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誇り高き大女優、貞奴

だぶんやぶんこ


約 24805

明治・大正・昭和に咲いた華やかな才女。

日本一の女優として大輪の花を咲かせる。

 

自力で、女優養成所を作り、女性が快適に働ける会社を作った実業家でもある。

また児童劇団を作り子たちの演劇への熱い思いを伸ばす。

晩年には、これから俳優を目指す人の為に芸事成就の寺、貞照寺を建立し、菩提寺とする。

 

川上音二郎・福沢桃介という時代の寵児を愛し、成功させた。

二人とも貞奴なしには名を残せなかった。

 

幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人、貞奴。

 

 

 

川上貞奴の生涯

 

一 貞奴誕生

二 桃介との出会い

三 貞奴、一流芸者に

四 貞奴、演劇を知る

五 音二郎との出会い

六 川上座、完成

七 音二郎の民権運動

八 貞奴、海外へ

九 貞奴、国際女優になる

一〇 貞奴、日本を代表する女優に

 

一 貞奴誕生

貞奴は一八七一年(明治四年)九月二日、生まれた。

芝明神(東京都港区)の近くで書籍・茶・質屋を営む越後屋の一二番目の子供だ。

「お猿さんみたいだ」と兄姉たちが顔を覗き込んで不思議そうな顔をした。

大人は、この世に生まれてまだ目も明かない赤子の顔に感動した。絵に描いたように目鼻立ちの整った顔だったのだ。

両親は複雑な思いで、じっと見つめた。我が子だから可愛いのは当然だが、もう子供は十分なのだ。

 

新しい明治の代となって四年、廃藩置県が行われ旧時代は崩れ去り、庶民も新しい世を実感していた。

母、タカは東京日本橋(東京都中央区)で町役人を務め両替商・質屋・書籍を手広く営む越後屋の一人娘だった。江戸城奥御殿に努めた経験もある教養にあふれた美人として評判だった。

家付き娘として高座郡小山村(相原村となり後に相模原市)生まれの父、小山久次郎を婿にした。父はおとなしく優しい人だったが商才はなかった。

 

一人っ子で育った母は、兄弟のいない寂しさを味わい、子供が欲しくてたまらなかった。

長男、続いて次男が生まれたときは、感激の涙をあふれさせた。

しかし、一二人の子となると、荷が重すぎて悲鳴を上げた。

 

江戸幕府の衰退に連れて越後屋の商いは少しづつ小さくなっていたが、大店としての格式は守ると万事が派手な店構えを変えなかった。

だが、幕府は倒れてしまった。貸し付けていた多くの債権が回収不能となる。

新政府により新たに貨幣制度が作られ両替商の必要性がなくなり、金融の機能が銀行に移っていく。なのに、父母は新時代の商売へと変わることが出来なかった。

日本橋の大店、越後屋を維持できなくなってしまう。やむなく引き払い、芝明神の小さな店に移った。

その時、貞奴が生まれた。

 

貞奴の兄・姉は、結婚したり働いたりと自力で生きる道を見つけて、次々、家計の苦しい父母の元を離れた。

貞奴が覚えている一緒に暮らした家族は、すぐ上の兄、勝次郎と父母だけだった。

父母は以前の暮らしを忘れられず、豊かな暮らしを続けた。その為、貞奴に貧乏だった記憶はない。

貞奴が物心のつく四歳になると、母は好きな琴・踊りの稽古に通わせた。

先行き不安であっても、母は音楽が好きで優雅に琴を弾いた。貞奴は母の性格・素質を受け継ぎ、音楽好きだ。

稽古の行き帰りに日本橋葭町(中央区)を通る。そのにぎやかさが好きで、喜んで稽古に行く。

 

越後屋を処分した資産でしばらく暮らしたが、すぐになくなり、父母は、また行き詰まる。

やむなく、貞奴を兄、倉吉に預けることに決める。

倉吉は著名な彫金家、加納夏雄に弟子入りし、娘、冬の婿となっていた。

 

神田佐久間町(千代田区)の加納家は、明治新政府から新貨幣のデザイン・型の制作まで全て任せられていた。

江戸時代以来の技術・デザイン力が認められたのだ。その為、仕事は山のようにあり豊かだった。

金銀の両替を家業とした越後屋は、全国が新貨幣に統一されたため必要なくなり、失業したのだが。

 

加納夏雄は、貞奴を育て嫁に迎え、加納家一門とするつもりで引き取る。

すぐ上の兄、勝次郎は父方の親戚、幡豆家に養子に行かされた。

二人には相応の支度金が支払われ、父母が得た。

 

貞奴は加納家に移るが、地味で真面目に仕事に精出す加納家の雰囲気に息が詰まると感じる。

しかも加納家の幼い子たちから口々に「僕のお嫁さんになるんだ」と言われ、気を悪くした。

貞奴は幼い頃から型にはまった暮らしは嫌いだ。

この頃からあまりに可愛くて人気者だったゆえに引く手あまたとなったのだが、加納家での暮らしが嫌になる。

 

そこで、神田佐久間町から大人の足で三十分ぐらいの何度も通った日本橋葭町の浜田屋に逃げた。

実家には帰れず、琴や踊りのおけいこの行き帰りで見知った母の知り合いでもある女将、可免に助けを求めたのだ。

すぐに加納屋から迎えが来るが、貞奴は加納屋に戻りたくないとはっきり言う。

芸者置屋「浜田屋」の女将、可免は母に「ぜひとも預かりたい」と願い、許され預かる。

 

可免は、時たま見かける貞奴を目に留めており、喜んで迎えた。

まだ六歳なのに、大人びた優雅さと子供っぽい無邪気さを合わせ持つ貞奴は、陰鬱な空気の漂う生家や加納屋を嫌い賑やかに人の行き交う「この家が好き」と嬉々として可免にまとわりつく。

貞奴を預かった可免は、望むように芸事を習わせた。そして見込み通りと目を輝かす。

 

葭町は新時代にうまく乗って、新政府の役人が多く訪れる花街となっていた。

可免は「芸者はいくらでも必要になる」と、売れっ子芸者から身を引き芸者置屋「浜田屋」を開いた。

当時、葭町は花街としては、二流とされ一流は柳橋、新橋の芸者だと言われた。可免はその評価を変えたいと「葭町を一流の花街にする」と芸者置屋を始めたのだ。

才能ある娘を集め、育て、芸者としていく。育て方がうまく人気の芸者置屋となった。

 

貞奴に出会った頃、可免は、柳橋、新橋の芸者に負けない芸のできる一流の芸者を育てたと自負していた。葭町界隈ではやり手の女将として名が知れていた。

子がいないので一番出来の良い娘に、浜田屋を引き継がせるつもりだ。

可免は、貞奴に芸事を習わせ、その上達ぶりに目を見張り目に狂いがなかったと、自分をはるかに凌ぐ芸者になると思い、胸躍らせる。

そして毎日「加納屋に取られませんように。養女にできますように」とお不動さま(成田山の御本尊不動明王)に手を合わせる。

 

貞奴七歳、明治になって一一年目の一八七八年に父が亡くなる。

ここで、母は、代々続いた越後屋を閉め兄の元に行くことに決める。

可免には都合がよかった。母に「(貞奴を)我が子として育て一流の芸者としたい」と頼む。

母は貞奴を可免に預けた時は芸者にすることに後ろめたさを持ったが、父が亡くなり覚悟はできた。お金も欲しくて、高額の支度金を受け取り養女に出す。

貞奴は、人身売買の悲惨さはないが、代価を支払われて芸者置屋「浜田屋」に引き取られたのだ。

子供心に父の無念の死、母の苦悩を感じ閉められた店を見て胸が張り裂ける思いだ。きっと母を喜ばせると決意する。

 

可免は貞奴を娘に出来て嬉しくてならない。

成田山のご加護で貞奴と巡り合い、念じた通り娘となったと、成田山新勝寺(千葉県成田市)への信仰心を深める。

貞奴は抜群の才女であり、加えて、育ちからくる品のよさが備わっていた。

上品に周囲を和ませる力があり、可免にはない魅力だった。

可免は「(貞奴は)特別の娘だ。お不動さんのお導きで出会えたんだ」と毎日、嬉しそうに話す。

そして成田山新勝寺に再々貞奴を連れお礼参りする。

次第に、貞奴もその熱い信仰心を受け継いでいく。可免は貞奴を溺愛した。

 

貞奴は、七歳から本格的に、柳橋、新橋の芸者に負けない芸者になるべく多くの芸事を習う。

可免には、養女とした娘たちが幾人もいた。彼女たちが「血のにじむようなつらい修行だ」と泣く習い事だ。

だが、貞奴は泣くのを不思議そうに見る。踊り・三味線・小唄・鳴り物(太鼓・鼓)・琴そして作法・歌道も習うが、難なくこなし、群を抜いて早くうまくなるのだ。

素早い粋な着付けもすぐにできるようになり、可免は感心するばかりだ。

可免は、次第に「一流の芸者じゃもったいなさすぎる、貞奴は日本一の芸者になるべきだ」と思いを変える。

 

「お不動様は悪魔をやっつけるために、恐ろしい姿をされ、すべての苦しみを乗り越えられた。おとなしく仏様の教えに従わないものがあれば、無理にでもお導き助けてくださる仏様のお使い。お姿は恐ろしいけれど、お心は人々を助ける優しい慈悲にあふれておられる。お不動様は貞奴の心の内にあるの。必ず護ってくださる。見た目は観音様の優しさやお地蔵様の暖かさとは違うけれど必ずご利益を下さる。貞奴はお不動様と固く結ばれており何事にも負けない強さを生まれながらに持っている。貞奴と親子になれてこんな幸せはない」と可免は貞奴を抱きしめる。

 

義務教育の制度ができて、女の子でも大手を振って小学校に行くようになったが、貞奴は行かなかった。

可免は一流の芸者になるための修業を何より優先させ、お稽古の合間に近くにある私塾で読み書きの基本を学ばせた。次いで、算数・国語・お習字なども暇を見ては習わせた。

可免は、貞奴のすべてに目を配り、芸事一番だが、学問もおろそかにすることなく育てた。

「この子の頭の中を見てみたい」と思うほど教えられたすべてを吸収する素晴らしい頭脳だった。

 

一八八三年、貞奴は舞踊と鳴り物(太鼓・鼓)を習熟し、お座敷で披露できるまでになり一二歳で雛妓(半玉、芸者見習い)になり子奴として座敷に出る。まだ見習いだが、稼げるようになった。

異例の速さだ。

 

この年、鹿鳴館が出来上がり、政府高官らの舞踏会が頻繁に開かれるようになる。

彼らは夫人令嬢を伴い参加する。国策に関わる社交の場に、女性が出ていくようになった。

 

また新しい時代には、顔合わせ・打ち合わせ・密談・接待などなど新しい人間関係を築く必要が多々あり、接待の場、お座敷の利用が飛躍的に伸びた。そこには、芸者がなくてはならない。

可免は、貞奴を政財界の一流が集まるお座敷にのみ出させる。

そして、その場の盛り上げ方・受け答え・話題の作り方・座を引っ張る力量を身に着けるよう細心の注意で仕込む。

貞奴は、可免から一本気な仁侠心と小気味のいいたんかを受け継ぎつつ、教えを受け芸者としての腕を磨く。

 

自信を持った可免は、最高の芸者は最高の人、総理大臣、伊藤博文を後援者としなくてはならないと、頼み、快諾を得る。

伊藤の後ろ盾で、一本立ちの芸者となり貞奴と名乗ることになる。わずか一六歳で、芸事をすべてこなし一人前の芸者になるのだ。

これも異例の出世だ。

 

二 桃介との出会い

貞奴が芸事の修行を続けていた一八八一年のことだ。修行は楽しかったが、慣れてくると、それだけでは満足できない好奇心がむくむくもたげてくる。

そして乗馬に惹かれた。動くこと、動くものが大好きなのだ。

可免に「乗馬を習いたい」と頼んだ。可免は貞奴の望みを何でも叶えてくれる。馬術の名人として名高い、草刈庄五郎の元に通うことが出来た。

庄五郎の元には、名家の子女から芸者衆まで幅広い活発な女性が集まっていた。

 

江戸時代、仙台藩に八条流馬術師範家として仕えた草刈家が、同じく八条流馬術を受け継ぐ尾張藩の出資もあり、本所緑町(墨田区南部)に馬場を開いた。

その後、一八七一年(明治四年)新政府は町民でも馬子(馬を引く人)がいなくても馬に乗ることを許す。すると草刈庄五郎は、望むもの誰にでも馬術指導を始めた。

男女の制限もなく、裕福で運動神経に自信のある女性が次々馬術を習い始め、教え方もうまく流行となっていた。

 

まだ一〇歳の貞奴だったが、乗馬を始めすぐに慣れ上達する。馬場でいろんな女性と巡り合い楽しくて仕方ない。

多くの著名な女性に可愛がられた。

 

中でも道場一、有名だったのは唯一の女性の代言人(のちの弁護士)として一世を風靡した園輝子だった。

お召縮緬(将軍が好んだ最高級の絹織物)の羽織に仙台平(仙台だけで作られる最高級絹織物)の袴でさっそうと馬に乗り、隅田川べりを疾走する姿は黒山の人だかりだったと聞かされた。

貞奴が習い始めた時はすでにやめていたが。

 

一八七二年(明治五年)司法職務定制により代言人が設けられる。資格は必要なかった。

一八七六年(明治九年)代言人規則が制定され試験による免許制になる。性別は問われない。

一八九三年(明治二六年)弁護士法が制定され、弁護士は成年男子と決まり女子は排除される。

 

園輝子は一八七四年から代言人(弁護士)となり多くの顧客を持ち、一一年続け多額の収入を得た。

だが、免許制になり、しばらくは免許がなくても仕事が出来たが、試験に合格し免許を取る必要が出てくる。

だが女子では望む法学の勉強はできず、試験を受けることさえも難しい。女子は誰も試験を受けていない。

あきらめた輝子は、アメリカの先進的な女子教育の在り方を学び日本で活かすしかないと決意し、一八八五年 (明治一八年) 渡米する。

 

輝子は、渡航前に面識のあった福沢諭吉にあれこれ相談をしている。

諭吉は「婦人の洋行の皮切りとしては大賛成だ。だが男子の洋行では日本の金を捨てて来たものも多い。無一文で行って大いに稼いで持って帰って欲しい」と皮肉交じりの冗談を言い賛成した。

一八九三年帰国後、アメリカで自伝を出版し女性の権利拡大のための運動を続けたと報告すると、黙って呆然と見つめ「吾々男は、恐縮の他はない」と話した。諭吉の心を上手く表したエピソードとして残る。

帰国後、学校を作り教育者となる。

 

貞奴は、園輝子の生き方を心に留め、話題になったり、新聞に掲載されるとよく読んだ。折々、思い出す。二五歳年長の尊敬する人だ。

 

馬術を習い始めて五年、運動神経抜群の貞奴一五歳、愛馬を持ち、息もぴったりで乗馬に自信を持っていた。

馬術の演習会が近づき練習を兼ねて、気楽に一人で五〇㎞以上も離れた成田山新勝寺まで遠出する。

可免もお参りに行くと言えば、許した。

ゆっくりお参りを済ませ、晴れ晴れとした気分になったが、予想以上に時間がかかってしまった。

急いでの帰途、運悪く野犬に遭遇し、馬が立往生してしまう。

人馬一体となって訓練を続けている愛馬であり、貞奴とは強い信頼関係で結ばれている。

それでも愛馬が興奮すれば何が起きるかわからない。

愛馬にけがをさせたくないし、貞奴も振り落とされたくない。

鞭で振り払いながら野犬が去るのを願ったが、対峙したままで動きが取れなくなった。

 

馬を動かせず泣きそうになっていた時、現れたのが岩崎桃介だ。

すぐに事情を呑み込み、棒切れを持ち、必死で野犬を追い払ってくれた。

これが桃介との運命の出会いだった。貞奴は強度の緊張から逃れほっとし桃介に礼を言うのが精いっぱいだった。

桃介は「岩崎と言います。慶応の学生で寮生活だ」と言っただけで立ち去った。

 

貞奴は、家に戻っても誰にも言わず、桃介との夢のような出会いを思い出しては、にやにやドキドキだ。

桃介は俗世間に汚れていない超然とした品の良い学生だった。知らない世界の人のようで新鮮だった。

出会いを導いてくださったお不動様に感謝する。

しばらくは夢の中にいるようだったが、いてもたってもいられなくなり行動を開始する。

学生ではとても買えない高価なお菓子をもって、慶応の寮を訪ねた。桃介が真実を言ったかどうか分からず不安だったが、ちゃんと会えた。

貞奴は会えてほっとした程度だったが、桃介の驚きは普通ではなく、言葉も出なければ地に足がつかないほど慌てふためいた。

周囲の友人たちの冷やかしに照れながらも、嬉しさを隠せない桃介の初々しい顔に引き付けられる。

 

貞奴は初恋の人に再会できた。お不動様のご加護だと、ほおが緩む。

その後も、理由を付けては、慶応の塾舎を訪ね、親しい付き合いを始める。

桃介の好きそうな手土産を持って楽しい語らいの時を持つのだ。

初めて知った胸が痛くなる思いだった。

 

ところが突然、桃介はアメリカ留学へと旅立ち、初恋は終わる。

一年にも満たない短い付き合いで、理由を聞くこともなく終わってしまった。

芸者仲間や、お座敷で知る世界とは全く別の世界を垣間見て、桃介が好意を抱いていると強く感じていたのに、信じられないあっけない結末だった。

とても大切な時間だったが、苦い思い出に変わる。

 

貞奴が一本立ちの芸者としてお披露目する時期が近づきとても忙しく、感傷に浸る間はなかった。

 

三 貞奴、一流芸者に

可免は、最高傑作の芸術品であり心からいとおしむ貞奴の後援を伊藤博文とした。

一流芸者としての格を保つには多額の資金援助が必要であり、パトロンは必要で総理大臣と決めたのだ。

当時、日本政界一の権力者、伊藤博文総理大臣だ。貞奴も「彼がいい」と簡単に了解した。

 

貞奴は「もう二度とない機会かもしれない。母兄姉、可免や親しい人に精一杯一人前になった礼をする」と考えた。

そこで、伊藤に莫大な手当てを望む。

交渉するのもお金を得るのも可免だが。

貞奴は、計算が得意で計算高くお金を集める。最後まで使い方を管理するのは苦手だったが。

 

可免は丁寧に、だが、胸を張って伊藤とお金の話をする。貞奴にはそれだけの価値があると。

伊藤も人生で一番羽振りがいい時で、思い切り気前よく出してくれた。

一八八七年(明治二〇年)春、伊藤博文の後援で、貞奴は一本立ちした。

「貞奴は稀有な芸者だ。お金に糸目をかけず飾れば誰もがうらやむ芸者になる。それを出来るのは自分しかいない」と伊藤は胸を張る。貞奴を磨き上げることで、皆が伊藤の力に驚く構図は愉快だ。

また、そんな貞奴の第一の人となるのは心嬉しい。

 

まもなくの夏、伊藤は大日本帝国憲法草案作成のために神奈川県夏島(横須賀市)の別荘に宿泊した。

貞奴が「一緒に行きたい」とねだり、伊藤はうれしそうに連れて行く。以後、伊藤の行くところ、政治の場にもよく一緒に行く。討論の場にも顔を出して、座を盛り上げたり聞き入ったり思うことを言ったりと自由に振舞う。

伊藤はその様子が好きで、思うようにさせた。

最高の環境で政治状況を知り、一流の政治知識を身につけ、情報通の知識人となっていくのだ。

おおらかな時代であり、公私混同が許されていた。

 

こうして、総理の側で愛を独占する貞奴は、すごい芸者だと評判になり、噂は噂を呼び、貞奴は瞬く間に売れっ子の芸者となり、座敷に引く手あまたで玉代(花代)は望みのまま、ご祝儀も弾まれて高額のお金を得る。潤沢なお金に恵まれた貞奴は怖いもの知らずとなる。

何でも手当たり次第に好奇心に任せて飛びつく。

愛馬を乗り回し、花札や玉突きに熱中したりと、芸者の枠を超えて、自由に遊びまわる。

そんな奇想天外な動きで話題となり、ますます超売れっ子となりお座敷は引っ張りだこで、法外なお金を稼ぐ。

 

また、貞奴は、隅田川で泳ぐ人たちを見て、面白がって真似をしながら泳ぎ、楽しんだ。

日本製の水着はない時代であり、女子が水泳を楽しむ時代でもなかった。

貞奴は臆することなく裸に晒を巻いて泳いだ。

際立つ美貌の貞奴だ。すぐに評判になり、その姿を一目見ようと黒山の人だかりができた。

 

貞奴は 当時の常識では考えられない行動がいとも簡単にできた。しかも、皆が「貞奴ならやりかねない。当たり前だ」と思うのだ。人々の羨望の的となり、日本一の芸者だと自他ともに誇る。

 

伊藤の政策を立案施策する法制局長官などを歴任した側近でもある井上毅と貞奴は仲良しだ。

泳ぎが好きな井上毅が水泳の話をした。貞奴は見よう見まねで泳げたが、筋の通った理論を好む。

「水泳とは何か。泳ぎ方を教えてほしい」と頼むと井上毅は喜んで教えた。

だが、日本製の水着はない時代で、貞奴は平気で裸に晒を巻いて泳ぐ。

その様子を見た伊藤は、日本の恥だとパンツと長袖つきのワンピースを組み合わせたような舶来物の水着を急いで取り寄せる。

こうして、貞奴は水着を着て水泳を楽しむ。

 

七月、東海道線が東京新橋と国府津間(小田原市)に開通し、神奈川県大磯駅ができる。

その前、陸軍軍医トップだった松本順が大磯海岸を海水浴最適地だと推していた。

松本順は、オランダ軍軍医のポンペから海水浴を使う医療を学び、実践すべき地を探し、見つけたのだ。将軍、家茂の治療も、近藤勇以下新選組の治療も行なう幕府の筆頭医だった。その後、帝国陸軍軍医トップとなった。優秀な医師であると同時に、日本国・日本人全体の医療を考える政治家でもあった。

松本順が先頭に立ち、大磯駅を活用し、大磯を発展させ、海水客を呼び込み、名勝地として発展させるために、政財界一体となって取り組んだ。

八月には二階建ての大屋根の巨大な建物、病院を兼ねた旅館、濤竜館が完成し、集客を始める。

 

伊藤も応援し、宣伝を兼ねて貞奴と共に濤竜館に宿泊する。この地を気に入り、後には、自分の別荘、滄浪閣を建てる。

伊藤は貞奴の水着姿を皆に見せたくて機嫌良く「隅田川はだめだが、ここで思うように泳ぎなさい」と言う。貞奴は得意そうに、思う存分に泳ぐ。その姿はあまりにも美しい。

伊藤は、政府要人に気取って貞奴の水着の説明をする。

 

すると、貞奴の水着姿が新聞に大きく取り上げられる。

貞奴の水着が有名になり舶来水着を求め泳ぐ女性が増える。すると海水浴にも関心が高まり、水着姿が多くの人の目に触れ、水着も海水浴もますます広まる。大磯の海岸では、水着の女性が海水浴をするのが流行となる。

この後、各地に海水浴場が出来て海水浴が全国に広まり、男女を問わない娯楽、スポーツとなり定着していく。

 

政府が目指す外国と対等に付き合える文化を持つ日本国を目指す環境づくりに貢献したのだ。

貞奴は、自分の果たした役割を知っている。伊藤の役に立ち、日本文化と外国文化の懸け橋になるのは楽しかった。

「女性の海水浴と水着を広めたのは私」と調子に乗ってにこにこだ。

 

四 貞奴、演劇を知る

一八八六年(明治一九年)、末松謙澄が伊藤博文の意向で「演劇改良会」を設立した。近代国家、日本を誇示するために、欧米人に見せて恥ずかしくない演劇を作ろうとした。歌舞伎を近代社会にふさわしく変えたり、歌舞伎しか無い日本の演劇界に新しい演劇の道を開くのが目的だ。

一八八九年(明治二二年)、末松謙澄は見込まれて伊藤の娘、生子の夫となる。以後、伊藤の後ろ盾で出世していく。

 

末松謙澄を伊藤に紹介したのが福地桜痴。

伊藤とともに海外視察に行き、政府系「東京日日新聞」発行所、日報社に入りジャーナリストとして健筆をふるい、影響力大で社長になった。末松謙澄は同新聞の記者だった。

福地桜痴は、演劇改良運動の中心となり、日本の芸術活動の向上に関わった。

その一環で、洋風建築の大劇場を建て新しい装置を取り入れた舞台での芸術活動を行おうと企画する。

文化人として福沢諭吉のライバルであり、並び称される才知があった。

 

同じ年、六月、福地桜痴・渋沢栄一・大倉喜八郎など政財界の有力者と地元有力者の協力で日本橋蛎殻町に洋風演芸の大劇場「友楽館」が完成した。

その落成式に慈善芝居が企画され、芸者達に出演依頼が来る。

新しいことが大好きな貞奴は、喜んで受けた。

今をときめく話題の一流芸者、貞奴が主役を演じ、切符を売りさばき、自らも切符を買うという大活躍だった。

貞奴演じる慈善芝居は大好評で、「友楽館」の歳末の慈善公演は恒例化する。

 

翌一八九〇年、男女混合劇を許す訓令(行政機関が権限行使するための命令)が出る。

それまで、芝居は男の役者のみ、女の役者のみでしか演ずることができなかったが、男女共演を認めたのだ。

「友楽館」で男女混合劇を行うためでもあった。だが、時勢はまだ熟さず女優はおらず、男女共演は難しかった。

舞台が活かされないまま、経営難となり五年後、閉鎖されてしまう。

 

それまでも、女優が認められていなくても、すべてを女性で演じる女役者一座は数多くあった。

歌舞伎の一段下の評価だが、女優の名はつかなくても、演じる女性はいた。

名優、市川久米八は代表格だ。女優が認められると市川団十郎の弟子となり女優となる。貞奴の年長の友だ。

 

一一月、福地桜痴らが強力に推し進めた「歌舞伎座」が木挽町(中央区銀座)に完成する。

外観は洋風、内部は日本風の三階建て檜造り、客席定員一八二四人、間口十三間(二三m)の舞台を持ち、最新の設備を導入した大劇場だ。歌舞伎が主に上演される。

 

貞奴は演劇改良運動を進める有力政財界人と親しく付き合い、芸者芝居を演じ協力する支援者だった。

だが演劇改良会は新しい演劇を目指すのか伝統ある歌舞伎の近代化を図るのか、立場が不鮮明で二年で解消される。

演劇への興味を深め、伊藤との繋がりで日本文化を牽引する人脈との付き合いが始まったのに残念だった。

そこで、歌舞伎役者をひいきにし、歌舞伎にのめりこんでいく。

 

この頃、好きな歌舞伎役者の後援者となって、金銭的にも支えるのが成功した芸者の証だった。

政財界の大物にひいきにされ、大きく稼ぐゆえの必要な散財と見なされた。

貞奴はそれだけでは収まらず、積み重ねられた歌舞伎界の奥深さを理解したくて熱心に、観て聞き話す。

中村歌右衛門・尾上梅幸ら幾人かをひいきにするが、貢ぐ間柄になるのを嫌い、割り勘で対等に付き合った。

結婚話も出るほど入れ込んだ。

成田山のお不動様への信仰が深い市川団十郎とも親交が生まれる。

 

貞奴は、多くの歌舞伎役者と知り合うが、女性を活かせない歌舞伎に飽き足らないものを感じ新派に興味を持つ。

歌舞伎役者との付き合いで、演劇を見る目、知識を身につけた。

貞奴は、日本文化の表現に関心を持ち女優となる下地を作っていったのだ。

 

五 音二郎との出会い

一八九一年(明治二四年)貞奴は音二郎の世情を風刺した流行歌「オッペケペー節」の評判を知る。

見ておかなくてはとの思いが募り、可免と共に見に行く。

舞台を見た瞬間、この人だと閃光が走った。貞奴二〇歳だった。

演劇が終わるのを待ちかね、楽屋に訪ねる。「感動しました」と芝居の感想を熱く語り褒めた。

 

音二郎には雲の上の人、超人気者で芸者随一の稼ぎを誇る貞奴だ。丁寧に出迎え、お礼を言う。

ひいきにされて後援者にしたいと、精一杯のお世辞で貞奴を褒めあげる。

 

貞奴は、演劇の品位向上・新しい脚本の創作・新劇場の建設を目指す「演劇改良会」を理解し、伊藤の側近で演劇に関心がある金子堅太郎から同郷の書生芝居(壮士芝居)を演じる音二郎の話をよく聞いた。

そして「音二郎の上質の演劇を作るとの熱い思いに共感している」と身近な人に音二郎の良さを伝え上層階級・外交官・軍部の支援が得られるように心掛けていた。

 

貞奴は音二郎への予備知識を得ており、自分の目で確かめたいと観劇に出向いた。

音二郎は、歌舞伎とは異なる新派を創造すると意気込み、舞台の外でも歌舞伎界の古いしきたりに批判の声をあげた。

そして、歌舞伎に対抗して、にわか芝居「壮士芝居」を始め役者になった。

 

演劇といえば歌舞伎と思われて、役者の一族か特別のコネでも無いかぎり歌舞伎役者になれない時代だった。

音二郎は、それを一変し素人でも役者になりたければ一流の演劇人になれる時代が到来したと、身をもって証明した。

歌舞伎とは違う風刺芝居「壮士芝居」は、新鮮で、庶民の圧倒的支持を得て、大成功だった。

 

以後、貞奴は舞台を見て、楽屋を訪ねるを繰り返す。

音二郎は、新しい演劇への熱い夢を語り、経済支援を求める。

貞奴は、にっこりと金を出す。

荒けずりな演技ながら明快な思想を持つ音二郎と価値観が共有でき、この人こそ共に生きる人と確信していく。

 

音二郎は、昔、福沢諭吉の目に留まり、推挙を得て、書生となり慶応塾舎の用務員として働きながら講義を受けたことを話す。慶応の聴講生だったのだ。

だが、自由民権論者の地が出て、諭吉に逆らう言動したために追い出されたと、懐かしそうに話す。

あの初恋の人、岩崎桃介も、諭吉に見いだされ、アメリカで勉強し、立派になって結婚した。

諭吉は有望な若者に対しては暖かい配慮をするが、諭吉に服従するのが絶対条件で逆らうと厳しい人だと知っている。

 

貞奴は、諭吉に桃介を取り込まれた恨みを持っており、諭吉に対抗意識を持っている。

音二郎が諭吉に追いやられたと聞くと、めらめらと闘志を燃やす。

貞奴には諭吉と対抗できる伊藤を始めとした政財界人とのつながりがある。特に諭吉のライバル福地桜痴とは親しく、今なら勝てる相手だと思う。

貞奴は一本気な義侠心をくすぐられ、近代的な演劇活動の実現に燃える音二郎を世に出す気になった。

裏切った桃介に負けたくない意地もある。

ここから、貞奴の活躍が始まる、目的を見出すと信じられない力がわくのが、貞奴だ。

音二郎の為に切符を売り、ひいきの客に紹介し、宣伝を兼ねてよく見物する。

話題作りは得意だ。

貞奴の助けで、音二郎の壮士芝居に自信がみなぎっていく。

どの興行もますます盛況だ。

この成功に満足し、貞奴は自分の眼力にかけ、音二郎を伴侶とすると決める。

 

花街は伝統に縛られていると窮屈になっていたのだ。

芸者に飽きた貞奴は、稼ぎも名誉もすべて捨てて、音二郎と新しい演劇の世界を作ることに賭ける。

貞奴は芸者として頂点を極め、実家に十分孝行し、養母にも借りは返している。しがらみはない。

 

次々と新しいことに挑戦する喜びが貞奴の生きる支えだ。

繰り返しの判で押した暮らしだと、意欲がなえて、すべてどうでもよくなってしまうのだ。

音二郎の夢を何度も聞いて、具体的に何をすべきかわかっている。

貞奴は、音二郎を伴侶とし音二郎の夢を叶えると、可免に堂々と決意を示す。

 

伊藤にも想いを話す。

そして、側近の金子堅太郎を通じ、音二郎を伊藤や西園寺公望や土方久元に引き合わせ、文化先進国、フランスの演劇視察の了解と支援を得た。駐フランス公使への紹介状も受け取る。

一八九三年、桃介に対抗して、音二郎をパリへの遊学の旅に送り出す。

音二郎は川上一座の座長でありながら、パリ遊学に飛びつき急きょ出発してしまう。

座長のいない川上一座は火の消えたようになり、観客の入りは急減、座員の収入はわずかとなった。

その時、貞奴は、川上一座全員の面倒を見る。

音二郎のいない四か月間、芸者の稼ぎで彼らの生活費を出したのだ。貞奴の本領発揮、良い気分だった。

 

パリから戻った音二郎は、新派の未来図(三か月近く航海にかかり視察は一か月余りだったが)を洋々と語る。

後先構わず飛んで行って無責任な人だと思いながらも、貞奴はパリに送った甲斐があったと嬉しそうにうなずいた。

 

すぐに結婚の準備にかかる。

桃介と同じようにしなければ気が収まらない。豪華で華やかな結婚式を挙げるのだ。

結婚するには長年の後援者、伊藤の賛成を得なければならない。伊藤の賛成がなければ芸者をやめることもできない。

伊藤は貞奴を愛しており、簡単にこれで終わりとはいかない。

それでも、貞奴には怖い物はなく、最後に十分な祝儀を貰うのだと、結婚式を思い浮かべ、にこにこだ。

 

こういう相談は、金子堅太郎しかいなかった。

「任せてくれ」と笑ってうなづいた金子堅太郎は、伊藤に「貞奴はあまりにもお金がかかりすぎます。時局は大きく動いており、評判に響きます。そろそろ身を引かれては」と進言する。

清軍との衝突・朝鮮をめぐる主権の争いと難問が山積みし、日清戦争が起きる直前だった。

時局は貞奴に幸運だった。

伊藤も「いつまでも大金使いの貞奴を囲っておけない」と、わかっており未練はあったがしぶしぶ納得する。

 

一八九四年(明治二七年)貞奴二三歳、あしかけ四年の付き合いにけじめをつけ、川上音二郎三〇歳と結婚する。七歳の年の差だが、二人並ぶと、年の差は感じさせない。

貞奴の落ち着いた姉さんぶりと音二郎の若々しさがうまくかみ合っていた。

音二郎も結婚を望んでいた。感謝しきれないほどの恩があり、結婚できて幸せだった。

だが、貞奴が芸者をやめるとは思いもしなかった。

 

貞奴の芸者としての稼ぎに頼りながら川上一座は成り立っていた。とても大切な後援者だった。

また、貞奴が働いている間は、音二郎は自由に遊ぶことができ、好都合だった。

貞奴がやめると言えば、止める事は無理だとよくわかっており、あきらめるしかないが「援助資金が減るのは困るなあ」と、将来に不安を持つ。

 

貞奴主導で結婚話は進む。音二郎は大手を振ってついていくだけだが、それで十分幸せだった。

こうして、金子堅太郎を媒酌人に伊藤に祝われて、盛大な結婚式を執り行った。

 

神田駿河台に、部屋数一五、庭付きの家を借りて、門弟一同と同居する。

貞奴は新婚時から、一座の面倒を見る姉御だった。

 

六 川上座、完成

音二郎は外遊と自前の劇団を夢に描き、貞奴に熱く語っていた。

怖いもの知らずで太っ腹の貞奴は「何でもない事」と応じた。

まず、音二郎をパリに送り出し、次いで「川上座」建設のために支援者からの寄付を願い、自らの私財をなげうって、神田三崎町に土地を見つけ、音二郎が戻ると二人で買った。

音二郎の夢をほぼ実現させ、それから、結婚したのだ。

 

音二郎は秘密裏にパリに行き、川上座は演劇を続けるも、興行的にはさっぱりで、一座に不満が募った。

座員の暮らしは貞奴が面倒を見たが、音二郎への不信感までは払しょくできない。

音二郎は、帰ると草案を練っていた「意外」シリーズの興行で再起を図り、大好評で成功する。

次いで、貞奴と結婚、新居ができた。

ここで、自信をもって不満分子を一掃し、川上一座を再編する。

 

一八九四年(明治二七年)八月、日清戦争が勃発する。

音二郎はすぐさま、戦争劇を始める。ニュース映画のない時代だ。戦争報道を皆待ち望んでいた。

そこに、確かな情報を盛り込み抜群のリアルさを発揮した音二郎の戦争劇が始まったのだ。観客が詰めかけ、ニュース映画の代わりとなり、歌舞伎をしのぐ力ありと絶賛される。

すると、音二郎は現地に飛び取材する。素早い行動力で生の現地の情報を得て戻り、現地の再現をした演劇で戦況を知らせ観客は大歓声だ。

 

一二月九日、皇太子(のちの大正天皇)を迎えて、上野公園で東京市主催の旅順占領祝賀会が行われた。

金子堅太郎らに推され、皇太子の御前で音二郎は野外劇「戦地見聞日記」を演じる。皇太子は笑顔で熱心に観られた。

翌年四月には勝利し講和条約が結ばれたが、ロシア・フランス・ドイツから遼東半島の返還を求められ、圧勝の結末とはならずに日清戦争は終焉した。戦争劇もしぼんだ。

 

それでも音二郎には勢いがついて、五月、日本演劇の頂点、歌舞伎座での上演を決める。

音二郎は市川団十郎に弟子入りを願ったこともあり、団十郎も新派に興味を持っており、親交があった。

そのこともあり、金子堅太郎らのおぜん立てで、他の歌舞伎役者の反対を押し切って、団十郎が了解し歌舞伎座公演が実現した。

音二郎は、歌舞伎界の雄、団十郎専用の楽屋に入り、得意がる。

 

貞奴は音二郎を桃介に匹敵する文化人とし「新派演劇の発展に尽力する」と張り切っていた。

今まで十分自由に好きに生きてやりたいことをした。次は音二郎を支え内助を発揮して新しい演劇を進めるのだ。

周囲は貞奴が内助で我慢できるはずはないと冷たく眺めたり心配したりだ。芸者をやめたことを嘆いた者も多い。それでも、何を言われようとも新しい門出に意気揚々としていた。

結婚後も、後援してくれる多くの知人がいる。音二郎の広告塔となり資金を集め支えるはずだった。

歌舞伎座上演にも力を尽くし、実現させた。

ところが音二郎は貞奴の予期した以上に自信を持ってしまう。そして「川上座」の壮大な完成図を皆に言いまくる。

世界を見てきた日本の新しい演劇運動の先駆者として、新派を引っ張ると自信満々なのだ。

 

歌舞伎も含めて、演劇活動に携わる役者は、河原乞食と見なされた時代だ。

世間の評価は低く卑屈な思いで、演劇人は演劇に携わっていた。

だが、貞奴は、歌舞伎役者を数多く知っている。

歌舞伎であろうと政財界人であろうと人として変わることがないと確信している。

しかも新派は歌舞伎と違いわかりやすく面白い。大きく伸ばすと無鉄砲にも思い込み音二郎以上に張りきった。

 

こうして二人は、演劇の改良は劇場からの改革と高らかにぶち上げた。

新派は歌舞伎に反旗を上げながらも、歌舞伎のための劇場を借りることでしか演劇できず、限界がありすぎたのだ。

土地の購入が精いっぱいの中、貞奴の持つ資金、興行から残したお金すべてをつぎ込んでも建設費が足りない。

借り入れも目一杯した。だが音二郎は建設途中も次々注文を付け建設費が膨れ上がっていく。借入も限界となり、ついには高利貸しのお金まで借りた。

一八九六年(明治二九年)六月、三年の歳月をかけ、川上座がようやく完成する。

 

建坪二一二坪(約七〇〇㎡)。三階建て洋風建築の劇場だ。

桟敷一五〇人、平土間五七二人、大入り場三五四人、計一〇七六人収容できた。

歌舞伎座の半分程度だが、貞奴は面目が立ったと感無量だった。

 

だが、興行に成功し大入りとなっても、高利貸しへの返済に追われる。

 

七 音二郎の民権運動

音二郎は、もともと自由民権運動の壮士だ。官憲の弾圧で政治的発言をする場を失って演劇活動に転じたのだ。

川上座は盛況なのに借り入れは減らず、日々の資金繰りが苦しくなるばかりでお金の工面に迫られ演劇が嫌になる。

そして「公演だけでは限界だ。政治の力なくしては立ち行かない」と言い始める。

貞奴は新派演劇を支えたが、音二郎はそれだけではなく、貞奴の人脈に目を付け利用しようとした。

音二郎が貞奴を抑えられないように、貞奴も音二郎を抑えられない。音二郎は政治活動に傾きのめり込む。

 

音二郎は、昔は無鉄砲に主義主張を貫いて手痛い目に遭ったが、今度は貞奴という素晴らしい広告塔がいて、金を持っている人脈があるのだ。今度は合法的手段で選挙活動すると威勢がよかった。

そして選挙に出てしまった。

貞奴の資金は、伊藤など政府を率いる権力者から得たお金だ。

音二郎は支援組織作りなど地道な活動は苦手で出来ない弁士だ。新演劇の保護など高尚な政治理論を展開し、たった一人で選挙に打って出た。

政党も支援組織を持たず独自の政治理念を貫く音二郎の為に、貞奴がいくら頑張っても集められる資金はわずかだ。

しかも選挙権を持っているのは税金を払っている一部のお金持ちだけの時代だ。

 

一八九八年三月、音二郎は政治家を気取って当選の見込みありと考えた、荏原郡入新井村字不入斗(大田区大森)の白亜の洋館に移り住み立候補した。

第五回総選挙だ。

途中、選挙資金がなくなり、また、手当たり次第に借金する。

結局、借金で選挙運動を行い、予想通り落選。

ここで成立した伊藤内閣だったが、半年で総辞職。

八月に第六回総選挙となるが、音二郎は懲りずにまた、立候補した。またも落選、さらに増えた借金が残っただけだ。

 

貞奴は音二郎と共に選挙運動を行い、協力した。貞奴見たさに黒山の人だかりはできるが、票にはならない。

政治家、音二郎の演説を聞きたい人はわずかだった。

二度の失敗で、音二郎の壮大な夢は楽しいけれど、実現は難しいと身をもって知る。

音二郎は現実を真正面に受け止め進むのではなく、まず夢が先にあり突き進んでしまうのだ。

 

落選直後は「借金だけが残ったね。仕方がないわね」と貞奴は開き直って大笑いした。

金も力もあり希望を叶えてくれた伊藤博文とは違うと、これからを思い、音二郎を改めてじっと見る。

黙ってついていけば、奈落の底に行きかねない、危なっかしい夫だった。

 

すぐに執拗な借金取りが昼夜を問わずやってくる。

想像を超えていた。今まで知らなかった事態だ。たまらず「(音二郎が)無謀な選挙に出た為にこんなことになってしまった」とさんざん文句を言う。

だが、起きてしまったことを、今更悔やんでも仕方がない。

苦労に苦労を重ねて作った川上座も、何もかもなくしてその日食べることも事欠くようになってしまう。

常に強気の貞奴だったが、取り返しのつかない失敗をしてしまったのだと、やけくそになる。

貞奴には貧乏の経験はない。

初めての失敗の衝撃は大きくのしかかり、心の準備ができるまで音二郎を追及し口汚くののしるしかなかった。

 

音二郎も落ち込んだ。

だが、借金取りが来るとすぐに隠れる。

貞奴が、どうにかこうにか言い訳し、追い返すのが、度重なる。

借金取りも、後光がさす輝きを持つ貞奴を前にすると後ろに控えているものの怖さを感じ強くは言えなくなるのだ。

それでも貞奴は返す見込みのない借金に「申し訳ない」と肩を落とす。

そのうち、執行吏(裁判所執行官)が押し寄せ、催促と取り立てが行われる。

ここでは、貞奴の後光は意味をなさない。

 

ようやく貞奴は「夫婦って、良い仕事をする夫と支える内助の妻で成り立つはずなのに、戦友であり同志として生きるしかないんだ」と悟る。

そして「誰にも負けない芸者芸を持っている。最後には芸が身を助ける」と揺るがない自信を胸に秘め覚悟を決める。

音二郎は悲惨な状況を打開するために必死であがいている。

もう少しは、音二郎のほら吹きの夢にとことん付き合いましょうと、気持ちを静める。

 

八 貞奴、海外へ。

音二郎は「とても借金の返済はできない、海外逃亡しかない。海外で興行する」と真面目に話す。

「できるはずない」と貞奴は答えたが。

 

すると、払い下げられた商船学校の全長四mのボート「日本丸」を手に入れてきた。

貞奴は感心し「この人はすごい。面白い」と話に乗った。

同時に一八九八年(明治三一年)八月二七日、清・韓・英・仏・米の海外遊芸修業渡航免状を得る。

海外興業を成功させるとの決意を示した。

その協力を金子堅太郎に頼む。

 

音二郎は、実家が船問屋も営んでおり、船は身近であり、海外渡航の経験も多く、海には慣れている。

だが、自分の力での航行は初めてだし、腕っぷしが強いわけでもなく、体は弱い。

九月、二人は姪(音二郎の妹の娘)シゲ一一歳と愛犬、福と米・味噌・しょうゆから炊事用具、衣服、海図、磁石、舷灯、浮子などなど航海用具一式を、長さ十三尺(四m)幅六尺(一・八m)の短艇(ボート)『日本丸』に積み込み築地河岸から海外に漕ぎ出した。

誰が考えても不可能なことを恥ずかしさもなく大真面目に決行するのが、音二郎だ。

それでも自信がなくて、誰にも言えず、見送ったのは準備を手伝った者だけだ。

 

どうにか出航したが、慣れない航海でありすぐに漂流、東京湾を出ることさえできず、横須賀軍港に迷い込む。

海軍に保護され警察に引き渡された。「馬鹿なことはやめろ」と止められるが、大見得を切って出た以上やめられないと音二郎も貞奴も言うことを聞かない。

そこで、子供だけは許せないと命令され、やむなく可免に迎えを頼み、姪のシゲと愛犬、福を横須賀で渡し預ける。

ここで、貞奴と音二郎逮捕のニュースが報道された。

貞奴は海軍でも警察でも羨望の目で見られ特別待遇だ。逮捕はなく、保護され、説得されただけだ。

 

拘束されているのではなく自由な二人だ。こっそり、再び漕ぎ出した。

それまで、海軍の将校から海流の読み方、舵の切り方など極意を学んだ。今度は、漂流しつつも下田に着く。

すでに、絶世の美女、貞奴の無謀な海外逃避行が、新聞で大きく報道されていた。

ボートを見つけた地元の人々が、貞奴が陸に上がるのを助け、もてなした。

必要な物資の補充は地元の人々がしてくれた。もう引くに引けないと、上機嫌で礼を言い、手を振り出立する。

 

その様子が報道され、大きな話題となって寄港先々で歓迎を受ける。

寄港のたびに、貞奴の艶姿を一目見たいと人々が集まる。そして、航海の話を聞こうとする。

音二郎は、航海の困難さを訴える大冒険の旅を、とうとうと語る。

事実半分の迫真の演説は拍手喝采され、義援金が集まる。

 

ほとんどの人は、想像以上に小さく可憐であまりに美しい貞奴の勇気に魅せられた。

貞奴の思いを遂げさせたくて、皆が協力し、支援し、船を直し、食料など補給し、送り出す。

寄港を望み、待つ人まで出てくる。

学校の先生が生徒を引き連れて見に来たり、村総出での出迎えでお祭り騒ぎとなるほどだ。

 

貞奴は、予想外の展開に驚き、歓迎が窮屈で、沖に出て航行しようと言う。

音二郎は歓迎されるのが嬉しくて海岸沿いにへばりつくように行くのだ。ケンカが続く。

海岸沿いは、座礁しやすい。助けてくれる人がいないところで乗り上げると、少しでも船を軽くしようと二人とも船外に出て、潮の満ちるまで待ち、力を合わせ渾身の力を振り絞って必死で抜け出さなくてはならない。疲れる。

 

潮流の早い相模灘・遠州灘・熊野灘をハラハラドキドキで通り抜ける。

大型台風・集中豪雨・嵐・アシカの群れが次々襲い掛かり、あまりに小さな船ではなすすべもなく、死を覚悟する。

それでも「必ずうまくいく」と貞奴は念じた。二人は持ち前の楽天主義で、笑いながら乗り越えた。

 

だが、体が震える寒い季節が来た。体力の限界を感じもうこれ以上は無理だと思った翌一八九九年一月二日、神戸港にたどりつく。神戸まで約七〇〇㎞を漕いできたのだ。漕ぐ音二郎、舵を握る貞奴は力尽きた。

音二郎は倒れ、そのまま、入院療養生活となる。

貞奴は、気丈に歓迎の嵐に応えつつ音二郎を看護するが、病状は良くならず「乗るんじゃなかった。取り返しのつかないことになった」と落ち込む。

 

その時、一八九三年のシカゴ万博を取り仕切り有名となった国際興行師、櫛引弓人が貞奴に会いに来た。

そして、米国巡業の話を持ち掛けた。

櫛引はアメリカアトランタに、茶屋・球戯場を備えた日本庭園を造り日系人を中心に多くの客を集め繁盛させた。

そして、日本の芝居をこの地で鑑賞したいと願う日系人から演劇一座を招くよう頼まれた。

だが、日本では海外興業に恐怖感を持つ演劇一座が多く、思うような人気のある一座を見つけられなくて困った。

その時、二人の航行の報道を読む。川上一座は有名で、是非にと会いに来たのだ。

 

明治に入って以来、海を渡った男芸人も女芸人も多いが、まだ、成功したと言われた一座はいない。

音二郎は「苦労した航海に価値があった。待ち望んだ海外興業が実現する」と大喜びで、躊躇なく飛びついた。

座員一三名が見舞いに駆けつけ、彼らも賛成して、海外興行が決まる。

 

貞奴は事の成り行きに目を丸くするばかりだった。

急転直下に天と地が入れ替わったことだけは確かだ。

命これまでと何度も覚悟したが、音二郎が夢見た海外公演の道が急に開けた。

無謀な逃亡劇をあざ笑った連中の鼻を明かし大手を振って海外に渡れるのは、小気味よかった。

櫛引弓人は、川上一座についていろいろ聞いていたが、間近に見た貞奴の美貌に釘付けになった。

貞奴が居れば必ず興行は成功すると、笑いがこみ上げ、今までの悩みがウソのように晴れ、元気になった。

 

音二郎も見違えるように元気になった。

そして、内地でのお別れ公演と称して、洋行送別演劇を上演する。

東京には戻れず、神戸愛生座・京都南座・大阪中座での興行だが、川上座の人気は健在だ。

漂流話は有名で、その延長の海外公演、そのためのお別れ公演と人気沸騰の筋書きができていた。新聞は騒ぎ立て、公演は大成功だった。

無理をして自前の劇場、川上座を持ったことと、選挙資金を借り入れたために、夜逃げとなっただけだ。

東京の借金取りも追いかけて来ず、この資金で大道具小道具衣装と準備する。

渡航費用は櫛引弓人が出し、準備は整った。

 

貞奴は二八歳。思いが叶った。

ずっと、桃介が憧れ貞奴を裏切ってまで行ったアメリカを見たかったのだ。

夢が実現したと、観光旅行気分で、ルンルンで旅支度した。

 

知名度があり才能ある二人だからこそ、港々で人気を呼び、興行師を呼び寄せたのだ。

どんな悲惨な状況でも必ずどうにかなるという開き直り、陽気で派手な行き当たりばったりが成功した。

貞奴と音二郎「これからも二人でどんな困難も乗り越える。必ずできる」と手を握る。

 

九 貞奴、国際女優になる

一八九九年四月三〇日、貞奴の兄、小山倉吉と音二郎の弟、磯次郎と姪のつる(シゲの妹)と座員一四名。

総勢一九名の川上一座は神戸からゲーリック号に乗り込み、アメリカ巡業に出発する。

音二郎と一座の面倒を見るのが精いっぱいの貞奴は、信頼できる兄に、側で助けて欲しいと頼んだ。兄は妻、冬を亡くし衣装方として同行する。加納屋を飛び出て迷惑をかけ、少しでも恩返ししたかった。

 

音二郎は船内でもゆっくりすることはない。演芸会を開催し稼ぎ、寄港地、ハワイホノルルで演説会を開き稼ぐ。

貞奴は船旅をゆっくり味わった。

こうして一座は、練習を積みつつ船旅を楽しみ、自信満々で五月二三日、サンフランシスコに到着する。

 

貞奴は、初めての海外への旅に満足し、良い気分で降りたが、びっくりすることが起きていた。

作られていた宣伝用ポスターの中心に大きく貞奴が描かれていたのだ。

誰が見ても、川上一座の第一の俳優で看板女優は貞奴だった。

 

やむなく音二郎は、「娘道成寺」という歌舞伎の演目を適当に書き換え貞奴主演の主な出し物とする。

貞奴は踊りには自信があり劇場公演の経験もあり了解したが、演技も要求される舞踊劇は、拒否した。

 

音二郎の「娘道成寺」の筋書きは、僧、安珍が清姫に恋をし結ばれる。すると清姫は離れたくない、共に逃げようと迫る。だが、安珍は、寺を出ることはできない。そこで、鐘の中に逃げ込み、清姫と別れようとした。清姫は逃さないと追いかけ、狂おしい情念が化身し大蛇となり、鐘を焼き尽くす。鐘を焼かれた道成寺は怒り、女人禁制の寺とする。そして長く鐘がなかった。

ところが、鐘が奉納され、安珍の供養が行われることになる。そこに、美しい白拍子がやってきて、供養に舞わせてほしいと頭を下げた。小僧たちはその美しさに目がくらみ入山を許す。白拍子は舞いながら鐘に近づく。

その様子で清姫の化身だと気づいたときは遅く、清姫の魔力に寺は翻弄される。

清姫は鐘の中に飛び込むと鐘の上に大蛇が現れて…と続く。

 

貞奴はびっくりだ。踊りだけでは演じきれない。

音二郎は平気だった。日本語のわからない観客が多く、適当なセリフを言っとけばいいと言うのだ。

逃げ道はない。踊りと長唄でできる限り表現し問答は避けることで、上演を決意する。

得意の踊りで何とかなると腹をくくり、桜の頃を背景に女の愛と情念を明るく躍動的に、また哀れに悲しくすさまじく表現した。それ以外は適当だ。

貞奴は観客を魅了した。

 

日本では出演者はすべて男性、女の役は男が女形として演じるのが当然とされ、現状ではやむを得ないと音二郎も同感で、女形役者が一座にいる。

ところが海外では男の役は男、女の役は女が演じるのだ。美貌の貞奴が主人公になるのが自然だった。

やむなく、貞奴は舞台に立った。

貞奴の繊細な表現力で踊りは優美でありながらなまめかしい。未知なる国、日本の美しさだと観客は感じ入る。

 

この公演の前、渡米を斡旋した櫛引弓人が事業に失敗し、興行から手を引いた。

そこで、日本からの移民の手続き一切を扱っていた日系弁護士、光瀬耕作が引き継ぐ。

だが、光瀬耕作は興行師として何をすべきか知らなかった。しかも借金を抱えていた。その為、にこやかに通訳しただけで、興行収入すべて持ち逃げしてしまう。

音二郎・貞奴への支払いがないのはもちろんだが、ホテル代・広告料なども支払っていなかった。

ホテルから請求された音二郎・貞奴には支払う目途はなく、衣装道具などを担保に取られ追い出される。

川上一座は一文無しで路上に放置された。

 

また地獄だ。

食事にもありつけず、あまりの窮乏と心労で一座は、もはやこれまでと呆然と座り込んだ。

すぐに、救いの主が現れる。貞奴の熱狂的ファンとなった日系人だ。

貞奴の美しさに魅せられ望郷の思いを満たされ満足したファンは、事情を知ると精力的に募金を集め芝居道具を取り戻し、義援演劇の開催を申し出た。

川上一座は義援演劇で資金を集め、支払いを済ませ、落ち着いて芝居に打ち込むことができた。

こうして、決まっていたサンフランシスコ公演を予定通り終える。

 

支援した日系人は口々に「慣れないアメリカでの興行は無理だ。日本に戻るように」と勧める。

だが、音二郎と貞奴に帰るところはない。「興行を続ける」と言うしかなかった。

すると、アメリカでは子供の出演は制限されていると、子供たちを置いていくように言う。

納得した二人は、彼らの勧めを信じ可愛がっていた一一歳になる姪、つるを画家、青木年雄の養女とする。

一六歳の弟、磯二郎を英語と芝居の勉強をさせるためにアメリカ人に預ける。

こうして、次の興行先、シアトルに行く。

シアトルには日本人町もできており、安心して興行でき、歓迎され公演は成功だ。

ここで一息つく。タコマ・ポートランドでも公演し、大陸横断の旅費の一部ができる。

 

音二郎は「これでは川上一座の大成功は難しい。演劇の盛んなパリで一旗上げよう」と言い出す。パリで劇場を回った経験があり、成功する自信があったのだ。

日本に早く帰りたい座員だったが、成功する夢を聞き続けると根負けし、賛同する。

こうして、西海岸から東海岸へアメリカ横断の興行が始まる。

まともな通訳もいない不安定な興行ながら食いつないで進む。

 

ようやくシカゴにたどり着くが、資金が尽きる。しかも皆やせ細るほどの過酷な旅だった。

日本通だと聞いていたライリック座の座主、ホットンに興行を申し込む。特に娘が日本を大好きだと聞いており、便宜を図ってくれるはずだった。

ところが、たった一日だけの契約しか認めない。興行を継続する条件は、初日の観客の大入りだった。観客が少なければ興行は打ち切りだと冷たい。

しかも公演までの日はわずかだ。事前の宣伝もなく、この地の人が川上一座を知らない状態での公演の許可だった。

このままでは最後の公演となると音二郎は危機感を持つ。

切羽詰まった音二郎が考え付いたのが、チンドン屋だ。

舞台衣装を身に着けて皆で街を練り歩く。悲壮感を漂わせて公演を見に来てほしいと宣伝するのだ。

何も知らなかった町の人々は、異様な日本人の姿にびっくり、話題騒然となった。

町の人々が注視するのは、貞奴の着物姿だが。

 

音二郎は最後の公演になるかもしれないと覚悟を決め演目を考えた。

思い切り派手にするぞと、貞奴を取り合い争う武士のチャンバラそして腹切り(切腹)劇を作る。

清らかな愛の場面と、ハチャメチャなチャンバラ、メリハリの利いたドタバタの連続だ。

やせこけた団員の迫真の演技で、観客は拍手喝采。

そして、貞奴の「道成寺」。素晴らしいと絶賛の嵐だ。

 

ホットンは娘と共に、感激して現れる。貞奴の美しさに魅せられたのだ。再演が決まる。

一同、やっと贅沢な食事にありつけ、食べまくった。皆生き返り、安どの表情で血の気がよみがえる。

ここで興行師、カムストックを紹介され、ようやく信頼できる興行師と出会い、安心して興行ができるようになる。

ただ、事情を聴いたカムストックは川上一座と自分が儲けるために過密スケジュールを組む。

東海岸に着くまで、到着した日にすぐ公演、夜には次の興行先に旅立つという具合だ。

一か月ほどの興行を終えると一流演劇一座らしい体裁を整える収入を得た。一二月三日、ボストンに到着する。

 

また、すぐに興行を始め成功したが、ほっとしたのか女形役者、丸山蔵人と三上繁が倒れた。

すぐに入院させる。おしろいに含まれる鉛毒の多用と体力の消耗が原因と思われたが、間もなく亡くなる。

異郷の地で、食べ物も気候も違い言葉も通じない生活に疲れ果てても、ここまで頑張ってたどり着いたのにと、二人の死が重くのしかかり、貞奴は涙にくれた。ボストン郊外のマウントホームに丁重に葬った。

「こんなことになるのなら来るんじゃなかった」と責めると、音二郎は、心労が重なったのか倒れた。盲腸炎だった。生死の間をさまよい手術を受ける。なかなか回復の兆しが見えないし、予想外の高額の費用を請求される。

 

ここで、貞奴は、たとえ音二郎亡き川上一座となっても守らなければと覚悟を決めたが、地獄の日々だ。

座長として責任を取らなくてはならないと平静を装い興行を続ける。

その時、金子堅太郎から「駐米公使と連絡が付いた。安心してワシントンに行くように」との連絡が入る。

海外公演が決まると金子堅太郎と連絡を取り合い、日本大使館の公使が便宜を図る約束を取り付け渡航したのだ。

なのに、アメリカに着いても公使からの連絡はなく、その後もつながらず、何度も窮地に追い込まれた。

「遅すぎるよ。今まで何してたの」と叫びたかったが、ほっとして嬉しくて涙が出た。

その旨、音二郎に話すと生気が戻り体力も回復する。

 

一〇 貞奴、日本を代表する女優に

一九〇〇年一月末、ついに、ワシントン到着。駐米公使、小村寿太郎がにこにこ手を振り迎えた。

「これからはすべて任せて欲しい」と苦労をねぎらう。ここから客人待遇でもてなされ、天国の日々が始まった。

日本の誇る文化人としてアメリカ在住の日本人に紹介され、アメリカ政財界人との懇親会など外交の場にも出席する。

 

貞奴の美しさに目を奪われた小村寿太郎は、マッキンレーアメリカ大統領を大使館に招き、日本舞踊の美しさを見せつけ日本文化の水準の高さを誇りたいと話す。

貞奴は「いいですよ。日本の誇る芸をお見せましょう」と応え、大統領の前で自信たっぷりに踊る。

すでに女優としての自覚は出来ており、堂々とした日本からの文化大使だった。

この頃から、川上一座一同、日本を代表する芸人になったんだと、海外巡業に出てよかったと笑顔があふれる。

次いで、ニューヨークに移る。すべての手配が滞りなくできており、興行的にも大成功だった。

そして、音二郎の目指す本命、花の都「パリ万博」での大成功を信じ、パリに向けて出発し勝負をかける。

 

貞奴が日本を代表する国際女優として名声を得るのは、パリ万博での大成功と、日本に戻って後再び始めるヨーロッパ各国での公演の大成功による。

波乱万丈の人生はまだ始まったばかりだ。