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井伊谷の姫、直虎

だぶん やぶんこ


約 19840

井伊家といえば、幕末のヒーロー、江戸城桜田門外の変で殺される大老、井伊直弼が有名。
襲撃側一八名で戦ったのは一六名(二人は見張り役)に対し、直弼には六〇名の護衛がいた。
だが一〇分余りの戦いで、直弼は戦うこともなく首を取られた。

 

笑うに笑えない、泣くに泣けない幕末の幕府の現状を表している。
それでも、譜代筆頭彦根藩三五万石藩主、井伊直弼は幕府を守ろうと懸命に尽くし亡くなった英雄だ。
 

その井伊家の歴史は長い。
時にファンタジーの世界に入り込み、頭をくらくらさせいい気分にする、変幻自在に生き抜いた名家だ。
井伊直弼を連想する出来事も多い。

 

井伊家が存亡の危機を迎えた時、燦然と光り輝き、井伊家を再興した姫がいた。
その名は直虎。

 

直虎が生まれ、井伊家を背負う契機となる日まで。

 

井伊家の始まり始まり??

井伊家の始まりは、おとぎ話だ。
井伊家の歴史は??が続くが、不可思議な面白さで周囲を魅了し、歴史に名を残す。

 

九九〇年頃、遠江(静岡県大井川以西)国司(祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り絶大な権限を持つ官吏)となったのが藤原北家。その一族、藤原共資が都から遠江国に赴任した。
共資は、志津城(浜松市西区村櫛町)を築き、租税徴収等の役目を果たす。
役目を終えても居心地の良いこの地を動きたかなくなった。そこで城に留まりこの地を治める。

 

それから二〇年過ぎ、一〇一〇年正月、共資は、井伊谷の八幡宮に初もうでした。
その時、御手洗の井(神前に行く前に身を清める井戸)の側で大きな泣き声をあげている赤児を発見する。すべてを見通す眼「虎の目」を持つ赤児だった。目鼻立ちの整った美しい顔に野性的な目が光った。
共資を待っていたように見詰め、思わず抱き上げると、すぐに泣き止んだ。
この出会いは、神のお告げだと、共資は全身を震えさせながら、大切に、屋敷に連れて戻る。

 

以後、家族同様に育てる。
成長と共に神の子と見間違うほどに並外れた才知を発揮した。男子のいない共資には可愛くてならない。
共資の娘とも実の兄妹のように仲も良い。

 

共資は、その子を娘の婿養子とし、後を継がそうと考える。家中は大賛成だった。
こうして「虎の目」を持つ容姿端麗な赤児が、成長し、娘婿養子となり共保と名乗る。
捨て子がこの地の領主の娘に愛されて、後継者となったというお話だ。

 

共資は、田地の開発を進め、収入を増やした。現地赴任の国司()の典型的な成功例で、潤沢な資産を作る。
次に、領地に根差し領民に愛される支配者になろうとする。
そこで、その地の子を拾い上げ、後継とする領民第一の良い話が出来た。

 

共資のように役目が終わっても在地し、国司に従い治める在庁官人になった藤原一族や三宅氏らがいた。
共保は、共資に縁のある藤原一族と三宅氏の娘の間に生まれた神童と噂される優秀な子だった。

 

一〇三二年、家督を継いだ共保は、拾われた井戸の地、井伊谷を井伊家の始まりの地とし、側に井伊谷城(浜松市北区引佐町井伊谷字城山)を築いて本拠とする。
井伊谷は、遠江国の最北端にあり、西は三河、北は信濃、南は浜名湖に続き、井伊谷川に神宮寺川が合流する地に位置し要所であり、築城すべき地だった。

 

井伊谷の由来は、八幡宮の南に冷泉が湧きだした事と伝わる。
八幡宮は万物の命の根源、ご神水を祀る為に建立され、その後、共保を生み出し、井伊氏の氏神となる。
共保は、神聖な井戸の側で拾われた縁を尊び、井伊氏を名乗る。
八幡宮は移され、井戸のあった地は共保の菩提寺となる。

 

霊水が湧き出るように生まれた赤子が神童と称され創始者となるという不思議なおとぎ話が、井伊家の始まり始まりだ。

 

こうして、平安時代から始まった井伊家は、源氏に味方し鎌倉幕府の成立の為に戦い、勝利者となり、遠江国人としての地位を固め勢力を広げながら続く。
一族は分家し広がり、彼らを従え、また、周辺の国人衆(横地氏・勝間田氏ら)と競い合い血縁を結び、遠江の盟主的な位置につく。

 

分家して井伊家を支える一門衆。
まず、赤佐氏。一一七〇年、六代目当主、盛直の次男が、遠江国麁玉郡赤狭郷を与えられ本拠とし、分家した。
その後、奥山城(浜松市北区引佐町奥山)を築き本拠とし、奥山氏を名乗る。
井伊家と共に、不可思議な伝説を創る井伊家第一の一門衆だ。

 

一三三六年、鎌倉幕府が倒れ南北朝の戦いが始まる。
井伊家当主、井伊道政は、奥山直朝・朝藤らを従え、南朝の遠江衆の主力となり戦った。
翌一三三七年、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が征東将軍となり、井伊氏の戦功を誉め、北朝、今川勢らと戦う為に、井伊谷城に入る。
ここで道政は、宗良親王の居館を建て、標高四六六mの三岳山に三岳城(浜松市北区引佐町三岳字城山)を築き、宗良親王に差出し、南朝の拠点となる。

 

こうして、井伊谷城を本拠とし、その麓に井伊城、本丸・二の丸・三の丸を築き、二・六㎞北方に詰めの城、三岳城を築き井伊氏の居城が出来上がった。本丸屋敷に井伊氏当主が住まう。

 

宗良親王は、後醍醐天皇が病に伏した為、吉野に戻り、崩御後の一三三九年、再び、井伊谷城に入る。
宗良親王をもてなすのは、いつも、道政の娘、駿河姫だった。始めての出会いから惹かれ合い、結ばれていた。
だが、翌年、井伊谷城は北朝勢に攻め込まれる。
井伊勢は、防戦するも詰めの城、三岳城にまで追い詰められ、ついに、落城した。
やむなく、道政は宗良親王を守り、駿河へ落ち延び、さらに越後、信濃へと戦いを続ける。

 

駿河姫は残された。その時、愛の結晶、尹良親王を宿していた。
奥山勢を引き連れて戦う道政は、駿河姫を、奥山朝藤の二男、定則に託し出陣した。
定則は、父を引き継ぎ宗家、井伊氏と共に南朝方として戦った猛将であり、娘、駿河姫を託すにふさわしいと見込んだのだ。
定則は駿河姫を守る為、高根城(久頭郷城)(浜松市天竜区水窪町地頭方)を築く。この城で駿河姫は尹良親王を生み育てる。

 

井伊道政は、歴戦を戦い抜くが、南朝の勝利は難しかった。疲れ果て、宗良親王と別れ、井伊谷城に戻る。
宗良親王は信濃大河原(長野県大鹿村)国人、香坂高宗に迎えられ、この地を南朝の拠点とし戦い続け、生涯を終える。
宗良親王は、香坂高宗の娘を愛し、この地で幾人かの子が生まれている。

 

高根城(久頭郷城)は、遠江最北端に位置する山城で、標高四二〇m・比高一五〇mの三角山の山頂を中心に築かれた。
水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろす位置にあり、信遠国境警備を目的として築かれたのでもある。
駿河姫と尹良親王を守るにふさわしい、難攻不落の堅城だった。

 

こうして、井伊氏は後醍醐天皇の孫の外祖父の家系となる。
篤き志をもって南朝へ忠節を尽くし、後醍醐天皇の子を支え、孫を守った義士として名を残す。
不確かな部分もあるが、これもまた井伊家らしい壮大なロマンだ。

 

この時、宗家と共にあり宗家に次ぐ位置になった奥山氏。
そして、尹良親王の守役となったのは、二男、定則だった。
尹良親王は成長すると井伊家を去り、父を引き継ぎ征東将軍となり戦い、戻ることはなかった。
残された駿河姫は、定則と結ばれ、城を守る。
こうして奥山氏は次男の系統が嫡流を凌いで宗家、井伊氏との関係を強め、奥山氏本拠は高根城(久頭郷城)となる。

 

それから何十年もの日が流れ、奥山親朝が奥山氏嫡流を引き継ぐと、井伊家一門筆頭の座を取り戻すと決意し、嫡男、朝利と共に、奥山氏嫡流の意地を見せ、花を咲かす。

 

貫名氏。井伊盛直の三男が遠江国山名郡貫名郷(静岡県袋井市)を与えられ、分家して名乗る。
家を興して間もなくの一二二一年、承久の変が起き鎌倉幕府と朝廷との戦いが始まる。貫名氏は反幕府側に与し戦った。
あえなく、敗れ、安房国(千葉県)への流罪となり、絶える。
だが、この地で愛を育み、子が生まれた。
その子が日蓮宗 (法華宗) の宗祖、日蓮上人。
伝説的で有名な話だが、井伊家は優秀な名家だとの証明だ。

 

井平氏。八代、弥直の子、直時が井平、花平を与えられ殿村(浜松市北区引佐町伊平)に居館を構え井平を名乗る。
井伊谷北方にある井平は三河との境にあり井伊領を守る最も重要な地だった。
時が過ぎ、井伊一門中、奥山氏の力が落ち貫名氏は絶え渋川氏が去り井平氏が筆頭の座に就く。
軍事力・政治力に秀でた井平氏から井伊家一六代当主、直平・一七代当主、直宗の妻を出し権勢を誇る。

 

井平氏は、直虎の祖父、直宗の母の実家であり、その上、妻の実家となり、直宗と強い縁で結ばれた。
直宗の死に、当主・嫡男が殉じ、急速に力をなくす。

 

渋川氏。一〇代当主の子から始まる。渋川村(浜松市北区引佐町渋川)を与えられ本拠とし、その名を名乗る。
渋川氏は、遠江守護となった斯波氏と縁を結び、勢力を広げた。斯波氏が全盛の時、渋川氏は一門筆頭として権勢を誇った。
だが、斯波氏は今川氏に押され凋落していく。
井伊家は、斯波義達の為に戦うが、今川氏親に敗北し、降伏する。
渋川氏は、まだ斯波氏と共に戦い結局、負ける。
渋川氏は氏親から激しい憎悪の目を向けられており存続は難しかった。
やむなく、井伊谷を離れ甲斐国(山梨県)へ逃れ、断絶した。

 

中野氏。一四代当主の子から始まる。
直平の叔父、中野直房が初代。直平のいとこが二代目、直村。三代目が直由。
直虎の父、直盛が、年齢の近い直由に全幅の信頼を置き、一門筆頭の扱いをした。
直盛は遺言で井伊谷城代とし、直虎の後見を託した。

 

直盛は「直親を娘婿養子とし、家督を継がせる」とは言ったが、後継とは明言しないまま亡くなった。
中野直由の嫡男、直之を直虎の婿にし家督を継がせたいと思う時もあったのだ。
中野家は井伊家・徳川家の為に働き、徳川系の重臣が質量とも圧倒的となる彦根藩でも一門筆頭家老として権勢を保ち続ける。井伊家安中藩でも、中野家から養子入りした松下一定が筆頭家老として続く。

 

父を愛し継承しようとした直虎の信頼が厚く、中野氏を推したゆえに、直政も重用し生き残った。
直由は、分を知り、控えめに、井伊宗家に尽くし、なるべくしてなった一門筆頭の知恵者だった。

 

一門衆は幾家も出来たが、井伊家宗家の栄枯盛衰と同じように浮き沈みがあった。
直虎が認めた中野家が一門筆頭として生き残り、直虎が嫌った奥山家は、影が薄くなる。

 

二 直虎曽祖父、直平と娘、直の方

井伊家は伊井谷を本拠として以来、この地を守り、遠江守護に従いつつも、独立性を保ち、綿々と続いた。
だが、南北朝の戦い時、南朝方となり北朝方の今川氏と戦い敗れ、敗者として勝利者の今川家に従うことになって以来、立場を弱くし、従属性が強くなっていく。
一三九二年以降、今川勢の一角を占め危険の多い戦いに駆り出される。独立心旺盛な井伊家には苦渋の時となる。

 

だが、転機が訪れる。
一四〇五年、斯波氏が今川氏に代わり遠江守護となったのだ。井伊家は息を吹き返した。
斯波氏は、遠江守護としての統治体制を固める為に、まずは遠江衆を取り込もうと今川氏に比べ緩い従属関係で配下とした。
斯波氏は、室町将軍足利家の有力一門衆で、有力守護大名であり、越前・尾張守護だった。
今川氏は、室町将軍足利家、嫡流の流れになる。将軍との血縁では今川氏が上だが、この時、斯波氏の勢力は強大だった。

 

だが、奪われた今川氏も奪回の機会を狙い、一四〇七年、将軍を取り込み、守護の座を取り戻す。
再び争奪戦が始まる。ここで、井伊氏は、大活躍し、今川氏に勝利し、一四一九年、斯波氏は守護を取り戻す。
以来、井伊氏は、斯波氏を支える有力国人として重きをなす。

 

その後、一四六七年、室町幕府の基盤の弱さを露呈する将軍後継を巡る争い、応仁の乱が起きる。斯波氏は西軍に属す。
今川氏当主、義忠(氏親の父)は、斯波氏追い落としの好機だと、東軍に属し戦う。
狙い通り、斯波氏に勝利し、以後、今川氏は遠江への侵攻を堂々と繰り返し、斯波勢を押していく。
それでも、斯波氏が遠江守護である限り井伊氏も勢力を保つが、斯波氏は凋落していく。

 

ついに、今川氏親が遠江に攻め込み、井伊氏は必死で防戦するだけとなる。
一五〇八年、氏親は室町将軍を取り込み、遠江守護の座を奪い返した。

 

それでも、井伊氏は斯波氏に従い、守護職を取り戻す戦いを続けたが、氏親は並外れた武将であり、斯波勢が対抗できる相手ではなかった。
井伊氏は懸命に戦うが、斯波氏の力は衰退するばかりだった。

 

直虎の曾祖父、井伊家当主、直平は早くに、斯波氏に見切りをつけ、今川氏に従えばよかったが、意地を見せすぎた。
義を重んじる井伊家の血筋だ。

 

一五一三年、詰めの城、三岳城を落とされ直平は力尽き、今川氏に降伏した。
遠江守護奪還を目指した斯波義達は、尾張に逃げ去り、尾張でも追い詰められ消えていく。
今川氏親は、激しく刃向い降伏した井伊直平に、高圧的な内容での和議を結ぶ。

 

従属的和議の条件は、
人質を出す事。直宗の嫡男、直盛など。
直平が隠居する事。
嫡男、直宗が家督を引き継ぐ事。などなどだ。

 

今川方の目付として三岳城に三河の国人領主、奥平貞昌が軍勢を率い入る。維持費として遠江国浜松荘が与えられた。
奥平氏の本拠はあくまで三河であり、井伊谷城や居館、井伊城の占拠ではなく、監視の任を負っただけだ。
後に、奥平貞昌のひ孫が、家康の孫姫、亀姫の婿になる。

 

また、氏親は、井伊家に今川氏重臣、小野政直の父を家老として送り込んだ。
小野政直の父が遠江支配の為に招かれ遠江赤狭郷小野村(静岡県浜松市浜北区尾野)を得て、遠江小野氏が始まった。
この地は、平安の昔に小野氏が開発した地であり、小野町と名付けられていた。先祖に縁ある地を与えられ戻ったのだ。
井伊家は氏親の監視体制の中に置かれる。

 

駿府での人質生活となった直盛は、元服すると今川一門、新野家の千賀(友椿尼)との結婚が決まる。
そして、結婚の詳細を決める今川家取次役を千賀の兄、新野親矩とする。
井伊家の取次ぎ役は、奥山朝利。
新野親矩は井伊城に出向き、直宗・奥山朝利と話し合うことが増える。
朝利は新野親矩と意気投合し、朝利の妹と新野親矩の結婚に繋がる。

 

こうして、今川氏親は、井伊領を検地し強力な支配体制を築く。井伊氏は、厳しく税を徴収され武田勢・三河勢との戦いに出陣させられる事になる。
遠江(静岡県大井川以西)の重要性が増し、遠江国人衆を完全に支配下に置く必要があった為だ。

 

一四九八年発生した明応大地震と同時に起きた大津波によって、外海と繋がっていなかった浜名湖の一部が決壊し、外海と繋がった。すると、水運がはるかに便利になり、陸海を繋ぐ交通の要所となり、遠江は富を生み出す地となった。

 

だが、一五二六年、今川氏親が亡くなり、氏輝が引き継ぐ。
代替わりの不安定さに加え、幼き当主、氏輝では強権支配は出来なかった。やむなく、後見する寿桂尼は内政重視の治世とするが、すると、配下の国人衆は独自の力を強めていく。

 

井伊家では直宗が、寿桂尼に、代替わりの為に直盛と千賀の国元への帰還を願い、了解された。
代わりに直盛の母と直平の一人娘、直の方が駿府に入る。代替わりは、実行されなかった。

 

直平の娘、直の方は、直平の孫、直盛より年下だ。不思議だが、直平・直宗は一〇代前半に子を儲けており、井伊家ではよくあること。

 

直盛・千賀の国元入りに伴って、奥山氏の娘と結婚した新野親矩も、目付となり井伊谷城下に屋敷を構える。妹を通じ直宗と、妻を通じ奥山氏との連携を築きつつ、井伊家中に発言力を強めていく。
今川一門、新野氏は、新野新城(舟ケ谷城)(御前崎市新野)を居城とし遠江城東郡新野郷を治めていた。

 

氏輝の穏健な治世の隙をついて、三河では一五二三年、松平宗家(徳川家)を継いだ清康(家康の祖父)が破竹の進撃で、今川領だった三河を平定していく。
清康は、一五三五年一二月亡くなるまでに、三河を統一し遠江に迫る勢いだった。
三岳城将、奥平氏も清康に従い戦い、今川配下から離れた。

 

人質となり駿府城入りした直の方は、寿桂尼に気に入られ、今川家当主となった氏輝一三歳の側近くで仕える。
病弱な氏輝は、繊細な神経の持ち主で偉大な父を継ぐ自信がなく情緒不安に陥った。その氏輝を支え優しく見守ったのが直の方、一六歳だった。
氏輝は、姉のように慕い結ばれる。
氏輝は結婚しなかった。直の方は、実質、今川家当主、氏輝の妻だった。

 

氏輝は、優しい性格で野望はなく今川家の守りを重視し、直の方を愛し愛ゆえに井伊氏を強権的に扱うことはなかった。力を取り戻した直平・直宗は、清康の動きを注視し、今川家からの独立性を高めていく。

 

また、遠江を統括する福島正成も力をつける。氏親から遠江を任せられ氏輝も引き続き任せた。
福島正成は、娘を氏親に仕えさせ愛され側室となり、玄広恵探が生まれていた。
玄広恵探は出家させられるが、後継となるにふさわしい才知があった。

 

福島正成は遠江衆をまとめ清康と対峙し「弱腰の氏輝では今川氏を率いるのは無理だ。玄広恵探が継ぐべきだ」と見極める。
そこで、今川一門筆頭、瀬名氏(遠江今川氏)以下遠江国人衆を味方にし、関東を支配する北条氏の支援も取り付け、着々と準備した。

 

一五三六年四月七日、氏輝は二三歳で亡くなる。病弱だった氏輝の治世は一〇年だった。
北条氏居城、小田原城で歌会を楽しんだ帰途、熱海で宿泊していた時の不可解な急死だった。

 

福島正成は「今こそと気が来た」と勝利を確信して孫、玄広恵探を後継にすべく挙兵する。玄広恵探は、一九歳の優秀な僧に育ち、今川家当主になると奮い立った。
直平も、福島氏が勝利すれば井伊氏の力は増し今川氏への発言力も強まると賛同した。
こうして、氏輝のすぐ下の弟、庶子の玄広恵探とその下の正室、寿桂尼の子、義元との家督をめぐる熾烈な争いの乱が勃発する。

 

直の方は、氏輝の死を聞き震えた。
父、直平に氏輝の健康状態や弟、義元を呼び寄せたこと、小田原行の日程も知らせていた。
それが、玄広恵探を推す勢力に伝わり、氏輝の急死に繋がったのではないかと。
氏輝は義元を後継に考えていた。氏輝のすべてを知る直の方は、家督騒動が起きると、寿桂尼にひれ伏しすべて打ち明け父の暴挙を謝る。

 

ここで、寿桂尼が前面に立ち、北条氏・武田氏を味方に付け嫡流の血筋を受け継ぐのが義元だと、正当性を高々と掲げる。
寿桂尼は強かった。玄広恵探・福島正成を討ち果たす。
直の方は、寿桂尼の意向に沿い動き、直平に義元・寿桂尼に従うよう何度も願った。

 

寿桂尼は、無事、義元に家督を継がせると、直の方を許し、義元に仕えるように命じる。
遠江衆は玄広恵探の死後、新当主、義元に従ったが、義元は謀反人を許す事はできなかった。

 

寿桂尼は、義元に「今川家をまとめ率いるのが第一。瀬名氏(遠江今川氏)を抑える為にも影響力の大きい井伊氏を取り込むように」と諭した。
人質、直の方に井伊氏を義元に忠誠を誓わせる重要な役目を与えたのだ。

 

一目で直の方に惹かれた義元は、母の意を汲んで、直の方を側室にする。
九歳も年上だったが、氏輝に愛された円熟した美しさに心奪われた。
直の方も井伊家の為、精一杯、義元に尽くす。
義元は、敵に回った井伊氏への恨みすべてを消し去る事はできなかったが、直平の娘への愛ゆえに追及しなかった。

 

翌一五三七年、武田信虎の娘(信玄の姉)定恵院と義元の婚儀が決まる。
今川氏と武田氏は交戦状態だったが、寿桂尼は義元支持を頼み、信虎(信玄の父))は了解した。
その恩に報い、また、義元の治世を軌道に乗せる為に、武田氏と同盟を結び戦いを避けることが必要不可欠と判断したのだ。

 

北条氏を信頼できなくなった為でもある。北条氏綱は今川氏の内紛を喜び、影響力を強めようとしたのだ。
当初、福島氏を支援し、寿桂尼に追及され、義元支持に変わったが、状況次第でどちらにも動く。
逃げた福島氏の子は氏綱に庇護され娘婿養子、北条綱成となり、北条家一門となる。
また、瀬名氏嫡男に娘を嫁がせ結びつきを強めており、牽制する必要があった。

 

義元の婚儀の直前、寿桂尼は、武田氏への誠意を示す為に、義元に身辺をきれいにするよう命じた。
やむなく、義元は、直の方を信頼する側近、関口義広に下げ渡す。
寿桂尼も直の方の忠節を誉め、養女(義元の姉)とし精一杯の支度をして嫁がせた。

 

直の方は、義広に嫁ぐ。井伊氏の為、今川氏の為に当然の事と、受け入れた。
直の方にとって八歳も年下の夫だった。
義広は、主君の愛妾を預かるとの考えで迎え、あまりに美しい直の方を、まぶしそうに見つめる。

 

三 直虎、誕生

井伊谷城に戻った直盛は、一つ年下の妻、千賀と仲よく過ごした。
穏健な氏輝との関係は良かった。

 

二人は、嫡男の誕生を待ち望んでいたが、生まれず、一五三六年、ようやく姫が生まれた。
歓喜したが、直盛は三〇歳。千賀は二九歳だった。難産であり、年齢の事もあり、次に子が生まれる可能性は低かった。

 

直虎の誕生の直前、四月七日、氏輝が亡くなった。
直盛は新野親矩と兄弟のように付き合い、小野氏との関係も良く、後継は義元と思うが沈黙を守った。
だが、直平は決起し負ける。義元の怒りは収まらないが、今川家中をまとめることが先決と、井伊家への処分を延ばした。

 

このように、井伊家が危機に陥った時、直虎が誕生した。
その為、直盛の父、直宗は、誕生を公表しなかった。

 

北条家の力で義元に家督を継がせたと自負する北条氏綱は怒った。
大恩を忘れ、激しく戦っていた敵、武田氏と同盟を結んだ裏切りを許せない。
今川領河東(富士川以東の地域)に侵攻し占拠する。河東の乱だ。

 

寿桂尼は、愛娘が嫁ぎ同盟を結んだ北条氏が、家督騒動に付け込みあおった裏切りを許せず、対抗上、武田氏と結んだ。当然の事だった。
ところが、瀬名氏が氏綱の娘婿として北条勢に与した。
福島氏亡き後、義元に屈し従っていた瀬名氏が、息を吹き返し、遠江衆を率い義元に反旗を翻したのだ。
遠江衆の信望を得ている直平が動かないと、瀬名氏も動けない。やむなく、直平も加わった。
直平・直宗には、かっての遠江守護につながる堀越氏との縁は深く、断れなかった。

 

直の方は、必死で、義元を支持して動かないで欲しいと願ったが、直平は兵を動かした。
瀬名氏と共に、北条氏綱勢と図り、義元勢を、挟み撃ちにする戦いに、立ち上がったのだ。

 

寿桂尼・義元は遠江の支配権を守ることがより重要と、北条氏の河東侵略に目をつぶり、主力の軍勢を遠江鎮圧に向ける。
遠江勢、堀越氏・井伊氏らは、北条勢の支援であり義元との全面対決までは考えていなかった。今川勢の主力を前にして、戦意をなくし、再び義元へ臣従する。

 

義元は、幸運だった。
今川勢は松平清康の勢力を抑えることができず三河から手を引かざるを得ない状況だったが、清康が暗殺されたのだ。
松平家中は混乱し内紛を起こし弱体化していく。
義元は反転攻勢に出て、不安定な当主、清康嫡男、広忠への影響力を強めながら、三河衆を再び配下にしていた。
その為、遠江衆は、背後からの攻勢も受ける事になり、ますます戦意をなくす。

 

義元は、意気揚々と胸を張り、降伏し臣従を申し出た遠江衆を粛清や冷遇しつつ受け入れる。

 

関口義広と直の方は、堀越氏・井伊氏らの離反を食い止める為に必死に取り次ぎ、井伊氏を躊躇させた。
また、関口義広は、義元に尽くし戦い抜いた。直の方を愛する故でもあるが、義元により高く評価される。
堀越氏の所領の多くを取り上げた義元だが、直の方への愛もあり井伊氏はただ同調しただけだと、制裁を抑えた。

 

この間、小野氏・新野親矩も、懸命に直平・直宗に義元に従うよう説き続けた。
目的を達するまでには至らなかったが、井伊勢総力を挙げての全面的対決を避けることはできた。

 

ここで義元は、今川家重臣、小野・松井・松下氏。加えて今川氏に従う近藤・鈴木・菅沼氏、そして井伊氏一門、中野氏を、改めて今川氏からの陪臣、七人衆に任じ、井伊家中を仕切らせる。
皆、遠江近辺の国人衆であり井伊家と長く縁があった。

 

その中で、義元が筆頭家老としたのが、小野政直だ。
先祖には遣隋使として有名な小野妹子や遣唐使がいる。最高級の官僚であり、教養に秀でた文人の家系だ。
井伊家に家老として送り込まれ、その後、井伊家が義元と敵対した時も留まり、戦いを未然に収めたいと努力を続けた。
行政官僚としても優れた実績を上げており、功を認め井伊家筆頭家老に抜擢した。

 

直盛は井伊家の独立性を重んじる気概を持っていたが、直の方と協力し今川勢の一翼を担い、義元に重んじられる良好な関係を望んだ。
妻やその兄、新野親矩を信頼し、七人衆の能力を認めたからだ。

 

こうして、義元は、北条氏の更なる侵攻を防ぎつつ、武田氏との同盟を生かし内政を固める。
また、広忠(家康の父)の庇護を名目に、松平家内紛を終結させ三河を配下にした。
すると一五四一年、北条氏綱が亡くなる。この日を待っていた義元は、河東を占領した憎き北条氏への反攻を始める。
義元は快進撃し、「海道一の弓取り」と称賛されるまでになる。

 

直盛は、義元への臣従の姿勢を貫いていた。
それでも、伏せていた直虎の誕生を義元へどのように伝えるべきか悩む。
今川一門から迎えた妻であり、他に直盛の子が生まれたとしても、義元が了解するはずはなく後継とすることは出来ない。
このままでは、直虎に義元の推す婿養子を迎えるしかなく、井伊家は乗っ取られてしまう。
また、駿府への人質となることを求められ、直の方のような運命となる可能性も大だ。

 

悩む直盛と千賀は、義元の怒りが解ける日まで時間稼ぎするしかないと、姫ではなく男子が生まれた事とする。
直の方の二の舞はさせないと、姫に井伊家の惣領の幼名「次郎」をつけた。
井伊家に後継ありと義元に知らせたのだ。

 

こうして、直虎は少数の腹心だけにしか姫であることを知らされず男子として育つ。
将来、直虎を名乗り井伊家当主となる姫の幼名は、井伊家の嫡男に付けられる「次郎」であり、嫡男として育てられる。
この時代、姫を男として育てるのは難しいはずだが、井伊家には不可思議ばかりで面白い。

 

義元は、直平・直宗への怒りを持ち続けた。
そこで一五四二年八月、井伊氏に三河田原城攻めを命じる。
三河国人、戸田氏は、家康を今川家への人質として駿府に連れていく役目を負ったが、裏切り織田家に差し出したのだ。
義元は、激怒し、戸田氏を滅亡させよ、と檄を飛ばした。
井伊勢には、利のない気乗りのしない戦いだが、城を落とし戸田親子を殺した。

 

ところが、戦い後、野武士の襲撃を受け直宗は義父と甥(伊平氏)と共に殺された。
井伊家中は、義元が命じた死だと悲しみに震えた。
義元は満足そうに、直盛に「井伊家当主とする。今川一門として一層の忠誠を尽くすよう」と命じる。早く直盛を当主とし井伊家の実権を握ろうとしたのだ。

 

直宗の死で直盛が家督を継いだのは三六歳。
直盛は、駿府で暮らした時も長く、今川家中に囲まれて育ち、氏輝が主君であり後継は義元だった。
義元と対立する直平・直宗の動きに心を痛めた。
「(直宗が討ち死にしたのは)父上の油断でもある。自分は用心深く対処し名君になる」と気持ちを新たにし引き継ぐ。

 

直盛は、井伊谷城に戻ると、隠居し時間の余裕のあった直平の教えを直接受け、焦らず、じっくりと情勢を見て、決断し、決めたなら迷うことなく一直線に進む当主としてのあるべき姿を学んでいた。
直平は、井伊家では絶対的な存在で、直盛は自らの考えを述べる事は控えた。

 

四 直虎の父、直盛

直盛が願った直虎に代る嫡男が生まれないまま、直盛は井伊家当主となる。
その時、直虎は六歳。嫡男として、父から武芸・兵法を教わり始めていた。
直盛には唯一のわが子であり、溺愛した。

 

直虎も父の喜ぶ顔を見たくて、父に褒められるのがうれしくて、男子として育つことが面白くて仕方がなかった。武芸も、めきめき上達していく。
この頃は、誰が見ても所作は井伊家後継の嫡男だった。
ただ大きな声は出さず寡黙な男の子として、数少ない侍女・小姓・近習に囲まれ、のびのびと育つ。

 

直盛が直虎の小姓としたのが、同年齢の一門筆頭、中野直由の子、直之。直由の妻や娘も共に仕えた。

 

だが、直盛が家督を継ぐと、次の後継者を家中にも義元にもはっきり示す必要があった。
翌一五四三年、やむなく、直盛は、直虎七歳は姫であり婿養子を迎えて家督を引き継がせると家中に伝える。
ここから、直虎は男子ではなく姫となる。
立ち居振る舞いは、まだまだ男子のようであり、父、直盛はその様子を喜び武芸も引き続き学ばせた。
直虎は姫として扱われ思う存分動けない事もあり、もどかしい思いもあるが、男でも女でも面白さがあり違いを楽しんだ。

 

次いで、直盛は直親を養子とし直虎の婿とすると決め婚約させる。
直親は、直盛の叔父(父の弟)直満の嫡男であり、いとこになる。

 

直宗の死後、直の方と共に駿府で人質として暮らした直盛の母、浄心院が井伊谷城に戻っていた。
浄心院は井伊氏一門、井平直郷の娘であり、直平の妻も直郷の父、井平安直の娘だ。
直平の幼い頃から井平氏は一門筆頭となり軍事力も強大だった。それゆえ、井伊氏を牛耳る義元を嫌った。
義元もよくわかっており、直宗と共に出陣を命じ、直郷も嫡男も戦死した。
幼い井平直成が後継となるが、まだ若く、かっての力はなくなる。

 

浄心院は、直盛と入れ違いに駿府での人質となり、親子で接する時が少なかった。
戻っても直盛との縁は深まらない。直盛は、母や井平氏より妻や新野親矩がより近い親戚に思えていた。
直平も、直宗への影響力があまりに強い井平氏に不満があった。
また妻、井平安直の娘との仲はよくなかった。早熟であり華やかで美しい幾人もの女人との逢瀬を楽しみ、南渓瑞聞や直種などの子が生まれている。伊平氏の影響力が強まるのを嫌い、力をそごうとしていた。
このような状況下で、父と甥、夫を亡くした浄心院は、井伊城に居り場をなくし出家するしかなかった。

 

直盛は、叔父(直平の子)直元を駿府城に送り人質として、義元に仕えさせた。
だが、義元は、直盛の子を駿府で人質とすべきだと未婚の直虎を駿府に送るよう求めた。直虎の将来は義元が決める考えだ。
そして、小野政直に結婚を成功させないよう画策させる。

 

直平の次男、直満は、七人衆の鈴木重勝の娘と結婚しており、今川家との関係も悪くはなかった。
井伊宗家後継に直親が選ばれたことを当然だと思いつつ、鈴木家と共に歓喜した。
次第に次期当主の父としての我儘な発言が目立ってくる。小野政直は、脅威に感じる。

 

直満の弟(三男)直義は、井伊城と行き来しつつ、駿府に詰め義元に仕える。
直親が後継に指名され、自分だけが取り残されたようで面白くなかった。
兄たち(直宗・直満)と同じ母から生まれており、井伊家嫡流の血が流れている誇りがあった。

 

直平は直満と直義に愛情薄く、当主を支える家臣としての扱いで競い合わせ育てた。
直義は父の扱いを不満に思うが、直満と同格に扱われた事は納得した。ところが、急に、直満は次期当主の父として威張りだし、直満に対しても鬱積した思いが起きていく。

 

小野道高は、直義を密かに支援し内紛をあおる。
家中に緊張感が漂うのを確認すると、小野政直は、おもむろに「直満・直義に謀反の疑いあり」と義元に報告する。
義元からの糾弾を受けた直盛は、直宗・直満との諍いが頭痛の種となっていた事もあり返答を延ばした。

 

直満・直義が武田家に通じた事が、謀反の根拠とされたが、当時、今川家と武田家は同盟関係にあり、武田家に通じたとしても直ちに謀反に繋がるわけではない。
ただ、井伊家と武田家が同盟を結んでいるわけでなく、井伊領との国境が明確でないところもあり小規模な領地争いはあった。武田氏が侵攻したと、直満・直義が領地を守る為、防備を固め、それが謀反だとされたのだ。

 

主家同士が、同盟を結んでいても領地をめぐる多少の小競り合いはあり、大きくなれば義元の裁定を仰ぐことになるが、独自での小競り合いも続いていた。
直宗・直満は、本来、直盛の指示に従うべきだが素直に聞くことはなく、自分流の判断で領地を守ろうとした。直盛は、腹立たしかったが黙認するしかなかった。
直盛は「これでは当主としての威厳が保てない」と、直宗・直満を懲らしめたいと思う。

 

小野政直は、義元の指示に嬉々として従い、井伊家中に伝えるのが役目だが、行政手腕もあった。
直盛は小野政直の行政能力を高く評価しており、政直が義元に告げた報告は直盛の意志でもあった。

 

一五四四年末、義元は二人を駿府に呼び出す。二人とも義元への忠誠心に自信があり、身の潔白を証明し、義元の評価を高めようと考え、駿府城に入る。
すると、義元は「直盛に対して謀反を起こそうとした罪だ」と一五四五年二月四日、直満と直義に自害を命じる。「直盛を助ける」との名目で内紛に介入した。二人とも、反論の機会を与えられず死んだ。
続いて、義元は謀反人の子、直親殺害を命じる。井伊家後継とされた直親を殺すことが本来の目的だった。

 

小野政直は、今川氏親から父、重正の功により、今川家縁者を妻にしており、嫡男、政次が生まれている。
政次が直虎の婿となる可能性もないことはないと、かすかに期待した。
後の事だが、政直の次男、朝直は奥山氏の娘を、その弟、正親には松下氏の娘を妻に迎えている。
政直は、井伊家一門となり、奥山氏・松下氏と手を携えて家中に深く根を張ろうとしていた。
家中の大勢を敵にするようなことをするはずがない。直盛の無言の了解があったのだ。

 

直虎も父が当主になって以来、小野政直・政次・朝直と再々顔を合わせ、身近にいる忠実な家臣と思う。

 

直虎は、井伊谷城の南東麓になる屋敷、井伊城で元気に育ち、時には井伊谷城の山頂部に登り、物見台から城下を見た。
井伊谷が大好きで、活発な武芸にも秀でた姫だった。

 

五 直虎と直親

父、直盛の命令で、直虎七歳は、直親八歳と婚約した。
直虎を駿府への人質にしたくなく、直の方のようになることを拒否したのだ。

 

直親は「次期、井伊家当主」と決まっても我が事とは思えない。一族の歓喜ぶりを見て、責任の重さを感じその任はふさわしくないと恐れた。
井伊谷城山麓の井伊城本丸内に、直親の屋敷もあり直虎の屋敷と近いが、当主の屋敷とは格が違い煩雑に行き来することはなかった。その為、直虎と親しく顔を合わせる機会は少なかった。

 

婚約の儀式を済ませると、直盛は再々、直親を呼び、直虎と会わせた。
だが、直親は、直盛の前ではおとなしいばかりだった。また、井伊家を引き継ぐ気概に満ちた直虎には圧倒されるばかりで、伴侶となる結婚相手とは思えず、主君と家臣の関係のままだった。気安く話す事ができず、会うのも気が重かった。

 

直虎は、父を継ぐのは自分だと思っており、直親との結婚はまだしも婿養子として当主に迎える事には納得できない。
その為、直親との対面は面白くなかった。
また、直親はぎこちなく直虎を見上げることが多く、物足りない。

 

直平の薫陶を受けた直盛は、井伊家御曹司として大切に扱われ、直満と直義との親しい関係はなかった。直虎も、直満と直義をただの一門衆に過ぎないと思っていた。
直盛は直親を引き取り直虎と共に育て、婿入りで始まった井伊家初代と同じ道を歩まそうとした。
だが、直満は、直親を直盛に渡すことに積極的ではなく、直盛の元に呼び出しに応じて連れていくだけだ。
その為、直盛は直親を引き取ることも、思うように帝王教育することも出来なかった。

 

直平も、直満と直義を家臣と見なしており、直盛の決断に賛成できなかった。
直虎には今川家一門から婿を迎え、今川家重臣として、高い地位を目指すべきだと考えていた。

 

直虎と直親が、度々対面するようになって二年が過ぎた。
その時、義元により直親の父は殺され、直親の命が狙われる。

 

直盛は、予想外の進展に驚きながらも、一〇歳の直親を殺すことは許さないと逃がす手はずを整える。
直親は、守役の直満家老、今村正実や近習に守られて危機一髪で、屋敷を脱出し、逃げた。
まずは、東光院(浜松市北区引佐町渋川)に行く。

 

直親の逃亡先を見つけるよう命じられた叔父、南渓瑞聞が、弟子、能仲和尚に頼んだのだ。
和尚は、新野親矩の弟だ。
直盛は直宗・直満の粛清は予期したが、予想以上の仕打ちに義元の井伊家への根強い不信感に驚く。だが、直親を殺す事は許さないと強く決意する。

 

東光院に直親を届け、直満家老、今村正実は「直親様は亡くなった」と公表する。信じたものは少ないが。

 

井伊家当主の母になる幸運に酔いしれていた直親の母も、奈落の底に落ちた。夫は謀反人となり、子は亡くなり、婚家、直満家は断絶したのだから。
あまりの不幸に気が動転し正気を失うが、直親の無事を確認すると、父、鈴木重勝に促され、実家に戻る。
心中は、このようなことは許されない。必ず再起を図り、直満の無念を晴らし直親の命を守り次期、井伊家当主とするとの思いが渦巻く。
今村正実にどのようなことがあっても直親の命を守るようにと、気を強くして命じる。
あまりの幸運に酔いしれて甘えがあったと思うが、悔しくてならない。

 

直親の母は、井伊谷三人衆の一人、井伊家重臣の鈴木重勝の娘。
鈴木氏は、鎌倉時代末頃、三河国加茂郡矢並郷(愛知県豊田市矢並町)に在地した。
室町時代に入ると、矢並を本拠として加茂郡一帯に勢力を広げて、三河西北部の有力国人となった。そして、寺部(豊田市寺部町)、酒呑(豊田市幸海町)、足助(豊田市足助町)などの諸家に分かれた。
酒呑鈴木家を率いる鈴木重勝が今川氏に属し、井伊家に付けられ井伊家重臣となったのだ。
直平は、鈴木重勝を評価し娘を直満の妻に迎えた。
直満と共に、井伊家一門として井伊家を支えるようにとの思いからだ。

 

逃亡した直親を見守る役目を担うのが、直平の庶子、南渓瑞聞。
妻、伊平氏をはばかり生まれて間もなく僧とした。非常に優秀で、井伊家菩提寺、龍潭寺を任せるのにふさわしい僧侶となる。高僧として慕われつつ、種々の人脈繋がりを築いていた。
南渓瑞聞と直親の間を行き来し取り次ぐ役目を、直親の母の願いで弟、鈴木重時が担う。
重時は、奥山朝利の長女(直親の妻の姉)と結婚したばかりだった。

 

奥山氏は、奥山郷に高根城(久頭郷城)を築いて以来、領地に近い独立性の強い下伊那(長野県下伊那郡)の有力国人と親しくした。
また、奥山朝利は、妹婿、新野親矩と強く結びつき、次いで、次期当主、直親との関係を深めたく、長女と直親母の弟、鈴木重時との結婚を実現させた。

 

今川義元は、直親を殺すと決めており、命じられた小野氏は追及の手を緩めない。東光院で直親を隠し通す事は難しくなる。
そこで、南渓瑞聞は、直満の旧臣や直親の母の実家、鈴木氏などと直親の今後をどうするか協議する。
直親の逃亡先に、鈴木重時が奥山氏と親しい下伊那の有力国人、松岡氏の菩提寺、松源寺(長野県下伊那郡高森町)を推す。
同じく、南渓瑞聞も、師、文叔端郁禅師開基の松源寺を推す。
下伊那で勢力を誇る松岡氏。この時の当主、松岡城主、松岡貞正の弟が文叔端郁禅師だった。

 

また、直平・直盛も、松源寺を薦めた。
直平の父、直氏が文叔端郁禅師に帰依し井伊谷に招き菩提寺、自浄院を禅宗に変え住職として以来、深い縁があった。
続いて、直平が深く帰依し、南渓瑞聞を京都妙心寺住職となる文叔端郁禅師の元で出家させる。
そして、文叔端郁禅師の弟子、黙宗瑞淵を自らの菩提寺、龍泰寺(元の名が自浄院。後の名が龍潭寺)の開基住職に迎えた。
直平・直盛は、文叔端郁禅師を厚遇し、松岡氏との付き合いも長く続けていたのだ。

 

松岡貞正も、井伊家の厚遇を忘れておらず、喜んで直親を受け入れた。
こうして、直親主従は、能仲和尚の先導で松源寺に逃げ、領主、松岡貞正に庇護され暮らす。

 

直親との連絡を受け持つ鈴木重時。
だが、三河が本拠であり、この地は、織田勢と今川勢とのせめぎ合いが激しくなり義元の目が厳しく光っていた。
下伊那は地理的にも遠く、逃亡者、直親の元に再々行くことは難しくなる。

 

ここで、重時の妻、奥山氏長女が代わりに兄、朝宗を推し直親の母も納得する。
こうして、朝宗が直親を励まし必要なものを届け支える役目を懸命に努める。
直虎の父、直盛は南渓瑞聞から詳細な報告を受けつつ、仕送りを続け、直親が不自由なく暮らせるよう取り計らう。

 

六、直親の裏切り

一〇歳だった直親は、松源寺で成長していく。
下伊奈の国人、松岡貞正は信濃守護に属したが、強い主従関係ではなく、独立性を保っていた。
直親も当初は緊張したが、将来の井伊家当主として敬われ、心落ち着ける。そして、屈託なく学び武芸を磨き、成長する。
今川方の追手が来ることはなかった。

 

それでも、故郷を離れ、将来井伊家当主となる為の情報や重臣との繋がりを築けず、井伊家を率いる事が出来るかどうか不安に襲われることもある。
しかも、直虎からの便りはなく、養父、直盛からも温かい励ましや学ぶべきこと、これから起こりうることなど何も知らされない。直盛の眼鏡に叶っていないのではないかと胸騒ぎする。
また頼みとした鈴木家に居る母からも、便りはあっても具体的に当主への道筋を知らせて来なかった。
反対に、鈴木氏は、筆頭家老、小野氏の専横を防げず、追い込められているようだった。

 

やるせない思いでいらだつ直親を慰めるのは「青葉の笛」。芸術的素質のある直親の上達は早かった。笛を奏でると、待つ事の恐怖心が薄れる。
文武両道を備えた武将となるが、松源寺内での住まいであり「自由のない、囚われの身でしかない」と、時には、自暴自棄に陥り、周囲に当たり散らす。

 

心を癒す女人が必要だと今村正実は松岡氏に願うと島田村(長野県飯田市松尾)代官、塩沢氏の娘、千代が推され仕える。
直親は、女人との愛を知り、千代と過ごすことが増える。吉道と高瀬姫の一男一女を儲ける。

 

武田氏が侵攻してくる。一五五四年、下伊那の国人衆は敗れ、降伏し、従属する。
松岡氏は武田氏から監視され、謀反人の子であり今川領に属する井伊氏の後継、直親を庇護するのが困難になる。

 

直親は、一九歳。松岡氏の置かれた状況がよくわかった。
武田家と今川家は同盟を結んでおり、義元から追われる直親は歓迎されない客人だ。
松岡氏には大恩があり、迷惑をかけたくなく早く自立したいと願う。

 

松岡氏が武田氏へ降伏してまもなく、父の仇、井伊家筆頭家老、小野政直道高が亡くなったと伝わる。
そして、直盛による直親を井伊谷に戻す計画が進んでいる、とのうれしい知らせが届く。

 

直親は期待と不安で、居ても立っても居られない、浮足立った状態になる。
こんな時、頼りになるのが奥山朝宗だった。
朝宗は「必ず当主になれます」と励まし、「まもなく井伊家に戻れます。今しばらく辛抱されるように」と言い続けた。朝宗の言葉が胸にしみた。
「当主になれなくてもいい。井伊家に戻りたい。必ず戻る」と自身に言い聞かせ、騒ぐ心を押さえる。

 

翌、一五五五年、ようやく直盛の許可を得て松源寺を出る。一〇年の逃避行は終わった。
まず、向かったのは、東光院。ここで直盛や井伊家重臣の意向を探り、安全を確かめるのだ。

 

東光院で、待っていたのは朝宗の末の妹、ひよだった。
塩沢氏の娘、千代には時期が来たら井伊谷に呼ぶと伝えて別れたが、その思いを忘れるような清楚な美しさで、じっと静かに控えていた。

 

奥山朝宗は、直盛が直親を娘婿養子にすると公にしたことは、養子にするとの表明だと考えた。
直虎は、義元の人質となることを嫌い、仏門に入り、復帰する時期を待っている。
それは、今現在は、井伊家の家督相続から外れている事を意味した。

 

つまり、直親は直虎と許嫁だが、兄妹でもあると言える関係になるのだ。
直親が、直盛の養子となり直虎の兄となれば、妹、ひよと結婚しても、後継になる可能性はあるはずだ。

 

朝宗の父、朝利は、新野親矩が井伊家の目付として井伊谷城入りをした時、積極的に近づき、共に井伊家を支えようと持ち掛け、妹との結婚を実現した。
長女(朝宗の姉)は、直親の母の弟、鈴木重時に嫁いだ。当時、鈴木氏は小野家に匹敵する井伊家家老だ。
次女は、中野直由、嫡男の直之に嫁いだ。
三女は、小野政直次男、朝直に嫁いだ。
朝利は、井伊家の中枢を押さえ、直親と末の娘、ひよが結婚すれば完璧だと願い実現した。

 

朝宗は、東光院に落ち着いた直親に「直虎様は仏門に入り井伊家を継ぐ意志はない。とはっきり言われた」と告げる。
直親も、隠棲中の直盛・直虎の対応を思い出し、朝宗の言葉を噛みしめる。
苦しい逃避行だったが、父や妻になる人からの励ましはなかった。家臣も少なく力を奮う機会も与えられず悶々と過ごすしかなく、直盛・直虎に見捨てられたのだと思う。

 

直親は、ひよを見つめ、新しい道に踏み出そうと決める。
ひよを抱き深い契りを結ぶ。ひよは、東光院での居候の身の心細さを癒し、井伊谷で生きる希望を与えた。

 

この報は、すぐに、直盛にもたらされた。
激怒した直盛は直親に「井伊谷城には入れない。祝田(浜松市北区細江町)の屋敷に住むように」と命じ、信頼する松下清景を直親に付け、取次役家老とし監視させる。
直親は、ひよと結婚式を執り行い、千石の家臣としての禄を与えられ暮らす事になる。

 

直虎にも、直親の裏切りの報が届く。
父は、直虎との結婚は当主としての命令であり、必ず直親に守らせると話す。
にこやかにうなずいた直虎だが、心中、義元・小野氏親子・奥山氏父子を思い、井伊家は難しい局面に入ったのだと覚悟する。
何があろうと父と共に生きると誓う。

 

主君が命じた結婚を承諾しながら別の女人と結婚するなど、ありえない不思議があるのが、井伊家だ。