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9 貞奴、女優として菩提寺を建立|天に駆ける、貞奴

だぶんやぶんこ


約 2830

八王子にある不動明王を本尊とする寺が廃寺になると聞いた時、体中に電流が走るかのような興奮を味わった。

すぐに、引継ぎを申し出た。

大女優、(さだ)(やっこ)の申し出に寺は感謝し引き渡した。

続いて、鵜沼宝積寺町(岐阜県各務原市)に約6千坪の土地を購入した。

寺号を貞照寺とし、八王子にある不動明王を移し、建立すると決めた。

1931年(昭和六年)9月、地鎮祭を行い、貞奴は桃介と出席する。

二人が公の席に連れ立って姿を見せるのは、これが最後だった。

もう覇気のない桃介だが、(さだ)(やっこ)に従った。

(さだ)(やっこ)は幼い頃から、成田さん不動尊を信仰した。

お不動様に祈り、大井ダムが無事完成した暁には寺を建てると決めていた。

今まで、成田さん不動尊のご加護が、感謝しきれないほど数々あった。

ようやくその思いを形にする日が来た。

貞照寺建立を始め、ついに、貞奴の生き様の総決算の時が来たと胸がいっぱいになる。

 桃介とは違う生き方で最後を迎える決意を形にするのだ。

貞照寺を建立するためにまず資金集めだ。

桃介を頼りたくない、桃介から自立したことを形にしたい。

まず、桃介の了解を得て、二葉御殿を一部売り渡す。

すべて貞奴名義だが、桃介は今も二葉御殿で共に暮らしたい意向を持っており、桃介が建てたのだ。

住むのに差し障りのない程度を売却した。

次いで、持っている私財すべてを整理し資金とする。

貞奴は、決意しことをなすときは、すべてをささげる。

その潔さで、貞奴の思い以上の大きな成果を挙げてきた。

貞奴はここでも笑う。

女優としての頂点を極め、後進の育成を生きがいとしたいと考えたが、新劇への理想の高い音二郎に押され、大坂帝国座の建設運営に関わり、女優育成は帝国劇場に委ねざるを得なくなった。

心機一転、女性の職場の開発に賭けると企業を起こしたが、桃介の事業を手伝うことに時間を取られ、その存亡の危機が来ると一身をなげうって尽くし、自らの事業をつぶしてしまった。

 最後の子役・女優の育成も、桃介のそばにいて欲しいとの願いの為に崩れた。

老いても、海外視察・劇場建設を思い続け、死ぬまで新劇界を引っ張り続けたかったが、パートナ-桃介の支援なくしては立ち行かなくてあきらめた。

「音二郎・桃介を助け、想いを遂げさせたのに、私(貞奴)の想いを実現するためには、尽くし足らなかったよ。途中で逃げてしまうんだから。私(貞奴)は損な役回り」と。

貞照寺の背景に山、前景にゆったりと木曽川が流れている。

とても気に入った。

ただ、貞照寺の建立のためには、私財だけでは足らず、まだまだ寄付を集めなければならなかった。

歌舞伎、新派の名優からも寄付を集めた。

建立費を寄付してくれた中村吉衛門や尾上梅幸、松本幸四郎といった当時の名優の名前を刻み残した。

政財界の交友関係も活用する。

貞奴が自分のためだけではなく社会的使命として、情熱を持って貞照寺建立に猛烈に突き進む姿に感動し、政財界の応援団ができ資金が集まる。

翌年の1932年12月、桃水荘の大広間で政財界の客や歌舞伎役者らが集まって大忘年会が開かれた。

ここで、桃介は、桃水荘を引き払い、渋谷の本宅に帰ると話す。

二人の別れを皆に知らせたのだ。

この後、桃介は、公的な場に出ることもなく房子の監視の元、ひっそりと暮らす。

ここからは、貞奴一人だ。

応援団は多く、心強いが、桃介はいない。

そして、1933年(昭和八年)10月、貞奴63歳は、ダム建設の願を懸けた地、鵜沼に貞照寺の建立を成し遂げた。

境内には本堂を囲むように、仁王門が建ち、鐘楼堂、御手水舎、庫裡等が立ち並んだ。

静けさの中に、凛とした存在感を放つ(さだ)(やっこ)が誇る菩提寺となる。

本山、成田山新勝寺を模して建立したいという(さだ)(やっこ)の大胆な思いが凝縮されている。

「菩提寺が出来た。ここで眠る」と大満足だ。

だが、まだまだ元気だ。死にそうもない。

そこで、門前に貞奴の住まい、別荘「萬松園」を建築する。

1500坪の広大な敷地に建て坪150坪、部屋数25室だ。

(さだ)(やっこ)が世話になった人々をもてなす贅沢な別荘であり、児童劇団の子たちや女優の卵たちの発表の場でもある。

貞奴の楽しみを満たす住まいだ。

音二郎の好きな帝国座、桃介の好きな三留野の山荘を念頭に(さだ)(やっこ)の家が出来た。

若い時に訪れた伊藤邸の別荘、記憶に残っている懐かしい生家の雰囲気も持っている。

自分で設計し、建てた家だ。

お手伝いの人に囲まれて住む(さだ)(やっこ)だけの家だ。

(さだ)(やっこ)が終焉の地と決めた故郷にふさわしい和風の落ち着いた終の棲家が出来上がる。

 死を迎えるまで、ここで生きて出来る限りのことをすると、満足感に包まれた。

随所に(さだ)(やっこ)らしい粋を凝らした贅沢な意匠をちりばめ、飽きさせない。

庭の見事さは木曽川の美しさと重なり、感嘆のため息が出るほどだ。

晩松園では折に触れて、親しい人が招かれて(さだ)(やっこ)を囲んで会席が催された。

贅沢で派手好きは変わらない。華やかな宴会だった。

桃介は寺を一度訪れただけで、1938年亡くなった。

寺号は、成田山貞照寺。

建立当時の寺の名は「金剛山桃光院貞照寺」と呼ばれた。

「貞」と「桃」の字を入れた。

生前に建てた横穴式の墓の石のふたには、貞奴の好んだカエデの葉と、桃の実の模様が刻まれている。

桃介の支援なくしては出来ない建立であり、桃介との愛を貞奴が形にした寺だった。

建立後、貞照寺に詣でると芸事が上達すると評判になり芸能関係者のお参りが続く。

一流芸者として、国際女優として、日本一の女優として、名を馳せた貞奴の人気は絶大だった。

次第に、諸芸上達・芸事成就を願う人々の参拝も増えていく。

 その様子を見守り、女優、(さだ)(やっこ)としてあこがれの存在としてあがめられていることをうれしく感じる。

貞照寺のもたらした結果に、建立に奔走した日を思い出しながらいい気分だ。

自分が守られたようにきっと御利益(ごりやく)がありますよと、諸芸上達・芸事成就を願う人々の参拝を見守る。

1946年(昭和二一年)熱海の別荘で、75歳で亡くなる貞奴は、この貞照寺に眠る。