二都物語序章
畔井遠
約 1609
新しい商売を始めようと正太郎が思いたったのは夏が盛りになろうとする七月はじめの独立記念日の喧噪のあとだった。
商売を始めるとなるとまずはパートナーを選ばなければならないのだが、正太郎はずっと前から仕事のパートナーはパリ時代からの友人室戸富美男と腹の中できめていたから迷うことはなかった。したがってあとは実行に移せばよいのだ。実行とはもちろんバスチーユ広場と植物園の中間にある室戸富美男のアパートに電話して正太郎の新計画を伝えることである。そこで正太郎はさっそく室戸富美男に電話することになるのであるが、まてよ、この新企画をどう呼んだらよいのだろうと迷ってしまった。商売では軽すぎる。事業と呼ぶには正太郎の企画は規模が小さすぎる。ビジネスというとなにやらキザではなかろうか。仕事? 仕事というとこつこつ内職をやったり工場で働くようで焦点が合わない。えい、ままよ、たとえ規模は小さくても事業と呼ぶことにしようではないか。企画の背後にある緻密な理論、将来の発展へのたしかな実感を考えるとこれは事業と呼んでもよろしいのではあるまいか。
決着がでたところで正太郎は受話器をとった。
「室戸君かい。ぼくだよ、ニューヨークの正太郎だよ」
「正太郎さんですか。これはめずらしい。ごぶさたしてますが、正太郎さんはお元気なんですか」
「目下、元気百倍だね」
「元気百倍とはうらやましいですね。こっちは相変わらずの胃痛でね。しかし、元気百倍とはあやかりたいもんですね」
「室戸君、そのことでデンワしたんだよ。ぼくの考案した新事業のアイデアをきみに聞かせたくてデンワしたんですよ」
「新事業ですか。聞かせてください」
「事業の内容をくわしく話すまえにまずわれわれの事業の背景となる精神を話さなければならん」
「精神ですか」
「きみにはいう必要もなかろうと思うが、精神というのは事業を始めるに際しての信条というものであって、それは顧客に誠意を尽くすということなんだ」
室戸富美男は「はあ」、といった。
「富美男君、僕のいわんとすることは顧客に誠意を尽くせば事業は必ずや盛りあがり、将来まちがいなく長期の利益がころがりこんでくるということである」
「つまり、われわれの誠意が生きるような職を選ぶということですね」
「まあ、そうともいえる」
「ところで、なにを始めるかもう決まっているんですか」
正太郎は黙ってしまった。なにを始めるかということについてはなにも決まっていないのだ。
すると、富実男がいった。
「正太郎さんの事業の精神を生かすには運送屋が最適だと思います」
室戸富美男がきっぱりそういったとき、正太郎はそれは少々困ると思った。富美男は胃弱であおい顔をしているくせにいやに腕っぷしが強いから、運送屋を始めたらたまにはトラックのうしろにぶら下がってみせようというつもりかもしれんが、それはあんまり気がすすまんぞ。富美男に運送屋の件を切り出させたのはちょっとうかつだった。正太郎は長方形の大きな机が置かれているようなオフィスのなかで一日中威厳をもって仕事ができるような事業がやりたかったのだ。事業の内容を決めるまえに事業の精神だけを富美男につたえようとしたのがまずかったというわけだ。正太郎としては事業の精神をつたえれば富美男がかんたんに業務をえらんでくれると考えていたのだ。事業の精神を創造するのは困難な作業であるが職種を決めるのは平凡なことなのだから。
正太郎が室戸富美男に事業の精神をつたえようと決めたのはもう三年も前、パリにいたころのことなのである。