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8 貞奴の児童劇団|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 7974

 (さだ)(やっこ)は木曽川の美しい風景に魅せられていた。

木曽川の流域、湖水と奇岩の景勝地として知られる「恵那峡」は、特に、思い出深かった。

木曽川を()き止めた大井ダムによって生まれた奇岩・絶壁が湖の両岸にそびえ、桜や紅葉が重なる景色に感動する。

三留(みど)()と名古屋を行き来する暮らしは充実していた。

ところが、桃介橋が完成してまもなく、1923年、桃介の事業は暗転する。

大井ダムは、当時の最新技術を駆使して造られていたが、難工事であり予想外の洪水の被害は度々だった。

一つ一つ克服して進めていたが、この年、大洪水が起き工事が止まってしまう。

大きな被害を受け、桃介と貞奴は茫然としながら惨状を見た。

続いて、関東大震災が襲った。

東京はしばらく首都機能を失うほどの大混乱となった。

すると、金融不安が起きた。

桃介は工事復旧の為に莫大な費用を必要としたが、運悪く、日本の金融機関はそれどころではなく、新規の資金援助を断わられる。

会社は資金難に陥った。

回復のめどが立たないダム工事最大の危機だ。

桃介は頭を抱える。

(さだ)(やっこ)は、名古屋と別荘で日々の宴会を続け、何事もなかったかのように、優雅にふるまう。

何とか資金が得られるよう「大井ダム建設が成功した暁にはお礼にかならずお不動様のお寺を建てる」と、必死でお不動様に祈り願をかける。

桃介には絶望的な困難な状況が続く。

日本の金融機関は、まだ混乱状態で、頼るのは外国の友しかないと、覚悟を決める。

貞奴が握手し話をして優秀さを見せつけ、立ち居振る舞いの優雅さに日本女性の神髄を見せられ、日本の文化の高さに打ちのめされて、驚き忘れられない印象を刻みつけた外国の友がいたのだ。

桃介は最後の策を取る。

貞奴に、これでだめなら死んでもいいと覚悟を話し、単身米国に飛び、降り立った。

精一杯日本の紳士としての身支度を整え、誇り高く日本の電力業の前途は揚々としており、投資の価値があると、資金援助を申し込む。

(さだ)(やっこ)が培った友は、(さだ)(やっこ)に日本を見て感服し、日本は高度な文化を持つ伸びる国だと認めていた。

日本では誰もが無理だと考えたダム建設だが、アメリカでは可能だと支持された。

こうして、アメリカでの外債の発行に成功し、資金を得た。

涙ながらに桃介は、(さだ)(やっこ)に「やり遂げた。貞さんのおかげだ」と言い手を握る。

皆が驚く中で、工事が続行された。

不死身の桃介の威光は輝き、1924年(大正一三年)大井ダムは、完成する。

桃介は、木曽川流域に7つの発電所を造ったが、水利権をめぐりもめた時期がある。

地元が権利を持ちたいと望んだからだ。

その交渉は、桃介側の金にまかせた切り崩しに遭い、敗北した。

小学校改築などの地元への貢献と引き換えに水利権はすべて桃介が経営する名古屋(でん)(とう)(大同電力)の手に渡る。

電気は、地元を通り越して関西へ送られる。

地元の人々は「ダムは、地元には何の利益も生まない」と桃介の強引さを非難した。

「山は御料林から国有林へ、川の水は電力会社が握り、住民は谷底にしか住めない」とまで言い嘆いた。

電気は地元の一般家庭には回らなかったが、家庭に電灯がない時代、地元はそれほど電気を必要としない。名古屋・関西の資源とし、その発展を担うのだとの決意は固かった。

こうして、ケタ違いの容量を誇る大井ダムを築き、記録的な出力を持つ発電所が完成し、その電力が名古屋で活用され、名古屋の経済は潤う。

製鉄業を興し、名古屋―豊橋に電車も走らせた。

インフラ整備に大きな効果もあり、名古屋市民の暮らしも豊かになっていく。

ダムと発電所群は、いまも現役で電気を作っている。

貞奴は、電気事業の存亡の危機を救うため、一身をなげうち働いた。

そのあおりで川上絹布株式会社の経営は立ち行かなくなり、1923年、手放すことになる。

関東大震災後の恐慌の波に襲われ資金繰りは悪化するも、金融支援は望めない状況だった。

高級絹の貿易不振、もともと採算度外視の会社だったこと等も重なり、先行きの見通しがなく、あきらめた。

出来れば続けたかった。

だが、桃介に余裕がなく、頼ることは出来ない。

「夢は実現したが、長くは続かない」と自分自身の経営能力のなさにため息だ。

それでも、画期的理念だけは受け継いで欲しいと譲渡先を探し、了解を得たうえで、しぶしぶ、会社を譲り渡した。

桃介に「あなたのために働き続けた結果、会社を手放したのです。今を乗り切ったら、次は私のために働いて下さい」ときつく頼んだ。

ダム建設が順調に進み始め、桃介はうなずく。

貞奴は桃介のパートナーだけでは終わりたくなかった。

いつも自分の考えがあり、本来の貞奴として生きることを始める。

貞奴は女優であったときが一番輝いていた。

新派の演劇に命を捧げたいと、原点に戻る。

貞奴が始めた女優の養成は、実を結んでいる。

「お伽芝居」を演じていた時が、一番女優であることの幸せを感じたと、あの感覚が蘇り、心が震える。

そこで、付き合いの続いていた、児童文学作家、久留島武彦と話し合う。

全幅の信頼を寄せる子供の心が読める優秀な児童文学の担い手だ。

そして1924年(大正一三年)9月、武彦の協力を得て川上児童楽劇園を設立する。

まず、東京青山に仮事務所を置き、東京二子多摩川に土地を購入し、建物を建て、劇団本拠地とする。

新しい夢が、具体的に実現し、貞奴に穏やかな笑顔が生まれる。

二葉御殿で50人以上の使用人を使う時は厳しく、近寄りがたい(さだ)(やっこ)だった。

要人を迎えると、相手に合わせ七変化し、予期できないほどの変わりぶりとなる。

その貞奴が、まったく変わり、いつも、とても可愛くなった。

児童劇団の構想を練るだけで、子供たちの輝く目が見え手ごたえを感じるのだ。

そして、子供たちの演劇への関心を高めたい、関心を持つ子の期待に応えたいとの思いが、ふつふつ沸き上がる。

童話劇の上演を続けたくても、演じる子たちがいなかった。

あの時から演劇には女優も子役も必要であり、そうでなければ演劇は成り立たないと、子役の育成を考え続けていた。

子供と手をつなぎ、手を取り合って、演劇の道を歩むのだ。

海外視察して、アメリカ西欧の状況を学びたかったが、時を失い、そのような状況ではなくなった。

それでも、信頼できる協力者を得て、教師の陣容も揃い、踏み出すことができた。

子役としての技能を教えることはもちろんだが、童話の読み聞かせ、童謡にも力を入れ、心の表現力を磨き、芸術性の高い児童劇団を作るのだと張り切った。

ここで、劇団員の募集を始める。

まずは、知人の子たちばかりだが、名古屋で面接した6人の子と千葉から来た2人の8人を選んだ。

月謝・寄宿日・楽器・教材その他一切、支給。

ただ、本拠の完成は間に合わず、青山の借り家での出発だった。

翌1925年、二子多摩川に新築中だった川上児童楽劇団が完成する。

桃林に囲まれた三階建てドーム形の建物。

園章は桃、バッジも桃だ。

貞奴の力で建てたのだが、桃介の支援なくしては、運営は難しく、また、桃介に縁ある名としたかった。

ここで園生徒は30人。まもなく40人になり、生徒募集は終わる。

一階にピアノとオルガンや黒板のある大レッスン場。

個人レッスン室・食堂・電話室など。

二階には八畳間に三畳の控室のある園長室と監督室、女子生徒の寄宿室。3階に男子生徒の部屋。

教員宿舎は別棟とした。

「皆、(貞奴の)子供よ」ととても可愛がった。

この間、貞奴は、名古屋と東京を往復する忙しい日々を過ごすことになった。

二子多摩川の本拠が出来ると、園長室で過ごすことが増える。

日本舞踊指導は、亡き兄、小山倉吉の妻、中村忠吉。

妻を亡くした兄と結婚したが結婚後、5年で兄は亡くなり、講師として招いた。

音楽指導は、東京音楽学校(東京芸術大学)本科器楽部出身のバイオリニスト、高階哲夫(1896-1945)。

東京音楽学校卒の作曲家・指揮者、山田耕作(1886-1965)。

ダンス指導は、高田雅夫。

脚本・舞台指導は、生田葵山。

吹奏楽指導は、久松鉱太郎。

舎監に宮田貞一。舞台装置に岡本帰一。

一流の教授陣を揃えた。

高い理想をもって子供たちへの文化の伝授・子役の育成に取り組む。

 厳しく教え、皆それぞれ成長した。

いよいよ、発表の機会を考える。

第一回公演は、1925年12月、名古屋御園座。

世話になった名古屋の人たちへの恩返しでもある。

成功した。

桃介は、福沢家と離れていたかった。

そのため、名古屋を本拠とし、貞奴とともに亡くなるまで共に暮らすはずだった。

だが、貞奴に全面的に協力することを約したため、東京での二人の住まいとして、東京永田町2丁目に「桃水荘」を建てた。

家が出来た1926年(大正一五年)二葉御殿から移り住む。

同時に(さだ)(やっこ)の児童劇団の後援者となる為、帝国劇場株式会社取締役会長に就任する。

愛する貞奴のために生き、帝国劇場をうまく活用するはずだった。

児童劇団の本拠も出来、二人の住まいも出来上がり、本格的に児童劇団の公演が始まる。

1926年1月、桃介の力を借り帝国劇場で上演する。

子供たちは興奮し、素晴らしい舞台となる。

1927年には、御園座・帝国劇場に加えて、地方巡業の旅に出る。

好評だった。

 だが、桃介は、体調がすぐれず桃水荘に籠りがちで、貞奴に側にいて欲しいと願う。

貞奴にはその気はなく、お手伝いさん任せにし、二子多摩川の養成所に住まいすることが増えていく。

公演の機会が増え、陣頭指揮をとらないと、思うような演劇ができないからだ。

貞奴は、川上児童楽劇団とかって道をつけた養成所から育った女優達と共に、新劇の上演を続けたかった。

教え子の女優と子供たちとともに、音二郎と目指した演劇を復活させたいとの思いがあった。

そんな時、桃介は(さだ)(やっこ)の為に自前の劇場・劇団を持つように提案する。

すべて貞奴の資金で運営している現状ではいつまでも、続かない。

将来も安定的に川上児童楽劇団を運営するためには利益を生み出す劇場が必要だと。

桃介は、あまりに劇団に入れ込む貞奴を自分の方に向けさせたかったのだ。

貞奴も劇場を持ちたかった。

川上児童楽劇団の将来のために、桃介を見守るために、赤坂溜池七番地の演技座を買収する。

桃介は、(さだ)(やっこ)が自前の劇場を持ち、安定した公演場所とし、収入も得て、直接の経営からは一歩引き、側に居ることを望んだ。

地方公演にも行って欲しくなかった。

だが、(さだ)(やっこ)には、まだまだ夢があった。

男の夢は燃え上がるだけだが、女の夢は小さな火でもずっと燃え続ける。

貞奴は、今まで抑えていた分、強く激しく、児童演劇の向上と発展の為に働きたい。

そして、地方にも広げたかった。

桃介は翌1928年、実業界を引退し、貞奴と共に、しばらくは桃山荘で、いずれは二葉御殿でゆっくりと悠々自適の暮らしに入りたいと話す。

東京に戻って以来、すべての事業意欲を燃焼させてしまったかのように、病気がちになって、貞奴に甘えたがる。

貞奴には、まだまだ、演劇にかける夢があった。

そのための後押しが必要で、桃介には引退してほしくなかった。

桃介の存在が必要だった。

「勝手に引退しないで。私のためにすることがあるはず」と迫ったが、だめだった。

東京で住むことは、福沢家と真正面からぶつかることで、桃介は避けたかった。

福沢家とは関わりたくなかった。

やむなく、(さだ)(やっこ)は、桃介の支えなしに、一人で演劇という表現の場を子供たちに提供し、出演する子役の育成を続ける。

だが、二子多摩川の劇団で、陣頭指揮をとりつつ、桃介の看護もするのは大変だった。

桃介は貞奴がそばにいることを強く望むからだ。

次第に、子たちの教育がおろそかになる。

また桃介が引退すると今まで便宜を図ってくれた帝国劇場での公演にも支障が出てくる。

経営の安定のために、演技座を児童劇団の劇場とすべく手はずを整えていた。

自前の劇場として、活かしたい。

資金は、喜んで桃介が出すし、貞奴の経営が安定するはずだった。

だが、久留島武彦は反対した。

児童劇団としての本格化を図る貞奴と、情操教育に終始する武彦との意見の相違があり進まない。

桃介、(さだ)(やっこ)の私物化された営利劇場となるのは許さないと、久留島武彦は反対した。

ここで、久留島武彦は、劇団を去った。

桃介にも児童劇団にも有益な劇場となるはずだったが、劇団を支えた久留島武彦が去ってしまい、劇場の開演はあきらめる。

それでも、私財をすべて投じても、児童劇団を存続させ、多くの子供たちを育てるつもりだった。

安定して公演を続けることが出来る自前の劇場がないと、東京での色々の劇場での公演と地方巡業をせざるを得なくなる。

翌1929年には地方巡業し、満州・旅順の海外公演も続けた。

すると、桃介の側にいる時間が減っていく。

桃介の思いを無視するしか、劇団を守れない。

一番確実に利益の出る公演が、帝国劇場だった。

だが、桃介が経営から手を引くと、帝国劇場は、1930年、松竹に経営が変わり、翌年11月から映画上映館となる。

1940年には東宝に引き継がれる。

児童劇団の上演はなくなった。

 貞奴が将来への展望をなくす、大きな出来事だった。

桃介は(さだ)(やっこ)がそばにいないと機嫌が悪い。

(さだ)(やっこ)も愛する桃介であり、生涯を共にすると誓った人であり、できうる範囲で精一杯面倒を見る。

すると公演回数を減らさざるを得なくなる。

しかも、次第に桃介の容態が悪くなり、ますます手を取られ、二子多摩川へ毎日のように行くのは難しくなる。

(さだ)(やっこ)がいない、資金も潤沢でない劇団では、層の厚かった指導陣も離れ、子たちも集まらなくなる。

成田さん不動尊、お不動さまのご加護を祈ることも増える。

そんな時、1931年、廃寺の話を聞く。

劇団の立て直しをあきらめかけて、もうどうなってもいいという心境だった。

だが、桃介の看護にのみ生きるのは、貞奴の息が詰まる。

命尽きるまで、新劇の為に、優秀な女優・子役を育てるために尽くしたいとの思いを消すことは出来ない。

まだまだやれると思し、やり遂げたい。

悩む日が続くが、ついに、生涯添い遂げようと考えた桃介だが、別れを告げるしかないと決意した。

(さだ)(やっこ)は桃介に妻と子が待つ自宅に戻り療養するように促した。

桃介のさびしそうな顔がつらかった。

だが、桃介の「危篤」との電報で公演を途中で止めたのだ。

桃介流の賭けだったが、貞奴は、舞台に穴をあけた責任をとり、女優を辞めた。

そして桃介のパ-トナ-になり尽くした。

もう十分だ。

「寿命が尽きる」と悲壮な顔をする桃介の為には生きられないと覚悟を決めた。

桃介は、これからは(さだ)(やっこ)の為に生きると話したが、自前の劇場づくりも、再度の渡欧で新しい子役育成や、年老いてもできる女優の在り方など学ぶことも、実現ができなかった。

桃介が意欲を持って取り組まないゆえでもある。

(さだ)(やっこ)には、桃介の考える貞奴を幸せにするという大義を理解できない。

愛すれば、死を迎えるまで貞奴に尽くしたいと思うはずが、そうではなかった。

1932年(昭和七年)、戦争の足音が聞こえる中で、満州国が建国された。

東京宝塚劇場が設立。

そんな中、桃介からそろそろ身を引く潮時と、桃介を実家に戻した。

思うがままに強引に生きてきた桃介には厳しいお仕置きだった。

(さだ)(やっこ)は全身全霊を込めて、児童劇団の再生に賭けた。

だが、桃介に別れを告げて、数か月後、児童劇団も行き詰った。

まだあきらめたくなかったが、どうにもならない。

優秀な教師が去り、教師の入れ替わりが激しく指導力が低下した。

演技座建築のための資金に不明朗な経理が行われているとの指摘があった。

これらの厳しい評価を真面目に受け止めての解決策を打ち出せなかった。

「もうだめだ」と児童劇団を解散することを決めた

貞奴61歳、児童劇団は8年で終わった。

(さだ)(やっこ)は、また笑う。

再生を誓って桃介と別れたのに、桃介も児童劇団も失ってしまったのだから。

空回りしている自分が何なのか、馬鹿らしく情けない。

演劇の人となり、音二郎とともに生きた人生。

すべてを新しい演劇に賭けて生きた。

桃介は実業界の人だった。

失敗は許されない、慎重に確実な道を行く人だった。

自分を信じて賭ける大胆さも、ときにはあるが。

 人生の共通項を感じるのは、やはり、音次郎だ。

貞奴や音二郎は貧乏には育ってはいない。

窮地に陥り食べるためのお金さえなくなっても、どうにかなると強気で言えた。

桃介は、貧乏に育った。

お金がないということは存在が否定されることに通じると考える人だった。

感じ方の違いにすぎないが、桃介と貞奴は明らかに違っていた。

貞奴は、天性の感性を信じてすべてをなげうちパートナーとともに夢にかけた。

桃介は、努力の人で確実な勝算のもと夢にかける人だった。

貞奴が好きでも、演劇に情熱は持てなかった。

 (さだ)(やっこ)は、自分勝手に(さだ)(やっこ)の思いを踏みにじったと、晩年を共に過ごすはずの桃介に見切りをつけた。

そして、福沢家の妻、房子のお仕置きを受けさせた。

実業では思い通りに生き成功した桃介だったが、最後は(さだ)(やっこ)に見捨てられた。

それは、(さだ)(やっこ)の演劇に賭ける思いを断つことに繋がったが「仕方がないよ」と笑う。