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レンズの向こう側のまめ博士

宇里香菜


約 1556

 
 

「こっち向いて」

 

幼稚園に通っていた幼い私が写る、このモノクロ写真は、何気無い⼀⽇の⼀瞬をそのまま優しく包み込んでくれている。
当時、先⽣や友達、そしてお⽗さん、お⺟さんに⾄るまで、いつの頃からか私はあだ名で呼ばれていた。
 
「まめ博⼠」
 
⾃分の中では、嫌ではなかったし、寧ろ少し誇らしげなところがあった。
そして、今も本質的なところは、全く変わっていないことに気づく、なんでも知りたいという強い欲求が、幼い時から途切れることなく続いている。
このモノクロ写真を⼤切に取っておいてくれたのは⺟で、⺟⼦⼿帳と共に保管され、実は私が引っ越すまで忘れられていた。
いつもは、適当でのんびりしている⺟、何でも取っておく癖があり、そして忘れてしまう。
そんな⺟も突然、⼈が変わった様になる時がある。
私や弟のことになると物凄い勢いで⾏動し、いつもののんびりした⺟は、そこにはいないが、適当な部分は、やはり変わらない。

 
忘れられていたモノクロ写真は、時が経っても、変わらない思い出を私に与えてくれる。
実家の居間から台所に向けて撮ったこの構図には、鍋とやかんがガス台に乗っている。
⼣飯の⽀度前に撮ってくれた写真、優しく声をかけてくれた⺟の⽅を向いて、満⾯の笑みで応えている。
⾃然体で何の演技もせずに、その表情をずっと⾒ていると、何故か私も微笑んでしまう、幼い私が⼤⼈になった私に、今も笑顔を与えてくれていることに、驚くと共に、この写真を 撮ってくれた⺟に感謝するばかり。
 
実家から引っ越して12年⽬のある⽇、⽗から携帯電話に連絡が来た。
「お⺟さん、癌かもしれない・・・・・・」
何も声に出すことが出来ないまま、どのくいの時間が経ったのか分からない。
次に出た⾔葉は
「お⽗さん、私が医師から話を聞くから、次の診察の⽇を教えて貰える?」
診察⽇を聞いたことと 、知⼈の医師に聞いてみると⽗に伝えて、 物凄い勢いで出掛けて⾏ったことは覚えている。
それからの毎⽇は、検査や治療⽅法について、⼿術⽅法や先進医療技術等を調べて、何とか⺟の癌が治る⽅法が無いかを、毎⽇調べては考えて、ある程度、纏まると知⼈の医師に聞くということを繰り返して過ごしていた。
 
そして検査結果の⽇。
 
空は、晴れていた。
 
それまで何⽇間か⾬の⽇が続いていたので、不思議と気持ちが落ち着いていたことを覚えている。
 
検査結果は、⼤腸がん。
 
癌の中でも⽐較的、完治し易いことも、もうかなり前に調べて知っていた。
医師から伝えられた⼊院⽇や⼿術⽇等の⽇程を、⼿帳に書き込んで、後はその時を待つだけとなった。
⺟には、早期に発⾒来たこと、癌の中でも完治し易い⼤腸がんで、まだ良かったことなどを時間が許す限り説明していた。
 
真っ⽩い時間が私の中で渦を作り、過去や現在や未来を考えさせた。
⾳のない空間でベンチに座る。
永遠、静寂、そして冷たい空気の流れを頬で感じるほど私はすべてに敏感になっていた。
 
ベッドの上で眠っている⺟の顔を⾒た時、涙が溢れた。
 
空の⻘さに⼼を癒されたその⽇。
あの時の私と⽗は、静かに喜んでいたと思う。
 
⼿術の後の⺟は、昔と変わらず、のんびりと毎⽇を過ごしている。
だけど少しだけ前と雰囲気が変わったところがある。
⺟の⾒つめる先が私と私の家族に向けている時間が⻑くなった様な気がする。
 
レンズの向こう側のまめ博⼠を、あの⽇からずっと⾒守っていてくれた⺟に
 
「ありがとう」