ウブドに描かれた恋
隼人
約 51924
1
・・・銀座松屋の催し物会場・・・その日は、写真展が開かれていた。
私は、特に写真に興味があった訳ではなかった。なんとなく、サイン会まで時間があったし・・・普段から一人でいることが好きだったから・・・。
打合せはマネージャーにまかせて、帽子を手にして抜け出した。知った顔を避けるように歩き回っているうちにここまで来てしまったのだ。
高価な一眼レフを肩にかけ気分はプロのカメラマンを気取った人たち・・・デートの合間にふらっと立ち寄ったらしい若いカップル・・・そんな人たちのやさしい自然な流れに身をまかすように紛れ込んでいた。
風景・・・今、都会の喧噪の中に埋もれていた私の心がわさわさとタイムトリップし始める。
ゆっくりと過去の心象風景を懐かしく辿っている。
そして、ある作品に引込まれるように足が止まった。
川の流れが石を避けるように変わってゆく。
・・・どうしてこんなにも心を許せるのかしら。
私は、感動していた・・・
イーゼルに置かれたカンバスを前に、左手にパレット、右手には極細の絵筆を持った初老の男の人が写っている。薄汚れたよれよれの下着のシャツに少し大きめの綿の膝丈のズボン・・・いかにもそこが熱帯なのだということを物語っている。窓の外には庭が広がり大きく開いた美しい花が画家の心の優しさを表している。しっとりとした空気が漂って、絵画のように丹念に絵筆で描き込まれたよう。その日は、きっと被写体である画家も、そしてカメラマンも創作意欲をそそられていたに違いない。写真には風景とともに画家の心の中が写っている。画家の人生が写っているのだ。画家は明らかにカメラマンに向かって心を開いている。彫刻刀で掘られたような皺、唇に漂う微かな笑み、その反面一瞬たりとも瞬きをも許さないするどい眼光・・・映像とは違って一瞬を切り取っているのに、前後の物語が雄弁に語られている。未熟な私などにはわかるはずもないのだけれど、どのように生きてきたのかまでもが映し出されているような・・・そんな気さえさせる。画家は、筆を休めたくなかったはず・・・どのようにして視線をレンズに向けさせたのかしら・・・筆を止めてまでカメラマンに心を許した理由は、私にはわからない・・・
私は、写真の下の小さなカードに記されたカメラマンの名前を記憶した・・・佐島新作。場所はバリ島のウブド。行ってみたいと思った。
「ここにいたんだ。探したよ・・・ほら、そろそろ始まるから急いで。」
振り向くと菜緒のマネージャーの上杉麻起子が立っていた。
「もう少しだけ・・・」
菜緒は、もう一度写真に目を移すと麻起子の顔も見ずに言った。
何も返事がないので振り返ると、すでに出口の方へ足を踏み出していた麻起子は、芝居がかった態度でゆっくりと菜緒の方へ振り向き、腕を胸の前で組んだかと思うとやにわに右手で眼鏡をはずした。
そして少しだけ眉を上げて笑みを作った。
「菜緒・・はやく!」
菜緒は、帽子をもう一度まぶかにかぶり直して、あわてて写真展会場をあとにした。
2
男が時計に目をやるとまだ深夜の3時だった。自分の叫び声で目が覚めてしまったのだ。天井のファンがゆっくりと回っている。カラカラと音を立てて回っている。男は、呼吸が落ち着くまでしばらくそれを追いかけていた。窓は開いている。虫の声が心地よい風を連れて遊びにやって来た。やっと我を取り戻した。
男は、ベッドからゆっくりと身を起こすとバスルームに向かった。いつもなら顔を洗うだけなのだが、今日は汗でびっしょりとぬれた体を洗い流したかった。まずお湯のカランを目一杯回した。シャワーがお湯に変わるまで時間がかかるその間しばらく冷たい水に身をさらした。水が我を取り戻していきり立ってくる前に水のカランをほんの少しだけ回した。何回か微調整を繰り返し、できるだけシャワーの湯音を熱くして頭から浴びた。
由季や仕事のことを忘れようと逃げるようにここにやってきたにも関わらず、今でもこうして夢にうなされる日々を過ごさなくてはならなかった。
男は体を打ち付けるシャワーの音に集中した。目をつぶっても、それだけでは不十分だった。目をつぶろうが開けていようが映像は記憶として脳裏に焼き付いているのだ。それを打ち消すにはこうやって聞こえてくるシャワーの音に集中するしか術がなかった。何も考えずにひたすら集中するしかない。それでもあの記憶がフラッシュバックのように蘇り、眠ることさえ許さないとでも言うように今でも苦しめ続けているのだ。
3
菜緒のファンは男の子よりも女の子の方が多い。口数が少なく媚びを売らない少しミステリアスな雰囲気が受けているのだろう。サイン会会場には、たくさんの人たちが集まっていた。写真集を手に階段の下までびっしりと並んでいる。今から写真集を買ってくれた人達にサインと握手をするのだ。
・・まったくわかってない・・・私の写真集なんかよりさっきの写真の方がずっといいのに・・・
菜緒は、一人一人にサインした写真集をやさしく戻すと差し出された柔らかい手を両手で包み込むように握手した。
手の温もりは、心を伝える。奈緒は、あの懐かしい感触を探していたのかもしれない。そして、今日もあの人には会えなかった。
全員にサインをし終わったのは、夕方の5時を過ぎていた。でも、サイン会だけでは終わらない。その後、テレビや雑誌社の人たちのインタビューを受けなければならない。菜緒は、これが苦手だった。人に心を開けずいつも閉じこもってばかりいる自分がこうやってインタビューに答えているなんて信じられないと思うのだ。
・・・それにしても、なんてつまらない質問ばかり・・・19歳の私に恋人がいなくちゃいけないの?・・・スキャンダルなんてなかったし、本当に好きな人なんていないのに・・・私のことちっともわかっていない。私は私なりに本音でしゃべっている・・・嘘をつく気もごまかす気もないの。作られた偶像になりたくなかったから・・・私は私として正直に生きたかったから・・・。そして両親がそれを望んでいたから・・・
菜緒は、目の前に突き出された何本ものマイクに向かって口を開いた。
「正直に言って若い子なんてつまんないんです。」
「じゃぁ、年上の人がいいの?」
麻起子は、取材陣で埋め尽くされた小さな会場の片隅で状況を見守っていた。
麻起子は、正直なところが菜緒の良さだと知っていたから、大抵は助け舟を出すことはなかった。
菜緒は、さりげなく麻起子を探した。ここで中途半端な対応をすると、憶測で書かれる。
次々にたかれるフラッシュがまぶしくて菜緒は麻起子の姿を見つける事が出来なかった。
「年上の人で誰か好きな人が・・・」
立て続けに別のインタビュアが質問する。気づかれないように少しだけ深呼吸した。
「そうではありません。まだ私の父を超える人と出会えていないんです。」
「菜緒さんは、ご両親を交通事故で亡くされたのよね・・・お父様は、どのような方だったの?」
「その話には触れないで。私の大切な思い出をここで話すつもりはありません・・・」
きっぱりと言ったが、言葉に険があった。
菜緒は、少し可愛気のない自分の態度が気になった。
・・・ふーっ、きっと麻起子さんの眉間にしわが寄っているわね・・・
「つまり、父のこと話しちゃうとハードルが高くなって誰も寄り付かなくなっちゃうでしょ・・・それほど、父は素敵だったんです。」
・・・本当に腹が立つ・・・顔に出ないように精一杯の笑顔で答えたけど、失点は取り戻せたかな?興味のない恋愛の話や、大切な両親の話はあまりしたくない。
私の父は、頭が良くて男らしくって優しかった。そして何よりも母を愛していた。そんな父を超えてくれないとだめなの。私は、母のような恋をして、そして幸せになるの。私が生きると決めた日にそう誓ったから・・・
父のやさしいニオイがなつかしい。母のふわふわの柔らかさがなつかしい・・・
菜緒は、実のところ芸能界自体に興味がなかった。3年前、菜緒の友人が勝手にタレント発掘のオーディションに応募した。一人で応募する勇気がなかった友人が菜緒を巻き添えにしたのだ。しかし、菜緒が合格してしまった。よくあるパターンだ。菜緒のいやいやな態度が見え見えでかえってそれが審査員の興味を惹いたのかもしれない。
・・・でも、本当に興味はなかった。なのに、どうしてタレントなんかしてるのだろう? それは、私にもわからない・・・たぶん、何かに打ち込んでいないと自分を見失いそうだったから・・・何でもいいから生きている意味を見つけないと・・・何でもいいから生きていないと・・・失った両親のために・・・でも、これを言うと麻起子さんに怒られる。唯一麻起子さんに、言っちゃだめと言われていることなのだ。だから、冷めてるねってよく言われる。そう思われないように演技するって大変なの。そのせいか、最近演技が上手になったって業界では評価されるようになった。とっても複雑だけど・・・ま、いいか。
「菜緒、おつかれ。今日は、この後何も入っていないから、みんなで麻布十番で食事して終わり。」
菜緒のもう一人の付き人イ・ジェウォンが日課のトマトジュースを菜緒に渡すと言った。彼は、韓国の歌手キム・ジュンスにどこかしら似ている。菜緒は、16歳まで韓国で育った。父が韓国人だったからだ。菜緒の父は、高校を卒業後日本の大学で経済を学んだ。その頃、菜緒の母幸と知り合い、そして恋に落ちた。でも、二人の恋は、厳格な祖父に受け入れてもらえなかった。父の家はとても裕福だったが、女ばかりでなかなか男の子が生まれず、祖父母は遠い親戚から生まれたばかりの赤子を秘密裏に籍に入れ我が子として育てた。それが菜緒の父イ・スンホだった。戸籍上は問題のない長男だったが、5歳のときに祖父母に待望の男の子が生まれ、その後は冷遇された。だから、自力で大学を卒業した。弟を不憫に思った姉夫婦が影になり支援した。菜緒の母はスンホを信じ、意地でも日本に帰ると言わなかった。ジェウォンは、菜緒の父の姉の息子、つまり血は繋がっていないが菜緒の従兄にあたる。菜緒がタレントになった頃、ナーバスになって精神が安定しなかった菜緒のために事務所がジェウォンをそばに呼んだのだ。大学の工学部卒の優秀な頭を持つ。たくさんの会社から誘われていたのに、すべてを捨てて菜緒のために日本にやって来た。
・・・私は、小さい頃からジェウォンとは兄妹のように育ったのでお兄ちゃんと呼んでいた・・・
「よかった・・・今日はゆっくり眠れるのね・・・」
「あぁ、ここのところ忙しかったから・・・よくがんばったな。」
「お兄ちゃんもね・・・今日は、食事の後は早く帰れるんでしょ?」
「たぶん・・・明日の段取りだけ確認できれば・・・」
そういって、麻起子を見た。ジェウォンの顔が少しだけ緩んだ。ジェウォンは、親指を立ててウインクした。
・・・麻布十番は、韓国料理のお店が多い。
私のお気に入りは、グレイスの参鶏湯・・・ホルモン鍋なら鳳仙花。とにかく元気が出る・・・
「韓国料理は、やっぱり本場韓国の方がおいしいんでしょ?」
麻起子が聞いた
「僕は日本の方が好きだな。」
と、ジェウォンがすかさず答えた。
麻起子の目線がジェウォンから菜緒に移動した。
菜緒は、ただ笑顔で返した。
「焼き肉も、日本の方がお肉の種類が多いし・・・な?」
と、ジェウォンが菜緒の同意を求める。
菜緒は、ただ笑顔で返した。
「そうなんだ・・・キムチは?」
麻起子は、菜緒たちの意外な答えに戸惑っている。二人の顔を交互に見た。
「キムチは、それぞれ家庭の味があるから、なんとも言えないです。僕は、家から母が送ってくれますから・・・そう、僕にとっては母の味が韓国一かな・・・あ、ごめん菜緒・・・」
ジェウォンは、普段菜緒の前では家族を思い出させるようなことは決して言わないよう気配りをしていた。
菜緒は、麻起子の耳元に口を近づけながらもわざとジェウォンに聞こえるように言った。
「そう、ジェウォンのママのキムチは韓国一だけど、うちのママのキムチは世界一だったわ・・・」
「あ、言ったな・・・」
・・・やさしいジェウォン・・・心を許せるただ一人の人・・・
4
・・あの頃の僕は、仕事のことしか考えていなかった。35歳・・・一番脂が乗っていた。3ヶ月先まで、スケジュールは一杯だった。賞という賞はすべて獲った。ちやほやされていた。少し天狗になっていたかもしれない。写真学校に通っていた頃は、風景や人物の写真を撮りたいと思っていたのに、いつの間にか広告写真を撮るようになっていた。ギャラが一桁も二桁も違った。それでも最初の頃は、時間を見つけては、ひとりバイクに乗って日本中を旅して回り、たくさんの写真を撮りまくっていたのだ。いつからそうなってしまったのだろう・・・いつしか、ファインダーの中に逆さに映し出された虚構だけしか見ることが出来なくなっていた。僕は、由季のSOSに気がつかなかった。それはバリの撮影から戻って来て3日後のこと・・・帰国後もマンションには戻らず事務所に寝泊まりしていた僕は、胸騒ぎがして由季に電話した。いつもは呼び出し音1回で出る彼女が出ない。夜中の2時に車に飛び乗って駆けつけたとき、由季は和室の鴨居にぶらさがっていた。目は見開き、お気に入りだったベージュのフレアスカートは汚物にまみれていた。どうやって由季を下ろしたか僕はおぼえていない。下ろしたはずなのに、いつまでもぶらさがっている由季の姿が脳裏に焼き付いて離れない。その姿は孤独だった。ひとり苦しんでいた。どれだけの間苦しんでいたのだろう。あんなに笑顔がかわいかったのに・・・こんなに苦しそうな顔で死ぬなんて・・・
遺書もなかった。僕に残す言葉などなかったということなのか。恨み言一つ残してくれなかった。愛していたのに。世界で一番愛していたのに、それをちゃんと伝えてやれなかった。わかってくれていると思っていた。
通夜の日に、駆けつけてくれた由季と共通の友人の朋美が僕の胸を拳で叩きながら言った。
「ね、サクちゃん・・・あんた何やってんの! 本当に浮気してたの?ね、由季苦しんでたんだよ・・・知らなかったの? ね、サクちゃん!なんとか言いなさいよ!」
「浮気って何の話?俺が?・・・誰が言ったんだよ、そんなこと。朋美・・・知らないよ。俺、浮気なんてしてない。」
寝耳に水だった。
「じゃぁ、どうして由季は死んだの? 悩んでたこと気づかなかった? ずっと放ったらかしにしておいて・・・由季、ひとりぼっちで寂しかったんだよ・・・ひとりぼっちで苦しんでいたんだよ!ちょっとは由季のこと考えたことあった?」
みんなの視線が心に痛く突き刺さる。
「知らなかった・・・そんなことで悩んでたなんて・・・話し合えば誤解は解け・・・」
話し合えば・・・話し合えば・・・話し合えば・・・話し合えば・・・
「サクちゃん・・・サクちゃんが最近由季と会ったのはいつ? ね、いつ話し合えたの?」
由季が小さな心にのみ込んでいた言葉が朋美の口から止めどもなく吐き出される。聞いているだけで言い返す言葉もない・・・由季を失い、信用を失い、自信を失い、生きる気力を失い・・・これから先、僕は笑うことがあるのだろうか・・・これから先、僕は何かに感動することがあるのだろうか・・・何かをおいしいと感じることがあるのだろうか・・・何かを面白いと思うことがあるのだろうか・・・人に意見する権利を持っているのだろうか・・・誰かを怒る権利を持っているのだろうか・・・誰かに愛される権利を持っているだろうか・・もう人を愛する権利を失ったというのに。
「ごめん・・・」
僕に許された唯一の言葉・・・やっとのことで声に出した。
いたたまれなくて、外に空気を吸いに出た。キンモクセイの香りが、体中にまとわりついていた線香の香りを中和した。
「2ヶ月くらい前に大沼さんから聞いたんだけどさ・・・」
「カメラマンの?」
「そう・・・。佐島さん、モデルのSHIHOMIとつき合ってたらしいよ。」
「ほんとかよ・・・そういえば、ぜんぜんマンションに帰ってなかったもんな・・・それで奥さん自殺しちゃったんだ・・・」
本堂から漏れる光によって作られた二つの影絵が、すべてを知っているかのように会話していた。彼らは、お供物と一緒にお土産話を持って帰るつもりらしい。由季が聞いた噂がこれだったという訳だ。
心の中で叫んだ。
『由季・・・どうして、俺のことを信じてくれなかった・・・』
こんなに苦しめていたのに、それでもまだ僕は死んだ由季を責めている。ずっとひとりぼっちにさせていた。仕事に夢中でかまってやっていなかった。自分勝手な自分に嫌気がさした。信じてくれなかった由季が悪いんじゃない・・・信じてもらえなかった僕が悪いんじゃないか・・・
佐島と大沼とは写真学校時代からのライバルだった。そしてお互いに写真家の沖田佑二先生に師事した頃から二人のライバル関係は熾烈な戦いとなっていった。ただ、佐島は彼なりに大沼の才能を認めていた。だから、大沼の活躍は佐島にとって刺激になった。確かに意識はしていた。だからといって陥れようとか思っていた訳じゃなかった。大沼がいい作品を撮れば撮るほど佐島は燃えた。大沼がどうしてそんな噂を流していたのかわからないでもない・・・佐島には心当たりがあった
・・・でも、もうどうでも良かった。僕の罪が消える訳じゃない・・・由季を守れなかった、その事実は変わらない。僕は、何もかもが嫌になった・・・
5
5年前のクリスマスイブの夜、父と口喧嘩した菜緒は、わざと心配をかけようと、黙って外泊した。菜緒が父に刃向ったのは初めてだった。けんかの理由はたわいもないことだ。父が父の会社の秘書と仲がいいことに、ただ焼きもちを妬いたのだ。菜緒はその時は許せなかった。
・・・父は、母と私だけの物だ。父が愛しているのは母と私だけだとわかっていても、誰にも心を許して欲しくなかった。父にその気はなくても、相手をその気にさせる、男としての天性の魅力を父は持っていたのだ。その時の私はどうかしていた。一人っ子のわがままとしか言いようがない。今にして思えば、父も私のこと放っておけば良かったのに・・・むずかしい思春期の娘なんか放っておけば良かったのに・・・
・
菜緒はそんな父の心配をよそにクラスの女の子たちと集まって、友人の家でパジャマパーティをしていた。日付が変わった頃、そこへスンホが電話をかけて来た。声が少し震えていた。怒り・安堵・・・混ぜこぜになったいろんな感情を押し殺していた。
「今から迎えに行くから・・・お前を愛している。いいか、パパはママとお前だけを愛しているんだ。」
・・・私はうれしくて涙が止まらなかった。愛されていることわかっているのに、わざわざ口に出して言ってもらいたかったのだ。ただそれだけのためにすねていた。そして、その言葉が父の最後の言葉となった・・・
父の車は、母を助手席に乗せて私のもとに向かっていた。車の中で二人はどんな言葉をかわしていたんだろう? そっと目を閉じてみると私にはその光景が見える・・・お互いに言葉は交わしていなかった。父はまっすぐに進行方向だけを見据えている・・・そして母は父の膝にそっと手をおいて父の焦る気持ちを抑えている。街にきらめくイルミネーションもきっと目に入らなかった。ラジオから流れるクリスマスソングもきっと耳に入らなかった。私に対する愛の言葉を何度も何度も心の中で繰り返していたに違いない。そのとき、私はごめんなさいを繰り返していた。
目撃した人によると、クリスマスパーティ帰りの飲酒運転の車が、信号が赤に変わったにもかかわらずブレーキを踏むことなく父の車に突っ込んだ。車は二人が逃げる暇もなく瞬く間に炎上してしまったそうだ。そしてその瞬間に私のクリスマスは、両親の命日となってしまった。クリスマスに家族が集まってプレゼントの交換をしたり、ケーキを食べたりしている時に、私は自分の犯した罪にこれから苦しむことになるのだ。もう愛した父はいない、もう愛した母はいない・・・クリスマスのたびに絶望の縁に追い込まれるのだ・・・
それから間もなく菜緒は、日本にいる母方の祖父母に引き取られた。祖父母の家はとてつもなく大きかった。2000坪の敷地に平屋建ての贅沢な作りとなっている。だから菜緒は外に出ることはなかった。母幸の部屋にずっと閉じこもっていた。
・・・私は母のにおいがするその部屋で母の日記を読んで過ごした。それは、小学1年生の入学式から始まっていた。入学時には母はもう文字が書けたのだ。大きくて、それでいてかわいくて・・・幼かった文字と文章は母の成長を示すようにだんだんと大人になっていった。初恋は、4年生・・・その子のこと、好きだなんて書いてなかったけど、私にはわかる。私もきっとこの男の子のこと好きになっていたに違いない・・・なんてかわいい母・・・
6月18日
今日はお昼から雨が降りはじめた。出がけにママが傘を持ってゆくように言ってくれたのに、うっかり忘れてしまった。どうしようかなって困っていたら修君がこれ使えって自分の傘を私によこすとそのまま走って行ってしまった。一緒に帰ろうよって追いかけたけど、修君は足がとても早くて追いつけなかった。申し訳ないなって思ったので、家に帰ってから修君の家まで傘を返しに行った。途中、スーパーマーケットの入り口で雨宿りをしている修君に会ったので傘を返した。そしたら家まで送ってゆくよと言ってくれた。断ったけど、もう暗くなり始めていたので送ってもらった。学校では、すぐ男の子たちとけんかして乱暴な子だと思っていたけど、本当は優しいんだなと思った。
・・・それから母の日記には修君がたびたび出てくる。でも5年生の秋に修君が広島に引っ越すことが分かった時、初めて別れの寂しさを味わい、小さな胸が傷ついた。
そんないくつかのかわいい恋を繰り返し父と出会ったのだ。その頃の母は純粋で父を本当に愛していた。こんな恋を私もできたのだろうか・・・父を超える人なんかいるのだろうか・・・その前に、私にはもう恋する資格はない。母の日記をぼろぼろになるまで読み返し、そしてあの日から1年経ったクリスマスイブの日に手首を切った。
あちらこちらから聞こえる一家団欒の笑い声が私を苦しめる。四六時中流れるクリスマスソングが私を苦しめる。もうクリスマスを迎えることなどできなかった・・・
「菜緒、おばあちゃんはね・・・お母さんに幸せになってほしくて、幸って名づけた。お母さんはお父さんと知り合って・・・そして恋をして・・・菜緒を授かったのよ。女としてこんなに幸せなことってないと思わないかい?・・・そうでしょ? 死ぬには若すぎたけど、お父さんが一緒にいてくれるからね、きっと楽しくやってる。・・・ただ、お母さんの心残りは、菜緒・・・お前なんだよ。菜緒が死んじゃったら・・・お母さんがかわいそう・・・もうこれ以上お父さんやお母さんを悲しませないでおくれ。菜緒は、二人の分まで生きて幸せにならなきゃ・・・お父さんもお母さんもそれだけを願っているんだからね。」
「やだ・・・死んで、パパとママのところに行きたい!お願いだから・・・そうさせて・・・。」
「そしたら、悲しいねぇ・・・菜緒、年老いた私やおじいちゃんまで悲しませるのかい・・・?」
・・・言い返す言葉もなかった。祖母は、皺だらけの手を広げ私を包み込むように抱いてくれた。祖母の胸もふわふわに柔らかくて、お母さんの胸で甘えていた小さい頃の自分を思いださせた・・・
「お前のお父さんはね、韓国の人だから一途でねぇ・・・」
そこで、祖母は思いだし笑いをした。菜緒は、首をもたげて話の続きを催促した。
「ある日いきなりスーツ姿で家にやってきてね。その頃スンホさんは、まだ大学の4年生・・・幸は2年後輩の2年生だった。幸もスンホさんが来るなんて知らなくて・・・おじいちゃんと私の前に土下座して、『好きなんです!』って・・・私の目を睨みつけながら言うもんだから・・・ふふふ、おじいちゃんが誤解しちゃって、私に告白したのかと・・・その時のおじいちゃんの驚いた顔ったら・・・鳩が鉄砲玉を食らった顔って、ああいうことを言うんだねぇ・・・それに、スンホさんたら幸にもまだ言ってなかったんだよ、好きだってこと・・・」
「それで・・・?」
「相手が幸だと気づいたおじいちゃんが、幸に向かって『お前は、どうなんだ』って・・・そしたら、幸は『私も好きです!』っておじいちゃんに向かって・・・ふふふ、どう考えても順番が逆だよねぇ・・・」
「二人は、どこで知り合ったの?」
「大学の図書館さ・・・家に来て告白するまでお互いに心の中で通じ合っていたんだねぇ・・・それからというもの、図書館でデートしてその後まっすぐ家まで送ってくるんだよ。家で一緒にご飯を食べて9時頃には帰って行く。それを毎日続けてた。スンホさんは、将来の夢を熱っぽく話してたっけ、会社を立ち上げて社長になるんだって・・・幸は、それを幸せそうにただ、聞いているだけ・・・大学を卒業して韓国に帰っていたスンホさんは幸が卒業と同時に迎えに来た。おばあちゃんもおじいちゃんも、あのふたりが一緒になるのは運命だと思ったよ。おじいちゃんが、ある日言ったことがある。スンホさんは、男の俺でも惚れる男だってね。男は有言実行、幸を幸せにしたし、こんなにかわいい菜緒まで授かって・・・そして学生時代に幸に話していた夢を実現させて、韓国でも一番の会社にしたじゃないか・・・菜緒のお父さんは、すごいお父さんだったね。女が、幸せになるって男次第なんだ・・・そして、男が幸せになるのも女しだい・・・。結ばれるべくして結ばれた・・・二人は、幸せだったんだよ。菜緒、お前もいつかそんな恋ができるといいね・・・だから、この世に生を受けた以上いい恋をしないで死んじゃいけないよ。」
菜緒は、黙って頷いた。
6
・・・写真家の沖田佑二先生の弟子についた頃、由季はまだ大学の1年生だった。由季は先生の一人娘で大事に育てられていた。先生の自宅のスタジオではよく小物の撮影をしたが、休憩時間になるとコーヒーを入れてくれる、よく気のつく子だった。とてもピュアで世間擦れのしていない明るくて元気な子だった。大沼と気が合うみたいで、よく二人で楽しそうに話し込んでいた。僕はというと、仕事が終わるとまっすぐアパートに帰り、にわかごしらえの暗室に明け方まで閉じこもっていることが多かった。体中に酢酸のニオイをプンプンさせて、休みに撮りためた写真の現像と引き延ばしに明け暮れていたのだ。その頃に、僕はSHIHOMIと出会った。彼女は、16歳でモデルとしてデビューし、僕たちが初めて出会った時、彼女は二十歳、僕は23歳だった。すでに若い女性のファッションリーダーとしてカリスマ的な存在で1年中様々なファッション誌の表紙を飾っていた。先生は彼女のお気に入りのカメラマンだった。そして彼女の撮影の時は必ず僕が助手に付いた。ある時、休憩時間に彼女が話しかけて来たことがある。
「ぜんぜん、しゃべらないんだね。」
そんなことはない。集中しているだけだ。フイルムの装填、絞り、ストロボの充電のチェック・・・やることはたくさんある。どれ一つとってもミスはおかせない。助手にモデルと話す暇なんてなかった。現像されてポジを確認するまで気が抜けないのだ。でも、その時はじめて彼女の素顔を見た気がする。カメラに相対しているときは鋭く研ぎ済まされた女を感じていたのだが、緊張から解き放された彼女は、まだ少女の面影を残していた。僕はそのギャップに一瞬戸惑い、ただ笑みを返すのがやっとだった。
「ここに座っていい?」
「あ、じゃぁコーヒーを煎れて来るよ。」
彼女はミルクしか入れないということを僕は知っていた。そして戻るとポケットからバンダナを取り出して彼女の膝に置いた。
「衣装を汚すといけないから・・・」
僕は、彼女の横に座って次のカットに使うレンズにブロアーをかけていた。
「・・・ね、どうしてみんなサクちゃんって呼ぶの?」
「名前が新作だから・・・」
「ふーん・・・そうなんだ・・・」
僕は、彼女を見た。でも、彼女の目はセットの方に向けられたままだ。目が大きくて鼻がかわいい。鼻から唇を通過し下あごにかけての緩やかな稜線が子供っぽくて・・・それなのにセクシーだった。小悪魔的というか、きっと奔放な子なんだろうなという印象を持った。唇はマシュマロのように柔らかそうで、許されるなら摘んでみたいという衝動に駆られる。普通の男ならレンズを通して見た彼女を好むだろう。僕は、目の前にいる彼女の方が好きだったかもしれない。
彼女は、消えかけているかすかな温もりを愛おしむように、コーヒーカップを両手で包むように持っている。僕が話しかけるのを待っているのかも知れない・・・そうだという確信も持てずにロレックスのイミテーションがカチッカチッと恥ずかしそうに偽物の時を刻んでゆく。そして、彼女はおもむろに最後の一口を一気に飲み干すと、膝の上のバンダナを僕に返しながら耳元でささやいた。
「わたし・・・あなたに会いたくて、沖田先生を指名してるんだよ。これからもよろしくね・・・サクちゃん。」
心もち彼女の頬が少し赤くなっていた。
僕は、しばらくその言葉の意味を考えていた。その頃はつきあっている女性もいなかったせいか、その辺の微妙な感覚がずいぶんと鈍っていた。
「サク・・・なにボケッとしてんだ、始めるぞ!ポラ用意して!」
久しく先生に怒鳴られたことがなかったから、大きな怒鳴り声に驚いてもう少しで持っているレンズを落とすところだった。
彼女は、SHIHOMIとしてとっくに仕事モードの顔に戻っている。僕も何事もなかったようにきわめて冷静に努めて、所定の位置に着いた。
撮影が終了すると、大急ぎで現場を片付けて撮影済みのフィルムを現像に出さなければならない。スタジオに終了の手続きもしなければならないし助手がやることは山ほどある。撮影の間も、ライティングや露出のデータ等を今後のためにきめ細かく書き込んで記録に残していた。そんなことに追われて、すっかり先ほどの小さな事件など忘れていたのだった。
「サクちゃん、携帯持ってる?」
彼女の顔が急に目の前に現れた。20センチと離れていなかったはずだ。僕は、その100倍後ろに飛び退いた。
「あ、あるよ・・・」
「貸して。」
と言うと、僕の携帯を取り上げて電話をかけた。かけたかと思うとすぐに切って僕に返してよこした。
「・・・留守だったの?」
「まぁね・・・それじゃ。・・・ね、今度電話するからデートしてくれる?ふふふ」
いたずらっぽく笑うと、手を振って帰って行った。
30分前に堀内カラー(現像所)に電話をして、営業の筒井さんがフィルムの回収に来るのを待っていた。
携帯電話が鳴った。
「サクちゃん?私・・・誰だかわかる?」
SHIHOMIだった。どうして僕の携帯を知っているんだろう?
「これで私の電話番号、履歴に残ったでしょ?それじゃぁね。」
それだけ言うと電話を切った。僕の携帯でかけたのは、自分の携帯に僕の番号を履歴に残すためだったのだ。SHIHOMIの積極的な行動に心地よい戸惑いを感じていた。
次に彼女から電話があったのは、それから2週間後のことだった。
「サクちゃん、来週の日曜日ディズニーランドに連れてって。私の誕生日なの。」
11月もそろそろ終わる頃で少し肌寒かったけど、ジーンズにTシャツそして革ジャンという、見るからに寒い格好で、しかもバイクで迎えに行った。彼女にはバイクで行くと伝えてあったので、少しは温かい格好で待っていると思っていたら、ほとんど僕と変わらない。
「あ、お揃い・・・お似合いだよね。」
「あのさ、そんな格好じゃ風邪ひくよ。頼むからもう少し厚着して来てよ。」
「大丈夫、くっついて乗るから・・・ははは。」
屈託のない笑いが、とても愛おしかった。
彼女は背も高く、そしてスタイルがいい・・・それだけでもみんなが振り返るというのに、サングラスをかけているだけではごまかせない。彼女自身、SHIHOMIでいることを積極的に隠すつもりはないようなので、いつしか気にすることも無くなった。
「ね、あれに乗ろうよ。」
あれとは、スプラッシュ・マウンテンのことだ。こういうのはどうも苦手だ
「あ、いやカリブの海賊なんてどう?」
「あれ?怖いのかな?」
「怖くなんてないさ。ヘリ撮とかやってる訳だし・・・怖がってちゃカメラマンはつとまんない・・・」
「じゃ決まり・・・乗ろ。」
ファストパスなんてその頃はなかったから1時間も並んだ。運悪く?一番前だった。彼女のはしゃぎようはまるで中学生。僕に手を上げるように催促する。
「意気地なし・・・ほら手を離して!」
耳たぶに柔らかい息が触れる。その瞬間16メートルの高さから滝壺めがけて真っ逆さま。彼女は腕を上げたまま僕にキスをした。冷たい水しぶきと柔らかくてあたたかい感触。必死で上げていた腕をまわして彼女を抱いた。
下りると僕たちが滝壺に落ちる瞬間がモニターに映っていた。彼女はそれを買ってとせがんだ。僕たちがキスをしている写真だ。
「あの瞬間、写真に撮られるって知っていたんだな?」
彼女は、何も言わずに笑っていた。
僕たちが会うのはいつも外だった。
彼女は決して部屋には入れない。僕も彼女を部屋に誘うことはなかった。
おいしいレストランがあるといって誘われ、服が買いたいといってつき合わされ・・・それだけの関係でも僕たちがつき合っているということになんの疑問も持たなかった。きっと誰かに二人の関係を質問されたら迷わず恋人と紹介しただろう。ときめきに胸躍る高校生のような・・・そしてそれは幼いだけに壊れやすい危なげな恋だった。
そんなデートを何回か繰り返し、舞上がった春を迎えようとしていたある日、由季が発売されたばかりの写真週刊誌を持ってきた。
“SHIHOMI同棲発覚!相手は、売り出し中の若手俳優A”
舞上がった鳥は、飛んでいることを楽しむ暇もなく一発で撃ち落とされた。僕は、彼女の
なんだったのだろう? 仕事が手につかないほど落ち込んでしまった。その時携帯が鳴った。凍りついていた心臓がひび割れた。
「サクちゃん、ごめんね。」
とっさに答えた。
「何が? ・・・」
ラジオから流れていたアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」の音が飛んだ。
「ははは・・・ばかだな、誤解させたのならあやまるけど、俺たちつき合ってた訳じゃない・・・なんとも思ってないさ・・・」
それ以上の会話も続かず、電話を切った。誤解していたのは僕だ。強がった分だけ惨めだった。その時、僕はどれほど動揺していたのだろう。のどがからからに乾いていた。
「サクちゃん、コーヒー飲む?」
由季が、コーヒーサーバーを片手に立っていた。由季のこと、子供だと思っていたけれど、なんだか僕より大人に見えて、見透かされた自分がすごくかっこわるかった。曲が「思い出をかさねて」に変わった時、由季はラジオを消した。
「サクちゃん、イルカが見たいな・・・水族館に連れてってよ。」
由季は、気持ちを和ませてくれる天才だ。
「今から?」
「そ、今から飛ばすと間に合うよ・・・ね、いいでしょ?」
結局、コーヒーも飲まずに由季にヘルメットを渡すと、スロットルを全開にして一気に高速に駆け上がった。風景がどんどん過去へとすっ飛んで行った。SHIOMIとのことが走馬灯のように現れては消えるを繰り返した。由季の腕がしっかりと僕の腰にしがみついている。さぞかし怖いに違いなかった。僕が吹っ切れるまで付き合うつもりなのだろう。スピードが音速に達した時、僕は我に返った。バイクを路肩に停めると由季はまだ震えていた。僕は、由季の震える肩を抱いて、何度言っただろう。
「ごめんよ・・・由季。本当にごめん。」
由季は、大沼とつき合っていた。と、言うかつき合っているものと思っていた。少なくとも大沼の方は、由季に気があったと思う。ただ、大沼は酒や女にだらしがなかった。毎日毎日銀座で遊び回り、モデルやタレントに手を出しては問題を起こしていた。
ある日、由季と大沼が大声で言い争うのを聞いたことがある。
「いやっ!酔った勢いでそんなことしないで!」
思わず飛び込んで行こうと思ったそのとき、トーンダウンした由季の声が僕の背中をつかんだ。
「ね、私の気持ちは知ってるでしょ?・・・だから、もうあきらめて。」
その後、グラスが割れる音の破片が耳につきささり、乱暴に閉められたドアの痛みが心を揺らした。
僕は、後に残され肩をふるわす由季をそっと抱いた。そのまま何も聞かず何も語らずやさしく温和な朝を迎えた。
由季は、僕のやわらかさを確かめるように唇に指をあてた。また、涙がほほを滑り落ちてゆく。
「ね、私の気持ちは知ってるよね・・・?」
僕は、ただやさしく微笑んだ。曖昧な気持ちを悟られないように・・・正直、由季は大沼のことが好きだと思っていたから・・・それに、SHIHOMIの事件以来、愛に鈍感になっていたから・・・
そして2年が経って僕たちは結婚した。その頃すでに独立して事務所を構えていた僕は広告写真を生業としていた。仕事に追いまくられる日々を過ごしていた僕にとって彼女は、安らぎだった・・・一緒にいることが心地よかった。写真家の娘ということもあってか、僕のことを本当に良く理解してくれていた。毎日夜遅く帰ってくる上に、時間が出来ると一人で撮影旅行にでかけてしまう僕に愚痴一つ言わない。ずいぶん寂しい想いをさせたのは事実だったのに。でも彼女は、そうやって撮って来た写真をいつも褒めてくれた。帰って来るとうれしそうに抱きついて来る。
「こら、苦しいよ・・・わかったから・・・」
「だめ・・・がまんして・・・サクちゃんが色んな人と出会って・・・いろんな風景に出会って・・・何かを感じて帰って来た体をこうやって抱いているとね、私も幸せって感じるの・・・だから、もう少しがまんして・・・」
愛があふれていた。由季は赤ん坊のほっぺたのようにやわらかくて、雪の朝の煎れたてのコーヒーのようにあたたかくて、アンドレ・ギャニオンのように心地いい・・・最高の贅沢・・・いや、僕はそれが贅沢だと気づいていなかったのだ。
いつの頃か僕は、広告写真を撮るようになり、自分が愛情を注いでいた風景や人物の写真を撮らなくなっていた。お金にも困らなくなっていた。ハングリーでなくなり、世間に注目されることに生き甲斐を感じていた。そこに大沼の執拗な挑発も相まって、負けまいと必死だった。自分を見失っていたのかもしれない。僕は、由季に甘えていたのだと思う。SHIHOMIと浮気?・・・冗談じゃない・・・そんなことすら信じてもらえなくなっていたなんて・・・愛していたのは由季だけだったのに・・・だから今、そのことが由季に伝わるまで、そしてまた由季に褒めてもらえるまで、あの頃夢中になっていた写真を撮り続けると決めたのだ。
そして今、すべてを捨ててバリのウブドにいる。初心に戻って風景や人物を撮っている。時間に脅迫されることもない。シャッターを切るたびに一枚一枚自分の汚れが剥がれてゆく気がするのだ。あの頃に戻るために夢中でシャッターを切っているのだ。こうやって仕事なんて簡単に捨てられたのに、大切な人を失った今、やっとその価値を思い知らされた。それなのにまだその大切な由季の笑顔を思い出せないでいる。目を大きく見開いた由季の顔が脳の奥に焼き付いて、今日も僕を苦しめている・・・
7
成田発JAL729便でデンパサールに向かった。
ングラ・ライ空港に降り立ち通関を済ませ、荷物受け取り所に入るとむっとした湿った空気が私の体にまとわりついてきた。機内で着ていた上着を慌てて脱いだ。
こじんまりとした空港だ。
ターンテーブルを素通りしてゆくとカウンター越しになにやらわめく人たちがいる。
彼女たちから日本語で書かれたツアーの案内パンフレットやポケットサイズの冊子を受け取った。
荷物はジェウォンに任せて外に出てみた。
まわりを見回しても、椅子もなくエアコンのきく快適な場所は見当たらなかった。
もう、帳が落ちて景色はわからない。出迎えの人々がお目当ての人を見つけると抱き合ったり握手をしたり・・・どこの空港でも見られる光景がここバリでも繰り広げられている。空港特有の喧噪の中で、人懐っこそうな人々を見て癒されていた。素朴でピュアな人々。
そうは言ってもやはり都会とは違うゆったりとした時が過ぎてゆく。時計に目を落とすと秒針がまるで孤独なマラソンランナーのようにひたすら円形のフィールドをぐるぐる駆け回っている・・・この島ではそんなに急がなくってもいいみたいよ・・・あなたも少しは休んだら?・・・。
ふふ・・・また独り言だ、私は声に出さずに心の中で会話する。
そんなに待つことなくジェウォンが荷物を持って現れた。
「えっと・・・ホテルからタクシーが迎えに来ているはずなんだけど・・・」
彼はすぐに見つかった。
手にBALI HYATTのロゴの入ったプレートを持っている。プレートの下にはイ・ジェウォンと書かれていた。
GOLDEN BIRD・・・とドアに書かれたベンツだった。
はは・・・ベンツが落書きされて台無しね。
ドライバーはスーツケース2つをトランクに積み込むと”WELCOME TO BALI”と微笑んだ。
目的地はサヌールのBALI HYATT。スタッフはすでに2日前からロケハンのために現地入りしている。
チェックインを済ませ軽くシャワーを浴びた後、スタッフの顔合わせもかねて食事会に参加した。
プールサイドにあるWanitilan Cafeに入ってゆくと8人ほどの日本人のグループが一斉に振り返った。
どうも私たちが最後のようだ。
彼等とは、既に日本で会っていたので一通りの挨拶をして席に座った。
短パンにTシャツの一番若い人がカメラマンのアシスタント菊池さん。その横でぜんぜん笑わない人がカメラマンの大沼さん・・・生成りの麻の開襟シャツに綿の短パン、黒のメッシュの革靴を素足にはいている・・・いかにもカメラマンって感じ・・・白髪まじりの髪は短く、銀縁の丸い眼鏡をかけて・・・なんかギラギラしてて・・・女好きって顔に書いてある・・・結構私は苦手かも。
アロハを着ているのがエージェンシーのクリエイティブの人で遠山さん、ゴルフにでも行くのかしら?というような服を着ている方がクライアントの谷口さん、その横でクライアントのお酒の減り具合ばかり気にしているのがエージェンシーの営業の国枝さん、スタイリストのお姉さんとチャールズブロンソン似のヘアメイクさん。チャールズブロンソンて知らないんだけど初めて会った時にそういってエージェンシーの人に紹介された。
そしてもうひとりは初めて会う山岡さん・・・コーディネーターと紹介された。
私は、ほとんどみんなの会話を聞いていなかった・・・ジェウォンが聞いていてくれればそれでいい。
「そうですか・・・カメラのコレクションですか・・・私の父もカメラが好きで初期の頃のゼンザブロニカもいくつか所有していたと思います・・・いや、それはご勘弁ください、父のコレクションですからね・・・でも、それがそんなに欲しいんでしたらネットオークションをときどき覗いてみるとそのうち出てくるかもしれませんよ。」
ジェウォンと大沼さんの話し声がいつしか波の音に変わってゆく。
波の打寄せる音が心地よく、私はずっと暗くて見えない海の方に顔を向けていた。
明日は、いよいよウブドだ。
8
ジェウォンは、ねちっこい大沼の話を適当にあしらって聞いていた。
特に先ほどからジェウォンの父のカメラコレクションについて話題が集中していることにそろそろ嫌気がさしていた。こちらの都合はお構いなしで、欲しいものは必ず手に入れる・・・ジェウォンは、大沼という男に“要注意人物”というレッテルを貼った。
あのゼンザブロニカが簡単にネットオークションに出るような代物ではないと知りつつでまかせに言ってはみたものの
・ ・・そんなことでおいそれと引っ込む男ではないようだ・・・う〜ん・・・
「それではこうしましょう・・・私もいくつかのネットオークションを張っておきます。韓国のサイトやアメリカ・・・友人にも頼んで出物があったら連絡させていただきますよ。」
・ ・・大沼の目が座っている・・・執拗に食い下がるその目は、私の提案などもはや聞いてはいなかった。・・・すでに獲物はここにあるのだ。
・・・ふ〜っ
菜緒は窓の外から聞こえる波の音に耳を傾けている。
すでにスタッフはアルコールが体中を巡り耳や目の感覚を鈍らせあるものは声も大きく・・・そしてあるものは目を潤ませ何度もあくびをかみ殺していた。
私が振り向いたことに気づいたのか菜緒と目が合った。私はもう部屋に戻るようにと目配せをした。
静かに立ち上がった菜緒は、頭を下げ誰にも気づかれることなく出て行った。
9
明日の撮影は午後からということだったので、私だけ先に行って少し散策するつもりでいた。
私は、先に部屋に戻ってガイドブックを開いて明日訪れるウブドの写真を眺めていた。小さなヴィラを紹介している。プールから見える風景が水田地帯なんて面白い・・・というか、とても美しい風景・・・人々が愛してやまないバリってクタやレギャンのビーチサイドのこと?それともウブド?・・・どちらなのかしら・・・はじめてのウブドに思いを馳せそろそろ部屋の灯りを消そうとした時・・・誰かが来た・・・
ドアの隙間から覗くと、カメラマンの大沼さんだった。
「一緒に飲まないのか・・・?」
目が座っている・・・
「・・・」
「そうだ・・・まだ、未成年だったっけ。」ドアを閉めようとしたんだけど、ドアの間に足をはさんでいる。
「これは、アルコールは入っていないから・・・」
オレンジジュースをドアの隙間から差し出した。
「入らないで・・・」
「心配するな、中には入らないから・・・」
そういってドアにもたれかかって自分はワインを口に運んだ。
何を話す訳でもなくじっと私の顔を見ている。
・・・こわい・・・
少し、こわかった。早く飲んでしまった方が良さそうだ。
私は、落ち着かずすばやく一口目を口に含んでごくりと飲み込んだ。たくさん飲んだつもりだったけど思ったほど減ってはいなかった。
大沼さんのワイングラスはいつのまにか空になっていた。ニタニタと笑っている。私は続けざまにごくごくっと一気に飲み干した。
電話のベルが鳴った。
ジェウォンがモーニングコールをセットしておいてくれたのだ。
でも、昨日はいつの間に眠ったのだろう?・・・頭が心臓の音に共鳴してガンガンと鳴り響いていた。
昨夜、オレンジジュースを一気に飲み干して大沼さんが部屋を出て行った後、どうやら眠ってしまったらしい。
8時になってジェウォンが朝食を誘いにやって来た。
「どうしたの?その手・・・」
ジェウォンはその手をすばやくズボンのポケットに入れて
「昨日は久しぶりに酔っちゃったからな・・・自分でもよく覚えていないんだ。」
9時にガイド付きの車が迎えに来てくれた。
ドライバーさんとガイドの二人だ。意外に清潔な車が心地いい。
ガイドはピリさんと言った。腰巻きをし、頭にはターバンのようなものを巻いていた。なんとか理解できる程度の日本語でバリのことを教えてくれた。バリはインドネシアで唯一のヒンズー教の島なのだそうだ。もともとヒンズー教だったインドネシアだったけどいつの日かイスラム教が入り込んで今はバリだけがヒンズーの島となった。聖なるものは山から、邪悪なものは海を越えてやってくる・・・なるほど・・・
独特な暦が存在する話とかいろいろ話してくれたけどあまりにも私たちの常識に置き換えられない話だったので理解することはできなかった。
ウブドに向かう途中でピリさんが
「ちょうどバロンダンスが始まる時間ですが、見たいですか?」
と言った。
“うん”と首を2センチ動かした。
漠然とウブドに行ってみたいと思っていただけで特に目的地も決めていなかったので、なんだか妙にうれしかった。
5万ルピア・・・びっくりする金額だけど換算すると750円くらい・・・
木のベンチが整然と並んでいる。前から4列目に私は座った。
小さな舞台がとても素朴だ。なんだか学芸会って感じ・・・でも演目がはじまるとその踊りに引き寄せられた。
女性の目の動きが面白い。メリハリがついた独特な動きだ。目の周りをくっきりと化粧しているのでとても魅了させられる。物語は日本語で書かれた紙っぺらを見ながらだったけどストーリーを理解するというより踊りを見るだけで十分に満足だった。
終わると、ピリさんが出口でちゃんと待ってくれていた。
一路ウブドに向かった。
走っていると景色が変わった・・・どこからがウブドかわからない・・・でもここがウブドなんだと確信していた。
だって明らかに違うもの・・・海岸際の街とは全く違う。簡単に言ってしまえば田舎・・・でも、そんな単純なことではない。景色そのものが絵画なんだ。
途中素敵な建物が目に入った。水田の中にひっそりと建っている・・・なんだか小さな美術館のような佇まい・・・GAYAというカフェ、そこで休憩することになった。
階段を上ろうとして後ろを振り向くと彼等は車のそばを離れようとしない。
“ね、一緒に食べようよ・・・”って手招きしたら着いて来た。
お金は私が払うから心配しないでいいのに。
どうやら元締めさんからきつく言われているらしい・・・きっとギャラも安いに違いない・・・
おなかが減ったので、私はナシゴレンを頼んだけど二人は何も頼まなかった・・・せめてコーヒーでもって、メニューを指差してすすめたんだけど・・・ま、いいか
目の前に広がるありきたりの水田の風景が心を和ませる。
もっとゆっくりしたかったけど、30分ほどで車に戻った。
バリでは、年に2回稲の刈り取りが行われるという。すでに稲を刈り取った田んぼに茶色い牛がいた。とてもかわいい牛だった。
「あれは、バリ牛です。バリの牛は、おいしくて高くで売れるんです。」
・・・えっ?ヒンズーは、牛を食べないんじゃないの?牛は高貴な存在として食べないのに、食用として売るなんてよく理解できなかった。
写真におさめたい風景が次々と流れてゆく。あ〜記憶しきれない!
「停めて・・・」
歩いてみたくなった。
行き交う女性たちの頭には大きな籠が乗っかっていて手を添える訳でもなく器用にバランスをとって歩いている。
バリの人たちにとっては当たり前の風景なんだろうけど、写真に残しておかなきゃ・・・
「ここで待ってて。」
指で四角いフレームを作って360度回して覗き込んでみる・・・どこをとっても風景画・・・画家でなくても描きたくなる。
ウブドは、なんか懐かしい父の匂いがした。昔、父と母に連れられて訪れた九州の・・・どこだったっけ? そのときもこんな空気と匂いに包まれた・・・言葉に言い表せないやさしい肌触り・・・。
ピリさんたちが見えなくなった・・・でももう少し先まで行ってみよう・・・
ウブドは芸術の村・・・あの老人もここにいる。澄み渡った空・・・純白で汚れのない雲・・・今あの老人はこの瞬間を描いているのかしら・・・私の言うことも聞かずにまだ走り続けている頑固な父の形見の時計をはずしてバッグにしまった・・・時間に何の意味があるというの・・・朝が来て夜が来る・・・ただそれだけのことじゃない・・・。
一瞬だった。バイクが私を追い抜いて行ったと思ったら、バッグをひったくられた。私は、地面に叩き付けられ、もんどりうった。膝が大きく割れて血が噴き出している。
「大丈夫か!?」
通りがかりの車から男の人が降りてきた。日本人だ。
「バッグが・・・」
「そんなことより、手当の方が先だ!」
「父の形見なんです!」
彼は、バンダナをジーンズの後ろのポケットから取り出し私に投げた。
「お願い、追いかけて!」
助手席に乗り込むと彼は急発進した。土煙がウブドの景色を台無しにしてゆく。
結局、彼等を見失った私たちはツーリストポリスにいた。私は転倒したショックで何も見ていなかった。どんなバイクだったのか、どんな人相だったのか、若かったのか年取っていたのか・・・何も見ていなかった。
「ホンダの250CCで色はブルー。年は16くらいの二人組・・・後ろに乗った男のTシャツの背中に虎の絵が描いてあった。」
私の隣で、私の代わりにすらすらと答えている彼がいた。彼は、細かく覚えていてくれた。
犯人たちが捕まるまでそんなに時間はかからなかった。父のロレックスが戻ってきた。人の心配をよそに相変わらず音もなく静かに円を描いて走っていた。
あなたは、きっと猫科ね。ちっとも飼い主のこと考えない。
「どこにでも、悪いやつはいるさ・・・まず、その傷をなんとかしなくちゃな。」
「あっ・・・」
「どうした?」
「ピリさんを待たせているの忘れてた・・・どうしよう・・・」
「とにかく、傷の手当が先だ。」
10
いきなり二人乗りのバイクが横道から現れ、危うくぶつかるところだった。
・・・まったく、このウブドで何を急ぐことがあるんだ。
しばらく走っていると、前方のバイクが急にスピードを落としたかと思ったら日本人らしき女性のバッグをひったくった。女性はその衝撃で転倒した。
横につけて助け起こすと
「バッグが・・・」
と彼女は言った。
「そんなことより、手当の方が先だ!」
と言うと、
「父の形見なんです!」
僕は、バンダナをジーンズの後ろのポケットから取り出しとりあえず彼女に渡し止血するように言うと車を発進させた。
さっきの連中だ、あわてなくてもすぐに捕まる。
車種も人相もはっきりと覚えていた。
横に座った女性は一言もしゃべらない。女性と言うか・・・よく見るとまだ子供だ。高校生くらいだろうか・・・盗られたバッグによほど大切なものが入っていたらしい、今にも泣きだしそうな顔をしている。
犯人は、すぐにつかまった。
ここバリでも最近今回のような事件が多発している。
病院に行こうと言ったが、時間がないというのでとにかく自宅に連れてゆき、薬だけでも塗ってから送ってゆくことにした。
若い子だったので、部屋には入れずガゼボのベンチに座らせ軟膏を厚く塗った。その後ガーゼを当て包帯を巻いた。
私は、営業を止めてしまった小さなヴィラをオーストラリア人のオーナーから買い取り、手直しして住まいとしていた。
このガゼボと小さなプールが気に入ったのだ。
プールの向こうには美しいライスフィールドが広がり、ガゼボのすぐそばには川が流れ、涼風を運んでくる。そして夜になると蛍が乱舞する。
彼女は何もしゃべらないが、聞きたいことはわかってる。
「ヴィラだったのを手直しして、ここに住んでるんだ・・・」
彼女には少し暑いようだ。戻って来たバッグからタオル地のハンカチを取り出し額の汗を軽く押えた。
色合いの素敵な花柄のハンカチだった。
「家族は?」
ほう・・・やっと口をきいた。
「いない・・・住み込みで年老いた夫婦を前のオーナーから引き継いで雇っているけど、夜はひとりじゃ寂しくってね・・・よくうなされる。こんなに部屋があるんだったら、友達がたくさん遊びに来ても良さそうなものだって?・・・でもまだ誰も泊まりに来たことがない・・・じゃ、送って行こうか。」
彼女は、すみませんと申し訳なさそうに小さく言った。
11
・・・どうして、私が聞きたいことがわかるんだろう?
「まだ誰も泊まりに来たことがない・・・」
なんだか寂しそうだった。
それにしても素敵な家だった。そして彼は、とてもやさしく気持ちを落ち着かせる・・・なんとなく懐かしい感じのする人だった。誰かに似ている・・・。
ちょっと家の中も覗いてみたかったけど、私が女性ということで、きっと気を使ったのね。
ピリさんとドライバーさんは、ちゃんと待っていてくれた。
とても心配したと、ピリさんは私の顔を見るなり地べたにへたりこんでしまった。
「ごめんね。ひったくりにあっちゃって・・・」
かえってショックを与えてしまったみたい・・・ジェウォンには言わない方がいいかな。
「もうホテルに引き返す?」
「うん。」
ピリさんが、私のためにドアを開けてくれた。
私は、車に乗り込む前にお礼を言おうとして「あっ、名前・・・私は、藤本菜緒・・・」
「あぁ・・・僕は、佐島・・・これからは、ひとりで出歩かないほうがいいね。」
「はい・・・あの・・・」
「もう行きなさい・・・それじゃ」
仕事が終わったらご挨拶に伺いますって言うつもりだったのにさっさと帰っちゃった・・・ほんと素敵な人だったな。
「どうしたんだ!その足」
ジェウォンには、やはり話さない方がいいみたい。
「ごめん、ころんじゃって・・・」
「医者に行こう!」
「ううん、もう大丈夫。通りがかりの人にちゃんと手当てしてもらったから・・・」
そこに、大沼さんがやってきた。
気のせいだろうか・・・?一瞬ジェウォンを一瞥したような・・・私は、ジェウォンを見た。大沼さんから視線を離さない・・・殺気立っている。緊張した空気が漂い。その空気を嫌うように大沼さんが口をきいた。
「なにやってんだ・・・これじゃ撮影なんてできないじゃないか・・・ったく、遊びに来てんじゃないんだぞ。タレントひとりの管理もできなくてお前もよくマネージャーをやってるな。」
やれやれと首を振りながら立ち去ろうとする
大沼さんにジェウォンが後ろから肩をつかんで振り向かせた。
「ちょっと待てよ・・・」
危ない!・・・ジェウォンが手を出そうとしている。
ジェウォンは、大学時代テコンドーで何度もメダルを穫っている。けがでもさせたら大変・・・
「やめて、ジェウォン・・・私が悪いんだから。」
大沼さんが、後ずさりし始めた。
ジェウォンの表情は見えないけど相当威嚇しているのがわかる。大沼さんの顔が引きつって今にも崩れ落ちそうだ。
たまらず大沼さんのプライドがわめいた。
「菊池!荷物まとめろ・・・帰るぞ!」
騒ぎに気づき駆けつけたエージェンシーの遠山さんがあわてて割って入った。
「何があったんですっ!?」
「どうもこうもあるか、撮影当日にけがなんてするプロ意識のかけらもないお嬢ちゃんの写真なんか撮れないって言ってるんだ!」
遠山さんは、包帯の巻かれた膝をちらっと見ただけで私には何も言わなかった。
「大沼さん、ここは私に免じてなんとかおさめてもらえませんか?」
「悪いけど、こんな気持ちじゃいい写真撮れないな・・・」
「ま、そう言わないで・・・お願いしますよ。」
「遠山ちゃん・・・もともと気乗りしない仕事だったんだ、お前のデザインじゃオレの写真が生きないんだよ。」
遠山さんの何かがぷっつりと切れた。
「大沼さん・・・わかりました、そこまで言うなら帰国していただいて結構です。ただし、今後うちの仕事はできないと思ってください。」
「遠山・・・俺をはずして困るのはあんたの会社だってこと自覚しといた方がいいんじゃないか?」
「大沼さんもあんまり思い上がらない方がいいですよ。この仕事、本当は佐島さんに撮ってもらいたかったんだ。あなた程度のカメラマンなら他にもいますから・・・」
どうもこの言葉は、大沼さんを深く傷つけたようだ。目をまん丸く見開いて・・・喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「ま、せいぜいがんばるんだな・・・」
わたしのせいで大変なことになった。
大沼さんが捨て台詞をはいて立ち去った後、クライアントの谷口さんが、そろそろ出発か?とやってきた。
「すみません。菜緒ちゃんが足をけがしてしまったので今日は中止とさせてください。」
遠山さんが、唇をかみしめながら深々と頭を下げた。
私もジェウォンと一緒に頭を下げた。
「ん?そうか、わかった。じゃ飲みに行くか・・・な、国枝君。」
「そうですね、今日はレギャンあたりに行ってみますか・・・」
12
自宅に戻ると、ガゼボの床に花柄のハンカチが落ちていた。
・・・彼女が落としたんだな。
明日は朝からMUJI ART FAMILYの親父さんの写真を撮ることになっている。今日中に届けた方がよさそうだと思った。
Bali Hyattの駐車場に車を停めて、車寄せまで歩いて行くと、大沼がアシスタントを顎で使って車に荷物を積み込ませているところにちょうど出くわした。相変わらずのふてぶてしい態度で不愉快な空気を辺り一面にまき散らしている・・・できることなら会いたくなかった。
見つからないように柱の陰に隠れた。
「あれ? 佐島さんじゃないですか!」
振り向くと、遠山だった・・・すぐ後ろにいた。
「仕事ですか? 引退したって聞いたんですけど・・・やっぱりガセネタだったんですね?」
相変わらず元気な奴だ。声が大きい。
大沼が気づいてするどく陰険な顔をこちらに向けた。
私は、遠山に“ちょっと急いでいるから”と言って大沼を無視してその場を立ち去ろうとした。
「佐島さん、ちょっと、待ってください!お願いがあるんです。」
「悪いけど、人を探しているんだ・・・それにオレ・・・仕事、本当に辞めたんだ・・・」
とにかく、ここを離れたかった。
「佐島さん?」
菜緒だった。ボーイフレンドと思われる若い青年と二人でいた。
「これ、落としただろ? ついでがあったからよってみたんだ・・・ごめん、もう行かなきゃ。」
逃げるようにしてホテルを後にした。
・ ・・来なければよかった。
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「ね、菜緒ちゃん。佐島さんのこと知ってるの?」
遠山さんが聞いた。
「はい・・・手当てしてくれたのが佐島さんなんです。」
さっきまで暗い顔をして、いろんなところに電話をかけていた遠山さんとは思えないくらい顔が紅潮している・・・宝くじに当たったらきっとこんな顔になるんだろう・・・
「佐島さんの連絡先わかる?」
ジェウォンの顔を見たら、言いなさいと目が言っていた。
「家ならわかります・・・」
遠山さんは、また携帯を取り出してどこかに電話している・・・
「佐島さんがいた! 今から会って頼んでみるから・・・うん、引退したって言ってたけど大丈夫だろ・・・とにかく、またあとで電話する・・・うん、じゃ。」
「あの・・・佐島さんて・・・?」
ジェウォンに聞いた。
「カメラマンだよ・・・広告業界では知らない人はいない・・・トップクラスさ・・・たぶん大沼より実力は上だろうな・・・」
驚いた。
「じゃぁ、佐島さんに撮ってもらえるのね・・・?」
「いや・・・それはわからない・・・引退してもう広告写真は撮らないって聞いてる・・・」
「でも、頼めば引き受けてくれるよね・・・?」
私は、自分が起こしたこの騒ぎがなんとか丸くおさまってほしいとすがる思いでジェウォンの顔を見つめていた。
でもジェオンの顔は“それは、どうかな・・・?”と言っている。
「奥さんが首を吊ったんだ・・・モデルのSHIHOMIとの浮気が原因だったって噂だ・・・それ以来、抜け殻のようになっていつのまにか業界から消えてしまったって聞いている・・・」
ショックだった・・・佐島さんが浮気をして奥様が首を吊っただなんて
14
・・・しまった
菜緒が動揺している。
僕は、菜緒の手を握った。
なんとか落ち着かせなくては・・・菜緒にとって人の死は特別なんだ・・・佐島さんの妻が首を吊ったなんて話をするべきではなかった。
15
私がジェウォンと一緒に遠山さんを佐島さんの家に案内したのは4時を過ぎていた。佐島さんはまだ帰宅していなくて、住み込みのご夫婦がいるだけだった。庭木のお手入れをしていたご主人のところに歩み寄ると手を止めて汗を拭った。先ほどホテルで会って以来戻ってきた様子はないようだ。奥様がバリコーヒーを煎れてくれた。
ジェウォンが上澄みだけを飲むようにと教えてくれた。
私たちはガゼボに座って何を話す訳でもなくようやく傾き始めた太陽に溶け込んでいった。
結局佐島さんが帰って来たのはそれから1時間ほど経った頃だった。
佐島さんのこと聞いていたのに、ここに来たことに罪悪感を抱いていた。遠山さんを案内したことを怒っているかも知れない・・・
「遠山・・・オレは引退したんだ・・・今はもう隠居の身だ・・・」
「何言ってんですか・・・隠居だなんて早すぎるでしょう・・・」
「ま、ここじゃなんだ・・・とにかく中に入ってくれ・・・」
空気がずっしりと重い。
佐島さんが私の顔を見た。
一瞬緊張した。
そして小声で私に言った。
「足の具合はどうだ?」
意外なやさしい言葉に驚いて、声に出さずに“だいじょうぶです”と返した。
唯一気持ちが通じ合っている二人のような・・・秘密の会話・・・
中に入ると、そこはたぶんもともとフロントだったのだろう・・・天井が高くてそこから吊るされたファンがカタカタとほどよい風をおくっている。
壁に庭が見渡せる大きな窓がありその手前に籘でできたソファがあった。
窓枠はまるで額縁だ。自然な風景画がおさめられているようだ。こんな贅沢なことはない。
窓と窓の間の3メートルほどの隙間に大きく引き延ばされて額に入った写真が飾られていた。
私は思わずはっと息をのんだ。
佐島?・・・そうか・・・彼は佐島新作なんだ・・・
私が、東京のサイン会の時にお忍びで行った写真展で感動した・・・あの写真が今、目の前に飾られていた。
16
「遠山・・・悪いけどオレはもう広告写真は撮らないって決めたんだ・・・だから、日本を離れてこんなところで隠遁生活を送っている・・・」
「やはり、あの噂は本当だったんですか・・・」
「ふ・・・どんな噂だ・・・妻が自殺したから抜け殻になってるとか?・・・それとも、再起不能で仏門に入ったらしいとか?・・・今はどんな尾ひれがついている?・・・もっと簡単なことさ。オレのせいで由季が死んだ、それで今も苦しんでいる・・・」
「・・・」
「だからもう広告写真は撮らないと決めた・・・あきらめてくれ。」
遠山は目線をはずさない。
「そう言えば、大沼を見かけた・・・?」
「はい・・・実は大沼さんにお願いしていた仕事だったんですが・・・ちょっともめまして・・・僕のデザインだと写真が生きないと言われて・・・大人げないですが、ついかっとなりました。」
菜緒のマネージャーという若い男が口を挟んだ。
「その前に僕が手を出したのが原因です。遠山さんのせいではありません。昨夜、酔った大沼さんが菜緒の部屋に入り込んだんです。相当酔っぱらっていました。菜緒は未成年です。酒につき合えと無理強いしたのを私が外につまみ出したので・・・たぶん、そのことにまだ遺恨が残っていたんだと思います。菜緒のけがを見てプロ意識がないだの、色んなこと言われて僕もつい、かっとなって・・・」
・・・ふっ、相変わらず変わってないな・・・
昔、大沼にはモデルに睡眠薬入りのオレンジジュースを飲ませてレイプしたという噂があった。手に入れたいものには手段を選ばない。しかも、手に入れ損なったものに対する執拗なこだわりも尋常じゃない・・・それが大沼という男だ。
SHIHOMIとの浮気・・・それは大沼が、由季に振られた腹いせに流した悪意のデマだと今でも思っている。
「確かにカメラマンがいなくなって困っているのは事実です。でも、もともとこの企画は佐島さんにお願いしたいと思っていました。ずいぶん手を回して探したんです。」
「・・・」
ファインダーを覗いていると、指が勝手に動いてしまう瞬間というのがある・・・今では、それを大切にしたいと思っている・・・だからもう時間に追われてやる仕事は俺にはできない・・・どうやったらキレイに撮れるかとか、どうやったら魅力的に見えるかとか、作為的な写真はもうこりごりだった・・・
「本当に悪いけど・・・広告写真は、もう撮らないんだ・・・」
「佐島さん・・・広告写真って思わないでください・・・彼女を撮ってください・・・ほら・・・ここにいる藤本菜緒を・・・この子は本当の自分に気づいていない・・・無理して明るくしているけど・・・何か大きなものを背負っている・・・心を開けば、本当はもっと素敵な子なんです。もちろん商品を持たせる必要はありません。彼女の魅力を引き出してください・・・どうですか? お願いできませんか?」
・・・心を閉じてしまったのはオレの方だ。
簡単なことではない・・・
「ただし、条件がある・・・」
遠山が身を乗り出した。
「何度も言うけどオレは、広告写真は撮らない・・・だからコンセプトだのテーマだの、へったくれを聞きたくない・・・ヘアメイクもスタイリストもなし・・・彼女がその日の気分で服を決める・・・すべて彼女次第・・・そのために1ヶ月ここで暮らすこと・・・その条件をのめるなら考えてもいい。」
・・・心を開かせたいのなら、着飾る必要はないんだ・・・
17
「ヘアメイクもスタイリストもなし・・・彼女がその日の気分で服を決める・・・すべて彼女次第・・・そのために1ヶ月ここで暮らすこと・・・その条件をのめるなら考えてもいい。」
遠山さんは、座り直して私とジェウォンの方に顔を向けた。
ただ見ているだけ・・・私次第ということなのだろう。
ところがジェウォンは私の顔も見ずにすかさず言った。
つまり私次第じゃないってことだ。
「私も一緒に残りますよ。遠山さん、これは我々の条件です。・・・その、私はマネージャーですから・・・それに少し菜緒に休みを取らせたいと思っていました・・・そういうことでいいですよね。佐島さん?」
「・・・部屋はたくさんあるから、気に入った部屋を使ったらいい。」
私を無視した交渉が成立したみたい・・・
でも麻起子さんに相談せずに決めていいのかしら、来週からはレコーディングも始まるし、映画の本読みも始まるはずなのに・・・
「佐島さん、それでは引き受けていただけるということですね・・・ありがとうございます。」
遠山さんは、立ち上がって佐島さんと握手した。とても力強く握ったから佐島さん、痛そうだった。
とりあえず、私たちはホテルに戻ることになった。広告写真じゃないから打ち合わせをする必要もないのだろう。
外に出ると鏡のようなプールの水面にまっかに焼けた太陽が沈み込んでいった。なぜか蒸気は出なかった。
帰りの車の中で、ジェウォンと遠山さんがなにやらひそひそと話している。
たぶん、いろいろと面倒な問題を解決しなければならないのだろう・・・
今日一日疲れはてていた私は、やがて真っ暗な闇の中に吸い込まれていった。
18
帰りの車の中で、遠山さんが一瞬バックミラーを覗き込んで奈緒が眠っていることを確認して僕に言った。
「佐島さんの浮気の話・・・あれは、大沼が流したデマだという噂がある・・・もしそうだとしたらこんな悲劇はないよな・・・」
「なぜ、そんな噂を流す必要が・・・」
「大沼と佐島さんは、二人とも写真家の沖田佑二先生に師事していた。だから、お互いに相当なライバル意識を持っていたらしい・・・ただ、それだけじゃなかったんだ、大沼はその頃沖田さんの娘さんにしつこくつきまとっていた・・・それが亡くなった佐島さんの奥さんなんだ・・・なんとなくありえる話だろ?・・・」
「・・・なるほどね・・・」
大沼のしつこさが怖くなって来た。
菜緒は大丈夫だろうか?
19
「私は、何をすれば・・・?」
「好きなようにしていればいい・・・俺が、ああしろ、こうしろと言うことはないから・・・ただ、俺は君の・・・菜緒でいいかい?・・・菜緒のそばにずっといる・・・そうだな、鬱陶しい父親とでも思っていてくれ。」
・・・父親?誰も私の父親なんかになれやしない・・・
佐島さんは、私と話すときはいつもカメラ越しにしゃべった。でも決してシャッターは切らない。私は、カメラを向けられるとどうしても身構えてしまう。とても居心地が悪くそんな生活になかなか慣れずにいた。
ある日、佐島さんがトラックにバイクを2台積んで帰ってきた。中古のバイクだったけどエンジンに問題はないみたい。
佐島さんが、ウブドは芸術家の集まる町なのだと言って美術館を案内してくれることになった。
私は運転できないからジェウォンの運転で出かけることにした。
風が気持ちいい。遠い昔の夏の香りが髪の間をすり抜ける。
すべての家々がやはり神を感じる作りになっている。この素朴さがいつまで残されるのだろう。アユン川でラフティングをしている人たちを見ていてこの村の行く末を心配しないではいられない。だって、あの水田でさえ売りに出されているのだ。近い将来ウブドに近代的な建物が建つなんてことがあるのかもしれない。
まず、私たちはARMA美術館にやってきた。ラヤウブド通りからハヌマン通りを抜けてにぎやかさがなくなってすぐの道を左に入ったところにある。入場料25000ルピア・・・お茶代も含まれている。
広大な庭にいくつかの古い建物がある。こういうところって昔の高貴な方のお屋敷だったりしたのかしら・・・。ここで子供たちの授業が行われたりもするらしい。暑いながらも時折流れる涼しい風が子供たちの集中力を高めてくれるのかもしれない。入り口の脇を飾るレリーフがすばらしい。しばしそのレリーフに感動した後、中に入った。エアコンはなく、天井から吊るされたファンが回るだけの開放的な部屋自体がすばらしく、やさしく入り込んだ柔らかい日の光がまた一枚の絵として完成している。見学者はほとんどいない。そして美術館には必ずいる監視をする人がいない。私は、写真禁止という張り紙を無視してシャッターを切った。
20
カメラのファインダー越しに菜緒を観察していた。この年代の普通の子より感受性が強いようだ。
彼女が向けているカメラの先が、以前の私を感じさせる。たぶん私が初めて来た頃と同じものに感動しているのかも知れない・・・と少し興味を持った。
ここウブドのやさしい光と陰が織りなすあたたかさが彼女の心の奥底にある何かを刺激している。
その瞬間瞬間を客観的にカメラに収めた。
今は、まだ客観的に・・・ということだ。
彼女がいつしかこのカメラを意識することなく心を開いた時が本当のシャッターチャンスなのだ。その瞬間が来るまで彼女とファインダー越しに会話を続けるつもりでいた。
作った笑顔や客観的な美しさは誰にでも撮れる。でも本当に心を開いてくれないと私にだって本当の藤本菜緒は撮れないのだから。
彼女は、この美術館の絵の中で私が最も好きな“ラデン・サレ ジャワの貴族と妻の肖像”の前でカメラを構えている。
彼女がシャッターを押しモニターに映し出された画像を確認した。
妻が夫の腕に遠慮がちにさりげなく手をかけている肖像画は、金縁の立派な額縁に納められている。その絵を中心に彼女は前に踏み出すのではなく後ろに下がって撮った。その理由を聞いてみたかった。
「菜緒・・・どうしてそのアングルで撮った?」
ファインダーの向こうで彼女が振り向いた。
「えっ・・・どうしてって・・・なんとなくしっくりとくるアングルがここだったから・・・」
私は彼女が切り取ったアングルをとても気に入っていた。この方が彼等が高貴な人たちだったということが伝わってくる。この絵からは高慢ではなく・・・素朴でありながら気品があり、治めていた国の人たちからもきっと尊敬されていただろうという感じがとても伝わって来るのだ。そういう絵を額縁一杯に納めてもそれはただの複写・・・大理石の床、素朴でありながらの気品を感じる白い壁、そして絵を挟むように刻まれた柱を表す立体の飾りの彫り物、その絵を中心に飾られた人物の絵、それらすべてを含んだ写真でないと意味がない・・・彼女がそこまで考えていたかどうかは知る由もないが、生理的に感じ取っていたことは間違いないと思った。
「なかなかいいね・・・」
21
私は、二人の肖像画に目が止まった。
それはジャワの貴族と妻の肖像画・・・高貴な衣装をまとった女性がつつましくもさりげなく夫の腕に手をかけている。夫は照れくさそうにほんの少しだけ体重を左足にかけて妻から離れようとしているようにも見える。その点妻は、すくっとしっかり直立不動している。“ほら、写真を撮るんだから私から離れないでくださいな・・・”そんな声が聞こえてきそうだ。
今から170年も前のジャワの貴族。一見慎ましくもあり、夫を牛耳っている夫婦関係にも見える。カメラを構えた。できるだけアップにして・・・でも、なんだかしっくりこなかった。そのまま後ろへ後ろへと下がった。すると面白いことに突如170年前のジャワがファインダーの中に現れた。私は、そこでシャッターを切った。
「なかなかいいね・・・」
褒められた。
なんだか照れくさかった。
22
僕は、佐島さんがカメラを持っている時は決して菜緒のそばには近寄らないようにしていた。
常に彼等から直接見えない位置に下がっていた。
佐島さんは、カメラを構えているだけでシャッター音が聞こえてくることはなかった。
その反面、菜緒のデジカメのシャッター音が館内をこだまする。ヒヤヒヤしながらも美術館員に邪魔されないよう目を配っていた。
東京にいる時は、決して見せることのなかった表情を菜緒は見せ始めている。
・・・それにしても
大沼はとんでもない男だった。あの日、もう少しで菜緒はレイプされるところだったのだ。
菜緒の部屋を訪ねたとき大沼の手が菜緒のブラウスのボタンを今まさにはずそうとしていた。危うくのところで大沼を外に引きずり出した。とはいっても大沼には写真を撮ってもらわなければならず決して傷つけないよう気をつけたつもりではあったが、こちらも多少酒も入っていたし・・・この手の傷を見る限りまったく暴力をふるっていないとは言いがたい。
しかし、僕が大沼を部屋の外に引きずり出したことを菜緒は全く気づかなかった。なにか薬を飲まされていたのかも知れない。麻起子さんからも大沼には十分気をつけるよう言われていた。噂では大沼は一度レイプ事件を起こしている。被害にあったのは売り出し中のモデルで、彼女は告発することなく事件はうやむやになったと聞いた。菜緒に手を出す奴は許せない。菜緒を守ってやれるのは僕しかいないのだ。偶然とはいえ、佐島さんがこうやって大沼の後を受け継いでくれたことに感謝せずにはいられない。
・・・しかし、
佐島さんにはなにか懐かしい匂いを感じる。それが何なのか・・・この時はまだ漠然とした感覚で具体的ではなかった。
23
敷地の一角で子供達が踊りの練習をしていた。いくつかのグループにわかれ先生から指導を受けていた。
かわいくて思わずシャッターを切った。
24
「菜緒・・・風景とは違って人物を撮る時はさっきのようにはいかない。そのままだと風景写真と同じなんだ・・・というより記録写真・・・」
「・・・」
「つまり、それだと客観的なんだ・・・人物を客観的に撮ってもつまらない・・・わかるか?今、目の前に起きている現実を記録しているだけ・・・後になって、あの時はこうだったな、と・・・そんな写真が撮りたいのか?」
「どうすればいいの・・・?」
「会話するんだ・・・そしてさらに一歩前に踏み込んで撮る。ファインダーを通して心の交流ができた時に初めて相手は心を開く。その瞬間を収められたら前後の物語まで収まってゆく。そしてそれはとても深い写真になる・・・だからオレもこうやって菜緒が心を開くのをひたすら辛抱強く待っているんだ。」
25
・・・会話か。
そう言えば、会話ってしてないな・・・つまり誰かに自分の意見を聞いてもらったり聞いてあげたり・・・自分の意見てなんだろう?
でも、この子達とどういう会話をすればいいの?言葉もわからないのに・・・
戸惑っている私を見て業を煮やしたのか、突然佐島さんが休憩中の子供達の輪の中に入っていった。
いきなりカメラを向けると恥ずかしそうに笑う・・・あ、違う・・・そうか、みんながみんな同じじゃないんだ・・・お茶目な子・・・自分を売り込んで前に出てくる子・・・興味はあるけど控えめな子・・・ひとりひとりキャラクターが違う・・・
佐島さんは、まずその子達全体を撮ったかと思うと、ファインダーから目を外してその控えめな子に声をかけた。
「スラマッシアン(こんにちは)」
するとその子は一瞬友達の背中に隠れたかと思ったら、上目づかいのかわいい微笑みで背中から顔を出し、はずかしそうに答えた。
「スラマッシアン」
その瞬間シャッター音が響き渡る。その後佐島さんと子供達の・・・いわゆる心の交流が始まった。佐島さんに子供達が心を許してゆく。心を預けてゆく。まるで魔法のようだった。
右目はファインダーにくっつけたまま、でも左目は開けて相手をしっかり捉えている。
「菜緒・・・君もカメラで会話して・・・」
佐島さんにすでに心を開いているせいか私にも素敵な笑顔を送ってくる。
一人一人のキャラクターを写真に収めた後、子供なりの真剣なまなざしで稽古する風景を撮った。
「テリマカシ」
ありがとう・・・みんな。言葉は通じないけどたくさんのことを話し、色んなことがわかりあえたようなそんな最高な気分だった。
「どうだった?」
「最高!」
佐島さんを振り返った瞬間に、佐島さんのカメラのシャッター音が聞こえた。
26
・・・いい写真だな。
菜緒が撮った写真をパソコンにセーブしながら僕は思った。
「佐島さん、菜緒が撮った写真は佐島さんからみてどうなんですか?・・・その、プロの目から見てという意味ですけど・・・」
「ジェウォンはどう感じた?・・・素直にいい写真だと思ったんだろ?・・・実はオレもさ・・・菜緒の写真には何かを感じるんだ・・・それはテクニックでもなく偶然でもない・・・菜緒が何かを素直に感じた瞬間が写っているからなんじゃないかな・・・。」
「じゃぁ、カメラマンとしての素質みたいなものが・・・」
「カメラマンの素質って何か、オレにはわからないけど・・・いいもの持ってるなって感じかな・・・」
「菜緒にもちゃんとしたカメラを与えてみようかな・・・」
「写真に重要なのは、カメラじゃない。今の菜緒には今のカメラで十分・・・何がどう映っているかではなく・・・何をどう感じたかが大事なんだ。でも、きっといつか・・・それでは物足りなくなるから、それまで待てばいい・・・」
佐島さんは、レンズの埃をブロアで吹き飛ばしながら言った。
・・・何だ?この落ち着かない胸のざわめきは・・・胸が痛い・・・心臓へ送られる血が逆流しているみたいだ・・・
佐島さんは、僕より菜緒の事をわかっている。
僕は、心の中を読まれたくなくて菜緒の写真の整理に集中した。
27
食事は、いつもプールサイドだった。
太陽が眠り支度をする儀式・・・打ち上げ花火のクライマックスのように空を色とりどりに明るく染めてやがて消えてゆく・・・そうそれは、有楽町のマリオンのからくり時計が時報を打つときみたいなわくわくとした楽しみ・・・その瞬間を迎えながらの食事はぜいたくだった。
そして空は闇に包まれプールサイドに灯されたキャンドルがちょっとセンチメンタルな心にぬくもりを与える。
私は、キャンドルの光を映しゆらゆらと揺れる水面をじっと見ているのが好きだ。
そして静寂の中を泳ぐように蛍が乱舞し始める。
人見知りしない蛍をやさしく手のひらで包み込んだ。隙間からそっとのぞくと必ずまた扉が開くことを知っているかのごとくじっとしている。私はその期待に負けて静かに扉を開いた。蛍は慌てることなく静かに飛んでいった。
「菜緒・・・自分の食器は自分で片付けるんだぞ・・・」
はぁい・・・当たり前のことだけど、当たり前に扱ってくれる佐島さんにある種のなつかしさを感じていた。
28
菜緒は、眠ったようだった。
僕は、なんだか寝付かれず外に出た。
プールサイドに行くと佐島さんがデッキチェアに足を投げ出して酒を飲んでいた。
後ろから声をかけた。
「ウィスキーですか?」
気のせいか、ビクッと肩が動いた
佐島さんは、丸く輝く月から目をはずすことなく静かな声で言った。
「・・・今日の月はいい月だと思わないか?」
まるで月に帰りたいと願っているかぐや姫のようだ。その月に愛しい人がいるとでもいうように。
佐島さんは、だらりと下ろした右手に持っていたグラスをサイドテーブルに置き両手で顔を揉みほぐすようにくしゃくしゃっとさせゆっくりこちらを向いた。
佐島さんの瞳に反射した月の光が、さっきまで濡れていたことを教えてくれた。
・・・まずかったかな?
明らかに泣いていたのだ。
一瞬ためらったが
「なんだか眠れなくって・・・」
「君もグラスを持ってくればいい・・・」
「はい・・・」
僕は、キッチンからグラスと氷を持ってくるともう一つのデッキチェアを佐島さんのデッキチェアにくっつけるように引き寄せて腰掛けた。
氷の入ったグラスに、たぶん琥珀色をしていると思われるウィスキーがトクトクトクと注がれ、やがて緩やかに水面の揺れがおさまるとその上にぽっかりとまるい月が浮かんだ。
デッキチェアに深々と座り直し横になって改めて空を見た。
明るく輝く満月は、太陽からもらった光を惜しげもなく反射して空いっぱいに輝いているはずの星たちを魔法のように消してしまっている。
「ほんと、いい月ですね。何年ぶりだろ・・・満月の夜は星が見えないなんて今まで気づきもしなかった。」
「東京で見る月と同じはずなんだけど違って見える・・・」
「空気が濁っているせいか、心まで濁ってしまったせいか、いつのまにか月を鑑賞するってこともなくなっていましたね。心が洗われる思いです。」
「おれも、そういう気持ちを取り戻したいと思ってここに来たんだけどな・・・」
「まだ、だめですか・・・?」
「まだまだだ・・・」
ささやくように呟いた。
「でも菜緒は、ここに来たおかげでずいぶん菜緒らしくなって来ましたよ・・・ここが合っているのかも・・・」
菜緒の話に切り替えて少し元気づけたかった。
「環境を変えるって大事なことなんだ・・・人との交わりが増えると嫌なことも増える・・・感情のぶつかり合い、すれ違い、誤解、嫉妬、妬み・・・こうやって自然の中に流されるようにとけ込んでゆくと、争いもなく心穏やかでいられる・・・そうしているうちに自分を見つめ直す余裕が生まれ、その余裕が思いやりに変わる・・・ここの人たちを見ていてそうは思わないか?・・・でも、最近ではこの辺もずいぶんと毒されて来ている・・・ピュアで美しいウブドもいつか遠い昔のことになるかも知れない・・・ま、菜緒は心配ないさ。」
「でも、菜緒もここまで来るのにずいぶんと時間がかかりました。今でも自分のせいで両親が亡くなったと思っているから・・・」
ぼーっと水面に映る月を眺めていた佐島さんの目が一瞬、僕を見た。
・・・しまった・・・またやってしまった
奈緒だけでなく佐島さんにも死の話題は避けるべきだったのだ・・・
元気づけるつもりが佐島さんを再び闇の世界に追いやってしまった・・・
佐島さんは、誰に言うともなく夜空に向かってつぶやいた
「そうか・・・それであのとき・・・」
29
・・・そうか、それであのとき・・・
オレを鬱陶しい父親とでも思ってくれと言ったときの菜緒の表情は少し反抗的だった・・・誰も菜緒の父親になんかなれやしないということだったのか・・・
「菜緒は、どうして自分を責めている?」
「彼女は、父親が大好きでした。今から4〜5年前、つまらない誤解で父親と秘書との仲を嫉妬した菜緒は、ちょっと反抗して家出をしたんです。思春期で少しすねていただけというか・・・甘えたかっただけというか・・・家出そのものはかわいいもので友人の家でパジャマパーティをしていただけだったのですが、心配した両親が菜緒を迎えに行く途中に飲酒運転の車に追突され・・・それで・・・」
「そうか・・・それはショックだっただろうな・・・」
「はい・・・ただ、かまってほしかった・・・両親に愛されている事、わかっていたはずなのに・・・迎えに来てくれるのを今か今かと心待ちしていたら、かわりに来たのが警察からの電話だった訳ですからね・・・その後日本にいる母親の両親・・・つまり菜緒の祖父母に引き取られました。でも、両親が亡くなったのがクリスマスイブの夜だった事から、街の浮かれた賑わいが耐えられなかったのでしょうか・・・1年後のクリスマスイブに手首を切ったんです。かなり深い傷でした。本当に死ぬ気だったのだと思います。」
ジェウォンは、そのときの菜緒の気持ちの移ろいを詳しく話してくれた。
両親が亡くなってから祖父母のもとで過ごしたこの5年間をジェウォンはずっと見守ってきたのだ。
菜緒は、たくさんの人から愛されているじゃないか・・・
「菜緒は、両親を愛していたし、それ以上に両親は菜緒を愛していた・・・それは揺るぎのない事実・・・時間はかかるだろうけど、きっと立ち直れるさ・・・亡くなったご両親が望んでいる事は、あきらかに菜緒が幸せになる事だろ?・・・菜緒は、それに気づけばいいだけ、心配はいらないよ。」
「そうですね・・・」
・・・でも・・・オレは違う・・・
由季は、オレに愛されていた事を知らずに死んだ。愛されていないと思って死んだ。この後悔の念は消えることはない。菜緒の両親は菜緒が幸せになる事で浮かばれる。でも由季は、オレが幸せになる事でさらに傷ついてしまう。オレは誰のために生きているのか・・・何のために生きているのか・・・生きている意味がわからない。
いつのまにか、輝いていた月が消え・・・私は漆黒の闇に落ちて行った。
30
菜緒のことについては、確かに佐島さんの言う通りかも知れない。あとは、菜緒次第なのだ。それを僕はじっと待っているしかない。
・・・佐島さんは・・・
そうはいかない。僕ごときに慰めを言われたところで何の解決にもならないだろう。
妻が目の前で首を吊ったのだ。
そう言う意味では心を閉じているのは佐島さん本人なのかも知れない。
何かに打ち込んでいる佐島さんと、こうやってふぬけのように酒を飲んでいる佐島さんとは明らかに別人だった。
『佐島さん、なぜあなたは自分を責めているのですか?』
聞ける訳がない。
聞いたとしても、心穏やかな気持ちにしてあげることなどできないのだ。
すっかり黙ってしまった佐島さんをおいて部屋に戻ることにした。
さっきまでの月が山の向こうに消えるのを待ちわびていたかのように、反対側の空から星達がざわざわと集まり始めた。
振り向くと、さっきと同じ後ろ姿の佐島さんが見えた。
・・・泣いているのだ・・・
佐島さんは今日も月には帰れなかった。
「菜緒、佐島さんが褒めてたぞ・・・いい写真だって。」
整理した写真を見せながら菜緒の喜ぶ顔を期待した。
素直な笑みがかわいかった。
菜緒は、子供達の写真を指差しながら彼等の心の奥にあるストーリーを話してくれた。
「佐島さんてすごいよね。あんなに簡単に子供達の心をつかんじゃうなんて。」
こんなに興奮した菜緒を見たのは何年ぶりのことだろう。
「菜緒、きれいなマニュキアだな・・・」
いつもはあまり自分から進んでマニュキアなどしない菜緒が今日はどうしたのだろう?
「でしょ? これが私の今日の気分。」
しかもよく見ると、たくさん預かっている衣装の中から自分でコーディネートした服を着ている。
スタイリストならこんなコーディネートはしないかもしれない。でも絶妙な組み合わせ。
菜緒が、今日の気分を自己主張しているのだ。
今まで、自分の意見さえ言うことのなかった菜緒のちょっとした変化だった。
「ね、このイアリングの方がいいかしら?」
僕は、別のをとって菜緒の耳にあてがった。
菜緒は、鏡を見ながら言った。
「さすが、お兄ちゃん。私のことわかってるね。」
僕は、無性に目の前の菜緒を写真に収めたい気持ちになった。
カメラを構えたその時、僕の後ろで連続したシャッター音が響いた。
佐島さんと菜緒のファインダーを通した会話が始まった。
僕は、行き場をなくしてそっと後ろに下がった。
菜緒が心を開きはじめた。完全ではないけれど、佐島さんを安心しきっている。心を許している。
きれいだった。さっきかわいいと思った菜緒がどんどんきれいになってゆく。
僕は、寂しかった。
菜緒が僕から離れてゆく。
31
ある日の夕方、ガゼボに横になっている佐島さんを見かけた。
耳にイヤホンをつけて目を閉じていた。
私は横に腰掛けてしばらく佐島さんの様子を眺めていた。
・・・父に似ている。
初めて気がついた。
まるで眠っている父が今にも目を開けて
『菜緒・・・?・・・どうした、今日はどこにもでかけなかったのか? ママはどこにいる?』
そう言って起きるんじゃないかと少し期待して眺めていた。
父じゃないとわかっているけれど、父の面影に触れたくて、懐かしい父の匂いに近づいてみた。
・・・泣いている。
佐島さんの目から涙が、こぼれた。
『由季・・・?・・・どうした?オレはどこにも行かない・・・』
夢を見ているようだ。
佐島さんがはっと気づいて目を覚ました。
「あぁ、菜緒か・・・」
「奥様の夢を見ていたのね・・・」
「気持ちがよくて眠ってしまった。」
イヤホンを外しながら言った。
「何を聞いていたの?」
「アンドレ・ギャニオン・・・これを聞いていると穏やかな気持ちになれるから。」
「聞いていい?」
そう言って、イヤホンを受け取ると佐島さんは最初の曲に戻してプレイボタンを押してくれた。
穏やかな気持ちになる・・・確かに・・・なんだろうこの懐かしさは・・・この曲はまだ両親が生きていた頃の遠い昔に誘ってくれる。
そしてはじめて佐島さんと出会った時に感じたあの感触にも似ていた。
「これ、なんという曲?」
「めぐり逢い・・・」
それは、穏やかで、懐かしくて、誰かに愛されているような・・・そんなやさしい気持ちにさせてくれた。
私は、それを聞きながら横になり佐島さんの手を取ると目をつぶった。
父のように繊細な手・・・温もりがやさしさとなって伝わってくる。
・・・パパとママが見える。
家族で行った遊園地だ。
パパとママの手を握ってブランコしながら歩いている。
家族と過ごす事がどれだけ贅沢で幸せな事だったのか・・・さわやかな風に包まれて私は、両親と過ごしたあの日に帰っていった。
32
寝息を立てはじめた菜緒からそっと手をはずした。
菜緒の寝顔は、まるで父親の温もりに飢えた子供のようだ。
最後に由季と手を繋いだのはいつのことだったか・・・菜緒の手に由季の温もりを感じていた・・・
あれから由季の笑顔を思い出せないでいたのにかすかな記憶がよみがえる。
菜緒のイヤホンから“風の道”が漏れている。
お互いがまだ愛し合っていることに不安など感じていなかったあの頃・・・よくバイクで風の道を駆け抜けた。
由季は、やさしい緑に包まれた高原の木陰で太陽の光を木の葉で遮りながら眠るのが好きだった。そして同じように必ず僕の手を握った。
・・・果たして
あの頃から由季は不安だったのかも知れない・・・。愛されていることに確信が持てなかったのかも知れない・・・
僕は、もう一度菜緒の手を取った。
目を覚ますまでこのまま握っていてやろう。
風が菜緒の髪を乱してゆく。
僕は、そっと菜緒の髪を直した。
33
僕は、動けずに固まっていた。
冷たい飲み物をトレイに入れて二人のところに持ってゆく途中だった。
菜緒が佐島さんの手を握って眠っている。
気づかれないようにそっと後ずさりした。
34
これがジェンガラ(JENGGALA)か。
私たちは、アマンダリでブランチを食べることにしバイクでやってきた。
他に客のいない静かなレストランだった。
カレーを頼んだら、何とも言えない深いグリーンのお皿にもられてやってきた。
これがジェンガラか。
まるでおのぼりさんみたいに写真に収めた。
「菜緒、気にいったのなら、今度ジェンガラのお店に行ってみようか? 確かヌサドゥアに向かう道の途中にあったはずだけど・・・」
ガイドブックをめくりながらジェウォンが言った。
「たまには、二人で行ってくれば? オレの車を使っていいから。」
・・・なんだ、佐島さんは行かないのか・・・
突然の雨。
目の前の景色が雨煙に包まれてゆく。
舞い上がった土の香りが漂って来た。
昔おばあちゃん家の庭に打ち水をした時の夏の香りだ。
鏡のように風景を映していたプールもすべてをリセットするかのようにマットな状態になった。プール脇のガゼボに人が逃げ込む。
ウブドの雨は火照った体の体温を一気に下げた。
雨はすぐにやみ、プールの水面は何事もなかったかのように広がってゆく青空をまた映し始める。
雨宿りしていた人たちが春を待ちわびていた虫のように這い出て来た。
アンドレ・ギャニオンが頭の中で流れ始める。
今の気分は曲名で言うと“風によせて”って感じかな。
35
「どうした・・・佐島さんがいないからつまんないか?」
ジェンガラの店に向かう車の中で、何も言わず、窓から入ってくる風に髪をなびかせながらボーッと外を眺めている菜緒に見かねて言った。
ウブドから出ると景色が一変し、少し開けた街の様相にとまどいながらサヌールの街をかけ抜けた。
「つまんない・・・」
「えっ?・・・」
「やっぱり、ウブドがいいね。」
「やっぱり、佐島さんがいいね・・・じゃないのか?」
「・・・」
これまで菜緒とはできるだけマネージャーとして接してきたが、ここのところ菜緒をタレントとして見ることができなくなっていた。
特にここ1週間というもの、まだ両親がいた頃の菜緒の面影がちらつきはじめた・・・健康的で明るかった菜緒・・・妹のように接して来たあの頃の菜緒が記憶によみがえってきて愛おしく思うようになっていた。
菜緒が、この空気を嫌うようにCDをセットした。
「菜緒、この曲いいね・・・」
奈緒の一番のお気に入りのようだ。
「めぐり逢い・・・」
「菜緒が佐島さんと出会ったのもめぐり逢い・・・だよな・・・」
「・・・」
「好きになったか?」
しつこいと思ったけど、思い切って切り出した。
返ってくる答えがこわかった。
「わからない・・・」
「・・・」
「でも・・・気になってる・・・」
そう言って、さらに窓を全開にして顔を外に突き出した。
「気持ちいい!・・・」
何か心の中にある思いをごまかすように大きな声で叫んだ。
「佐島さんて、なんか菜緒のお父さんみたいだよな・・・?必要なことしか言わなくて・・・そして、言うことにはやさしい愛がこもっている・・・佐島さんを見ているとスンホおじさんを思い出すんだ。何とも言えない懐かしい感じがする。・・・菜緒もそう感じてるんじゃないのか?」
父親に対する懐かしさがこみ上げて来て、それがちょっとした恋心となってしまっている。
ただそれだけのことだと信じたかった。
「懐かしい・・・そして心地いいかも・・・でも、それだけで好きになっちゃいけないのかな・・・?」
自分で切り出しておいて、しかも予想通りの答えが返って来たにもかかわらず、この問いになんて答えていいのかわからなかった。
佐島さんが撮っている菜緒の写真は、いきいきとしていて菜緒の魅力が100パーセント引き出されていた。ファインダー越しに疑似恋愛をしているのかもしれない。でも、少なくとも菜緒は本気だ。
僕は、菜緒のマネージャーとして自分の感情を心の奥底にしまい込んで言った。
「いいんじゃないか・・・好きになる権利は誰にでもあるんだから。ときめいていきいきとしている菜緒が本当の菜緒なんだろ?正直に生きるべきだと思う。それが亡くなったおじさんやおばさんの願いなんじゃないかな・・・」
菜緒が正直に生きてくれること・・・それを見守るのが僕の役目と割り切った。
この仕事を成功させるためにも、佐島さんにはどうしても菜緒本来の姿を引き出してもらわないといけないのだ。
ジンバランにあるジェンガラ・ケラミックに着く頃には、いつもの菜緒に戻っていた。
菜緒は子供のようにはしゃぎながらたくさんの食器を買い込んだ。
36
・・・やっぱり
佐島さんは父に似ているのだ。ジェウォンも同じように感じていた。
私は、佐島さんを父として見ているのだろうか?・・・それとも・・・ひとりの男性として見ているのだろうか?
あの手の感触・・・それはお互いの心が行き来する感情の接点。
私は、父の懐かしさを感じた・・・でも同時に心の震えも感じた。脳に突き抜ける衝撃・・・こういう感情は、はじめて感じるものだった。
・・・これがひょっとして・・・ときめきというもの?・・・それとも、ただ酔いしれているだけ?
どちらにしても、心地よく・・・いつまでも続いてほしいと思っていた。
曲が“とまどい”に替わった。
私はあわてて、曲をもう一度 “めぐり逢い”に戻した。
「菜緒・・・」
佐島さんの声だ。
寝坊するとこうやって起こしにくる。
聞こえてはいたけれど、聞こえない振りをした。
佐島さんの気配を感じながら耳を澄ませた。
“まったく”・・・そう思ったはずだ。
そして、いつもと同じように勢いよくカーテンを開け、窓を開ける。
さわやかな風がママのように肩を揺さぶる。
でも、私はまだ起きない。
もう一度・・・声を聞かせて・・・祈るように待っている。
「菜緒、いつまで寝てるんだ・・・そろそろ起きろ」
振り向くと目の前に顔がある。
「おはよ・・・」
これで今日1日最高の気分でいられる。
そして私は、いつものようにトレーニングウエアに着替えヴィラのまわりを30分ほどジョギングして軽く汗を流す。
戻ってくると焼きたてのパンと煎れたてのコーヒーの香りが辺り一面に漂っている。
急いでシャワーを浴びてみんなと一緒に朝食をとる。
・ ・・このまま続けばいいのに・・・でも、ここに来てからもう3週間が過ぎていた。
その日の午後。私たちは、ライステラスを訪れた。
階段のように小さな水田が重なっている。
「佐島さん、記念にジェウォンと一緒に写りたいの。ライステラスをバックに1枚撮って。」
「菜緒、こういう写真を撮る時はもっと前に来るんだ。そう、もっと前・・・そこでいい。」
背景を入れてほしかったのに・・・
見せてもらうとちゃんとライステラスも写っていた。
不思議そうな顔をしていたのがわかったらしくジェウォンを立たせて説明してくれた。
「ほらモニターを良く見てて・・・ジェウォン後ろに下がってみて・・・ほら、背景に近づくと人も一緒に遠くなる・・・今度は前に・・・そう、ここまで・・・背景は変わらないけどジェウォンがカメラに近づいた分、顔の表情までわかるだろ?これは、テクニックだ。背景と一緒に人物を撮る時は後ろに下がらずできるだけ前に来させるんだ。」
なるほど・・・
「ジェウォン・・・今度は佐島さんと一緒に撮って・・・」
佐島さんに言われた通りカメラに近づいて、そして佐島さんの腕をとった。
あのARMA美術館の“ラデン・サレ ジャワの貴族と妻の肖像”みたいに。
・・・安心する温もり。
ジェウォンのとまどったシャッター音が聞こえた。
37
・・・そろそろかな?
思ったより、順調に写真は撮れていた。
菜緒自体、ウブドというこの環境に合っていたせいかもしれない。
ジェウォンを呼んだ。
「結構いい写真が撮れたと思うよ。用意していた衣装はほとんど着たようだし・・・遠山にもそう伝えた。あさってにはこちらに来れるそうだ。」
「じゃぁ、そろそろ日本に帰れるというか・・・帰らなければならないというか・・・」
「早く帰れるんだ・・・良かっただろ?」
「もちろん、待っていただいている仕事がたくさんありますから助かります・・・」
「ま、後は遠山次第だな。」
38
正確に言うと・・・帰さなければならない・・・だな・・・
菜緒に帰国を伝えなければならない・・・気が重かった・・・でも、あの佐島さんが納得し満足のゆく作品が出来上がったってこと・・・これはすごいことだ
しかも、これで菜緒が佐島さんと永遠の別れというわけでもない・・・この作品は菜緒を・・・そして佐島さん自身を変えた・・・きっと2人は、これから始まるんだ・・・
菜緒は、いつものガゼボに座ってプールの水面の揺らめきを眺めていた
少しセンチになっている・・・終わりが近づいていることわかっているのかな
僕は、大きく息を吸ってその重い空気を一気に吹き飛ばした
「奈緒、よくがんばったな・・・佐島さんも満足されていた・・・そろそろ帰って次の仕事だ!まず、映画の本読み、みなさんを待たせて迷惑をかけているからな・・・予定より早く帰れてよかった・・・それと雑誌の取材入れるぞ・・・今回のバリでの出来事を書いてもらおう・・・それとレコーディング・・・帰ったら忙しくなる・・・だから・・・菜緒も気持ちを入れ替えてファイティン!」
ここまで一気にしゃべると、菜緒の顔も見れずに背を向けた・・・菜緒の鋭い視線が僕の背中を突き刺した・・・
ドクドクドク
僕の涙の血が流れて行く
ごめんな奈緒・・・お前の気持ちはわかっているのに
39
「すごいです!すばらしいですよ、佐島さん!」
「使えそうか?」
「使えそうかだなんて・・・これで写真集が1冊できますよ・・・」
遠山さんの興奮した顔とは反対に菜緒の表情が曇った。
いい写真が撮れたということは、別れを意味する。
こうやってここでの仕事が終わったという現実・・・菜緒の気持ちを考えるとつらかった。
その日は、遠山さんも加わって遅くまでプールサイドでパーティが行われた。
一人浮かれた遠山さんが佐島さんを独り占めにしていて、菜緒は少し不機嫌だった。
「今回、菜緒ちゃんもたくさん写真を撮ったんだってね。佐島さんが随分褒めていたよ。ぜひ僕にも見せて欲しいな。」
ひとり寂しそうにしている菜緒を気遣って遠山さんが思い出したように振り向いて声をかけた。
「・・・」
僕は、つまらなさそうに離れて座っている菜緒のそばに行って相手をした。
「ほんと、佐島さんてすごい人だね。いい写真だった。」
「・・・」
「明日のチケットを手配したけど・・・もう1日延ばそうか?・・・まだ、麻起子さんには言ってないから・・・」
「いい・・・明日帰る。」
そう言うと、みんなに挨拶もせずに部屋に戻ってしまった。
こんなときマネージャーならどうすべきなのかはわかっている。でも男としてどうすべきなのかがわからないでいた。
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・・・そんなにうれしいの?
私の気持ちなんてどうでもいいの?
誰も悲しんでなんかいない・・・私は、もう明日帰っちゃうんだよ・・・1ヶ月近くも一緒にいたんだから、寂しいとか・・・悲しいとか・・・それが普通じゃない?
佐島さんは、大きな仕事をやり終えてほっとしてるんでしょ・・・遠山さんは、佐島さんが引き受けてくれてそりゃよかったでしょうよ・・・ジェウォンたら、いきなり帰国便の話?・・・そうよね、あなたは優秀なマネージャーだもんね・・・仕事をまわして行かなければならないんだから仕方がないよね・・・
でも、わたしは・・・わたしは・・・帰りたくない・・・こんな気持ち始めてなの
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翌日の昼頃になってチケットが届いた。
菜緒の部屋に行くとパッキングの最中だった。なんだかはかどらないらしく、まだ服がベッドの上に散らばっている。
「チケットが届いた。だけど・・・今日の便はエコノミーしか取れなくて・・・菜緒だけ明日の便になるけど・・・ひとりで大丈夫かい・・・?」
大丈夫なのは、表情を見ればわかる。
「明日は空港まで送ってもらうよう佐島さんには頼んでおいたから・・・」
うれしい気持ちを精一杯隠しているのがわかるだけにとても複雑だった・・・でも、佐島さんにはかなわないともうすでに僕は諦めていた。
菜緒の喜ぶ顔が見れるだけでいい。
ベッドの上にチケットを置いて彼女に背を向けた・・・
ドクドクドク
涙の血が止まらない。
42
最後の夜は二人きりだった。
いつものように星のきれいな夜だった。
星と戯れ、蛍と戯れながら・・・ただいたずらに過ぎてゆく佐島さんとの最後の時間を過ごしていた。
「菜緒は、ここに来たときからずいぶん変わった・・・」
「・・・」
「菜緒が、幸せになること・・・それが、ご両親が望んでいること・・・たくさんの人から、たくさんの愛を受けて幸せになること・・・そのことに気づいてくれたのならとてもうれしい・・・」
「まるで、パパみたい・・・」
「オレはそういう気持ちで菜緒と接して来た・・・」
「帰りたくない・・・」
「ここに来る人はみんなそう言うよ・・・」
私は、佐島さんの指に指を絡ませ、もう片方の手で腕を引き寄せた。
佐島さんの心を確かめたかった。
何も感じない・・・佐島さんが信号を送ってこない。
・・・愛されていない。
涙がこぼれた。
父と母が死んだと聞いた日の・・・あの感情がよみがえってくる。
私を愛してくれた大事な人を無くしただけでなく・・・今,私が愛している人は見向きもしないで離れてゆく・・・再び味わう絶望の孤独感・・・
佐島さんが、絡まった指を解いて私の手を両手で包み込んで言った。
「ここは、菜緒が暮らすところじゃない・・・みんなの愛を受けるということは、みんなに愛を捧げるってこと・・・きっとそのために菜緒は生まれて来たんだと思わないか?・・・ここにはまたいつでももどって来れる。」
「佐島さんは、なぜここにいるの?」
「愛のため・・・もう一度妻を愛する資格を得るため・・・」
「奥様は、もう亡くなったんでしょ?」
「だから、こうして妻への愛を証明している・・・」
「そんなに愛されていて、奥様は幸せね・・・」
「・・・」
「じゃぁ、もう他の人を愛することはないの?・・・」
「ない。」
佐島さんはすかさず言い切った。
「もし・・・佐島さんのことを愛する人がいたら・・・」
「オレには、愛される資格がない・・・だからもう人を愛する権利がない・・・」
「・・・そう・・・でも、私は愛しているから・・・勝手に愛しているから・・・」
・・・パパの最後の言葉を思い出した・・・
「今から迎えに行くから・・・お前を愛している。いいか、パパはママとお前だけを愛しているんだ。」・・・
あのとき、なぜ言わなかったのだろう・・・“私も愛している”・・・と
パパに言うべきだった言葉を今佐島さんに向けて言った・・・
「菜緒・・・また、父親が恋しくなったらいつでもオレに会いにくればいい・・・」
「私は、父のような人じゃないとだめなの!佐島さんといると父を思い出す・・・だから、ずっと一緒にいたい・・・」
「菜緒にふさわしい人は周りにたくさんいるさ・・・今は気づいていないだけ・・・でも、それがオレじゃないことは確かだ・・・自分の妻さえ愛してやれなかった男なんだ、菜緒のお父さんとは比べものにはならない・・・」
これ以上話しかけると大事なものが壊れる気がした・・・ただ少しでも長く佐島さんの温もりを感じていようと思った。
流れ星が流れたが、願い事を唱える暇もなく消えて行った。
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菜緒の温もりを感じながら、由季のことを考えていた。
撮影旅行から帰って来た時に、由季は必ず僕に抱きついた。
離れようとする僕に、
「だめ・・・がまんして・・・サクちゃんが色んな人と出会って・・・いろんな風景に出会って・・・何かを感じて帰って来た体をこうやって抱いているとね、私も幸せって感じるの・・・だから、もう少しがまんして・・・」
愛されるって、温かくて心地いいものだったんだ・・・
その心地よさを今僕だけが感じるわけにはいかない。
僕が今こうして生きているのは、由季を今でも愛しているからだ、由季をもう一度愛する資格を得るためにこうやって生きている・・・菜緒はそれを僕に気づかせてくれた。
そんな菜緒をまた絶望の渕に追いやる訳にはいかない・・・僕の気持ちをわかってほしかった・・・両手で菜緒の手を包み込んだ。
44
すごい反響だった。
街に貼られた菜緒のポスターは貼ったその場から剥がされていった。
取材はもちろんドラマの話、映画の話が次々と舞い込んだ。
そんなとき、遠山さんから電話があった。
菜緒と佐島さんの写真集を出さないかという提案だった。
佐島さんが撮った菜緒の写真と菜緒が撮ったウブドの写真のコラボレーション。
そして、校正刷りが上がって来た頃、事件は起きた。
“藤本菜緒、妻を自殺に追いやったカメラマンとの禁断の恋”
菜緒がガゼボに寝そべってそばに座っている佐島さんの手を握っている。
ゴシップ誌アウトフォーカスの記者から、この記事を止めたいなら5000万を支払えと言って来た。
麻起子さんと緊急会議。
「事実なの?」
「いえ・・・ただ、佐島さんは菜緒の父親に似ているんです。だから佐島さんに恋心を抱いたのは事実ですが、あの二人にやましいことは絶対にありません。」
「この写真はどうみても手を繋いでいるわよね・・・」
「はい・・・僕もそばにいましたから・・・」
「そうなの?!」
「ただ、彼等は僕がそばにいたことを知りません。」
「でも・・・どうして?・・・誰かが二人の関係を怪しいと思ったのよね・・・それは誰?」
「たぶん、怪しいと思ったんじゃないと思います・・・」
「どういうこと?」
・・・ここまで執拗な男・・・あいつしかいない・・・
「心当たりがあるんです。彼は、また佐島さんに同じことをしようとしている・・・佐島さんをまた陥れようとしている。」
「彼って・・・誰のこと? 狙われたのは菜緒じゃなくて・・・佐島さん?」
「麻起子さんは知らない方がいい。とにかく、この記事は無視しましょう。そして菜緒には自然体でいるように言いましょう。菜緒は、賢い子ですから大丈夫、心配いりません。・・・だから・・・この件は僕に任せて」
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「私は、両親を亡くしてパパの愛に飢えていました。佐島さんは私のことを本当の娘のように接してくれた。私は佐島さんをパパのように慕って甘えていただけです。佐島さんとの関係は写真集を見ていただければわかると思います。」
「佐島さんが浮気をしたことで奥様が自殺をしたって知っていましたか?」
「佐島さんが浮気をするなんて考えられません。佐島さんが愛しているのは奥様だけだったし、今でもそう・・・だけど、佐島さんは自分の愛が足りなくて奥様が自殺したと思っています、奥様への愛を信じてもらえなかった自分を今でも責めているんです。だから仕事を辞めて日本を離れた。そんな人が浮気をしたと思いますか? そっとしておいてあげてください。」
たったこれくらいの記者会見で事態が収まるとは思っていなかった。これからも執拗に追いかけられるだろう。
でも、大事なことは正直にいること、そして堂々としていること・・・なんとしてでもわたしが佐島さんを守らなきゃ・・・だから、この騒動がおさまるまで誠意をもって対応しよう・・・そう思っていた。
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菜緒の記者会見のおかげで写真集は爆発的に売れた。
大沼が悔しそうにしているのが目に浮かぶようだった。
僕は、久しぶりに佐島さんに報告がてら電話をかけてみた。
「売れていますよ。遠山さんによると大変な反響で、また増刷することになったそうです。そちらは・・・例の週刊誌の件でその後もご迷惑をおかけしているなんてことはありませんか?・・・そうですか、なによりです。こちらは、かえって菜緒の株が上がっていい方向に進んでいます。逆に、写真集の発売に合わせて我々が仕組んだんじゃないかと勘ぐるものもいまして・・・いえ、大丈夫です。菜緒は心配いりません。」
僕は、この数ヶ月を過ごして来てそろそろ帰国することを考えていた。
心の整理が必要だった。
菜緒が自立し始めた・・・次は僕の番だ。
菜緒と佐島さんの生き様を見て、今自分が何をすべきなのか?あらためて考えてみようと思っていた。
いつか、本当の自分を見つけて・・・本当のジェウォンとなってもう一度菜緒に会えたら・・・
すべてを整理して、本来のジェウォンに戻るべく・・・もう一度最初からやり直すべく、菜緒のマネージャーを辞めることにした。
そして、すべてを清算すべく友人から送られて来た荷を解いた。
47
ジェウォンから手紙が届いた。
彼は、菜緒のマネージャーを辞めて韓国に帰るらしい。
一流大学の工学部を主席で卒業した彼の経歴からすると大企業も放っておいてくれなかったのだろう。
そして封書の中に新聞記事の小さな切り抜きが入っていた。
“日本で著名な広告カメラマン大沼安彦氏が右目を失明”
大沼は、仕事でニュージーランドのクライストチャーチのホテルに滞在していた。記事によるとカメラのファインダーを覗いていてシャッターを切った瞬間に、そのファインダーが破裂したというのだ。
カメラは、ゼンザブロニカD・・・大沼が昔からほしがっていたカメラだ。ハッセルブラッドよりむしろ良い機能が付いている。初期型はニッコール装着で特にそれをほしがっていた。
ネットオークションで手に入れたということらしい。そして出品者は不明・・・警察は事件と事故の両面で捜査している・・・もし事件だとすると・・・誰かがシャッターを押すとファインダーが破裂するという手の込んだ仕掛けを作ったということだ。
特殊な技術・・・特殊な知識・・・
それが誰なのか・・・考えたくもなかった。
右目が失明したということは、もうカメラマンとしての生命も終わりということになる。
魂を抜かれた男と失明した男・・・少なくともオレは、由季への愛を証明するために写真を撮り続けることができる。
オレは・・・幸せなのだ。
由季のおかげで人間らしさを取り戻せているのだから。
48
私に何も言わずにジェウォンがいなくなった。
なぜだか私の心にぽっかりと穴が開いた。
窓辺の花が枯れている
冷蔵庫のトマトジュースがきれている
そして・・・今日も朝寝坊しちゃった
いなくなってわかるジェウォンの細かい気配り
そこへ新しい付き人のミナから電話が入った
「菜緒さん・・・今日は、1時から雑誌の取材が3本入ってます。その後夕方4時からレコーディング・・・なので、10時にサロンドユキのユキ先生を抑えておきました。9時にはお迎えに上がりますね。・・・それとトマトジュース足りてますか? ん?その感じじゃ今起きたばかりですね?・・・明日から必ずモーニングコールするようにします。あ、そうだ・・・窓辺のお花、お水上げてますか?・・・」
きっとジェウォンだ・・・いなくなったけど、今でもそばにいる。
急にいなくなったジェウォンにとまどって・・・そしてすねていたけど・・・会いたい・・・無性に声が聞きたくなって電話した
「お兄ちゃん? 元気?」
「菜緒?どうした?・・・なにかあったのか?」
「何もないよ・・・お兄ちゃんはいつも私の心配ばかり・・・そうか、今まで私が心配ばかりかけていたのか」
「どうした?今日の菜緒はいつもの菜緒らしくないぞ? そうだ、ミナはどうだ? いい子だろ?」
「うん、とてもよく気がつくわ・・・ところで、仕事はうまくいってるの?」
「そうだな、まだまだ新入社員だから・・・でも、得意な分野だからやりがいがある・・・」
「そうね・・・お兄ちゃん、頭いいもんね・・・ね、ときどき電話くれる?」
「あぁ・・・菜緒もつらいことがあったらいつでも電話してこいよ・・・おれは、今でも菜緒のお兄ちゃんだから」
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でも、私から菜緒に電話をかけることはなかった。
私の都合などおかまいなしに毎日のように菜緒の方から電話があったからだ。そして私が自分のことを話す暇もなく、菜緒は一方的に今日あったことを1時間ほど話して眠りについた。
50
「菜緒、今度のクリスマスは休みが取れるわよ・・・ここのところ忙しくってプライベートな時間がなかったからね。」
麻起子さんからのプレゼントだ。
「じゃぁ・・・どこかにぶらりと一人旅・・・なんて。」
「いいよ・・・でも3日しかないからね。そのあとはびっしり仕事よ。」
「わかってる・・・3日もあれば十分。」
そうして私は今ソウルにいる。
久しぶりのジェウォンは自信に満ちて凛としていた。
優しいお兄ちゃんと思っていたジェウオンがこんなにかっこよかったなんて・・・今更ながらに見直した。
「どう、調子は?」
「会社は辞めようと思っているんだ・・・」
「えっ・・・なにかあったの?まだ2年しか経っていないのに・・・」
「大学時代の友達とIT関係の会社を立ち上げようと思ってさ・・・菜緒のお父さんみたいに。」
「すごい!お兄ちゃんならきっと成功するよ!」
「菜緒・・・成功したらお前を迎えにきてもいいか?・・・」
「えっ?迎えにくるって?・・・私を? 」
「成功したらって話さ・・・でも、がんばる・・・その日が来るまでしっかりオレのこと見ていてくれないか」
「それって・・・つまり・・・」
ジェウォンは、私にとってお兄ちゃんだと思っていた・・・もちろん大事なお兄ちゃん
何でも話せて・・・それでいて私のこと一番良くわかってくれている。
そしてこの2年間ずっと離れていたのに、いつもそばにいた・・・心地よい関係が当たり前だと思っていたけど・・・私・・・ジェウオンがいない生活なんか考えられない
ドキドキしていた・・・これってときめき?
ジェウォンは私のマフラーを巻き直しながら言った。
「バカだな、まだ先の話だ・・・今あわてて返事をしなくていいんだ。オレが菜緒にとってのスンホさんにきっとなってみせる・・・」
「うううん、パパになる必要なんてない・・・お兄ちゃんは、お兄ちゃんらしくいて・・・」
私の方こそ、もうそろそろパパ離れしなくちゃいけないのよね・・・
なんだかうれしくて涙がこぼれて来た。
ママもパパからプロポーズを受けたときにこんな気持ちだったに違いない。
アンドレ・ギャニオンの曲は、“めぐり逢い”に始まり、“思い出を重ねて”“とまどい”“ひたむきな愛”“かすかな予感”・・・そして最後は“愛に包まれて”で終わる。
これが私の人生。
「菜緒、クリスマスイブはオレが菜緒にプロポーズをした日だ・・・そのことをずっと覚えていてくれ・・・そして、またいつかクリスマスイブに必ずお前を迎えにくる・・・」
パパとママが死んだクリスマスイブにプロポーズをうけるなんて・・・私にとって悲しい日を愛の日に変えたかったのね・・・なんてやさしいジェウォン・・・
「お兄ちゃん・・・私、待ってる・・・待ってるからね。」
あたりを見回すと、クリスマスソングが鳴り響く街を・・・ケーキをもった人々が家路を急いでいる・・・プレゼントを片手に父親の背中で子供が寝息をたてている・・・寒そうにしている女の子の首に母親が自分のマフラーをはずして巻いてあげている・・・カップルが手を繋いで幸せそうに寄り添っている・・・久しぶりのクリスマスの風景・・・こんなに愛に包まれた日だったのね
私は、ジェウォンの手を取った・・・父のように温かく・・・やさしさに溢れていた。