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芙美子の結婚|林芙美子 「放浪記」を創る(9)

だぶんやぶんこ


約 8955

 駒込本郷蓬莱町(本郷区)の下宿屋、大和館の飯田徳太郎の部屋で芙美子を見つめた男性。

穏やかな笑顔だった。

芙美子もつられて穏やかな気分になりじっと見つめ、微笑み返した。

気負いつつも、情けなくみじめな気分を一掃しきれない芙美子の内面のもやもやが消えていく。

飯田と同じ下宿に住む手塚(まさ)(はる)との出会いだった。

芙美子より一歳年上の24歳の画学生だ。

長野県下高井郡平岡村(長野県中野市)の養蚕(ようさん)農家(のうか)の次男だ。

農家だが、養蚕(ようさん)業にも携わっていた。

明治の世が始まる頃から、主力を養蚕(ようさん)業とした。

養蚕業の輸出が急激に伸びたからだ。

養蚕(ようさん)業は、日本の近代化(富国強兵)の礎を築く「外貨獲得産業」として重要視され、町を上げて養蚕(ようさん)業の生産に取り組み、町の経済を潤す主力にした。

作り出される生糸(絹)は、飛ぶように売れ、町も生産者も裕福になった。

そのため、手塚(まさ)(はる)も、東京に出て、親の仕送りを受けながら洋画の勉強をすることが出来た。

高級絹織物となる生糸は古くから生産されていたが品質が悪く、高品質の生糸は中国から輸入していた。

江戸幕府は、高値であり、代金として支払う銅の流出も防ぎたいし、また鎖国政策で輸入が減ることもあり、国内生産を奨励。

ここから、風の強い信濃は、蚕に害虫が付きにくく安定した生産が見込まれ、養蚕(ようさん)業が伸びていく。

幕末、横浜開港。

この頃ヨ-ロッパで、蚕に伝染病が広まり、生糸業は壊滅的痛手を受けていた。

ここから、蚕のたまごと生糸が飛ぶように売れ主力輸出品となった。

信州信濃では、農家が軒並み養蚕(ようさん)業に従事し、日本の輸出量の三分の一を占めるまでになる。

この勢いは、第一次世界大戦終結後も続くが、1929年の世界大恐慌のあおりや人工素材の開発で、終わる。

1926年(昭和元年)10月、芙美子は生涯の伴侶となる人と出会ったのだ。

文学の道を歩む仲間達との緊張感・競争に疲れていた時だった。

思想を論じる気はないし、社会運動をする気もなかった。

芙美子自身の内面の葛藤と向き合い、どう表現するかに悩むけれど、書く素材は日常生活にあふれている。

庶民の暮らしを目の当たりにしていれば、書く意欲が湧き出てくるのであり、それでよかった。

芙美子独自の表現をどん欲に目指し、芙美子独自の感性で、生きている人を素直に描きたい、それだけだ。

(まさ)(はる)は、かっての恋人、岡野と重なりあうところがあった。

取り立てて金持ちでも、知的でもないけれど、育ちの良さがにじみでいる。

芙美子と真正面から向き合うことなく、にこやかに少し間をおいて付き合ってくれそうだった。

芙美子の頭の中は言葉があふれ重くて仕方がなかった。

今にも爆発しそうな愛しい頭を、受け止めて守ってくれる人が欲しかった。

この人かもしれないとひらめいた。

すぐに顔に出る。

顔いっぱいの笑顔で真正面に緑敏を見て、逃がすことはなかった。

芙美子は緑敏に「飯田さんと同じように雑誌を作っているの」と尋ねた。

緑敏は首を振った。「絵を描いている」と言いながら。

芙美子はこれ以上ない笑顔で手をたたいた。

芙美子も絵が好きで「画家になりたい」と思った時があるほどだ。

印刷絵だが数多くの画家の絵を見ており見識もある。

すぐに「見せて」と緑敏の部屋に行こうとする。

緑敏は困ったような顔をしながらも、芙美子を部屋に連れて行った。

丹念に描かれた絵を見て、その思いを聞く。

落ち着いてゆっくり的を得た答えをする緑敏に探し求めていた人だと、全身が震えるほどに感じる。

それからは、取り憑かれたように、時間を作り会いに行く。

会えば会うほど、共通の価値観を感じた。

もう芙美子は止まらない。この人しかいないと決めた。

おもむろに、芙美子を好きかと問うた。

緑敏はさわやかな笑顔を返すだけだが、芙美子を好きなのだと感じた。

10月の終わりに出会い12月の終わりには押しかけ同棲を始める。

緑敏は、いつもの笑顔で芙美子を迎え入れた。

そこで、芙美子は、何度も失敗した経験を繰り返したくなくて、意を決して「どうしても結婚式を挙げたい」と言う。

すると、緑敏もうなずいた。

何があっても結婚したかった。

その思いは強烈だったが、あっさり実現した。

拍子抜けし、しばらく呆然としてしまった。

きちんと式を挙げ、過去にけじめをつけて、新婚生活を始める。

この夢は、ついに成就した。

芙美子、23歳は、緑敏との結婚する。

親しい詩人・演劇家などの友人を招いてのお披露目だけだが、芙美子の唐突な願いに快く応じる緑敏がたまらなく好きだった。

結婚後もカフェーでの仕事を続けるが、精神的に安定した。

緑敏には、よく理解できないまま事が進んだ。

すべて芙美子が主導権を握り、出会いから二か月後には芙美子は転がり込んだ。

芙美子の寂しげな目の奥に燃え上がる炎を見て魅せられ、受け入れ、単純にも守ってあげたいと思った。

その心を見透かしたように芙美子は「結婚しよう」と言い、うなずいたのだ。

戦争の影がちらつき、いずれ兵役もあるという不安な日々で一人前の画家になるには程遠く、年齢的にも、両親にこれ以上の仕送りを望みたくなかった。

浅草の劇場の大道具として絵を描き日々をしのぐ、情けない暮らしだった。

親族一同の期待を背に受けて東京に出たが、甘くはなかった。

比べて、芙美子はカフェで稼ぎ、見るからに羽振りがよかった。

緑敏の心の動きを見透かしたように「暮らしは任せて。大丈夫よ」と胸を張っている。

二人でいれば生活は安定し、画作に励めそうだ。

それはとても安心できる。いい話だ。

しかも、芙美子は家事が得意で、てきぱきと済ませ、料理はプロ顔負けの腕だ。

話しながら歌いながらおいしい料理を次々創る可愛いお嫁さんなのだ。

ただすさまじく怒る時もあり、また夢中になって書き続けるときもあり、そして大きな声で一人歌手になったかのように酔いながら歌う時もある。

七変化を簡単に演じる今まで会ったことのない不可思議な人だ。

あれこれ考えるのも面倒くさく、どんな暮らしが待っているのかもわからないが「芙美子の言うままに生きるのもいいか」と思ったのだ。

1927年初頭、芙美子は「一間では書けない。いやだ」と言いだした。

「作家なのだ。書斎が欲しい」と。

しかたなく、緑敏は、2間がある貸間を探す。

杉並町高円寺の西武電車車庫裏にある山本方の二階を見つけた。

芙美子も納得、部屋数があり間借りすると決め、引っ越した。

ところが、すぐに「一軒家じゃないと嫌だ」と言い出した。

「すぐ気が変わるのだから」とブツブツ言いながら、緑敏は芙美子の気に入る家を探す。

そして5月、杉並区和田堀町の妙法寺境内にある借家を見つけた。

芙美子は嬉しそうにうなづき、移る。

すると「やっと新婚生活が始まった」と感極まって泣き続けた。

芙美子はよく泣く。

「良い時も悪い時も、境はよくわからないし、なぜだかわからないが、泣いている」と緑敏には不思議だ。

具体的に引っ越すのは緑敏の仕事で芙美子は書く意欲が湧き出て書くばかりだ。

「創作活動に専念するのが作家なのだ」と威張っている。

緑敏がこまごまとした暮らしの道具をそろえていくと「良い家になった」と、にこにこだ。

頭から湯気が出そうなほどいかつい顔をして文を書いていたのに「結婚してよかった」と急に緑敏に抱きつく。

顔の表情も、すぐ変わる。

緑敏は、結婚の始まりから主夫だった。

芙美子は、カフェでの働きも辞めず、高収入を得ながら書き続ける超多忙な毎日だ。

それでも、緑敏をじっと見つめ、目が輝いていた。

緑敏のことが、好きで好きでたまらないと、小さな身体に愛が満ちていた。

新しい家の暮らしが落ち着くと、母や友に引き合わせたくなった。

「旅行に行こう」と緑敏を強引に引っ張り出した。

目指すは尾道、緑敏の手を固く握り歩く。

車中、緑敏の横顔を見ながら、つい8ヶ月前別れを告げた尾道に最愛の人と行ける幸せに、小さい身体が飛びはねる。

興奮で輝く芙美子は美しかった。

尾道の知り合いすべてに我が夫、緑敏を自慢げに紹介して回る。

緑敏は苦笑いをしながらも芙美子のそばを離れず、紹介されると、にこにこといつもの笑顔で挨拶する。

ここで、胸を張って岡野と最後の別れをしたのだった。

続いて、高松にいた両親にも会って結婚の報告をした。

芙美子は夫、緑敏とは知り合って間がなく、よく理解しているとは思わない。

寄り添って歩き、話すとちゃんと聞いてくれる。

それだけで「緑敏を見つけたよ。結婚したんだよ」と世界の幸せを独り占めにしたような気分だ。

夫、緑敏は芙美子の大げさな幸せオーラに、ゆったりと応える。

芙美子一人ではしゃぎながら、ゆっくりとのんびりとした二人だけの旅をした。幸せをかみしめた。

戻ってからもめちゃくちゃに働く。

12月には「文芸公論」「文章倶楽部」「文芸戦線」に掲載を続けながら「歌日記」を書上げる。

後に「放浪記」と名がつく「歌日記」。

日記の形式で書き続けていた。

詩も短歌も手紙もなんでもありの宝物の詰まったメモであり、どんどんたまっていた。

文章を書く方が詩よりお金になる事を知って以来、小説を書きたかった。

小説家、芙美子のイメ-ジが描けず、悩んだが、出来ることをしようと、書き溜めた詩や短歌を文に変えて「歌日記」を仕上げていく。

そして、ようやく、形になった。

嬉しさでルンルンになり「歌日記」の売り込みを始める。

1927年は結婚してよかったと、笑顔を抑えるのが難しいほど幸せな一年だった。

 翌1928年は、生涯忘れられない年となる。

にこにこと超多忙な暮らしを続けつつ、楽しんでいた。

緑敏が雑用すべて引き受けてくれ、好きなことばかり出来る毎日は充実していた。

1月、「文芸戦線」に「海の見えない町」を掲載。

2月、「文芸戦線」に「いとしのカチウシャ」を掲載。

3月、「文芸戦線」に「朱帆は海へ出た」、「洗濯板」を掲載。

精力的に作品を発表し、まだ先は見えないが手応えを感じていた。

きっと日の目を見る。爆発的にヒットする日が来る。と確信出来た。

そこで、緑敏への感謝の気持ちと夫の両親や親族に会いたくなった。

緑敏に「生まれ育ったところを見たい。連れてって」とねだる。

夏、夫の故郷、信州に旅することになる。

夫の実家を訪ね「妻です」と紹介する緑敏の横顔がまぶしい。

緑敏の家族との初めての顔合わせを無事すませ、緊張がほぐれて旅する芙美子の目に映る信州の山々は、鮮やかな緑に満ちていた。

その後、籠っての執筆や疎開など事あるごとに訪れる尾道の次の故郷になる。

7月、長谷川時雨(1879-1941)の主宰する「女人芸術」が創刊される。

芙美子は直接、長谷川(はせがわ)時雨(しぐれ)と面識はなかったが、たい子に誘われ、連れられ参加を表明。

8月、「女人芸術」に詩「黍畑」が掲載される。

商業文芸雑誌『女人芸術』は、長谷川(はせがわ)時雨(しぐれ)が女性作家の発表の機会を作り地位向上に尽くすとの心意気で作った。

時雨(しぐれ)に見いだされ、強力な後押しで有名流行作家となった夫、三上於菟吉の資金を使い作られた。

岡田八千代・田村俊子・柳原白蓮・平塚らいてう・長谷川かな女・深尾須磨子・岡本かの子・鷹野つぎ・高群逸枝・八木あき・坂西志保・板垣直子・中村汀女・大谷藤子・森茉莉・窪川稲子・平林たい子・円地文子・田中千代・大石千代子など、当時の女流文学を代表する面々が参加した。

時雨(しぐれ)の父は1872年、日本で初めて大言人(弁護士)の免許が発行された時、第一期生となった名士だ。

東京市会(東京市の議会)の有力議員でもある。

長谷川(はせがわ)時雨(しぐれ)と出会い、『女人芸術』創刊の趣旨に賛同し、あちこちに売り込んでいた「歌日記」を見せる。

育ちの良い時雨には、放浪暮らしは理解できないし、生き方とは相容れない内容であり、下品だと興味を示さなかった。

芙美子はその評価に、はらわたが煮えくり返る思いだった。

この人は、文学を、芙美子を、理解できないと決めつけた。

ところが早稲田大学で学んだ夫、於菟吉が読み感動したのだ。

時雨(しぐれ)に掲載すべきだと強力に推薦し、やむなく、時雨(しぐれ)も同意する。

そして於菟吉は思いを込めて題名をつける。

10月、芙美子の歌日記は「秋が来たんだ ―放浪記―」となり「女人芸術」に連載が始まった。

あちこちに持ち込んでは断られていた芙美子だ。

時雨(しぐれ)のあからさまな侮蔑の表情を見て、反発しつつも「やっぱり、だめだ」と発表は諦めかけていた。

その時雨(しぐれ)から連載したいと言われ、一瞬呆然とした。

何か意図があるのではと、どぎまぎしながら、ただ頭を下げた。

それでもすぐに「私が書いたのだ。当然だ。幸運が巡り来たのだ」と思い始める。

小走りに家に戻る。

家に戻ると緑敏に「読んで」と大声で叫んだ。

今まで詩を朗読したり見せたりしたが、小説を読んでと言うのは初めてだった。

緑敏はいつものように目を通し「いいね。面白いよ」と言う。

その返事しかないのはわかっていたが、期待していた答えだ。

それでも、いつもより声に力があると思えた。

芙美子の迫力に押されただけかもしれなかったが。

この答えで落ち着き自信が出る。

「連載が決まったのよ」と胸を張る。

「(時雨が)認めたのだ。きっと評価を得る」と何度も何度も自分に言い聞かせ、再度推敲し、時雨に渡す。

時雨は、無表情だった。

連載が始まる。

気にしない風を装いながら、おそるおそる皆の反応をうかがう。

大好評だった。

読者は、芙美子の文に共感したのだ。

少女の思いをそのままぶつけた大胆で生々しい文に新鮮な感動を感じたのだ。

ここで芙美子は「宿命的な放浪者」になった。

それは芙美子の描く虚像だが、芙美子は気に入っていた。

自分はそのイメージの女なのだと、嬉しくて仕方がない。

 東京という大都会の底辺でみじめな生活を送りながらも、したたかに生きる「私」が主人公だ。

その生き様が躍るような生き生きとした文章で描かれ、思わす引き込まれる。

行商で得た多くの経験で何が聞く人の心に響くか、芙美子にはよく分っており書き綴った。

芙美子の読者を掴む感性が認められたのだと、自分に言い聞かすが、とても、信じられない。

「これは夢だ。これはまぼろしさだ」つぶやく。

それでも、次第に、頭が上がり、胸を張り、得意げな笑顔を振りまいていく。

流行作家らしい暮らしに変身すると、胸がときめく。

その時、緑敏の祖母が亡くなったとの知らせが入る。

「葬式には出なくてもいい」と緑敏は言う。

ところが芙美子は「絶対に行かなくてはいけない」と渋る緑敏を追い立て、信州に二人で行く。

芙美子25歳、作家らしく緑敏の妻らしく、威厳をもって葬式に望んだ。

親戚一同から感謝され、家族の一員となったことを実感する良い葬式だった。

葬式なのに、万歳と叫びたい気分になる。

信州の山々に囲まれ、緑敏の手を握り、幸せを満喫する。

緑敏も満足の笑顔だった。

ここから、雑誌社から原稿料の出る原稿依頼が来るようになる。

作家としての収入を得るようになった。

やっと作家になった実感が湧く。

にこにこと緑敏にごちそうを作り、共にお酒を飲みながら「私は、立派な流行作家」と自慢する。

緑敏もにこにことうなづく。

翌1929年(昭和四年)夏「女人芸術」に参加する新人の発掘と資金集めの為に、地方を回る文芸講演会を開くことに決まる。

ここで、芙美子は、尾道・門司での講演会を強力に推し、率先して参加した。

筋金入りの思想家、八木秋子・文学者、五来欣造早大教授と共に行く。

流行作家になったことを見せびらかしたくて、尾道・門司での講演会を推したのだ。皆が納得する成果を上げなくてはと、気負い肩ひじ張って東京を出た。

尾道に降り立った時、感無量で涙が出た。

事前に連絡し、協力を頼んだ恩師や学友達が出迎えてくれた。

再会の喜びの中で、講演会の成功をくれぐれも頼む。

皆、芙美子のためによく頑張ってくれた。

彼らの前で作家としての講演をし、支援を頼む。

夢は実現することを、身をもって示した。

次いで、門司に降り立つ。

仲間と共に、緊張しながらも、芙美子は自信をもって、表現することの魅力・詩人の道を進むことの意義を講演する。

もちろん父らを呼んでいた。

父に「流行作家になりました」と澄まして報告する。

そして威厳をもって、集まった人々に挨拶し支援を願う。

一流女流作家のように。 

収入も少なくこれから先どうなるのかも不安でとても成功した作家の実感はなかったが、会う人すべてに流行作家のような笑顔の挨拶を心がけた。

「女人芸術」には名家で育ち、大学まで出た女流作家が集っていた。

作家としての才だけでは勝てないライバルばかりだ。

流行作家として伸びていくためには、彼女たちの先頭に立たなければならない。

負けられないと芙美子は、独自の強烈な個性を全面に出し、作家を気取る。

連載は大好評のまま続いた。

翌1930年、芙美子27歳、初の単行本『放浪記』が念願の一流出版社、改造社から出版される。

売れ行きは好調で、大ヒットだった。

続いて『続放浪記』の出版を望まれ、書いた。

こうして、合わせて六十万部売れた。

当時としては考えられない空前の大ヒットだ。

「宿命的に放浪者」それは作家、林芙美子が、林ふみこを元に作り上げた虚像に過ぎない。

だが、読者の心をつかんだのだ。

「あり得ない」と芙美子自身が思うほどに読者の心をつかんだのだ。

何度も何度も読者を得たいと念じ、書き直した、練りに練った文が読まれたのだ。書き直しは大成功だった。

大粒の涙を流しながら大笑いだ。

夫、緑敏は素直に「よく頑張ったね。やっぱり俺とは才能が違う」とほめてくれた。

何も返事できなかった。

間をおいて「運がよかった。時勢に合っていたのよ。それだけ」と控えめに話す。

これだけでは終われないし、終わりたくない。

これからが勝負と気を引き締める。

昭和(しょうわ)恐慌(きょうこう)の間只中だった。

1930年(昭和五)から1931年(六年)に起きた、日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌だ。

1929年(昭和4年)秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本に及んだのだ。

第一次世界大戦後の戦後不況。

続いて関東大震災後の震災不況。

それに重なっての世界恐慌であり、昭和恐慌だった。

大手銀行や企業がばたばた倒産した。

町には失業者が溢れ、農村の娘は集団で町に出て女工になった。

尾道でも、本通りの老舗が閉まってしまった。豊かな子女の集まる女学校でも授業料・緒会費を滞納する生徒も出る。

第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊によって銀行が抱えた不良債権が、減ることなく増え続け莫大となったためだ。

ここで従来の金融システムが立ち行かなくなり、その後、金本位制を目的とした緊縮的な金融政策が実行される。

緊縮財政下、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。

どうにもならない日々の暮らしの中で「放浪記」は、人々の共感を呼んだ。

芙美子は、社会の反映でしかない本の売れ行きに、作家の意味を考える。

緑敏の実家も大きな打撃を受けた。

緑敏は、実家を頼ることなく、自立すると決意した。

芙美子と共に生きるんだと改めて思う。

芙美子と結婚していてよかったと心から思う。

芙美子が愛しかった。

 芙美子の暮らしは、昭和不況に負けることはない。

それでも、将来の作家人生・日本の先行き不安に、どう対処すべきなのか、課題はある。 以後、言い出しっぺは芙美子だが、(まさ)(はる)にフォローされながらと共に立ち向かっていく。