芙美子の文学の友、友谷静栄・壺井栄・平林たい子・松下文子・尾崎翠・長谷川時雨・吉屋信子|林芙美子 「放浪記」を創る(10)
だぶんやぶんこ
約 27212
芙美子が親しくした友は多い。
一方的に、友人となった友も多いが。
かって近所に住んだ友。
また父の店で働いていた同年代の子。
尾道の女学校の友などなどだ。
東京での友、作家仲間は、ライバルばかりで真の友人とはなり得なかった。
それでも、東京の友なくしては、芙美子の作家人生はあり得ない。
芙美子は、まず作家として世に出なければ何も始まらないと確信していた。
だが、目の前の現実が厳しすぎ、なりふり構わず生きるしかなかった。
そのために男も女も踏み台にせざるを得なかった。
文学仲間を踏み台にし、世に出る芙美子だった。
それでも、どのような状況下でも必ず光はあると信じており、人間愛をにじませている。
うがった見方であり、わかりにくいが。
人を愛し、共に生きるのが、芙美子の心情だが、理解されることは少なかった。
まず、同人詩誌『二人』を共に創刊した詩人、友谷静栄(1898-1991)。
静栄の資金をあてにして、芙美子が詩集の発刊を持ち掛けたのだ。
詩人として売り出したい思いが強かった友谷静栄も、芙美子の話に乗った。
資金は当然、等分に負担すると思っていたが、かなりの部分、静栄が出した。
芙美子には、資金のあてはまったくなく、負担すべき資金の一部を、神戸雄一に頼み、出してもらった。
友谷静栄は1898年、大阪に生まれ、家族と共に朝鮮に渡り、京城(ソウル)の女学校を卒業。
日本に戻り、文学を志し上京。
飛び切りの美人だったこともあり文壇は大歓迎。
田村俊子の内弟子となり、田村の夫の田村松魚の紹介で演出家・俳優・映画監督の畑中蓼波(1877-1959)と結婚するが失敗。
俳優の田辺若男(劇団市民座)の世話で、下宿屋、喜久世館に一人、暮らした。
このころから芙美子と顔見知りになる、
まもなく、静栄は東洋大生、岡本潤と同棲した。
その紹介で芙美子は東洋大学生、神戸雄一と付き合い始める。
静栄の資金と、神戸の支援を受け、『二人』が創刊出来た。
『二人』が出来ると、すぐに、芙美子は営業を開始し手ごたえを感じる。
作家としての道を踏み出すきっかけとなった詩集発刊だ。
静栄は、芙美子とすべてを分け合い共に詩人として伸びようとした。
だが、神戸雄一と静栄の資金で創る詩集でしかなかった。
そかも、静栄にとって自活への効果はなく、利用された思いを持つ。
芙美子とは違い、バイオリン・洋画も得意な才女でもある静栄は、モテモテで岡本潤(1901-1978)から小野十三郎(1903-1996)ら幾人かと付き合う。
芙美子と静栄が並ぶと、相手の視線が静栄に向くのが明らかだった。
芙美子は、気に居らない。
誰も芙美子を見てくれないとふてくされ、次第に避けるようになる。
静栄は、モテモテの時を経て、1934年、慶応大学出身の英文学者であり、後、教授となる上田保(1906-1973)と結婚する。
芙美子の強烈な個性を見て、詩人としての稼ぎ、成功を目指すより、家庭人となり、趣味で詩を書き発表することに喜びを見出す。
モダニズム(伝統的な枠組にとらわれない表現)の手法で優れた詩を残す。
抵 抗
私のまはりに、
砂をかむやうな音をたててゐる時計を、
ありとあらゆる古時計を、
ギリリッと一つのこらずネヂきつてしまひたい。
そして、
大理石の円柱のやうに冷たく立つてゐたい。
勇ましい砲弾のやうに真白な空間をとんでゆきたい。
巨大な反射鏡となつて美しい星の電波をよんでゐたい。
個性は強過ぎるほどだったが、芙美子とは相いれない表現、生き方となる。
壺井栄(1899-1967)は、芙美子より4歳年上のお姉さんのような人だった。芙美子は、ライバルだと身構えたが。
芙美子が野村吉哉と結婚して、世田谷太子堂(世田谷区南烏山)の二軒長屋に住んだ時、隣の住人が壷井繁治・栄であり、当然親しくした。
と言うより、栄に日常の暮らしを頼った。
愚痴を言ったり、足らない生活のこまごまとしたものを借りたり、お金の無心もする。
栄はそんな芙美子が気に入らなかったが。
壷井栄は、1899(明治三十二)年、瀬戸内海の小豆島坂手村に岩井藤吉の五女に生まれた。
実家は、醤油タル職人の家元で裕福だった。
職人や家族など20人近い人が共に住み、毎夜、民謡童謡など歌い語り明かした。
皆家族のような関係だった。
この中で、幼い栄は話し始めることを覚えた。
次第に、滔々と語り皆を楽しませ、栄自身の希有な語り部としての才能を磨いた。
だが、醤油の蔵元が倒産し、やむなく家業を海漕業へと変えた。
栄は、傾いた家計を助けるため家業を手伝い、子守りなどをせざるを得ない。
そんな時、都会に出ていた長兄が、『少年』『少女』などの雑誌を送ってくれ、むさぼり読む。
折々に文を書いていく。
成績は優秀だったが、実家の家計の事情が悪く、女学校には行けず、内海高等小学校卒で終わった。
非常に優秀だったため、小学校卒業後すぐに村役場や郵便局に勤める。
家族の為、収入を得なければならず、働く暮らしが続く。
だが、それだけでは我慢できない。
文学に目覚めており文学者になりたい夢を捨てきれなかった。
そこで、同郷の黒岩伝治や壺井繁治らとの文通を始めていく。
文通を重ね、隣村の早稲田大学で学ぶ詩人、壺井繁治(1897-1975)が、一番理解し合えると、的を絞っていく。
里帰りした繁治と会う機会を作り、繁治の人となりを確かめ、自分の想いは間違いない、この人こそ、運命の人だと確信する。
壷井家と岩井家は長年の付き合いもある遠い親戚だ。
栄は、壺井繁治との結婚を願い、家族親戚一同、皆の賛同を得た。
だが、繁治は結婚を申し込まず、愛の進展はなく、ただの文通に終始する。
栄は「憧れの人、すべてをかけて愛する人は繁治さんしかいない」と思い詰めていく。
25歳になった栄に「婚期が遅れたね」と周囲が言うようになる。
そのうち「何かあったんだ」と興味本位に勘ぐられる。
そんな状況に、耐えられなくなる。
焦った栄は決意し、1924年、繁治を訪ねる。
そして、繁治に結婚を迫るが、繁治は煮え切らない。
繁治を取り巻く仲間を見て、いますべきこと、出来ることを考える。
繁治の仲間は、繁治を含めて、皆、貧しくまともな食べ物を食べていなかった。栄は、貯金を持って上京しており、余裕があった。
そこで、繁治ら文学仲間の賄をしていく。
お金の心配をせずに美味しい食事にありつけ、皆大喜びだった。
繁治の仲間に尽くし、彼らの書いた文を次々読んでいく。
繁治は、栄が結婚相手に相応しいことを見せつけられ、周囲に推され結婚せざるを得なくなる。
やむなく、1925年(大正一四年)栄の望み通り結婚する。
プロレタリア文学の詩の分野で活躍するアナ-キストであり、反政府運動に繋がる活動をしており、明日の状況がわからない不安定な身だ。
結婚すべきでないと決めていたが、仕方なく栄に合わせた。
ここから東京での栄の人生が開いていく。
プロレタリア作家の本を読み尽くしたが、いまいち感動しなかった。
そして、隣人、林芙美子、平林たい子らと知り合い、佐多稲子、宮本信子らを紹介され、女流文学者と仲間になる。
学問を究めたわけではなく、女学校さえ行っていない栄であり、最初はおとなしくしていた。
それでも、良い刺激を受け、密かに文を書いていく。
持って生まれた才能に人生経験、文学的環境が加わって、たぐいまれなストーリーテラーの資質が開花する。
まず、繁治が認め、自ら主宰する同人誌に掲載する。
あくまで、詩人の妻としての彩的な存在だ。
それでも、一定の評価を得た。
ここで、林芙美子、平林たい子、佐多稲子、宮本百合子らの文を読み、納得できることは取り入れて、小説を書いていく。
幅広く読み続け、文才を磨きながら、書き続ける。
1928年、『プロ文士の妻の日記』が懸賞小説に選ばれ、お金になる。
続いて「長屋スケッチ」「崖下の家」が掲載される。
それでも、栄自身が作家として書いたものではない、繁治の妻として書いただけと控えめだった。
そんな時、栄の話のうまさ面白さに感心していた佐多稲子が、作家として書くことを勧める。
参考にと差し出したのが、1936年(昭和一一年)9月から11月にかけて朝日新聞に連載された坪田譲治『風の中の子供』。
栄は、とても興味深く読み、自分でも書けると思う。
そこで小豆島の生活を描いた『大根の葉』を書き始める。
遊び歌や方言を交えて書き、童話的に、小豆島の風俗を描いた。
大根の葉を食べるほどに貧しい地だった。
しかし大根の葉は同時に、滋養に富んだ、すぐれた食べ物でもある。
大根の葉には、貧しい生活に隠された、美しさ、豊かさが凝縮されていると書き進める。
世話好きのおかみさんの視点から語る、素朴な生活そのものを描いた文学だ。
自然と人との交流が読む者の心を打つ。
農民の生活に密着した土のにおい、瀬戸内の海の香りが伝わり、心を豊かにする。
佐多稲子が絶賛し、宮本百合子の力添えで、1937年(昭和十二年)、38歳の時に、処女作『大根(だいこ)の葉』を雑誌『文藝』に発表した。
貧しい農村の生活を描きながらも、読後感は、さわやかだ。
働くことをいとわぬ善意の人達、貧しさのなかで精一杯生きる人達に対して作者が抱いている愛おしさが伝わる。
壷井栄のデビュ-作となった。
この作品がきっかけとなって、だんだん原稿の注文がくるようになり、職業作家となっていく。
文学作品には、作家の生い立ち、人間関係、生まれ育った地域の文化的土壌などが見え隠れする。
そんな自分をそのまま受け入れ、小説とするのが栄だ。
優れた感性を持ち、自然と調和しながら暮らし、自然の生命力の一員として生きる生き方。
そんな暮らしを描くことが、栄に合っていた。
栄は、「政治」や「観念」は書かない。
詩人であり、自らを「連れ合い」とよぶ夫、壺井繁治は「栄は観念的なことや、いわゆる理屈ばったことは大嫌いで、自分の手でさわり、肌でふれたものでないかぎり、容易に信じないようなところがあった。そこに彼女の文学のプラスもあれば、またマイナス面もある」と書いた。
後々、夫、繁治は、栄の作家としての成功で豊かな暮らしを得て、自分の名を高め広め、思うがまま共産主義者としての生き方を貫いた。
だが、素直には、感謝の思いを伝えることはなかった。
どこか、屈折した思いを持ち続けたが、文才は認めていた。
夫が何を言おうとも、栄は我が道を行く。
夫、繁治が何度検挙されても、平然と支える。
「政治」や「観念」がないと言っても、夫を通じて十分政治的だった。
肝っ玉母さんそのものだ。
類まれな才能があり、庶民の貧しい生活感情を描きつつ、やわらかなメッセージとして反戦を訴える。
これで十分意思表示していた。
描かれる人は、貧しさの中でも決して笑みや明るさ、精神的な豊かさを失わない。
悲惨さ、貧しさに屈することなく、母性の深さを描き、生き生きとした明るいスト-リ-を綴る。
現実を深くえぐるメッセージではなく、郷土の中で培った生活感情による自己治癒力や生命力を強調する。
肌をやさしくなでるような郷土文学を描き、理念思想を重んじるプロレタリア文学の直接的メッセージを嫌った。
栄は子を生まなかった。
遠縁の子を養子に迎え、親子関係でも個人的であるより、普遍的な視野を持ち、その視点で母性を描く。
終戦後の1952年(昭和二十七)には『二十四の瞳』を発表し文部大臣賞、児童文学賞などを受賞。
「ひとみブーム」を呼び、幾度も映画化、テレビドラマ化される。
小豆島は瀬戸内海一の観光名地として知られていく。
壷井作品には、貧しくも明るい農民、庶民の姿が、栄らしい人道主義的な眼で描かれる。
人道主義とは、貧しさや悲惨さをネガティブに見つめ、その原因を弾劾する、怒りから来るものではない。
どのような貧しい、困難な状況にあっても、人生を楽しむ気持ちを持ち、家族としての愛情をもって、前向きに努力する。
そうすれば、豊かな心を持ち続けることが出来、困難を乗り越えることが出きるという人間への信頼に満ちている。
人を愛し、自他にまっすぐな生き方を求め、貫くことで、社会の不正やゆがみを打ち破って行く思想であり、庶民の生活にぴったり寄りそって書く。
様々な現実の困難を描き外面的な苦しさは変わらないが、母性的な家庭愛が内面の豊かさをもたらし現実に打ち勝つ物語で終わる。
今まで重きが置かれなかった「子供向けのおはなし」を、精神的な糧をもたらす「家庭の素晴らしさを伝える小説」にしたのだ。
日本的な母性を強調することで、日本の個性を浮きたたせた。
芙美子は、栄に共通するところも感じ才を認めたが、芙美子が生まれ育った環境がより厳しく、責任もより重かった。
それゆえ、栄ほどの母性・優しさ・余裕・家族愛・郷土愛などを持ちえない。
栄には甘さを感じてしまう。
母性は大切にしたが、普遍的な母性の愛までは持ちえなかった。
そのため、栄に作家として重きを置くことはないが、それなりの親交は続けた。
栄も内面の思いは抑えて、割り切って付き合う。
だが、功成り名を成した芙美子が戦時中に書いた童話を通じて、思いを同じくする。
芙美子も栄と共通する土壌のもとで、童話を書いたからだった。
栄は、芙美子の死後、童話集「ふたごのころちゃん・つるの笛」を共作とし、出版した。
本心は童話作家としての芙美子を尊敬しており、歳を重ねるとともにあふれる芙美子の屈折した人間愛の物語に共感していたのだ。
平林たい子(1905-1972)。
芙美子より二歳年下のプロレタリア作家だ。
長野県諏訪市中洲村の地主で1872年(明治五年)まで名主を務めた旧家の生まれだ。
明治の時代となり、新しい家業として、祖父が製糸業を始め手広く商いしたが、相場に手を出し失敗。
製糸業は、この地では盛んであり儲かる仕事だったが、より大きな儲けを狙った。
昔の栄華は跡かたなく消え、父であり、婿の平林三郎、家付き娘の母、かつは負債処理に奔走する。
その後、母は農業の傍ら細々と雑貨商を営み、父は朝鮮に出稼ぎに行き、暮らす。
たい子は、男四人女四人の八人兄弟の六番目に生まれた。
姉、ヒロ・タツ。兄、寛。弟、督男らがいた。
たい子が生まれた時は、すでに家運は傾いていた。
小学生のころから店を手伝った。
仕入れから店番・在庫管理となんでもした。
その仕事を終えて「少女世界」「少女の友」を読む。
学業も家業も趣味も抜群にうまくこなし、平然としていた。
優秀さは近在に聞こえるほどとなる。
小学校五年、六年の担任、上条茂先生は優秀な生徒に大隈重信が書いた「国民小読本」を教えた。
新しい世を創る人材を育てようと考え、特別な授業をした。
中でも、たい子は特別に目をかけられ、教えを受け、社会に目が向き政治的思考に傾く。
人は社会により生かされ、ゆえに、社会に尽くし返さなくてはならないとの教えを受け、肝に銘じる。
製糸業が傾く前に嫁いでいた姉、ヒロの婚家は、裕福だった。
学校の図書室以上の蔵書があり、少しの時間を見つけると訪ね、外国の文学書、特にロシア文学書を読み漁った。
上条先生の教え・実家の貧困を見て、社会を変革し貧しいものが生き生きと生きるために活動したい思いが膨らむ。
そこで、実家のお金のなさはよくよくわかっていたが、先生の勧めもあり、独断で諏訪高等女学校を受験、合格する。
行けないかもしれないと諦めていたが、抜群の成績だった為、周囲が特別に配慮し、学費を集め、入学できた。
周囲の支援で入学した女学校だったが、早熟で鋭く激しい感性を持つ少女、たい子には、授業は面白くなく、退屈でしかなかった。
それまで、雑誌に投稿した文は幾度も掲載されている。
掲載文と記載された名を、じっくり見続け、これこそ進むべき道と決める。
ロシア文学に共感し、社会主義思想に共鳴し、社会主義運動に惹かれ、作家になるのだ。
それでも、女学校を卒業し、上京した。
まず、電話交換手として働く。
その前、社会主義者、堺利彦に手紙を出し、思いを伝えており、夢見たアナキスト青年グループに自ら身を投じる。
そこで、活動家、山本虎三と出会い、惹かれ、同棲を始め左翼活動家としての道を歩き始める。
虎三の姉が朝鮮に居り、朝鮮からロシアへ行きたくて、頼っていくが、ロシアには受け入れられず、1か月で日本に戻る。
やむなく、山本虎三と共に、左翼運動に関わるが、関東大震災が起きた。
激しく揺れ火事が起き、都市機能が崩壊し、治安が悪くなり、二人とも検挙され、東京から追放となる。
満州で左翼運動を展開するしかないと、満州に居る山本の兄を頼り行くが、情報は届いており、虎三は検挙された。
その時、たい子は身ごもっていた。
18歳で、満州で、一人で女の子を産む。
生まれて24日後、栄養失調で亡くなった。
逮捕拘束され戻ってきた夫だったが、たい子の力にはならなかった。
夫に愛想を尽かし、あきらめ、作家を目指すと一人で日本に帰る。
その時の経験を「治療室にて」に赤裸々に書く。
日本に戻り「のらくろ」作者の漫画家の田河水泡・美術家の岡田竜男・作家の飯田徳太郎と次々同棲し、書き続ける。
飯田徳太郎と同棲中、日本に戻った山本虎三と飯田徳太郎の対決となる。
山本虎三は、たい子に、ともに住もうと言った。
二人の争いにばかばかしくなって、1926年1月、両方に別れを告げた。
芙美子が野村と別れる直前だった。
一人になったたい子は、本郷区追分町の大黒屋酒店の二階に下宿した。
そこに、行き場をなくした芙美子が転がり込んで、居候となる。
たい子と親しくしていた芙美子は、きっと受け入れてくれると頼り、たい子はいいよと受け入れた。
芙美子とたい子とは共同生活をする。
ここから二人で、作家として自立すると決め、あらゆる伝手を使い、書き続けた小説を売り込んでいく。
「資産なし・美貌なし」と自虐的に話しながらの面白い暮らしだった。
お互い男をなくし、たい子の収入もわずかで、自らの力で食べていかなくてはならない。
手っ取り早くお金になるカフェーで働き始めるしかなかった。
次第に、カフェでの稼ぎは、芙美子がたい子のはるか上になっていく。
強烈な個性をまっすぐに打ち出すたい子と、愛嬌で受け止める芙美子では明らかに差が出た。
芙美子は愛されるタイプだが、たい子は愛するタイプだった。
芙美子には人の心をつかむ話術があった。
比べて、たい子は、目はキラキラ輝き自信に満ちたオーラがあり、魅せられる男は多い。
姉御肌で左翼思想家の間で名前も売れていた。
周囲には多くの活動家がおり、結婚相手はいくらでもいる。
たい子は、芙美子に負けたくなかった。
カフェで稼ぐより、結婚による安定した暮らしをしようと考えた。
「文芸戦線」編集者、山田清三郎が、たい子に新鋭作家、小堀甚二を紹介する。
紹介された小堀甚二と意気投合、将来有望と確信し、結婚を決め、9月には、彼の下宿に移ってしまう。
驚いたのは、芙美子。
裏切られたと、傷心し尾道に帰る。
伴侶、小堀甚二を得て、気力のみなぎったたい子は、芙美子に対し申し訳なさもあり、尾道から戻った芙美子を満面の笑みで迎え、次々詩の発表の機会を作る。
12月、たい子は、八木秋子、若杉鳥子らと社会文芸連盟の創立に参加し、芙美子を誘う。
流行作家の道を芙美子より早く突き進んでおり、芙美子はついていくしかない。
1927年(昭和二年)3月、「喪章を売る」が「大阪朝日新聞」三大懸賞文芸短編小説部門に当選。
賞金を得た。
翌1928年、『施療室にて』を発表しプロレタリア文学(社会主義思想や共産主義思想と結びつく文学)の新進作家として衝撃的にデビューし、高い評価を得た。
こうして、流行作家となったたい子は、長谷川時雨の主宰する「女人芸術」に招かれ参加する。
次いで、芙美子を誘い、7月、芙美子も「女人芸術」に参加する。
たい子に遅れたが、芙美子にも成功の扉が開いていく。
たい子は、目指す女性解放と小堀甚二の属する組織との違和感を感じた。
1930年、プロレタリア文学者として、一芸術家として、一人の道を歩き始める。
それでも、夫婦として夫と共に生きることは守り続ける。
1937年、32歳で〈文芸戦線派〉として評論を書く夫、小堀甚二をかばい、拘留される。
留置場で腹膜炎に肋膜炎を併発し、生死の間をさまようが、小堀甚二は助けることもなく放置した。
ここで、円地文子や神近市子ら作家仲間が、必死の救援運動を開始する。
マスコミを動かし、拘留中の死は官憲の責任だと騒ぎ立てた。
たい子は重罪ではなかったため、官憲の判断で、留置場を出ることが出来た。
この後、三年間の闘病生活を送るが、奇跡的に回復。
類まれな生命力だった。
苦しい闘病生活を生き抜くが、戦争が始まり特高警察の監視があった。
そんな時、博徒の石黒政一に助けられ、守られ、世話になる。
未知の世界があると知ると興味津々で、理解しなければ気のすまないたい子は、ヤクザの世界にどっぷりつかる。
左翼も右翼も大義を持って生きることに変わりがないと思う。
だが、女性の地位向上、多様な生き方への支援はどちらも見込めなかった。
小説の素材として多くの経験をし、書きたくてたまらなくなる。
戦争末期には、故郷、諏訪に疎開し、旺盛な執筆活動に打ち込み終戦を迎えた。
『かういふ女』『砂漠の花』などを発表、時代を代表する女流文学者となる。
そして『黒札』、『地底の歌』、『殴られるあいつ』などの任侠小説を書く。
映画化もされる。
芙美子の死後、さらに大きな花が咲く。
だが、1955年(昭和三〇年)不義を働いた夫、小堀甚二を許せず、別れた。
生き方の違いが出ても守り続けた夫だったが、一人となる。
1957年(昭和三二年)1月、女流文学者会会長に就任。
小堀甚二は、1959年(昭和三四年)不遇のうちに死亡。
以後、独身を貫くたい子。
華やかな経歴と裏腹に、病魔に襲われることが多かった。
晩年は特にひどかった。
昭和35年には、高血圧のため原稿の口述筆記さえ出来なくなる。
昭和36年の春には、鎖骨カリエスで、入院。その年の秋には心臓喘息で入院。
昭和37年には、糖尿病と診断され、要注意での暮らしとなる。
昭和39年以降、2度乳がんにかかり両乳房を切除。
昭和43年には、高血圧で眼底出血し、あと1年もすれば失明状態になると宣告された。肝硬変も進む。
それでも、平然と、何度も外国旅行し、精力的な執筆をつづけた。
1972年(昭和四七年)2月、66歳で、急性肺炎のため慶應大学病院で亡くなる。
29年間、伴侶だったを小堀甚二を失うも、病魔が次々襲うも、たい子は、堂々と我が道を突き進み、何事にも動じなかった。
転向文学そして無頼派と呼ばれても、気にすることはなかった。
たい子の生き方は、芙美子を圧倒するすさまじさがあった。
知り合った頃聞いた朝鮮や満州での出来事は、芙美子の想像を超える。
同時に芙美子自身の目で確かめたいと興味がわいた。
以後、何度となく、朝鮮や満州を訪れることになる。
たい子の影響は大きかった。
芙美子は、たい子の生き様を知れば知るほど、「たい子には勝てない。自分は放浪の人でいい」と芙美子自身を位置付けていく。
2歳年下のやんちゃな妹が、たい子だった。
芙美子は、庶民の日常を見つめ、根無し草であっても明るくたおやかに生きる人を描く。
古里を持たない、さすらいの人が似あいだと、自分の作家像にひとり合点する。
個性の違いがあればこそ、たい子は、終生、芙美子のよきライバルだった。
わが母がわれを 生ましし齢(よわい)は来つ
さずけたまひし 苦を苦しまむ
と詠うたい子は、堂々とした作家だった。
松下文子。
野村から紹介された詩人仲間だ。
1925年後半、野村吉哉と激しく文学論争し、家計でも揉め、ついには愛人を巡り大喧嘩を繰り返した。
すると、追い詰められた野村が暴力を振るう。
その時、度々逃げた先が文子の家だった。
文子は、北海道旭川の大地主の一人娘で詩人だった。
尾道の裕福な友と似た包容力のある穏やかな性格で、芙美子が一番気兼ねなく付き合える雰囲気があり大好きだった。
育ちの良さそのままに、1919年、日本女子大学国文科に入学、目黒の春秋寮に入る。
同室になったのが、尾崎翠(1896-1971)。
文子と翠の運命の出会いだった。
尾崎翠は、鳥取県岩井郡岩井村で教員を父に兄三人、妹三人の7人兄弟姉妹のまん中に生まれた。
鳥取女学校に入ったばかりの13歳で父を事故で亡くした。
以来、母と共に妹たちの面倒を見ながら女学校を卒業し補習科に進む。
理科、数学、国語、漢文、英語、音楽と万能の天才だった。
1914年、小学校の代用教員となる。
父の死後、経済的には苦しい暮らしとなった。
それでも、父は若くして校長になった名士であり、母は1610年、開基の由緒ある浄土真宗本願寺派西法寺(鳥取県岩美町)の生まれで、資産もあり、尊敬されていた家の生まれだ。
翠は、この寺で誕生し、女学校補修科を卒業し、小学校教員となり、この地で生まれた女性として、誰からも優秀だと認められた順調な人生を歩んでいた。
妹たちを女学校に行かせ卒業させる、家を背負う責任感も果たす。
兄3人は。
長兄、篤郎は、海軍に入り、後に海軍中佐となるエリ-トだ。
次兄、哲朗は、鳥取藩主ゆかりの寺、養源寺に養子入りし、華厳経の大家と呼ばれるほどの高僧となる。
三兄、史郎は、東大卒で肥料会社重役となり、名誉ある仕事を成す。
豊かではないが、優れた家系として、地域・親族から支えられ、相応の暮らしをしていた。
翠は、母を支え、母から一番頼りにされた娘だった。
また、兄たちより頭は良いと自負しており、プライドは高い。
教員として子たちに慕われたが、なにか物足りない。
女学校時代から、小説を書いており、鳥取でうずもれたくない思いがむくむくともたげていく。
そこで、書き溜めていた文を「文章世界」に投稿した。
掲載され注目されていく。
幼い時から鋭く繊細な感受性を持っており、その感性のままに文章として残すことが出来た。
この感覚表現力が、受け入れられるか、試してみたいと思ったのだが、満足できる結果だった。
自信を得た翠は、東大農科在学中の三兄、史郎を頼り上京、渋谷道玄坂の下宿に同居する。
少女雑誌「少女世界」に投稿し、少女小説が掲載され、以後、度々掲載されるようになり、名が広まっていく。
ここで体系的に文学を学びたいと、母や兄に願う。
授業料その他、多額の出費となるが、母や一族が、翠の才能を認め出してくれた。
1919年、日本女子大学国文科に入学する。
こうして、春秋寮に入り、松下文子と同室となったのだ。
その夏に切なく悲しい恋物語「無風地帯から」を書く。
翌1920年1月、「新潮」に発表する。
ところが、大学は内容が学生にふさわしくないと許さなかった。
多くの読者に読まれたくて書いており、内容に問題はないと、大学の対応を許せず、自主退学する。
母や兄たちの支援で入った大学だった。
申し訳ないと思うが、志を曲げられない。
以後、自分で稼ぎ、母に頼らないと決めた。
作家として自立できる自信があったのだ。
同室で意気投合した松下文子も、尾崎翠を一人にはしないと共に退学する。
この時、二人は運命共同体だと強く結ばれた。
退学の時は、原稿料収入に自信があった。
だが、現実はあまくはなかった。
二人が自活するに足る原稿収入を得ることは難しい。
二人は育ちが良すぎた。
自作の小説を、関係者に持ち歩く営業をしていくが、お嬢さんとしての営業では、褒められるが、出版、ヒットとなる道は出来ない。
尾崎翠は、営業しつつの創作活動は無理だと悟る。
母から呼ばれやむなく実家に戻る。
鳥取で、良いものを書こうと決めたのだ。
資産家の松下文子は仕送りがあり東京に残った。
こうして、尾崎翠は、実家で書き溜め、文子の家と実家を往復しつつ小説を売り込む。
12月、「新潮」に掲載された。
作家としての成功を確信し、再び、文子との同居を決意。
それでも、収入は思うほどでなく、営業は性に合わず、1921年、出版社勤務を決め、給料を得ることで、文子に迷惑はかけず生活すると決め、同居する。
だが、思う存分書きたい翠には、型通りの勤めは長く続かない。
また、辞めてしまう。
すると、生活のめどが立たなくなり、再び、実家に戻るしかなくなる。
また、文子の家と実家を往復し小説を売り込む生活となる。
1922年、尾崎翠は、鳥取で、涌島義博・田中古代子らと同人誌『水脈』を創った。
田中古代子は、鳥取では有名な女流作家で山陰日々新聞社に入社した県下初の女性記者だった。
涌島義博と共に暮らしていた。
関東大震災後、田中古代子とともに、上京した涌島は、同郷の先輩、橋浦泰雄と共に、足助素一の叢文閣で本作りを学び、独立し、社会主義文献の出版をする南宋書院を作った。
そして、1926年1月、東京で鳥取県無産県人会を設立する。
『水脈』に東京在住の鳥取県文士を加え、層を熱くしたのだ。
翠は、『水脈』の仲間、橋浦泰雄・白井喬二・生田長江・生田春月・涌島義博(1898-1960)・田中古代子(1897-1935)らと創作を続ける。
翠を推してくれる文学仲間の存在で、力を得て、書き続ける。
そんな時、1927年(昭和二年)2月、文子が結核のため東大小石川分院に入院した。
とても心配した。
無事、退院すると聞くと、矢も盾もたまらず、看護したいと、上京。
そして、上落合850番地に借家を借り共同生活に入る。
涌島義博が上落合に住んでおり、その紹介で、尾崎翠は、松下文子と上落合に住むことに決めたのだ。
涌島義博・田中古代子とは、公私ともに親しくし、頼りにした。
ところが、1932年(昭和七年)、南宋書院は、立ち行かなくなり、涌島義博・田中古代子は鳥取に戻る。
文子は自らも詩を書き発表しているが、才能を認める翠を自立できる作家としたく、原稿を出版社に持ち込む。
翠は『琉璃玉の耳輪』を書き、「婦人公論」に執筆するようになる。
だが生活が成り立つまでにはならない。
そんな二人に会いに芙美子はたびたび訪れた。
文子は、愛する翠の為に同居費用の多くを負担し、途切れつつも、約10年ともに暮らし、作品の売り込みも続けた。
だが、強烈な感性と並外れた才能を持ち、張り詰めて切れそうな翠との共同生活がつらくなっていく。
年齢も重ね、親の願い、林学博士、松下真孝と見合いし婿養子に迎える事を納得した。
1928年6月、松下文子は結婚し、故郷に戻った。
翠は、頼りにし運命共同体だと信じていた文子がいなくなり、打ちのめされる。傷心のひとり暮らしになり、この家にはいられないと、直線距離で50mほどのすぐ近くの2階家へと転居した。
以後、母からの仕送りを頼りに、「女人芸術」に『アップルパイの午後』、続いて、映画評『映画漫想』を連載する。
1930年(昭和五年)には関心を寄せ合い、次第に愛し合うようになった高橋丈雄に誘われ、仲間と新雑誌「文学党員」発刊に加わる。
掲載のために『第七官界彷徨』の執筆を始める。
だが、体調を崩しがちになっていく。
それでも、高橋丈雄と同棲を始める。
翌1931年(昭和六年)「文学党員」に『第七官界彷徨』の半分強が掲載された。
続いて「新興芸術研究」に全篇を掲載。
他にも、短篇『歩行』。短篇『こほろぎ嬢』。『地下室アントンの一夜』を発表。
太宰治・中村地平・井伏鱒二らも翠の作品を褒め、実力のある文学者としての名が広まっていく。
だが、心身ともにますます変調をきたし、幻覚症状に襲われることが多くなり、分裂症的な発作が起きる。
同居する高橋丈雄では手におえず、長兄、篤郎へ状況を説明、支援を求める。
1932年9月、尾崎翠は上京してきた兄に鳥取の実家へ無理やり連れもどされる。
5年余りの上落合暮らしで、36歳で故郷に戻ることになった。
以後、書くことが減っていく。
翠の代表作の多くはここ、上落合で誕生し、終わった。
実家に戻ると、母が待っていた。
年老いた母を見守り、若くして亡くなった兄、哲朗の子たちの面倒を見て、妹の子たちの世話をする。
大切で責任ある仕事であり、翠にすべてをかけて尽くしてくれた母への孝行だ。
こうして、家族大事を貫き、目立った創作活動はなくなる。
母を看取る。
1943年(昭和一八年)9月10日、鳥取を大地震が襲う。
家が全壊し、避難所暮らしとなる。
この時、実家を支えたのは、翠だった。
再建まで率先指揮し、戦前戦中戦後の激動期を、留守がちな兄に変わり、翠が尾崎家を差配する。
こうして、75歳の寿命を全うし、兄の寺に眠る。
故郷に戻った翠は、気負いなく等身大で生きるが、それだけでも、尊敬され一目置かれた。
故郷で、翠の薫陶を受けた人は、心が広く大きく些細なことにこだわらない、器の大きさを感じさせる人だと口々に言う。
からりとした性格でユーモアにあふれていたとも。
堂々としていて力強くおおらかな性格だったと。
ただ、逞しさは無く、純粋でありすぎ、思いを遂げられない時のもろさを感じさせたと。
兄たちに負けたくない、母の期待通りの娘でありたいと必死で頑張った生涯だった。
だが、名家の娘でしかなく芙美子ほどのなりふり構わない暮らしは出来なかった。
東京でも、作家として体面を保つ暮らしをし、理想と現実の差を埋めることはできず、薬で埋めるようになってしまった。
愛する人を得て、支える仲間が居たのだが、それゆえ、高い理想の実現を求め、疲れ果てた。
いつも貧乏です。私が毎夜作る紙反古はお金になりません。
私は枯れかかった貧乏な苔です
随筆「木犀」より
おもかげをわすれかねつつ こころかなしきときは ひとりあゆみて おもひを野に捨てよ
おもかげをわすれかねつつ こころくるしきときは 風とともにあゆみて おもかげを風にあたえよ
「歩行」より
ただ、芙美子と違い、生活が困難になると思い始めたら、すぐに対策を考え、結局、故郷に戻ることになる。
明日食べるお金にも困る貧乏生活をすることはない。
芙美子のように貪欲であっけらかんと、困難な情況に立ち向かうことはない。
育ちの良さが漂い、控えめで、確実な筋の通った真っ直ぐな生き方を貫こうとした翠だったが、挫折した。
文子が北海道に戻ると、芙美子は、7つ上の翠を姉のように慕い、文子のいなくなったあとを埋めようとする。
まもなく1928年(昭和三年)10月から翌年10月迄20回、芙美子の自伝的小説『放浪記』を、長谷川時雨の主宰する「女人芸術」にを連載した。
そこで、翠を「女人芸術」に連れて行き、翠の作品が次々掲載されるよう取り計らう。
この頃、喫茶店で文学談議に花を咲かせ、お互いの文学人脈を紹介しあうなど仲は良かった。
そして翠を心配する松下文子に「仲良くしています。できる限り側にいます」と話し、カンパを願う。
文子は翠や芙美子や『女人藝術』への寄付だと思い、50円芙美子に差し出した。
ところが、芙美子はその資金を元に1929年6月、単独での初めての詩集『蒼馬を見たり』 を南宋書院から刊行。
文子からの援助だけでは、出版費用が足りず困り、翠と親しい鳥取出身の涌島義博が経営する南宋書院に泣きついた。
翠との縁の深い涌島義博は、翠の頼みだろうと、快く協力し、刊行できたのだ。
文子・翠の縁で、二人を踏み台にし自費出版を成し遂げた芙美子は、記念の会を催し、出版関係者にお披露目する。
7月7日、芙美子は精いっぱい奮発し、駒形の鰻屋「前川」で賑やかに詩集『蒼馬を見たり』の出版記念の宴会を行う。
「放浪記」出版につながる人脈を作ったのだ。
まもなく、芙美子は「放浪記」を単行本で出し大ヒット。
芙美子は「放浪記」を出版に結び付けたのは松下文子だと、公言する。
生涯、恩人だと思い大切な友とする。
だが、尾崎翠に対しては「尾崎翠は鳥取で狂死した」と周囲に話し「地味な作家として憶えている」と書いた。
冷たい対応をした。
林芙美子の作品は「地味」で古色ただよい、尾崎翠は「現代的」な新鮮さを備えてみずみずしい。
尾崎翠は、芙美子のはるか先を見ながら歩いていたが、芙美子は翠を推すより、自分を推した。
翠は、芙美子に文子の支援があったとは知らず「『蒼馬を見たり』評」などを発表し芙美子を支援したほどだ。
だが、その経緯を知り、作家としての人生の向かい方に負けたと受け止めた。
自分には、なりふり構わない芙美子の真似は出来ないと、作家の道を断念する。
1934年(昭和九年)翠が鳥取に去って芙美子は北海道と樺太を巡る旅に出て、松下文子の元で2泊した。
「放浪記」ヒットの感謝の為だ。
芙美子は、一人で歩き始めた。
二人に対して大きな傷を背負ったことを忘れることはない。
それでも、そ知らぬふりで、作家として生きるのが定めと改めて誓う。
書くことで、読者に社会に貢献するしか逃れることは出来ないと。
長谷川時雨(1879-1941)。
芙美子より24歳年上の女傑。
雑誌『女人藝術』を創刊した。
1879年(明治一二年)、東京府日本橋区通油町一丁目(東京都中央区日本橋大伝馬町三丁目)で生まれた。
ちゃきちゃきの江戸っ子だった。
江戸幕府と取引のあった祖父は高級呉服商であり、祖母も伊勢の庄屋の娘で古い時代を引き継いでいた。
父、長谷川深造は、明治政府が12人選んだ日本初の免許代言人(弁護士)の一人で、東京市会の有力者でもあった。
明治の時代にうまく生き残った、名士の家の生まれだ。
母、多喜は、幕府に仕えた御家人の娘であり、古き良き時代を知っている。
時雨は、申し分のない恵まれた家に生まれた。
長女であり、母・祖母が思いを込めて育てる。
5歳から12歳まで、寺子屋式の代用小学校、秋山源泉小学校で教育を受ける。
校長の自宅で読み書きそろばんを教わる、前時代と変わらない教育だった。
同時に、長唄、踊り、お花、お茶、流行の二弦琴などの教養を身に付け、祖母は好きな芝居へ連れていく。
次いで、母は、14歳から池田侯爵家(岡山藩池田家)で、行儀見習いをさせた。
有り余る才知は文学にも向き、文学少女でもあった。
本を読みふけり、池田家でも夜分は読書に耽った。
本の読み過ぎで17歳のとき、肋膜炎を病んで家に戻る。
療養後、古典を学びたいと願い、佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学び短歌を創った。
柳原白蓮、九条武子、五島美代子、斎藤史らの秀才を創り出した学び舎だ。
多くを学び影響を受けた。
父母は余りに熱心に学ぶ姿に将来を危ぶみ、1897年(明治三〇年)18歳で、鉄問屋の成金の息子と結婚させた。
だが夫は、家庭を顧みない遊び人で、実家からも見放され釜石鉱山の社宅に行かされた。
ここでも、夫は遊び、時雨とは別居状態だった。
時雨は、天から与えられた貴重な時間だと喜び、三年間、文を書き続け、1901年、『女学世界』誌に短編『うづみ火』を投稿して特賞となる。
自信を得て、離婚手続きに入る。
ところが、実家に、大きな災が降り掛かっていた。
日の出の勢いで、難事件を解決していた父、深造(1842-1918)が、1900年(明治三三年)に起きた市会議員汚職事件に巻き込まれたのだ。
無罪を主張したが、結局、有罪判決を受け、政界から身を引き、弁護士も辞め、佃島相生橋に住み、隠棲生活を送ることになった。
かっての栄華は消えた。
東京に戻った時雨は、父と共に住む。
華やかな世界から一歩引いた父だったがまだまだ元気だった。
父とゆっくり過ごす、貴重な時間だった。
父から、法曹界・政財界のあり方を学ぶ。
父はこれだけでは終わらなかった。
得意だった絵を仕事としたのだ。
江戸人情絵師として、東京を描き、東京を目指す人々に提供した。
全国的に東京は憧れがあり、絵師として人気となり、絵は売れた。
母は、料亭・旅館を経営し、その腕を見込まれ、芝にある和風料理で東京随一の有名な社交倶楽部「紅葉館」を任された。
政財界の大物が集うゲストハウスを仕切った。
時雨は結婚離婚を経験し、父母の変遷と世の流れを見て、妖艶さに磨きがかかり、誰もが目を奪われるほどの良い女として評判になっていく。
1905年(明治三八年)、戯曲『海潮音』が読売新聞の懸賞に入選する。
父母に縁があり、時雨の女っぷりは評判で、結果は決まっていた。
すぐに、時雨を推した選者、坪内逍遙に入門し、師匠とする。
こうして、逍遙門下で、次々と戯曲を発表し上演され、人気作者になる。
歌舞伎でも上演され、歌舞伎俳優に取り巻かれ、その中で君臨する時雨は、華やかな華だった。
幾つかの恋をしている。
小説家・女流劇作家・評伝作家として活躍し、売れっ子劇作家となり、高収入を得て自立した。
そんな時、売り出し中の作家、三上於菟吉(1891-1944)の出会いがある。
三上於菟吉は、12歳年上の時雨に夢中になり、真摯に愛を乞う。
1919年、押しかけ亭主となる。
時雨は、凝り性で博学、芸事は何でもござれの芸達者であり、文はうまく、粋でおしゃれで、面倒見が良い。
もてないほうがおかしい時雨だったが、数ある取り巻きの中から、三上於菟吉を選んだ。
於菟吉に作家としての能力を認め、自ら推すことで世に出し、流行作家とすると決めたのだ。
時雨の思い通り、三上於菟吉は、文壇の寵児となり、もてはやされていく。
時雨には、崇高な理想があった。
女性作家の発掘・育成と地位向上を目指すことだ。
そのため1923年(大正一二年)同人雑誌、『女人芸術』を出した。
だが、関東大震災が起き、世情は混乱し続けることが出来なかった。
その失敗を教訓化し、管理経営に三上於菟吉を加え、その資金も使い、商業性をもたせ、1928年(昭和三年)雑誌『女人芸術』を創刊した。
売れる本を作り、会員を集め会費をとり、末永く続けると、意気込んだ。
男女を問わず賛同者を募り、紙面は充実し、出発は順調だった。
『女人芸術』に「放浪記」を掲載し、『女人芸術』の恩恵を最も受けた芙美子。
だが芙美子は、放浪記を読んで冷たく評価し、芙美子を馬鹿にした時雨の顔を忘れない。
時雨には、芙美子の生き方が理解できず、受け入れられなかった。
もっと違った表現方法があると思っていた。
芙美子は、女性の地位向上を口先ばかりで唱え、現実を分かっていないと、一刀両断で切り捨てた。
まぎれもなく恩人だったが、そうとは思わない。
おつかれでしょう…
あんなに伸びをして
いまはどこへ飛んでゆかれたのでしょう。
勇ましくたいこを鳴らし笛を吹き、
長谷川さんは何処へゆかれたのでしょうか。
私は生きて巷のなかでかぼちゃを食べています。
11941年亡くなった時雨への芙美子の追悼の言葉。
吉屋信子(1896-1973)は、芙美子より7歳年上のライバルだ。
「信子とは同列にはして欲しくない。信子は恵まれすぎている」との思いがあり、比較されるのは嫌だった。
芙美子は、良い印象を持っていない。
まず生まれ。
1896年(明治二九年)1月、雪国、新潟の県庁官舎で、エリート官吏、新潟県警務課長、吉野雄一39歳とマサ33歳の長女に生まれた。
兄弟姉妹は全部で8人とされ6人が育った。
信子の上に兄3人、信子の下に弟2人。女の子は信子だけだった。
頑固な男尊女卑的考え方を持っていた父と、黙って従う母を見て、反発したと言われるが、父は、地方の官舎住まい。
六人が育ち、信子を除いても五人の子が父と同じ道を進めるだけの学問を身に着けさせるのは、多額の投資を必要とする至難の業だ。
母の力なくしてはなしえない。
一家は、父の転勤に伴って各地を転々とし、1902年、栃木県下都賀郡の郡長になり、栃木町官舎に住み、1912年、上都賀郡長となり転勤するまでこの地にいた。
下都賀郡は足尾銅山から流れ出た鉱毒が渡良瀬川流域の農作物に大被害をもたらした地であり、反対運動が盛んだった。
父、雄一は、反対運動を押さえ、被害地の農家の強制立ち退きを命じる立場だ。
反対運動を指揮する田中正造と何度も交渉を重ね、谷中村に泊まり込み田中正造に土下座までして頼んだ。
結局、話し合いはつかず、残留農家を追い立てるしかなく、役目を果たし、嫌われることになる。
芙美子も権力側の生まれだと確信していた。
信子は6歳から16歳までこの地に住み、女学生の時、事件の全容を学んだ。
父が全身全霊を尽くしても解決できない姿を見て、父の力のなさを感じた。
母は、家庭を顧みることの出来ない多忙な父に代わり、家族のすべての荷を引き受け、自らが倒れることも度々だった。
父がいなくても、6人の子を育て、一家を守る。
弟・礼明が死亡したときも、父は葬儀に戻りすぐに、出かけた。
大切な我が子を失くしても一人で頑張らざるを得ない母だった。
父も母の頑張りに報えず申し訳なく思い、感謝した。
父は、一家を養うために職務に忠実だった。
立ち退き反対闘争の激しい谷中村に泊り込み、反対派を力で追い出すが、出来れば避けたい嫌な仕事だった。
そんな惨い役目を命じたのは、内務大臣、原敬。
足尾銅山主、古賀家の最高顧問だった。
信子は、反対運動に立ち上がった人々、反対運動に理解を示しながらも弾圧する足尾銅山の関係者、両方の考えを学びながら、生きる意味を考える。
栃木町官舎に住んでいた10年間で信子の人間形成の骨格が出来る。
まず小学校で、優秀さを褒められ、文才を認められた。
近くにキリスト教会があり、牧師の娘と親しくなり、日曜学校に行くようになる。
クリスチャンに親しみを感じ、新たな価値観・表現方法を知る。
続いて、栃木高女(県立栃木女子高)に進学する。
ここで、新渡戸稲造の講演を聞く。
良妻賢母思想を批判し、女性の生き方は、教育を受け、一人の女であるよりも一人の人間でなければならないとの演説に感銘する。
この言葉を胸に、多くを学び、自立すると決める。
出来れば、好きな文を書くことを自分の生きる道としたかった。
そこで、次々投稿していく。
在学中の1910年(明治四三年)14歳のとき、雑誌『少女界』の懸賞小説に『鳴らずの太鼓』が一等入選。
賞金十円を得た。
文才に自信を得た信子は、作家になれるかもしれないと胸震わせた。
女学校卒業し、進学を希望したが、兄弟の学費で精一杯だった父は反対した。
やむなく、日光小学校代用教員となる。
だが、文学への志高く、書き続ける。
父は、退職し、第二の職場、日本赤十字栃木支部主事となる。
かっての権威はなくなるが、弟2人の行く末の目途が付く。
ここで、信子の優秀さを知る父母は、代用教員で終わらせたくないと考える。
「家へお金を入れる必要はない。何も助けられないが思うように生きなさい」と今まで弟たちのために、家計を助けてくれた信子に感謝し、話した。
そして、東京帝大生の三兄、忠明に信子を託す。
喜んだ信子19歳は、1915年(大正四年)退職し、兄を頼り上京、同居する。
本格的に投稿していく。
翌年(大正五年)信子20歳、雑誌『少女画報』に小説『花物語』が掲載。
花に寄せて少女たちの生真面目さ、こまやかな心遣い、心の籠った言葉、綺麗なもの可愛いものを大切にする心、穏やかな優しい性格を、絵のように美しく素直に表現する。
信子の書く少女たちの姿が、女学生たちに大人気となり、第52話まで続けて掲載された。
ここで「少女小説」という文学ジャンルを確立し、代表作になる。
まだ、充分な原稿料まではいかないが、作家としての将来が約束された。
ひたすらピュアで美しく書き綴り、ささやかに女性の自立・因習の超越を促す。
芙美子は、あまりにきれいごとすぎると納得できないが。
庶民の苦しさを、真っすぐにすくい上げ、現実をあからさまに描く芙美子の書き方と相容れなかった。
信子はここで止まらない。
綴る文は、美しく抒情的だが、現実に即して動く、生活力もあった。
まず、尊敬する文学者を訪ね、丁寧に教えを乞う。
生田花世夫妻・岡本かの子と親しくなった。
山田嘉吉・わか夫妻の「語学塾」に通い英語を学ぶ。
『青踏』の平塚らいてうや伊藤野枝などとも親しくする。
作家としての人脈を築き、1917年、(大正六年)、兄が東大を卒業すると、東京四谷のバプテスト女子学寮に入り、近くの教会に通い、日曜学校で子どもたちにお話をする。
そこでの話を集めて、童話集「赤い夢」を出版。
だが、友人、後に有名な歌手になる佐藤千夜子と浅草へ映画を見に行ったことが発覚し二人とも退寮処分。
キリスト教関係者や、『少女画報』ら出版各社、教えを願った文学者が、皆、信子を後押し、救済の道を探す。
すると、神田のキリスト教女子青年会(YMCA)が招く。寮生になる。
この寮には、津田塾や女子美術の学生が入っており、友となり人脈を広げる。
ここで、大阪の朝日新聞が新聞連載用の長編小説の募集していることを知り、応募を決意、執筆に全力をかけると決めた。
北海道池田町にいる兄、忠明の家に、居候して書こうと考える。
兄の了解を得て、1918年(大正七年)から一年近く滞在し、北海道の大自然、十勝で「地の果てまで」を書き続けた。
1919年(大正八年)一等賞となり、連載が決まる。
その直前、7月、父は62歳で亡くなる。
信子は23歳。
まだ教育を受けさせなければならない弟がいた。
父は、男尊女卑の考えだったが、能力を見定める判断力はあった。
母の力に感謝し、信子の才も分かっていた。
ただ男の子に教育を付けることが先決で、信子へ資金が回らなかっただけだ。
父は、能力を振り絞り生きたが、子たちに満足な教育を付けさせるには、力が及ばなかった。
信子の能力を伸ばす力がなかったことを、死を前にしてわびた。
信子は、常に自分を主人公とし、どう表現するかを考える。
皆に、同情され、愛され、読者を増やすためにどう行動するかを考える。
周囲を引き付ける天賦の才があり、どこに居ても自然と主人公になる独特の雰囲気があった。
家庭で受けた差別を苦しそうに強調し、表現する信子に対し、芙美子はきれいごとで、自分を良い子に見せたがる偽善者のにおいを感じる。
父の葬式を父の実家、萩で行い、その後の喪中に『屋根裏の二處女』を書く。
クリスチャンとして学び、表現に磨きをかけ、女と女、同性の至福の愛を表現し、読者をつかむ。
幾多の困難があろうとも、愛は超えていくと、かすかな夢を与える作品だ。
そのほのかな希望に、読者は身を焦がしつつ安心し、次が読みたくなるのだ。
1920年(大正九年)元旦から「地の果てまで」の連載が始まる。
芙美子は「信子の作家人生は順調すぎる」と腹が立つ。
信子の実家の人脈、信仰を深めたクリスチャンの支援があり、良家の子女として訳もなく応援されていると思う。
そして、仕組まれた公募で、確実に作家になり収入を得ていくのだ。
時代に合ったきれいな作風が受け入れられたにしても、芙美子の苦労に比べて我慢できないところがあった。
1921年(大正一〇年)、信子25歳。
兄、忠明が北海道から東京に戻り、大田西沼(東京都大田区中央)に住まい、母と信子も同居。
この家に岡本かの子が訪ねて来る。
一年ほど住み、東京本郷林町に移転した兄、忠明に従う。
近くの本郷森川町に『朝日新聞』の選者だった徳田秋声がおり、以後、時々、秋声を訪ね親しい師弟となる。
1923年(大正一三年)、国民新聞の女性記者(後に、主婦之友記者)、山高しげりが、同級生、女学校数学教師、門馬千代を紹介する。
終生の伴侶となる門馬千代との出会だった。
千代は東京女高師(お茶の水女子大)で数学を専攻した才媛で、その控え目な性格を一目で気に入り秘書とする。
探し求めていた女人だと、夢中になるが、関東大震災が二人を引き裂く。
弟妹のために働く必要がある千代は、東京の混乱の中で、教師の仕事をなくし、職を求めて下関に戻る。
信子に、千代を全面的に支える力はなかった。
この別れは、信子には耐えがたいほどつらかった。
10か月後、信子は千代の職を見つけ呼び戻す。
1924年(大正一三年)28歳から再び太田不入斗(東京都大田区大森北)に移り、母親と住む。
文士が集う馬込文士村不入斗が気に入ったのだ。
この地で、宇野千代、村岡花子、佐多稲子らと親しくなる。
信子は人づきあいがうまく、敵を作らずとても良い人間関係を作っていく。
次第に信子にとって千代はなくてはならない人となる。
1926年(昭和元年)東京都下落合(中井2丁目)に新築し、共に暮すよう招く。
千代との愛の巣だ。
アビラ村(芸術村)を創ろうと開発された一角で、文士のあこがれの地だった。
「文化人」が多く住みリベラルな雰囲気が漂う目白文化村に隣接し好きになった。
19坪の建築面積で居間兼サンポーチ、応接間、書斎×2室、寝室、女中部屋の6間に加え、台所、湯殿がある。
テラス付きのかわいい下見板張りの西洋館だ。
以後、言い争いをしたりはするが、同居し生涯の伴侶となる。
後年には、養女とし、後を任せる。
信子は、作風からも、同性愛を認め実践していることは、周知の事実だった。
1928年(昭和三年)信子32歳、印税二万円が入り、千代とともに、満州、ソ連経由でヨーロッパに渡り、一年近くパリに滞在し、アメリカを経由して帰国。
二人連れだって、仲睦まじく、豪勢な旅を謳歌した。
芙美子から見ると、信子はかっこよすぎた。
芙美子は、巴里旅行に三千円程度しか使っていない。
桁が違うほど稼ぐのが、吉屋信子。
芙美子は、いつもお金が足りず、苦労している。
能力に差があるとは思えない同じ作家なのに、あまりに違いすぎる。と嘆いた。
生きるために男性遍歴を繰り返さざるを得なかった芙美子に比べ、信子は同性愛を楽しんでいた。
友人から好かれ認められ、いつも幸せそうな信子に納得できない。
あまりに個性的な生き方をしながら、それでも、自然に人脈形成ができる信子の人付き合いの旨さに感心するばかりだった。
芙美子の家に対するこだわりに刺激を与えた。
芙美子は家に対し、思い入れが強かった。
その思いを、信子は、軽々と乗り越えいくつも家を建てる。
芙美子は感心しつつ、いつか自分らしい家を建てると決意を固める。
1936年(昭和一一年)40歳、新聞連載小説『良人の貞操』が大ヒット。
そして林芙美子、宇野千代、平林たい子、佐多稲子、円地文子らと女流文学者会を結成、初代会長になる。
流行作家として地位も実力も備えた。
ここで、女流文学者会会長に相応しい家を建てると決意。
新宿区市谷砂土原町に宅地を買う。
東京都下落合(中井2丁目)に新築したのは西洋館だった。
今度は、馬込に住んでいた時から気に入っていた小林古径の家のような家を建てたい。
小林古径(1883~1957)は、新潟県生まれの日本画家。
信子も生まれは新潟県だ。
父が、新潟県警務署長だった時、新潟県庁官で誕生し、共通項を感じていた。
大正期に「異端」「竹取物語」、昭和期に「清姫」「孔雀」など数々の名作を発表。
南馬込に吉田五十八設計の自宅を建てた。
吉田五十八(1894-1974)の設計を気に入った信子は、設計を依頼した。
「イスの生活ができる日本建築にして欲しい」との思いだけを伝えた。
まだ売出し中の若手、吉田五十八は、驚き喜び、渾身の力を込めて設計する。
「新しい数奇屋の発祥の家が、吉屋さんの家だ。新しい数奇屋の生みの親とも言える」と任せられた嬉しさを表した。
日本家屋(数寄屋造り)を、西洋建築のような軽さを出しながら建てた。
日本家屋(数寄屋造り)の良さを活かしながら、信子の望む洋風の暮らしとするために、キッチンや、イスとテーブルを使った書斎など、和と洋が融合した建築とする。
信子は、大層気に入って、移り住む。
世相は慌ただしさを増し戦争の始まりを感じ、東京は落ち着いて住めるところではなくなる。
休養するところが欲しく、1939年(昭和一四年)、鎌倉の大仏裏に別荘を建てた。
戦争が始まり、別荘に疎開した。
そのため、運良く、東京空襲から逃れた。
鎌倉は縁起の良いところとなる。
自宅は、東京大空襲で焼失。
1950年(昭和二五年)、千代田区麹町に新たな家を吉田五十八設計で建てる。
日本古来の数寄屋造の伝統に現代的感覚を生かした独自の様式が、進化する。
それでも、東京は落ち着かない、1962年、鎌倉市長谷で、古い家を買う。
改修・改造して、終の棲家とする。
吉田五十八に設計を頼む。「奈良の尼寺のような家」と希望を言う。
数奇屋風の腕木門。塀は腰板付き、瓦葺。
銅版葺屋根の玄関。ポーチ・玄関内部の床は玄昌石。
和室続きのリビング。ソファは吉田五十八設計の造り付け。座った時の目線と和室に座したときの目線が同じ高さ。
和室は6畳、縁側とケヤキの床框の広い床の間で広く感じる。
執筆に集中できるようにと書斎は北向き。暗くなりがちなので天窓を付け、中に蛍光灯を入れている。
などなど。
五十八は、味合ひのある、ユーモアを表現し、名建築とする。
信子の住まいに対し、芙美子は「数奇屋は人間が住む家ではない、心が休まるのは民家だ」と言い放つ。
羨ましく思ったゆえの、負け惜しみだが。
また信子は、ゴルフに熱中し、当時の女の人には珍しい、新しもの好きだった。
作家、吉川英治に誘われて競馬の馬券を買い、面白くて夢中になったりする。
ついには五頭の競走馬の馬主となる。
また酒豪であり、愛酒家としても有名だ。
1973年(昭和四八年)7月、77歳で亡くなる。
少女小説・家庭小説・伝記小説と書き続け、いずれも多くの読者に受け入れられ、人気作家として生涯を閉じる。
芙美子は、信子の後を追っかけ、追いつけ追い越しそうとした。
だが、信子は、颯爽とかっこいい流行作家として前を走り続けた。
「偽善者だ。文の中で思い通りの女を書くだけだ。男に生まれたかった反動だけでしかない。私は女として生きる女の気持ちを表現する」と自分こそ、女であることを誇り、書いていると自負した。
だが、文学性はともかく、流行作家としての人気は、信子が圧倒的だった。
収入も遥かに多い。
それでも、芙美子が信子に対して留飲を下げ笑った時がある。
漢口従軍体験だった。
1937年、南京陥落報道で東京日日新聞社・大阪毎日新聞社は、芙美子を特派員に選んだ。
だが、漢口攻略戦の特派員には芙美子ではなく信子を選んだ。
連載した小説『良人の貞操』が大好評だったためだ。
1938年、当時、東日・大毎(毎日新聞社)は発行部数285万。
東朝・大朝(朝日新聞社)は248万と大きく負けていた。
気分を害した芙美子は、信子に対抗して、朝日新聞社と契約を結んだ。
芙美子は、二大全国紙の「代理戦争」を自ら買って出た。
海軍班に属し後方から視察した信子。
団体行動から離れ朝日新聞社のフオード製トラックを駆使して、特派員として漢口に一番乗りした芙美子。
情況を精細につかんだ芙美子は、迫力ある文を書き、信子を圧倒した。
信子は、前年『戦禍の北支上海を行く』を発刊したが、芙美子に出遅れた漢口従軍では単行本を書くことはなかった。
芙美子は、漢口従軍体験を書簡体『戦線』と日記体『北岸部隊』の二冊に書き分け発刊した。
「戦場にある人間感情を女の魂が掴んだ三百枚の大記録」と銘打たれた『北岸部隊』が文学作品としても評価された。
朝日新聞への功も大だった。
芙美子の完勝だった。
芙美子は、ライバルによって作家としての力を磨いていく。
そして芙美子らしい表現を探求していく。
ほとんどの作家が、芙美子より恵まれた環境で育ったと確信していた。
策を弄する以外、生き残れないと、割り切った。
時を経ると、考えも変わっていくが。