ラーメンの午後
浦山アサミ
約 4003
正月気分の抜けない晴れた土曜日、午前十一時過ぎ。千葉県郊外の私鉄駅近く、閑散とした街並みの中、パチンコ屋から漏れる騒音を過ぎて左折すると、エレキギターの高音がうっすらと聞こえてくる。硬質なビルの一階、意を決し自動ドアをくぐると、いきなり爆音となった速弾きが脳天を打つ。
「おはようございます……」
おずおずと中に入ると、物の多い空間に男が二人。向かって右には、冬だというのに焼けた肌に、白いVネックセーターと細いパンツを合わせた若者。迷いなく育った身体を折りたたんで鏡をのぞき込み、ツンツンと立てた前髪を整えながら軽く私と目を合わす。反対側のもう一人は演奏を止め、
「来た、来た」
と屈託なく言って立ち上がる。たてがみのような金髪が柔らかく揺れて私は、「ああ、こんな風だったな」とおかしいような感心したような気持ちになる。
彼は沢村といい、この強面な美容室の技術者でありオーナーでもある。この店には美容室らしい無害な明るさはなく、黒と銀が多用され、暗色の壁一面に尖った形のギターが並ぶ。鏡のふちはギザギザと空を刺し、待ち合いのガラステーブルには骸骨のオブジェや音楽雑誌が無造作に置かれている。それらに囲まれた彼の服装は、やはりスカル形にスタッズが打たれた黒のスエットと、複雑なツタ模様の入った裾広がりのジーンズに、重厚なブーツ。金の長髪と相まっていかにもバンドマンといういで立ちだが、背が低く体つきは貧相で、細く高く整えられた眉や目の下の影、枯れた肌に刻まれたシワの数々が、総じて〝往年の〟という言葉を想起させる。
「だいぶ、弾けるようになったよ!」
笑うと細い輪郭が三角に広がる。突っ立ったままの私をあごで呼び寄せ、再び腰かけて星型のギターを抱える。やんわり目を伏せて奏で始めた二人ともが好きな曲はしかし、ソロパートの音の粒があちこちへ散っている。
――数ヵ月前、この曲を弾くヘヴィメタルバンドのライブに行ったとき、ギタリストの飛ばしたピックを取り合った。それが出会いだ。一目見て、まともじゃないと思った。だが、話してみると案外、普通に会話が成り立った。何より、彼の方もそうだったろうが、周囲に比べ年齢が高そうなことに親近感を覚えた。ピックも譲ってくれたし。
「千葉で美容師やってるんだ、遊びに来てよ」
「じゃあ今度髪、切ってもらえますか?」
社交辞令で終わるはずだったが、帰った後もラインでのやり取りが続いた。クオリティの高すぎるハロウィンの仮装、晩御飯がサバ缶と酒であること、飼い猫に本気で噛まれた悲しみ……そんなくだらない知らせに好奇心をそそられ、ついに店を訪れたのがひと月後。予想に反し、といっては失礼だが、ともかく常識的な髪型に仕上がったし、礼儀正しく真剣に腕を振るい、近所のおばちゃん客から頼られている彼を見て大いに見直した。以来、ライブや飲みに数度出かけ、一月は閑散期なのか今朝また気まぐれに、
「ラーメン食べ行こうよ~~」
とラインが入った。それで寝だめを諦め、四十分も電車に揺られて来てしまったわけだ。
「……んじゃ、行こっか。高木君、よろしくね」
まだ髪をいじっているアシスタントに声をかけ、財布につながれた鎖をジャラジャラ鳴らして店を出る。まさに悠々自適の図。軽く会釈して私も続く。
「ここの中華屋はね、チャーハンが旨い。ラーメンは食べない」
「中華料理屋の麺って、コシがないですよね」
「そうそう! 固ゆでにしても伸びてる」
ささいな会話に、正しく返せた手応えを得る。常に車道側を歩き、車が来れば腕でガードする、そんな昭和のしきたりが、彼の中にはまだ生きている。のんびり五分ほど歩くと、赤いひさしに『らーめん たもつ』と手書き文字の刷られた小さな店に着いた。
「ここはマズいけど、安いから」
さも常連らしく悪態をついて、慣れた手つきで食券を二枚買い、奥行きのあるカウンターの丸椅子へ腰かける。私が上着を丸め隣りに座るのを待って、
「マイコチャン。よろしく!」
と店主に私を紹介してくれる。年甲斐もないチャン付けと、「やましいことはございません」とでも言いたげな明朗な口調をくすぐったく感じる。
「いらっしゃい」
クリッとした瞳で調理場から私を覗き込む店主は、三十そこそこに見え、食いしん坊らしい丸くて張りのある顔立ちに、さっぱりと刈られた短髪。直後、二人が意味ありげに視線を交わすのを見てしまい、「地味な年増ですみません」と胸の中で恐縮する。
店内をぼんやり見回すと、若い店主が気合いを入れた店らしく、厨房はキッチリと磨かれ、台や椅子にも油臭さは感じられない。近くに大学があるせいか、運動帰りの若者が数人、無言でどんぶりに向かっている。カウンターには割り箸や胡椒に並んで「使ったら持って帰ってね★」と書かれた小瓶が置かれ、中には髪留め用のカラフルなゴムが詰められている。今どきはラーメン屋もサービス業だな、とうっすら思う。
「にぼし二つ」
沢村は投げるように食券を見せる。店主は
「今日はね、沢村さんに食べてほしいのがあるんです」
と言って干したイカを見せる。
「イカダシ、臭いんでしょー?」
迷惑そうに沢村は言う。新作の試食を任されるのは誇れることらしい。しばし調理に集中する店主。その間沢村は、カウンターに拭き残されたゆでもやしを「んだよ!」と指で飛ばしてきたり、水を飲んでむせたりと落ち着きがない。私は斜め向こうに掛けた客を見て、ラーメンを待つときはどうして祈りのポーズになるのだろう、などと考えていた。
「はい、どうぞ」
大事に抱えるようにして、湯気の立つどんぶりが二つ並べられる。丁寧に折りたたまれた細麺をねっとりと茶色い汁が囲んだ「濃厚にぼしそば」と、どんよりとした塩辛色のスープにこんもりと太麺が盛られた「チャレンジ・イカラーメン(仮)」だ。出来るオーラを放った盛り付けをほぐし、にぼしのスープを一口含むと、ザラザラとしたのど越しの後に香ばしさが鼻に抜け、たまらず麺をすすり込む。一方の沢村はあおるように太麺に食らいつき、すぐに
「ゴホッゴホッ、ウッ……、ウマい!」
と再び派手にむせながら、あっさりと称賛する。店主は腰に手を当て、ニヤついてそれを見ている。
「……食べてみる?」
沢村は自分のどんぶりをこちらへ押し出す。私は一瞬たじろいだが、端の方の麺を一本つかまえて口に入れる。遠くでワタの味がする。
「おいしいです……」
「タモツゥ、すげー、マズイってー!」
「大きな声で言わないでくださいよ!」
なんと幼稚なやりとりか。そのまま沢村はあっという間にスープまで飲み干し、ゲフッとイカの息を吐いて私を待った。
「ごちそうさまでした」
慌てて食べ終え、どんぶりを上の段に返してセーターに飛んだスープの滴をティッシュでつまむ。端にあったウエスで沢村が目の前を、いやに几帳面に四角くふき取っている。
「また来てくださいね」
店主に声をかけられ、おじぎしながら席を立つ。
「マイコチャン、上着、上着!」
振り返ると沢村が、壁のハンガーに掛けられたジャンパーを指している。さすが気が利くけれど、それはどう見ても男物だ。
「持ってます」
腕に掛けた革ジャンを見せながら、彼が近づくまで少し待つ。
「ほいじゃ、まったねー!」
軽やかに沢村が言うと、店主は軽く手を挙げて応える。気付けば昼時に入り、店内は満席に近かった。
「おいしいお店ですね」
店を出て声をかける。
タモツ、そろそろ髪、刈り直してやらないとな」
「あ、やっぱり沢村さんのお客さんなんだ。栗みたいでかわいい、っていうか、似合ってるなと思ってたんです」
「ふふーん」
沢村は得意気に鼻をならす。男を喜ばすにはその仕事を褒めよ、というベタなやり口をなぞった自分を残念に思う。
「あの店がオープンした日に、オレ食べに行ったんだよね。タモツ、有名店出だから結構客が並んでて、すげーテンパっててさあ」
楽しそうに沢村が話す。
「通りすがりのババアが二人、『何ここ、おいしいの?』ってオレの後ろに並んできて。そしたらタモツ、『三名様ですか?』とか言ってくんの。どう見ても違うだろっつうの。けどババアもババアで『はい』とか言っちゃうもんだから、なぜか一緒にテーブル囲んでラーメン食ったの」
「ふふふ」
「『あたしら肉、こんなにいらないから』とか言ってよこして来て、オレのだけてんこ盛り。けどまあ、面白い男だなって思って、それから通ってる。今でもこの辺歩いてると、ときどきそん時のババアに会うよ」
「ふふ、なんか、いい話ですね」
「そうおー?」
大通りを一つ曲がって路地に入ると、くすんだ色の住宅の間に、柔らかい陽がさし込んでいる。やけに暖かい日で、このままずっと歩きたくなる。
「いい日ですねぇ」
「そうおー?」
沢村は再度、間の抜けた声を出す。もう少しで駅前に戻り、右へ折れれば彼の店だ。
「ラーメン行くこと、多いんですか?」
「うん。ヨメが嫌いだから、昼に食っとく」
「……」
会う度に一度は、妻の話が出てくる。こんなにも抵抗なく自然に、わざとそうしているのだとしたら、この人にはかなわないと私は思う。
「……さて、今日は半から縮毛矯正だ」
「がんばってください」
「んじゃ、ありがとね?」
尋ねるように声をかけ、沢村は店へ向かって歩き出す。私もすぐに駅へと進み、少ししてふと目をやると、ちょうど彼もこちらを振り返り、大げさに手を振ってくる。離れていても、はにかんだ表情まではっきりと見える。何かと〝昔ながら〟だな。一つ頭を下げ、さっきより速足で構内へ向かう。ホームにはちょうど電車が入ったところで、小走りで乗り込む。まるでどこか行き先があるみたいに、扉の上に貼られた路線図をじっと見ている。