

「興行権所有」の文字がないのだから誰でも興行してよいのだと解釈する。

紅葉に無断で『瀧の白糸』と改題して上演した。

紅葉(1868-1903)は激怒したが、音次郎は、「興行権所有」が入っていないからだと、知らん顔で新聞に謝罪広告を出しただけだった。

近代小説を脚本の原案に使い始めた最初の出来事だった。

後々、新派の演劇の質を高めることになり、音二郎の目の付け所は良かった。

本当は、音次郎も謝礼を払いたかったが、この頃余裕がなかった。

尾崎紅葉は(けん)友社(ゆうしゃ)の社則を作り、文学結社として届け出ていた。

山田美妙、石橋思案、丸岡九華と共に始め、やがて川上眉山、巌谷(いわや)小波(さざなみ)、江見水蔭が加わった。

紅葉の弟子、広津柳浪・泉鏡花・小栗風葉なども、成長し、文壇の大勢力だった。

明治憲法は結社(団体)の自由は認めたが「法律ノ範囲内ニ於テ」だった。

法律が憲法よりも優先された時代だった。

警察は時々政治論議が行われていないか確認に来た。

文学の愛好家グループでも数人が集まって懇談するなら、集会条例(明治二三年に集会及政社法に改訂)によって議題や出席者等の届出が必要だった。

届け出によっては、警察官も出席し、その状況に応じ中止命令やその他の遵守義務などを命じた。

 音二郎は、江見(えみ)(すい)(いん)を恩なる友人であり、力になりたいと思っていた。

江見水蔭(1869-1934)は岡山で生まれ、軍人を志して上京。

だが文学に惹かれ、知人、巌谷小波の紹介で1888年(明治二一年)、尾崎紅葉に会い硯友社に入る。

翌年には本格的に文筆活動に入り、代表作『女房殺し』や『泥水清水』を書く。

『女房殺し』は嫉妬の果てに妻を殺してしまうという筋で、〈悲惨小説〉と言われ大きな話題となった。

1892年(明治二五)には江水社を起こし、田山(たやま)花袋(かたい)らを弟子とする。

ところが、浪費癖があり、高收入なのに、生活が破綻。

借金を精算し、物価の安い田舎で暮らすしかなかった。

好きな海近くの藤沢の片瀬(神奈川県藤沢市)に来て、読売新聞記者となりしばらく暮らした。

それでも浪費癖は直らない。

生活に窮した。

1898年(明治三一年)、『神戸新聞』の記者となり、神戸に移り、劇評などを書いていた。

音二郎の演劇が好きで、好意的に劇評を書いた。

音二郎も、親近感を感じていた。

 音二郎が海外脱出を目指した船が神戸にたどり着く。

各紙に音二郎批判が載るなかで、冒険話が好きな水蔭だけは音二郎擁護の記事を書く。

音二郎は、好意的な書き方に、感謝した。

1900年(明治三三年)水蔭は、大出版社、博文館の編集者、巌谷小波がドイツ遊学に出立すると決まると、代わりに、編集者に推され、勇んで東京に復帰する。

自らも少年小説を書いて再び人気を得た。

少年達が片瀬から茅ヶ崎の烏帽子岩を船で探険する『姥島探険記』などだ。

そんな時、音二郎が嫉妬の果てに妻を殺してしまうシェイクスピアの『オセロ』の悲劇の脚本を水蔭に依頼したのだ。

翻訳ではなく、日本人に受け入れられるように舞台をベニスから東京の駿河台に移したりした翻案だったが、日本では「翻訳」初演となる。

一度目の海外公演から帰国後、上演するつもりだったが、出来なかった。

二度目のアメリカ公演から帰国した1903年(明治36年)、資金に余裕もあり、万全を期して、脚本を頼んだ。

そして、川上一座は正劇と銘打って『オセロ』『ヴェニスの商人』などを上演。

祈るような舞台だったが、脚本もよし、貞奴の熱演があり、興行的にも大成功だった。

こうして、翻訳劇は、日本の近代劇運動の先駆けとなる。

紅葉の『金色夜叉』を初めて舞台化したのも音二郎だ。

水蔭への破格の脚本料、紅葉の小説の舞台化による報酬などで、紅葉への謝罪の思いを込めた。

主演、貞奴の翻訳劇の成功で、中央での音二郎の名は不動となった。

そこで、地方公演に出る。

まずは、亡き父に誓った博多での凱旋公演を成し遂げる。

公演に先駆けて、家族思いの長男として、亡き父の法要を盛大に執り行う。

そばに寄り添う(さだ)(やっこ)は、輝いており、その美しさに見物人があふれる。

音二郎、故郷に錦を飾って得意絶頂の時だった。

1904年(明治三七年)から翌年にかけ、大阪から戻った高田実、喜多村緑郎らが本郷座を本拠に一座を組む。

ここで、川上一座・伊井一座・本郷一座が競い合いつつ合同公演もするようになる。

本郷座では、「少年小説の第一人者」と詠われる佐藤紅緑が1906年(明治三九年)から1914年(大正三年)まで、座付作者を勤めた。

新派は各地で生まれ、競い合い成長していく。

ここで、音次郎は、歌舞伎界のように、新派も大同団結すべきだと動き出す。

その象徴の劇場を「帝国座」とする。

演劇は文化の程度を示す大きな指標だ。

これからの演劇は、世界に通用する劇場、「帝国座」で上演しなければならないとの決意だった。

意気込んで、渾身の力を込めて、大阪市中央区北浜四丁目に洋風の劇場「帝国座」を建てた。

1910年(明治四三年)夢を実現したのもつかの間、1911年(明治四四年)11月11日亡くなる。

破天荒な生き方を貫き、「帝国座」で最期を迎えた。

47歳という短い生涯を劇的に終わらせた。

側には(さだ)(やっこ)がおり、大往生だった。

音二郎は亡くなる7ヶ月前、博多の櫛田神社に自宅だった土地・建物を寄進した。

博多の守り神であり、博多祇園山笠や博多おくんちなどにぎやかなお祭りが行われ、音次郎は大好きだった。

 その前、洋風劇場の「博多座」を建設した。

2階建てで、枡数は156、収容人員1000名の大劇場だ。

「博多座」は、盛況でその御礼を兼ねての寄進でもある。

死の直前、泉岳寺の四十七士の墓所の大改修を行なった。

死期が近いことを悟っていたかのように。

葬儀は大阪と博多とで貞奴によって執り行なわれた。

双方とも貞奴の面目躍如となる、記録破りの大掛かりな葬儀だった。

博多での葬儀は川上家菩提寺、浄土真宗本願寺派、万行寺で行なわれたが、臨済宗東福寺派、承天寺に埋葬された。

承天寺は、博多駅の近くにあり、出入りする役者を見守りたいとの音次郎の遺言に添った。

音次郎は、承天寺が好きだった。

この寺の僧が宋から技術を持ち帰り広めたのがうどん・そば・饅頭。

発祥の地とされる。

宋に行き、織物、麝香、素麺、金箔、朱の製法を持ち帰り、博多織を始めた満田弥三右衛門の墓所もある。

新進気鋭の向上心を持つ音二郎の好きな寺だった。

伝統的な万行寺とは合わなかった。

東京でも音二郎の世話になった多くの新派俳優や、劇団関係者達がそれぞれ葬儀を行い、冥福を祈った。

墓碑が泉岳寺内に建てられた。

「川上音二郎之碑」は、当初、首洗井戸の脇に置かれていたが、昭和三十年頃、この井戸のある玉垣の中に移される。

ボストン公演中に死亡した座員の為の招魂碑もある。

貞奴が願い、音二郎の銅像建立を了解していたが、結局実現できなかった申し訳なさがあり、大切に守る。

音二郎は墓所でもはっきりしているように、実家を重んじていない。

どちらかと言うと、伯父の家系、本家を重んじた。

父の法要した際、本家(父の兄)のいとこ、川上岩吉・つる夫妻を劇団の会計を任せる高待遇で迎えた。

貞奴も賛成した。

音次郎は、後継を弟、磯次郎(磯太)とするつもりだった。

だが、貞奴は、磯次郎が音二郎の後継が出来るとは考えなかった。

それほどの信頼を出来ず、才も認めなかった。

磯次郎は、1913年、博多で一座を作り独立した。

預かっていた音次郎の妹、カツの娘、3人姉妹がいた。

長女、シゲは1898年の国外脱出に伴ったが途中で戻り、実家に戻ってしまった。

アメリカ巡業で連れて行った次女、姪のつる子は、アメリカでの海外公演の途中、ロサンゼルス、パサデナに住む画家、青木瓢斎(本名・年雄、1853-1912) の養女に出した。

アメリカで人気スタ-となり、早川雪洲と結婚する。

手塩にかけて後継としたいと、女優に育てた末っ子の川上澄子だったが、貞奴の後継とはならず別の女優の道を歩んだ。

貞奴の後継にはなれないと去ったのだ。

 音次郎を引き継いだ貞奴は、川上家との縁を重んじたが、次第に疎遠になっていく。

 音二郎は、貞奴を愛し頼りにはしたが、誠実な夫ではなかった。

特に、結婚前後から「貞奴に負けない有名人になるんだ。伊藤博文に負けない文化人になるのだ」と、有名どころの芸者と浮名をせっせと流した。

看板芸者を呼び、どんちゃん騒ぎをするのが大好きだった。

貞奴が後ろにおり、持っている金を思うように使うことが出来たからだ。

音次郎に心があると想い付き合った芸者はいないが。

日本橋の小かね・新橋近江屋のとん子 新叶家の清香などなど、超有名な芸者と付き合った。

そして生まれたのが、雷吉と広三だ。

貞奴は、音次郎の派手な遊びに、呆れてしまうが、子が生まれなかった。

音次郎が「我が子だ」と言うと信じるしかない。

音次郎に子種があり、貞奴にない以上、子を引き取り育てるべきだった。

すぐに引き取った。

貞奴は忙しすぎて、直接は育てないが養家を選び、養育費の面倒を見た。

音二郎の想いも分からないではなかったからだ。

伊藤博文と重なる貞奴は、パトロンなら素晴らしいが、妻となると重く窮屈だったのが良く分かる。

お互い息抜きは必要と割り切った。

 次第に、貞奴の側に桃介が現れてくる。

多大な資金を出す後援者であり、音次郎は、受け入れざるを得ない。

ここから、貞奴に相応しい夫となるために、桃介と張り合わざるを得なくなる。

より高邁な理想を掲げ、自分の存在感を高めていくしかない。

非常に困難な道だったが、突き進み、ついに、息が止まった。

貞奴の愛を得るため、伊藤博文・福沢桃介を自分流に乗り越えようとした生涯だった。

貞奴に相応しい伴侶であったかどうかは確信持てないままだったが、伴侶として生き抜き満足の生涯だった。