幻冬舎グループの作品投稿サイト

読むCafe
 

痛み

江本巖


約 5758

私の人生は、痛み多き人生である、といっても決して過言ではないと思っている。
痛み、といっても、日常生活の中で誰しもが極当たり前に被ってしまう、転んでしまったり、机の角に腰をぶつけてしまったり、金槌で指をたたいてしまったり、といった時、五感の一つである触覚で感じてしまう極一般的な痛みなどではない。
予想もしていないある日ある時、体の内から突然に噴出してきてしまう、当事者にとっては正しく悪夢のような激痛のことである。
体の内から湧き上がってくる痛みにも、必ず其の原因が存在する筈なのだが、異なる医療機関で、最新の検査技術を駆使し、様々な検査をして貰っても、其の原因がなかなか特定できない、まるで悪魔による極悪非道の仕打ちのような激痛が、間違いなく此の世に存在するのである。
其のような激痛でも、鎮痛剤によって多少なりとも鎮痛効果が得られる筈であろうが、私の場合、医師が処方してくれた何種類かの鎮痛剤の全てが、一切鎮痛効果を発揮してはくれなかった。
其の理由については、処方してくれた医師ですら説明がつかなかったようであった。
私は、元々、多くの薬に副作用を呈してしまう異常体質のようであったから、其のせいかもしれないと、諦めざるを得なかった。
四十半ば過ぎからは、痛み多き人生へと引きずり込まれていってしまった私なのだが、其れ以前は、激痛などとは、ほぼ無縁の日常生活を送れていた。

 
 
ところで、転んでしまったり何かにぶつかってしまったりといった、生きている以上決して避けては通れない、日々極当たり前に被ってしまう痛みなどは、誰しもが嫌というほど体験していて当たり前のことであろうと思うし、其の痛みの一つ一つの記憶が、すぐさま忘却の彼方に飛んでいってしまっているという事実も、想像に難くない現実の世界であろうと思う。
しかし、そうした忘れ去られてしまっても極当たり前と思われるような痛みの中に、何時までも心の奥深くに取り残されていて、好むと好まざるとに関わらず、ことある毎に生々しく思い出されてしまう痛みが存在することも、また事実であろうと思う。
 
 
私が悪戯盛りの子供の頃、軒先に大きな蜂の巣を発見した。
其の蜂の巣の主の名前など、当時の私はしらなかった。
大分後になって、其れが脚長蜂だということをしった。
蜂の巣には蜂の子がいて、其の蜂の子はとても栄養があるので、其れを好んで口にする大人たちがいると聞いたことがあった。
私が恐る恐る其の蜂の巣に近づくと、何処からともなく数匹の蜂が飛来してきて、激しく羽音を響かせながら、私の周囲を飛び回り始めた。
余りの脅威に、私は身動きができなくなってしまい、其の場に蹲るようにしてじっとしていた。
暫くの間その場で息を潜めていると、何時の間にか羽音が聞こえなくなっていた。
凝り性のない私は、竹箒を持ち出して来て其の蜂の巣を叩き落した。
蜂の巣を割ってみると沢山の穴があって、其の幾つかの穴の中に蜂の子がいた。
私は、興味本位に其の蜂の子を引き出して口に含んだ。
口に含んだ蜂の子は、舌の上で少しばかり蠢いたような気がした。
幼かった私には、其の蜂の子を飲み込む勇気がだせなかった。
口の中に含んだだけの蜂の子には、特別の味は感じられなかった。
気持ちが悪くなったので、其の蜂の子を地べたに吐き出した。
蜂の子を吐き出した其の刹那、何時の間にか舞い戻ってきたらしい脚長蜂に、半ズボンからはみ出していた太腿を刺された。
私は、過去に味わったことがないほどの痛みを感じた。
私は、大声を立てながら家に飛び込み、母親に助けを求めた。
母親は、私の徒ならぬ様子を目にするや否や、多少慌てふためいた体で急ぎ出かける準備をしてくれた。
母親に手を引かれ、可成り遠くの医院まで徒歩で連れていかれた。
道中、余りの痛さに涙が途切れることなく溢れ出て来たが、恥ずかしいので鳴き声を立てたりしないように、歯を食い縛りながら頑張った。
其の時に味わった激しい痛みなど、今となっては脳内で再現できる筈などないのだが、痛い思いをしたという其の時の出来事は、懐かしい想い出となって、何時までも私の脳裏に確りとへばり付いている。
 
 
四十半ばを過ぎた頃からは、私は体の内から湧き出る本格的な激痛に取り付かれっ放しの人生へと転落していった。
最初の激痛は、四十半ばのある日ある時、突然右肘に表出してきた。
男の四十半ばといえば、年齢的にも働き盛り、子は育ち盛り。
激痛が、体の内から休みなしに湧き上がってきていても、いざ職場という戦場に足を踏み入れた以上、些かの手抜きも許される筈がない。
其れが、老若男女を問わず、プロフェッショナルの世界であろうと思う。
脳内では四六時中痛みが乱舞していたが、仕事場では何事もないかのように装い続け、只管仕事に励んだ。
一時として中断されることのない激痛の生活が、一年半の長期に渡って継続した。
右肘の激痛に別れを告げてほぼ一年後、今度は左肘の激痛が始まった。
左肘の激痛も、右肘痛の時とほぼ同じ、約一年半の長期に渡り続いた。
本当に厳しい両肘痛の計約千百日間ではあったが、此の長期に渡る激痛生活の中で、其の激痛に耐えられそうもないというひ弱な気持ちになって、自裁してしまいたいと思ったことなどは一度としてなかった。
因みに、ヘルペスという病があるが、此のヘルペスが重症化し長引いてしまうと、其の痛みに耐えきれずに、自裁してしまう患者もいる、と、某医科大の関係者から聞かされた記憶がある。
 
 
左右両肘の長期に渡る激痛にも耐え抜き、暫くは平穏無事な生活を過ごさせて貰っていたのだが、五十路に足を踏み入れたある日ある時、突然に右肩に痛が走り始めた。
四十肩、五十肩は、殆どの人が体験すると聞いていたので、然程気にすることもなく日が過ぎていった。
早い人ならば二三か月くらいで回復すると聞かされていたので、高を括っていた。
一二か月が過ぎても痛は薄れてゆく気配を見せてはくれなかった。
妻に促され、アイロンを持ちだしてきて腕を前後に振る運動を我慢強く続けたのだが、三か月を過ぎた頃からは、痛みは薄れてくれるどころか、日増しに強く感じられるようになっていった。
半年が経過した頃には、寝返りを打った時など、耐えられないほどの激痛に襲われることもあったので、其れが恐ろしくて寝床に横たわる気にもなれなくなっていった。
仕方なく、毛布を身に纏い、椅子に座って細切れ状態の睡眠を取る生活を送らなければならなくなっていた。
そんな生活が、真冬の二三か月の間続けられた。
無論、専門家の指導を得て懸命にリハビリを継続したのだが、一向に改善の兆しは見られなかった。
其の五十肩の激痛は、一年半もの長期に渡って続いた。
破れかぶれの心境にまで追い込まれてしまった私は、カーテンレールに紐を通し、其の紐を右手首に巻き付けて、昔、工事現場で目にすることができたヨイトマケの要領で、無理矢理右腕の上げ下ろし運動を繰り返した。
妻からは、無理をするのは良くないから止めるようにと、都度厳しく忠告された。
其れでも、何かしなければ先が見えてこないとの強い思いから、勇気と決断力と努力で毎日毎日右腕の上げ下げ運動を続けた。
其れから二週間くらいが経過した頃、目覚めたら右肩痛が殆ど消えていた。
今までの一年半の四六時中の激痛が、まるで夢の中の出来事でもあったかのように、見事に消え去っていった。
右肩痛が回復して一年も経たないうちに、左肩痛が始まった。
此の左肩痛も、一年半ほどの長期に渡って継続したのだが、右肩痛より酷い状況で、其の余りの激痛に、通勤電車の中でも額に脂汗が浮かんでくることもあり、「こんな腕はいらない」と、歯を食い縛りながら思わず心の中で絶叫してしまったこともあった。
左肩痛を発症してから、一年半ほどの時を経て、ある朝目覚めると、左肩の激痛は、右肩痛の時と同じように殆ど消滅していた。
 
 
定年延長の権利を放棄し、六十歳で定年退職してから一年余りが過ぎ去った頃、突然、右腰に痛みが走った。
妻が楽しみにしているツアーの出発日が、一週間後に迫っていた。
今まで、散々激痛に苦しんできたので、もうこれ以上の激痛生活は勘弁して欲しいという強い気持ちから、機会を得るたびに神社に足を運び、神頼みを続けてきたのだが、其の願いも神に届くことはなかった。
右腰に表出してきた激痛は、過去に見舞われた左右両肘と左右両肩の激痛に勝るとも劣らない激痛であった。
降って湧いた右腰の激痛が、此の先、約一三〇〇日もの長きに渡って継続するとは、其の時点では想像することさえできなかった。
一週間は瞬く間に過ぎ去った。
右腰に痛みを抱えた儘、ツアーに出立しなければならなかった。
帰宅した妻の顔には、満足の笑みが見て取れた気がしたが、私にとっての此の旅は、激痛によって身も心も打ちひしがれっ放しの、唯、奈落の底をさ迷い歩き続けただけのような旅で終わってしまった。
 
 
右腰に発症した腰痛は、日に日に其の痛みを増していった。
右腰の所で上半身を右側に倒し、右腰の所へ左手を添えて前屈みにならなければ、足を前に運ぶことさえできなくなっていた。
立ち上がろうが座ろうが寝転がろうが、瞬時たりとも激痛が治まることはなかった。
何か所もの専門医を訪ね、様々な診察を受けたのだが、医師たちの口から発せられた言葉は、異口同音「特に悪いと思われるようなところは見当たりません。原因が特定できません」であった。
原因不明ということは、確かな治療法も不明ということでもあった。
其れでも、微かな期待を胸に、整形外科のリハビリ室で腰を牽引してもらったり、赤外線照射で患部を温めてもらったり、電気マッサージ治療を試みてもらったりと、様々な治療を試みて貰ったのだが、回復の兆しは一向に顕われなかった。
治療後に更に痛みが増してしまうことも、決して少なくはなかった。
そんな奈落の底で喘ぎ続けていた其の頃、テレビの健康番組では、頻りに半身浴の話題が取り上げられていた。
健康雑誌の新聞広告のヘッディングにも、半身浴の文字が乱舞していた。
私は話題の半身浴に大いなる期待を寄せ、藁にも縋る思いで、すぐさま実行に移すことを、勇気を奮って決断した。
半身浴を開始した当初は、毎日一五分位で切り上げていたのだが、中々効果が顕われてくれなかったので、焦る心に背中を押されるように、一分二分と、入浴時間を引き延ばしていった。
半身浴は、何時しか毎日一時間にも及ぶようになっていた。
今日こそは、明日こそは、と、回復に大いなる期待と希望を寄せながら、日々欠かさずに半身浴を実行した。
 
 
振り返れば、右腰痛発症から約三年半余りの月日が流れ去っていた。
長期間、途切れることのない激痛によく耐え抜いてこられたものだと、我ながら感心もしたが、「こんな命はいらない」と、心の内で思わず叫んでしまったことも、決して少なくはなかった。
そんな精神状況の中、此の先どうしたものか、と、彼や是や考えを巡らせ続けていたある日突然、「健常な時に比して、腰痛を発症してからの生活習慣に、何か違えてしまった習慣などはなかったか」というような、疑問が脳内に表出してきた。
考察の結果、腰痛発症後に変えてしまった生活習慣は幾つか思い当たったが、一番大きく変えてしまったのは、入浴方法であることに気付いた。
肩まで寛と浸る通常の入浴方法から、半身浴に切り替えた。
湯に浸っている時間も、七八分から約一時間と、可成り長時間になっていた。
入浴時に体外に溢れ出る汗の量も、極端に増えたということでもあった。
また、通常の入浴方法では、例え冬場であっても、湯船に身を沈めると直ぐに温もりを感じられるのが当たり前であったが、半身浴では、可成りの時間、上半身が不快な寒さに晒されっ放しにならざるを得なかった。
一部の医者や知識人たちが熱心に半身浴を薦める理由の一つは、半身浴は、湯の水圧が心臓に負担を掛けたりしないから、ということのようであった。
しかし、短時間、肩まで確りと浸かる入浴が、湯の水圧によって、危険なほど心臓へ大きな負担を掛けてしまうとは、私にはとても思えなかったので、其の日から半身浴を中止し、普通の入浴に切り替えることを、勇気をもって決断した。
半身浴を実行に移すまでは、肩まで確りと浸る昔ながらの入浴が、当たり前の生活習慣の一つであった。
其の入浴の第一の目的が、体を清潔に保つためであって、其れ以外の効用について特別に意識したことなどはなかったのだが、改めて意識しながら肩まで確りと湯に浸ってみると、心身ともに大いにリラックスできていることに気付かされた。
 
 
入浴方法を変えてから暫くは、右腰の激痛は相も変わらず継続していた。
一月ほどの時が経過した頃、激痛が多少和らいできているように感じられてきた。
其の日から更に、ニ三か月ほどの時が過ぎ去った頃、朝目覚めたら、激痛が可成り緩和されているのを感じた。
医師に処方してもらった高価な鎮痛剤は、遥か以前に廃棄処理してしまっていた。
早速、OTCの其れもジェネリックの鎮痛剤を入手し、試しに服用してみた。
其処には、感動の奇跡が待っていた。
鎮痛剤を服用して一時間ほどの時を経て、右腰の痛みが徐々に緩和してきていることを確かに感じ取ることができた。
其れから半年有余の間は、朝、昼、晩の三回、其の鎮痛剤を服用することにより、一日中痛みから逃避できる心穏やかな時間を過ごさせて貰えるようになった。
今では、鎮痛剤を殆ど必要としない至福の日常生活を送ることができている。
私は希望を胸に、勇気と決断力と努力で、至極の奇跡を一つ、此の手の中に収めることができた。 

 
(完)