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秀次と殺された女(ひと)

だぶんやぶんこ


約 27741

秀次を愛し信じ、共に散った女人。
彼女たちの名誉の為に、氏素性を推察し大胆に解き明かし綴る。背後にうごめく人々がいたことも。

 

 

一 秀次の限界

二 処刑女人三四名

三 若御前と結婚の頃

四 近江八幡四三万石藩主の頃

五 聚楽第に屋敷を得た頃

六 尾張百万石藩主の頃

七 関白、秀次

八 秀吉からの監視役

九 家康に縁ある女人

一〇 秀吉を怒らせた女人

 

 

 

一 秀次の限界

秀吉の甥(姉の嫡男)秀次は、秀吉とは違い物心着いた頃から恵まれて育ち、歴史ある他家の養子となり大切にされた。

養子先で学ぶことの面白さを知り、日本文化の奥深さに感動し、生涯学び続け庇護者となる。

 

成長し、文化の薫りが漂う高貴な御曹司となる。

戦いよりは文芸や雅楽・雅楽器など伝統芸術が好き、酒宴が好き、能に興じるのが好き、愛を語るのが好きだった。

戦いで疲弊した京の文化の現状を目の当たりにし心を痛め、復旧に尽くし日本文化の復活と継承に心砕く。

 

ただ、秀吉の家系には珍しく子達に恵まれた。

嬉しくて、子たちの為にも、豊臣家を守り継承する気概を持つ。

そして、秀吉が敷いた道を歩き続け、殺される。

 

一五八二年、一四歳。秀吉が決めた池田恒興の娘、若御前と結婚。

以来、秀次は義父に全幅の信頼を置く。だが一五八四年、小牧長久手の戦いで義父の策で戦い、みじめな敗北をした。

恒興は責任を取るかのように戦死。

秀吉の怒りは激しかった。崇拝する秀吉の言葉に恐怖し「負ける戦いは二度としない」と深く決意する。

恒興の勇み足で家康に打ちのめされたと恨み、若御前との仲も冷える。

 

一五八五年、十七歳。近江四三万石藩主となる。

大大名となった喜びに震えながら、旧勢力を取り込み近江の更なる発展を目指す、名君だった。

それは、臣従を申し出た武将が引き連れる女人を召抱える事に繋がる。

 

一五八八年、二〇歳。秀吉の政庁、聚楽第が築かれ、秀次も聚楽第内に屋敷を築く。

秀吉の求めで聚楽第に詰めることが増える。

京と国元に屋敷を持ち、それぞれに奥を持つ。

聚楽第屋敷での朝廷公家との付合いが増え、もてなす才媛が必要となる。

 

一五九〇年、二二歳。尾張・伊勢北部を加増され百万石大大名となり清洲城に入る。

ここで、より大きくなった居城の奥に新たに侍女を召抱える。

海外に目を向ける秀吉に代わり、国政に関与していき、藩政に力を注ぐことは減る。

 

一五九二年、二四歳。秀吉後継の関白となる。

聚楽第の主となり、得意絶頂の時だ。

次期天下人と縁続きになりたいとさまざまな武将・公家が、才色兼備の女人を連れて集まってくる。

 

秀次は関白職を懸命に努め一族一門・家臣の信頼を得ていく。

秀吉に成り代われると自信をつけたとき、秀頼が生まれる。

秀吉は秀次が有力諸大名や側近に踊らされていると恐怖心を持つ。

 

天下人、秀吉なら彼らを抑え思うように支配できるが、秀次に彼らを抑える力はないと見る。

秀次は、彼らの意見に耳を傾けうなずいてしまう弱さがあった。

 

秀次は、次第に自身で裁定する政務を増やしていく。

秀吉の判断を仰ぎ指示に従うのが苦痛になり、重臣や信頼する大名と国政に関わる。

秀次の動きを見て秀吉は、秀頼の為に自身で秀吉・秀頼を頂点とする統治体制を作るしかないと決意する。

秀次が秀吉政権を破壊するのが、目に見えたのだ。

 

二 処刑女人三四名

秀次御殿の奥は、知的で美しい女人であふれていた。

秀次は、あふれ出る精力に恵まれ多くの子が生まれ愛の秘め事が楽しくてならない。

秀吉は、嫉妬し秀吉の配下から脱していく秀次を謀反人として処罰する。

 

秀吉政権を守るための決断だが、結果は、歴史の証明する通り、秀吉政権の崩壊を早めた。

それほど、秀次を信奉する者が多くいたのだ。

 

子達を除いて処刑された女人は三十四名。

最後の情報は錯そうしている。

急に決められた処刑者だった為、側室と侍女の明確な違いも判らない状況での処刑だった。

それゆえ、後世に残る書物もあいまいな表現になる。

 

一六二五年頃の小瀬甫庵作の『太閤記』では処刑名簿に入っているが、一六一一年、建立の瑞泉寺に残る『京都瑞泉寺縁起』には名のない女人がいる。

逆に瑞泉寺の名簿にある女人でも他には記載されていない女人もいる。

一六〇五年頃の太田牛一作の『太閤さま軍記のうち』とも違いがある。

 

太田牛一は信長・秀吉を賞賛するよう秀吉の意向で書いたが、徳川の世でも受け入れられるように書く。

小瀬甫庵は史実より小説としての面白さを狙い、虚構が多い。

瑞泉寺は幕府の了解を得て建立された秀次を弔う寺であり、秀次らを悲劇の主人公とすべく由緒書きを作る。

 

他にも秀次に関する記述はあるが、共通するのは、江戸幕府下で生きる縁者等に配慮し氏素性を分かりにくく記した事だ。

 

三 若御前と結婚の頃

秀次の女人遍歴は、大坂城下に屋敷が築かれ、若御前を妻に迎えた時から始まる。

秀次屋敷の奥は、女主となった若御前が引き連れた老女と秀吉が付けた老女とが仕切る。

 

妙心尼、六七歳。(氏素性不明)

臨済宗大本山、妙心寺(京都市右京区)の僧、普心の妻で夫亡き後、池田恒興に仕え若御前に付けられた。

恒興が篤く帰依し旧知だった。

後に、恒興の墓所、護国院・若御前の姉の墓所、天球院などの塔頭が池田家により建立される。

 

秀吉も妙心寺を庇護しており、人生経験があり教養深い妙心尼を歓迎した。

神社仏閣縁者は、学識があるも権力からは一線を引いており侍女として最適だった。

 

妙心尼は、若御前に仕え秀次の奥を作っていく。

若御前と秀次が疎遠となった後も、奥で力を持ち続け若御前の身代わりになり処刑。

 

妙心尼が奥で力を持っている限り、池田家は秀次との縁を保ち情報を得た。

だが、処刑後、池田家は秀次と疎遠であり妙心尼との縁はないとする。

 

左衛門の後(こう)、三七歳。父は河内国、岡本彦三郎。(氏素性不明)

津島神社神官、岡本氏は、軍事力・経済力を備えた津島衆(愛知県津島市)の有力者だった。

津島神社と熱田神宮の神官は相互に結婚を繰り返し繋がりが深い。

熱田神宮の刀鍛冶、関氏に生まれた秀次の祖母(秀吉の母)なか・母、とも、と縁のある家系だ。

 

津島衆は信長配下となり岡本一族も従う。

嫡流、良勝は信長三男、信孝家老となり、庶兄、彦三郎は秀吉に仕える。

秀次の三好家への養子入りに従い譜代の臣となる。ここで河内出身とされる。

小牧長久手の戦いでは鉄砲隊を率い果敢に戦い、秀次の信頼を得た。

 

娘、左衛門の後(こう)も、秀次の侍女となり、結婚後は若御前に仕える。

琵琶・ 琴の名人であり貴人の接待や、歌書の師として奥の侍女の教育係を務める。

秀次が成長すると性の手ほどきもする程信頼されたが、処刑。

 

良勝は秀吉側近であり、左衛門の後(こう)との縁はないとする。

 

おいま、四二歳。父は近江国、高橋氏。(氏素性不明)

秀吉家臣に近江志村城(東近江市新宮町)を居城とし名とした志村氏がいる。本姓は高橋氏で祖は六角氏。

 

志村氏は近江守護、六角氏に従い信長と戦い敗北、次いで一向一揆勢に加わり信長と戦うがまたしても敗北。

その後、野に潜んだが、秀吉に見出され召し抱えられた。

秀吉は浄土真宗に対し寛大であり、浄土真宗を深く信仰する志村氏は思う存分働き、秀吉は引き立てた。

そして若き秀次に付けられ、秀次譜代の臣となる。

 

志村氏は秀次守役となり、おいまら一族も仕えた。

おいまは才知に溢れ奥で頭角を現し、処刑。

志村氏の名は隠され高橋氏の名で残る。

 

彼女らは秀次の奥を仕切った自負を持ち主家・実家に果たした役割を誇った。

精一杯働いたと悔いなく死ぬ。

 

おわこの方二二歳。美濃衆、日比野下野守清実(きよざね)の孫娘。(氏素性は不確か)

日比野氏は清和源氏、義光から始まる。源氏の嫡流、頼朝の曽祖父、八幡太郎義家の弟の家系だ。甲斐、武田氏・佐竹氏と同族になる名門だ。美濃斉藤家の家老だった。

 

一五六一年、美濃斎藤家当主、義龍の急死で混乱する美濃を乗っ取ろうと、信長勢が攻め込んだ。

美濃勢を率いる大将が、清実(きよざね)。だが、迎え討った森部の戦い(岐阜県安八郡安八町)で討ち死。

おわこの方は娘ともいわれるが一五七三年誕生は不可能。

 

日比野一族は尾張春日井郡(愛知県春日井市)を領し信長に仕える日比野六大夫を頼り逃げる。

日比野六大夫は木曽川沿いに勢力を持った川並衆で秀吉の盟友、蜂須賀正勝と親しく、喜んで迎えた。

仕える主君が斎藤家・織田家と敵味方だったが、親しい仲であることに変わりはなかった。

日比野一族は蜂須賀正勝に推され信長・秀吉に仕える。

 

秀吉は、家柄がよく池田家とも縁がある日比野氏一族を若御前に付けた。

付き従った幼いおわこの方は、個性的で華やかな女人に育ち秀次の心を射止める。

嫡男、仙千代丸の母となる。

 

三条河原に引き出された時も、秀次嫡男の母として堂々としていた。

子と共に処刑。

 

秀次の後継を生んだ時、日比野家は、かっての栄華が再び巡り来ると喜んだが、その時は短かった。

父、日比野下野守(清実(きよざね)の子)も自害。

 

四 近江八幡四三万石藩主の頃

秀次一七歳は近江国(滋賀県)に四三万石(付家老分二三万石)を得る。

ここから、大大名家に相応しい秀次家臣団が作られていき、奥も華やかになる。

秀吉の偉大さに目を見張り、近づきたいと張り切る頼もしい若大将だった。

 

おあやの方三十歳。父は浅井土佐守。(氏素性不明)

近江を支配した浅井家の分家に近江国坂田郡大野木(滋賀県米原市山東町)を領し名とした大野木土佐守政秀がいる。

室町幕府将軍、足利一門、六角家嫡流は信長に敗れ滅亡するが、庶流に六角義郷(よしさと)がいた。

義郷(よしさと)家老、大野木政秀がおあやの方の父だ。

 

義郷(よしさと)は母が織田氏だった為、信長は気に入り、将軍、義昭の後継にしてもよいと召し抱えた。

だが信長は死に、夢破れ、秀吉に仕える。

 

秀次が近江藩主となると義郷(よしさと)は秀次に付けられ政秀も従う。

地の利のある義郷(よしさと)に、新藩主、秀次が円滑に領地支配する為に働くよう命じた。

義郷(よしさと)主従は近江八幡藩政に貢献し、秀次は名君と称される。

 

秀吉は義郷(よしさと)の働きを認め「(秀次の為に)良い人選だった。これからも頼む」と褒めた。

義郷(よしさと)は秀次与力となり、政秀は娘、おあやの方を近江八幡城の奥に仕えさせる。

若御前の侍女として八幡城に入るが、秀次が見初め側室となる。

 

六角氏再興を目指す義郷(よしさと)の企てだった。六角氏は権謀渦巻く近江で長く力を持ち女人の果たす力を熟知していた。

政秀も、おあやの方の功で浅井家を再興できると希望を持つ。

この時点で、おあやの方は六角家・浅井家の希望の星だった。おあやの方もその期待に応えたいと秀次に尽くす。

だが、子は生まれず年上でもあり次々迎えられる女人に道を譲り、奥のまとめとして才知を発揮していく。

 

そして処刑。

六角義郷(よしさと)は改易。父、政秀は義郷(よしさと)と共に出家。

 

右衛門の後(こう)三四歳。播磨国、村井善右衛門の妹。(氏素性不明)

近江、村井家に繫がる家系で、加賀藩前田家家老の村井氏と同族でもある。

 

母が織田一族の村井貞勝は、信長の全幅の信頼を得て京都所司代となる。

信長の意に沿い京の行政を執り仕切り、多くの権益も得た。

信長は働きを褒め、我が子(庶子)を預ける。その子は名を重勝とし貞勝嫡男となる。

こうして信長と深く結びついた村井貞勝親子一門は本能寺の変が起きると、大恩ある信長と共に戦う。

続いて、二条御所に篭り信長嫡男、信忠と共に戦い、村井家嫡流はことごとく討ち死にした。

信長の血を受け継ぐ重勝だけを二条城から逃がし、後を託した。

重勝は武将を捨て、見性寺を開基し織田家・村井家を弔う暮らしを選び、秀吉も庇護する。

 

また、一族の村井善右衛門は、信長死後、秀吉に仕え近江出身であり秀次に付けられた。

秀次の子が生まれた時、重勝は乳母を頼まれ村井善右衛門の妹、右衛門の後(こう)を推した。婚家は播磨国だ。

 

村井貞勝の娘は秀吉子飼いの武将、福島正則の弟、高晴と結婚しており深い縁がある。正則も推し乳母となる。

右衛門の後(こう)は、乳母として才を発揮し奥に力を持つ。

そして処刑。

 

お松。右衛門の後(こう)の娘一一歳。

秀次の子の乳母となる時、引き連れた。

ゆくゆくは秀次に仕えさせる意図はあったが、まだ幼かった。母と共に処刑。

 

お万の方二二歳。父は多羅尾彦七。(氏素性不確か)

実は、甲賀郡信楽庄(滋賀県甲賀市)多羅尾の国人領主、光俊の孫娘。

 

多羅尾氏は鎌倉時代末期、関白近衛家平の弟、経平とこの地の娘との間に儲けた師俊(もろとし)から始まる。

甲賀は京と伊勢を結ぶ道筋にあり、関白家の血を引く多羅尾氏は伊勢参りする将軍・公家らの警備を担う。

武力が必要となり次第に強大な軍事力を備え、近衛家から信楽荘の管理も任され財政も潤い、甲賀武家の中心となる。

 

近江守護、六角氏に従い、忍者の頭領として有名だ。

六角氏が室町将軍と敵対した時、多羅尾氏が中心となりゲリラ戦を展開し幕府軍を翻弄し、甲賀の名が世に広まった。

以来、五三ある甲賀武家は、高度な武器を持ち変幻自在な戦いで勝利を重ねる。

だが、時代を経て六角氏は信長に敗れ、やむなく、多羅尾氏は信長に仕える。

 

そして、本能寺の変。多羅尾一族は熱心に誘う光秀に与するのを拒否した。

その時、家康は信長に命じられ世話する長谷川秀一らと共に、大坂堺に居た。

長谷川秀一は家康を守ると決め、配下の多羅尾光俊の三男、山口光広に「無事三河に送り届けるように」と命じる。光広はすぐに父、光俊に伝える。

光俊は一五〇名あまりの甲賀忍者を出し逃避行に従う。家康主従を守り領地、信楽に迎え先導し光秀勢が渦巻く中、伊賀越えを成功させた。

伊勢湾に面する白子 (鈴鹿市)で船に乗った家康は「助かった。命拾いした」と心から光俊に感謝し生涯忘れない。

 

多羅尾家は、信長死後、秀吉に仕え近江を治めた秀吉配下の浅野長政に従い、長政を引き継いだ秀次の配下となる。

故郷近くで最初の養子先、宮部家のある近江を与えられ、胸震わす秀次は熱心に領内の視察を行なう。

その時、多羅尾城に立ち寄る。

光俊は丁重に迎え、孫娘、お万の方を接待に出し「殿に仕えさせたい」と願う。

先見の明のある光俊が、秀次の将来を見越して考えた策だ。

 

秀次が目を見張るほどの引き締まった美貌のお万の方は、近江八幡城に入り側室となる。

実家の期待を背に受けて懸命に秀次に仕えた。

こうして秀次愛妾、お万の方の実家、多羅尾家は、出世し八万石あまりを動かす力を持つ。

光俊は秀次が秀吉後継となると確信していた。

 

だが、秀頼誕生後、光俊は秀頼に傾き秀次から離れていく。

そこには、家康からの助言があった。

秀吉と秀次の二頭政治を助長し秀吉の力を削ぐ事を画策していた家康は、お万の方が光俊の孫と知り近づいた。

お万の方は処刑。

 

多羅尾一族は、ことごとく連座して改易だ。

だが、家康は、光俊ら一族を領地、信楽に蟄居するという軽い罪とし守る。

 

秀吉没後、家康はすぐに召し出し旗本にし、関ヶ原の戦い後、代々の領地であった信楽七千石余を与え、その後、天領代官に任命し十万石を動かす力を持たせた。

 

五 聚楽第に屋敷を得た頃

秀次は二〇歳。秀吉に仕え、豊臣家を背負う喜びと、希望に燃えていた。

そこには、秀次との愛をはぐくみ、功を成し遂げた女人がいる。

秀次との恋に身を焦がし勝利者となった女人が、愛する人と共に処刑されるのは本望だ。

 

一の台、三三歳。父は秀吉に重用された公家、今出川(菊亭)晴季。(前夫の氏素性不確か)

三条河原で子たちに続き、真っ先に処刑され秀次正室と見なされる。

近江八幡城を動かない若御前に代わり、聚楽第の屋敷の女主となった絶世の美人だ。

 

母は武田信玄の異母妹、菊姫。

信玄に追放された父、信虎が駿河で儲けた姫で、今川家で育つ。桶狭間の戦いの直前に今川義元が菊亭晴季への嫁入りを決め、義元死後嫁ぐ。

今川氏が激変する中での嫁入りだが、今川家の力はまだあり菊亭晴季には待ち焦がれた結婚だ。

一の台・弟三人・妹二人が生まれる。

成長後、一の台は叔父、信玄の妻が三条家出身だった縁で三条家庶流、三条顕実に嫁ぐ。

 

信長死後、菊亭晴季は秀吉の関白就任を推し進め実現した。その功で豊臣家と朝廷を繋ぐ役目、武家伝奏に抜擢され重きをなす。

一五八六年から関白、秀吉の政庁、聚楽第築城が始まると朝廷の使者となり加わる。

築城の責任者は秀次・秀長だ。ここから秀次との付き合いが始まる。

 

晴季は、屋敷に秀次を招き、夫と死別し実家に戻っていた一の台に引き合わす。

洗練された怪しい魅力を持つ一の台が心を込めて接待し、秀次は圧倒されながらも惹かれる。

秀次は年上の、男扱いに慣れた一の台との逢瀬で、至福の愛に目覚める。

そして聚楽第の屋敷が完成すると迎え入れた。

前夫との間に生まれたお宮の方を連れての再婚だ。

秀次との間に二人の姫が生まれ、長く共に過ごす伴侶となる。

 

菊亭晴季は娘の後押しで朝廷内でより強大な権力を持つ。

家康は、秀次に影響力を持つ菊亭晴季との結びつきを強めようと近づく。

 

一の台は処刑。

菊亭晴季の態度を苦々しく思っていた秀吉は、連座責任を問い流罪とする。

だが朝廷との取次ぎ役、菊亭晴季に替わる者はなく朝廷・家康の強力な求めで仕方なく許す。だが勢いはなくなった。

 

家康は、秀吉死後すぐに、晴季の官位を戻し、かっての権威を取り戻させる。

家康との友好な関係を物語る。

 

おみやの方十二歳。一の台の娘。

一の台は、秀次より年上であり秀次の愛が長く続くとは思わず冷めていた。

男子が生まれなければ、我が身に代えて娘を秀次に仕えさせ、男子誕生を願う。

おみやの方は、母と同罪だと処刑。

 

おつまの方一五歳。父は四条隆昌。母はお茶々。(詳細は不明)

四条家は平安時代末から続く公家。

一五六七年、嫡流が絶え養子を迎える手続きを進めたが、お披露目等々の費用が用意できず断絶していた。

 

翌年、信長が京を制し、義昭を将軍とし強力な政権を築き始めた。

信長は秀吉を京都奉行とし京の治安を維持し支配権を確立するよう命じる。

そして、公家、山科言継(やましなときつぐ)・冷泉為益を重用する。

 

言継(ときつぐ)の母は、今川義元の母、寿桂尼の姉だ。

資金に窮した朝廷財政の責任者だった。

母の縁で再々今川家を訪れ献金を得、その途中、尾張に寄り織田信秀・信長から、後には家康からの献金も受ける。

朝廷・公家が生きる為には武家の敵味方は重要ではない。有力戦国大名すべてに献金を求め奔走した。言継(ときつぐ)は多才で、抜群の集金能力があり、朝廷の財政を支える。

 

また、信長は、為益の学識を高く評価した。

公家、冷泉家は歌道の第一人者、藤原定家を伝承した。

戦乱の世、為益は資金難となり、各地に出向き教授し収入とするしかなかった。今川支配下の領地の収入が頼りだがうまく徴収できなかった。

そこで言継(ときつぐ)に取次ぎを頼み、今川家の客人となり居つくことで収入を確保する。この間、信長に出会い気に入られた。

 

信長の京入りと共に、戻った言継(ときつぐ)と為益は信長の意に沿い働いた。

信長の意にかない、天皇との取次ぎ役を山科言継(やましなときつぐ)とし、為益の娘と言継(ときつぐ)嫡男、言経(ときつね)の結婚を決め為益の娘、為子を養女とする。

 

こうして為益は信長の許可と資金援助を受けて一五七五年、為益の長子、隆昌に四条家を再興させた。

 

また、信長は天皇家との友好関係を築きたいと窮していた正親町天皇(おおぎまちてんのう)の名誉と格式を復活させる。

続いて正親町天皇(おおぎまちてんのう)の退位。皇太子、誠仁親王(さねひとしんのう)の即位と進めるつもりだった。

だが、正親町天皇(おおぎまちてんのう)は譲位を拒否した。

やむなく誠仁親王(さねひとしんのう)の親代わりとなり二条新御所を造り献上し、実質、天皇待遇とし誠仁親王(さねひとしんのう)の皇子、邦慶親王を猶子とした。

家族同様の仲となり、為子を誠仁親王(さねひとしんのう)の典侍局(すけのつぼね)とする。皇子誕生となれば天皇にし、信長は外戚となるはずだった。

為子は二人の皇女を生むが皇子の誕生はなかった。

 

以後も、信長・誠仁親王(さねひとしんのう)・山科言経(やましなときつね)(一五七九年家督を継ぐ)・冷泉為満(一五七〇年家督を継ぐ)が協力し退位を求め続け、正親町天皇(おおぎまちてんのう)はやむなく退位をほぼ了承した。

その時、一五八二年、信長は亡くなる。

正親町天皇(おおぎまちてんのう)は勢いを盛り返し、公然と退位を拒否し勢力の挽回を図る。

 

一五八〇年、信長は長年の宿敵、本願寺、顕如と和議を結んでいる。

本願寺の武装解除を成し遂げた。

顕如には妻、如春(にょしゅん)と長男、教如・次男、顕尊・三男、准如がいた。

如春(にょしゅん)は、武田信玄の妻、三条夫人の妹。

顕尊は四歳で興正寺住職、証秀に養子入りした。証秀に子がなかったためだ。

証秀の妹が冷泉為益に嫁ぎ生まれたのが為子。

 

正親町天皇(おおぎまちてんのう)は信長を彷彿させる為子が気に入らず、証秀の血筋を引き継ぐようにと顕尊との結婚を決め宮中を追い出す。

誠仁親王は怒るが、信長死後の混乱でどうすることもできず為子と別れる。

 

すぐに秀吉の時代が来る。

秀吉は信長にならい、山科言経(やましなときつね)・冷泉為満・隆昌を呼び戻し、再び、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の退位交渉をさせる。

また、秀吉独自の公家取り込み、菊亭晴季を中心に万里小路家との親密な関係、五摂家厚遇なども、ぬかりなく行った。

 

だが、正親町天皇(おおぎまちてんのう)は退位を嫌い一五八五年、冷泉為満・山科言経(やましなときつね)・隆昌らに、出仕差し止めを命じ追放した。

山科言経(やましなときつね)・冷泉為満・四条隆昌らは、京を出て、妹、為子を頼り本願寺の庇護で暮らす。

 

秀吉は、信長を引き継ぎ、本願寺の再編に取り組んでいた。

本願寺の本拠を摂津中島(大阪市)に移し、顕如の後継を長男、教如ではなく、弟、准如にと考える。

そして、次男、顕尊と母、如春尼に取りまとめを頼み、為子の娘と准如の結婚を決める。

実現するのは顕如の死後だが、顕尊・為子の影響力は増しており、為子に実家一族を守る力があった。

本願寺の持つ力は大きく、家康も注視していた。

 

お茶々は京に残り、秀吉は秀次に望まれ仕えさせた。

 

秀次・家康も為子と共に山科言経(やましなときつね)・冷泉為満・四条隆昌に支援の手を差し伸べている。

特に、家康は今川家で親交を深めて以来、冷泉家・山科(やましな)家と親しく、本願寺への関心も高い。

秀次はお茶々の願いを聞いた。

 

秀吉は、誠仁親王の皇子、智仁親王を猶子とし信長に近い誠仁親王ではなくその子、後陽成天皇を次期天皇にと考える。

その思いはすぐに実現する。

一五八六年九月七日、誠仁親王が亡くなった。

ここで正親町天皇(おおぎまちてんのう)は、秀吉の意向を受け入れるしかないと、一五八六年一二月一七日退位された。

こうして、後陽成天皇の即位となる。

 

同じ頃、秀吉は妹、旭姫と家康の結婚を決める。

旭姫は、秀次と仲が良く、お茶々に会って気に入っており老女に望む。

お茶々は駿府城に付き従い旭姫に尽くし、旭姫の死後、強く望まれ家康に仕える。

 

父や母と離れ秀次のもとで成長した娘、おつまの方は、秀次に愛される。

許された隆昌は、おつまの方の父として望まれ秀次に仕える。

おつまの方は処刑。隆昌は隠棲する。

 

秀吉死後、隆昌は再び甦る。

一六〇一年、家康は隆昌を四条家当主に復帰させ、養子、隆致(たかちか)には別家、櫛笥(くしげ)家を起こさせた。

隆昌は公家二家を興した誉れ高い公家となる。

おつまの方の妹は家康の孫姫、和子の結婚相手となる後水尾天皇の母に仕えた後、本多美濃守に嫁いだ。

本多美濃守とは家康の孫、熊姫の婿、本多美濃守忠政。一六二六年、熊姫が亡くなり後妻となった。

 

おつまの方は、母とともに四条家と家康をつなぐ役目を果たし功は大だ。

だが、徳川の世では恥ずべき存在であり四条家の家系図にはない。

 

お亀の方三四歳、中納言御方小浜殿と呼ばれた。父は毫摂(ごうしょう)寺住職、小浜善助。(詳細は不明)

秀頼と婚約した清洲姫の母。

 

一四九〇年代、本願寺三世の子孫、善秀が小浜御坊毫摂(ごうしょう)寺(兵庫県宝塚市)を建立する。以後、丹波の入り口、交通の要所にある広大な毫摂(ごうしょう)寺は寺内町の中心となり、多くの信者参拝客が訪れる。

また、この地は名泉、有馬温泉(神戸市)が湧き出ており、毫摂(ごうしょう)寺を含め多くの宿があり湯治客で賑わう。

 

秀吉は一五八三年有馬温泉に初めて湯治に行き、心身ともに力をみなぎらせ天下人となった喜びに浸った。以後、九回もの湯治を楽しむほど好きになる。

初めての湯治は毫摂(ごうしょう)寺に泊まる。

そこで、毫摂(ごうしょう)寺住職から戦さに巻き込まれさびれた有馬温泉の現状を切々と聞き、深く同情し、手厚い援助を行い再興させる。

秀吉は毫摂(ごうしょう)寺近くに絢爛豪華な別邸「湯山御殿」を建て一族家族の慰労の場とし多くの文化人・大名を招きもてなした。

 

秀次も毫摂(ごうしょう)寺に宿泊する。

その時、善助の次女、お亀の方が接待し、つややかな美しさに、魅せられる。

その後も、湯治に行きお亀の方の行き届いた接待を受け、心身ともにのびのびとくつろぐ。

聚楽第の屋敷が出来上がると、迎えた。

 

秀吉も経緯をよく知っており、美貌と知性を兼ね備えた娘、お亀の方を側室に相応しいと認めた。

そこで家格を整える為に公家、持明院基孝の養女とした。

基孝の娘は、秀吉の引き立てで、後陽成天皇に仕えた。

こうして生まれた姫は秀頼の許婚となる。

お亀の方の縁で秀次と結びついた毫摂(ごうしょう)寺はますます栄えた。

だが、清州姫と共にお亀の方も処刑。

 

毫摂(ごうしょう)寺善助は秀吉の意向に沿ってお亀の方を秀次に引き合わせ、忠誠を尽くしていたが、秀吉は裏切ったと見なす。

毫摂(ごうしょう)寺は、秀次に連座し焼き討ちにされ寺領も没収だ。

 

善助を名乗る住職はいない。悲劇の逸話として残るが、お亀の方の存在も曖昧なままだ。

 

おあひの方二四歳。父は京衆である近衛家中、古川主膳。(詳細は不明)

古川家は、かつての飛騨国司、姉小路古川家から始まる。

飛騨を支配し、古川城(岐阜県吉城郡古川町)を居城とした。

一五五八年、姉小路古川家は飛騨守護、京極氏の守護代、三木氏に敗れ乗っ取られ、三木氏が姉小路家を名乗る。

 

三木氏は勢力を誇ったが、柴田勝家・佐々成政を後ろ盾とし、彼らの滅亡と共に一族は、力をなくし秀吉勢に敗れ滅亡する。

頼綱の末子、近綱だけは娘婿、遠藤慶隆が預かっており助かる。

遠藤慶隆は、土佐藩主となる山内一豊の妻、千代の兄だ。

 

一族の古川主膳も逃げ五摂家筆頭、近衛家に身を寄せた。

近衛家は飛騨白川荘(岐阜県大野郡白川村荻町)に荘園があり、三木氏が荘園の管理をしていた縁だ。

 

その後、近綱は京に入り古川主膳と再会し、姉小路家の再興を目指し山内一豊を頼る。

一豊は、自分の地位の安定の為に秀次にふさわしい女人を探していた。

そこで、近綱は古川主膳の娘、おあひの方を推し、一豊は美貌・教養すべて申し分ないと喜び秀次に推す。

こうして、近衛家縁者として仕える。

 

おあひの方は、秀次に愛され側室になるが、処刑。

 

おあひの方の背後には秀吉後を睨んだ近衛家・山内家などの思惑があった。

また、姉小路近綱も秀吉の元での再興は難しいと、おあひの方を通じ家康に近づいた。

後に、家康は、近綱を三木姓に戻し旗本とする。古川主膳は変わらず近衛家に仕えた。

おあひの方の素性は隠された。

 

あぜちの方三一歳。父は京都住人、秋葉氏。(氏素性は不明)

秋葉氏は鎌倉幕府創生に貢献し、源頼朝の家老として幕政を主導した三浦氏の庶流になる。

三浦一族、秋葉氏は備中有漢郷(岡山県高梁市有漢町)の地頭職を得て、在地し、備中松山城を築き居城とした。

 

室町幕府下でも地位を守り、この地を領する管領、細川家の側近となる。

そして、摂津守護、細川家の守護代となる。

戦国時代に入ると、細川家に従い京に在し凋落する室町幕府を支える上級文官として実力を発揮した。

 

信長・秀吉の時代では活躍の場はなく一族はちりじりになるが、故郷に縁のある西国大大名、岡山藩五七万石藩主、宇喜多秀家や安芸広島藩一一二万石藩主、毛利輝元らに仕えた者が多い。

 

抜群の才知を持つあぜちの方は彼らに推され、秀次に仕え奥の実力者となる。

毛利家や宇喜多家への情報源となるが処刑。

秋葉家再興の悲願を実現したかったが、存在も隠される。

 

六 尾張百万石藩主の頃

秀次は尾張百万石の藩主にまでなった。
大大名になった喜びと、あまりの出世に戸惑う中で、相応しい家臣団を作り上げていく。

この頃、愛し、処刑される女人がいる。

 

秀次家臣団は、

宮部家に養子に行く際に秀吉が付けた譜代の臣。

宮部氏から引き継いだ家臣。

次の養子先、三好家から引き継いだ家臣。

近江国藩主となった時に秀吉が付けた家老や家臣。がいた。

秀吉政権を主導する立場となった秀次は、自身の目で確認した優秀な武将を召し抱えていく。

 

また若御前と疎遠で居城、清州城の奥の要となる女人がいなかった。

若く精力的な秀次に、豊臣家一門では珍しく子供が次々出来、乳母ら世話人も必要だった。

側室より、信頼できる侍女が必要であり、探し求める。

秀吉や叔父、秀長・叔母、旭姫らは子作りに悪戦苦闘した。だが、なかなか子は生まれず生まれても病弱だった。

唯一の正当な血筋となる弟、秀勝に完子姫が生まれるのは、まだ先だ。

 

秀次は、子たちの成長を見て恵まれていると笑顔になる。すると女人との逢瀬が、楽しくなる。

子をなすことは、豊臣家での地歩を固めることであり、将来豊臣家を背負う親せき衆を創る事でもある。

次第に、家臣団の形成に一番価値ある人材はわが子だと思い、優秀な女人との間にせっせと子作りに励む事になる。

 

お辰の方一九歳。尾張山口少雲重勝の娘。(詳細は不明)

百丸の母となる。

山口家は、西国を制し将軍の庇護者となり室町幕府を率いた時もある大内氏の庶流。

大内本家が滅亡した為、尾張の山口一族や旧知の織田家を頼る。

 

山口重勝は織田家臣となるが、大内氏再興への思いが強い。

信長死後、織田信雄に仕える。小牧長久手の戦いが起きるが、重勝は秀吉との和議成立に尽くし、認められ直臣に望まれる。

重勝は秀吉に仕え、一五八六年、いとこ、重政を養子とし家督を譲る。だが、重政は信雄改易後も従い秀吉には仕えなかった。後、秀忠に仕える。

 

秀吉は、いまいち信用できない隠居の重勝を秀次に付けた。

山口氏は尾張衆であり、清州の治世に必要な人材だった。

重勝は、親戚の秀次家老、前野長康の下で活躍する。

清州城は、広大な城であり多くの侍女が必要で、前野長康も相応しい女人を探していた。

そこで、重勝は自慢の娘、知的で清らかな美しさを持つお辰の方を推した。

 

一五九一年、お辰の方は長康の養女として秀次に仕え側室となり、翌年、百丸の母になる。

重勝は、娘が主君の男子を生み、秀次一門となり、大内氏再興の日が近いと歓喜する。

お辰の方も期待に応えたうれしさに、子を抱きしめ感謝の涙を流した。

だが、母子共、処刑。

山口重勝も自害。

 

重政は罪に問われず、お辰の方との縁を隠す。そして秀次と家康を結ぶ働きを認められ大名となり再興を果たす。

 

お国の方二二歳。尾張大島新左衛門親崇(ちかたか)の娘。(詳細は不明)

親崇(ちかたか)は秀次の父、三好吉房の妹婿で秀次の叔父になる。

秀次が優秀な家臣を求めた為、吉房が親崇(ちかたか)を呼び寄せた。

 

親崇(ちかたか)は阿波を支配した三好一族、長延の子だ。

長延が本願寺に帰依し、父に従い親崇(ちかたか)も門徒となり、伊勢長島一揆方の主力武将として活躍した。

長島城(三重県桑名市)支城、大島城(長島町大島)を預かり名を大島としたが、長島城が落城し尾張国前ヶ須に隠棲していたが吉房に呼ばれた。

 

一五九〇年、親崇(ちかたか)は秀次に召抱えられ、同時に、娘、お国の方も仕えた。

表の家臣団と奥の女人は表裏一体だ。奥には特に信用出来る女人が求められ、親崇(ちかたか)一族は秀次屋敷の奥にも仕えた。

 

秀次は、いとこ、お国の方に親しみを持ち、結ばれた。

親せき衆は皆、お国の方との間に子が生まれることを期待し、気持ちが弾んだ。

親崇(ちかたか)は三好家の再興を目指し、秀次も望みを叶えると話した。

一族皆、義兄、吉房に感謝し、不運の時は過去の事になったかのように喜びに浸った。

だが、秀次の寵愛が深かったゆえに、お国の方は処刑。親崇(ちかたか)は出家する。

 

秀吉は親崇(ちかたか)を野心家で娘を送り込み、秀次に取り入ろうとしたと見なすが、秀次重臣ではなく処罰はしなかった。

吉房は追放され、許されることはない。

 

おなあの方一九歳。父は、美濃衆、坪内三右衛門。実は、坪内利定。(詳細は不明)

坪内氏は、加賀守護、富樫(とがし)氏の一族になる。

加賀国富樫郷より尾張羽栗郡に移り松倉城(岐阜県各務原市)を築き支配し、名を坪内とし織田家に仕えた。

蜂須賀正勝、前野長康、日比野六太夫らと共に、川並衆を率いた。

川並衆は秀吉を支える子飼いの臣となり重用される。

だが、信長死後、坪内利定は秀吉と不仲となり松倉城を放棄し浪人となる。

 

秀次の家老、前野長康は坪内利定の兄。坪内氏から前野氏に養子入りし家督を継いだ。

長康は力をつけると、弟を取り立て秀次重臣とし坪内家を再興させたいと考え、利定の娘、おなあの方を秀次に推す。

ところが、坪内利定は一足早く家康に仕え、秀次に仕えることを拒んだ。

長康は、秀次の筆頭家老の地位を固め、弟を家康から離し身内で一派をなしたいと考えた。

 

才媛の誉れ高いおなあの方をきっと秀次が気に入ると、引き取り長康の養女とし秀次に仕えさせる。

秀次に愛され側室となるも処刑。

 

秀次との関係を隠したい坪内利定は、おなあの方の素性を曖昧にした。

 

前野氏・坪内氏と前田利家は同郷で、坪内利定は信長に追い出された利家を松倉城に匿った利家の恩人でもある。

また、加賀は前田家の領地であり、始祖、富樫(とがし)氏に繋がる。

前野長康の嫡男の妻は、細川忠興の長女、お長。

 

おなあの方を中心に前野長康・家康・利家・細川忠興らが結びつく。

秀次が頼りにした人脈だ。秀吉が激怒する事に繫がる。

 

秀吉は前野長康を信頼して秀次を預けたが、付家老以上の力を持ち秀吉を裏切ったと責める。秀次に連座し自害。

 

おなあの方は縁ある人の希望の星となり、容姿を磨き秀次の価値観に沿う教養を身に着け仕えたが、死んだ。

坪内利定は家康の意向に沿い動き、守られ、より一層、出世し六千五百石の大身旗本として続く。

 

東殿六〇歳。美濃、丸毛兵庫頭(まるもひょうごのかみ)光兼の妻。(詳細は不明)

美濃多芸郡(大垣市)の国人、丸毛(まるも)氏は直江城(大垣市直江町堀畔)を居城とした。

光兼は斉藤氏重臣として戦い、後、信長、続いて秀吉に仕えた。

嫡男、兼利が安八郡福束城(岐阜県安八(あんぱち)郡)二万石を得ると家督を引き渡し隠居する。兼利の妻は、稲葉氏。

 

秀吉は、隠居した丸毛不心斎を秀次に付け、妻、東殿も清須城の奥に勤める。

ここで、東殿は才を認められ奥を仕切る老女となる。

そして、処刑。

丸毛光兼も相国寺門前にて自害。

 

丸毛氏は、光兼を不心斎と称し、兼利との関係を曖昧にする。

 

丸毛(まるも)氏は美濃衆としての誇りを持ち岐阜城主、織田秀信に従い、兼利は関ヶ原の戦いで西軍に与し改易。

後、前田利常に二千石で召抱えられる。

次男、利勝は誘いのあった家康に、反三成勢と共に従い子孫は旗本として続く。

おなあの方の培った人脈が生きる。

 

七 関白、秀次

秀次はついに、関白となる。

それだけの器量があるか悩みながらも、秀吉の後継は自分しかいないと秀吉に指示を仰ぎつつ職務を果たしていく。

ところが、秀頼が生まれる。

落ち込むがどうにか自分を律し治世に取り組み、あらん限りの能力で関白としての意地を保つが、追い詰められていく。

 

聚楽第の主、天下人、関白家の奥を支える優秀な女人が必要となる。

 

小少将二三歳。備前衆、本郷主膳国忠の女房の姪。(詳細は不明)

越前衆の少将四八歳の名もあるが同一人物とする。国忠は六〇歳位ゆえ四八歳が妥当だ。

 

本郷氏は、美作守を代々名乗る鎌倉幕府の御家人だった。備前衆と呼ばれるいわれだ。

鎌倉幕府より若狭国大飯郡(おおいぐん)本郷(福井県大飯郡(おおいぐん))の地頭職を得て在地し本郷城を築き勢力を持つ。越前衆でもある。

在京御家人として室町幕府奉公衆(将軍直属の武官)・奉者番(武家の礼法を教え・管理する)の役目も得ている。

 

時代が移り戦国時代になると、かっての栄華は消え、若狭守護、武田氏に従うも武田氏も力なく衰退の一方だ。

そんな中、信長から誘いがあり従う。ここで領地を安堵され、信長亡き後、秀吉に従う。

 

次いで、古式に詳しい本郷家に興味を持った秀次は奥の教育係となる女人を推すように求めた。

当主、美作守、本郷信富は、弟、主膳国忠の妻の姪を推す。小少将と名乗り典礼に詳しい才媛として秀次に仕えた。

来客の接待や聚楽第の女人への教育に力を尽くすが、処刑。

 

本郷氏の連座はなかったが、謹慎した。

その後、西軍に属し改易となるが、家康は一六〇三年、本郷信富を礼法を伝える奏者番、旗本とする。

秀次の動静に目配りを絶やさなかった家康が、小少将の働きを重く見たゆえだ。

すると、小少将の身元は曖昧になる。

 

おきいの方三三歳。父は近江衆、乾備前守。乾(いぬい)彦作和信とする。(詳細は不明)

乾(いぬい)氏は美濃守護、土岐氏の庶流になる。

美濃国池田郡東野村を本拠とし、土岐氏の居城、稲葉山城の北西(乾)を守り名とする。

 

土岐氏凋落の後、一五七八年頃から山内一豊に望まれ仕え、家老となる。

当主、乾和信は山内一豊・千代夫妻の唯一の娘、与祢(よね)姫の守役となり、一族で大切に見守った。

だが、一五八六年一月一八日の大地震で、必死で姫を守るも乾和信夫妻と共に亡くなる。

嫡男はまだ幼く、一豊は弟、備後守和三に乾(いぬい)家を継ぐよう命じた。

 

一五八五年から山内一豊は、秀吉に命じられ秀次の付家老となる。秀次の死の前に秀吉の元に戻るが。

以後、一豊は秀次に尽くし信頼される。

一豊は家老として思う存分働きたいと考え、秀次屋敷の奥との連携を重んじ侍女を推し仕えさせた。

秀次家の奥の情報を的確に知る為でもある。多くの女人が秀次に仕えており信用できない女人もいたのだ。

 

そこで一豊は、娘の為に命を落とした忠臣、乾(いぬい)和信が残した娘、おきいの方を秀次に勧め仕えさせる。

おきいの方が秀次の元で力を発揮することは、山内家・乾(いぬい)家双方に価値があると判断したのだ。

妻、千代が、亡くした娘の身代わりだと大切に見守り学ばせ、教養ある優秀な娘となった。

 

おきいの方は、一豊に聚楽第の奥の動きを知らせ、奥の教育・客人の接待に力を尽くし、処刑。

 

山内一豊は連座を逃れる。

秀次事件に関与せずと正々堂々と申し開きし、謹慎しただけだ。

そして、一豊は、山内家とおきいの方のつながり消す。

 

乾和三は一六〇一年から山内姓を名乗り山内一門となり土佐藩四千五百石代々家老となるが、和信の家系は一家臣に留まる。

 

お牧の方一六歳。斉藤吉兵衛の娘。(詳細は不明)

斎藤吉兵衛の父は斎藤利賢(としたか)の長男、石谷頼辰(いしがいよりとき)。母は美濃石谷村を領した美濃守護、土岐一族の石谷光政の娘。

婿養子に入り名が変わった。

頼辰(よりとき)の弟に家光乳母、春日局の父、斎藤利三、妹に長宗我部元親の妻がいる。

 

父、石谷頼辰(いしがいよりとき)は、明智光秀に従い信長を討つが敗れる。

四国土佐、長宗我部氏の元に逃げるが、長宗我部氏は秀吉に敗れ従う。やむなく頼辰(よりとき)も秀吉に従い斉藤吉兵衛も秀吉に仕える。

秀吉が全幅の信頼を置ける素性ではない。

そこで、秀吉は、美濃衆、斉藤吉兵衛として秀次に付けた。

 

斉藤吉兵衛は、秀次に従い九州征伐に出陣し果敢に戦うが一五八七年一月、父や義弟と共に討ち死にした。

秀次はその働きを誉め、忠臣、斉藤吉兵衛の功に報いるべく一族を引き続き召抱える。

こうして、娘、お牧の方も母や一族と共に、秀次に仕え、成長する。

関白となった秀次は、斉藤吉兵衛の娘の成長した姿、凛としたたたずまいに心動かされ、側室とするが処刑。

 

秀吉からは冷遇された明智家に縁のある家系であり、そこかしこに、家康が後押しし庇護したことが伺える。

後に、家光乳母として名をなす春日の局の縁者であり由緒はあいまいになる。

 

お竹の方一七歳。京都一条通の捨て子と記される。(詳細は不明)

関白として高貴な血筋を保とうとした秀次が捨て子を愛する事はありえない。

残された歌に、教養があふれている。

 

お竹の方は、おあひの方から関白にふさわしい女人として聚楽第に呼ばれた一条通に屋敷を構える近衛家縁者とする。

おあひの方に子が生まれず、身代わりとなって生んで欲しいとの願いを託された。

公家の血を引く高貴な面立ちの美人で、秀次は気に入った。

 

だが、処刑。

何があっても出生を秘す必要があった。

 

おさなの方一五歳。父は美濃衆、武藤長門守。(詳細は不明)

武藤家は武田信玄の母、大井氏の一族になる名門の家系だ。

信玄に仕えた真田昌幸(幸村の父)が武藤家に養子入りし名とした時もある。

 

武田一族の若狭守護、武田氏重臣となるが、武田家滅亡後、信長に従い、美濃に在地した。

信長死後、秀吉に従い、次いで関白、秀次に付けられた。秀次の監視の役目を持つ、秀吉家臣でもあった。

 

秀次は重く用い、武藤長門守に三万五千石を与えた。

そこで、他の家老衆にならい娘、おさなの方を仕えさせた。

まもなく、おさなの方は秀次と結ばれるが、特別に愛されることもなく一五歳で処刑。

 

武藤長門守は秀次に連座して改易。黒田長政に預けられ、家康の努力で許されると蜂須賀家政の下で生涯を終える。

大きな野心を持つこともなく、周囲の状況に合わせて生きただけだったが、秀次に仕えたために起きた不運だった。

子は、前田家に小禄で召し抱えられる。

 

八 秀吉からの監視役

関白、秀次を支える家臣団の陣容の主な部分は秀吉が作っている。

秀吉配下の秀次として緊密な関係を築き、秀吉政権を引き継がせる為だ。

だが、時間とともに、秀次らしい政治がなされていく。

 

秀吉は、聚楽第を明け渡すとき、侍女も付けたままにした。彼女らは、秀次の動きを秀吉に知らせる役目も持った。

彼女たちは役目を果たしつつ、自分の為に、実家や主家の為に、働き死ぬ。

 

朝鮮の役にのめりこんでいく頃から、秀吉の壮大な考えは現実離れしていき、権威もカリスマ性も少しづつなくし老醜が目立っていく。

すると秀次と結びつこうとする武将が増え、秀次も自信を持って独自の道を歩き始める。

秀頼が生まれると、秀吉は秀次の自立を嫌い、疑う。

 

おさこの方一八歳。父は、北野松梅院(しょうばいいん)禅興。(詳細は不明)

十丸の生母。

 

北野家は、菅原道真を祀る北野神社(京都市上京区)の神官の家柄だ。

菅原道真の子孫、松梅院・徳勝院・妙蔵院の三家が祠官(ぎかん)となり社務を取り仕切るが、中でも松梅院家が一番力を持っていた。

 

禅興は信長の京入りに協力し、次いで秀吉に従い、その意向に沿い働く。

秀吉はその功に報い、破格の六百一石を朱印領として与え北野神社を厚遇した。

北野天満宮は、学問の神様として信仰され、境内において連歌会が催されるなど文化サロンとしても広く名が知れていた。

中流貴族の菅原道真が抜群の才知で出世して行く姿に、秀吉は合い通じるところを感じ、熱く庇護した。

 

秀吉は関白として天下を治める体制を整えた一五八七年一一月一日、境内に自慢の名物茶器を並べ、北野大茶会を催す。

身分を問わず誰でも参加でき高価な茶菓子も無料でふるまわれる画期的な茶会だった。

数多くの野点(のだて)が行われ、京都・大坂・堺・奈良から参加した総勢千人に達する人々に茶が振る舞われた。

秀吉は、黄金の茶室を持ち込み自ら茶を立て、菅原道真に習い天下を万民の為に治める心意気を見せた。

 

その後も、禅興と秀吉は、親しい関係を続けた。

秀次もまた、道真を尊敬し、自らを日本文化の庇護者だと自負し、禅興と親しくした。

 

秀吉は、接待に出た禅興の娘、おさこの方に目を留め、聚楽第に迎え、そのまま、秀次に仕えさせる。

秀次も、おさこの方の持つ洗練された中にも深い歴史ある文化の香りを好み愛した。

禅興は北野天満宮の更なる発展を願い、関白となった秀次との深い結びつきを喜んだ。

十丸が生まれ一族は感激するが、つかの間だった。娘も孫も処刑。

 

ここには、丹後一二万石藩主、細川忠興の思惑が深く関っている。

細川ガラシャ夫人の介錯を勤め、自害した細川家家老、小笠原秀清は、おさこの方の姉と結婚している。

この頃、忠興は秀吉との関係に限界を感じていた。

秀次が関白になると、細川家が飛躍する為に、秀次と強く結びつくべきだと考える。

秀次から金銭援助も受けるほど親密な関係になり、影響力を強める願ってもない機会だと、おさこの方が秀次に気に入られるよう秘策を授け、おさこの方の老女に細川家に仕える小笠原氏を付ける。

 

以後、忠興は秀次の兄のように接し、秀次との意思疎通に自信を持つ。秀吉死後の豊臣政権で、良い位置を確保したはずだったが、失敗した。

 

禅興は厳しい蟄居の身となる。秀吉が亡くなるまで許されることはない。

細川家も連座し厳しい追及を受ける。

慌てふためいた忠興は、家康に支援を仰ぎ家中一丸となって、秀次と特別の関わりはなかった証明し、どうにか逃れる。

 

甲斐源氏から始まる小笠原氏は武田氏と同族の名門であり、その分家、京都小笠原氏は幕府将軍に仕えた。

有職故実(ゆうそくこじつ)(古来の先例)の第一人者であり、儀典に不可欠な知識の継承者だった。

だが、将軍が殺され浪人となった秀清は、同僚だった忠興の父、幽斎(ゆうさい)に招かれ客人となり後に家臣となった。

 

秀清は、おさこの方の縁者として細川家で居り場をなくしていたこともあり、喜んで殉死した。

その功で秀清嫡男、長元は幽斎(ゆうさい)の娘、伊与の娘、たまと結婚し藩主一門となり熊本藩六千石家老家として代々続く。

北野松梅院家も、後々まで、細川家と繋がり、細川家に支えられる。

 

おこごの方二〇歳。和泉淡輪(たんのわ)隆重の娘。

菊姫の生母。

淡輪(たんのわ)氏は、鎌倉中期から和泉国(大和川以南の大阪府南西部)淡輪荘を領した有力国人だ。重要文書を扱う公文(くもん)官でもあった。

南北朝期には強力な武力を蓄え足利尊氏に従い勢力を広げ和泉淡輪(たんのわ)(泉南)の支配を固める。

戦国時代には和泉守護、細川氏に属し水軍を率い海上警備で軍功を挙げた。

 

細川氏の衰退で、信長に従い大坂近辺の海上監視の任を与えられる。

次いで信長から毛利水軍を討ち果たすよう命じられる。だが、一五七六年「第一次木津川口の戦い」で無残に敗北した。

翌一五七八年、六隻の鉄甲船を率いた九鬼嘉隆(くきよしたか)を主力に「第二次木津川口の戦い」で毛利水軍に挑み勝利し恨みを晴らす。

信長死後、秀吉に従い、和泉淡輪(たんのわ)(泉南)領を安堵された。

 

秀吉は、和泉国を中村一氏に与えると淡輪隆重を与力とした。後、中村一氏は秀次付家老となる。

中村一氏は、聚楽第に信頼置ける女人を仕えさせ、秀吉次いで秀次と繋がりを深めようとした。

そこで、評判の才女、隆重の娘、おこごの方を秀吉に引き合わせ了解を得て、聚楽第に入れた。そのまま、秀次に仕える。

中村一氏は秀次付け家老を離れるが。

 

おこごの方は、淡輪(たんのわ)隆重・中村一氏の期待に応え、秀次の情報を秀吉に伝える役目も果たし、秀次に仕える。

秀次は河内国若江城(大阪府東大阪市若江南町)に在した時があり、淡輪荘は近くだ。

楽しかった思い出につながるおこごの方の微笑は秀次の心をつかむ。

だが、処刑。

 

菊姫は秀吉の認めた側室の子であり、生まれたばかりでもあり許された。

だが、淡輪(たんのわ)家は野心を見抜かれ改易され所領も没収。

 

お虎の方二三歳。父は上賀茂岡本美濃守。上賀茂神主、岡本清国だ。(詳細は不明)

賀茂神社(京都市)は賀茂別雷大神(かもわけいかづらのおおかみ)を祀る神社だ。分霊(ぶんれい)された神社は全国で三〇〇。後に、上賀茂と下賀茂に分かれる。

上賀茂神社の祭礼・社務を仕切る神官、上賀茂氏は、岡本氏などに分家した。

 

上賀茂岡本氏は一五九一年、秀吉に願い資金支援を得て遷宮し、神社への影響力を増した。

秀吉への感謝の思いが強い岡本清国は、秀吉の求めに応じて、お虎の方を聚楽第の奥に勤めさせた。

 

お虎の方は、主が秀吉から秀次に変わってもそのまま仕え、秀吉と秀次を結ぶ役割を、責任もって果たした。

側室ではなく、宮廷文化の一翼を担ってきた上賀茂岡本氏の高い文化教養を受け継ぎ広め、客人をもてなす。

 

家康の祖、松平氏は三河賀茂郡から始まり、賀茂神社の有力氏子だった。家康が使った葵紋は、賀茂神社の神紋。

譜代の重臣、本多氏は賀茂神社の神官だった。

一六〇〇年、家康は賀茂神社に参拝し、一六二八年、将軍、秀忠が後水尾天皇・和子中宮の願いに応えて造営している。

上賀茂神社は秀吉に庇護されたが、家康も厚く庇護し親交を深めていた。

 

お虎の方は処刑。

だが、家康が口添えし上賀茂岡本氏に咎めはない。秀次より家康に近かった。

 

おこほの方一八歳。父は近江、鯰江(なまずえ)才助もしくは鯰江(なまずえ)権之助。(詳細は不明)

鯰江(なまずえ)氏は、近江愛知郡鯰江荘(滋賀県東近江市)に鯰江(なまずえ)城を築き名とした六角氏一族。

六角氏が信長に敗れ鯰江(なまずえ)城に逃げ込む。この城で六角氏と共に信長勢と最後の激戦を繰り返し、敗れ一族は離散した。

命からがら逃げた鯰江(なまずえ)重政は、森姓を名乗り潜み、後に、秀吉に仕えた。

 

秀吉は名家出身の重政を重く用い、中国大返しの際、毛利輝元への人質となるよう頼んだ。

重政は喜んで引き受けた。

毛利家に着くと、堂々と秀吉勝利の道筋を語り毛利勢の追撃を止める努力をした。毛利勢は動かず、秀吉は光秀を倒した。

輝元は秀吉の為に命を懸けた重政を気に入る。

重政が秀吉の元に帰る時「良く役目を果たした。毛利姓を名乗ることを許す」と送り出した。秀吉も認め毛利姓を名乗る。

 

毛利重政を名乗り秀吉の側近としてよく働き、秀吉の勧めに応じて美貌の娘、おこほの方を聚楽第に仕えさせた。

主が変わり、秀次の目に留まり側室となる。

重政は鯰江(なまずえ)家の再興飛躍を願い、秀吉政権を背負う秀次に娘が愛されたことを喜んだが、処刑。

 

すると、おこほの方は国元に残った分家の鯰江(なまずえ)(権之助)才助の娘とされた。

 

毛利重政は、秀吉に忠誠を尽くし秀次を糾弾した。その為、連座はなく、毛利家との親しい関係も続く。

だが秀吉は一五九七年、重政が亡くなると嫡男が幼少との理由で改易する。疑っていたのだ。

重政の弟、高政を後継とし、蔵入地を合わせ、六万石を与えた。

それでも毛利家から徳川家まで、おこほの方の培った人脈は活き、毛利高政の家系は江戸時代も生き残る。

 

お長の方一七歳。父は竹中与右衛門。

土丸の母。

 

秀吉の軍師、竹中半兵衛重治のいとこ(父の弟の子)竹中重定の娘だ。

重治が幼い嫡男、重門を残し亡くなると、秀吉は重治の妹婿、重利(しげとし)(重定の兄)を後見人とし実質、後継とした。

幼子の後継を好まず、忠実な家臣であり即戦力となる重利(しげとし)を適任と見なしたのだ。

 

重利(しげとし)は、偉大な重治の後を継いだ重責に押しつぶされそうになりながらも、必死で秀吉に仕えた。

秀吉は秀次に聚楽第を引き渡す時、重利(しげとし)に奥に仕える侍女を推すよう求め、弟の娘、お長の方を推し決まる。

 

重治の妻の叔母が、秀次付家老、山内一豊の姉だった縁で一豊も推した。

山内一豊は、積極的に縁者を秀次に仕えさせ、繋がりは深い。

 

お長の方は、秀次の動きを逐一秀吉に報告する。

だが、秀次に愛され、男子が生まれ、母子ともども処刑。

 

お長の方が愛され、秀次による竹中家の優遇を期待した重利(しげとし)だが、秀吉に無残に殺され無念の思いを静かに耐える。

秀吉も、重利(しげとし)の忠誠心を認め、豊後国国東郡高田一万三千石を安堵した。

 

家康も重利(しげとし)の連座を免れさせ、以来、重利(しげとし)との関係を深める。

 

九 家康に縁ある女人

家康は直接、秀次に女人を勧めることはないが、秀次と友好関係を築き情報収集することを望んだ。

その為、後々、家康と親しい関係を築く人脈を培った女人がいた。

 

およめの方二五歳。尾張、堀田二郎左衛門正時の娘。(詳細は不明)

堀田家は祇園八坂神社社家、八坂氏(紀姓堀田氏)から始まる。一族が尾張に移り津島神社神官になった。

同じ津島神社神官に大橋氏らがおり縁戚となる。

 

大橋家と共に、水陸の交易の拠点、津島を取り仕切り、交易で富を生み出し、津島衆と呼ばれる勢力を作り上げる。

鎌倉幕府が成立し京と鎌倉を結ぶ道筋にある津島の往来は飛躍的に増し賑わう。

そして、津島衆は軍事力を備えて自治権を持つ一大勢力となる。堀田家は主要な津島衆として武将としても力を持っていく。

だが、織田信秀(信長の父)に敗れ従う。

 

この頃、堀田正貞に道空と正秀が生まれる。

嫡男、道空は美濃の覇者、斉藤道三に仕え家老となり信長と濃姫の結婚の取次をする。そのまま濃姫に付き従い信長に仕える。

斎藤家が滅び、信長が亡くなると、秀吉に仕え側近となる。

庶子、正秀は津島に残り、浅野長一の娘と結婚。多くの子たちが生まれる。

その後、正秀は一族になる秀吉の妻、ねねの義弟(妹婿)浅野長政に従う。

 

子のいない道空は正秀五男、正吉を養子とする。

すると、ねねは養子(ねねの甥)小早川秀秋の近習に正吉を選ぶ。

 

秀秋は、物心ついた時から一四歳年上の秀次に憧れた。容姿性格すべて理想の武将だと思う。

また、秀次側近の浅野長政嫡男、幸長も、いとこでもあり身近だった。

秀秋は二人を尊敬し、秀次を側近くで見て成長する。

正吉は秀秋近習として秀次や幸長に会うことが増える。

 

正吉の妹、およめの方は、道空に推されて聚楽第の奥に仕えていた。

主が変わるが、そのまま秀次に仕え、彼らとの間を取り持つ。

 

一五九二年、秀秋の付家老となった稲葉正成と正吉は意気投合した。

そして、正成と妻、春日局は浅野家に続く縁を大切にしたいと、正吉と正成の娘、まんとの結婚を勧め実現する。

 

およめの方は弟、正吉・秀秋と秀次を結ぶ役目を果たし、処刑。

 

すると正吉は、およめの方との縁はなかったとする。

 

家康は、彼ら若者の良き相談相手になり親しくなっていた。

後の正吉の子、正盛から始まる堀田家の隆盛はこの頃から生まれる。

 

お藤の方二〇歳。京衆、大草三河守公重の娘。(氏素性は不明)

大草氏は三河額田郡大草から始まり、勢力を伸ばした。

だが、松平清康(家康の祖父)に敗れ娘を嫁がせ松平一門、松平大草氏となる事で身を引き始祖の地を守る。

 

庶流に、足利将軍家に仕えた一族がいた。

大草流庖丁道(おおくさりゅうほうちょうどう)(将軍の儀式での料理を担当・料理に関する作法・故実や調理法を継承発展させる)の家元でもあった。

当主、公重は将軍、足利義輝の側近だったが義輝が殺されると、義昭に仕え将軍擁立に奔走する。

後には、同僚だった細川幽斎(ゆうさい)に招かれ丹波へ行く。

 

公重には四人の子がいた。

嫡男、公政は、信長・秀吉に仕えた。

長女は秀頼の母、茶々の妹、お江に仕えた。秀忠に嫁ぐ時、老女(筆頭侍女)となる。

大草家が三河出身であるゆえ選ばれた。

後に、家光が生まれると家光付き老女となり大草局と称し力を発揮し、兄、公政を招き旗本とする。

 

二女は公重の同僚、大館氏嫡男、晴忠と結婚し公継、公信、高正を生む。公政が三人を養子とする。

 

三女が、お藤の方だ。

秀吉は、大草局を気に入っていた事や細川幽(ゆう)斎(さい)の推挙もあり、聚楽第の奥に仕えさせた。

 

家康は、大草局・お藤の方を松平一門と見なし、親しく接する。

家康との縁を大切に、お藤の方は家康と秀次を結ぶ。

 

大草高正は、大草局の引き立てで家光近習となり家光側近として力を奮う。

高正を見込んだ春日局は、堀田正吉と稲葉正成の娘、まんとの娘を大草高正と結婚させる。

春日局がお江と良い関係だった事や、およめの方・お藤の方との縁が深かったことを物語る。

 

ここには、譜代の重臣、本多家の正氏(まさうじ)も関与している。

本多正重(兄、正信は家康の名参謀)の長男だ。

家康の近習となり陸奥の九戸政実攻め、朝鮮出兵における肥前名護屋城詰めなどに従う。

ところが、一五九二年家康を離れ、縁あった近江出身の羽田正親(はねだまさちか)の元に行く。

正親は秀長に仕え、死後、秀次の重臣となっており、推され秀次に仕える。

 

ここから、本多一族として家康の指示に従いつつ、秀次に仕え、お藤の方を支える。

秀次が自害すると正親と共に殉死。

 

お藤の方は処刑。

大草家は、お藤の方とは無縁になる。

 

一〇 秀吉を怒らせた女人

秀次は秀頼が生まれ、秀頼との関係をどうすべきか、娘婿として引き継ぐ為にすべき事など悩んだ。

秀頼に引き継ぐまでは秀吉後継の関白は自分だと思うが、秀吉の考えが分からず不安でたまらない。

 

それでも関白との縁を深めお家の安泰を図ろうとする大名が後を絶たなかった。

選ばれた女人は、秀次と実家を繋ぐ役目を担うと張り切って嫁ぐ。

だが、秀次と会うこともままならず、なぜ殺されるのか顛末が理解できないままに処刑。

 

おさいの方一四歳。別所重宗の養女。(詳細は不明)

別所氏は播磨守護、赤松氏の庶流。

信長は別所氏嫡流を滅亡させ、代わって、福島正則の姉と結婚した弟、重宗に家督を引き継がせる。

正則の母は、秀吉の母、なかの妹であり、正則は秀吉のいとこだ。

 

正則の甥になる重宗の嫡男、吉治の妻は摂津三田城二万三千石藩主、山崎片家の二女。

山崎片家の嫡男、家盛の妻は池田恒興の三女、天球院。

秀次の正妻、若御前の妹であり秀次とつながる。

 

幼い時から秀次の面倒を見て後見人を自称する福島正則が、おさいの方を秀次に推した。

おさいの方は秀次好みの才媛であり別所家の飛躍の為や、精神不安定の秀次の癒しとなればとの思いを込めた。

池田家も推した。若御前への複雑な思いはあるが豊臣政権で重職を担いたい。

若御前の身代わりとなって男子が生まれれば、池田家にとっても良いことだ。

 

子は生まれず、処刑。

おさいの方は父母の期待に応えようと張り切って嫁ぎ、役目を果たせなかった事がつらかった。

 

秀吉は、秀次を排除すると決め、平和裏にことを収めたい。

そこで、秀次の信頼厚い正則を重大な命令を伝える使者とする。正則の忠義を試した。

正則は秀次の命を守りたかったが、秀吉の命令は絶対でありつらくむなしい使者の役目を果たす。

まず、三百名あまりの兵を連れ伏見に釈明に来た秀次に身一つで謹慎するように伝え、従者を一〇人に減らさせ高野山に送る。

ここで、さらに武装解除させ切腹させた。関白、秀次は全く無抵抗で死んだ。

正則は秀次を落とし込めた三成らを憎みつつ、ぶれることはなく秀吉に従った。

秀吉は褒め、秀次の領地、尾張清洲二四万石を与えた。

 

吉治は連座を問われず但馬(兵庫県養父郡八鹿町八木)八木藩(やぎはん)を守る。

関ヶ原の戦いで西軍として田辺城攻撃をしたが、制裁はなく領地は安堵。

秀次を介して家康と良好な関係を作ったと思われる処遇だ。

 

お菊の方一五歳。 父は摂津伊丹兵庫頭。伊丹正親(いたみまさちか)だ。

伊丹氏は摂津河辺郡伊丹荘の国人領主で伊丹城(兵庫県伊丹市)を居城とした。

正親の父、親興は将軍、足利義昭・信長に従い功を上げ、摂津三守護の一人に抜擢される実力者だった。

伊丹正親(いたみまさちか)は信長に仕え戦うが、信長と義昭が対立すると義昭に従う。だが、敗れ、伊丹城も父も失い野に潜む。

そして秀吉に招かれ仕える。

 

お菊の方は、可愛く才知にあふれ責任感の強い、自慢の娘だった。

そこで、秀次の動向が気になる隠居していた黒田官兵衛孝高が密かに推し、伊丹正親(いたみまさちか)は秀次に仕えさせる。

側室になれば伊丹氏再興を目指せると喜ぶ。

だが、お菊の方は側室となることもなく、処刑。

縁者の期待を受けて仕えたが、力を発揮できず無念の死だった。

 

正親(まさちか)は追放。黒田長政の元に行く。

黒田孝高は有岡城(旧、伊丹城)の土牢に閉じ込められた時、旧知の伊丹氏に助けられ生き延びた大恩があった。

伊丹氏居城だった有岡城の隅々まで知る正親(まさちか)が密かに食糧等の支援を続けたのだ。

 

おいまの方(駒姫)一八歳。

父は出羽山形二四万石藩主、最上義光。母は正室、大崎夫人。これまでの側室と比べると遥かに大藩の姫だ。

 

一五九一年、三戸城(青森県三戸郡三戸町)主、南部信直を救援する為、秀次は総大将として出陣した。

信直は南部家の後継を巡る内紛を押さえられず秀吉に救援を求めたのだ。秀吉は天下人の威力を見せる良い機会だと秀次を総大将に出陣させた。

難なく平定し京に戻る時、山形城に立ち寄った秀次は、あまりにも可愛い義光の娘、駒姫に目を留め成人したら京に来るように伝えた。

 

駒姫を秀次にお目見えさせたのは最上義光と甥、伊達政宗だ。

駒姫に男子が誕生すれば嫡男になる可能性は大であり「秀次殿の後継者は我々の身内から出す」と考えたのだ。

駒姫の美しさ・可愛さは有名だったが、秀次が対面を望んだのではない。

 

それでも秀次の身辺があわただしくなり義光は、駒姫を送るべきか悩む。

だが、秀次家老、粟野秀用(あわのひでもち)は上洛を促す。

粟野(あわの)氏は伊達家重臣で、秀用(ひでもち)は政宗の唯一の弟、小次郎の近習だった。政宗により主君が殺され恨み、伊達家を離れた。

その後、政宗から有形無形の支援を受け、政宗の偉大さを知り、伊達家を守るためにやむを得ない事だったと悟る。

そして、対外的には政宗への恨みを話すが、政宗の指示を受け秀次に取り次ぐようになっていた。

 

粟野秀用(あわのひでもち)は秀次を守る為、政宗の支えが必要と判断した。

駒姫は両親の期待を受けて晴れ晴れとした思いで聚楽第に行く。粟野秀用(あわのひでもち)は精一杯の歓迎をした。

そして、秀次との対面を待っている間に、秀次は死んだ。

駒姫も処刑。東国一の美少女は、祝言を上げる前に殺された。

 

最上義光は謹慎。

粟野秀用(あわのひでもち)も力足らずを謝り、自害。

 

おこちやの方一九歳。駒姫の侍女(御末の女房)。

駒姫に子が出来なかった場合に備えて身代わりに子を生む為に共に聚楽第入りした。

氏素性の確かな最上家縁戚の女人だ。

処刑。

 

秀吉は政宗の動きで、秀次は取り巻きに担がれ近い将来、秀吉・秀頼を追い落とすと確信した。

そして秀次や男子を宿した可能性のある女人すべてを処刑し、秀次男系の血筋を断った。

秀頼率いる豊臣政権を実現する為にやむを得なかった。