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【書評】フェルディナント・フォン・シーラッハ短篇小説「チェロ」

橋本浩


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【事件においては誰もが犯人でありうる】

数年前に話題になった、ドイツ人作家フェルディナント・フォン・シーラッハの処女短篇集『犯罪』を、一篇ずつゆっくりと読んだ。短篇集というのは、一度通読したものは別として、一息に読むのが難しい。それが、短篇の名手なら尚更のことだ。短篇小説では多くの事柄が省かれる。あるいは、意図的に隠蔽される。ポーの短篇小説は少し異なるが、基本的に、短篇小説には説明がなく、換喩によって事柄が表現される。短篇小説の名手ほど、その方法が巧みであり、読者は、作家によって意図的に置き換えられた何かを、読後にじっくり考える必要があるだろう。その意味で、優れた短篇集を一息に読むのは、とても難しいことなのだ。

 

フェルディナント・フォン・シーラッハは現役の刑事弁護士でもあり、短篇集『犯罪』は、実際に彼が扱った犯罪事件を装飾したものであるらしい。実際、短篇集『犯罪』は、すべての短篇が、弁護士である「私」の視点で書かれている。更に、法廷内の裁判では、弁護士としての豊富な知識と、ドイツの法律事情が詳細に書かれてもいる。弁護士の「私」に俯瞰的な視点を持たせることで、事件を起こした登場人物たちの行動や感情、言動が、最終的に弁護士の「私」の調書に収斂される。探偵小説的な方法で書かれている断片的な短篇が多く、文章は簡潔で、それぞれの短篇に仕掛けられた換喩や伏線は非常に巧みだ。

 

それぞれの犯罪事件で、誰々が犯人であると推測し、指摘することは容易い。しかしながら、それをしてしまったとき、私たちは、見事にフェルディナント・フォン・シーラッハの術中に嵌ってしまうだろう。探偵小説の方法が駆使されてはいるものの、彼の短篇小説群は犯人捜しの小説ではなく、むしろ、誰もが事件の犯人になりうることが主なモチーフとしてあるからだ。その意味で、私はフェルディナント・フォン・シーラッハを、ミステリーというジャンルに別けることに疑問を持っている。

 

ここでは、フェルディナント・フォン・シーラッハの短篇集『犯罪』では少し異色な短篇、それでも、私の中に最も強い印象を残した「チェロ」を取り上げてみたい。

 

 

【短篇小説『チェロ』あらすじ】

救いのない話だ。いったい、誰が好き好んで人生の櫂を破滅へと漕ぎたいだろう。しかしながら、生来的に破滅型の人間が、自分の才能の限界を知ったとき、あるいは、なにかを放棄したとき、更には、自分にはなにもないことを悟ったとき、それらの人間は導かれるように、破滅へと突き進んでいく。『チェロ』は、その見本のような短篇小説である。

 

冒頭、資産家のタックラーが、二十歳の娘、テレーザのために開いた荘厳なパーティーの描写から、この破滅的な物語は始まる。後に、テレーザの遺品を預かることになる弁護士の「私」は、このとき、バッハの無伴奏チェロ組曲一番の前奏曲を弾く彼女の才能に魅入る。

 

しかし、このときすでに、テレーザは自らの才能に決着をつけている。後に、フィレンツェでテレーザと再会した「私」は、彼女の笑みとともに、こう囁かれている。「わかるかしら、第一番の前奏曲。たった三分間の人生」と。大金をはたいて、その豪華絢爛なパーティーを開いた、父親のタックラーは、冒頭、四人目の妻とテレーザの間に立っているが、四人目の妻という存在が、タックラーの後の人生を示唆している。息子のレオンハルトが三歳のとき、建設中の高層住宅をタックラーの初めの妻が見学した。そのとき、まだ骨組みだけの高層住宅の手すりがしっかり固定されていなかったため、初めの妻が亡くなったことで、タックラーの破滅も約束されたのだ。テレーザとレオンハルトは、窮屈で自分たちを蔑ろにする継母と、「からっぽ」な父親タックラーに嫌気を覚えながら育ち、テレーザが音楽大学に入学するという口実で、二人は町を出ることを父親に告げる。冒頭の晩餐会は、タックラーがその見送りのために開いたパーティーだった。しかし、上述したように、テレーザはすでにチェロを諦めており、音楽大学に入ることはなかった。二人は父親から大金を得て、自由を感じ、ヨーロッパやアメリカを旅行して回る。

 

予感はすでに描かれているが、実際に、この破滅物語の引き金をひいたのは、シチリア島で大腸菌に蝕まれたレオンハルトだった。微熱のなか、姉弟はスクーターで海へ向かう。道にリンゴがひとつ落ちている。テレーザが発した言葉で、レオンハルトが後ろを向いたとき、スクーターの前輪がリンゴに乗り上げ、姉弟と父親の命運が定まった。レオンハルトは一命をとりとめたものの、尿毒が全身に回り、壊疽を起こした体は十四回の手術の結果、無残な肉塊となった。スクーターの転倒でうけた脳の損傷は、海馬にある新たな記憶保存の皮質を破壊しており、彼は、記憶を忘れることを忘れるに至った。弟の介護で自分の身辺に気を使わなくなったテレーザは、ある日、チェロを弾く。記憶を失くしても、音楽はその人になにかを呼び覚ますようだ。弟のためにチェロを再開したテレーザは、昔に戻ったような、幽かな愛情に呼ばれる。現在のない人間は、過去の囚人だ。しかし、レオンハルトには過去すらない。

 

テレーザが十六歳のとき、彼女は自宅プールで全裸で泳いでいた。プールから出た彼女を父親のタックラーが見ていた。まるで知らない女を眺めるような目で、彼女をタオルで拭い、胸を触られたとき、父親の息は、ウィスキーのにおいで臭かった。テレーザは家に駆け込んだ。

 

レオンハルトは姉のテレーザを美しい女としか見なくなった。チェロを弾く姉の前で自慰をする。キスを求めるようにもなり、「せめて胸を見せてくれよ」と姉にせがむ。テレーザは服を脱いで、椅子に座り、目を閉じてチェロを弾く。弟が寝入った後、腹に残った体液を拭い、額にキスをする。そして、浴室でむせび泣きながら吐いた。

 

十一月二十六日は、姉弟にとって限界の日だった。テレーザはレオンハルトのために豪勢な料理をテーブルに並べた。それらひとつひとつの料理にルミナールを混ぜた。彼女は料理に一切手をつけず、弟が昏睡状態になるのを待った。テレーザは前後不覚に陥ったレオンハルトの服を脱がせ、自分も裸になり、温かい浴槽に一緒に入った。彼女の脳裏に昔一緒に浴槽に浸かっていた頃の記憶が蘇る。その後、テレーザは、レオンハルトを水の中に沈め、殺した。

 

逮捕されたテレーザは、七時間にわたって自分の人生を語った。語り終えた後、「これでおしまい」と彼女はつぶやいた。拘置所で読書に耽溺するテレーザを、「私」はほぼ毎日訪れた。彼女は「私」に、読んだ本の一節を朗読した。しかし、「私」は、テレーザにチェロがないことを気づいてやれなかったことを後悔する。

 

十二月二十四日、外では雪の降るクリスマスに、父宛の手紙を書いた後、テレーザは独房で首を吊って自殺した。翌日、十二月二十五日、女性検視官から連絡を受けた父親のタックラーもまた、金庫から彼の父親の拳銃を取り出し、銃口をくわえて自殺した。

 

生前、タックラーはテレーザとレオンハルトに向かって、「中身がりっぱでもなんの得にもならん。くだらんよ」といったことがある。その反面、夜明け前に書斎にこもり、最初の妻とテレーザ、レオンハルト、そして、タックラー自身が映ったビデオテープを、ひとりで観ていることもある。家族の幸せそうな映像の中に、最初の妻が遠くを指さす場面があり、そこには、うっすら廃墟の城が映っている。テレーザの遺留品を処理した「私」は、一冊だけ本を手許に残した。二年間、それを置いたままにした「私」は、二年後、その本にテレーザが赤い線を引いた箇所を見つける。それは、スコット・フィッツ・ジェラルド『華麗なるギャツビー』の最後の一文だった。

 

さあ、櫂を漕いで流れに逆らおう。だけどそれでもじわじわ押し流される。過去の方へと

 

 

【抒情性から垣間みえる「私」と作家の関係】

短篇小説「チェロ」では、「私」以外の誰ひとり生き残らない。その意味においても、短篇集『犯罪』の中では異色な短篇小説だが、フェルディナント・フォン・シーラッハの抒情性が垣間みえるという点においても、私は異色だと感じた。私はフェルディナント・フォン・シーラッハを破滅型の作家だと捉えている。実際、短篇集『犯罪』においては、ほとんどの短篇小説が、秩序からカオスへと展開されている。ざっと上述した、短篇小説「チェロ」のあらすじの中で、指摘しておきたいことが二点ある。

 

ひとつは、父親のタックラーが、プールで泳いだ後のテレーザの裸を、酔っ払っているとはいえ、まるで知らない女を眺めるような目で見ていた箇所だ。その後、テレーザの弟、レオンハルトが同じように、姉のテレーザを、美しい女としてのみ見るようになる。父親タックラーのまなざしは、感情の欠落だ。このとき、タックラーは最初の妻を失ったことで、自分の人生にはなにもないことを悟っているはずだ。一方、レオンハルトのまなざしもまた、感情の欠落ではあるが、彼自身がそれを感知していない点において、父親タックラーとは少し異なるかもしれない。しかし、レオンハルトが、嘗て、嫌悪した父親タックラーのアナロジーになっていることに、この短篇小説のひとつの悲劇性があり、その他者性を帯びた二重のまなざしを受けて、浴室で嘔吐するテレーザの苦痛も推し量ることができる。

 

もうひとつは、スコット・フィッツ・ジェラルドの『華麗なるギャツビー』だけをテレーザの遺留品から残しておいた「私」についてだ。フェルディナント・フォン・シーラッハの短篇集『犯罪』の中に出てくる弁護人の「私」は、必ずしも作家の分身ではないと私は思うが、「チェロ」に限っては、作家の分身と捉えて良いのではないかと読後に思った。それは、先に述べた抒情性とも関連がある。「私」はテレーザの弾くチェロの音、あるいは、拘置所で朗読するテレーザの声にも愛着を抱いている。拘置所でテレーザが表現すべきもの、チェロの存在に気づいてあげられなかったことを後悔してもいる。そして、『華麗なるギャツビー』を二年間置いた後、テレーザの声に呼ばれるように、本を開いた。「私」は、なぜ、『華麗なるギャツビー』を二年間置いたのだろうか。そして、なぜ、テレーザの声に呼ばれるように、二年を経た後で、本を開いたのだろう。ここには、ロマンスの予感があるが、弁護人「私」をフェルディナント・フォン・シーラッハの分身と捉える鍵は、当然ながら、『華麗なるギャツビー』の最後の一文にあるだろう。