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11 貞奴の最後|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 9419

1938年、桃介が亡くなったが、貞奴は、まだ八年生きる。

(さだ)(やっこ)は、桃介の死を知り「私を見捨てて先に逝ってしまったのですね。私を幸せにすると行ったのに役目を果たさず亡くなって、恨みますよ」とぶつぶつを言いながらも、冷静だった。

努力の人であり、天才であり、恵まれた天分をそのまま発揮することで生きてきた。

富も権力も求めず、持てるものはすべて出し切って死にたいと新たに決意しただけだ。

すでに、貞奴は、桃介と話し合い、後継者を決めていた。

自分の子ではないが、音二郎の子、(1897-)を養子とし後継者にすると。

そして1920年、桃介のいとこの子、岩崎本家、岩崎藤太郎の孫、冨司(とみじ)を養女とした。

1924年(大正一三年)1月、養子、広三27歳と養女、冨司18歳が結婚。

貞奴の後継ぎであり、最後を看取る人が出来ていた。  

貞奴は、二人のために、二葉御殿に増築して新居の住まいとした。

夫婦仲もよく、冨司(とみじ)に孫、初子もできて安心だった。

名古屋を引き払い東京に本拠を移す時、二葉御殿を任せた。

冨司(とみじ)は、桃介の勉学を支えた岩崎本家の娘だった。

貞奴と桃介の晩年を意識して、二人に看取ってもらおうと、貞奴が決めたのだ。

東京に移って後も貞奴と桃介は、二葉御殿をしばしば訪ねている。

孫は、ふたりを実の祖父母と思って育った。

貞奴は使用人に厳しく、こわい人だったが、家族には優しかった。

だが桃介を実家に戻すと、(さだ)(やっこ)にはどちらも後継とは思えない。

老後を任す気にはならなかった

(さだ)(やっこ)は、音二郎の実家も大事にしたつもりだった。

川上座を立ち上げた時、音二郎は、兄弟に集まるよう呼びかけたが、応じたのは弟、磯二郎だけだった。

その後、妹、カツの小さな三人の娘が、次々音次郎に預けられた。

姉がシゲ(1887-)で、妹がつる子(1889-1961)末っ子が澄子だ。

(さだ)(やっこ)は三人を可愛がり、皆よくなついて本当の親子のようになる。

三人とも、(さだ)(やっこ)を可愛く真似て、芸を覚え、役者が大好きになる。

1899年、借金取りに追われて海外逃亡を企てた時、シゲを伴った。

船に一人しか乗せられず、つる子はまだ幼いと、母、可免(かめ)に預けた。

シゲは、音二郎・(さだ)(やっこ)と共に小舟に身を潜め、にこにこしていた。

だが、咎められ、海外に連れて行ってはならないと命じられ断念した。

やむなく、母、可免(かめ)に預けたが、その時の経験が辛かったのか、しばらく後、福岡に戻った。

続いて、初めての海外巡業でアメリカに向かった川上一座。

そこに、立派な子役スターとして、妹、つる子を伴った。

(さだ)(やっこ)から離れない(さだ)(やっこ)の生き写しのような少女だった。

サンフランシスコの舞台では、主演の(さだ)(やっこ)と共に、舞台に出て堂々と演じる。

二人の出番は増え、つる子は楽しくて仕方がない様子でスター気分だ。

まもなく、一座の興行収入を持ち逃げされる事件が起き、サンフランシスコで立ち往生した。

その時、成功した日系人がカンパを集めてくれ、何とか公演を続け立ち直る。

その中の一人、日本人画家、青木年雄(1853-1912)がつる子の舞台姿のかわいらしさに目を留め、ぜひ養女にと申し出た。

アメリカでは、子供の舞台出演は厳しく規制され、一座は困窮しており、つる子を連れて行くのに不安があった。

(さだ)(やっこ)は、我が子と思い育てたつる子を離したくなかった。

だが「青木は預けるに足る人物であり、これから先を思うとつる子の為だ」と音二郎は言う。

つる子に訳を話し謝るが、つる子は平気で、練習してもっとうまくなるから迎えに来てと、にっこりだ。

まだ10歳のつる子を預けるのはつらく、この別れのつらさを、終生忘れない。

(さだ)(やっこ)には出来すぎた良い子だった。

つる子は、演芸好きの青木に大切に育てられ英語を学び学業にも打ち込んだが、23歳の時、青木は亡くなった。

残されたつる子は、演劇を学びつつ、この地で役者として活躍する。

その東洋的俳優の才を見込んだ「エグザミナー」紙の女性記者が本格的に演劇を学ぶよう勧め、自宅に迎え、ロサンジェルスのイーガン・ドラマティック・スクールで学ばせた。

こうして、つる子は誰もが認める女優となり、(さだ)(やっこ)の願い通りとなった。

1910年頃、アメリカに定住し、農業で成功した日系人らは、7万人を超え続々増えていた。

皆故郷を想う気持ちは強い。

そこで、日系人相手の映画を作り儲けようとしたのが、プロデューサー、インス。

ハリウッドに日本人俳優を集め、映画の製作を始めた。

まず、声を掛けられたのが、東洋的美人で演技力も確かなつる子だった。

1913年『ツルさんの誓い』に主役級で出演し、日本人形のような顔で人気を得る。

続いて『おミミさん』で主演女優となり、日本の美を体現するつる子は光り輝いた。

ハリウッド映画に名を残していく。

この映画に、シカゴ大学で学びロサンジェルスで演劇活動を始めていた早川雪舟も出演した。

早川雪舟(1886-1973)は、将来を思い悩み、活路を見出そうともがいていた。

そんな時、主演女優、つる子と出会った。

助演男優と主演女優の違いは大きかった。

そこで、主演女優との結婚が、有名になる第一歩と狙いを定め、猛烈に愛を告白、交際を願う。

同じように、共に生きる人を探していたつる子も、雪舟に心惹かれた。

雪舟の顔スタイル申し分がなく、その愛は強烈であり、愛される喜びに陶酔し、雪舟の結婚の申し出を受けた。

1914年、結婚式をあげた。

こうして雪舟は、有名俳優の道をまっしぐらとなり、願いを叶えた。

人気女優、つる子の夫として、つる子の紹介で、ハリウッドで認められたからだ。

才能を認め合った二人は、日本人を差別し、厳しく評価し才を認めないハリウッドに、日本人の力を見せていくんだと手を取り合って、演技の力を磨き対抗していく。

ついに、早川雪舟とつる子は共演しながら映画会社も作り、自立の道を築き成功した。

だが、アメリカ合衆国は、第一次世界大戦後、国際連盟への不参加を決め、外国の影響からアメリカを守るという排外保守主義となる。

外国からの移民を制限するという政策となり、1924年、移民制限法によって日本人のアメリカへの移民は全面的に禁止となる。

日露戦争後、日本人は、中国大陸へ本格的に進出しアメリカ資本と衝突し、アメリカ国内でも確実に勢力を伸ばしており、日本人移民に対する排斥運動が強まっていたためだ。

その前、1922年には、二人は、配給を巡るトラブルがあり、身の危険を感じるようになっていた。

ハリウッドを去るしかないと、本拠をフランスに移し、ヨーロッパを活動の地とする。

当初、つる子・雪舟は招かれるままに、ヨーロッパの各地で映画や舞台に出演した。

そんな中、2人は温暖なモナコのモンテカルロでゆっくりバカンスを楽しむ。

二人は、暮らしにもなれ、西欧で生きるのも良しかなと、思い始めた。

ところが、賭け事が好きな雪洲は、カジノに入り浸りとなってしまう。

負けが続き、大勝負で取り戻そうとするが、500万ドルもの借金を負う。

頭を抱え、借金の返済のために、お金が稼げるアメリカで映画出演していくしかないと思い定める。

排斥運動はあったが、日本人俳優は不足しており、俳優が求められており稼ぐことが出来た。

アメリカ籍がまだあった雪舟は戻ることができたのだ。

その間、つる子はパリに留まった。

つる子から離れた雪舟は、独身を謳歌し始め、多くの恋をした。

その内の一人が、イギリス出身の女優ルース・ノーブル。

愛し合い、1929年、早川雪夫(1929-2001)が生まれる。

排日運動が激しくなっている時、日本人とイギリス人の愛人との恋、出産は、人気急降下をもたらす。

敵味方に分かれた者同士、しかも白人と黄色人であり、雪舟は責められた。

逃れる地は、日本しかなかった。

1930年、雪舟がまず単身帰国、舞台公演から始め、人気を得た。

翌、1931年、ルース・ノーブルから雪夫の引き取りと慰謝料の請求をされ、パリにいたつる子が、やむなく、応じる。

資金が必要となった雪舟は1932年、日本映画『太陽は東より』に初めて出演する。

ヒットし、雪舟の演技力は認められ、日本での人気俳優としての地位を築く。

つる子は、お金が続かず、翌年、収入が増えた雪舟の元に、雪夫を連れて戻った。

それでも、雪州の恋は止まらない。

撮影中、幾人もの女人と愛し合った。

その時、限りだったが、つる子には不誠実な夫となった。

表ざたになったのは、なぜか子が生まれてしまったルース・ノーブルだけだ。

つる子は、雪夫の世話を無理やり任され、許せない裏切りだと強く追及した。

華やかでもてはやされる世界が好きな雪舟は、気が滅入り、つる子との間に隙間風が吹く。

それでも、潤沢な資金があり、かりそめの恋は続く。

ここで、付き人の可愛い17歳の少女シズに恋した。

シズと同棲を始め、つる子とは疎遠になっていく。

そして、シズとの間に、長女、令子と次女、平井冨士子が生まれる。

1937年、雪洲は、映画『ヨシワラ』をオペラ歌手、田中路子(1909-1988)との共演で撮影した。

田中路子は、東京音楽学校(東京芸術大学)を卒業し、ウィーン国立音楽大学声楽科に入学、学び、パリに居た。

オ-ストリアの富豪と結婚、夫の資金で歌手・女優としても活躍していた。

パリで共演した二人は熱く燃え上がり、雪舟は、田中路子と同棲を始め日本に戻らなくなる。

怒ったのがシズ。

すべてを手紙に書き田中路子に暴露し、雪舟を責める。

驚いた田中路子は、すぐに、雪舟と別れる。

次いで、オ-ストリアの富豪とも離婚したが、ドイツ人の高名なシャンソン歌手と愛し合い結婚。優雅に暮らす。

田中路子を愛していた雪舟は怒り、シズにも子供たちにも仕送りを止めた。

そして、フランスに留まったまま、日本に戻らない。

怒ったシズは、令子と冨士子を、つる子に押し付ける。

つる子は、1937年、令子と冨士子を引取り、すでに引き取っていた雪夫と、雪舟の3人の子を押し付けられ、一人で育てるしかなかった。

女優をやめたつる子と親子四人の暮らしを始まる。

まもなく1939年9月、第二次世界大戦が始まり、雪舟は、フランスを離れられなくなり、フランスで映画を製作し、出演する。

ドイツの占領下になっても、在留邦人を守るために奮闘する。

つる子は、連絡するも、返事はないし、送金もない。

 貞奴は62歳、1899年の別れ以来34年の歳月が過ぎて、つる子と1933年、再会した。

長い別れの間に、音二郎は亡くなり、桃介は去り、児童劇団も消滅が近い。

すべてをなくした時だった。

そんな時、つる子に会い、アメリカで女優として活躍した様子を聞き、生きた証になったと心から感謝する。

つる子と音二郎の話ができるのはうれしい。

以来、時折、会うことがあった。

そして1937年以降、雪舟は戻らず、親子四人で苦しい暮らしをしていると知り、支援したいと思う。

つる子は、自尊心が強く、暮らしには困らないと突っぱねるが。

それでも、子供たちが芸事を磨くよう手配すると、受け入れた。

ただ1929年生まれの雪夫は、英国的な端正な顔立ちで、日本で生きることに違和感があった。

それでも、芸は身を助けると学ばせた。

戦時下になると、冷たい視線の中で幼少期を送ることになり、可哀そうだった。

雪舟と別れたままのつる子の苦しさ、雪夫の寂しさを思うとたまらない。

貞奴は、66歳。

貞照寺を守っていたが、静かな暮らしで、時間は十分にあった。

長男、雪夫・長女、令子と次女、冨士子を指導する。

音二郎の演劇の志は、彼らによって、受け継がれていると確認しながら教えるのは、嬉しかった。

貞奴の死後だが、戦後1950年、13年の別居後、ようやく雪舟は戻り、つる子と再会した。

大映社長からの映画『レ・ミゼラブル』を制作の申し出に乗って戻ったのだった。

ここで俳優として力を付けていた次女、富士子とも親子共演を果たし、再び日本での人気俳優となる。

そして、つる子が後押しし、1957年、代表作となる映画「戦場にかける橋」に主演級ででた。

雪夫も俳優になり、テレビドラマによく出る。

1961年、東芝日曜劇場「()獅子(しし)のきりしたん」宣教師役が好評で人気俳優となる。

この年、つる子は亡くなる。

自ら女優として成功したこと。

雪州を映画人としたこと。

三人の子を育て、二人を演劇の道に進ませる力を付けさせたこと。

その他頑張り抜いた日々を思い、家族に看取られて、72歳で亡くなる。

つる子を母と慕い、貞奴から厳しい薫陶を得た雪夫(1929-2001)は、1980年、母の故郷ともいえるロサンゼルスに戻り、羅府(らふ)新報(しんぽう)(カリフォルニア州ロサンゼルス市に本拠を置く日本語新聞)に勤務し、日本とつなぐ記事を書く。

富士子は、クラシックバレエ指導者となる。

貞奴は、つる子と子たちに、時には厳しく、また、さりげなく、芸の道に進むよう支えた。

晩年の密やかな楽しみの一つだった。

つる子を含め音二郎の兄弟甥姪との親密な付き合いを大切にしたかったが、思うほどいい関係にはなれなかった。

末っ子の姪、川上澄子を女優養成所一期生とし育てた。

だが、後継にはならず去った。

1913年には、音次郎の弟、磯二郎が独立して博多で劇団を作り離れ、縁が薄くなった。

会計一切を任せていた川上岩吉・つるの仕事ぶりには、不明瞭な会計処理があり、児童劇団の終焉に繋がり、川上岩吉・つるとの縁が途切れる。

桃介との親密さは、音二郎の家族にとって許せないところがあり、やむを得ないとあきらめた。

桃介と別れた貞奴は、牛込河田町に家を建てた。

姉、花子の子、青木信光子爵の家の筋向いにあり、信光が是非にと呼んでくれたのだ。

花子と貞奴の親しい仲を知る信光が、母を想い貞奴を招いた。

引退したと言っても、貞奴の生きざまは皆が興味あり、取材や知人の来訪も多い。この家で取材を受ける。

萬松園はあまりに遠く、東京での取材を望まれることが多いためだ。

それでも、貞照寺を建立して以来、貞奴の本拠は萬松園だ。

貞奴にあやかり諸芸上達・芸事成就を願う人々の参拝があり、日本一の女優と称賛され頂点を極めた威光は健在だ。

彼女たちの来訪を喜び歓待し、波乱万丈の生き様を語り、将来を激励する日を過ごす。

桃介が亡くなり、老いを感じた貞奴が最後を委ねる人が必要となる。

それは、兄、倉吉の子、ツルとツルの兄、倉次郎の子、玉起だった。

自分の身内であり、玉起が一番、心が通じた。

(さだ)(やっこ)は12人兄弟の末っ子。

物心ついたときは上の兄姉は結婚したり、仕事に着いたりして家にはいなかった。

兄姉は小山姓で、兄、勝次郎と(さだ)(やっこ)が母方小熊姓を名乗り、二人とも養子に出された。

(さだ)(やっこ)には、幼い時、共に居た、勝次郎と倉吉しか兄とは思えない。

兄、倉吉の婚家に一度預けられたことがあり、一番長く、親しくしずっと側にいてくれたのは倉吉だった。

東京に戻り、二子多摩川に児童楽団の校舎を建てた時からツルが手伝うようになり、後、養女とする。

そして、倉吉のもう一人の子、倉次郎の娘、玉起をつるが養女とした縁で、(さだ)(やっこ)も養女とし、晩年の世話を任せると決めた。

兄、勝次郎は貞奴が、養女に行くまで母と共に居た。

幼い頃は頼りになる兄だった。

母ととても仲が良かったが、家をたたむ時、貞奴と同じように高座郡小山村(相原村となり後に相模原市)出身の父方の親戚、幡豆家の養子となった。

茅ヶ崎に近い。

勝次郎はまもなく、屯田兵(とんでんへい)(北海道開拓と警備のために募集された旧士族ら)に応募し、北海道に行く。

その後、制度が廃止される1903年が近づくと、子たちを故郷に戻した。

長男、幡豆寅之助は貞奴を手伝うようになり、貞奴が、茅ケ崎の土地を購入する際に、手伝った。

そんなこともあり、土地の名義は大部分を貞奴名義とするが、一部を兄、勝次郎の子、幡豆寅之助の名義とした。

貞奴の後継にしても良いとの思いもあった。

勝次郎が亡くなり、茅ケ崎の土地も売却すると、縁が薄れるが。

1941年、第二次世界大戦が始まる。

70歳になった貞奴は、当初勢いが良かった日本を頼もしく、見た。

ところが、次第に、貞照寺の参拝客も減り、物資も不足していくことで、戦争の恐ろしさ、虚しさを感じる。

やむなく、より東京に近い熱海の別荘を、疎開先とし、ツルと玉起との三人の住まいとすべく改装する。

熱海の別荘に落ち着く。

静かな海をみて、砂浜をのんびり散歩するのが楽しい。

熱海は東京と比べ物が豊富で、おいしい食事にありつけると、養成所以来の付き合いの女優達・川上児童楽劇団からも俳優が次々押しかけ嬉しいこともある。

戦争末期には、萬松園でも牛込河田町(新宿区)でも思う暮らしが出来ず、熱海の別荘に留まるしかなかった。

ついに、1945年には東京の河田町の屋敷が空襲に遭い、全焼した。

戦争で負けることの意味を不安の中で考える。

終戦となり、ほっとした頃から異変に気付き、肝臓がんと知る。

以後、がんとの闘いになる。

最期をみとったのは、晩年最も頼りとした玉起だ。

(さだ)(やっこ)の財産は、半分売却した二葉御殿・河田町の家・桃水荘・熱海の別荘・貞照寺・萬松園と多い。

桃介が、手はずを整え、貞奴が豊かに過ごせるよう手配したのだ。

病がちになった桃介が、1929年、熱海町狩場(水口町)に持ったのが熱海の別荘。

本来は、ここで桃介を(さだ)(やっこ)が看取るはずだった。

だが、貞奴の終焉の地となる。

貞奴も、死を前にする日が来る。

1926年、桃介は帝国劇場株式会社会長になり、貞奴が企画する舞台、児童劇団の公演を、後押しした。

当初は、二人のコンビは呼吸もぴったりで、児童劇団も伸びた。

だが、桃介は、公的な場で倒れたり腎臓摘出手術を受けたりと体力のなさを露呈。

病気がちだったが、床に臥すことが増える。

思うような外出は出来なくなり、経済界での働きは無理だと判断、1928年、帝国劇場株式会社会長を辞任。

その他の役職もすべて辞め隠居した。

肩書だけでもいいから帝国劇場株式会社の役職で居てほしいと頼んだが、桃介はもう何も出来ないと断った。

後ろ盾、桃介をなくし、帝国劇場での児童劇団の公演が減っていく。

それでも、必死で児童劇団を守ろうとした。

だが、桃介は、貞奴がそばにいることを望み、名を呼び続ける。

その上、熱海に別荘を建てそこで暮らそうと言う。

桃介を取るか、劇団を取るかを迫られ、児童劇団を選び、1932年、桃介を本家に戻らせた。

だが、すでに児童劇団は疲弊していた。

桃介を追い出し児童劇団に全力を尽くしたが立て直せず、数か月後に解散した。

 そんなことを思い出しながら、桃介が終焉の地と決めた熱海の別荘で、死を迎えることは感慨深い。

劇団・舞台への夢が閉ざされ、貞照寺の建立に渾身の力を振り絞った。

着工時には側に居た桃介はもういなかったが、1933年(昭和八年)10月、完成。

「ご不動様に顔向け出来た」感動の中で、門前に(さだ)(やっこ)の住まい、晩松園を築き、ご不動様を守って生きる。

知人の集まる場とし芸事に励む女性にご加護が受けられるように励まし、華やかな宴を続けた。

弱っていた桃介だったが、亡くなる前どうしても見たいと言い一度だけ迎えた。

晩松園にしばらく滞在し、貞照寺に参り、昔話をしたが、桃介はもう過去の人だった。

桃介は冷静だった。

自分が付いていないと何をするかわからない貞奴に言うべきことを言った。

財産管理に気を付けなければならないと、あれこれ指示した。

桃介の愛が有難かったが、財産に興味はなかった。

(さだ)(やっこ)は、種をまき育てる人だった。

音二郎は種をまく人だった。

どちらも財を成すことはない。

それでよかった。

だが、桃介はそれだけでは済ませない。

貞奴のために十分な資産を残し、管理し将来に備えるよう事細かく指示した。

音二郎に愛され、演劇界で日本初の日本一の女優として活躍したこと。

女優が確固とした職業となり、女優養成の道は、ますます発展している。

桃介に愛され、事業を起こし会社を経営し快適な労働環境を実現した。

実業界でも、女の存在は価値あることを示した。

児童劇団を作り子たちの育成に努めたこと。

それぞれが、走馬灯のように巡る。

ついに、微笑みながら、臨終の時を迎える。

貞奴には、音二郎・桃介のように時代を切り開く才知はなかったが、穏やかに道を創る力があった。

死後の後継者も自分で選び、墓所も自分で用意した。

1946年、熱海の別荘で、貞奴として生き抜き、自分自身をよくやったと褒め75歳の大往生だった。