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畑のなかのサロン

畦井遠


約 2987

まえにちょっと友だちだったひとは、いつのまにか行方がしれなくなっていたのだが、なん年かたって偶然再会したところが西部線池袋駅のホームだった。まえに友だちだったひとは、ひさしぶりだねえといった。わたしも、そうだねえと同意した。わたしとそのひとは、時間がもっとゆっくり流れていたころ西国の古い町でちょっと友だちになったのだった。そのひとは浪速の国の出だったが、歩きかたもゆっくりしており、髭の生えぐあいは唐代の役人のように丸みをおび、睾丸も奈良朝人のようにだらりとしているのではないかと思われた。行方しれずになって以来、そのひとも東京の住人になっていたのだった。
だがわれわれは長くははなさなかった。そのひとは、これからカメラマンを連れて仕事にいくところだといった。そのひとはコピーライターという職業になっていたのだった。わたしとまえに友だちだったひとは、その日の夜豊島園の駅で待ち合わせて会うことにした。そのひとの下宿の所在のばしょが豊島園だったのだ。その夜わたしは電車を乗りかえて豊島園にいった。わたしが電車を降りると、まえにちょっと友だちだったひとは下駄ばきでそこに立っていた。まえに友だちだったひとは、ヤキトリを食べにいこうかといった。わたしとそのひとは、その足で豊島園のそばのヤキトリ屋に行き、豚のヤキトリというものをはじめて食べた。ヤキトリ屋は乱食い歯のばーさんがひとりで切り盛りしており、わたしが以前にちょっと友だちだったひとは、そのばーさんの店の常連というわけだった。わたしはばーさんにすすめられてカシラとナンコツを食った。カシラにはまだ豚の顔面の剛毛が残っていた。カシラやナンコツは後にわたしが白山のお寺の境内にあるアパートに引っ越してからも、本郷のサトルちゃんの店で食い続けることとなった。カシラやナンコツやタンはいつも塩で食った。たまには気分をかえてイカダを食ったりもしたが、これは気取ったような食い物で、それを注文したり食ったりするときは後ろめたいような気分で隣のひとの顔をみたりした。
やきとり屋のあるじであるばあーさんの娘、ふだんはそこにはいないのだがその晩だけ店をてつだいに来ていたばーあさんの娘がブタの臓物の切身を竹串に刺しながら、あしたはあしたの風が吹くといった。それは死んだ母が昔よくいったセリフだった。

 

 

その夜はその友人の部屋に泊まり、あくる朝友人はまたカメラマンをつれてどこかに仕事にいったのだが帰ってこなかったのでその友人の部屋がわたしのすみかのようになった。四五日してその友人は帰ってきたが、なぜその友人がしばらく帰ってこなかったかというとその友人のほんとのすみかは保谷にあったからなのだ。わたしとその友人はわたしの運転するくるまに荷物を少々のせて保谷の下宿にうつった。保谷の駅から歩いていけるところのまだ畠ののこっているあたりの坂をくだり、二つめの角をまがった二軒目の家の二階がその友人の下宿だった。しかしその友人は保谷にも帰ってこなくなった。

 

 

友人の下宿のある路地に折れないでそのまままっすぐ行くと畠の脇にラーメン屋があった。このあたりはまだその頃畑が多くあった。友人が帰ってこないのでわたしはそのラーメン屋に通うようになった。ラーメン屋のラーメンにはふつうのラーメンとふつうでないラーメンとがあった。わたしは四日間主にふつうのラーメンを食べて、あとは二階のまどから四六時中おもてを眺めていた。窓からみえるけしきは遠いかなたの木立をのぞいては初冬の畠だけだった。一台の古いライトバンが畠の入口のわきにとまっていた。それはわたしが友人といっしょに荷物をはこんだくるまで、畠のわきのぬかるみのくぼみに後輪がおちこみ動かなくなったままなのだ。雨が四日間間断なくふりつづき、寒くなると窓を閉めて友人のふとんにもぐりこんだ。ひとのすがたをみるのはラーメン屋にいくときだけだった。

 

 

四日目の夜友人はもどってきた。もどってくるとすぐに友人は銭湯にいこうといいだし、われわれは銭湯にいくことにした。ふたりはタオルをぶらさげておもてにでた。ラーメン屋にはまだあかりがついていて客がいるらしかった。人家のまばらなこのあたりでどういう客がラーメンをたべにくるのだろうか。われわれは雨にぬれた暗い夜道を足もとに気をつけながらあるいた。銭湯は西部鉄道の線路のむこう側の商店街のはずれにあった。商店街も暗かったが銭湯のまわりはもっと暗く、中にはいると客がひとりいるだけで湯もぬるかった。さっき湯銭をはらうとき若い番台のおんながめいわくそうなかおをしていたからはやく出たかったが友人はそんなことはへいきなのだ。そのひとはタオルでからだをこすらないのを美徳と心得ているのだといった。タオルでこすると落ちるのは垢だけではなく皮膚もおちるのだといった。湯につかってゆっくりからだを動かすと垢だけがはがれ落ちるらしい。銭湯を出ると友人はパチンコをやってからかえろうといいだした。パチンコ屋はもうしまっているだろう。商店街には人影はまばらだった。この時間に駅につくとパチンコ屋はいつも開いていると友人はいった。そしてパチンコ屋は開いていた。われわれはパチンコを二三十分やってまた暗い夜道をあるいた。ぬかるみで足がよごれた。電車の線路をよこぎって下宿の角までくるとラーメン屋はまだ開いているようだった。

 

 

あくる日も雨が降っていた。友人はあさ出ていったままである。わたしはラーメン屋にいってギョーザはあるかときいた。店の主人はありますといってかべのほうを指さした。かべには餃子とかいた短冊がななめに貼ってある。餃子をくうとわたしは友だちだったひとにだまって電車にのって荏原の下宿に帰ることにした。それはラーメン屋にいくまえにきめてしまっていたことなのだ。しかし、部屋にもどると気が変ってしまった。下宿に帰るのはあしたでもあさってでもいいのだ。そして、また夜になってしまった。

 

 

夜中すぎ、わたしはサンダルをつっかけて表に出た。角のところで畠のほうを見るとラーメン屋にはあかりがついていた。ガラス戸ごしに店のあかりが道路を照らし畠のなかのラーメン屋のまわりは線路のむこうの商店街より明るいのだ。わたしはサンダルのままラーメン屋までおぼつかない足取りで歩いて行きドアをあけた。なかにはふたりのわかい男がいてそれが客だった。ひとりはニラと肉をいっしょに炒めたもので白い飯をくっていた。ふつうと特殊のラーメンいがいにメシもあったのだ。もうひとりは燗をした日本酒をのんでいた。ふたりとも店の主人とはなしている。店の主人はいつもの若い男だった。店の主人ははなしながらもうもうとたちあがる湯気を顔にあびてはたらいている。あすの準備なのだろうか。そしてわたしは湯気のむこうにまえにちょっと友だちだったひとの座っている姿を見た。三人の客と店の主人はわたしに気づいていないようだった。四人とも真顔で話し込んでいる。ここは畠の中のサロンだったのだ。わたしは後ずさりしてそっとドアをしめ、店を去った。そして、こんどこそ江原にあるわたしの下宿に戻ろうと決めた。