生命(いのち)のはじまり
菅睦雄
約 11041
この物語は、生殖医学を基本的に学び、その不思議さ、神秘さを知り共有したいと思う願いから語ってみたいと思います。貴方自身、その声でお子さんのために、またお孫さんのために優しく語ってあげたい『生命(いのち)のはじまり』として綴ってみました。
1.らん子物語:はじめに
ここでは新しい生命を作るための配偶子(卵子と精子)の基本的なお話をしてみたいと思います。地球は今から約40億年前に誕生しました。そして、生命体が地球にみられ始めたのは5億年後の35億年前です。その当時はモノセクシャルの世界、すなわち単為生殖だったのです。そしてオスとメスという2つの性に分かれたのは20億年後のことで15億年前に有性生殖によって子孫繁栄が営み始められ、今日でもそれが永続的に続けられてきています。
生命体の最高峰にある人類も600万年前に誕生しました。それになぞらえ未来永劫的に今日まで生殖は営まれ続けています。人間社会において生活をしていくには様々な規範がありますが、それを乗り越えて子孫繁栄を営んでいかなければなりません。生殖行為は基本的に家庭をもって家族を、村を、社会を築き上げるという根幹をなすものといえましょう。子孫繁栄の基本、子どもを作ることは最も大切なことです。
そこでその基本的なことを学んでいくことにしましょう。ここでは、卵子を「らん子ちゃん」と呼び、精子を「せい夫君」と呼んで、それぞれの立場になり代わって語っていくことにします。
1―1.200万個の卵子が卵巣の中で眠っている
卵子(らん子ちゃん)は卵巣の中に沢山ある原始卵胞の中に包まれて存在しております。ママが生まれたときには2つの卵巣の中に1層の顆粒膜細胞に包まれた原始卵胞がおよそ200万個も眠っているのです。生まれる前の胎生期には実に700万個ほどの無数ともいえる多数の卵子がありました。しかしそれ以降は新しく卵が創られることはありません。この700万個の中から次世代を担うために卵子たちには自然淘汰という試練が待ち受けているのです。
その卵を包んだ原始卵胞が発育して第一次卵胞、卵胞の中に水分を含んだ卵胞腔ができ卵を優しく潤すようにまで大きくなった二次卵胞、そして排卵できる大きな1つの卵胞、選ばれた成熟(グラーフ)卵胞となって卵巣の被膜を破って排卵します。この卵胞の発育は、月経期、卵胞期、排卵期、黄体期といった規則正しいおよそ28日といった周期性をもって繰り返しています。
女性が生涯で排卵できるのは、多少の個人差はありますが初経に始まり閉経を経て生殖能力が終焉する約40年間しかありません。排卵する卵子の数は500個を超えることはありません。持って生まれた700万個に対してみれば1万分の0.7以下ということになります。実際に精子と出会って生命を誕生させる卵子は、今日では少子社会ですからほんの数個にしか過ぎないことになります。
1―2.月経周期
この周期性は、脳にある視床下部(管制塔のようなもの)から脳下垂体に指令がでて、下垂体の前葉から卵胞刺激ホルモン(FSH)を分泌します。文字通り卵胞を刺激するホルモンで、卵巣の中の卵胞の発育を促し卵胞腔を作り膨らんでいきます。発育する卵胞は顆粒膜細胞をどんどんと増やして、その顆粒膜細胞から卵胞ホルモン(エストロゲンという女性ホルモン)の分泌が促されます。このエストロゲンは子宮に対して赤ちゃんの寝床を作るかのように内膜を厚く増殖させますが、同時に身体(からだ)全体を巡り女性らしさを表出する働きをします。
卵胞が排卵しても良いほどに十分に育ち膨らみますと、エストロゲンの分泌量も一定の閾値に達するようになります。それを司令塔である視床下部が察知し、次に排卵させるようにと脳下垂体前葉から大量の黄体化ホルモン(LH)を放出します。これをLHサージ(峰)と呼んでいます。これによって排卵が起こるのです。これは次の予定月経前の14日前後に相当します。
卵を放出した後の卵胞には黄色がかった黄体に代わり、そこから黄体ホルモン(プロゲステロン)とエストロゲンの双方が分泌されます。エストロゲンは、前述しましたように細胞を増やすという役割を担っていますが、プロゲステロンは妊娠を成立させる役割、そして、その妊娠を継続させるという大変重要な役割を持っています。
卵胞期にはエストロゲンのみが分泌されますので子宮の内側の子宮内膜は着床(赤ちゃんの寝床)に備えて厚く増殖します。これを増殖期(=卵胞期)といいます。排卵した後は卵胞が黄体に代わりプロゲステロンとエストロゲンを分泌します。このプロゲステロンは増殖した子宮内膜に毛細血管を張り巡らせてふかふかの柔らかな栄養に富んだ受精卵を迎えることが出来る環境に変えるのです。この時期を分泌期(=黄体期)といいます。排卵した後、1週間頃が黄体の機能が最も活発に働いている時期です。そのピークは受精卵が子宮内に到達する時期と一致しています。
受精卵(胚)が子宮内に着床すると胚(受精卵から細胞分裂を繰り返し胚盤胞になった状態:70~100個ほどの細胞の集まりとなり)から絨毛(植物の根に例えることができます)が内膜に根を張り巡らせます。この絨毛から絨毛性性腺刺激ホルモン(hCG)が盛んに分泌されるようになります。このhCGは黄体を刺激して黄体からの黄体ホルモンと卵胞ホルモンの両ホルモンの分泌を促します。これを妊娠黄体に変えるといいます。もしhCGが分泌されなければ、妊娠黄体に変わりませんので黄体の機能は衰えてしまい両ホルモンが急速に低下し、内膜が維持できなくなり、子宮から遂には剥離して暗赤色の血液として流出されてしまいます。これを月経といいます。暗赤色の血液として月経が起きるということは、次の妊娠に備えての準備がまた新たに始まったという証でもあるのです。
ここでは卵子の数と月経周期についての基本的なことを述べてみました。次には、卵巣にある卵子のラン子という立場になって、排卵から着床まで語ってみたいと思います。
1―3.出会いの予兆(夜明け前)
私の名は、ラン子(卵子)といいます。先程、永い眠りから覚めた私は、きょろきょろと周りを見回しました。卵胞液で満たされた大きなドームのような中の卵丘細胞という小高い丘の頂にいるのでした。ドームが随分と大きくなっているわ!他の卵胞が幾つかみえるけど、どれも私のより小さい。なかにはしぼみかけているのもいるわ。「24時間以内に排卵せよ」という脳からの指令を受けたところなの。それで私は目を覚ましたわけなの。
ママは32歳、パパは35歳で結婚して2年と8ヶ月たっているの。早く子どもが欲しいと願っているのだけれど、まだできないの。パパはママにとっても優しく、温かな眼差しで何時もママをみつめているの。そんなパパの彼(精子)と出会って早くママとパパの願いが叶えられたら嬉しいなといつも思っているの。
夢にまでみた彼との出会いが、いよいよ叶えられそうです。排卵という引き金によって、私はようやく一人前になって彼を求める一人旅に出ることになります。今とても胸が張り裂けんばかりの期待感を持っています。それは彼を求めての冒険の旅立ちで、彼との出会いを求めてです。
でも、ママが私と彼との出会いを求めていなければ、私の出会いの旅立ちは無意味になるの。でも、その出会いの可能性は、ママの行動からみてパパとの営みが2日前にあったから十分にあると思うの。それだけにとても楽しみな旅立いといえるのよ。今とてもワクワクと興奮しているの。
ちょうど3ヶ月前かな、三十数個ほどだったと思ったけど、次の排卵に向けて私たちがリクルート(徴用)されたの。最初は篩にでもかけられたかのようにどんどんと落ちこぼれていったわ。前のグループの1つが排卵し出会いに失敗した頃には、私たちのグループでは1桁台になっていたわ。そして数日前には4~5個に減ってしまって、私1つだけが競争に勝ったの。私たち卵子の世界でも常に競い合うバトルが起きているのです。選ばれて残ったものだけが、パパの彼(精子)と出会えるのです。だから誇りを持って旅立つことが出来ます。
1―4.親友の嘆き(月経時の痛み)
私にとって仲の良かった親友が、同じようにして数ヶ月前にママの卵巣から旅立ったのです。数十個の卵子の中から彼女だけが選ばれたのです。彼女の卵胞ドームもとても大きくなっていたわ。今の私とほゞ同じくらいかしら…。
原始卵胞の時は1層の顆粒膜細胞に包まれていたのですが、その周りに莢膜細胞ができ、卵胞の発育と共に顆粒膜細胞が幾重にも取り囲むようになり卵胞腔ができ、卵胞液に満たされます。そこから卵胞ホルモン(エストロゲン)というホルモンが分泌されるのです。そのホルモンの働きにより、私たち卵は光り輝きパパの彼(精子)と出会うことができるようになるのです。
そのエストロゲンというホルモンが満ち足りてきますと、ママの脳の中にある視床下部(ちょうど飛行機を操る管制塔)が、排卵に至るのにふさわしい卵胞が育ったと判断して、排卵しても良いという命令を脳下垂体に与え大量のLH(黄体化ホルモン)を出させるのです。これをLHサージともいい排卵の引き金になります。
私自身も羨むほどに光り輝いていたわ。親友の彼女も…。潤いのある張りを持っていました。「絶対に彼をゲットしてくるからね」といって卵巣の膜を貫いて旅立ったのですが、卵管膨大部に立ち下りた彼女は、私に叫んできたのです。「彼たちが誰もいないよ」と…。虚しくなって泣き叫んでいました。そこで仕方なく独りで無言のまま寂しくトボトボと卵管をとおって真っ暗闇の腹腔内へと下りて行きました。
そして彼女と彼との寝床となるはずであった、せっかく準備してくれた柔らかな子宮内膜は片付けられ、月経となって子宮はきれいに次の妊娠に備えることになったのです。その時の彼女の嘆きは、ママのお腹を襲いました。激しい月経痛となって苦しませたのです。月経痛は時として女性のお腹を激しく揺すぶるときがあります。これを月経困難症といいますが、このような舞台裏には、卵の嘆きが隠されているのかもしれませんね。
1―5.出会いへの旅立ち
LHサージが私の身体を大きく揺さぶりました。そしてプロスタグランジンという物質が卵胞腔の頂点に雷のように働きかけ、メリメリと大きな音を立てて卵胞膜が破れて弾き出されるかのように勢いよく、私は飛び出していったのです。思わず目をつぶらずにはいられませんでした。この時、私の身体の中に大きな電流が流れるような感じで第1回目の減数分裂をして1つ極体を放出し1倍体の2次卵母細胞(卵娘細胞)とさらに成熟して一皮剥けたのです。
目を開けてみると、そこは卵管液に満たされた神秘の世界が待ち受けていました。「まあ、なんて素敵なところなんだろう。いよいよ彼との出会いの場に行くんだ」柔らかな無数の繊毛のような産毛に包まれた、ビロードに輝く大きな手を、私に差し伸べてれてくるではありませんか。私を包み込んでくれるのです。とても温かくうっとりと微睡(まどろ)んでしまいそうな感じです。卵管内の無数にある繊毛が小さな波を起こし時計のような回転をさせながら私を卵管の奥へ奥へと運んでいくのです。
私を卵管の突端である手袋(グローブ)の様な卵管采で巧くピックアップしてくれた卵管の動き、この卵管の動きも非常に重要な役割を担っています。月経周期に合わせ周期性を持っているのです。排卵の時期になると卵巣の周りを包み込むようになるのです。これは排出された卵を取り逃がさないための仕組みなのです。この周期性が失われますと卵をキャッチすることができませんので「ピックアップ障害」といって不妊症の原因になります。
排卵して旅立った私には残念ながら24時間位しか受精する能力がありません。非常に短いのです。排卵して10時間後位が最も良い状態なのです。時間が限られているのです。どれくらい時間が経ったのでしょうか、そこは大きな憩室(けいしつ)のような卵管膨大部(卵管のなかで一番広いところ)というところまで運ばれてきたのです。早く彼との出会いを果たさなければなりません。よく目を凝らしてみると卵管の奥から白く輝いてみえる無数の塊がゴーという津波のような不思議な音を立てながら私に向かってきているではないですか。
1―6.出会いの瞬間(受精)
先頭を切って泳いできているのが私の彼でしょうか?期待に胸躍らす瞬間です。「ア~ァ、幾つかの精子の塊が私の頭上高く通り過ぎて行ったわ。せっかちな人たち…」と思っていると、横から私の身体の中に入り込んできた感じがしました。思わず悲鳴を上げそうになりました。次々と私の身体の中で変化が起こり、まるで電気が駆け巡って行くようです。彼が私の透明帯の殻を破って入ってきた時に、次の瞬間には透明帯は堅い殻となって他の精子を受け入れないように閉ざしてしまったのです。そして透明帯の内側に入った彼が細胞膜に接着しようとしたときに電流が一気に走り抜け、私の身体は最終の減数分裂を起こし第2極体を放出したのです。彼の遺伝子の塊が、まるで魔法でもかけるかのように、私の遺伝子を引き寄せて同じような隊列を作るようにと誘いかけるのです。機械仕掛けになったお人形の思いです。お互いに寄り合って彼の雄性前核と私の雌性前核とが絡み合って融合して結ばれていくのです。これが受精という現象で、私と彼の2つの染色体が一対になって新しい生命が誕生したのです。本当に良かった。これで私の願いが叶ったのです。
新しく生まれ変わった私たちは細胞分裂を繰り返しています。受精した翌日には2細胞から4細胞、8~16細胞と次々と細胞数を増やしていきます。そして割球が融合して桑実胚から胚盤胞へと成長し続けながら卵管を通り抜けて子宮へと運ばれていきます。このことを、まだママは全く気付いておりません。私たちだけの秘密なのです。今回は、せい夫君との出会いで男の子になる役割を担ったのです。
1―7.生命誕生までの長い道のり
胚盤胞まで育った胚は、ようやく子宮の中に到着しました。排卵し彼と結ばれ一つになってから既に1週間ほど経過しています。私が飛び出した卵胞は黄色く変化をして黄体となって黄体ホルモン(プロゲステロン)とエストロゲンを盛んに分泌しています。黄体から分泌される2つのホルモンは妊娠の成立にとても重要な役割を担っています。エストロゲンは細胞を増やすという方向に働きかけますが、プロゲステロンは増殖した子宮内膜に働きかけて柔らかでふかふかの状態に変えてくれるのです。それは受精卵が子宮内に入り込んで寝床につきやすい環境にしていたのです。
私たちは、胚盤胞の殻を打ち破って絨毛という根を子宮内膜の中に張り巡らしてママから栄養をもらいます。これはちょうど布団の中に潜り込むような状態です。その絨毛からは絨毛性性腺刺激ホルモン(hCG)というホルモンが分泌されるようになります。このhCGは黄体を刺激して二つのホルモンの分泌をより一層促す働きがあります。これらのホルモンは妊娠の成立と維持に欠かすことができないホルモンといえます。このhCGを分泌する絨毛は後に胎盤という臓器となり、私たちを守り育ててくれる大切な役割を演じるのです。
280日間(実際には266日間)もお腹の中でママの卵子とパパの精子が一つに結ばれた私たちを、これから長い間ママは守り続けなければならないからです。
1―8.卵子には年齢差がある
らん子のお話しはこれで終わりですが旅立ちにでた、らん子はママ年齢と同じ32歳でした。卵子は生まれた時に200万個ほど抱え持って生まれてきました。精子と異なって新しく作られることはありません。初経が始まる12歳頃には30~40万個に減ってしまっているのです。そこには、強く逞しい子孫を残すための「自然淘汰」が起きているのです。ひとつの卵子を排出(排卵)するためにも数十個が篩にかけられ、そのなかの一つだけが選ばれています。したがい、50歳を過ぎて「閉経」を迎える頃には数千個迄になっています。その頃には「卵子」も衰えています。
例え排卵しても受精できない卵子が多いのです。もし、受精しても多くは流産という結果を招きます。でも、40歳を超えての出産は2015年で54千人、50歳超えで52人とあります。私たちは、今、晩婚少子社会の中にいます。15年前では40歳超の出産はわずか15千人だったのです。15年の間に超高齢出産は3.5倍にも増えています。
らん子の気持ちにも表れていましたように、私は生れて生きたいと切に願い、幾多に試練にも耐えてきたのです。尊い命としてお母さんの子として産まれてきたのです。でも卵子にも年の差があります。あまり無理はさせたくないものです。30歳代迄に子どもは産みたいものです。
2.せい夫物語
2―1.精子ができるまで
精子は、卵子とは異なって思春期頃になるまでは作られないのです。精子の元は精巣(睾丸)の精細管のなかに精祖細胞として沢山詰まっています。精子は、どのようにして作られているのでしょうか。精子の元である精祖細胞から有糸分裂を繰り返して第一次精母細胞となり、次に減数分裂を起こして第二次精母細胞になります。この時に性染色体は、XとYとに二分されてX精子(女精子)とY精子(男精子)とへの運命が決められるのです。再び、有糸分裂を繰り返し精子細胞となります。この時は未だ精子は細胞質を持っています。次第に細胞質が取れてスリムな遺伝子だけの塊となって、頭部と特徴ある尻尾を持った精子になるのです。1つの精祖細胞から精子になるのは64個ほどといわれ、精子に至るまでにおよそ74日間を必要とします。
2―2.なぜ、精子は作られ続けるの?
精子は思春期頃より作り始められ生涯作り続けられますが、男性の生殖能として遺伝子に組み込まれているのです。精子は1日に5千万から1億以上も作られるともいわれておりますが、精子を作る仕組みはデリケートで環境に応じて大きく変わるのです。なぜ精子は永遠に作られるのでしょうか、それは精祖細胞が有糸分裂によって二分されて発育していくのですが、その1つが発育する運命を担い、もう1つは版元となり温存されるという仕組みになっているからです。
2―3.精子形成系にはホルモンの役割が重要
精子は精巣の精細管内で作られますが、その精細管の総全長は500m以上にも及び、その中の精祖細胞から精子という様々な発育状態の精子の原型が精巣上体(これを副睾丸と呼んでいた)に向けて移動しています。精細管の中には精子の発育を手助けする細胞(セルトリ細胞)が存在し、精細管と精細管との間には別の細胞(ライディッヒ細胞)があり、男らしさと精子発育のエネルギー源ともいえる男性ホルモン(アンドロゲン)を分泌しています。また、これら2つの細胞の活動を調節しているのは、脳下垂体前葉から分泌されるFSH(卵胞刺激ホルモン)とLH(黄体化ホルモン)が役割を担っています。
2―4.受精する能力の高い精子は新鮮なほど良い
男性には精巣以外にもおよそ5~6mの長さを持った精巣上体があり、これは精細管で作られた精子の貯蔵庫ともいわれ、およそ10億の精子が蓄えられるといわれています。ここに蓄えられた精子はアンドロゲンの働きによって運動能力が得られます。この精巣上体に留まる期間は1~2週間ほどで、余り長期間留まっていた精子は古くなり、受精する能力が低下したり、消失していきます。
精子は女性の腟内に放たれて過酷な精子戦争を展開することになりますので、エネルギー源とし精嚢腺から果糖などを多く含んだ分泌液2.5~3.0mlと、クエン酸を豊富に含む前立腺液0.5~1.0mlとが精子と混じりあって精液となります。そのなかで卵子を求める精子軍団がつくられているのです。精巣上体、精嚢腺、前立腺も非常に重要な臓器で男性の副性器と呼ばれています。
これら一連の精子工場の役割は、常に新鮮な精子を作るために貯蔵庫にデットストックを置かないことが肝要なのです。少なくとも1週間に1度以上の射出は必要かもしれませんね。
精子戦争に向けた精子軍団の実際の動きについて、卵子を獲得したせい夫君に語ってもらうことにしましょう。
2―5.せい夫君の目覚め(男精子は語る)
僕がふっと正気に戻ったのは、ラッシュアワーの通勤電車よりも数倍過酷なすし詰め状態で、ドアが開いて精巣上体に流れ込むときだった。周りには男精子も女精子もちょうど半数ずついるのだ。混み方も大分ゆるんできた。僕の周りは若者の集団であるが、遠くをみるとかなり老けてみえる者が多くいる。今、アンドロゲンのシャワーを浴びながら、少しずつ押し進められている。
精巣上体に入って2日目の朝を迎えた。かなり前へ進んできたようだ。アンドロゲンシャワーを受けたためもあって随分と身体が軽くなってきた。まるでトップアスリートの思いだ。
2―6.精子軍団がつくられる
前の方で何やら慌ただしい雰囲気を醸している。精子軍団の隊列を築いているようだ。前方と後方に回された年老いた精子が、それぞれ1億ほど配備されたようだ。ブロッカー精子隊だ。怖い表情を持っていてなんとも言えない筋肉の逞しい精子群が僕たちの周りを取り囲んだ。4千ほどの数であろうか。彼らはキラー精子隊と呼ばれている。僕たちは2グループに分けられ、キラー精子隊が取り囲んでいる。僕たちをエッグゲッター隊と呼んでいる。どれくらいの時間を費やしたのだろうか。いずれにしても2億5千万と云われているとてつもない数の精子軍団ができあがったのだ。あとは出陣を待つのみとなった。
2―7.精子軍団の過酷な旅のはじまり
ざわついていた周りが次第に落ち着きを取り戻してきた。出陣の時間が迫っているのであろう。2億5千万の隊列が大きなうねりをみせ始めた。お互いが身を寄せ合い重なり合って出番を待ち受けている。男精子も女精子も一様に押し黙って前方をみつめている。とその瞬間、勢いよく押しだされたのだ。秒速10kmという信じられない程の速さだ。途中で精嚢腺液と前立腺液の波に乗っかりながら辿りついた。精液の海の中だ。しかも象のような鼻の頭(子宮腟部)で精液はかき回されている。
これは射出された精液が腟のいちばん深い場所の後腟円蓋部に精液プールが作られ、子宮腟部がリズミカルに上下してそのプールをかき混ぜているのだ。これをテンティング現象(テント形成)といって女性がオーガスムを体得している時にみられ、運動性の良い精子を子宮内に効率よく取り込もうとしている状態という。しかも腟内はpHが低く強く酸性に傾いているため、腟内の浅い部分に留まっていると殆どの精子は死滅してしまう。そこで精子は腟の奥深いところ(pH7に近い)で精液プールを作り、より上方に位置する子宮頸管内に潜り込まなければならない。
2―8.立ちはだかる白血球軍団
僕はいま無我夢中の状態だ。只はっきりと云えることは、細長いチューブの中に吸い込まれていることだ。高速エレベーターに乗せられて次々と子宮内腔へ運び込まれている。エッグゲッター隊はキラー精子隊に囲まれながら、2隊に分かれて両側の卵管腔を目指して進んでいかなければならない。富士山の裾野から山頂を目指しての全力疾走と同じようなものなのだ。
目の前に奇妙な形をしたものが待ち受けている。敵対する白血球軍団だ。子宮内は僕たち精子軍団を仲間とは異なった異物とみなして次々と襲いかかってくる。それをブロッカー精子隊が邪魔をし、その隙をみてキラー精子隊が勇猛果敢にも立ち向かうのである。それは精子の頭部にある酵素の一杯詰まった尖体を暴発させて煙に巻いているようだ。
2-9.憩いの場、卵管
ようやく僕たちは卵管の一番狭いところに辿りつくことができた。仲間をみまわすと500にも満たないほどまでに精子数は減ってきている。ここまでで総ての持ち合わせてきたエネルギーを使い果たしてしまった。ここ卵管内には僕たちを優しく労わってくれるエネルギーの源となる湖が限りなく広がっている。卵管にある繊毛に頭を撫でられながら卵管液にある十分な活力を取り込んで憩っていると、不思議と身体が熱くなってきた。他の仲間も異口同音に訴えている。ここにいるエッグゲッター隊は、移動の過程でキャパシテーションといって様々なエネルギーを付与されて受精能力がつけられるのだ。
しばらくすると僕の尻尾は激しく動き始めた。大きく上下左右にしなり、最後の卵子に向けての準備ができたのだ。これをハイパーアクチベーションといって、いよいよ卵子への突入態勢に入ったのだ。空母から飛び立つ戦闘機のように次々と発射されていくのである。
2―10.巨大な宇宙船、卵子への突入
10番目に飛び出した僕は、右下前方に巨大な宇宙船を思わせる卵子が時計回りにゆっくりとこちらに向かっているのを発見した。進路を変えなければならない。減速する。後ろをみると先程から一緒に駆け抜けてきた女精子が迫ってきている。ブレーキをかけ減速して向きを変えた。女精子も気付いたようだ。随分と迫ってきた。女精子は男精子よりもすばしっこいと云われている。
これでは先を越されそうだ。卵子はもう目の前だ。女精子に負けたくない。その思いが最後の尻尾のひとひねりを大きく鞭打たせた。推進力が増して卵子の透明帯に触れることができた。それと同時に尖体から酵素を噴出させて潜り込むことができた。すると透明帯反応といって受精卵の内側にカーテンの様な膜ができて後続の女精子の侵入を防ぐことができた。卵膜を突き破り頭部にある遺伝子の塊を放出させた。すると相手も散らばった核を寄せ集めて僕の核のところに寄り添ってきた。雌雄前核が形成されお互いが一つになって新しい生命を作ることができたのだ。
遂に僕は2億5千分の1という狭き門の精子戦争に勝ったのだ。