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6 実業家、貞奴|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 9051

貞奴は、音二郎の大志のためにいつも金欠状態だった。

貞奴が稼ぐ人。音二郎は使う人。

喧嘩になれば、圧倒的に貞奴が強い。

そこに、桃介が次第に入ってきた。

桃介の心の中にはいつも貞奴がおり、経済的余裕ができると、負い目と愛で遠くから見守るだけだったが、見つめ続けた。

その目は音二郎に厳しく刺さり、貞奴とのけんかとなり、大志を実現したいとの焦りになる。

株成金となった桃介は、貞奴への支援を惜しまない。

いつも金欠状態の貞奴であり、ありがたく受け入れた。

そして「凄い後援者が出来た」と感謝しつつ、付き合った。

音二郎には、当てつけのように感じるときもあり、気分が良くない。

1907年(明治四〇年)頃には、(さだ)(やっこ)と音二郎の有力支援者として公の場にもでる桃介がいた。

音二郎も受け入れざるを得ない。

こうして、帝国座の開設・女優養成所の開設になくてはならない人となる。

桃介は、貞奴を生涯一筋に愛した。

福沢家との付き合いを嫌がり、妻に離婚を申し出て、(さだ)(やっこ)への思いを自然に口にした。

そして、音次郎が亡くなったのだ。

音二郎に成り代わったように、以前より度々(さだ)(やっこ)を訪れるようになる。

(さだ)(やっこ)は、桃介の自然な優しく包み込む愛を当然のように受け入れた。

誰からも分け隔てなく寄付を募り、私欲の為に使うことはなくすべて演劇に投じており、潔い生き方を貫いている。

しかも、桃介は、貞奴を過去に裏切っており、許すべからず人であり、支援は当然だ。

芸術活動を続けるために、多くの支援は当然であり、桃介はそのうちの一人にすぎなかった。

一代の風雲児、音二郎の伴侶として懸命に生きた貞奴だ。

音次郎が亡くなると、大きな穴が空いたような寂しさで、宙を浮いているようだった。それでも、借金と責任が覆いかぶさってくる。

そんな(さだ)(やっこ)の座長部屋に、しょっちゅう桃介が来るようになる。

桃介は「さぁさん((さだ)(やっこ))の演技はうまい。さぁさんは美しい」と誰かれなく言い、周囲を呆れさせるほどだった。

(さだ)(やっこ)が好きで好きでたまらないようで、側にいると生き生きしていた。

二人の会話は、桃介が一方的に話す事がほとんどだった。

それも、(さだ)(やっこ)への愛の告白と、桃介の手がけている事業への熱い思いばかりだ。

1916年には帝国座を売り渡した。

以後、(さだ)(やっこ)は、一座を守るために、何をすべきか悩んでいた。

とても一人では解決できないほどの大きな難問だった。

利益が出る限り、団員たちのために、演劇を続けようとは決めていたが、何時まで、一座を率いることが出来るかわからない。

そんな時、桃介の存在は、安らぎ、心を落ち着かせてくれた。

とても助かる存在だ。

座長部屋に受け入れ、悩みを打ち明けることなく、相づちを打つ日が続く。

こうして、音二郎が亡くなって、六年が過ぎ、待ちきれなくなった桃介のだまし討ちのような電報をきっかけに、座長の座を退くと決意したのが、1917年(大正六年)。

以後、華々しく引退興行を行い、団員たちの行く末も決めた。

そして、1918年11月、女優を辞めた。

これで良かったのだとしみじみ思えた。

この日を一番待っていたのは桃介だ。

(さだ)(やっこ)の思いを重んじ、じっと待った。

ただ桃介の関わっている事業については何度も詳しく話した。

すでに、(さだ)(やっこ)も概要はわかっていた。

ここで、襟を正して、真剣に桃介は、経営する電力事業への協力を願う。

(さだ)(やっこ)は、音二郎死後、桃介の言わんとしていることが痛いほどわかっていた。

桃介から聞く、会社経営の面白さ、株取引のノウハウは面白そうで興味も湧いてきていた。

桃介の経営する電力事業への協力の対価は、想像を超えるほどだ。

すごい高待遇だの申し入れだった。

貞奴の誇りを満たすものであり、電力事業の成功は貞奴の協力なしにはできない、どうしても手伝ってほしいとの真剣な申し出であり、受ける。

重ねて、桃介から残りの人生をともに過ごしたいとの申し出があった。

だが、貞奴は答えなかった。

女優は止めても、演劇に懸ける夢があった。

後進の育成も忘れることは出来ない。

途中で挫折したが、もう一度取り組みたいし、構想を練り続けている。

海外視察に行き、もっと海外の女優のあり方を学び、確実な女優養成の道を自ら創り人生の仕上げとしたかった。

だが、構想の実現は、桃介なしには出来ない。

音次郎の生存中はもちろん、死後は桃介なしには経営は成り立たなかった。

桃介の恩に応えたかった。

かって愛した人であり、共に生きたいとの申し出は嬉しかった。

だが、何度も桃介が頼んだが、妻、房子は離縁に応じないと知っていた。

妻ある人からの伴侶になって欲しいとの申し出であり、悩むが、桃介の愛を信じる。

躍り上がって喜ぶ桃介が、まずしたことは、貞奴が自立することだった。

(さだ)(やっこ)は有り金すべてを潔く使って、暮らし、すぐに底をつく。

音二郎と似ている。

桃介には考えられない生活態度であり、共同生活の初めは、お金を残すための特訓だ。

会社経営と株式投資を勧めた。

貞奴は桃介の蓄財術の指導の下、株取引を始める。

勝負事が大好きな貞奴だ。

真剣に学び、貞奴なりに習得していく。

相場ごとは女人禁制と思われていた明治期に、女性投資家として名が知られていくのは快感だった。

貞奴は、女性投資家として名が知れていた富貴楼お倉(1837-1910)に関心があり、いろんな情報を得ていた。

花柳界の女傑として名高いお倉は、貞奴より34歳年上だ。

幼い頃、実家が離散し苦労の連続で、東京から大坂、そして横浜で芸者をした。

その時、1871年(明治四年)横浜の相場で財産を築いた田中平八(1834-1884)と知り合う。

田中平八から資金を得て横浜市中区尾上町で、料亭、富貴楼を始める。

同時に、田中平八から相場を学び、手を染めていく。

金銭感覚に優れ、多くの客から得た知識も豊富にあり、時局を見るのに敏感だった。相場の読みは当たり、多大な益を得て、成功した。

11月、横浜から、岩倉具視を全権大使とする欧米使節団一行40余名が米国汽船アメリカン号で出帆することに決まる。

横浜には、送る人・行く人が、想像を超えるほど多く集まった。

田中平八は、これを見越していた。

海外と日本を結ぶ横浜に人は集まる。

商売が成り立つと、客あしらいの抜群なお倉に目をつけ、資金を出し開業させたのだ。

予想通りの客が引きも切らずの盛況となる。

横浜のにぎわいぶりはものすごかった。

お倉の気配りは抜群で富貴楼の名を知らしめ、田中平八の予想を超えて、政府高官の歓送会場となる。

お倉は、自らの力で、富貴楼の経営を担い、成功した。

渋沢栄一、岩崎弥太郎ら経済人、大久保利通、伊藤博文、大隈重信・井上馨ら大物政治家が盛んに出入りするようになる。

「横浜閣議」という言葉も生まれるほどだ。

横浜に政府関係の要人が集まり、政治論議を繰り広げた。

東京では人目に付きやすいと政府高官は横浜での会合を好むようにまでなる。

種々の客から得た富貴楼お倉の情報を頼りにし、聞きに来るものも多い。

お倉自身もその情報で株式投資し巨利を得る。

資金に余裕が出て、富貴楼の必要性・発展性に自信を持って、商売の幅を広げる。夫、亀治郎の浮気相手であり、お倉の弟子、おとりに、店を持たせ、独立させる。

結婚させ、手切れのための店だった。

その店は、築地の「瓢家(ひさごや)」。

お倉が待合の経営を教え、おとりは繁盛させた。

続いて、おとらに「金田中」。

おあきに「聚楽」。

おしんに「新田中」。を出させた。

弟子だが、優秀だと見込み養女とし、待合の店を持たせた。

お倉の富貴楼の支店だが、それぞれ個性を活かし繁盛させた。

お倉は昭和の政治家が、盛んに利用した待ち合いを多く立ち上げたのだ。

投資と富貴楼で儲けたお金で築いた待ち合い(料亭に変わっていく)は政治に不可欠な存在となった。

お倉の顧客は、伊藤博文や福沢諭吉と親しい岩崎弥太郎(1835-1885)など、貞奴につながる人物も多い。

貞奴の人脈から、お倉を身近に感じており、お倉が成功した商売・投資もできそうな気がした。

パートナー桃介の要領を得た教えで、百発百中の高い的中率の株式投資が始まった。

経済界での桃介の存在は大きく、あっちこっちの会社の発起人を務めており、貞奴は額面で株式を入手できる立場にあった。

上場すれば値が上がるのはわかっているのだ。

また、桃介から得る情報をもとに、自分流に株式投資をするのは面白かった。

桃介と貞奴、絶妙なコンビで和気あいあいと投資し、貞奴の資金が増え続ける。

次に会社経営をすることで、儲けるようにと桃介は言う。

第一次世界大戦が始まり、日本は好景気で成り金が続出し起業熱が盛んだった。

開戦前後、日本は不況だった。

そのため「帝国座」への銀行からの資金が打ち切られ、手放したのだ。

それ故、日本は、積極的に参戦した。

そして、輸出を大幅に伸ばし空前の好況となったのだ。

世界的な船舶不足により、日本の海運業・造船業へ注文が殺到

ヨーロッパ諸国のアジア市場からの後退で日本の売上が急増

アメリカの参戦で、生糸の生産が減り、日本からの輸出が大幅に増えた。

 貞奴は、戦争の影響の大きさに目を丸くしながら、喜んで長年温めていた会社経営を目指す。

桃介がいくつかの儲かる事業を貞奴に勧めたが、自分の意志を通した。

起業し、会社を経営する時が来たと胸ふるわす。

桃介の経営方法とは全く違い、桃介が目を丸くする事になるが。

1918年(大正七年)貞奴は名古屋市北区大曽根に「川上絹布株式会社」を設立。

資本金三百万円、社長が貞奴、専務が養子の川上広三、相談役が福沢桃介。

絹織物の生産と販売をする会社だ。

ちょうど帝人や東レで人絹糸の生産が始まったばかりで、織物生産は需要があり、先見性があった。

「私は今まで絹ずくめで暮らしてきました。今後は人のために絹物を製造します」と。

桃介からの資金援助による設立だが、すべて自分の考えで自己責任だ。

(さだ)(やっこ)は海外興行の経験から、外国での日本の絹の人気を実感しており、輸出向け最上級の絹を生産販売する会社を作りたいと譲らなかった。

自分で納得できる会社はこれしかなかった。

(さだ)(やっこ)の会社の経営方法は、音二郎と共に新劇の興行をしたのと同じ発想だ。

桃介は「経営とは言えないよ」と反対したが、それでも譲らない決意を示すと、何でも好きにすればよいと黙って見守った。

以前、「((さだ)(やっこ)の)言葉の端々に桃介が出ている」と音二郎は嫌がった。

今は、桃介が「音二郎に似ている」と話し、嫌がった。

男同士の嫉妬を面白く見て「私は私。誰でもない」とくすっと笑いながら、時には音二郎を思い出す。

若い女性の働く場所はほとんどない時代だった。

家事見習いで、富裕層の邸宅に勤めるか、接客業に着くことが多かった。

貞奴には、納得できないことで、とても残念だった。

貞奴は生涯働き続けるつもりであり、それが自然で、とてもやりがいのある面白いことだった。

女優業という職業に就く道を作ったが、成功するのはわずかで、あまりに特殊な分野だった。

会社を作り多くの従業員を雇えるのは、有意義だと飛びつくように起業した。

15歳から20歳まで、50人の女工を雇い、従業員とした。

労働形態は、45分働き15分休むというスタイルだ。

朝から晩まで働き詰めの女工哀史があった時に、驚くほどゆったりとした働き方だ。

制服支給で、昼休みには運動を勧め、テニスなど思い思いのスポーツができた。

泳ぎ好きの貞奴は工場内にプールを作りスポ-ツとして水泳を楽しむことを勧めた。

全員が寮生活をし、夜にはお茶、お花、和裁などの習い事、休日には演芸会などのレクリェーションを開いた。

当時の女工の待遇から考えると、夢のような会社だ。

貞奴が作った社歌が、

過ぎし昔の夢なれや  工女工女と一口に

とかく世間のさげすみを  うけて口惜しき身なりしが

文化進める大御代の  恵みの風に大道を

なみせる古き習しや  思想を漸く吹き払い

川上絹布会社は、今までの女工の生活とは、まったく違う生活を送ることのできる新しい会社だった。

貞奴は「あればいいなあ」と思っていた会社を作ったので、大満足だった。

会社経営に意欲を持って取り掛かる。

働く人には信じられない夢のような会社を、(さだ)(やっこ)は難なく実現した。

離婚できない桃介は、まず、(さだ)(やっこ)の名誉と地位、財産を保証した。

そして、妻や子たちには、貞奴への愛を隠すことはなかったが、ただ愛情だけではなく、仕事上のパ-トナ-として共に暮らすとの大義名分も伝えた。

準備が整い、桃介は、既成の大財閥の鼻を明かす為に、長年温めていた事業を本格化する。

何物にも代えがたいパ-トナ-(さだ)(やっこ)が共にいるのだ。

自信に満ち溢れた。

(さだ)(やっこ)も、桃介の意向はよくわかっており、感謝を込めて、桃介の仕事上のパートナーとなる。

桃介は木曽川での水力発電を進める為に名古屋を拠点としていた。

そこに(さだ)(やっこ)は、どうしても必要だった。

当時のダム建設は高度な技術の集積であり、日本の技術者ではまだ無理だった。

外国人技師に頼るしかなく、彼らは言いたい放題で、高待遇を要求する。

日本人では考えられない好待遇で迎えた技師たちだったのに満足せず、桃介が我慢できないほど、働かない。

お高く留まっている技師たちを思うように働かすには、意思疎通が十分にできることがまず必要だった。

効率化を追求する桃介の思いを上手く伝え、彼らの望む環境づくりにも取り組みたかった。

このままでは、世界最高水準のダム建設に取り組み、進んでいたはずが、止まってしまう危機感に苛まされていた。

完成の日の予定が立たず、果てしなく建設が続いていた。

貞奴をパートナーとし、その打開策を考えた。

まず、接待用の別荘が必要と決めた。

(さだ)(やっこ)の意見を求め、その意向に沿って風光明媚な三留(みど)()(長野県木曽郡南木曽町)の地に建て、1919年(大正八年)完成した。

木曽川水系に多くの発電所を建設するための現場拠点。

桃介と貞奴の宿舎。

でもある。

各国の貴賓室や宮殿に招待され続けた(さだ)(やっこ)には、得意分野であり、喜んで助言した。

(さだ)(やっこ)は、外国人技師がくつろげるように暖炉やサンルームを備えた豪奢な洋館を、勧め建てられた。

大正ロマネスク時代を表すレンガ造り2階建ての西洋風別荘建築だ。

桃介と貞奴が過ごす愛の巣でもある。

完成した別荘に入り、感激した様子で内外を走り回る(さだ)(やっこ)を、桃介は嬉しそうに見つめる。

「心のふるさとになりそう」とはしゃぐ姿を見て、冷酷と評判の桃介が思わず涙を見せた。

(さだ)(やっこ)を連れて来れてよかった。幸せだと心から思ったのだ。

ダム工事に携わる外国人技師らが集まっている現場は男社会だ。

ところが(さだ)(やっこ)を主人に迎えると、イメージが一新する。

貞奴は、華やかな宴を再々催す。

招かれた外国人技師は、(さだ)(やっこ)に手ずからもてなされ、西洋の文化や話題などきれいな英語でよどみなく語る(さだ)(やっこ)との会話を楽しむ。

それだけでも、嬉しくて相好を崩すのだが、(さだ)(やっこ)にじっと見つめられると魂を吸い取られたかのようになってしまう。

桃介の要望指示が、難なく簡単に理解されていく。

桃介は、信じられない風に苦笑いするだけだが、予想以上の効果があり、(さだ)(やっこ)に頭を下げるしかない。

(さだ)(やっこ)は、宴会のもてなしを一から準備する。

材料・料理人も出来うるかぎり近くから用意し、頼んだ。

この地の人達は、想像を絶する建物ができて、びっくり仰天で、興味津々だった。

そこに呼ばれ、手伝ってほしいと頼まれ、喜んで応じた。

こうして、この地の人の出入りも盛んになり、ダム建設への理解も深まる、

山深い地での贅を尽くした宴会が続き、この別荘だけは西洋の香が漂う異国だった。

別荘の女主人、(さだ)(やっこ)は日本の美そのものと絶賛される。

貞奴と桃介はいつも一緒にいた。

必ずふたりで行動し、ダム底となる危険な場所にも二人で降りていく。

現場の人たちは、どこからともなく現れ、状況を詳細に把握している二人に、一目置かざるを得なくなる。

その上で桃介から的を得た指示を受けると、受け入れ成果を出さざるを得ない。

(さだ)(やっこ)の会話力では仕事の説明はできないが、外国人技師たちは(さだ)(やっこ)を喜ばせたい、笑顔が見たいと、懸命に働く。

桃介は、事業パートナーとして(さだ)(やっこ)の人心掌握術に賭けたが、見事に成功した。

国際的に名の知れ渡っている(さだ)(やっこ)の大女優としての風格威厳を桃介の看板の一つとし難局を乗り切るしかないと考えたが、これほどに力があるとは思いもしなかった。

桃介はかって馬上の(さだ)(やっこ)の神々しいまでに輝く美しさに感動した。

桃介の心を虜にした唯一の人だった。

忘れることはない。

音二郎亡き後は堂々と寄り添い、大女優、(さだ)(やっこ)の有力な後援者となり、いつしか愛人となり、長年の恋を実らせて同居を始めたのだ。

貞奴の愛を得た喜びが全身からあふれていた。

不安でいらだつ時がよくあり、とげとげしい顔つきだった桃介が、柔和な初老の紳士となっていく。

そして、難問山積みの事業が、霧が晴れるように先が見えてきた。

貞奴は、桃介の為に天から与えられた女神だとしみじみ感じる。

威張りかえって要求通りに働かない技術者をうまく扱い、心をつかむのは(さだ)(やっこ)しかいないとひらめいた。

天のお告げを受け止めたのだ、奇跡を起こしたのだと、自信を持って言える。

そして、電力業界の発展の為だと、堂々と貞奴とともに暮らした。

今まで、妻子も社会的地位もあるのに人の妻にのぼせるのは恥だと、言われ続けた。あくまで、音次郎と貞奴の面倒を見ている感覚だった。

何を言われようと「後援者だ。何も悪いことはしていない」と居直っていた。

ところが、貞奴が側にいるようになると、反対に桃介が恥じ入るようになっていく。

(さだ)(やっこ)のしぐさふるまいは、日本の高い文化を物語っていると思い知らされるのだ。

語学・知識・外人に受ける日本的華やかさは、誰にもないと知り、(さだ)(やっこ)とともに生きる幸せに胸が震えた。

若かりし頃の初恋が、進化し、ますます何度も何度も、貞奴に惹かれていく。

1922年(大正十一年)木曽川をまたぐ大きな吊橋「桃介橋」が完成した。

木曽川水系の豊富で安定した水量に目をつけ、木曽川の水力発電に心血を注いだ大同電力(現関西電力)社長、福沢桃介。

その桃介が貞奴とともに作った全長247m、国内最大級の最古の木製吊り橋だ。

歩行専用だが。

桃介と貞奴が、話し合いデザインを決め、モダンなデザインで雄大な景観にぴったりの吊橋が出来た。

素晴らしいと貞奴は感激した。

南木曽町で建設されている読書(よみかき)発電所に資材運搬するための橋だ。

読書の名は、()(がわ)の[よ] 三留(みど)()の[み] (かき)(ぞれ)の[かき] からつけられた。

木曽川電源開発の象徴ともいえる桃介橋の盛大な開通式が行われる。

渡り初めは腕を組んで並んで歩く桃介と貞奴。

嬉しそうだったのは桃介。

貞奴は、役目を果たした安堵感のほうが強く「これは桃介の仕事、私の成果ではない」と思えた。

いつも主人公でありたい。自分で決めた自分の仕事がしたい、との思いが強い。

大井川発電所が完成する1924年(大正十三年)まで、この地の人にも利益があるように配慮しながら、(さだ)(やっこ)は桃介のパートナーとして、人脈を築いていく。