芙美子の放浪の始まり|林芙美子 「放浪記」を創る(2)
だぶんやぶんこ
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母は父と別れると決意する。
ただ別れるだけではない。
キクにも愛する人がおり、二人で新しい暮らしを始めるのだ。
その相手は、いつも目の前にいた、沢井喜三郎だ。
沢井は父の行商仲間だった。
父から手伝いを頼まれ、父のもとで働くようになり頭角を現し番頭となった。
以来、母と一緒に仕事をすることが増えた。
母は、沢井のきびきびした動き、働き振りを気に入っていた。
沢井も面倒見が良く店を清潔に保ち手際よく働く母を慕った。
父のあまりにひどい仕打ちを嘆く母に同情した沢井は「一緒に商売しよう」と言い出した。
母は、沢井の真剣な顔を見つめ、晴れ晴れとした笑顔でうなづいた。
沢井のその言葉を待っていたのだ。
味方を得た母は、勇気百倍、目の前で繰り広げられる父の裏切りを、激しくののしり罵倒し、決別を宣言し、1910年2月、家を出る。
母は父の恋に対抗するかのように、19歳も年下の沢井と燃える恋をしたのだ。
誇らしげに沢井と手に手を取って芙美子を連れ、家を出た。
ここから、芙美子の放浪の時が始まった。
沢井は岡山県児島の出身だった。
児島から海を隔てて前にある四国高松で商売をするつもりで働いていた。
だが、急に飛び出してしまい、準備が足りない。
そこで、まず暮らしを立て、資金を貯めなくてはと、土地勘があり仕入れもできる「軍人屋」の長崎支店の近郊で行商を始める。
芙美子は小学校に入る歳になっていた。
4月になると、間借り先の近くの長崎市勝山尋常小学校に入学した。
芙美子は木賃宿から学校に通うことになった。
お嬢様として欲しい物は何でもあった暮らしから、身の回り品だけしかない暮らしとなってしまった。
母もそれどころではなく、入学の準備は何もなかった。
感受性の強い芙美子だ。
不安でいやだなと思いつつ、おっかなびっくりで学校に行くと、やはり、級友はいろいろ学用品を持っていた。
芙美子は、学用品らしきものを持っていない。
級友と面と向かい合うことも出来ず、恥ずかしく教室内に居ることが耐えられなくなる。
母には言えず、黙って、登校を拒否した。
登校拒否を知った母は、一人っ子の女の子だから共学の学校になじめないのだと思い込む。
そこで、佐世保に移って行商を始め、女の子だけの佐世保市八幡女児尋常小学校に転校させる。
芙美子は、芙美子の心を踏みにじる母の浅知恵に怒った。
「木賃宿から学校に行く子はいないし、行ってもいじめられる」と、またも登校拒否だ。
今度は、母に当たり散らし思いの丈をぶつけた。
ようやく、母も理解し「落ち着き場所を探さなくては」と沢井と話す。
父、宮田は、伊予木綿(白木綿)の産地、東予地方(四国中央市など含む)に生まれた。
その為、扇屋は伊予木綿の扱いが多く、一番人気だった。
一時期、この地は木綿栽培に従事する家ばかりで、綿打ち音が高らかに響いた。そして全国に出荷した。
全国で求められるほどの良質の木綿であり、伊予木綿の名は知れ渡った。
廉価な輸入品が入り大量生産できる紡績工業が伸びるとすたれるが。
伊予木綿で織られる伊予絣も一世風靡した。
人々の洋風化と共にすたれていくが。
父は木綿の扱いが得意だった。
また、書にふさわしいにじみの少ない和紙、伊予紙の生産地でもあり、高い人気で、よく扱った。
近くの砥部町は、良質の陶石と燃料の松の木に恵まれて、砥部焼茶碗や和食器が作られ一大産業となっていた。
そこで、陶磁器の販売もし、陶磁器への目も肥えていく。
庶民的な商品で明治大正時代に一気に伸びたが、他地域の生産が増え競争が激しくなると勢いはなくなる。
いろんな商品の中で育った父、宮田は、見る目を磨いた。
時勢を見ながら臨機応変に扱う品々を変え、商売する素養を身に着けたのだ。
母と沢井も父の商売の方法をよく見ていた。
そこで、母と沢井は木綿の日常着が、扱いなれており売れると的を絞った。
1911年1月、関後地村(赤間関市から下関市)で古着商を開く。
父、宮田が本店を移したため、いなくなった「軍人屋」を引き継ぐように、商売を始めたのだ。
ここでようやく、そこそこの売り上げを得て普通の生活が送れるようになる。
母は芙美子に「約束を果たしたよ」とおおいばりで下関市名池尋常小学校へ転校させた。
芙美子の学用品も揃えた。
こうして、芙美子の第一期放浪の時は一年で終わった。
やむなく芙美子はおとなしく学校に行く。
だが、一年近く学校に行かなかった差は大きく授業がわからない。
負けず嫌いの芙美子は、頭を下げるのは嫌いで正直には言えず勉強しなかった。
級友に馬鹿にされるのは耐えられない。
そこで、級友を無視し、勉強嫌いのふりをした。
それでも、読み書きだけは興味があった。
母や沢井の手伝いをしながら時々本を見つけて眺めていた。
読めないのは情けなかった。
どうしても、きちんと、読みたかった。
その思いだけで学校に通う。
最初は先生が何を教えているのか、さっぱりわからなかったが、記憶力は抜群で、覚えこんだ。
先生の言葉すべてを覚え込むと、何とか読めるようになる。
すると勉強が楽しくなり、読み書きだけは頑張った。
他の科目は、勉強しないが、それでも、座っているだけで覚え込むと、繋がっていき、他の教科も普通並みになる。
そのうち、父の店が近くにあると知る。
この頃、父は九州一の貿易港として栄えた門司に戻り、本店とし住んでいた。
海を挟んで下関の目の前に門司があり、船に乗り海を渡ると、芙美子でも簡単に行けるのだ。
知らなかったが、芙美子出生の地だ。
なんとなく親近感があった。
遊びに行きたいと母にせがみ、やむなく母も応じた。
母が父と連絡を取り待ち合わせの手配を整えて、芙美子を船に乗せた。
まだ9歳の芙美子だ。
最初は門司港で迎えを待つ。
すぐに見つけてくれて父のもとに行く。
父と母は連絡を取り合っていたことを知る。
不安の中で船に乗ったが、簡単なことだった。
次からは胸張って一人で行く。
一人前の大人になった気分で、嬉しくて堂々と父に会うことができる。
裕福な父は笑顔で芙美子を迎え欲しい物を買ってくれ、小遣いを渡した。
父のやさしさに触れ、お小遣いをもらうのは、たまらない喜びだった。
お金があると欲しいものが手に入るのだ。
何処か不思議な感覚で、かっての豊かな暮らしが蘇る。
父のもとで暮らしたい昔に戻りたいと思うが、出来ないことだとわかっていた。
母を悲しませることは言ってはならないのだ。
それでも、さわやかな潮風は良いことを運んでくると、海が大好きになる。
父の店で働く人や、同年代のその子たちとも親しくなる。
だが、1914年、芙美子11歳、四年生の終り頃だった。
人の好い沢井は、掛け売りを増やし回収できなくなり、商売が行き詰った。
三年続いた店が倒産し、母と沢井と芙美子は夜逃げする。
行商暮らしに戻る。
ここで母は悩む。
行商暮らしでは芙美子が学校に行かないことが目に見えていたからだ。
父、宮田に預けてもいいが、意地でも、芙美子を渡したくなかった。
残るは、鹿児島の実家しかなかった。
母が学んだ地であり教育環境はよかった。
頭を下げたくなかったが、父よりまだましだと祖母に「必ず学校に行かせて欲しい」と頼み芙美子を預ける。
祖母は、会ったこともなかった孫娘をポンと渡され、ただ、驚いた。
母はすぐに沢井の元に戻ってしまった。
ここから、詳しい経緯も何の説明もしない母への怒りがこみ上がった。
芙美子を見て憎々しげに「親の言うことを何一つ守らなかったキクに生き写しだ」と嫌味を言うまでになる。
娘、キクのことをずっと心配し続けていた祖母だった。
長く会わないままだったが、ようやく会えた。
だが、今まで以上に心配させる引きつったような顔で戻り、どうしようもなくいらだったのだ。
祖母は山下尋常小学校への転入手続きをしてくれた。
芙美子は五年生になる。
だが、芙美子は嫌われていると感じると、すぐに、自分の方から嫌う性格だ。
しかも、小学校の授業が面白くないことを知っていた。
祖母がなにを言おうとも無視し、学校には行かなかった。
母からの仕送りも途絶えがちで、祖母にも余裕はない。
祖母も、学校に行けばお金がかかると、学校に行くようにと言わなくなる。
芙美子には、好き勝手な行動でわがままだと思う時もあるが、いつも気に掛けてくれる大切な母だった。
母を嫌う家は、芙美子が嫌う家だ。
仕送りが途絶えると、祖母は芙美子に「食い扶持ぐらいは働きなさい」と家事手伝いをするように命じた。
芙美子も恩着せられてまで、世話にはなりたくなかった。
働けることは働こうと思う。
女中代わりに使われ反発もしたが、芙美子は家事が嫌いではなかった。
特に、海の幸に恵まれた鹿児島での料理の手伝いは、楽しくて仕方がなかった。
母は芙美子の物覚えの良さを知っており勉強させたかった。
仕送りができなくても学校に入っていると信じていた。
ところが、学校に行かずに家事手伝いをさせられていると知り激怒した。
飛んできて、祖母に「信頼していたのに情けない、もう二度と芙美子は預けない」ときっぱり言い切った。
芙美子は大喜びで「母と居たい」としがみつき、母は「悪かったね。ごめんね」と涙を浮かべ、連れて戻る。
春から夏へと短く熱い鹿児島の暮らしは終わる。
飛び跳ねるようににこにこと、母と沢井の行商についていく暮らしとなる。
二度目の放浪の時が始まった。
芙美子は澄まして母に「もう学校は卒業した。学校には行かない」と話す。
「好きな本を読む力はつけたし、行商もできるし計算は(母より)速い。もう十分だよ」と母を説得した。
きらきらと澄んだ目で真剣によどみなく話す芙美子を見つめ「私の気も知らないでよく言うよ」と母はため息をつく。
母に心配をかけまいと芙美子が一生懸命話していることがよくわかり、胸にこみ上げるものがあった。
「まずは稼がないといけない」と決意し、芙美子を見てうなづいた。
1914年(大正3年)、九州の炭鉱街、直方市須崎町界隈、明神町入口屋に半年間住まう。
賑わう炭鉱の町で、芙美子は母と沢井を手伝いながら、行商の仕組みを知る。
この宿で、留守番することもあった。
その時、入口屋宿主、栗原末吉の長女、渡辺ヤエノと知り合う。
芙美子は、話し好きで面白く、渡辺ヤエノが、友だちになりたいと近づいてきた。
恐れで用心深い芙美子にとって、頼もしい友となる人であり、とても嬉しかった。
ヤエノも芙美子と一緒が嬉しくて、町を案内したり、共に遊んだ。
ここで、映画「カチューシャ」を観た。
面白かった。
木賃宿に置き忘れられた少女雑誌を見つける。
汚いぼろぼろの本だけど読みながら涙し、感動した。あの胸震わせる感動を忘れられない。
母に「もっともっと本を読みたい」とせがんだ。
母は貸本屋を見つけ、借りてもいいと言ってくれた。
それからは、手当たり次第に借りて読み、木賃宿の暮らしが楽しくなる。
その様子を見て母は芙美子の為に「留守番をしていなさい」と時間を作るようにする。
両親が行商している留守に芙美子は木賃宿で本を読みふけり、一人にやにやにこにこと最高の時を過ごす。
貸本屋で出会った友達やヤエノと遊び、炭鉱の町を動き回り、目に焼き付ける。
学校には行かなかったが、とても有意義な時間だった。
次第に、本を読みながら想像の世界に浸ることに夢中になる。
現実の孤独な生活が別世界に移って、芙美子のあこがれる自由で華やかな世界に芙美子がいるのだ。
芙美子が主人公で何でも出来るのだった。
悲劇の主人公になって、涙ポロポロとなるときもあるが。
いつもいつも自分の時間ばかりではいけない。
母を手伝わなければと、近くでの行商には、付いていく。
記憶力は抜群で、覚えたことはすぐに話したくなる性格だ。
愛くるしく輝く目で芙美子は想像の世界を客の一人に語る。
その客はうなづき熱心に聞く。
すると、通る人がつい立ち止まり、「なにの話なの」と乗ってくる。
そこで、何度も頭に描いた芙美子の世界をとうとうと話し、通行人を引き込む。芙美子の話術はこの頃から巧みになる。
通行人は芙美子の生い立ちから今も苦しい暮らしのあれこれを聞かされ、同情し、何かの役に立ちたいと喜んで、勧められるままに買っていく。 こんな暮らしを続けて、芙美子は肉体的にも大人に近づく。