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誇り高き大女優、貞奴

だぶんやぶんこ


約 29747

誇り高き大女優、貞奴

 

明治・大正・昭和に咲いた華やかな才女、貞奴。

日本一の大女優として世界に誇る大輪の花を咲かせた。

 

業績は多々ある。

女優であるだけではなく女優を創ることに取り組み、自力で初の女優養成所を作った。

女性が快適に働ける会社を創ることに取り組み、自ら起業し経営する実業家でもあった。

演劇の未来のために子たちの演劇への熱い思いを引き出すことに取り組み、児童劇団を作った。

演劇・俳優を目指す人をあまねく照らすために、芸事成就の寺、貞照寺を建立し、菩提寺とする。

それだけではない。

川上音二郎・福沢桃介という時代の寵児を愛し、成功させた、偉大な業績がある。

二人とも貞奴なしには名を残せなかった。

 

幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きたのが麗人、貞奴だ。

 

川上貞奴の生涯

一 貞奴誕生

二 桃介との出会い

三 貞奴、一流芸者に

四 貞奴、演劇を知る

五 音二郎との出会い

六 川上座、完成

七 音二郎の民権運動

八 貞奴、海外へ

九 貞奴、国際女優になる

一〇 貞奴、日本を代表する女優に

 

 

一 貞奴誕生

貞奴は一八七一年(明治四年)九月二日、生まれた。

廃藩置県が行われた年であり、江戸幕府がなくなり明治新政府となったことが、ようやく分かり始めた頃だ。

出生地は、東京府日本橋であり、芝明神(東京都港区)の近くだった。

書籍・茶・質屋を営む越後屋の一二番目の子供だ。

源兵衛・花子・トヨ・タカ・留吉・久次郎・夏子・彦三・倉吉・勝次郎の兄姉がいる末っ子だ。

 

大人になり家を離れた兄姉も多いが、近くにいた兄姉たちが顔を覗き込んで不思議そうな顔をした。

「お猿さんみたいだ」と。赤くてくしゃくしゃした顔でしかなかった。

だが、大人は、この世に生まれてまだ目も明かない赤子の顔に感動した。

見れば見るほど関心する、絵に描いたように目鼻立ちの整った顔だったのだ。

両親は複雑な思いで、じっと見つめた。

我が子だから可愛いのは当然だが、もう子供は十分なのだ。

 

新しい明治の代となって四年、江戸が東京府となり、旧時代は崩れ去ったことを、恐ろしく感じていた。

母、タカは日本橋(東京都中央区)で町役人を務め両替商・質屋・書籍を手広く営む越後屋の一人娘だった。

江戸城奥御殿に努めた経験もある教養にあふれた知の人であり、また美の人としても有名だった。

タカには兄弟はなく一人っ子だった。

 

タカが生まれたころは、幕末ではあっても、江戸の町は落ち着いており、越後屋も手広く両替商を営んでいた。

何不自由のないお嬢様として、大奥勤めし、女人として最高の教育を受け、皆が高根の花と崇めていた。

そこで、タカの両親が、熟考して選んだ婿が、高座郡小山村(相原村となり後に相模原市)生まれの父、小山久次郎だ。

父は、出身もよく、賢く、おとなしい、優しい人だったが、祖父母が見込んだほどの商才はなかった。

 

それでも母は、父を気に入った。

一人っ子で育った母は、兄弟のいない寂しさを味わい、子供が欲しくてたまらなかった。

長男、続いて次男が生まれたときは、感激の涙をあふれさせた。

しかし、一二人の子となると、荷が重すぎて悲鳴を上げた。

 

江戸幕府の衰退に連れて越後屋の商いは少しづつ小さくなっていたが、父母は、大店としての格式は守ると万事が派手な店構えを変えなかった。

それどころか、幕府が倒れるはずがないと、思い込んでいた。

だが、幕府は倒れてしまった。

対策をとっていなかった父は、貸し付けていた多くの債権が回収不能となるのをただ茫然と見ているだけだった。

 

新政府により新たに貨幣制度が作られ両替商の必要性がなくなり、金融の機能が銀行に移っていく。

なのに、父母は新時代の商売へと変わることが出来なかった。

債権の回収が出来ず、銀行への参加も出来ず、新商売もならず、日本橋の大店、越後屋を維持できない。

やむなく引き払い、芝明神の小さな店に移り、店を続ける。

その時、貞奴が生まれた。

 

貞奴の兄・姉は、結婚したり働いたりと自力で生きる道を見つけて、次々、家計の苦しい父母の元を離れた。

貞奴が覚えている一緒に暮らした家族は、すぐ上の兄、勝次郎と父母だけだった。

それでも、父母は以前の暮らしを忘れられず、豊かな暮らしを続けた。その為、貞奴に貧乏だった記憶はない。

貞奴が物心のつく四歳になると、母は好きな琴・踊りの稽古に通わせた。

先行き不安であっても、母は音楽が好きで優雅に琴を弾いた。貞奴は母の性格・素質を受け継ぎ、音楽好きだ。

稽古の行き帰りに日本橋葭町(中央区)を通る。そのにぎやかさが好きで、喜んで稽古に行く。

 

越後屋を処分した資産でしばらく暮らしたが、すぐになくなり、父母は、また行き詰まる。

やむなく、貞奴を兄、倉吉に預けることに決める。

倉吉は著名な彫金家、加納夏雄(1828-1898)に弟子入りし、娘、冬の婿となっていた。

 

加納夏雄は、平安四名家と呼ばれた一人円山派の絵師、中島来章の高弟だった。

刀剣商の養子となり、彫金師、奥村庄八の元で修行し、14歳で中島来章に師事し写実を極める。

1846年、19歳で金工師(刀剣につける刀装具を作る工匠)として独立。

京都で高く評価され、さらに腕を磨き幕府の役に立ちたいと、1854年、江戸に移る。

神田佐久間町(千代田区)に店を構えた。

ところが明治維新となり、京都出身の高名な金工師として明治天皇の太刀飾りを命じられる。

天皇に気に入られた縁で、新貨幣の原型作成を命じられ、担当する予定だったイギリス人技師ウォートルスを感嘆させる仕上げだった。

ここで加納家は、明治新政府から新貨幣のデザイン・型の制作まで全て任せられることになった。

 

金銀の両替を家業とした越後屋は、全国が新貨幣に統一されたため必要なくなり、失業したのだが。

新貨幣の移行にうまく乗った加納屋は、仕事は山のようにあり豊かだった。

加納夏雄は、貞奴を育て嫁に迎え、加納家一門とするつもりで引き取る。

すぐ上の兄、勝次郎は父方の親戚、幡豆家に養子に行かされた。

二人には相応の支度金が支払われ、父母は一時楽になる。

 

貞奴は加納家に引き取られるが、地味で真面目に仕事に精出す加納家の雰囲気に息が詰まる。

それでも、彫金の手法を見て、美しさに魅せられた。

加納家の幼い子たちから口々に「僕のお嫁さんになるんだ」と言われ、気を悪くした。

貞奴は幼い頃から型にはまった暮らしが嫌いだ。

あまりに可愛くて人気者だったゆえに引く手あまたとなったのだが、加納家での暮らしが嫌になる。

「結婚相手は自分で見つける。勝手に決めないで」。

 

母から加納家が家だと思うようにと言われており、実家に帰ってはいけないと分かっていた。

思いついたのが、神田佐久間町から大人の足で三十分ぐらいの何度も通った日本橋葭町の浜田屋。

一人でも行けると逃げることを考える。

琴や踊りのおけいこの行き帰りで見知った母の知り合いでもある女将、可免なら助けてくれると。

こうして、可免の腕に飛び込んだ。

すぐに加納屋から迎えが来るが、貞奴は加納屋に戻りたくないとはっきり言う。

 

その言葉に喜んだ芸者置屋「浜田屋」の女将、可免は母に「ぜひとも預かりたい」と願う。

可免は、時たま見かける貞奴を目に留めており、飛び込んできた時は驚いたが、喜んで迎えた。

まだ六歳なのに、大人びた優雅さと子供っぽい無邪気さを合わせ持つ貞奴は、陰鬱な空気の漂う生家や加納屋を嫌い賑やかに人の行き交う「この家が好き」と可免にまとわりついた。

母もやむを得ず、しばらくは預けますと答えた。

貞奴を預かった可免は、望むように芸事を習わせた。そして見込み通りと目を輝かす。

 

葭町は新時代にうまく乗って、新政府の役人が多く訪れる花街となっていた。

目ざとい可免は「芸者はいくらでも必要になる」と閃き、売れっ子芸者から、芸者置屋「浜田屋」の女将になり、芸者を育てることに熱心だった。

当時、葭町は花街としては二流とされていた。一流は柳橋、新橋の芸者だ。

可免はその評価が悔しくて「葭町を一流の花街にする」と燃える思いで、芸者を育てていた。

才能ある娘を集め、育て、芸者としていく。面白かった。天性の才があり、人気の芸者置屋となった。

貞奴に出会った頃、柳橋、新橋の芸者に負けない芸のできる一流の芸者を育てたと自負していた。

葭町界隈では、やり手の女将として名が知られるようになっていた。

もっともっと良い人材を集め、置屋を広げ、一番出来の良い娘に、浜田屋を引き継がせるつもりだ。

子がいないので、後継を探す楽しみもあった。

 

可免は、貞奴に芸事を習わせ、その上達ぶりに目を見張り目に狂いがなかったと、自分をはるかに凌ぐ芸者になると、胸躍らせる。

そして毎日「加納屋に取られませんように。養女にできますように」とお不動さま(成田山の御本尊不動明王)に手を合わせる。

貞奴が浜田屋の芸者になるとは信じられないほど、貞奴の実家は、かっては、名士だった。

おっかなびっくりしながらものめりこむように、貞奴のあらゆる可能性を探り、考えられる限りの芸事を試した。

すべてに想像を超える才能を見せ、ますます貞奴が好きで好きでたまらなくなる。

思いは募るばかりだった。

 

そんな時、貞奴七歳、明治になって一一年目の一八七八年に父が亡くなる。

商売に関してはやることなすことすべてうまくいかない、情けない婿だった。

失意の中で母に謝りながら逝った。

ここで、母は、代々続いた越後屋を閉め、長男の元に行くことに決める。

母の苗字は、子熊。

養子に出した幡豆勝次郎・貞奴を除いて他の源兵衛・花子・トヨ・たか・留吉・久次郎・夏子・彦三・倉吉は小山姓で残されている。

父は小熊家の籍に入っていなかった。母の父母の考えであり、それだけの婿だった。

 

貞奴の兄姉は、それぞれ一家を成していた。

花子は、水戸藩家老、中山家の奥に勤め、当主、中山信徴(1846-)との間に、一八七二年(明治2年)信徴の第4子、信光を生んだ。

いわゆる家女房として、信光を育て、信光は子爵、青木家を継いだため、共に、青木家に入った。

貴族院議員や企業の役員となる信光は、貞奴より一歳年下でしかなく親しい親戚付き合いをし、後々、青木邸の隣に貞奴が屋敷を建てることになる。

 

小山倉吉は加納家の冬と結婚。

長男、潤一と長女、ツルが生まれる。

潤一の次男、倉次郎の子が、玉起。貞奴が最後を託し、養女とした大好きな娘だ。

 

可免は、お不動様に手を合わせ、貞奴との出会いに感謝し、ご加護を信じた。

そして、父の死後、改めて母に「(貞奴を)我が子として育て一流の芸者としたい」と頼む。

母は貞奴を可免に預けた時は芸者にすることに後ろめたさを持っており、預けただけとした。

だが、父が亡くなり覚悟はできた。

お金も欲しくて、可免の用意した高額の支度金を受け取り、養女とすることに同意した。

 

貞奴は、代価を支払われて芸者置屋「浜田屋」に引き取られたのだ。

子供心に父の無念の死、母の苦悩を感じ、閉められた店を見て胸が張り裂ける思いだ。

きっと母を喜ばせると決意する。

 

可免は貞奴を娘に出来て嬉しくてならない。

成田山のご加護で貞奴と巡り合い、念じた通り娘となったと、成田山新勝寺(千葉県成田市)への信仰心を深める。

貞奴は抜群の才女であり、加えて、育ちから来る品のよさが備わっていた。

ちょっとした動作がきれいで、上品に周囲を和ませる力があり、可免にはない魅力だった。

可免は「(貞奴は)特別の娘だ。お不動さんのお導きで出会えたんだ」と毎日、嬉しそうに話す。

そして成田山新勝寺に再々貞奴を連れお礼参りする。

次第に、貞奴もその熱い信仰心を受け継いでいく。可免は貞奴を溺愛した。

 

貞奴は、七歳から本格的に、柳橋、新橋の芸者に負けない芸者になるべく多くの芸事を習う。

可免には、養女とした娘たちが幾人もいた。

彼女たちが「血のにじむようなつらい修行だ」と泣く習い事だ。

だが、貞奴は泣くのを不思議そうに見る。

踊り・三味線・小唄・鳴り物(太鼓・鼓)・琴そして作法も習うが、難なくこなし、群を抜いて早くうまくなる。

素早い粋な着付けも見事にこなし、可免は感心するばかりだ。

次第に「一流の芸者じゃもったいなさすぎる、貞奴は日本一の芸者になるべきだ」と思いを変える。

 

「お不動様は悪魔をやっつけるために、恐ろしい姿をされ、すべての苦しみを乗り越えられた。おとなしく仏様の教えに従わないものがあれば、無理にでもお導き助けてくださる仏様のお使いです。お姿は恐ろしいけれど、お心は人々を助ける優しい慈悲にあふれておられる。お不動様は貞奴の心の内にあるのですよ。必ず護ってくださる。見た目は観音様の優しさやお地蔵様の暖かさとは違うけれど必ずご利益を下さる。貞奴はお不動様と固く結ばれている。何事にも負けない強さを生まれながらに持っている。貞奴と親子になれてこんな幸せはない」と可免は貞奴を抱きしめる。

 

義務教育の制度ができて、女の子でも大手を振って小学校に行くようになったが、貞奴は行かなかった。

可免は一流の芸者になるための修業を何より優先させ、お稽古の合間に近くにある私塾で読み書きを学ばせた。

次いで、算数・国語・お習字なども暇を見ては習わせた。

可免は、貞奴のすべてに目を配り、芸事一番だが、学問もおろそかにすることなく育てた。

「この子の頭の中を見てみたい」と思うほど教えられたすべてを吸収する素晴らしい頭脳だった。

一八八三年、貞奴は舞踊と鳴り物(太鼓・鼓)を習熟し、お座敷で披露できるまでになり一二歳で雛妓(半玉、芸者見習い)になり子奴として座敷に出る。まだ見習いだが、稼げるようになった。

異例の速さだ。

 

この年、鹿鳴館が出来上がり、政府高官らの舞踏会が頻繁に開かれるようになる。

彼らは夫人令嬢を伴い参加する。国策に関わる社交の場に、女性が出ていくようになった。

あくまで彩を添える華にすぎないが、注目度は男性以上で、公式の場に女性が出るようになったのは画期的だ。

家内では一定の力を持っていた夫人令嬢だが、外に向けて出る場がほとんどなかったが、堂々と盛装して踊った。

洋装であり、慣れない踊りであり、社交の役目があり、しり込みする女人も多かったが。

 

新しい時代の到来だった。

顔合わせ・打ち合わせ・密談・接待などなど新しい人間関係を築く必要が多々あり、接待の場、お座敷の利用が飛躍的に伸びた。そこには、芸者がなくてはならない。

可免は、ますます胸震わせた。貞奴を待ち受ける世界が来たのだ。

それからは、政財界の一流が集まるお座敷にのみ出させる。

場の盛り上げ方・受け答え・話題の作り方・座を引っ張る力量を身に着けるよう細心の注意で仕込む。

貞奴は、新聞・本も熱心に読んでいく。

可免から一本気な仁侠心と小気味のいいたんかを受け継ぎつつ、教えを受け芸者としての腕を磨く。

可免の意図を推し量ることはなかったが、記憶力抜群で会話を覚えることが出来、次第に何が今話題なのか、政治経済のつながりを理解し、自分の意見を言うようになっていく。

 

自信を持った可免は、最高の芸者は最高の人、総理大臣、伊藤博文を後援者としなくてはならないと決意した。

そこで、頼み、快諾を得る。

伊藤の後ろ盾で、一本立ちの芸者となり貞奴と名乗ることになる。

わずか一六歳で、芸事をすべてこなし一人前の芸者になるのだ。

これも異例の出世だ。

 

二 桃介との出会い

貞奴が芸事の修行を続けていた一八八一年のことだ。

修行は楽しかったが、慣れてくると、それだけでは満足できない好奇心がむくむくもたげてくる。

そして乗馬に惹かれた。動くこと、動くものが大好きなのだ。

可免に「乗馬を習いたい」と頼んだ。貞奴の望みを何でも叶えるお不動さまは、可免だから。

 

そこで、可免が、ごひいき客でもある名高い馬術の名人、草刈庄五郎(1831-)を推し、連れて行ってくれた。

庄五郎の元には、名家の子女から芸者衆まで幅広い活発な女性が集まっていた。

こうして、乗馬を習うことになる。

 

江戸時代、仙台藩に八条流馬術師範家として仕えた草刈家。

古く一五〇〇年代半ば、甲斐源氏、小笠原氏から馬芸を学び、独自の馬術を編み出した八条流の妙技が高く評価される。

馬術は武士が学ぶ武芸の一つであり重要だった。乗馬は武士以外には許されなかった。

以後、諸藩の馬術師範となるが、特に、仙台藩・尾張藩では八条流が独占的に教えた。

仙台藩江戸屋敷で馬術師範をしていた草刈庄五郎は、新しい時代となり役目を終え、同じく馬術師範をしていた尾張藩の出資を受けて、本所緑町(墨田区南部)に馬場を開いた。

 

そんな時、一八七一年(明治四年)新政府は町民でも、馬子(馬を引く人)がいなくても、馬に乗ることを許す。

つまり、武士しか乗馬できなかった制度を廃止したのだ。

生徒の減少に頭を痛めていた草刈庄五郎は、新政府の意向を好機と見た。

望むもの誰にでも馬術指導を行った。

名人芸を持ち、教え方もうまい草刈庄五郎に習いたいと、裕福な町民らが集まってくる。

自信を得た草刈庄五郎は、もっと生徒を増やしたいと、男女の制限をなくした。

そのことが話題となり、裕福で運動神経に自信のある女性が次々馬術を習い始めた。

すると、相乗効果で、芸人から商工業者まで男性も増え、乗馬を習うのが流行となっていた。

 

まだ一〇歳の貞奴だったが、乗馬を始めると、すぐに慣れ上達する。

馬場でいろんな女性と巡り合い楽しくて仕方ない。

多くの著名な女性に可愛がられた。

 

中でも道場一、有名だったのは唯一の女性の代言人(のちの弁護士)として一世を風靡した園輝子だった。

お召縮緬(将軍が好んだ最高級の絹織物)の羽織に仙台平(仙台だけで作られる最高級絹織物)の袴でさっそうと馬に乗り、隅田川べりを疾走する姿は黒山の人だかりだったと聞かされた。

貞奴が習い始めた時はすでにやめていたが。

新政府は、代言人に関して次々決めていく。

一八七二年(明治五年)司法職務定制により代言人が設けられる。資格は必要なかった。

一八七六年(明治九年)代言人規則が制定され試験による免許制になる。性別は問われない。

一八九三年(明治二六年)弁護士法が制定され、弁護士は成年男子と決まり女子は排除される。

 

園輝子(1846-)は一八七四年から代言人(弁護士)となり多くの顧客を持ち、一一年続け多額の収入を得た。

免許制になり、しばらくは免許がなくても仕事が出来たが、試験に合格し免許を取る必要が出てくる。

だが、女子を教える学校はない。試験を受けることさえも難しくなる。

男女を問わない受験資格だったのに、女子で試験を受けた人はいない。

男子しか代言人になれない現実を知った。

代言人になることはあきらめたが、このままでは納得できない。

アメリカでは女子の教育の場があると聞く。アメリカでは代言人に女子もなれるのだと信じた。

そこで、アメリカの先進的な女子教育の在り方を学び日本で活かすと決意し、一八八五年 (明治一八年) 渡米する。

 

輝子は、渡航前に面識のあった福沢諭吉にあれこれ相談をしている。

諭吉は「婦人の洋行の皮切りとしては大賛成だ。だが男子の洋行では日本の金を捨てて来たものも多い。無一文で行って大いに稼いで持って帰って欲しい」と皮肉を込めた冗談を言いながら賛成した。

福沢諭吉の長男、一太郎・次男、捨次郎も留学しているが、投じた資金ほど勉強していないと不満があった。

輝子の少し後、留学させた桃介には、お金をどぶに捨てたと怒った。

 

照子は必死で学んだ。

そして、意気揚々と一八九三年帰国後、福沢諭吉に会う。

アメリカで自伝を出版し資金を得て、女性の権利拡大のための運動を続けたと報告した。

諭吉は、皮肉が真実となり、黙って呆然と見つめ「吾々男は、恐縮の他はない」と話したと話した。

 

帰国後、倚松女塾学校を作り教育者となる。

貞奴は、園輝子の生き方をすごいと思い、話題になったり、新聞に掲載されるとよく読んだ。

折々、思い出す。二五歳年長の尊敬する人だ。

 

馬術を習い始めて五年、運動神経抜群の貞奴一五歳、愛馬を持ち、息もぴったりで乗馬に自信を持っていた。

草刈庄五郎は、馬術とは愛馬との話の中で生まれると教えられた。

愛馬の思いがわかるようになり、上達したのだと思う。良き師に巡り合えたと誇りに思う。

折々、宣伝を兼ねて、馬術の演習会が開かれる。

すると、貞奴の練習にも力が入る。

そして、五〇㎞以上も離れた成田山新勝寺までの遠出を決めた。

気楽に一人でお参りするのだ。可免もお参りに行くと言えば、許した。

 

さわやかな風に吹かれ、颯爽と愛馬と共に走った。

見慣れた成田山新勝寺なのに、新鮮で美しく感じる。

良い気分に浸りながら、愛馬と共に、ゆっくりお参りを済ませると、晴れ晴れとした気分になったが、予想以上に時間がかかってしまった。

急いでの帰途、運悪く野犬に遭遇し、馬が立往生してしまう。

人馬一体となって訓練を続けている愛馬であり、貞奴とは強い信頼関係で結ばれている。

それでも愛馬が興奮すれば何が起きるかわからない。

愛馬にけがをさせることはできない。貞奴も振り落とされたくない。

鞭で振り払いながら野犬が去るのを願ったが、対峙したままで動きが取れなくなった。

 

その時、現れたのが岩崎桃介だ。

すぐに事情を呑み込み、棒切れを持ち、必死で野犬を追い払ってくれた。

これが桃介との運命の出会いだった。

貞奴は強度の緊張から逃れほっとし桃介に礼を言うのが精いっぱいだった。

桃介は「岩崎と言います。慶応の学生で寮生活だ」と言っただけで立ち去った。

 

貞奴は、家に戻っても誰にも言わず、桃介との夢のような出会いを思い出しては、にやにやドキドキだ。

桃介は俗世間に汚れていない超然とした品の良い学生だった。知らない世界の人のようで新鮮だった。

出会いを導いてくださったお不動様に感謝する。

しばらくは夢の中にいるようだったが、いてもたってもいられなくなり行動を開始する。

学生ではとても買えない高価なお菓子をもって、慶応の寮を訪ねた。

桃介が真実を言ったかどうか分からず不安だったが、ちゃんと会えた。

貞奴は会えてほっとした程度だったが、桃介の驚きは普通ではなく、言葉も出なければ地に足がつかないほど慌てふためいた。

周囲の友人たちの冷やかしに照れながらも、嬉しさを隠せない桃介の初々しい顔に引き付けられる。

 

貞奴は初恋の人に再会できた。お不動様のご加護だと、ほおが緩む。

その後も、理由を付けては、慶応の塾舎を訪ね、楽しい時間を共に過ごす。

桃介の好きそうな手土産を持って語らいの時を持つのだ。

初めて知った胸が痛くなる思いだった。

 

ところが突然、桃介はアメリカ留学へと旅立ち、初恋は終わる。

一年にも満たない短い付き合いで、理由を聞くこともなく終わってしまった。

芸者仲間や、お座敷で知る世界とは全く別の世界を垣間見て、桃介が好意を抱いていると強く感じていたのに、信じられないあっけない結末だった。

とても大切な時間だったが、苦い思い出に変わる。

 

貞奴が一本立ちの芸者としてお披露目する時期が近づきとても忙しく、感傷に浸る間はなかった。

だが五年後、一八九一年(明治二四年)桃介の貞奴への想いは終わっていなかったことを知る。

貞奴二〇歳で、上野池之端での母衣引競技会に出場。

一反一〇メ-トルの長い絹の布をなびかせて疾走した。

だが、白布が池畔の柳に引っ掛かり貞奴は、宙を舞うように落馬。

驚き駆け寄る関係者観衆。その中に桃介がいた。

貞奴の柔らかい身体は衝撃に耐え、けがはなく、桃介の心を見て、うなづいただけだった。

 

三 貞奴、一流芸者に

可免は、最高傑作の芸術品であり心からいとおしむ貞奴の後援を伊藤博文とした。

一流芸者としての格を保つには多額の資金援助が必要であり、パトロンは必要で総理大臣と決めたのだ。

当時、日本政界一の権力者、伊藤博文が、総理大臣だ。貞奴も「彼がいい」と簡単に了解した。

 

貞奴は「もう二度とない機会です。皆に精一杯一人前になった礼をする」と考えた。

母兄姉、養母、可免や親しい人に大判振る舞いするのだ。

資金を出すのは、伊藤博文。伊藤がびっくりする莫大な手当てを望む。

交渉するのもお金を得るのも可免であり、うまく交渉した。

貞奴は、計算が得意で計算高くお金を集める。最後まで使い方を管理するのは苦手だったが。

 

可免は丁寧に、だが、胸を張って伊藤とお金の交渉をする。貞奴にはそれだけの価値があると。

伊藤も人生で一番羽振りがいい時で、笑顔で、思い切り気前よく出してくれた。

一八八七年(明治二〇年)春、伊藤博文の後援で、貞奴は一本立ちした。

「貞奴は稀有な芸者だ。お金に糸目をかけず飾れば誰もがうらやむ芸者になる。それを出来るのは自分しかいない」と自画自賛した。

貞奴を磨き上げることで、皆が伊藤の力に驚く構図は、男みょうりに尽きる。

また、そんな貞奴の第一の人となるのは心嬉しい。

 

その夏、伊藤は大日本帝国憲法草案作成のために神奈川県夏島(横須賀市)の別荘に宿泊した。

貞奴が「一緒に行きたい」とねだり、伊藤はうれしそうに連れて行く。

以後、伊藤の行くところ、貞奴ありと言われ、政治の場にも顔を出す貞奴見たさに人が集まるようになる。

討論の場にも顔を出して、座を盛り上げたり聞き入ったり、時には思うことを言ったりと自由に振舞う。

伊藤はその様子が好きで、思うようにさせた。

最高の環境で政治状況を知り、一流の政治知識を身につけ、情報通の知識人となっていく。

おおらかな時代であり、公私混同が許されていた。

 

こうして、総理の側で愛を独占する貞奴は、すごい芸者だと評判になり、噂は噂を呼び、貞奴は瞬く間に売れっ子の芸者となる。

座敷に招きたいと望む客が引く手あまたあり、玉代(花代)は望みのまま、ご祝儀も弾まれて高額のお金を得る。

潤沢なお金に恵まれた貞奴は、怖いもの知らずだ。

何でも手当たり次第に好奇心に任せて飛びつく。

愛馬を乗り回し、花札や玉突きに熱中したりと、芸者の枠を超えて、自由に遊びまわる。

そんな奇想天外な動きが話題となり、ますます超売れっ子となりお座敷は引っ張りだこで、法外なお金を稼ぐ。

 

また、貞奴は、隅田川で泳ぐ人たちを見て、泳ぎたいと思う。

日本製の水着はない時代であり、女子が水泳を楽しむ時代でもなかった。

そんな常識が通じる貞奴ではない。臆することなく裸に晒を巻いて泳いだ。

面白がって泳ぐ人を真似ながら、流れのある中で泳ぎ、楽しんだ。

際立つ美貌の貞奴だ。

すぐに評判になり、その姿を一目見ようと黒山の人だかりができた。

 

貞奴は 当時の常識では考えられない行動がいとも簡単にできた。

しかも、皆が「貞奴ならやりかねない。当たり前だ」と思うのだ。

人々の羨望の的となり、日本一の芸者だと自他ともに誇る。

 

伊藤の同郷の友人、井上肇(1836-1915)と貞奴(1871-1946)は仲良しだ。

政治家としても高名だったが、生まれがそれなりに良かったせいもあり、多趣味で、贅沢、気難しい。

貞奴の幼い頃に通じるところがあり、父のように思い、その博識を尊敬した。

理財に関してもわかりやすく説明してくれ、後々のことだが、貞奴の事業欲・渋沢栄一とのつながりへと広がる。

何よりも欧化思想を積極的に取り入れ、欧米に負けない国劇の創造を目指す話を目を輝かせ聞き、大好きだった。

短期で怒りっぽいと聞くが、貞奴には気の合う素晴らしい友人だった。

 

泳ぎが好きな井上肇が、貞奴の隅田川での泳ぎを知り、面白そうにどんなだったか聞いた。

そして、貞奴に水泳の話をした。

見よう見まねで泳ぐことはできた貞奴だが、筋の通った理論を学びたくなる。

「水泳とは何か。泳ぎ方を教えてほしい」と甘えた。すぐに、井上肇は教本を用意して熱心に教えた。

だが、日本製の水着はない時代で、貞奴は平気で裸に晒を巻いて教えられたとおりに泳ごうとする。

その様子を見た伊藤は「それは、だめだ。日本の恥だ」と、すぐにパンツと長袖つきのワンピースを組み合わせたような舶来物の水着を取り寄せた。

こうして、貞奴は水着を着て水泳を楽しむことになった。

 

七月、東海道線が東京新橋と国府津間(小田原市)に開通し、神奈川県大磯駅ができる。

二年前一八八五年(明治一八年)陸軍軍医トップ、松本順が大磯海岸に日本初の海水浴最を作った。

松本順は、オランダ軍軍医のポンペから海水浴を使う医療を学び、実践すべき地を探し、大磯海岸を見つけたのだ。

将軍、家茂の治療も、近藤勇以下新選組の治療も行なった幕府の筆頭医だった。

その後、新政府に転じ、帝国陸軍軍医トップとなった。

優秀な医師であると同時に、日本国・日本人全体の医療を考える政治家でもあった。

松本順が先頭に立ち、大磯駅を作り、活用し、海水客を呼び込み、名勝地として発展させようとした。

 

そのために、伊藤博文を始め、政財界一体となって取り組んだ。

八月には二階建ての大屋根の巨大な建物、病院を兼ねた旅館、濤竜館が完成し、集客を始める。

ここで、伊藤博文は、応援と宣伝を兼ねて、貞奴と共に濤竜館に宿泊する。

本当に気に入り、後に、自分の別荘、滄浪閣を建てるほどになる。

 

この時は、総理大臣お気に入りの避暑地として話題になる。

そこに、貞奴がいたからでもある。

伊藤博文は、貞奴の水着姿を皆に見せたくて機嫌良く「隅田川はだめだが、ここで思うように泳ぎなさい」と言う。

すると、貞奴は得意そうに、思う存分に泳ぐ。その姿は珍しくあまりにも美しい。

そこで、伊藤博文は、政府要人に気取って貞奴の水着の説明をする。

貞奴の水着姿が新聞に大きく取り上げられる。

すると、貞奴の水着が有名になり舶来水着を求め泳ぐ女性が増える。

海水浴にも関心が高まり、水着姿が多くの人の目に触れ、水着も海水浴もますます広まる。

大磯の海岸では、水着の女性が海水浴をするのが流行となる。

この後、各地に海水浴場が出来て海水浴が全国に広まり、男女を問わない娯楽、スポーツとなり定着していく。

 

貞奴は、政府が目指す外国と対等に付き合える文化を持つ日本国を目指す環境づくりに貢献したのだ。

伊藤博文の役に立ち、日本文化と外国文化の懸け橋になるのは楽しかった。

自分の果たした役割を知り「女性の海水浴と水着を広めたのは私」と調子に乗ってにこにこだ。

 

四 貞奴、演劇を知る

伊藤博文は、近代国家、日本を誇示するために、欧米人に見せて恥ずかしくない演劇を作ろうとした。

そして、一八八六年(明治一九年)、末松謙澄(1855-1920)らに「演劇改良会」を設立させた。

末松謙澄はイギリス留学が長く、文化法律に精通しており適任だと考えた。

歌舞伎を近代社会にふさわしく変えることや、歌舞伎しか無い日本の演劇界に新しい演劇の道を開くことが目的だ。

明治天皇の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させ、出足は良かった。

一八八九年(明治二二年)、末松謙澄は見込まれて伊藤博文の娘、生子の夫となる。

以後、後ろ盾を得て出世していく。

 

末松謙澄を伊藤に紹介したのが福地桜痴(1841-1906)。

伊藤博文に随行し海外視察に行き、政府系「東京日日新聞」発行所、日報社に入りジャーナリストとして入り、健筆をふるい、影響力大で社長になった。末松謙澄は同新聞の記者だった。

福地桜痴は、武士(幕臣)から始まり、ジャーナリスト・作家・劇作家・政治家・衆議院議員となる。

幼演劇改良運動の中心となり、日本の芸術活動の向上に関わった。

その一環で、洋風建築の大劇場を建て新しい装置を取り入れた舞台での芸術活動を行おうと企画した。

福沢諭吉のライバルとされる影響力代の文化人であり、並び称される才知があった。

 

同じ年、六月、福地桜痴・渋沢栄一・大倉喜八郎など政財界の有力者と地元有力者の協力で日本橋蛎殻町に洋風演芸の大劇場「友楽館」が完成した。

その落成式に慈善芝居が企画され、芸者達に出演依頼が来る。

新しいことが大好きな貞奴は、喜んで受けた。

今をときめく話題の一流芸者、貞奴が主役を演じ、切符を売りさばき、自らも切符を買うという大活躍だった。

貞奴演じる慈善芝居は大好評で「友楽館」の歳末の慈善公演は恒例化する。

 

翌一八九〇年、男女混合劇を許す訓令(行政機関が権限行使するための命令)が出る。

それまで、芝居は男の役者のみ、女の役者のみでしか演じることができなかったが、男女共演を認めたのだ。

「友楽館」で男女混合劇を行うためでもあった。

だが、女優はおらず、男女共演の劇は難しかった。

歳末の慈善公演だけでは興行にならない。

せっかくの舞台が活かされないまま、経営難となり五年後、閉鎖されてしまう。

 

それでも女優を目指す動きが出てくる。

それまで、女優が認められていなくても、すべてを女性で演じる女役者一座は数多くあった。

歌舞伎の一段下の評価だが、女優の名はつかなくても、演じる女性はいた。

名優、市川久米八は代表格だ。

女優が求められるようになると、率先して市川団十郎の弟子となり女優となる。貞奴の年長の友だ。

 

一一月、福地桜痴らが強力に推し進めた「歌舞伎座」が木挽町(中央区銀座)に完成する。

外観は洋風、内部は日本風の三階建て檜造り、客席定員一八二四人、間口十三間(二三m)の舞台を持ち、最新の設備を導入した大劇場だ。

最新設備の舞台での芸術活動として、歌舞伎が上演される。

「友楽館」での男女混合劇は失敗だったが、歌舞伎界は役者が揃っており、より盛んになっていく。

 

貞奴は演劇改良運動を進める有力政財界人と親しく付き合い、芸者芝居を演じ協力する支援者だった。

だが演劇改良会は新しい演劇を目指すのか伝統ある歌舞伎の近代化を図るのか、立場が不鮮明で二年で解消される。

演劇への興味を深め、伊藤博文との繋がりで日本文化を牽引する人脈との付き合いが始まったのに残念だった。

もっと演劇を知りたいと、歌舞伎役者をひいきにするようになる。

 

こうして、歌舞伎にのめりこんでいく。

この頃、好きな歌舞伎役者の後援者となって、金銭的にも支えるのが成功した芸者の証だった。

政財界の大物にひいきにされ、大きく稼ぐゆえの必要な散財と見なされた。

貞奴は、芸者のひれにするのは嫌で、積み重ねられた歌舞伎界の奥深さを理解したくて熱心に、観て聞き話す。

中村歌右衛門・尾上梅幸ら幾人かをひいきにするが、貢ぐ間柄になるのを嫌い、割り勘で対等に付き合った。

そんな貞奴の人気は歌舞伎役者の中でも絶大で、結婚話も出るほどだ。

 

成田山のお不動様への信仰が深い市川団十郎との親交が生まれたのもこの頃だ。

貞奴は、多くの歌舞伎役者と知り合うが、女性を活かせない歌舞伎に飽き足らないものを感じ新派に興味が移る。

歌舞伎役者との付き合いで、演劇を見る目、知識を身につけた。

この間の幾多の経験で、日本文化の表現に関心を持ち、女優となる下地を作っていった。

 

五 音二郎との出会い

一八九一年(明治二四年)貞奴は流行歌「オッペケペー節」の評判を知る。

見ておかなくてはとの思いが募り、可免と共に見に行く。

川上音二郎の世情を風刺した舞台「オッペケペー節」は面白かった。

大いに笑った後、川上音二郎をじっくり見た瞬間、この人だと閃光が走った。貞奴二〇歳だった。

演劇が終わるのを待ちかね、楽屋に訪ねる。

「感動しました」と芝居の感想を熱く語り褒めた。

 

音二郎は、雲の上の人、超人気者で芸者随一の稼ぎを誇る貞奴の登場に、浮足立つ。

驚きながらも胸躍り、丁寧に、お礼を言う。

落ちついてくると「この機を逃しては機会がない。何としてもひいきにされて後援者にする」と、反対に精一杯のお世辞で貞奴を褒めあげる。

 

貞奴は、演劇の品位向上・新しい脚本の創作・新劇場の建設を目指す「演劇改良会」を理解している。

伊藤博文の側近で演劇に関心がある金子堅太郎とも、とても親しい仲だ。

金子堅太郎から、同郷の書生芝居(壮士芝居)を演じる音二郎の話をよく聞いていた。

「音二郎の上質の演劇を作るとの熱い思いに共感している」と音二郎が上層階級・外交官・軍部の支援が得られるように心掛けていた。

 

貞奴は音二郎への予備知識を得て、関心を持っていた。

そして思い通りの人物だと確信したのだ。

音二郎は、歌舞伎とは異なる新派を創造すると意気込み、舞台の外でも歌舞伎界の古いしきたりに批判の声をあげた。

そして、歌舞伎に対抗して、にわか芝居「壮士芝居」を始め役者になった。

演劇といえば歌舞伎と思われて、役者の一族か特別のコネでも無いかぎり歌舞伎役者になれない時代だった。

音二郎は、それを一変し素人でも役者になりたければ一流の演劇人になれる時代が到来したと、身をもって証明しようとしたのだ。

歌舞伎とは違う風刺芝居「書生芝居(壮士芝居)」は、新鮮で、庶民の圧倒的支持を得た。

音二郎の試みは、大成功だった。

 

以後、音二郎に誘われて、貞奴は舞台を見て、楽屋を訪ねるを繰り返す。

音二郎は、新しい演劇への熱い夢を語り、経済支援を求める。

貞奴は、にっこりと金を出す。

荒けずりな演技ながら明快な思想を持つ音二郎と価値観が共有でき、この人こそ共に生きる人と確信していく。

 

音二郎は、昔、福沢諭吉の目に留まり、推挙を得て、書生となり慶応塾舎の用務員として働きながら講義を受けたことを話す。

慶応の聴講生だったのだ。

だが、自由民権論者の地が出て、諭吉に逆らう言動したために追い出されたと、懐かしそうに話す。

あの初恋の人、岩崎桃介も、諭吉に見いだされ、アメリカで勉強し、立派になって結婚した。

諭吉は有望な若者に対しては暖かい配慮をするが、諭吉に服従するのが絶対条件で逆らうと厳しい人だと知っている。

 

貞奴は、桃介を取り込まれた恨みがある。

諭吉には、絶対に負けたくないと対抗意識を持っている。

音二郎が諭吉に追いやられたと聞くと、めらめらと闘志を燃やす。

貞奴には諭吉と対抗できる伊藤博文を始めとした政財界人とのつながりがある。

特に諭吉のライバル福地桜痴とは親しく、芸術・文化でなら勝てる相手だと思う。

一本気な義侠心をくすぐられ、近代的な演劇活動の実現に燃える音二郎を世に出すと決意する。

 

裏切った桃介に負けたくない意地もある。

ここから、貞奴の活躍が始まる、目的を見出すと信じられない力がわくのが、貞奴だ。

音二郎の為に切符を売り、ひいきの客に紹介し、宣伝を兼ねてよく見物する。

話題作りは得意だ。

有名な貞奴が入れあげる音二郎を見てみたいと観客がどんどん増える。

貞奴の助けで、音二郎の「書生芝居(壮士芝居)」に自信がみなぎっていく。

どの興行もますます盛況だ。

この成功に満足し、さらに音二郎を飛躍させるために、貞奴は伴侶とすると決める。

 

花街は伝統に縛られていると窮屈になっていたのだ。

芸者に飽きた貞奴は、稼ぎも名誉もすべて捨てて、音二郎と新しい演劇の世界を作ることに賭けると決めた。

芸者として頂点を極め、実家に十分孝行し、養母にも借りは返している。しがらみはない。

 

次々と新しいことに挑戦する喜びが、貞奴の生きる支えだ。

繰り返しの判で押した暮らしだと、意欲がなえて、すべてどうでもよくなってしまうのだ。

音二郎の夢を何度も聞いて、具体的に何をすべきかわかっている。

音二郎を伴侶とし音二郎の夢を叶えると、可免に堂々と決意を示す。

 

伊藤博文にも想いを話す。

そして、側近の金子堅太郎を通じ、音二郎を伊藤や西園寺公望や土方久元に引き合わせ、文化先進国、フランスでの演劇視察の了解と支援を得た。

貞奴と金子堅太郎の連携は強く説得力があった。

駐フランス公使への紹介状も受け取る。

こうして、一八九三年、桃介に対抗して、音二郎をパリへの遊学の旅に送り出す。

 

音二郎と相談の上で進めた計画だったが、喜んだ音二郎は、パリ遊学に飛びつき頭はいっぱいになり、それ以外は手につかない。

すべての準備が整うと、急きょ出発してしまう。川上一座の座長でありながら、一座の者には何も言わないで。

後先構わず動くのは、貞奴の比でない音二郎は、川上一座を忘れていた。

音二郎の人気で持っていた川上一座は、座長のいなくなると火の消えたようになり、観客の入りは急減、座員の収入はわずかとなった。

貞奴は、川上一座全員の面倒を見るしかなくなる。

音二郎のいない四か月間、芸者の稼ぎで彼らの生活費を出したのだ。貞奴の本領発揮、良い気分だった。

 

パリから戻った音二郎は、新派の未来図(三か月近く航海にかかり視察は一か月余りだったが)を洋々と語る。

あまりの無責任さに怒りの言葉も出ないが、貞奴はパリに送った甲斐があったと嬉しそうにうなずいた。

 

すぐに結婚の準備にかかる。

桃介と同じようにしなければ気が収まらない。豪華で華やかな結婚式を挙げるのだ。

結婚するには、まず、長年の後援者、伊藤の賛成を得なければならない。

伊藤の賛成がなければ芸者をやめることもできない。

伊藤は貞奴を愛しており、簡単にこれで終わりとはいかない。

それでも、貞奴には怖い物はなく、最後に十分な祝儀を貰うのだと、結婚式を思い浮かべ、にこにこだ。

 

こういう相談は、金子堅太郎しかいなかった。

「任せてくれ」と笑ってうなづいた金子堅太郎は、伊藤に「貞奴はあまりにもお金がかかりすぎます。時局は大きく動いており、評判に響きます。そろそろ身を引かれては」と進言する。

清軍との衝突・朝鮮をめぐる主権の争いと難問が山積みし、日清戦争が起きる直前だった。

時局は貞奴に幸運をもたらした。

伊藤も「いつまでも大金使いの貞奴を囲っておけない」と、わかっており未練はあったがしぶしぶ納得する。

 

一八九四年(明治二七年)貞奴二三歳、あしかけ四年の付き合いにけじめをつけ、川上音二郎三〇歳と結婚する。

七歳の年の差だが、二人並ぶと、年の差は感じさせない。

貞奴の落ち着いた姉さんぶりと音二郎の若々しさがうまくかみ合っていた。

音二郎も結婚を望んでいた。感謝しきれないほどの恩があり、結婚できて幸せだった。

だが、貞奴が芸者をやめるとは思いもしなかった。

 

貞奴の芸者としての稼ぎに頼りながら川上一座は成り立っていた。とても大切な後援者だった。

また、貞奴が働いている間は、音二郎は自由に遊ぶことができ、好都合だった。

貞奴がやめると言えば、止める事は無理だとよくわかっており、あきらめるしかないが「援助資金が減るのは困るなあ」と、ぶつぶつ不満を言う。

 

貞奴主導で結婚話は進む。音二郎は大手を振ってついていくだけだが、それで十分幸せだった。

こうして、金子堅太郎を媒酌人に伊藤に祝われて、盛大な結婚式を執り行った。

 

神田駿河台に、部屋数一五、庭付きの家を借りて、門弟一同と同居する。

貞奴は新婚時から、一座の面倒を見る姉御だった。

 

六 川上座、完成

音二郎が貞奴に熱く語った夢が、外遊と自前の劇団だった。

怖いもの知らずで太っ腹の貞奴は「何でもない事」と応じた。

まず、音二郎をパリに送り出した。

次は劇団を作ることと思いを巡らし、動き始めた。

川上一座の面倒を見ながら「川上座」建設のために支援者からの寄付を願い、自らの私財をなげうって、神田三崎町に土地を見つけた。

音二郎が戻ると二人で買った。

音二郎の夢をほぼ実現させ、結婚したのだ。

 

音二郎は、座員に何も言わず、秘密裏にパリに行った。

その後、川上座は演劇を続けるも、興行的にはさっぱりで、一座に不満が募った。

座員の暮らしは貞奴が面倒を見たが、音二郎への不信感までは払しょくできなかった。

音二郎は、帰ると草案を練っていた「意外」シリーズの興行で再起を図り、大好評で成功する。

それでも、一座にぎすぎすとした緊張感が続いた。

ここで、新居ができた音二郎は、自信をもって不満分子と別れる。

そして、川上一座を再編する。

 

一八九四年(明治二七年)八月、日清戦争が勃発する。

音二郎は、この日を待っていた。すぐさま、戦争劇を始める。

ニュース映画のない時代であり、だれもが、戦争報道を待ち望んでいた。

そこに、確かな情報を盛り込み、臨場感あふれる抜群のリアルさで音二郎の戦争劇が始まった。

観客が詰めかけ、ニュース映画の代わりとなり、歌舞伎をしのぐ力ありと絶賛される。

評判を確認すると、すぐに音二郎は現地に飛び取材する。

素早い行動力で生の現地の情報を得て戻り、現地を再現した演劇で戦況を知らせ、観客は大歓声だ。

 

一二月九日、皇太子(大正天皇)を迎えて、上野公園で東京市主催の旅順占領祝賀会が行われた。

金子堅太郎らに推され、皇太子の御前で音二郎は野外劇「戦地見聞日記」を演じる。

皇太子は笑顔で熱心に観られた。

翌年四月には勝利し講和条約が結ばれたが、ロシア・フランス・ドイツから遼東半島の返還を求められ、圧勝の結末とはならずに日清戦争は終焉した。戦争劇もしぼんだ。

 

それでも音二郎には勢いがついて、五月、日本演劇の頂点、歌舞伎座での上演を決める。

音二郎は市川団十郎に弟子入りを願ったこともあり、団十郎も新派に興味を持っており、親交があった。

そのこともあり、金子堅太郎らのおぜん立てで、他の歌舞伎役者の反対を押し切って、団十郎が了解し歌舞伎座公演が実現した。

音二郎は、歌舞伎界の雄、団十郎専用の楽屋に入り、得意がる。

 

貞奴は音二郎を桃介に匹敵する文化人とし「新派演劇の発展に尽力する」と張り切った。

今まで十分自由に好きに生きてやりたいことをした。

次は音二郎を支え内助を発揮して新しい演劇を進めるのだ。

周囲は貞奴が内助で我慢できるはずはないと冷たく眺めたり心配したりだ。

芸者をやめたことを嘆いた者も多い。それでも、何を言われようとも新しい門出に意気揚々としていた。

 

結婚後も、後援してくれる多くの知人がいる。音二郎の広告塔となり資金を集め支えた。

歌舞伎座上演にも力を尽くし、実現させたのは、貞奴がひいきにした歌舞伎役者の尽力が大きい。

ところが音二郎は貞奴の予期した以上に自信を持ってしまう。

そして「川上座」の壮大な完成図を皆に言いまくる。

世界を見てきた日本の新しい演劇運動の先駆者として、新派を引っ張ると自信満々なのだ。

 

歌舞伎も含めて、演劇活動に携わる役者は、河原乞食と見なされた時代だ。

世間の評価は低く卑屈な思いで、演劇人は演劇に携わっていた。

だが、貞奴は、歌舞伎役者を数多く知っている。

歌舞伎であろうと政財界人であろうと人として変わることがないと確信している。

しかも新派は歌舞伎と違いわかりやすく面白い。

これこそ本当の演劇であり、大きく伸ばさなくてはならないと、無鉄砲にも思い込み音二郎以上に張りきった。

 

こうして二人は、演劇の改良は、劇場からの改革と高らかにぶち上げた。

新派は歌舞伎に反旗を上げながらも、歌舞伎のための劇場を借りることでしか演劇できず、限界がありすぎたのだ。

土地の購入が精いっぱいの中、貞奴の持つ資金、興行から残したお金すべてをつぎ込んでも建設費が足りない。

借り入れも目一杯した。だが音二郎は建設途中も次々注文を付け建設費が膨れ上がっていく。

借入も限界となり、ついには高利貸しのお金まで借りた。

一八九六年(明治二九年)六月、三年の歳月をかけ、川上座がようやく完成する。

 

建坪二一二坪(約七〇〇㎡)。三階建て洋風建築の劇場だ。

桟敷一五〇人、平土間五七二人、大入り場三五四人、計一〇七六人収容できた。

歌舞伎座の半分程度だが、貞奴は面目が立ったと感無量だった。

だが、興行に成功し大入りとなっても、高利貸しへの返済に追われる。

 

七 音二郎の民権運動

音二郎は、もともと自由民権運動の壮士だ。

官憲の弾圧で政治的発言をする場を失って演劇活動に転じた。

川上座は盛況なのに借り入れは減らず、日々の資金繰りが苦しくなるばかりの現実を突きつけられた。

貞奴も音二郎もお金の工面に迫られるばかりだった。

いつものように、音二郎が先に根を上げ、演劇が嫌になる。

そして「公演だけでは限界だ。政治の力なくしては立ち行かない」と言い始める。

 

貞奴のおかげで今が成り立っているのが良く分かっていた。

その力を新派演劇だけではなく、政治にも生かせるはずだと考えた。

貞奴の人脈に目を付け、利用すれば何とかなると考えた。

音二郎が貞奴を抑えられないように、貞奴も音二郎を抑えられない。音二郎は政治活動に傾きのめり込む。

 

音二郎は、昔は無鉄砲に主義主張を貫いて手痛い目に遭ったが、今度は貞奴という素晴らしい広告塔がいて、金を持っている人脈があるのだ。

今度は合法的手段で選挙活動すると威勢がよい。

そして選挙に出てしまった。

貞奴の資金は、伊藤博文など政府を率いる権力者から得たお金だ。

音二郎は支援組織作りなど地道な活動は苦手で出来ない弁士だ。

新演劇の保護など高尚な政治理論を展開し、たった一人で選挙に打って出た。

政党も支援組織を持たず独自の政治理念を貫く音二郎の為に、貞奴がいくら頑張っても集められる資金はわずかだ。

しかも選挙権を持っているのは税金を払っている一部のお金持ちだけの時代だ。

 

一八九八年三月、音二郎は政治家を気取って当選の見込みありと考えた、荏原郡入新井村字不入斗(大田区大森)の白亜の洋館に移り住み立候補した。

第五回総選挙だ。

途中、選挙資金がなくなり、また、手当たり次第に借金する。

結局、借金で選挙運動を行い、予想通り落選。

ここで成立した伊藤内閣だったが、半年で総辞職。

八月に第六回総選挙となるが、音二郎は懲りずにまた、立候補した。またも落選、さらに増えた借金が残っただけだ。

 

貞奴は音二郎と共に選挙運動を行い、協力した。

貞奴見たさに黒山の人だかりはできるが、票にはならない。

政治家、音二郎の演説を聞きたい人はわずかだった。

二度の失敗で、音二郎の壮大な夢は楽しいけれど、実現は難しいと身をもって知る。

音二郎は現実を真正面に受け止め進むのではなく、まず夢が先にあり突き進んでしまうのだ。

 

落選直後は「借金だけが残ったね。仕方がないわね」と貞奴は開き直って大笑いした。

金も力もあり希望を叶えてくれた伊藤博文とは違うと、これからを思い、音二郎を改めてじっと見る。

黙ってついていけば、奈落の底に行きかねない、危なっかしい夫だった。

 

すぐに執拗な借金取りが昼夜を問わずやってくる。

想像を超えていた。今まで知らなかった事態だ。たまらず「(音二郎が)無謀な選挙に出た為にこんなことになってしまった」とさんざん文句を言う。

だが、起きてしまったことを、今更悔やんでも仕方がない。

苦労に苦労を重ねて作った川上座も、何もかもなくしてその日食べることも事欠くようになってしまう。

常に強気の貞奴だったが、取り返しのつかない失敗をしてしまったのだと、やけくそになる。

貞奴には貧乏の経験はない。

初めての失敗の衝撃は大きくのしかかり、心の準備ができるまで音二郎を追及し口汚くののしるしかなかった。

 

音二郎も落ち込んだ。

だが、借金取りが来るとすぐに隠れる。

貞奴が、どうにかこうにか言い訳し、追い返すのが、度重なる。

借金取りも、後光がさす輝きを持つ貞奴を前にすると後ろに控えているものの怖さを感じ強くは言えなくなるのだ。

それでも貞奴は返す見込みのない借金に「申し訳ない」と肩を落とす。

そのうち、執行吏(裁判所執行官)が押し寄せ、催促と取り立てが行われる。

貞奴の後光は意味をなさない。

 

ようやく貞奴は「夫婦って、良い仕事をする夫と支える内助の妻で成り立つはずなのに、戦友であり同志として生きるしかないんだ」と悟る。

そして「誰にも負けない芸者芸を持っている。最後には芸が身を助ける」と揺るがない自信を胸に秘め覚悟を決める。

音二郎は悲惨な状況を打開するために必死であがいている。

「もう少しは、音二郎のほら吹きの夢にとことん付き合いましょう」と気持ちを静める。

 

八 貞奴、海外へ。

音二郎は「とても借金の返済はできない、海外逃亡しかない。海外で興行する」と真面目に話す。

「できるはずない」と貞奴は答えたが。

すると、払い下げられた商船学校の全長四mのボート「日本丸」を手に入れてきた。

貞奴は感心し「この人はすごい。面白い」と話に乗った。

同時に金子堅太郎に協力を頼み、一八九八年(明治三一年)八月二七日、清・韓・英・仏・米の海外遊芸修業渡航免状を得る。

海外興業を成功させるとの決意を示したのだ。

 

音二郎は、実家が船問屋も営んでおり、船は身近であり、海外渡航の経験も多く、海には慣れている。

だが、自分の力での航行は初めてだし、腕っぷしが強いわけでもなく、体は弱い。

九月、二人は姪(音二郎の妹の娘)シゲ一一歳と愛犬、福と米・味噌・しょうゆから炊事用具、衣服、海図、磁石、舷灯、浮子などなど航海用具一式を、積み込む。

長さ十三尺(四m)幅六尺(一・八m)の短艇(ボート)『日本丸』は荷を一杯積み、築地河岸から海外に漕ぎ出した。

誰が考えても不可能なことを恥ずかしさもなく大真面目に決行するのが、音二郎だ。

それでも自信がなくて、誰にも言えず、見送ったのは準備を手伝った者だけだ。

 

どうにか出航したが、慣れない航海でありすぐに漂流、東京湾を出ることさえできず、横須賀軍港に迷い込む。

海軍に保護された。

「馬鹿なことはやめろ」と止められるが、大見得を切って出た以上やめられないと音二郎も貞奴も言うことを聞かない。

貞奴は海軍でも羨望の目で見られ特別待遇だ。逮捕はなく、保護され、説得されただけだ。

反対に、二人は、海軍の将校から海流の読み方、舵の切り方など極意を学んだ。

 

それでも、子供だけは許せないと警察に引き渡される。

やむなく可免に迎えを頼み、姪のシゲと愛犬、福を横須賀で預ける。

ここで、貞奴と音二郎逮捕のニュースが報道された。

 

そこで、拘束されてはいない自由な二人は、こっそり、再び漕ぎ出した。

にわか勉強だが、自信を得て、漂流しつつもどうにか、下田に着く。

すでに、絶世の美女、貞奴の無謀な海外逃避行が、新聞で大きく報道されていた。

ボートを見つけた地元の人々が、貞奴が陸に上がるのを助け、もてなした。

必要な物資の補充は地元の人々がしてくれた。

もう引くに引けないと、上機嫌で礼を言い、手を振り出立する。

 

その様子が報道され、大きな話題となり、寄港先々で歓迎を受ける。

寄港のたびに、貞奴の艶姿を一目見たいと人々が集まる。そして、航海の話を聞こうとする。

音二郎は、航海の困難さを訴える大冒険の旅を、とうとうと語る。

事実半分の迫真の演説は拍手喝采され、義援金が集まる。

 

ほとんどの人は、想像以上に小さく可憐であまりに美しい貞奴の勇気に魅せられた。

貞奴の思いを遂げさせたくて、協力し、支援し、船を直し、食料など補給し、送り出す。

寄港を望み、待つ人まで出てくる。

学校の先生が生徒を引き連れて見に来たり、村総出の出迎えでお祭り騒ぎになるほどだ。

 

貞奴は、予想外の展開に驚き、歓迎が窮屈で、沖に出て航行しようと言う。

音二郎は歓迎されるのが嬉しくて海岸沿いにへばりつくように行くのだ。ケンカが続く。

海岸沿いは、座礁しやすい。助けてくれる人がいないところで乗り上げると、少しでも船を軽くしようと二人とも船外に出て、潮の満ちるまで待ち、力を合わせ渾身の力を振り絞って必死で抜け出さなくてはならない。疲れる。

 

潮流の早い相模灘・遠州灘・熊野灘はどうにも制御できず、なすがままに、ハラハラドキドキで通り抜ける。

大型台風・集中豪雨・嵐・アシカの群れが次々襲い掛かり、何度も、死を覚悟する。

それでも「必ずうまくいく」と貞奴は念じた。

二人は持ち前の楽天主義で、笑いながら乗り越えた。

 

だが、体が震える寒い季節が来た。体力の限界を感じもうこれ以上は無理だと思った翌一八九九年一月二日、神戸港にたどりつく。

神戸まで約七〇〇㎞を漕いできたのだ。漕ぐ音二郎、舵を握る貞奴は力尽きた。

音二郎は倒れ、そのまま、入院療養生活となる。

貞奴は、気丈に歓迎の嵐に応えつつ音二郎を看護するが、病状は良くならず「乗るんじゃなかった。取り返しのつかないことになった」と落ち込む。

 

その時、一八九三年のシカゴ万博を取り仕切り有名となった国際興行師、櫛引弓人が貞奴に会いに来た。

米国巡業を頼みに来たのだ。

櫛引はアメリカアトランタに、茶屋・球戯場を備えた日本庭園を造り日系人を中心に多くの客を集め、繁盛していた。

お客が、日本の芝居を観たがった。そこで、演劇一座を招くよう探していた。

だが、日本では海外興業に恐怖感を持つ演劇一座が多く、人気のある一座を見つけられなくて困った。

その時、二人の海外興行を目指す航海の報道を読んだのだ。

川上一座は有名で、アメリカに招くのにぴったりだと、是非にと頼みに会いに来たのだ。

 

明治になって、海を渡った男芸人も女芸人も多いが、まだ、成功したと言われた一座はいなかった。

「苦労した航海に価値があった。待ち望んだ海外興業が実現する」と音二郎は大喜びで、躊躇なく飛びついた。

見舞いに駆けつけていた座員一三名も賛成して、海外興行が決まる。

 

貞奴は事の成り行きに目を丸くするばかりだった。

急転直下、天と地が入れ替わった。

命これまでと何度も覚悟したが、音二郎が夢見た海外公演の道が急に開けたのだ。

無謀な逃亡劇をあざ笑った連中の鼻を明かし大手を振って海外に渡れるのは、小気味よかった。

櫛引弓人は、川上一座についていろいろ聞いていたが、間近に見た貞奴の美貌に釘付けになった。

貞奴が居れば必ず興行は成功すると、笑いがこみ上げ、今までの悩みがウソのように晴れ、元気になった。

 

音二郎も見違えるように元気になった。

そして、内地でのお別れ公演と称して、洋行送別演劇を上演する。

東京には戻れず、神戸愛生座・京都南座・大阪中座での興行だが、川上座の人気は健在だ。

漂流話は有名で、その延長の海外公演、そのためのお別れ公演と人気沸騰の筋書きができていた。

新聞は騒ぎ立て、公演は大成功だった。

無理をして自前の劇場、川上座を持ったことと、選挙資金を借り入れたために、夜逃げとなっただけだ。

東京の借金取りも追いかけて来ず、この資金で大道具小道具衣装と準備する。

渡航費用は櫛引弓人が出し、準備は整った。

 

貞奴は二八歳。

ずっと、桃介が憧れ貞奴を裏切ってまで行ったアメリカを見たかった。

想い焦がれていた夢が実現すると思うと興奮し、観光旅行気分で、ルンルンで旅支度した。

 

知名度があり才能ある二人だからこそ、港々で人気を呼び、興行師を呼び寄せたのだ。

どんな悲惨な状況でも必ずどうにかなるという開き直り、陽気で派手な行き当たりばったりが成功した。

貞奴と音二郎「これからも二人でいれば、どんな困難も乗り越える。必ずできる」と手を握る。

 

九 貞奴、国際女優になる

一八九九年四月三〇日、貞奴の兄、小山倉吉と音二郎の弟、磯次郎と姪のつる(シゲの妹)と座員一四名。

総勢一九名の川上一座は神戸からゲーリック号に乗り込み、アメリカ巡業に出発する。

音二郎と一座の面倒を見るのが精いっぱいの貞奴は、信頼できる兄に、側で助けて欲しいと頼んだ。

兄は妻、冬を亡くし衣装方として同行する。

加納屋を飛び出て迷惑をかけた兄に、アメリカを見せ、少しでも恩返ししたかった。

 

音二郎の目はギラギラ輝き、じっとしていない。

船内で、即席で、演芸会を開催し稼ぎ、寄港地、ハワイホノルルで演説会を開き稼ぐ。

貞奴は「我関せず」と船旅をゆっくり味わった。

こうして一座は、練習を積みつつ船旅を楽しみ、自信満々で五月二三日、サンフランシスコに到着する。

 

貞奴は、初めての海外への旅を満喫しながら、良い気分で船を降りたが、びっくりすることが起きていた。

作られていた宣伝用ポスターの中心に大きく貞奴が描かれていたのだ。

誰が見ても、川上一座一の俳優で、看板女優は貞奴だった。

 

音二郎は、躊躇することはない。

貞奴に歌舞伎の演目「娘道成寺」を主演してくれと頼む。

貞奴は踊りには自信があり劇場公演の経験もあり了解したが、演技も要求される舞踊劇は、拒否した。

 

そこで音二郎は「娘道成寺」の筋書きを変える。

僧、安珍が清姫に恋をし結ばれる。すると清姫は離れたくない、共に逃げようと迫る。

だが、安珍は、寺を出ることはできないと、鐘の中に逃げ込み、清姫と別れようとした。

清姫は逃さないと追いかけ、狂おしい情念が化身し大蛇となり、鐘を焼き尽くす。

鐘を焼かれた道成寺は怒り、女人禁制の寺とし、鐘をなくした。

時を経て、鐘が奉納され、安珍の供養が行われることになる。

そこに、美しい白拍子がやってきて、供養に舞わせてほしいと頭を下げた。小僧たちはその美しさに目がくらみ入山を許す。白拍子は舞いながら鐘に近づく。

その様子で清姫の化身だと気づいたときは遅く、清姫の魔力に寺は翻弄される。

清姫は鐘の中に飛び込むと鐘の上に大蛇が現れて…と続く。

芝居を極力なくし、怒り・喜びの情念の舞で表現した。

 

貞奴はそれでも、踊りだけでは演じきれないと芝居に対する不安を言い、悩んだ。

音二郎は平気だった。日本語のわからない観客が多く、適当なセリフを言っとけばいいと言うのだ。

逃げ道はない。踊りと長唄でできる限り表現し問答は避けることで、上演を決意する。

ようやく、得意の踊りで何とかなると腹をくくる。

桜の頃を背景に女の愛と情念を明るく躍動的に、また哀れに悲しくすさまじく表現した。それ以外は適当だ。

観客は、貞奴に魅了され、興奮し、拍手喝さいだった。

 

日本では出演者はすべて男性、女の役は男が女形として演じるのが当然とされ、現状ではやむを得ないと音二郎も同感で、女形役者が一座にいる。

ところが海外では男の役は男、女の役は女が演じるのだ。

美貌の貞奴が主人公になるのが自然だった。

違いを知ると、貞奴は舞台に立った。

貞奴の繊細な表現力で踊りは優美でありながらなまめかしい。

未知なる国、日本の美しさだと観客は深く感動する。

 

この公演の前、渡米を斡旋した櫛引弓人が事業に失敗し、興行から手を引いた。

そこで、日本からの移民の手続き一切を扱う日系弁護士、光瀬耕作が引き継ぐ。

だが、光瀬耕作は興行師として何をすべきか知らなかったし、しかも借金を抱えていた。

その為、にこやかに通訳し興行を取り持ったが、興行収入が入ると気が変わりすべて持ち逃げした。

音二郎・貞奴への支払いがないのはもちろんだが、ホテル代・広告料なども支払っていなかった。

ホテルから請求された音二郎・貞奴には支払う目途はなく、衣装道具などを担保に取られ追い出される。

川上一座は一文無しで路上に放置された。

 

また地獄だ。

食事にもありつけず、あまりの窮乏と心労で一座は、もはやこれまでと呆然と座り込んだ。

すぐに、貞奴の熱狂的ファンとなった日系人が、救いの主となる。

貞奴の美しさに魅せられ望郷の思いを満たされ満足したファンは、事情を知ると精力的に募金を集め芝居道具を取り戻し、義援演劇の開催を申し出た。

川上一座は義援演劇で資金を集め、支払いを済ませ、落ち着いて芝居に打ち込むことができた。

こうして、決まっていたサンフランシスコ公演を予定通り終える。

 

支援した日系人は口々に「慣れないアメリカでの興行は無理だ。日本に戻るように」と勧める。

だが、音二郎と貞奴に帰るところはない。「興行を続ける」と言うしかなかった。

すると、アメリカでは子供の出演は制限されていると、子供たちを置いていくように言う。

納得した二人は、彼らの勧めを信じ可愛がっていた一一歳になる姪、つるを画家、青木年雄の養女とする。

一六歳の弟、磯二郎を英語と芝居の勉強をさせるためにアメリカ人に預ける。

こうして、次の興行先、シアトルに行く。

シアトルには日本人町もできており、安心して興行でき、歓迎され公演は成功だ。

ここで一息つく。

タコマ・ポートランドでも公演し、大陸横断の旅費の一部ができる。

 

音二郎は「これでは川上一座の大成功は難しい。演劇の盛んなパリで一旗上げよう」と言い出す。

パリで劇場を回った経験があり、成功する自信があったのだ。

座員は多少の取り分を得て満足しており日本に早く帰りたがったが、成功する夢を聞き続けると根負けし、賛同する。

こうして、西海岸から東海岸へアメリカ横断の興行が始まる。

まともな通訳もいない不安定な興行ながら食いつないで進む。

 

ようやくシカゴにたどり着くが、資金が尽きる。

しかも皆がやせ細るほどの過酷な旅だった。

日本通だと聞いていたライリック座の座主、ホットンに興行を申し込む。

特に娘が日本を大好きだと聞いており、便宜を図ってくれるはずだった。

ところが、ホットンの態度は大きかった。たった一日だけの契約しか認めない。

興行を継続する条件は、初日の観客の大入りだった。

観客が少なければ興行は打ち切りだと冷たく言った。

公演までの日はわずかしかない。

事前の宣伝もなく、この地の人が川上一座を知らない状態での公演の許可だった。

このままでは最後の公演となると音二郎は危機感を持つ。

切羽詰まった音二郎が考え付いたのが、チンドン屋だ。

舞台衣装を身に着けて皆で街を練り歩く。

悲壮感を漂わせて公演を見に来てほしいと宣伝するのだ。

何も知らなかった町の人々は、異様な日本人の姿にびっくり、話題騒然となった。

町の人々が最も注視するのは、貞奴の着物姿だが。

 

音二郎は最後の公演になるかもしれないと覚悟を決め演目を考えた。

思い切り派手にするぞと、貞奴を取り合い争う武士のチャンバラそして腹切り(切腹)劇を作る。

清らかな愛の場面と、ハチャメチャなチャンバラ、メリハリの利いたドタバタの連続だ。

やせこけた団員の迫真の演技で、観客は拍手喝采。

そして、貞奴の「道成寺」。素晴らしいと絶賛の嵐だ。

 

ホットンは娘と共に、感激して楽屋に現れる。

貞奴の美しさに魅せられたのだ。再演が決まる。

一同、やっと贅沢な食事にありつけ、食べまくった。皆生き返り、安どの表情で血の気がよみがえる。

ここで興行師、カムストックを紹介され、ようやく信頼できる興行師と出会い、安心して興行ができるようになる。

ただ、事情を聴いたカムストックは川上一座と自分が儲けるために過密スケジュールを組む。

東海岸に着くまで、到着した日にすぐ公演、夜には次の興行先に旅立つという具合だ。

一か月ほどの興行を終えると一流演劇一座らしい体裁を整える収入を得た。

一二月三日、ボストンに到着する。

 

また、すぐに興行を始め成功したが、ほっとしたのか女形役者、丸山蔵人と三上繁が倒れた。

すぐに入院させる。

おしろいに含まれる鉛毒の多用と体力の消耗が原因と思われたが、間もなく亡くなる。

異郷の地で、食べ物も気候も違い言葉も通じない生活に疲れ果てながらも、ここまで頑張ってたどり着いたのだった。

貞奴は、二人の死が重くのしかかり、涙にくれた。

ボストン郊外のマウントホームに丁重に葬った。

「こんなことになるのなら来るんじゃなかった」と責めると、音二郎は、心労が重なったのか倒れた。盲腸炎だった。

生死の間をさまよい手術を受ける。なかなか回復の兆しが見えないし、予想外の高額の費用を請求される。

 

ここで、貞奴は、たとえ音二郎亡き川上一座となっても守らなければと覚悟を決めたが、地獄の日々だ。

座長として責任を取らなくてはならないと平静を装い興行を続ける。

その時、金子堅太郎から「駐米公使と連絡が付いた。安心してワシントンに行くように」との連絡が入る。

海外公演が決まると金子堅太郎と連絡を取り合い、日本大使館の公使が便宜を図る約束を取り付け渡航したのだ。

なのに、アメリカに着いても公使からの連絡はなく、その後もつながらず、何度も窮地に追い込まれた。

「遅すぎるよ。今まで何してたの」と叫びたかったが、ほっとして嬉しくて涙が出た。

 

その旨、音二郎に話すと生気が戻り体力も回復する。

「音二郎はほんとに気分屋なのだから」と、貞奴も笑顔が輝く。

 

一〇 貞奴、日本を代表する女優に

一九〇〇年一月末、ついに、ワシントン到着。駐米公使、小村寿太郎がにこにこ手を振り迎えた。

「待ちかねていました。安心して、すべて任せて欲しい」と苦労をねぎらう。

びっくりするようなホテルの客室が、宿所となる。

ここから客人待遇でもてなされ、天国の日々が始まった。

日本の誇る文化人としてアメリカ在住の日本人に紹介され、アメリカ政財界人との懇親会など外交の場にも出席する。

 

貞奴の美しさに目を奪われた小村寿太郎は、マッキンレーアメリカ大統領を大使館に招き、日本舞踊の美しさを見せつけ日本文化の水準の高さを誇りたいと話す。

貞奴は「いいですよ。日本の誇る芸をお見せましょう」と応え、大統領の前で自信たっぷりに踊る。

すでに女優としての自覚は出来ており、堂々とした日本からの文化大使だった。

この頃から、川上一座一同「日本を代表する芸人になったんだ。海外巡業に出てよかった」と笑顔があふれる。

次いで、ニューヨークに移る。

すべての手配が滞りなくできており、興行的にも大成功だった。

胸を張って精力的に、劇場視察、演劇学校を回り、アメリカのすべてを吸収すると燃えた。

 

異郷の地で日本を想う政財界人の要人は、貞奴の演じるはかない日本女性の姿に涙し、喜んで後援する。

こうして、ニューヨークでの二か月に及ぶ長期公演を成し遂げ、一流の劇団としての待遇を得る。

興行収入も予想以上で、団員の顔がほころんだ。

 

そして、音二郎の目指す本命、花の都「パリ万博」での大成功を信じ、パリに向けて出発し勝負をかける。

貞奴が日本を代表する国際女優として名声を得るのは、パリ万博での大成功と、日本に戻って後再び始めるヨーロッパ各国での公演の大成功による。

波乱万丈の人生はまだ始まったばかりだ。