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約束の地

井田素


約 49040

 

 

一、縁

「乞食!」

荻野泰三(たいぞう)は思わず呟いてしまった。

何処にでもいる中年サラリーマンの泰三は、通い慣れた帰り道に眉間にシワをよせ先にいる汚い者を目で哀れんだ。

 

 

乞食? いかん、これは差別用語だ。

今はホームレスだったな、可愛そうに。

しかし、横文字すればいいってもんじゃない。

小学生が聞いたら「ホームレス」という職業があると勘違いするかもしれない。

まだ路上生活者のほうが逆の意味で生活観があって人間的だ・・・・。

まぁ、名称が変わっても行いは昔と変わらないか。

変わったといえば、ホームレス社会も飽食らしく、物乞いしなくなった事ぐらいか・・・・。

申し訳けないけど、ホームレスにはなりたくないな。

俺が子供の頃はあの種の人間は怖かったもんだ。

怖くて目なんか合わせられなかった。

何を見てるんだ、見る暇会ったら何かをよこせ、この野郎!

とでもいいたげな、その汚れた風貌から殺気と悲愴感を感じたもんなぁ。

怖くて友達と逃げて家に帰ったっけ。

背中を視線がいつまでも追って来たものだ。

今は物乞いしないし、あっちから避けてくれるから、俺からみれば空気みたいなもんだ。

あちらも自分に関係ないものは、すべてが風景なんだろうか。

きっと、ちょっとした人生のボタンを掛違えたんだろう。

それは自分が悪いのか、運が悪かったのか。

運が悪かったんだろうな。

やっぱり、可愛そうだよな・・・・。

 

 

泰三が汚い者に近づくと、怪訝に首を傾げ歩調をゆるめた。

あまりにもミスマッチな物が、その者の前にあったからだ。

「おかえりなさい。今日も一日、お疲れ様でしたね」

と、しわがれ声の優しい口調に、自分がその老婆の前で足を止めていた事に気付いた。同時に、老婆の言葉に一瞬虚を衝かれ、

「た、ただいま」

と、慌てて愛想笑いでかえした。

「旦那さん、あんた、いま私のことをホームレスと思ったじゃろ」

「えっ! い、いえ、そんな失礼なこと・・・・」

「おかしいのぉ、汚い乞食があんなところに座ってなにしてるんだ、と聞こえたんじゃがなぁ」

老婆は上目使いで泰三を見上げ微笑んだ。その瞳があきらかに泰三をからかっている。

泰三はバツが悪く、ネクタイを緩めハンカチで汗のない額をぬぐった。

「それにしても綺麗だ、まるで花壇のようだ。お婆さん、これは売り物ですか?」

「話を摩り替えたな。まぁいい。人を見下す喜びを知っている者は誰もが思うことじゃ」

「そ、そんなこと思っていませんよ」

「心配しなくても良い。旦那さんは優しい。私を哀れんで同情してくれたのは分かっているよ。じゃが、いま思った事はほとんどの人間が思うことじゃ。目で侮蔑する者もおる。口に出すと軽蔑されるからいわないだけじゃろ、のぉ、旦那さん、そう思わんか?」

「・・・・さぁ、ど、どうなんでしょう」

老婆は、泰三のどもる様子をみてケタケタ笑った。

「じゃが、ああ見えても帰る場所の無い奴らは、みんな悩んどる。過去、現在、未来を。それは分かってやらなきゃのぉ」

泰三は諭されるように頷いていた。

「話を戻そう――。旦那さんのいうように、わたしゃ、御花が好きでね」

と、今度は老婆がコクリと頷く。

「ほんとに綺麗な色をしている」

「しかしなぁ、綺麗じゃが、御花がないんじゃ」

「御花ですか? いっぱいあるじゃないですか」

「だめじゃ。敬いたくなるような崇高な花が無いんじゃ。昔はいっぱいあったんじゃがな・・・・」

「そうですか? 私はこの花達で充分ですがね――。でもこんな場所じゃ客なんかこないでしょ」

商店街のはずれ、犬のマーキング跡のある電柱わき。

寂れた街灯が老婆を浮き上がらせている。夜が間近に迫っていた。

老婆は地べたにダンボールを敷き、ちょこんと正座している。そして老婆の前には、それは見事な花が咲き誇っていた。

長細いプランターが十列並ぶ。合わせると祭りの出店にある金魚救いの槽ほどの面積だ。そこには、スイートピー、フロックス、バーベナ、トレニアが咲き、それを囲むように

苗ポットに咲くパンジーとビオラが、隙間なく並んでいる。

視覚で春を感じることができた。

泰三にしてみれば、花だけをみると、それが花園のように思えて乾いた心を癒してくれそうに感じた。だが、老婆の汚れた姿がどうしても花と一緒に視界に入る。またそれが、泰三には奇妙な光景に思えた。

老婆は染み付きのパンタロンによれよれの真っ赤なトレーナーを着ている。

胸に〔PEAS&HOPE〕と白字のロゴがプリントされ、そのうえに男物のジャケットを着込む。少し暑そうだ。

このジャケット、染みやほころびが目を引き、地が何色か分からない。両手には指先をはさみで切った軍手をしている。

汚れた容姿の老婆と、花園のような花。まるで、美しい大自然の中に廃棄された人工物をみているように思えた。そのギャップが泰三の心を妙にくすぐったのだ。

だが、お世辞でも綺麗とはいえない老婆の身なりだが、道端に背を丸め、ちょこんと座り、花を前にする姿が不思議と可愛く感じる。

銀髪の頭、笑うと顔中がシワに埋もれ、目が何処かに消えてしまう。シワ一本一本の溝に、優しさが深く沈み込んでいるようにも思える。その笑顔が泰三には崇高に感じ、一瞬、心が吸い込まれるような錯覚を感じた。

商店街といっても規模は小さく、長さ二十メートル、店舗数三と、有ってないような商店街である。ひと昔までは数十店舗有ったが、近くに大型スーパーが出来た為に客足は無くなったようなものだ。老朽化の目立つアーケードが商店街を象徴している。

車道が狭く交通量がほとんど無いのが子供たちには幸いし、今では子供たちの遊び場になっている。現に三人の少年が時間を忘れてボールを蹴りあっている。

とにかく、店主たちの声より子供たちの声が支配している空間である。

泰三の「客はこない」という質問に老婆は、

「はい、来ませんね。でも、いいんです、暇つぶしですから」

と、優しく意味有りげに微笑んだ。

「ん?」

その時、泰三はふと思った。この顔を以前何処かで見たことがあるような。

だが、深く思い出す必要性もないと思い、それ以上のことは考えなかった。

「暇つぶしなんですか? それはまた、暇つぶしで花を売るとは、なんだか優雅な人生ですね」

「人生ですか? そんなことありませんよ、私も何かと忙しくてね。人間が増えるものでね」

「増える? 人間が?」

泰三が首を傾げても老婆は無言で微笑んでいた。そして、花たちの根元に生える雑草を引き抜きながら、

「雑草は油断するとドンドン増えてしまう――」

と、呟いた。

「でも、初めてですよ、この商店街で花屋を見たのは」

「それはそうでしょう。実は私もこの国へ来るのは二回目でして」

「二回目? 外国で暮らしてたんですか」

「そんなもんじゃ。以前来たときは、だんご屋をしていました。そのときは旦那さんのような整った服を着ている人はいなかったなぁ。もっと地味で土汚れた胴服にだぶだぶの袴、腰には長い刃を下げていたよ」

「はっ?」

「髪の毛はみんな同じで面白かったなぁ。両側は髪があるけど、てっぺんは禿げていて、その真ん中に髪の毛を後ろから束ねてちょこんと乗っていたな。確か、マゲといってたな。それが、しおれた男根の様に見えておかしかったのを覚えていますよ。そんな人達が私のだんごを美味しそうに、食べてくれました」

「あのぉ、ちょっと意味が分からないのですが――。この国? 長い刃? マゲ? しおれた男根ですか? お婆さんはどう見ても日本人で、しゃべりも日本語ですよね」

「そりゃそうじゃ。日本人を着ているからのぉ」

老婆は小さく呟いた。

「それなのに、話を聞いていると、まるでお婆さんが外国というより遠い昔、そう、江戸時代かそれ以前の日本に居たことになりますよ」

お婆さんは泰三の問には答えず、相変わらず福々しい顔で微笑んでいる。

「分かった、からかっているんでしょ。きっと、映画村の撮影セットの中で、だんごを売っていたとか」

「いいえ・・・・。信じて頂けないみたいですね」

泰三は、話が飛躍し過ぎている、きっとボケているんだ。さっさと退散したほうがいい、と思った。

「旦那さん、私の前で足を止めたのはあんたが始めてじゃよ。他の人は触らぬ神に祟りなしと、避けていったは。そうじゃ! これも何かの縁じゃ。ひとつ花を差しあげましょう」

泰三は少し間を置き、

「いや、私にはこんな綺麗な花、似合いませんから――」

と、そっと足を引いた。

「おや? おかしいですね。ではなぜ、私みたいな老いぼれの前で足を止めたんですか?」

「それは・・・・」

泰三は返答に困った。と、いうより自分でも分からなかった。

「なんじゃ、分からんのか。あっけなく終わる一日に辟易しているとき、見慣れた帰り道に奇妙な老婆がいたもんだから、それが新鮮で興味をそそられたからじゃろ」

と、老婆は微笑み泰三は苦笑いをした。

その言葉に泰三は妙に説得力を感じた。

「どうして分かるんですか? そんなこと」

「どうして? 靴じゃよ。旦那さんは、ステアを使ったおしゃれな靴を履いている。きっといい値段したのでしょう」

「えぇ、まぁ、正直にいうと安くないですが」

「私が常々人間を観察してるんじゃが、どうも身なりをよく見せようとする人は、今という時に満足していない人が多い。何かをやりたいが、何をしていいのかさえ、分からない。お金はあるけど何に使っていいのか分からない。そこで、とりあえず自分の不甲斐なさを補う為に、身なりを美しく見せ、他人の目を引きつけたいと思う人が多い」

「なぜです?」

「なぜ。それは、そこから事が始まるのを期待しているのさ。要するに、刺激を求めている人間ほど身なりがいいね――。人と関わりたくない者は、わたしの様に汚い格好をすればいい」

「――」

「そうすれば人は寄ってこんは。その逆じゃよ」

「逆?」

「格好よければ人は寄ってくる、という人間の短絡的な発想じゃよ。同時に自分で自分を慰めているのよ」

「慰める? 私もですか」

「そんな高い靴はいて気分いいじゃろ。人格が上がったと錯覚した事あるじゃろ。他人の足もと見て鼻で笑ったことないか?」

「・・・・」

「ブランドで着飾る者は自分で自分をタッチ、タッチなんとか・・・・してるんじゃ」

「タッチセラピー」

「それじゃ」

「でも別に悪い事じゃないと思うけど」

「そんな必要があるのかのぉ。人間じゃろ、人間は中身じゃろ。中身のある者は着飾ったりしないものじゃ。めったに居ないがのぉ」

「・・・・」

「まぁ人間じゃから、しょうがないのぉ」

 

俺が、今というときに満足していない?

刺激を求めている?

確かに昨日と同じ今日の繰り返しで、毎日、辟易の連続。

正直、御婆さんのいったとおり、何をしたいのか分からない。

いや、考えた事などなかったかもしれない。

お金の使い道は確かに洋服や靴だ。

なぜ? と聞かれれば・・・・確かに御婆さんのいったとおりかもしれない

 

「正直、御婆さんのいった通りかもな。平凡な毎日。最近は昨日のことが思い出せないことがあるよ。――生きている意味があるのかさえ、分からなくなる事だってありますよ」

泰三はため息まじりにいうと、膝を折った。老婆と同じ目線になる。

「旦那さん、寂しいことをいいますねぇ。そのうちいいことありますよ」

老婆の福福しい笑顔がそこにあった。

「お婆さんって、本当は天才占師か、それとも神通力を持っていたりして」

泰三は冗談で老婆をからかった。すると、

「ほぉ、あなたの方こそ凄い。よく私が神通力を持っていることが分かりましたね」

と、真顔で答えた。

泰三は戸惑った。冗談でいったつもりが真に受け止められてしまったのだ。

「・・・・いえ、なんとなく」

「あなたのいった通り、神通力を持っているんです。つまり、私は神なのです」

「神! ですか?」

泰三は苦笑し地面をみた。

そのような言葉、要するに「私は神です」などという言葉を信じるのが無理である。

確かに、この吸い込まれそうな優しい顔は、神と思えばそう感じる。だが、この科学の発達した時代に「私は神です」などといえば、漫画の読みすぎか、空想癖があるのか、さもなければ老人特有にボケと思われても仕方ない。

そもそも、神とは眼にみえない者、というのが人間の概念である。眼に見える神は、まゆつば物という概念も、また人間にある。

泰三は神を信じていなかった。

「信じて頂けないみたいですね」

泰三は人差し指で額をかき遠慮がちにいった。

「残念ながら私は神を信じない。信じたいけどね」

「なぜ? ほとんどの人間は神を信じているというのに!」

「じゃぁ、なぜ罪の無い人が通り魔に刺されて死ぬの? なぜ子供が誘拐されて死ぬの? なぜ、欲深い政治家が長生きできるの? でしょ?」

「なるほど・・・・。返す言葉がないのぉ。でも、残念ながら私は神です」

「・・・・そうですか」

泰三は老婆の言葉を流すようにいった。

「仕方ありません。神の力を少しだけ見せて差しあげましょう。旦那さんの大好きな物をお見せしよう」

「私の大好きなもの?」

神と名乗る老婆はニタリと笑った。

 

 

給湯室。

二人のOLが湯飲みを洗っている。

一人は制服がまぶしい新入社員。もう一人は制服が馴染みきっているお局様。

「あっ、取締役。お疲れさまです」

お局が入口に現われた佐竹雄作をみていった。

「お疲れさま。君達は確か経理課だよね?」

佐竹が聞くと、二人は頷いた。

「泰三、いや荻野君みなかった?」

「荻野さんなら定時で帰りましたよ。今ごろ八王子のマイホームじゃないですか」

お局がいう。

「そうか・・・・」

「荻野さんになにか?」

「いや、たまには飲みにでも行こうかと思ってね」

「そういえば取締役と荻野さん、同期でしたよね」

「あぁ、いつも一緒につるんで遊んだもんだ」

お局が「クスッ」と笑った。

「ん? なにか変かな」

「いえ、あまりに不釣合いに感じたものですから。典型的な勝ち組みと負け組みの組み合わせなもので、おかしくて」

「勝ち組み?」

「取締役はニューヨーク支社にいらしたから分からないかも知れませんが、新しい区別の仕方です」

「・・・・で、私はどちらかね?」

「決まっているじゃないですか。どう見たって勝ち組みですよ」

「・・・・私が勝ち組み? いったい私は何に勝ったというのかね。勝った覚えは無いけど」

お局は「まぁ!」という表情で新人OLを見た。

「決まっているじゃないですか、人生にですよ。名誉に財産、それに取締役はダンディーだしね、女性がほって置かないは。それに引き換え荻野さんたら毎日机に向かいパソコンで経費の計算、年の割に老けているしね、冴えないよね」

「おいおい、いい過ぎだぞ。人なんて一長一短さ」

と、佐竹はいいながら二人の前から去った。

 

 

「向うから来る女性を見ていてください」

「彼女がなにか?」

「彼女のパンティーを見せてあげますよ」

「えっ!」

「彼女には悪いけど。見たいですよね?」

「まぁ、そりゃ見たいですよ、男ですから。でもどうやって?」

「神の力を信じなさい」

女性が歩いてくる。

細面で瞳が大きくスレンダーな体躯が、泰三を魅了した。

新卒のOLなのだろうか、リクルートスーツを着ている。社会をまだ知らない無垢な感じを漂わせているのが、ういういしく可愛い。

社会人になって、間もないことが恥ずかしいのか、胸を張って歩く姿が逆にぎこちなく、新社会人ということをばらしている。

神と名乗る老婆は、泰三に「力を信じなさい」といったが、泰三には無理だった。

泰三は思った。この状況でどうやって彼女のパンティーを自分に見せるつもりなのか?

風が吹けばスカートがめくれることがあるが、今は風などない。まったく無風状態。仮に風が吹いたとしても、スーツのスカートをめくれあげる風などは、台風でもない限り吹かないだろう。可能性はゼロに違いない。

女性が自らパンティーを見せるわけも無い。

女性が近づいてきた。

が、なにも起こらない。そして、泰三の前を通り過ぎようとしている。

泰三は馬鹿にした思いを視線に乗せ、老婆へ送った。

老婆は瞬きせず、前だけをを見て、石の様にじっとしている。

だが、女性が泰三の前を七、八歩通り過ぎたときだ、女性の後方から三人の小学生が足音を殺しながら、嬉しそうに走り近づいてきた。

そして、小学生が女性を追い越すと同時に、なんと泰三の目に、いろ艶やかな、可愛いピンクのパンティーが飛び込んできた。

泰三は驚きながら喜び「信じられない」という表情を老婆へ向けた。

小学生の一人が、すれ違い様スカートの裾を両手でつかみ、思いっきりめくったのだ。

いや、めくって下着が見えるスカートじゃない。そう、めくるというより、まくりあげた。幼児が母親に万歳をしてシャツをまくりながら脱がしてもらうような感じだ。

女性は思わず悲鳴をあげしゃがみ、辺りをキョロキョロ見まわし何が起こったのかを、必死に理解しようとしている。そして、喜び勇んで逃げる小学生に拳を振りあげ、

「コラッ!」

と、お腹の底から怒鳴ったが、小学生たちは疾風のように視界から消えていた。

女性は、すばやくスカートを整え、顔を赤らめながら、そそくさと泰三たちの前から立ち去ってしまった。

泰三は目を丸くし、

「見えたよ、御婆さん! ピンクの可愛いパンティーが。信じられない」

泰三は神と名乗る老婆を瞠目した。彼の中で、老婆が少し神へ近づいた瞬間だった。

「信じて頂けましたか。神ならこの程度のこと、簡単に出来るんですよ」

「でもどうやって?」

「ちょっと、少年の体を借りたのさ」

「少年の体に乗り移った、という事?」

「そう、神だからそれが出来る。信じて貰えたかな」

「――まぁ、信じるというより驚きましたよ」

「なんと! まだ信じて頂けないみたいですね」

「そう簡単には―ー」

「そうだ、此処で会ったのも何かの縁かもしれません。何か願い事をひとつだけ、叶えて差しあげましょう」

泰三は苦笑し、

「ドラマでのありきたりのパターンですね」

と、いった。

「でも、それが叶えば、本当に私が神だったということでしょう。何かありますか?」

「急にいわれても、いっぱいあり過ぎて思いつきませんよ」

「それもそうでしたね、失礼しました。では、こうしましょう。今度会ったときにその答えを頂きます。そして、願いを叶えます」

「本当ですか?」

「本当ですとも。私も神としての誇りがありますから、信じて頂けないままこの国を去れません。但し、願い事を叶えるのに、条件があります」

「条件?」

泰三は咄嗟に思った。新手の商法か。条件といって何かを売りつけるつもりか――。

だが、条件は意外に簡単なことだった。

「信じようとする素直な心を持っていただきます、私が神だということを。すべてはそこから始まるんです。最初から信じないぞ、という心では願い事は叶えられないし、私を見ることはもうないでしょう。そう、願い事は私を神と信じていただいたご褒美ということにしましょう。そうなれば、私も気持ちよくこの国を去れますし、あなたも満足するでしょう。そして、願い事が叶ったときに私が神ということを確信するでしょう」

泰三は顎に手を当て表情を固くした。なおも半信半疑だった。

うまくいいくるめられて「神」ということを信じさせられるような気がした。

 

確かにパンティーは見えたけど、それだけで神と信じていいものか。

もしかしたら、すべてがやらせかもしれない。でも、婆さんの前で足を止めたのは俺だしなぁ。

まぁ、まてよ、仮にこのお婆さんを神と信じて害はあるか?

ないよな。もしも信じるだけで本当に願い事が叶ったら、こんなラッキーなことはないよな。

――よしっ、どうせいつも暇だし、暇つぶしになるか。

 

泰三の固い表情が和らぐと、顎に当てた手を下ろしていった。

「信じますよ。お願いします、願い事」

「本当に信じていますか? まぁ、いいです。それでは、次に会ったときまでに、願いを考えといて下さい」

「今度はいつ会えますか?」

「さあ、私も気まぐれですからね。でも大丈夫です、神は嘘をつきません。それが神の掟ですから。私を神と信じたら、必ず近いうちに会えるでしょう。前回この国へ来た時も、名のあるサムライという人種に、ちゃんと願い事を叶えてやったし」

「サムライ? いったい、どんな願い事ですか?」

「どんな? 彼の願い事はむずかしくて悩んだよ。ただ、鋭い目をして威厳のあるいい面構えをしていたなぁ。表情に生気があふれていたよ。今のあなた達とは比べ物にならないくらいだ」

「面目ない次第で」

「彼は天下を取りたいといった」

「天下! ですか?」

「それだけなら、願いを叶えてやらなかったかもしれないが、彼は、天下を取って人々を笑わせたいと、本気で悩んでいたわ。いい顔だった」

「それで、願いを叶えてあげたんですか?」

「あぁ、しかし、どうした物かと思って悩んだわ。そこで、参考になるかと思ってな、彼の行く末を先まわりして見てきたら、殺されていた。徳川という男に」

「徳川! 徳川って徳川家康?」

「確かそんな名前だったかな。しかし、その徳川もすぐ死によった、病気で」

「病気ですか。じゃあ、秀吉という男がいたでしょ?」

「秀吉? あぁ、あのちっこい奴か。奴がしばらくこの国をまとめていたが、あれは欲が深くてな、金の延べ棒の下敷きになって死んだ。徳川が死んだ十年後に。あいつらしいけど」

「なんか、面白いですね。お婆さん小説でも書いたらいいよ、で、そのあとは」

「結局、上杉という無口な男と真田という頭のいい男が協力してこの国を治めていた」

「じゃあ、その天下を取りたいといった男の願い事はどうなったんですか?」

「だから、そうなる前に・・・・消えてもらいました、この世から」

「え!」

「私は、いい答えだと満足しています。消えてもらったことによって、今のあなた達の時代でも語り継がれているからのぉ。そう、彼の名を語らなければ歴史を語れなくなっている。まさに歴史の中の天下人です。未来がある限り歴史も存在する、永遠に天下人というわけだ。確か名前は・・・・のぶ」

「信長! 織田信長ですか?」

「そう! 織田信長といっていた。本当にいい男だった――」

「じゃぁ、婆さんが明智光秀を――」

「あぁ、そうじゃ。体を借りてな。竹やぶで体を返してやったら、きょとんとして何故に自分がこんな所にいるのか、という顔をしていたっけ。その直後に殺されてしまったが。明智という男もいい男だった。頭は良かったが少し生真面目で優しすぎたがな――。彼には悪いことをしてしまったから、来世に大久保という男に生まれ変わらせてやった。わしの力じゃないがのぉ」

「大久保? 大久保彦左衛門」

「いや、大久保利通といったかな」

 

本当か? 作り話にしては面白すぎるし、嘘を付いているにしては言葉が流暢だ。

しかし、この婆さんはいったい何者だ。本当に神様なのか?

まぁ信じよう、信じる者は救われるというし。暇つぶしになるかな。

 

荻野泰三は頭を下げた。退屈な日々にわずかな楽しみをくれてありがとう、という謙虚な思いを込めて。

「次に会える日を楽しみにしています」

と、御婆さんに、いや、神様に微笑みかけ、軽やかな足取りで家へ向かった。

神様は優しい微笑で泰三を見送ると、眼前にある花と一緒に空間と同化し、徐々に体が透ける様に消えて行った。

 

 

ニ、欲

商社マンの荻野泰三はリビングのソファアに沈みビールを飲んでいる。商社マンといっても、経理一筋の商社に勤める典型的なサラリーマンだ。

目前のテーブルには、冷えたビールと、皿に盛られた枝豆とそのかすが、それぞれ不規則な位置関係で置かれている。

泰三にとって、テレビを見ながらビールを楽しむことが、一日のうちで最もリラックスできる時間だ。

三十五年ローンで購入した二階建て一軒家、家族の宝物である。二階に二部屋、一階に三部屋と、三人家族にしては贅沢かもしれない。

ただ、中学三年生になった一人娘が二階の自室に入ったらなかなか出てこないので、泰三は寂しくてしょうがない。時々、幼かった娘と過ごしたアパート暮らしに、戻りたいと思うことがある。

その愛娘は、まだ学校から帰っていない。部活でいつも帰りが遅い。遅いといっても部活の終了時間が遅いのではなく、その後の友達とのおしゃべりタイムの終了時間が遅いのである。

泰三は心配でしょうがないが、

「もう少しはやく帰って来い」

と、一言いうと娘は三言返してくる。そして、気がつくとうまく娘に丸め込まれていることが多い。しかし、丸め込まれることによって、娘へのご機嫌を取っている、父親としての喜びもあった。

キッチンから、ガスコンロに鍋を置く音や、電子レンジの「チン」が聞こえてくる。

泰三の妻、荻野里美はいつも泰三が帰宅する少し前に、パートから戻ってくる。だから、夕食の仕度をするのは一般家庭から比べると遅いが、遅い事に文句をいったことはない。

三十五年ローンを一人で返すのは大変厳しい。そうなると里美の協力が必要不可欠になってくる。その負い目からか、夕食がテーブルに並ぶのをいつも静かにまっている。

テレビからは、この国の日課になってしまった殺人事件のニュースが流れていた。

住宅街の路上で、老人がすれ違う若者達に道を尋ねたところ、

「この老いぼれが、これから国を背負って立つ僕達に気安く声をかけるな、教えてほしかったら金をよこせ」

と若者がいったところ、老人が身の危険を感じ無視して立ち去ろうとした為、若者の一人が、

「生意気だ!」

と、手に持っていた携帯電話で老人の頭を何回も殴りつけて死なせた、という愚かなニュースである。

犯人の若者は、近くでゲートボールをしていた、ゲートボールをこよなく愛する老人クラブ十三人に取り押さえられたと、テレビが報じている。

泰三は、

「いつ何が起きてもおかしくない悲しい世の中だ」

と、そのニュースに悲しみを感じたが、三十秒も経たないうちにその感情は脳裏へ消えて行った。毎日の出来事なので、真面目に悲しんでいたら神経が異常になってしまう、という、泰三の自衛手段でもあった。

だが、今日はそれだけではなかった。「願い事」が頭の中を駆け巡り、他人の不幸を悲しんでいる暇はなかった。

 

願い事ひとつかぁ――。

ひとつといわずに、みっつにしてくれてもいいのに。

まぁ、こんなご時世だから、ひとつでも贅沢だな・・・・。

今までも考えたことはあるけど、どうせ願いなんか叶いっこないと思っていたから、無責任にいろいろ思いついたっけ。

でも、いざ真剣に考えると意外と思いつかないなもんだなぁ。

逆に考えるのが、なんだか、めんどうになりそうだ。

いかん、いかん。めんどくさいなんて。

せっかくの機会だ。神様と信じて真剣に考えてみよう・・・・。

たとえば、帰宅したらテーブルに晩飯が用意してある、とか。という事は妻がパートに行かなくてよい環境、つまり家のローンがなければいい。

そうすれば帰宅してすぐに飯にありつける。

だめだ、話にならない。願い事が小さすぎる。

情けない・・・・こんな願い事を思いつくなんて。

晩飯なんか、少し我慢すればいい事だ。

ローンだって、このままコツコツ返済すればいいし、別に苦じゃない。

どうせ俺が死んだら保険で返済するんだ。

そうだ!

車を手に入れて家族旅行へ行こう。

娘が少学校三年生のとき、南紀白浜に行った以来だからな。喜ぶぞ、ふたりとも。

でも我が家には駐車場がないな。庭を壊すか。

しかし、これも神様にお願いする事か?

自分で自分が情けなくなるほど、欲がないよなぁ。

まぁ、だからこの年になっても平社員というわけだ。

もっと単純に考えればいいんだ。

そう、お金。宝くじ、それもロトシックスのキャリーオーバー最高金額四億円。

結局これになるか? そうなるよな。

お金があれば今のふたつの願い事なんか鼻くそみたいなもんだ。

どんな欲でも叶う。

 

里美がキッチンから泰三を呼んだ。晩飯の支度ができたらしい。

酒とつまみでお腹はふくれたが、今日はそれでも食欲が止まない。

(腹減った、えっ・・・・)

キッチンテーブルをみた泰三の表情が一瞬とまると、

「ごめんなさい、買い物する時間がなかったから有合わせで作ったの」

と、里美がすかざずいった。

「――いや、いいよ。美味しそうだ」

と、相槌を打ちながらも、

 

有合わせのカレーか。――確か先週もカレーの日があったよな。それに、豚肉の代わりにソーセージか・・・・

まぁ、しょうがないか。

 

と、諦めた。

「どう? 美味しいでしょ。それに粗食が一番体にいいんだって。テレビでやっていたよ」

と、里美がいい訳がましく、夫の体を気遣かった。

泰三はそれにはこたえず、

 

今にみていろ。

お金が入ったら毎日ステーキだ。

しゃぶしゃぶ、海鮮料理もいいな。

健康も考えて、隔週で玄米ごはんを食するか。

産地直送のアワビや帆立もいいな。

 

と、思いをふくらませ、正面でカレーを食している里美の瞳をみて、思わず「ニヤリ」と口元がゆるんでしまった。

「何よ・・・・気色悪いわね」

里美に怪訝な表情で疑われたので、

「あいつはまだ帰ってこないのか!」

と、話題を無理やり娘のことに移す。すると、

「なにいってんのよ、この時間じゃいつも学校から帰って来ないでしょ。ごまかさないでよ」

と、内心を見透かされていた。

里美はそれ以上なにもいわず、泰三を不思議そうに見つめながらカレーを口に運んでいた。

食事が終わり泰三は再びソファに沈むと、

「あぁ、旨かった。満足、満足」

と、つぶやきチャンネルをNHKに合わせた。

「ただいま」

優子が明るく学校から帰ってきた。

「お帰り、優子ちゃん」

泰三が満面の微笑で娘を迎えた。

「だから! そのちゃん付けはやめてよ!」

「分かった、分かった。優子ちゃん、あ!」

「もぉ。いくらいっても直らないんだから。だいたいなんで優子なんてあり触れた名前にしたのよ」

「いいじゃないか。いい名前じゃないか。優しい子。この名前に勝る名前なんて無いよ」

「もっと、変わった、日本に一人しかいない名前にしてほしかったの」

「個性的な名前にしても本人に個性が無くちゃ意味ないじゃないか。名前なんてな、親が子に、こうなってほしいと願いを込めてつけるもんだ」

「・・・・今更いってもしょうがないけどね」

といって、二階に上がっていった。

 

そういえば、人間の持っている五欲ってなんだっけ。

えーと、確か食欲、睡眠欲、それと一番抑えられない性欲、あ

と名誉欲と財欲。

この五つが人間の基本的欲望って事か。

食欲、これがなかったら死んでしまう欲望。

でもまてよ、それは、さっき思ったように、美味しいものを毎日食べたいと思うことか?

本当はただ、腹が減ったからエネルギーが欲しい、と感じることを食欲というのだろうな。

それでも人は欲深いから、どうせ腹に入れるのなら美味しいものがいいと思う。俺もそうだ。当然だよな――。

でもそうやって、高血圧、糖尿病、運動不足の肥満に動脈硬化。

これがオチだよなぁ。

神様が欲深い人間にはそれなりの代償を与えているのかもしれない。

ん? 神様。

さっきの御婆さんのことか。そこまで考えているようには見えないが・・・・。

まぁ、いいか。

だいたい、今のように腹が減っているときは何を食べても美味しいもんだ。

有合わせカレーでも満足するくらいだ。

それに、世間でいう美味しいものを食べたとしても、味の記憶って、意外と残らないんだよなぁ。

あのときあの場所で美味しい物を食べた、という記憶は残っても、それがどんな味だったか覚えてない。

言葉で表現しろといわれて表現できる奴なんていないだろうな。

食欲なんてそんなもんだ。

そんなものにお金を掛けるのはもったいないか、ほかのことにお金を使おう。

四億円もあるんだから。何にお金を使おうかな・・・・。

 

 

時計の針が夜の十一時をまわった。

泰三はダブルベッドに横たわり白く光る蛍光灯をひとりで見つめている。かと思えば突然からだを横にして落ちつきなく枕を抱きし

めたりする。まるでベッドの中で右往左往しているようだ。

少し開いた窓から風が吹き込む。カーテンを静かに揺らし、若葉と土の香りを寝室に運んでくる。

 

眠れない。あれだけ飲んだのに。

明日も会社だ、はやく寝ないと仕事に差し支えるな。

でも四億円が自分のものになると思うと、ゾクゾク興奮して眼が冴えちまう。

いっそ明日は休んじゃおうかな。

でも忙しいからな、今週は。

――いかん、なに本気になっているんだ。

・・・・でも、もし現実になったら。

しょうがない、明日は出勤するか・・・・。

どうせお金が手に入ったら一生働かなくても済むからな。

そうなったら、サラリーマンの宿命、あのギュウギュウ詰めでポマード臭い満員電車ともおさらばだ。

毎日寝坊できる。

起きたいときに起き、寝たいときに寝る。

最高だね!

――しかし・・・・しかし、だ。

そうなると俺は毎日、何をして暮らすんだ。

趣味? そんな物は無いし、仮にあったとしても、いま俺が四十五歳。八十歳まで生きるとして残り三十五年。三十五年間、毎日趣味をやるとしても、きっと五年で飽きるだろう。

そんなもんさ・・・・。

起きたいときに起き、寝たいときに寝る生活は確かにあこがれだ。

でも、それをやると、きっと運動不足の脳血栓、成人病になって「ポックリ」がオチだな。

いや、それならまだいい。寝たきりになったら「ポックリ」よりつらい。

どうせ死んだらいくらでも寝られるんだから、規則正しい生活はしなくちゃな。

まてよ・・・・これも神様が仕掛けた戒めの為のワナかもしれない。

優しい顔して厳しいな、あの御婆さん・・・・いや、神様は。

そうなると、願い事でもらう四億円は何に使おうか?

悩むなぁ。

――とりあえず働くか。

サラリーマンは除外するとして、きままな自営業。

いや、いっそ会社を興して社長になるのも悪くないかな。

「社長」いい響きだ。

まわりは俺に媚を売って俺はそれをあしらうってのも気持ちが良いかもしれない。

運よく会社が飛躍して俺は大成功し、そして政治家になる。

政治家になったら先生だ――この俺が?

信じられない。

でも、今は誰でも政治家になれるからな、まんざらでもないか。

――しかし・・・・これも、しかし、だ。

これは、お金があっても俺とは無縁にしたい。

社長なんて走り出したら止まることができない回遊魚みたいなもんだ。

だいたい、世の中の偉いといわれている社長、政治家を本当に偉いと思っている人が世の中に何人いるんだろう?

たいしていないだろう。

サラリーマンの世界なんか特にそうだ。

偉い社長や部長を目の前にすれば、気分よく持ち上げ、裏ではカス扱いだ。

心より褒め称えている奴などみた事ない。

これがサラリーマン人種社会。

サラリーマンの心のオアシスといえば、上司の不幸だ。

政治家も似たような人種なんだろう・・・・きっと。

こんな風に思うのも思われるのも俺はいやだ・・・・。

だいたい「偉い」ということが何を指しているのか、俺には分

からない。

――お金の使い道が決まらなくちゃ、それを手にしても意味が

ないなぁ。

あー、悩む・・・・悩む。

 

部屋のドアが静かに開いた。

泰三が首を起こすと、パジャマ姿の里美がバスタオルで汗を拭きながら、石鹸の甘い香りと共に入ってきた。

「まだ寝てなかったの?」

「あぁ――。ちょっと寝付けなくて」

「なんかいい事でもあったの?」

「あったような、無いような」

「何よ?」

「――いや、たいした事じゃないから」

「なに、それ。教えてくれてもいいじゃない、ケチ」

教えたところで、信じる分けない。どうせ相手にされないから教えない、と思った。

妻は鏡台に向かい、通信販売で購入した「しわを取る魔法のローション」を祈るように顔に塗っている。、

それを後ろから見つめ、無駄な努力だ、しかし、女の執念には感服する、とも思った。

長い髪を後頭部で束ね露出した里美のうなじが、泰三の心を「グラッ」と震わせた。

 

あんなに綺麗だったっけ、うなじ―ー。四十三には見えないよなあ

 

首を持ち上げそれをみていると、里美は鏡の中の泰三にいった。

「何みているのよ・・・・いやらしい目で」

「失礼な! いやらしい目なんかしてないよ」

「今日は私、疲れたから寝たいの。――なにもしないでよ」

「・・・・」

里美が化粧を終えると部屋の電気を消しベッドに入ってきた。

すると、たちまちベッドの中が甘い香りに占領されてしまった。

里美は泰三に背を向けるように横たわり寝息を立てようとしている。

 

何もするなといわれると、したくなるもんだ

 

と、自分が興奮してくるのが分かった。

そう、興奮の要因は匂いだ。石鹸の香りに嗅覚が刺激され、それが全身に走り股間を熱くするのには、時間は掛からなかった。

熱い腰を妻のお尻に添わせ、手で腰を覆うように引き寄せた。

「・・・・いや、だめよ」

「いいじゃないか、我慢できないよ」

「疲れているの、あっ――」

「いや」といいつつ里美は泰三に体を預け、泰三は里美の体を大事にあずかった――。

いとなみが終わると、二人は仰向けになり、寄り添いながら息を整えようと目を瞑った。ひと昔前なら息の整うのに時間は掛からず、二回戦へ突入したが、四十を過ぎてからは思うようには呼吸の乱れが収まらなくなっていた。だが、このひとときが泰三にとって至福のときでもあった。

何をしゃべるでもなく、しばらく無言のときが流れると、里美がいった。

「そうだ、いい忘れたんだけど、公園のホームレスの御婆さんね、朝死んでいたんだって」

と、いうとたちまち寝息を立てた。

 

御婆さん? あ! 神様の御婆さんだ。

見たことあると思ったら、そういうことか。

朝死んでいたということは、帰りに会った御婆さんは、本当に神様が乗り移って現れたということか――。

 

泰三はおもむろにベッドから出ると、毛布を里美の首元まで掛け直し、少し開けていた窓を閉め、そしてパジャマを着直し再びベッドにはいった。

 

色欲、性欲・・・・。

男にとってかけがえの無いもの。

外国のある詩人がこんなことをいったっけ、

「女がいなければ男は神のように生きられる」

と。分かるような気がするけど、神様ってあの御婆さんだろ・・・・。

男の夢、ハーレムか。

四億円で作れるか?

だめだ、どうやって作るのか分からない。

でも、毎日風俗には行けるかもしれない。

今の俺が四十五歳、性欲が続くのが六十、いや、六十三歳とし

て、あと十八年。

十八年を毎日、いや、毎日はさすがに無理か。

一週間に一日にしよう。

すると一年で五十二日、ちょっと少ないな。

一週間に二日にしたら百四日か、こんなもんだろ。

それを十八年続けると・・・・千八百七十二回もネオン街に行くことができる。

金額に換算すると、交通費、食事、風俗代あわせて五万として、千八百七十二回を五万で掛けると:::九千三百六十万円。

楽勝だ。

それでも残り三億もある。

最高じゃないか!

これで一億円の使い道が見つかった。

でもまてよ、実際に週二回もできるか?

今だって月に二回だというのに。

それに俺は里美でじゃなきゃ嫌だし、いつでも行けるとなると逆に行かないもんだ。

それなら一月に一回で十分だよな。そうなると、今の小遣いに幾らか足す程度で十分

だな。四億どころか一億も必要ないな。

――あぁぁ、お金があっても使い道がわからなくっちゃ・・・・取り敢えず貯金か。

そもそも金持ちで幸せそうな奴などみたことない。

一般人が急に大金をつかむと、ろくなことにならない、これが世の常だ。

友達にばれたら、ひとりも友達がいなくなるかもしれない。

まてよ、里美にはいわなければまずいよな。

黙っていられるか? 無理だよな。

優しい里美の事だ、半分くらい分けの分からない団体に寄付しちゃうかもしれない。

そうなった時、俺は発狂しない自信は、無いな。

するだろうな。

それが原因で離婚になったら悲しいな・・・・。

やめておこうかな、お金の願い事は。

しかし、少なくとも未来という不安は解消されるよなぁ・・・・。

それは凄く魅力だ。

あー、悩む・・・・悩む。

眠い。

 

 

朝夕のラッシュ時には、大勢のサラリーマンでひしめき合う駅周辺も、午前零時をまわると、朝夕とは異なる場所のように、閑散としている。

北口には十階建ての駅ビルデパートがあり、昼間となると老若問わず賑わう。もちろんこの時間では営業はしていない。

だが、最近では最上階にあるレストラン街だけは遅くまで営業しているらしいが、さすがに、この時間に営業している店はない。

南口は北口のような華やかさはなく対照的な様相である。

もちろん駅ビルなどなくただ出入口があり、そこにバスが大きく回転できるくらいのロータリーが目だってあるくらいだ。

かろうじて地元信用金庫の五階建てビルが、ロータリーの向うにひとつ、自慢げに建っている。

ロータリーのはずれの一角にタクシー乗り場がある。車は数珠つなぎで並んでいた。平日のこの時間では、乗客が少ないのは当然かもしれない。

タクシー乗り場から歩いて一、二分離れた場所に、薄暗く真っ直ぐ伸びた路地がある。

誰も歩いていない。時間も時間だけに当然かもしれないが、闇が人を遠ざける不気味な路地だ。

そこを身長二メートル、体重は百キロを勇に超えた筋骨隆々でスキンヘッド、そして折り目正しい真っ白いスーツ姿の大男が入っていった。

五十メートル続く路地の突当たりはT路地になっている。

その突当たり正面だけが、この時間にもかかわらず明るく光を放っていた。まるで路地の光を全て吸収し輝いているようだ。

そこは三階建てビル。

玄関の前に世間を威嚇するような黒塗りの高級車。

その周りに十人ほどの男衆が整列して誰かを待っている。この男衆、何処からどのようにみても一般人ではない。

ヤクザだ。

玄関から親分を囲み五、六人の男が現れると、ひとりが車のドアを開け、整列していた男衆が一斉に、

「おつかれさまでした!」

と、頭をふかぶかと下げ、挨拶をした。

そして、親分が車に乗り込もうとしたときだ、

「おまえらに尋ねたい事があるんだが。実は、人を探している」

と、突如、闇から白い大男が現れた。

ヤクザ達は一斉に大男をみた。

その異様な風体とその形相はどうみても善人には見えず、ヤクザ達は一瞬ひるみ身構えた。

その顔は、目が普通の人より飛び出ていて、それでいてつり上がっている。頬骨が出ているのか頬が盛り上がりそこだけ血色が良く赤い。鼻筋は人並みだが、口が異様に小さい。が、あごが大きくしゃくれている。頭はスキンヘッド。スキンヘッドというか毛髪の生きていた形跡が見えない。

まるで現代の鬼のようである。

「な、なんだてぇめぇ! 何処の組の者だ」

若い下っ端が眉毛を吊り上げながらいった。

その声が闇夜に響いたのか、建物の中からぞろぞろとヤクザ達が飛び出してきた。

「ふむ、わしはただの通りすがりだが」

「通りすがり、だぁ。素人が俺達に気安く声を掛けられると思っているのか、バカヤロー」

「・・・・醜い。あまりにも醜いな、おまえら。おまえらは世の中の役をした事があるのか?」

大男の言葉に激昂したヤクザ達が、疾風のごとく大男を取り囲んだ。

「コノヤロー、す巻きにして海に沈めるぞ!」

ヤクザ達が一斉に大男に飛び掛ろうとした時、親分が静かに口を開いた。

「御仁、悪い事いわないから帰りな。こいつら血の気が多いんだ」

「わしの質問には答えてくれないのか。ただ人を探しているだけなんだがな」

「おめぇよ、ヤクザに物を頼む時は礼金もってこいよ。それが常識なんだよ、コノヤロー」

「おまえらは、人に対する思いやりとか、悲しみを感じ無いのか?」

「思いやり? そんなもんあるか。俺達が楽しければそれだけでいいんだ。他人が死のうが生きようが関係ねぇよ」

「おまえらは本当にそれだけで生きているのか?」

「あたりめぇよ、それが極道ってもんだ」

下っ端が両手をズボンに突っ込み、下から上、上から下へと舐めるような視線で大男を睨む。

大男はおもむろに腕を組み静かに目を閉じた。そして、大男は地の底から響いてくるような重く低い声でいった。

「金と暴力でしか価値を見いだせない愚か者共が。おまえら命を悩んだ事があるのか!」

「命を悩む? くだくだらねぇ、何をわけの分からないこといってんだ。頭おかしいぞこいつ」

下っ端が吐き捨てるようにいった。

「そうか、分かった。人は価値の無い人間はいないというが、それは嘘で、価値の無い人間など何処にでもいるもんだ――。ふむ、まぁよい。これも仕事だ」

と、大男が自分にいい聞かせる様にいった。すると、同時にヤクザ達は一斉に拳を振り上げ白い服の大男に襲いかかった―ー。

 

 

「あなたっ、大変、大変よ! はやく起きて、事件事件!」

泰三はリビングから聞こえてくる、常軌を逸脱しそうな金きり声で目が覚めた。

リビングに行くと、妻がテレビを指差し、

「ほらっ、あそこよ。あそこが映っている」

と、妙に嬉しそうな表情で、テレビを食い入るように見ていた。

「なんだよ、どうしたんだ、朝っぱらから?」

「駅前の暴力団が全滅だって」

「ほんとか!」

 

〔警視庁の調べによりますと今朝午前零時半頃、暴力団組事務所内での何らかのトラブルから拳銃での撃ち合いが始まり四十三人の全組員が死亡した模様です。近隣住民には被害が無かったとの事です〕

 

「いやぁ、恐ろしいな。あとで此処の前を通って見ようかな」

「やめときなさいよ、どうせ通行止めよ」

「でも、今まで恐ろしくて通らなかったけど、あそこを通ると駅への近道なんだ。あいつらのおかげで、みんな遠回りしてたんだから――。あそこの極道は筋が通らない事ばっかりやっていたからな、きっと天罰が下ったんだ」

「でも夜中でよかったわ、流れ弾にあたった人がいなくて。この人達は一般市民のことを考えないのかしら?」

「考えやしないよ。こいつら自分に関係の無い物はみんな風景だからな」

「それにしても四十三人なんて凄いよね。この人達もどんなに粋がっていても、死んじゃったらおしまいよね。何が起こるか分からないわね、あー怖い怖い」

里美はエプロンを「ポン」と叩き、テレビの前から踵を返しキッチンへ戻っていった。

 

確かにその通りだ、死んだら欲望も何もないな。

じゃぁ、永遠に死ななかったらどうなる?

そうなるとこれからのこの日本をずうっと見ることが出来るのは楽しみだけど、もし悲惨な未来だったら死んだほうがましかもな。

戦争でも起きて、からだの半分が吹っ飛んだとしても死なないってことだろ。

悲惨な状況じゃなくても、死ぬまで、いや、死なないんだからずうっと仕事をしなくちゃいけないというわけだ。

それもある意味悲惨だよな・・・・。

だいたい、娘が俺より先に死ぬのは耐えられない。

永遠の命は却下だ!

あぁ、悩むな。

 

「おい、飯の支度はやくしてくれよ。現場を見てから会社に行くから」

「よしなさいって。野次馬根性丸出しじゃない」

「いいんだよ。テレビに映るかもしれないから見ていてくれよ」

「そんな暇ないわよ! わたしだって」

泰三は、慌てて洗面所へ向かった。

 

 

 

 

三、天罰

高架下。

川をまたぐ電車の轟音が、神様を押しつぶそうとしようとも、神様は涼やかな顔で新聞を読んでいる。

「トラブルといっているが、違うな。四十三人みんな殺されたんだ・・・・。こんな事できる奴はたった一人しかいない――。まっ、わしの手間がはぶけたというもんだ」

神様は新聞をたたみ、両手を大きく天に伸ばし背伸びをすると、姿が少しずつ風景と同化し消えてしまった。

 

 

荻野泰三が神様と出会って一週間がたった。

答えはまだ出ていない。それどころか、ますます迷路にはまり、悩みが雪だるまのように大きくなりつつあった。

考える事は、同じ事の繰り返し、自問自答の連続。

そんな月末のある日、泰三は趣向の違う願い事を思いつきそうでいた。

春雷がフラッシュのごとく夕刻空を照らすと、空一面に広がったドス黒い暗雲が、不気味に映し出された。

月末のオフィス街を激しい雨が叩く。

泰三はパソコンと向き合い、慌しく指を動かし仕入伝票を入力処理している。

時々、窓を叩く雨音が耳障りになり指が止まるが、すぐに慌しく指を動かしはじめる。

月末が忙しいのは経理部の宿命だが、なぜか、泰三だけが残業をして処理にあたっている。

これが四十五歳にもなって平社員である証拠なのかもしれない。

テニスコート四面ほどあるオフィス内には四、五人しかおらず、侘しさが泰三にのしかかるように包んでいた。

 

はやく終わらせて家でビール飲もう。

 

せわしない指先が脚にもつたわったのか、貧乏ゆすりが止まらないでいた。

その時だ、芳ばしい香りが泰三の動作をピタリと止めさせた。

目の前に細い腕とともにコーヒカップが現れ、カップから立ち上がるがる香りが男の臭覚を刺激し、泰三を一瞬にして癒した。

泰三がうわ目使いで細い腕をたどると、隣部署の美咲(みさき)礼子(れいこ)が、

「お疲れさまです」

と、微笑んでそこにいた。

「あっ、どうも。ありがとう」

と、カップを受け取ると、礼子は一礼をして私服でオフィスを出て行った。そのうしろ姿を未練がましい視線が追う。

 

いつ見ても可愛いよなぁ・・・・。

さすが会社一のアイドルだ。

この気配りが俺達男を魅了するんだな、きっと。

顔は小さく瞳が大きく、笑うと小さなエクボがアクセントになって、これがまた可愛さを引き出すんだよなぁ。

スタイルも文句のつけようは無いし。

背中まで伸びたあのしなやかな黒髪が、大和撫子っぽくてこれがまたいい。

当たり前のように茶色く染めないのがミソだな――。

あぁぁ、綺麗で可愛いなぁ。

たまに短いスカートを穿いて出社してくるが、あれは社長にいって禁止してもらわなくちゃな。

仕事に差し支える。

彼女は彼氏がいるのか?

財閥の令嬢だから、育ちがよすぎて逆に虫がつきにくいかもな。

なんてな、俺の願望だったりして。

神様にお願いして、一回デートさせてもらおうかな。そしていい雰囲気になって・・・・。

楽しいだろうな。

――楽しいのか?

何をしゃべればいいんだ。

俺のことだ、舞い上がって、ずっこけて笑われるだけだ。

・・・・。

結局これも単なる色欲じゃないか。

それに、里美が、可愛そう――。

そう考えると虚しい。

神様に頼めば願いを叶えてくれるだろうが、そんなことで終わりだ。

そう、そんなことだよな、きっと・・・・。

理性をなくした行為だ。理性を失うという事は人間の誇りを失うということだ。

そんな願い事しちゃ人間ダメになってしまうかもしれない。

ゲス根性な願い事はやめておこう。

それとも俺は、単なる堅物なのか?

まぁ、しょうがないか、これが、俺だから。

さっ、残った仕事をとっととやって家でビール飲もう。

それにしても何で俺はこんなに欲がないんだ。

日々同じことの繰り返しで、いやになっていることは確かなのに、何かを求めると答えが出ない。

どうなっているんだ俺は・・・・。

まぁ、欲があればこの年で平社員のはずはないしな。

しかし、欲が有ればこんなに悩むことはないのだろうか?。

あぁ、悩む・・・・。

 

 

高架下。

神様はダンボールの上に寝そべり、雨をしのぎながら荻野泰三を観ていた。観ているといっても、目の前に泰三がいるわけではな

い。神の心で観ているのだ。

「『何で俺はこんなに欲がない』か・・・・。それは簡単なことだ。だが、それに気付いていないようだ。だから、自分で何していいのか、何を求めているのか、分かるはずがない。それに気付かなければ、辟易というジレンマが続くだろうな。しかし、人間というのは簡単なことに気付かない生き物だから、困ったものだ。でも、旦那さんはなかなかの人間じゃ。欲より人としての誇りを選ぶとは・・・・。それにしても旦那さんは強固な理性を持っている。欲望、つま本能を司るのが理性。あまりにも強固な理性を持つとその理性に耐え切れなくなり、自ら私の領域に来る者がいるから、心配だな。まっ、旦那さんは平気だろ――。さて、どんな答えを出すか楽しみだ」

神様は心の目を閉じ、また、ひと休みをしようとしたとき、湿った草むらが動いた。

「ん? こんな雨のなか、私にお客かな?」

神様が上体を起こすと、暗がりの草むらから葦をかきわけ人影が浮かびあがった。

少年が二人。二人ともカバンを持ち、一人は長い棒状のものを肩にかついでいる。

「なんじゃ、つまらん客のようだな」

神様はつぶやいた。

「こんばんわ。――おじいちゃん、なにしてんの」

「見ての通り老体を休めているんです。君達こそ、何をしてるんだい?」

「雨宿りしていたんだけど、なかなか雨がやまなくてね。暇なんだ」

と、背丈の小さい童顔の少年がうすら笑った。

次に、ゴン! ゴン!

もう一人の少年が、肩にかついだ長い棒、つまり折れ曲がった金属バットで地面を叩き、

「遊ぼうよ。雨で塾に行けないんだ」

と、ニヤけた。

「ほぉ、この老いぼれと遊びたいのか、嬉しいのぉ。この体はちょいと気に入っていて動きやすいから、相手にしてもいいかな。ところで君達はいくつだ?」

「中学生だ」

「一三、四歳か・・・・。何をして遊ぶんだい?」

すると、童顔の少年が、いきなり神様のおなかを蹴ってきた。

「ヘヘェ。サッカーして遊ぶんだよ!」

「サッカーというのはボールを蹴るんじゃないのか?」

「違うよ、蹴って遊ぶ事がサッカーなんだよ」

神様の顔から優しいシワが消えた。そして、ゆっくり立ち上がると、

「しかし、汚い瞳をしているなぁ――。それにしても幼稚だ、あまりにも幼稚すぎる」

と、つぶやいた。

童顔の少年はなおも執拗に神様を蹴ってきた。

神様は飛んでくる脚を憮然と手で払い退けた。

「汚いんだよ、おまえらホームレスは。めざわりなんだよ。クズはクズらしく人目のつかない所で息してればいいんだよ」

「君達は人間の誇りを持っていないのかい?」

「人間の誇り? そんなもん持っているか、なぁ?」

童顔の少年が金属バットの少年に聞いた。

「なんだ、誇りって? そんなもの持っている訳ないよな。俺の部屋に行けばほこりでタンポポができるくらいあるけどな」

少年はちゃかし二人で笑った。

「ところで、なんでこんなことをするんだ。痛いじゃないか」

「なんでこんなこと? そんなの決まっているじゃん、毎日退屈なんだ。暇つぶしだよ、暇つぶし。他に何があるっていうんだよ!」

神様の鼻先を金属バットの風圧があたった。

「愚かだ、あまりにも愚かだ:::」

「なんだと、俺達が愚かだって! このクズ」

少年二人が神様に凄んで見せると、神様はいった。

「勘違いしなさんな。君達のことをいったんじゃない。――なぁに、知り合いの小うるさい奴にいった独り言よ――。こんな幼稚な考え方しか出来ない者に、立派な筋肉を与えて・・・・」

「何わけの分からないことをいってんだ。あぁ醜い、こんな大人にはなりたくないな」

「それは心配ない。君達に明日を表現する未来はない」

「・・・・どういうことだ?」

童顔がキョトンとした。少年は神様のいっていることが、さっぱり分からなかった。

「私が仕事をするからさ。これからは人間に、脳みその発達と比例して筋肉を与えなければダメだな。筋肉は人間の武器だ。幼児に武器を与えると使い方を間違えるからろくなことにならない」

「さっきから幼稚だの愚かだの説教がましいこといってんじゃねぇよ!」

金属バットが神様の頭へ飛んだ。が、次の瞬間、少年達の前から神様が消えた。

「・・・・」

「・・・・」

「こっちだ少年達!」

二人は「ハッ」とし後ろを振り返った。

「愚かども。君達はこれから先、生きていたとしても、心に風が吹くことはないだろう。生きていたとしても、他人の人生を湾曲する可能性がある。要するに生きていてはいけない人間だ、君達は」

「な、なんだとぉ!」

と、叫んだと同時に二人は神様に襲いかかった。

そのとき、川をまたぐ電車の轟音が、三人の頭上から押し寄せた――。

 

 

 

 

四、結

荻野泰三が神様と出会って一ヶ月、悩み始めて一ヶ月がたった。

公園の木々は見事に色つき、泰三の頭上を自慢げに揺らいでいる。更に頭上からは、夏のような陽射しが降り注ぎ、ベンチに座る泰三の額に汗をにじませた。それでも、時折吹く風が泰三の額をぬぐってくれる。

新聞を読みながらネクタイを緩めていたとき、泰三は片隅にある小さな記事に目が止まった。

 

〔行方不明の二少年、一ヶ月ぶりに腐乱で発見! 警視庁によると死因は落雷による感電死。二少年は塾に行く途中に落雷にあったもよう。少年二人は日頃から仲良しで、近所でも評判の優等生だった。このような結末に家族、関係者はショックを隠しきれないもようである〕

 

やっぱり死んでいたのか、可愛そうに・・・・。

最近、家の近くで人が死ぬなぁ――。

・・・・神様のしわざか?

まさかな。神様が人殺しなんて、ありえない。

神様と会ってないなぁ。

会ったところで願い事の答えは見つかってないけどな。

 

泰三は突然、大きな影に包まれ、一瞬瞳孔が大きくなった気がした。

顔をあげると、後藤がタバコをくわえ自分を見下ろしている。

横幅のある上司だ。後藤はタバコを捨て、足で踏み潰すと今度は小刻みにハンカチで額をふきだした。

「暑いね」

妙に冠高い声が感に障る。

後藤は泰三の横に腰を下ろすとベンチが軋んだ。

ネクタイを揺るめると、

「いやぁ、しかし暑いね」

と、ふたたび意味もなく暑さを強調した。

「そうですね。今日は」

「ところで君、最近どうした。元気がないし、少し痩せたんじゃないか?」

「そうですか?」

「悩み事なら相談に乗るぞ。辛いんだ。部下の悩む姿を見るのは」

後藤は生真面目にいった。泰三の顔をのぞき込みながら。

泰三は同姓に見つめられても不快なだけだった。後藤の顔が近づいた分、泰三の顔が離れる。

「・・・・」

泰三は言葉を返す労力を惜しみ後藤の目をそらし新聞をたたんだ。

「まぁ、いいよ。相談したくなったらいつでもおいで。お金の相談以外ならなんとかするよ。さっ、午後も頑張ろう」

と、後藤は自分のひざを叩き去ろうとした時、泰三が聞いた。

「部長は仕事が楽しいですか?」

「・・・・。楽しいですよ。会社のために頑張ることがね」

と、あきらかに真顔を作ってで答えて、去った。

 

何をいってんだ。出世することしか考えていないのに。

「会社のために頑張ること」だって? 計算した言葉をいいやがって。

コレを俺が誰かにいって、それがまわって取締役の耳に入れ分の出世も近くなると考えてのことだろ、どうせ。

でも、逆にいいよなぁ。

辺り構わず夢中に仕事が出来るってことは。

まぁ、タバコのポイ捨てする奴は所詮、部長止まりだろうけど。

ポイ捨てする奴は、他を犠牲にして自分を守る奴。

ポイ捨てしない奴は、自分を犠牲にして他を守る奴。

・・・・優子にはポイ捨てしない奴と結婚してもらいたいなぁ。

 

 

荻野家のチャイムがなった。優子がドアノブに手を掛け、

「どちら様ですか」

と、声を掛けると、

「佐竹雄作です」

と、返ってきた。

すると、優子は慌てるようにチェーンをはずし、玄関扉を開けた。

「おじさん! お久しぶりです」

優子が満面の笑みで佐竹を迎えた。

「久しぶり、優子ちゃん。おぉ、大きくなって」

奥から荻野里美が出てきた。

「あら! お久しぶり。突然どうしたの。さぁ、上がって」

荻野家リビング。

「悪いね、突然お邪魔して。仕事で近くまで来たから」

「いいえ、嬉しいわ。どうでした、三年間のニューヨークは?」

里美が尋ねた。

「忙しいだけでさ」

すると優子が、

「でもその甲斐あって本社に偉くなって戻ってきたんでしょ」

「ははは、偉くなんか無いさ、所詮、会社の駒だよ。ところで、優子ちゃん、学校は?」

「今日は市民の日で休み。でも後で部活には行くけどね」

「部活は何をやってんの?」

「バスケットボール。別に上手くなくてもいいの。楽しいから」

優子は屈託の無い笑顔を佐竹に見せた。

「よかったは、私もパートが午前中で終わりだったから、二人とも会えて」

「パートに出てるんだ」

「家はおじさんと違って貧乏暇なしってこと。ねぇおじさん、パパの給料上げて、そうすれば私のお小遣いも上がるから」

「よしなさい! 優子」

里美の顔が「恥ずかしい事をいうな」といっていた。

「ははは、いいな、優子ちゃんは」

「何が?」

「決まっているじゃないか。幸せそうでいいな」

「えー。そんなことないよぉ」

佐竹は思い出したように、お土産に買ってきたケーキを里美に差し出した。

「あら、わざわざいいのに」

と、それを丁寧に頂、キッチンへ行った。

「ところで泰三は元気?」

「パパ最近考え事が多くて元気ないよ。元気が無いと言い返せないから、つまらないんだよね。会社で会わないの、おじさん」

「忙しくてすれ違いざまに、よっ、て手を挙げる位かな」

キッチンから里美の声がする。

「優子、お茶切らしているから買ってくるね。佐竹さんに失礼なこといわないでよ」

「いうわけ無いじゃん」

と、優子がいうと里美は勝手口から出て行った。それを見届けると優子は思惑ありげな笑みを浮かべ佐竹の横に座った。

「ねぇねぇ、おじさんって、昔ママの事好きだったでしょ?」

佐竹は面食らって、

「な、何を突然いい出すかと思えば、ははは」

「ごまかさないで!」

「あ、あぁ。好きだったよ。でも僕だけじゃなく周りの皆も好きだったんじゃないかな。だって、大学一の美人だったからね。ミス、キャンパスだし」

「え! あの口うるさいママが。信じられない!」

「僕と泰三は映画研究会でその二年したに優子ちゃんのママが入ってきたんだ」

「映画が好きだったの?」

「まさか。僕と泰三は映研に入れば只で映画が見れると思ったんだ。そんな所が気があって今に至っているしだいです」

「へぇー。 私ね前からパパが佐竹のおじさんだったらよかったのにと思うの」

「どうして?」

「だって、おじさん地位も名誉もお金もあるしカッコよくて素敵でしょ。おじさんは勝ち組。引き換えパパは地位も名誉もお金もなくてカッコ悪いしどう見ても負け組みでしょ」

佐竹は苦笑しいった。

「勝ち組負け組み、その言葉聞いたことがある。流行っているんだって?」

「定着しつつあるよ」

「・・・・くだらない言葉だ。優子ちゃん、僕は負け組だよ。勝ち組は泰三だよ。最もアイツは鈍感だから気付かないけど」

「・・・・どうして?」

「優子ちゃんはいま幸せかい? よーく考えてごらん」

優子は間を置きいった。

「まぁ、いろいろあるけど、幸せ、かな」

「僕はそうじゃない。仕事ばかりで今では妻と別居中だし、当然、荻野家見たいな幸せな家庭は無い。地位も名誉もお金もあるかもしれない。でもそんなもんは『幸福』の二文字には勝つことが出来ないんだ、残念ながら・・・・」

「・・・・」

優子はちょっと違った佐竹の雰囲気に閉口した。

「泰三は違う。こんなに幸せな家庭を持っている。幸せな家庭を作れる人間には勝てやしないよ。勝ち組は泰三だよ、優子ちゃん」

優子はなんとなく、その言葉を誇らしげに感じていた。少し嬉しくもあった。

「でも、なんでママとパパが結婚したの? おじさんはママにアタックしなかったの」

「できなかった。泰三には勝てないとみんな思っていたよ。里美ちゃんも泰三しか見てなかったし」

「それが信じられない。だってパパって昔、物凄いデブだったんでしょ」

「ははは・・・・。そうそう、今では人並みだけど、昔はかなり太っていたよ」

「それがどうして?」

佐竹は、虚空を見つめ昔の引き出しから言葉を出した。

「里美ちゃんが入学してまもなく7,8人で海にいったんだ。季節は今頃、暑いけど海に入るには寒い。風も強かった。もちろん泰三もいて、その中で一番冴えないのが、優子ちゃんのパパ、つまり泰三だった」

優子はキャッキャ笑い佐竹に耳を傾けた。

「みんなで砂浜を歩いていると女の子が泣いていたんだ」

「いくつ位の?」

「5,6歳かな。どうしたの? と聞くと『ジージーが買ってくれた帽子が飛んでった』といったから、海を見ると帽子が沖へと流され始めていたんだ。優子ちゃんだったらどうする?」

「わたしだったら:::。諦めて貰って、新しい帽子をその子のママに買ってもらうか、私が買ってあげるか::。海に入って取りに行くのも、危ないし寒いしずぶ濡れになるし後が大変だし:::。て、いうかそこまでしなくてもと思うな」

「僕もそう思う。皆もそう思った。そして女の子に『新しいのを買ってもらったら』と説得したら『だめなの。だってジージー死んじゃったもん』と来た。で、優子ちゃんならどうする」

「私なら親御さんを探して、預けちゃう」

「そう、僕も皆もそう結論着けた。他の答えなど無いと信じたよ。でも一人だけ違う結論を出した奴がいたんだ」

「それがパパね」

「そう。泰三は躊躇無く、何の躊躇もなくだ。ザバザバ海に突進していった。みんな唖然としたよ。取れるはず無いと思った。でもあの太った体がよく浮くこと」

「それでどうなったの、取れたの、だめだったの」

「十分後、帽子片手に戻ってきたよ。凄いなコイツ、と思った。そして帽子を受け取った少女の目が忘れられない」

「どんな目をしていたの?」

「――例えると::神様を見ているような瞳だったな。その時思ったよ。優子ちゃんのパパには何しても勝てないな、とね。仕事で勝ってもそれが人生にとってどれほど重要なことか。人間として重要なことに勝たなきゃだめさ」

心なしか佐竹の声が沈むと、

「そんなこと無いよ。おじさんは素敵よ。私おじさんのこと大好きよ」

と、優子はいった

「名前の通り優しいね、優子ちゃんは。ひとつ教えてあげるね」

「何を?」

「世の中には優しさに勝る強さは無いんだよ――。そして、僕らの里美ちゃんは泰三を好きになったという事。そうだろうな、僕も惚れたし、仲間も惚れたといっていたよ。泰三の凄いとこはその後もあるんだ、知りたい?」

佐竹は優子に勿体つけるような眼でいった。優子が頷くと言葉を続けた。

「泰三は自分が里美ちゃんといると自分のデブのせいで里見ちゃんが笑われると思い、半年で人並みまで体重を落としたんだ。時には、なんだか知らないけど3回も救急車のお世話になってね、大変だったときもあるんだ。またその優しさに里美ちゃんがゾッコンになったんだ」

「いやぁん、ママとパパがゾッコンだなんて、何か変! 恥ずかしいよ」

と、優子はいいつつも、嬉しそうに笑った。

しばらくすると里美が戻り、

「優子、佐竹さんに失礼なこといわなかったでしょうね」

「いうわけ無いじゃん。――私、部活の時間だから行くね。おじさん、ゆっくりしててね」

と、いうと、バッグを持ち玄関へ向かった。が、すぐに戻ってきて、

「ママ、なんか海に入りたくなっちゃった。いってきまぁす」

「――?」

と、いって佐竹にウインクをして、家を出て行った。

 

 

昼休みが終わろうとしていた。荻野泰三は公園のベンチを立ち、向かいの自社ビルに向かった。

スクランブル交差点の信号が青になり、四方から数十人位の人並みがぶつかり合う真ん中で、泰三は立ち止まった。いや、前に進めなかった。

眼前に白い大男が現れ壁になった。

身長二メートル、体重は百キロを勇に超えた筋骨隆々でスキンヘッド、そして折り目正しい真っ白いスーツ姿の大男、その顔は、目が普通の人より飛び出ていて、それでいてつり上がっている。頬骨が出ているのか頬が盛り上がりそこだけ血色がいいのか赤い。鼻筋は人並みだが、口が異様に小さい。が、あごが大きくしゃくれている。頭はスキンヘッド。スキンヘッドというか毛髪の生きていた形跡が見えない。肌は乾燥していてひび割れている。

泰三は、

(悪魔!)

と、一瞬思った。その脇を通り抜けようとしたとき、

「まて!」

と、白い大男が太い声でいった。泰三は恐る恐る振り返る。

「な、なんでしょうか?」

すると、

「見えるのか、このわしを」

泰三はいっている意味が分からないまま頷くと、その大男は間を置き、

「御主(おぬし)――、人、いや、ある者を探しているんだが。ん―しかし、どんな姿で現れるか分からないから説明の仕様がないな・・・・」

「・・・・ある者とは?」

と、聞き返した時、泰三は周りの動きが止まり、音が無い事に気付いた。それを察した大男が

「心配いらん、時間を止めているだけだ」

「・・・・」

「いや、よい。わしも忙しいからその者に余り構ってられん」

大男がいい終わると、泰三の目前から一瞬で消えてしまった。同時に時間が動き出し、いつものありふれた喧騒風景にかわった。

 

 

その日の帰り道、荻野泰三は商店街にさしかかった。そして、前方にある不釣合いな情景に懐かしさを感じた。違う事といえば、日没が遅くなり、なんとなく得をしている感じがある事だ。

神様は、やはりホームレスの体を借りている。眼前には、プランターに咲いた花と苗ポットに咲いた花が並べてある。但し今回は、しっかり値段が付いてある。

泰三はその前でしゃがんだ。

「――なんじゃ、今回は汚いホームレスとは思わなかったな」

「帰る場所が無いのがホームレス。私も同じですよ。生きる場所が見つからないホームレスですよ」

「また殊勝なことを」

と、シワくしゃな優しい笑顔を見せた。

「今度は御爺さんですか?」

「そうじゃ。この体は動きがいいぞ」

「御婆さんは何で死んじゃったの? 死んだ体を借りたの?」

泰三が寂しそうに聞いた。

「寿命じゃった。それに彼女はそれを望んだ――。もう疲れた、迎えに来てくれ、とな」

「『疲れた』か・・・・。御婆さんの人生って何だったんだろう。可愛そうに。そう思いませんか、神様」

泰三はため息をつく。

「思わん。だってあの婆さんの顔をみたじゃろ。不幸そうに見えたか?」

「まぁ、確かに、そんな風には見えないけど」

「顔中、あれだけの深いしわを持っていたんだ。いっぱい笑ったんじゃろ」

泰三は少し不愉快になった。

「でも、神様だったら助けてあげれたでしょ。もっとまともな生活させてあげればよかったじゃないか」

「仕方ないじゃろ。婆さんが『死』を望んだんだから・・・・。ホームレスでいる事が幸せだったかもしれんじゃろ。人間の数だけ幸せが違うんじゃ」

泰三は返答しなかった。

「で、どうなんじゃ、答えは出たかい?」

神様がいった。すると泰三は首を振り、

「いえ、答えが見つからない。いや、俺に答えがあるのかさえ分からない」

「なんじゃ、願い事はいっぱいあり過ぎるといっていたではないか?」

「・・・・」

「ずいぶん悩んだと見えて頬がこけたな」

「三キロね」

神様は鉢中の雑草を取りながらいった。

「願い事ひとつでそんなに悩むかねぇ」

泰三は首を振り、

「願い事をいろいろ考えているうちに、俺の今までの人生、俺のこれからの人生、俺はいったい何のために生まれて、そして生きているんだろうか・・・・。分からなくなった」

「ほぉ」

「最初に会った時に、俺が何かを求めている、といったじゃないですか。確かにそう感じた。そして探した。そしたら、実際やりたい事もなければ欲しい物もない。俺自身何もない人間じゃないか::。それでいいのか? そんな人生つまらないと思えてきた:::」

神様は微笑と、

「『何もない』か――。幸せもんじゃ」

と、いった。

泰三はトレニアを見つめ間をおいた。

「俺のこの何もない人生が幸せというんですか」

「――さぁ、幸せかどうかは本人が感じる事じゃから、わしがどうのこうの決められるもんじゃないは。ただわしは、旦那さんは幸せそうに見えるがのぉ::。そうじゃ、今回出会ったのも、やっぱり何かの縁じゃ、一ついいことを教えてやろう」

うつむき加減の泰三の頭が少し起きた。

「いいこと?」

「そうじゃ。よいか旦那さん、よく聞いておくれ。この国の人間はな『愛している』とか『幸せ』という言葉を使わな過ぎるんじゃ。思っていても、声に出さない。恥ずかしいのか、なんだか知らんが。使わなければその意味を忘れる、使い方も忘れる、――その為に口があるんじゃ。毎日一回この言葉をいってごらん、旦那さんの悩みは解決するよ。どうじゃ! いいことじゃろ」

「・・・・いや、なんとも感じない」

「・・・・まぁ、そんなに深く考えなさんな」

泰三は深くため息をつくと、神様は言葉を続けた。

「だいたい、神は何で人間を造ったと思う。まぁ神といっても三代前の神じゃが」

「――さぁ、それは。何故だろう?」

「暇つぶしさ」

「ひ、暇つぶし! そんな馬鹿な」

泰三の体がのけぞった。

「馬鹿なもんか。ただそれだけよ」

「只って、だってもっと意味深いものじゃないの!」

「何故じゃ? 命を授かったことが意味深いと事だと、思いたいのは人間の方だけで、われわれはそんな風に考えていないは」

「われわれ?」

「――。たとえば、旦那さんは何もない庭を見て、まず何をする?」

「花を植えるかな」

と、眼の前の花を指していった。

「そう、神も何も無い地球に花を植えたのよ。最初に植えたその花とは、あなた達のいう恐竜だった。そして恐竜は長くは生きなかった。しかも、美しくなかった。次に神は考えた。『もっと崇高で美しい花、まさに、敬意を表す[御]が付くような花を植えよう』と」

「それが人間ということですか!」

「そうじゃ。だから、元々人間が生まれる事に意味などたいして無いんじゃ。――人には皆平等に尊い命がある、とかいう人間がおるが、愚かな事よ」

「なぜ?」

「いらない命などたくさんあるは。じゃが、美しい御花と例える命もたくさんいる。反対に醜い雑草と例える命もたくさんある。まぁ、そのどちらでもない花が一番多いのがのぉ」

「・・・・私はどちらですか」

「んー、つぼみの御花かのぉ」

と、いって神は笑った。

 

 

荻野家。

「おかえりなさい」

荻野里美が出迎えた。里美は泰三の手元の花に気付くと、嬉しそうに微笑んだ。

「どうしたの、そのトレニア?」

「買った」

「めずらしい、何処で?」

「そこで」

「そこ? 誰から」

「神様から」

「はっ?」

泰三はそれを里美に渡すと、リビングに向う。里美はトレニアを大事に持ち玄関から庭にまわった。

リビングでは優子がソファに座り、お笑い番組を見てケタケタ笑っている。そして、背後に人の気配を感じると、首をのけぞり泰三の帰宅を確認し、

「おかえりなさい」

と、義務的にいった。

「ただいま。なんだ、早いな。今日は部活が無いのか」

「もう終わった」

「めずらしい」

「市民の日出学校休み。で、午後から部活。いったじゃん」

「――そうだったか」

優子は呆れた顔で泰三を見た。

「――ねぇパパ、今度試合があるんだ。初めてのレギュラーだよ」

「おぉ、凄いな」

「見に来る? でも平日だから無理か?」

「――平日か。ちょっと無理だな」

「・・・・そうだよね」

優子は少し残念そうにしたが、何も無かったように、すぐ様テレビ画面に夢中になった。

泰三は窓際のソファに座ると「つかれた」と深くため息をつく。大きく開いた窓からは、草木と少し湿った匂いが風と一緒にリビンッグをと通り抜け、カーテンを波打つように揺らしている。

「なぁ、優子。おまえは、し、し、幸せか?」

「はぁ、何をいってんのパパ。意味わかんない」

「幸せか、と聞いているんだ」

「えー。普通」

「普通? なんだそりゃ。――おまえ、欲しい物とかやりたい事とか無いのか」

「無いわけ無いじゃん! ありすぎて何からしていいかの分からないくらいよ」

「たとえば?」

「そんなの教えないよ! いやらしい。――ねぇママ! パパが変」

優子は大きな声で、庭でトレニアを植えている里美にいった。

「何が変なの」

と、里美の返事が返ってきた。それに対し、

「パパが私に『幸せか』だって!」

と、優子が返した。すると、

「私は幸せよ!」

と、ママの大きな声が再び返ってきた。

「――だって。パパよかったね」

優子が泰三をからかうようにいうと、泰三は立ち上がり微笑みながら優子の頭を「ぽんぽん」と撫で別室へ向かった。

 

 

 

五、幸

昼休み。行き着けの定食屋。

荻野泰三は、箸で突付かれ自分に食べられているホッケを哀れんだ。

 

おまえは幸せだったのか?

こんなになっちゃて::。

可愛そうだよなぁ。本当は大海原を一生群れて泳ぎたかったのに――。

人間に拉致され、乱暴され、焼かれ、醤油を掛けられ、そして、俺が食うだろ。

可愛そ過ぎる。

まぁ、そんな感情は無いから幸せか・・・・。

まてよ、本当に魚には感情は無いのか?

人間が勝手にそう思っているんじゃないのか?

もしも、魚に感情があったとしたら・・・・、人間はろくでもない

 

生き物だよな。

まぁ、無いと思って人間は漁をするんだろ?

いやいや、そんな深いこと考えるわけ無いか。

そんなこと考えたら漁なんて出来ないよな。

たくさん漁をして、たくさんお金をもらって生活する。

只それだけ、か・・・・。

 

店内には八つのテーブル席と十のカウンター席があり、ほぼ男性客で満席である。

貴重な昼休みを有効に使おうと、早食いのサラリーマンがいれば、健康を考えゆっくり食事する年配者もいる。食事が終わり、歯と歯の間を爪楊枝でホジホジするおじさんがいれば、鳥のから揚げを、クチャクチャ食うオヤジもいる。これだけ、おやじ色が強ければ

女性は寄り付くはずが無い。女性は定食屋のおばさん、ただ一人である。

その中の一人が、ホッケ定食を注文した泰三である。安い、旨い、はやい、多い、これがこの店の売りで、泰三はとても気に入っている店の一軒である。

「ここ空いている?」

と、男が泰三に相席を求めた。すると泰三は、

「ダメ」

と、にべも無くいった。が、男は構わず席に着くと、

「おばちゃん、焼肉定食ね」

と、注文した。佐竹雄作である。

「昨日は悪かったな。突然御邪魔して」

「別に――。こっちこそ御馳走さん。ケーキ」

「どういたしまして。それにしても、優子ちゃんは大きくなったな」

すると泰三の仏頂面が破顔し、

「なぁーに、生意気なだけよ」

と、微笑む。

「そういえば今年は受験だったな。大変じゃないか?」

「全然。――家はおまえと違って高給取りじゃないから、都立の何処かに合格すればいいだけさ」

「それじゃぁ可愛そうだろ。優子ちゃんだって行きたい高校ぐらい有るだろ」

「それが無いからこちらは助かる。『どこでもいいや』っていっているよ、今はね。そのうち、あっちに行きたい、こっちに行きたい、とかいって来るかもな。その時はその時さ――。それより、ニューヨーク支店はどうだった? 楽しかったろ」

「あぁ――楽しかった。何が楽しいかって、現場が一番楽しい。デスクワークなんてクソ食らえだ。フォークリフトで大豆や小麦粉を限られた時間内でトラックから下ろすんだ」

「フォークリフトなんか運転できたの?」

「見よう見まねよ! 人手が足りないから、無理やり乗せられ怒鳴られながら手伝だったよ」

「さすがは商社マン魂」

「そこにはよ、地位なんか無いんだよ。仕事をやり遂げたという名誉だけあるんだ。おまえがニューヨークに行く前に『現場を見て来い』といった意味が分かったよ」

「これからは現場第一尊重主義出なければ、会社は衰退するさ」

「――なんでおまえはそれを分かっていた?」

「そんなもん、毎日くだらない領収書を整理していれば、誰が本当に必要な人間か、そうでない人間かくらい分かってくるさ。とかくな、ホワイトカラーの人種は肉体労働者を汚いものを見るかのように、心の何処かで見下しているのさ::。まぁ、俺も見た目で人を見下した事はあるから、所詮、同類かもな」

「――でも、三年間は楽しかったが、その代償は大きかったな」

「奥さんか?」

「あぁ・・・・。単身赴任で帰ってきたら妻は出て行ったし。しょうがないさ、3年間あるべくはずの家庭がなかったんだから」

「・・・・でもいいことも有るさ。取締役で戻ってきたじゃないか」

「会社に都合よく使われているだけさ」

佐竹が苦虫顔でいった。

「そうかぁ? でも、おまえには、地位と名誉と財もあるじゃないか。少なくとも俺より未来という不安はないだろ。――羨ましいよ」

「それが何だよ。だいたいおまえはそんなものが欲しいのか」

「・・・・いいや」

「そうだろ。俺はな、そんなおまえが羨ましいよ・・・・。俺だって、人生にとって地位と名誉がどれだけの価値があるか疑問だ。分かっているけど気持ちの何処かでそれを欲してしまう。おまえは、昔からそれが無い。俺や他の仲間にもまね出来ないその感情が、時にまぶしく感じるよ――」

それから二人は五分ほど会社の出来事で言葉を交じ合わせた。

焼肉定食が運ばれて来た。焼肉にキャベツの千切りとレモンにマヨネーズ。ご飯に味噌汁。おまけにお新香。これで六百円は安い。

佐竹が食べ始めると、泰三は食べ終わり、オヤジの証の爪楊枝ホジホジを始めた。完璧にオヤジの仲間入りである。それを見て佐竹は注意する。しかし泰三は、お構いなし。そこが取締役と万年平社員との差なのであろう。

「おまえ・・・・最近悩んでいるだろ」

佐竹が唐突にいった。

「なんでそんなことを聞く?」

「優子ちゃんが心配していたぞ」

「優子が!」

佐竹は頷いた。

「最近、考え事が多くて話しかけても乗って来ないからつまらない、ってな」

「・・・・そんなこと無いと思うけど」

「ちゃんと見てるんだよ、分かるんだよ、家族は」

「――」

「何度もいうがおまえが羨ましいよ。おまえには地位や名誉は無い。それにお金は確かに俺より少ないだろう。でもおまえは一番大事なものを持っている。俺が一番欲しいものを持っている。分かるか?」

泰三は佐竹の真剣な顔を避けながら、首を横に振った。

「家族だよ。俺には家族がない。他のものがあってもおまえの家のようなぬくもりが何処を探しても見つからない・・・・。それが一番欲しい」

「――今からでも遅くないよ」

「・・・・そんな気力ないさ。自信も無い」

佐竹は寂しくそうに豚肉を口に運んだ。

「それより何を悩んでんだよ」

「――願い事を一つ叶えてくれるというんだ」

「誰が?」

「神様」

「はっ?」

「だから神様だよ」

「神様って、神様仏様の神様?」

泰三は静かに頷いた。

「会ったんだよ、その神様に。話すと長くなるし、どうせ信じないから説明はしない」

佐竹はほくそえんだ。

「誰かに騙されているんじゃないのか」

「・・・・そうかもしれない。でも最近は神様が本物かどうかなんてどうでも良くなってきた」

「――」

「願い事や欲しいものをいろいろ考えている内に、そのどれもが自分にとって本当に必要で意味のある物なのか自問自答してみた。そうすると何も残らないんだ。じゃあ、俺という存在、荻野泰三である意味が分からなくなってきたんだ。何の為に生きているのか、これから何の為に生きていくのか――」

「何を哲学的なこといってんだ。みんなな、意味があって生まれてきたんじゃないか」

泰三は首を横に振った。

「それは違うらしいよ。神様がいっていた。人間が生まれたことには意味がないって。暇つぶしの為に人間を造ったんだってよ」

「まさか!」

「いや、確かにそうかもしれない。生まれてきたことに意味があるなら殺人鬼のような人間にも意味があるのだろうか。殺人鬼の生まれた意味は他人を不幸にする事か。そんな馬鹿な話があるか!」

「まぁ、そうだな」

佐竹は泰三の語気に押され頷いて見せた。

「おまえは俺が羨ましいといったが、俺はおまえが羨ましい。おまえには仕事があるからな。仕事に一生懸命になれるおまえが羨ましい・・・・」

泰三はそれをいい終わると時計をみた。そして「先に戻る」といって定食屋を出て行った。

 

神様と出会って二ヶ月がたった。

オフィス。

闘いが終わろうとしている。午後二時五十分、荻野泰三は睡魔と闘いながら財務データを入力していた。この闘いも、昨日、一昨日、そのまた前日と同じことの繰り返し。

既に何年もの間同じことを繰り返している。ただ、以前と変わったことがある。それは、昨日と同じ今日を悩んでいることである。

願い事を叶えるという約束をもらった。しかし、すぐには答えが出なかった。食欲、性欲、名誉欲、睡眠欲、金銭欲、色々考えるが、そのどれもが、本当に自分の必要としているものなのか疑問に感じていた。ゆえに、自分の存在が、何なのか分からなくなってしまった。

 

俺は無欲? それはただ単に生きているだけ。

そんな人生でいいのか?

意味があって生まれてこないのなら何の為に生きているんだ。

 

三時のチャイムが館内に流れる。

泰三は、「ふぅ~」と、闘いに勝ったという安堵のため息を大きくついた。泰三が席を立ち去ったあと、デスクの内線がなり続けて切れた。

休憩室。

コーヒーで一服している泰三へ、足早に男が近づいてきた。

「泰三!」

佐竹の一言で休憩室にいた者全員が振り向く。

佐竹は泰三の元に行き耳元でいった。

「大変だ! 優子ちゃんが倒れた。意識がないらしい」

「えっ!」

「いま会社に連絡があった。すぐ帰れ!」

 

 

荻野泰三は電車の横揺れにイラついている。

平日の下り電車。座席は空いているが、ドア越しに流れる風景を追っている。日ごろは感じない電車の遅さに憤りを感じていた。

 

里美の奴何やってんだ! 電話に出ないで。

優子に何か遭ったらどうしよう・・・・。

 

泰三は幼かったころの優子から、今朝、小言をいってきた優子の顔を思い出していた。そして、最悪の事も考えた。

 

そんなはずない、あの優子が・・・・。

なんだ、この不気味な緊張感は。

優子が何か悪いことでもしたというのか。

神? 神の仕業か?

だとしたら今度会ったとき神を・・・・。

 

泰三はホームを降りると走ってタクシー乗りばへ向かった。

幸いタクシーは列を作っていた。

ドアが開きタクシーに乗り込み行き先を告げると、ドライバーは泰三の様子、語句から察したのだろう、

「急ぎですね!」

と、調子よく返してきた。

車が動くと泰三はのけぞりシートに張り付いた。

道は空いている。車で十分位だろう。しかし、その十分がとてつも長く感じた。

タクシーが病院に着くと小走りに玄関へ向かった。

センサーが泰三の体を感知するとガラス扉が左右に開く。その奥には、慌しく動く女性看護士の姿があった。

するとどうしたことか、今まで前へ前へと進んだ足が躊躇した。

恐怖だった。この先にある何かに。泰三の心拍数が更に上がった。

不気味な高揚を押さえ受付へ向かう。

「すみません、荻野ですが」

「荻野様・・・・」

受付嬢は「荻野」だけでは事の次第を理解できない。

そこに急ぎ足の女性看護士が通りかかり、オギノの言葉に反応した。

「あっ! 荻野優子さんのお父様ですか?」

「はい!」

「どうぞ、こちらです」

泰三はいわれる通りに看護士の後ろを付いていった。

受付から院内を十メートル進むと左に曲がった。そこには階段があった。

看護士は階段を降り始めた。それを見て泰三は思わず、

「下!」

と、口走る。看護士は泰三の言葉を聞き取れず、

「はい? なにか?」

と、聞き返してきた。

「い、いえ、なにも」

看護士はそれを聞くと、何もなかったかのようにどんどん降りていった。

 

地下!

何で地下なんだ!

まさか・・・・霊安室。

 

心拍数が耳奥から聞こえてきた。足が地に着いている感覚がない。それでも泰三は進むしかなかった。

地下に降り廊下を進むと突き当たった。そこを右に曲がった瞬間、泰三は愕然とした。

 

やっぱり!

 

視界に「霊安室」と書かれたプレートが入ってきた。冷たそうなグレーの扉がそこにあった。

看護士が異変に気がついた。後ろからついて来た足音が聞こえなくなっている。慌てて振り向き泰三の顔を見て「しまった」と瞬時に反省した。そして、大きな声でいった。

「荻野さ―ん。こちらです」

看護士が泰三を手招きすると、それを見て安堵と同時によろめいてしまった。

看護士は泰三の内心などお構い無しに先へ進む。慌ててそれを追う泰三。

彼女は今度左へ曲がる。そこには再び階段があった。

二人はそれを登ると広いホールに出た。そして、僅かながら化学物質的な残り香がした。

眼前が新しい建物であることは容易に判断できた。

看護士がクルッと向きを替え泰三にいった。

「ごめんなさいね。地下を通った方が新館に来るのはやいから」

といって、申し訳なさそうに頭を下げた。

そして二人はエレベーターで三階に上がった。

「こちらです」

と、看護士に案内してもらったドアの脇に、二名の名前が表示されていた。その一つが荻野優子だった。彼女は軽く会釈をして足早にその先にある三階フロアのナースステーションに向かった。

ドアの取っ手に手を掛けた。だが、泰三はそれを引く事ができないでいる。

泰三は怖かった。優子の悲しい姿を見ることが。

十秒、二十秒と時間が過ぎる。

すると何人もの患者達が怪訝そうに泰三を見ながら通り過ぎていく。泰三も観念するしかなかった。

ゆっくりと扉を引いた。が、思ったより扉は軽くそろりと開くイメージが人並みになってしまった。

そこは明るい部屋だった。大きな窓からの光が差し込む。四つのベッドを照らしている。手前の二つは誰もいない。

右奥のベッド脇に里美の背中を見つけた。その背中で優子の状況は分からなかった。

「里美!」

泰三の声でベッドがもぞっと動く。そして、里美の陰から半身を起こした優子が満面の笑みで、

「パパだ!」

と、叫んだ。

頭には包帯が巻かれているが、至って元気でピンピンしている。想像とは違う姿にた泰三は口をあんぐり開け入口で立ちすくんだ。

里美は、

「あなた、何してんの、はやく」

と、手招きをした。泰三の顔が優子に近づくにつれ緩んだ。

「大丈夫か?」

「うん、平気だよ」

「よかった・・・・」

と、砕けるようにベッドの上で腰を下ろした。

「意識不明って佐竹がいったから、もうどうしていいか分からなくなったよ」

「心配した?」

「当たり前じゃないか!」

泰三は頭がクッルと里美に向いた。里美は少しのけぞった。

「な、何よ」

「何よじゃないよ! 何がどうしたんだ?」

小さい声ながらキツイ口調の泰三に里美はちょっとムッときた。

「私だってびっくりしたわよ! 急に学校から電話がかかってきたんだもん」

­ ことの内容は泰三の心配とは真逆で、間の抜けた話だった。

午後、体育の授業はバスケットボールだった。徹夜で勉強した優子はコートの上で猛烈な睡魔に襲われた。ボーとした優子に今度はボールが襲った。パスしたボールが顔面を直撃、後ろにひっくり返り頭を打った。

意識はあった。しかし目を閉じていると「大丈夫」「優子しっかりして」という周りの声が心地よく脳を揺らし、睡魔に身を任せ、気持ちよく爆睡してしまった。

病院に着き、念のためMRIで検査したが異常は無かった。が、一応午後六時までは、様子を見るために病室で安静にするということになった。

「大体なんで連絡が取れないんだよ」

「ごめんなさい。慌てていて携帯を家に忘れちゃった」

「だったら公衆電話で電話してよ、里美」

すると優子がいった。

「私が電話しないでっていったの」

「え! なんで?」

「ちょっと心配させようと思ったの」

「優子ちゃん。パパがどれだけ心配したと思っているの」

「だって、最近パパつまらないんだもん。何か一人で悩んでるみたいで会話しなくなってさ。だから、たまには、パパを私とママに向かせようと思ったの」

「――」

泰三は沈黙してしまった。

わが娘が自分の様子を気にかけていた事が、嬉しくもあり、申し訳なくもあり、また、自分が情けなく感じてしまった。

「・・・・そうか。悪かったね優子。でも、もう悩み事なんかないよ。おまえたち二人が元気に居てくれさいすれば」

泰三の偽り無い本心だった。

そしてこの時、荻野泰三は悟った。自分が無欲だった理由を――。

 

そうか、俺のせいで二人に心配かけてたのか・・・・。

そうだよな。俺にとって一番大事なものはこの二人だ。

一番欲しい物は二人が笑っていられる事だよな。

当たり前のことになんで気がつかなかったのか。

バカな奴だ。俺は。

俺が悩んだせいで、この二人を悩ませたり悲しませたりしてしまった。

決めた!

もし神様と再会したなら、あの約束が本当だったら、この願いを叶えてもらおう。

まぁ別に、もうどうでも良いかな・・・・。

 

泰三は優子の顔を見て微笑んだ。久しぶりに、自分が穏やかな気持ちで笑えた事を、感じていた。

 

 

 

六、運

荻野泰三が神様と出会って四ヶ月がたった。

お盆やすみ。泰三は、ケーキ片手に家に向かっていた。

路面に逃げ水が現れ、頭上から蝉の声が襲ってくる。

今では、神の存在を忘れていた。時折思い出したが、その回数は徐々に減り思い出すこともなくなっていた。

以前のように、昨日と同じ今日に辟易することもなく、家族と暮らせることに満足している。

泰三は、汗を拭きながら自宅へ急いだ。幾度となくケーキの入った箱を気にかける。中に入った保冷剤が、この暑さで解凍してないかが心配だった。

泰三が左折すると通りなれた商店街に出た。相変わらず寂れた感じは否めない。

先を急ごうと目先を遠くに置くと、泰三の足が「ビクッ」と勝手に反応した。

「まさか!」

そこには一人の男性老人が、杖をついて立っていた。

泰三には分かった。それが神様であることを。

前回会った時とはまた別人であるが、身なりは従来通りのホームレススタイルだ。

泰三は老人の前で足を止めた。

「こんにちは。お久しぶりです」

「はて? どちら様でしたかのぉ」

意外な言葉だった。

「荻野です。荻野泰三ですよ」

「荻野さん? はて、はて、はてな」

「ごまかさないで下さいよ。分かりますよ。神様でしょ」

「神様! そんなもの信じるのかい、旦那さんは。漫画の読みすぎか空想癖でもあるんじゃないかい」

「へぇー」

泰三は感心した。

「何が『へぇー』じゃ」

「本当に居たんだ、神様って。確信しましたよ。いま、あなたがいった言葉は、最初に会った時に私が思った事ですよね」

老人の口元がニヤッとする。

「ハハハー。分かったか。気がつかなければ、もう旦那さんの前には現れまいと思ってな。わしも忙しくなってな。迎えが来たらこの国を離れる事になるじゃろう」

「迎え? ――それは、寂しくなりますね」

すると、神様は泰三の手にしているケーキを見ていった。

「なんだか晴れやかな顔をになったのぉ。家族へのお土産かい?」

「いえいえ――。私は我が家の使用人ですよ。ケーキが食べたいと妻と子供がいってね」

泰三が苦笑いをすると、神様は微笑みいった。

「気付いたようじゃな。何かを求めても何も見つからない訳を」

「――はい。なんとなく、ですがね」

「何かを求めても既に心が満たされているからな。見つけようにも

見つからないって事さ。人間の持つ欲望の頂点は、幸せ。今の旦那

さんはそこにいる。じゃろ?」

泰三は恥ずかしそうに頷いた。

「優子が倒れたって聞いたとき、病室のドアを開けたとき、優子の顔を見たとき、気付いたんです。今のままで十分だと。家族三人でいられるだけでこんなに幸せな事はないと」

神様は更に笑いシワを増やし微笑んだ。

「あれは神様の仕業ですか?」

「いやぁ、知らん。地球上の全ての事が神の力だと思ったら大間違いじゃ。そこまでするには、神が千人必要じゃ――」

「よかった。もしあれが神様の仕業だったら、殴ってやろうと思いましたからね」

「おおぉ、それは怖いのぉ」

泰三と神は笑った。

「ではどうしますかな。願い事を一つ。約束だからのぉ」

「そうですねぇ――。もし、また神様に会うことが出来たら、お願いしようと思った事があります。大したことじゃないけど」

「ほぉ、なんじゃ?」

「私はささやかな人生でいい、今後も。ただ、大事な家族がまた心配しないように、今後私が思い悩む事のないようにして欲しい」

それを聞いた神様は「ふむ」と眉間にシワをよせ少し考えていった。

「なるほど・・・・。本当にその願いでよいのか」

泰三は頷く。

「本当に良いのだな」

泰三は微笑む。

「・・・・分かった」

と神様が静かにいった。

そして神様は目を瞑り何かを念じた。

すると、どうしたことか、泰三の体に異変が起きた。つま先からゆっくりと力が抜けていく。

膝が折れ地面に手を着きうつぶせに倒れた。

地面が胸を圧迫し苦しい。力の限りで仰向けになると楽になった。

「な、何が起きたんだ::」

横倒しになったケーキ箱が視界にはいった。自分が倒れた事は理解していた。が、なぜ倒れたかは、まったく分からない。

泰三へ急激な睡魔が襲う。高山にいるような呼吸使いになった。意識が遠退く予感がする。

神様はかがみ込み泰三に顔を近づけた。

泰三は目を瞑りたかったが、神様の声でそれをやめた。

「旦那さん。確かに願い事を叶えたぞ」

「・・・・あ、ありがとうございます。でも・・・・力が入らない。意識が――」

「――すまんのぉ。願いを叶えるにはこれしかないんじゃ」

「・・・・これしか?」

「命を頂いたのさ。死ぬのさ」

「死ぬ! 私が・・・・なぜ・・・・」

神様は頷く。

「死ねば悩まなくてすむじゃろ。なかなかいい答えだと思わんか」

「そんな! チキショウ。騙されたのか。・・・・もしかして、全てが夢か・・・・」

「いやだなぁ、わしが悪者みたいじゃないか。約束を執行したまでじゃ。一度執行した約束は取り消せんぞ、旦那さん。それに、全てが現実じゃ」

神様が冷静な口調でいう。

荻野泰三の呼吸が弱々しくなってきた。その時だ、

「おい、見つけたぞ! こんな所でなにしている」

と、野太い声が辺りに響いた。

空間に、浮き出るように現れたその男は、身長二メートル、体重は百キロを勇に超えた筋骨隆々でスキンヘッド、そして折り目正しい真っ白いスーツ、皮膚は乾燥しひび割れている。そう、以前泰三が交差点で出会った物凄い形相の大男だった。

「あせった! 突然現れるでない」

と、神様が振り返り驚いた。

「あの時の、悪魔!」

泰三は現れたその男を見て瞬時に思った。

白い大男は泰三を見るや、

「おぉ、御主(おぬし)はあの時の――。そういうことか、なるほど。こいつと関わったからわしが見えたのか」

そして、泰三の額に手をかざし、十秒もしないうちにいった。

「――なるほど。そういう事か」。

「・・・・何が・・・・そういう事・・・・」

「いま御主の全てを読み取った。もう良い、しゃべるな、すぐに死ぬぞ。目を閉じるが良い」

泰三はいわれるがまま、素直に楽を求めた。

目を閉じると呼吸が少し楽になった。

真上からの紫外線は容赦ない。倒れた泰三の頬を突き刺す。その痛みを、まだかろうじて、感じることが出来た。

 

何者だ、この大男は。

 

「わしは神だ」

「神?――。はっ! しゃべってないのに俺の声が聞こえるのか」

「そうだ。魂と会話している。これなら楽に話すことが出来る」

「魂と会話・・・・。あなたも神様?」

「いかにも」

「なるほど。そういう事か」

「なにがだ?」

と、大男が聞き返した。

「死神が迎えに来たという事か・・・・」

泰三がか細く悲しくいった。

すると、神様が杖を揺らしながらケタケタ笑い出した。

「これは傑作じゃ。死神に間違われているぞ。おまえ」

「・・・・」

「まぁ、無理もないか。その形相じゃ」

「違うのか――あなた達はいったい?」

泰三がいうと、神様は笑った。

「わしらか。わしらは二人とも神じゃ」

「えっ! 二人? 二人とも神様――。神って一人じゃないのか」

「一人? そんなのは人間が都合のいいように勝手に考えたことじゃ。旦那さん、いいかい」

「はい」

「この白い大男――」

荻野泰三は男を見た。魂で――。

実際には目を閉じ、口を閉じ、呼吸が絶え絶えの泰三が、路上に倒れている。

「こいつは、命を司とる神。命神じゃ」

「命神(いのちかみ)?」

「そう。生命を授けることが出来る。命を操ることが出来る」

「・・・・まさか、この人が」

「本当じゃ。人間界でいうなれば、こいつが神様になるのかのぉ。こんな容姿じゃがこれが命神だ」

「じゃぁ、神様、いや、おじいさんは?」

「わしか、わしは死を司とる神。そう、強いていうなら旦那さん、わしが人間界でいう、死神(しにがみ)じゃ」

「!」

「わしはこいつとは逆で命を返してもらう事が出来る。それに形が無い。じゃから人間の体を借りる」

泰三は「やられた」と瞬時に思いガックリした。死神が取り付いていたなんて。神様と思っていたのが死神だとは、なんて間抜けな話だ、と後悔した。

荻野泰三の消沈している様を感じた命神は、泰三を哀れんだ。

「御主。わしと出会ったのも何かの縁じゃ」

命神がいった。すると、

「また、その言葉か――。聞きたくない言葉だ」

泰三が笑った。

命神は「なぜ?」という視線を死神に送った。

死神は、

「最初に出会った時、わしが旦那さんにいった言葉じゃ」

と、いった。

「ふむ、そういう事か。でも心配するな。神は縁を大事にする。此処で出会ったのも縁。悪いようにはしない。全ての苦痛が無い様に安心してこちらの世界に来るようにしよう」

「『こちらの世界』って、あの世の事?」

「御主のいうあの世とは、われらのいうこの世の事か?」

「ん? ややこしいな」

「われらが、いま立っている此処をあの世というがな。つまり人間界はわれらにとってあの世だが」

「・・・・どうでもいいや。――結局、死ぬのか。俺は」

命神は頷いた。

「死ぬにあたって最大の苦痛は絆の未来だろう」

「絆?」

「家族の事だ。――しかし人間は『絆』とは、良い言葉を造ったもんだ。素晴らしい」

と、神様は腕を組み、満足そうにコクリコクリ頷いて見せた。すると、死神が、

「何を喜んでいるんじゃ。そんな言葉を造ったって、意味や使い方を知らない者ばかりじゃないか」

命神はことばを返さなかった。

「でだ、御主。家族のことは心配しなくて良い。今後、特別に見守っていこう。そうだ。母と娘だけでは寂しいから命を授けよう」

「えっ、ということは、俺に子が出来るという事」

「うむ、不服か?」

「いえ。その方が里美も優子も喜ぶと思う」

「うむ。そうだ! あの魂を授けよう。あの魂なら、今後見守っていかなくても、その子が家族を守だろう。おい、あの魂の持ち主の名はなんといったかな」

命神は死神に尋ねた。

死神は、めんどくさそうに、いった。

「あの魂とは? それだけで分かる訳無いじゃろ」

「あのサムライのだ。威厳のある――」

「あぁ、あの男か。まえに旦那さんにもいった事がある::織田、織田の::。なんだったかな、旦那さん?」

死神が泰三に振った。

「もしかして織田信長ですか」

と、泰三がいった。

「そう、そう! それだ。織田信長の魂だ。はて、何処にしまったかな」

命神は、思い出せた事が嬉しいのか、恐ろしい顔がゆるんだ。

そして、目を閉じ腕を組み、なにやらブツブツつぶやくと、「あった――。ふん!」と、掛け声をあげた。

「よし、御主の子に織田信長の魂を授けたぞ。これで安心だな」

「それは、ありがとうございます::。でも、会えないわけですよね、その子とは」

「うむ。死んでしまうからな。当然そうなる」

「そこですよ! 大体なんで俺が死ななければならない。まったく納得行かない!」

泰三は怒りで気持ちが高揚し、体が小刻みに震えた。

通行人がいたら、心臓疾患で倒れた中年が、痙攣を起こしているように見えただろう。

だが、そこは寂れた商店街。ましてやお盆休みの真っ最中。おまけに真夏の陽射しがアスファルトを溶かす勢いで降りてくる。通行人はいない。

「それに、俺は散々悩んだんだ。こちらの死神様が願い事を叶えてくれるといって、あーでもない、こーでもない。そして、結局俺は、これといって特別があるでもない今の幸せを、選んだんだ。その挙句の答えが、これだ!」

荻野泰三は怒りを口調に忍ばせ死神にいった。

死神は顔のシワを伸ばし、

「仕方あるまい。旦那さんが自分でその答えを出したのだから」

「分からない。俺はただ、自分が悩んでいる姿を家族が見て、心配しないようにして欲しいだけ、贅沢なのどいらない、ささやかな幸せ、身の丈にあった幸せでいいから、里美と優子と笑って過ごせる生活がしたいだけなんだ」

泰三の言葉が終わると、命神は残念そうに首を左右に振った。

「ふむ、御主のいいたい事は分かった――。だが、人間が『悩む』事を放棄するとき、それは魂を返してもらう事、つまり死ぬという事だ」

「――なぜ?」

「それは、われらが人間に与えた条件だからだ」

「神が与えた条件?」

二人の神は同時に頷いた。

「旦那さん、以前、神が暇つぶしで人間を造った話をした事を、覚えているかい」

「――あぁ、人間を御花にたとえた話」

「そうじゃ。神が人間という御花を地球に植えた話じゃ」

と、死神がいうと命神が言葉を遮り、

「そこからは、わしが説明しよう。おまえの説明では言葉が足りん」

と、いった。

「神といっても三代前の神だ。神は確かに暇つぶしで人間を造った。これは事実」

「そのようですね――」

「それは本当に素晴らしい人間たちだった。まさに地球が見事な御花畑だった。色、形、匂い。神は見ているだけで、心が奪われてしまった。そして、つい、うとうとしてしまい、気持ちよく眠ってしまった。――だが、騒々しさと、腐臭で目が覚めた。つい、眠ってしまってから千年が経っていた」

泰三は笑っていう。

「また、ずいぶん寝ましたね」

「まったくだ!」

と、命神が吐き捨て、死神は苦笑した。

命神は言葉を続ける。

「目を覚ました神は驚いた。そこは雑草だらけの地球だった。人間は欲望に目覚めてしまっていた。つまり、欲望だけで動く人間しかいなかった。男女問わずだ。食べ物を奪いあい、子孫を残すため女を奪い合い、自分を守る為殺し合い、まさに目を覆う有様。神は悩んだ。なぜ、人間は欲望に支配される。欲のまま生きる。行動を考えない。心を悩ませない」

「――理性を失った?」

「うむ、御主、いいところに気がついた。だが、人間は理性を失う前に、理性自体が人間の心には無かったのだ。感情に左右されず物事を考え判断する能力などなかった」

「それはやりたい放題という事、無法状態?」

「そう、想像してくれ。人間が理性を無くした姿を――。神はそれを深く反省した。そこで、神は全ての人間の魂を返してもらうことに。だが、人間はそれを拒み神に『人間でいたい』と哀願した。神は考えた。すべての魂を返してもらうには問題があった。余りにも人間が増えすぎて、かなりの時間と手間がかかる。その間に、人間は命を増やすだろう。そこで、神は人間にある物を授けた」

「ある物、とは何ですか?」

「それは、目、耳、鼻、舌、皮膚、を造り五感を授けた」

荻野泰三は、少しずつ意識が遠退くなか、あまりの驚きに脳が一瞬活性した。

「えっ! と、いう事は、最初人間はのっぺらぼうだったの」

「ん? なんだ、そののっぺらぼうとは」

「つまり、顔がない事」

「うむ、そういう事だ」

「でも、五官を造り五感を授ける事が、俺の死とどういう関係がある」

「うむ。では御主に尋ねたい。人間の目、視覚はなぜある」

「なぜ? ――それは、行動したりする時に必要不可欠であって、また、美しい風景を見て感動したりする為::。こんな答えで良いですか」

「違うな。神が人間に目を授けた理由は、人間の欲深き醜さを見せる為だ」

「欲深き醜さ::」

「いかにも。では耳、聴覚を授けた理由は?」

「それは、人とコミュニケーションを取る為、単純に音を聞く為に必要だから?」

「残念。神が人間に耳、聴覚を授けた理由は、人間の果てしなき愚かさを聞かせる為だ」

「果てしなき愚かさ」

「そうだ。次に鼻、臭覚を授けた理由は」

「匂いを嗅ぐ為?」

「何の為。何のにおいだ」

「それは::心地いい匂いを嗅ぐ為?」

「バカな。それは、人間の死臭を嗅ぐ為だ」

「死体の!」

「そうだ。死臭を嗅がせ人間は命に限りあることを知らしめる為に臭覚を授けた」

「――」

泰三は何もいわなかった。

「次に味覚。これは、苦さを知る為。満足いく欲求だけでは生きて行けない事を知る為。また、神は人間をその様に造り直した。人間にとって寿命を延ばす食べ物に苦味を与えた。

全身を覆う皮膚、触覚は、痛みという感覚を痛感させる為に授けた」

「なるほど。――思い当たることもある」

「そして神は、これらの感情を司る機能を人間に授け、人間が人間である為に、感じ思い悩む事を条件とし、人間の存続を約束した。人間はそれを了承して生きていく事を誓った。もしも、それが守れない者あれば、命を返してもらうことを約束したのだ。また、神も人間に約束した。嘘偽り無く、人間を見守って行こう。これらを双方の掟とし、神と人間の共存が始まったのだ」

命神が泰三に哀れみの視線を注いだ。

泰三はそれを感じ取ったのか、うっすらと目を開いた。

「::確かに人はそう生きて然るべきかもな。人間は悩む為に生きているのかもな。悩むことが出来るのも人間だけかもしれない。人生イコール悩む事、か・・・・」

すると、死神の年を重ねたシワ深い手のひらが、泰三の額を優しく撫ぜた。

「大変じゃのぉ、人間は。われら神は人間に嘘をつかなければいいだけじゃが、旦那さんたちゃ、悩んで悩んで死ぬだけじゃからのぉ・・・・。その中で生きる意味を見つけられれば、いいがのぉ。その意味を見つけるのが、人生というものかもな」

と、泰三の命を奪った死神が泰三をねぎらう様に、言葉を送った。

不思議だった。泰三の心には、砂浜に落ちた大事な探し物を見つけた時のような、安堵感があった。

「――すまぬな、旦那さん。そういう事じゃ。だから、旦那さんの命を返してもう事にした」

荻野泰三はすぐには言葉を返さなかった。

神達も、泰三の返す言葉を待つように、何もいわなかった。

一分、二分、三分と時間が過ぎる。

そして、泰三は言葉を見つけた。

「まぁ――いっか。幸せの中で死ぬのは、最高に幸せ、だ」

と、笑って見せた。

それを見た二人の神は、両極端な顔を見合わせ双方目を見開いた。

「これは驚いた」

命神の目尻が少し下がると、

「欲が無いのぉ、旦那さんは」

と、死神は顔のシワを増やし微笑んだ。

「いや、そうではない。御主は素晴らしい。それは、人生に納得したということか」

「・・・・まぁ、短く人並の人生だったかもしれないけど、里美と優子に出会えて誰よりも幸せな人生だったな、と思ってね」

「ふむ! なかなかいえる事じゃない、この若さで。このまま命を返してもらうには惜しいな」

棍棒の様な腕を組み命神はうなった。

「今は無理じゃが、わし達の手伝いをしてもらったらどうじゃ」

死神は命神にそう告げると、

「手伝い? いったい神様達の仕事って、なんですか?」

と、泰三が心底不思議に聞き返した。

すると死神は、真顔でいった。

「わしらの仕事か? わしらの仕事は、地球を以前のような御花畑に戻すことじゃ」

「・・・・?」

「つまりじゃ、分かり易くいうとじゃな、雑草の様な人間を殺すことじゃ。だが、雑草だけを選んでいる時間は無い。人間が増えてしまうからな。そこで、こいつが地球上を駆け回っているんじゃ」

「命を奪うのになぜ神様が」

「こいつは人の魂を操れるといったじゃろ」

「はっ! じゃあ、世界中で起きている戦争は全て神様のしたこと」

泰三は、目を閉じ小さく頷く命神を薄目で確認した。

「じゃあ、天変地異も神様の仕業?」

「いや、それはわしらじゃない。アースの力じゃ」

「アース? 地球のこと」

「そうじゃ」

「と、いうことは地球に意思があるということ?」

「――それは、わしらも分からん。だから、異常気象、天変地異などは、単なる人間どもが造った自然現象かもしれん。じゃが、わしは分かる。地球が怒っていることが」

「じゃあ、神様の力で、災害から人を守ってくれればいいじゃないか」

「アースの力は強大で手に負えない。それに、手っ取り早くてわしにはいいは」

「ひどい! それじゃ、雑草じゃない人間も、子供達もみんな死んじゃうじゃないか。普通に真面目に生きている罪も無い人たちも関係なく死ぬじゃないですか」

「――」

「――」

二人の神は沈黙した。

「命を奪う仕事なんか手伝えない」

泰三がきっぱりといった。

すると、命神は背筋を伸ばして毅然という。

「御主のいう通りだ、すまぬ。だが、罪の無い人間などいないのだ。生まれて来た子でさえ、生まれた事じたいを罪と、われわれは思っている――。いや、そう思い込ませているのだ」

「――なぜそこまで」

泰三がいうと、死神が泰三を諭す様に静かにいった。

「旦那さん、こいつを責めないでくれ――。この汚らしい皮膚、カサカサで捲れ上がっているじゃろ。水分が足りないんじゃ。涙に使い果たしてな・・・・・」

「――」

今度は泰三が沈黙した。

「そこまでする必要性か――。うむ、答えよう。それは約束だからだ、人間との。もし我等が傍観したならば、人間は欲望に飲み込まれ、滅びる。それは未来を覘いて分かっている」

命神がいい終わると珍しく死神が苛立った。

「だから、もう無理じゃ! 先代の神が人間の増え方に手に負えず、自ら分身して我等を神にしたところで、実際に手に負えないじゃろ。諦めて人間を滅ぼしたらどうだ。旦那さんのいう通り、約束とはいえ、なぜそこまでこだわるのじゃ。――所詮、もう御花には成れやしないんじゃよ、人間は」

「いや、それ以上だ。人間という生き物は」

「この世の中をみて、まだそんな事いうのか!」

「あぁ、おまえは人間を花に例えるが、わしは花からぬくもりを感じたことが無い」

「ぬくもり?」

「人間は決して花ではない。ぬくもりを感じることが出来るのは人間だけだ。只、今の人間達はそれを忘れているだけだ」

「――そう願いたいものじゃ!」

「や、止めて下さい。神様達が喧嘩をするのは・・・・。眠い・・・・」

泰三の声に力がなくなっていた。

「おぉ、済まぬな。旦那さん」

死神が優しく微笑んだ。

「そろそろ時間が来たようだ・・・・魂が帰る」

命神は死神を見ると死神は頷く。

「ま、まってくれ。今回、こうして出会ったのも何かの縁です・・・・」

「縁」という言葉を、今度は泰三が使ったので、二人の神は怪訝な表情で顔を見合わせた。

「最後に私のお願いを聞いてくれても良いですよね。お二人をみて私は感じました――。命神様は、本当は人間という生き物を諦めている・・・・」

「な、何をいうんだ!」

泰三の言葉に命神が一瞬のけぞったのを死神は見逃さなかった。

「でも・・・・決して希望を捨てていない。そ、そして・・・・」

「そして、なんじゃ、頑張れ。旦那さんの話を聞かせてくれ」

死神がいった。

「死神様は・・・・人間を決して諦めていない。花を見る目がそういっていた・・・・。でも、希望を持てないでいる」

命神は「こいつが」という目で死神をみた。

「だから・・・・一人に成ればいいんです。二人の志は同じでも、心の使い方が違う。これじゃ、何も生まれない・・・・。だから、そろそろ一人に戻って神様を四代目に譲ったら・・・・どうですか」

「な、なんと!」

と、命神は絶句した。

「一人に戻るじゃと、面白いことをいうのぉ」

と、死神は笑った。

「ふむ、ますます惜しい命だ」

「じゃな、まぁ、この魂の行く末はこちらの世界で考えるとするかのぉ」

「そうだな。御主、ん? 御主!」

荻野泰三から言葉は帰ってこなかった。

「――先に逝ったようじゃ。微笑んで逝ったは」

「そうか・・・・。思い出した。先代の神が『人が人間を全うすれば魂は安らかに還る』と」

「どういう意味じゃ?」

「安らかとは、苦しまずに死ぬことじゃない。人生の未練や欲望を幸福が凌駕し死を受け入れる事が出来たことをいうのだ」

「そんな人間めったに居無いわ::」

「この人間が、その、めったにいない人間だ」

荻野泰三、真夏の路上で心臓発作により死亡、享年、四十五歳。

 

 

「おい、暇つぶしは済んだろ」

「旦那さんが逝ってしまったからのぉ、おしまいじゃ」

「おまえの暇つぶしも最後に役に立ったな」

「最後に役に立った?」

「そうだ」

「もしや、旦那さんの言葉を?」

「そうだ」

「――まぁ、いいかのぉ。わしもそろそろ疲れたからのぉ」

「わしもだ。わしらの力はこの程度だったということだ」

「四代目に人間を拓すかのぉ」

「なら急げ。われらの世に戻って四代目に神を託している間にも人間は増えるぞ。増えた数だけ欲望が増えるということだ」

「分かったよ。そう急かすでない」

と、死神は微笑み、空間と同化し、消えていった。

命神は死神の後を追うように、魂の無い荻野泰三を見下ろし、足元から空間に同化し、そして消えた。

 

 

四日後、荻野泰三の葬式が厳かに行われた。

里美と優子は泣きながら抱き合っていた。

里美の右手は優子の肩を強く抱き、左手は、自分のお腹を優しく抱いていた。

 

 

四十年後。

アメリカ、マンハッタン島。

若々しく凛とした面構えの、日本国総理大臣、荻野泰信が、国連本部の壇上で喝采を浴びていた。

そして、三十八億の人類は――。