幻冬舎グループの作品投稿サイト

読むCafe
 

芙美子巴里に行く|林芙美子 「放浪記」を創る(11)

だぶんやぶんこ


約 3887

1930年7月『放浪記』、11月『続放浪記』が出版された。

芙美子27歳、空前の60万部が売れる大ヒットで、作家としての地位を固め、収入も格段に増えた。

ここで冷静に今を思う。

まず、女学校時代の思い出が胸に迫ってくる。

翻訳本に夢中になり文学への道に進みたいと決意した頃だ。

あの時からパリを意識していた。

作家への出発点となったあの本の世界を見たい。

恩師に教えられ促され、岡野からの情報に助けられ、東京に飛び出しての行き当たりばったりの作家修行を始めた。

作家としての本格的勉強をしていないと言う負い目があったが、ようやく、流行作家となった。

 流行作家としての名声は得たが、これからは追われる立場であり、一人で道を切り開かなければならない。

栄枯盛衰の激しい文壇でいつ読者から忘れ去られるかもしれない。

ここまで来たんだ。どうにかなるとの思いも強いが、不安がある。

天才には天才ゆえの、成功者には成功者ゆえの苦労があると、気取って微笑む。

それでも、自分に文学の才能などあるはずがない。

あったとしても明日にはなくなるほどのものでしかない。

将来は絶望だ。もう駄目だ。と叫びたくなるときもある。

今まで、多くの人を踏み台にした、と言う負い目もある。

すべて理由がありやむを得なかったと自己弁護するが。

いつも矛盾の中で矛盾を楽しみながら生きていくのが芙美子。

時には、ぷっつん切れた風船のように揺らり揺れながら飛ぶ。

それでいいのだ。

いろいろ思案し、ヨーロッパ旅行が、作家としてどうしても必要なことと決意。

吉屋信子・与謝野晶子・岡本かの子・宮本百合子ら多くの女流作家らが、ヨ-ロッパに行っている。

遅れたくなかった。

行かなくてはならない。

印税がある。

じっくりとヨーロッパを見て回るには足りない金額だったが。

前年に、台湾総督府の招待で、台湾を講演旅行している。

そこから、足を伸ばして、中国大陸を旅行し、外国旅行の経験は積んでいた。

少しずつ経験を積み、一歩一歩確実に、海外旅行の準備をしてきた。

いよいよ時が来た。

幼い頃から、旅が生活の一部となっている。

芸術の都、巴里には、あこがれの文化があり、見たい絵があり、知りたい暮らしがあった。

「もういい、考えまい。行くだけだ」と決める。

そして「パリにはすべての答えがある。思い切り好きなようにするだけよ」と明るく自信に満ちて開き直る。

無鉄砲な楽天主義だ。

読者としては非常に面白いが周囲の人にとって心配の種であり、迷惑なことだ。

開き直れば強い。

パリの旅行記、目に付くものすべてを買い集め、片っ端から読み始める。

永井荷風の「ふらんす物語」、島崎藤村の「フランスだより」は、面白かった。

そしてパリ旅行をした人を、厚かましく尋ね、根掘り葉掘り聞き、芙美子らしく理解した。

次に、パリ生活を支える、パリ在住の知人、紹介された人のリストを作る。

芙美子の決断は大胆でも、日常は細かなメモ魔で、事細かく気づいたことを書き留める。

読売新聞社から紹介されたパリ支局の松尾氏に世話を頼み、彼と同じ下宿で生活すると決める。

中国語・ロシア語・ドイツ語・英語そしてフランス語のにわか勉強も始める。

それだけでは足りないと、パリで語学学校に学ぶ手配も頼んだ。

資金が一番心配だが、パリから原稿を送ることで収入の確保も何とかできる。

尾道から東京に出た時のように、考える限りの準備をすると、後はどうでもよくなる。

頭の中はパリに飛び、パリの街角で気取ってたたずむ自分の姿が見える。

その姿に、うっとりして、早く行きたいとの思いが胸いっぱい、身体いっぱいとなりたまらなくなる。

こうして、放浪の作家、流行作家として、大きな名を残すための旅が始まる。

1931年11月4日、シベリヤ鉄道に乗って陸路でパリに向けて出発する。

インド洋を経由する海路の旅が、安心だったが、費用がかかりすぎた。

前年の満州までの一人旅の経験を生かし、放浪の人、芙美子らしい旅をしなくてはと納得して、陸路を選んだ。

ソ連そしてヨーロッパも見てくるぞと意気込んだ。

東京を出て、尾道を通過して、下関港から海路で釜山港に渡り、満州に向かう。

もう経験した旅だった。

奉天・長春・ハルビンと進む。

小さな芙美子の身体が隠れるほどの大きな荷物をいくつも抱えた一人旅だった。

それでも、苦しくもみじめでもなかった。

満州事変が起こり騒然とした町中だったが、乗り換えの便を待つ為に乗ったり降りたりを再々繰り返すが、怖くない。

好奇心で目は輝き、興奮しながらすべてを目に刻み込むと見つめる。

その仕草が可愛らしくて見えたようで、少女のように思われ、誰もが手を差し出し、助けてくれた。

芙美子には、微笑みながら手を差し出さざるをえない、オーラがあった。

国境近くの町、ハルビンで、ソ連に入るための最後の準備をする。

パリでは、キッチン付きのホテルに滞在する予定で、そのための日本食や調味料、自炊道具まで買い込んだ。

滞在費用を安くするためと、パリの人たちに日本を紹介するためだ。

そして、日本と同じ感覚でパリに暮らした日々を小説とし、日本の読者に紹介するつもりだ。

東京での引っ越しもこんなに荷物はなかったと笑うほど所帯道具を抱えていた。

中国を離れるときには、二度と帰れない思いがして、胸がいっぱいになる。

ここまで素敵な旅だった。

ここからは未知の旅だが、たとえ帰えれなくても行きたかった。

ここまでの旅で、一人で何でもできる自信がふつふつ沸いていた。

「ありがとう。さようなら」と涙で見えなくなりながら、つぶやき、だれかれなく手を振る。

いよいよ、念願の欧州旅行が始まる。

未知の国への女一人旅だ。

「プロレタリアのプロレタリアのための欧州旅行」が、軍事的衝突が続くハルビンを後にし、始まった。

日本での見送りの最後、夫のあきれたような、心配なような、あきらめた様子が目に浮かぶ。

愛情あふれる夫に恵まれ、やっと作家としての成功を収めた時だった。

支えてくれた夫、(まさ)(はる)と一緒にゆっくり旅をすべきだと思った。

だけど、パリに二人で行くには、手元の印税では到底足りない。

手ごろな旅では物足りない。

悩んだが、一人パリへ渡る旅を決めてしまった。

しかも芙美子は芸が細かい。

パリ行きの話が話題になると、さりげなく「会いたい人がいるからパリに行く」と話した。

そのうち、作家、芙美子のパリ行きは恋人を追ったものだと噂されていく。

芙美子の行動は、いくつもの小説の素材になる要素を詰めた芙美子自身にも整理がつかないような、複雑で矛盾した行動だ。

何があっても、『放浪記』だけで終わる作家にはなりたくない、次に読者が喜び、文壇にも評価される良い作品を創らねばならない、それだけだ。

夫、(まさ)(はる)の困ったような顔が面白い。

でも、何も説明しなかった。

夫、(まさ)(はる)のこの顔も文になると思えたからだ。

嘘も誠も関係ない。

評価される作家になりたいそれだけだ。

そんな出立前のいろんな出来事を思い出しながら、いよいよだと身震いしながら『放浪記』に続く「巴里日記」を付け始める。

芙美子が体験し感じたことを作家、芙美子が文にする架け橋となる日記だ。

シベリア鉄道の旅、有り余るお金での旅行ではないことはわかっている。

すべてを記憶し書き残し、本にする決意だった。

作家、芙美子である前に旅人、芙美子だった。

異国の地を移動する三等列車でのいろんな国の人たちとの出会いが楽しくて仕方がなかった。

芙美子は、天性の話好きであり美しい声で片言の自分でもよくわからない言葉で、周りの人たちに話しかけ魅了した。

車中でも、折々止まる駅でも、ただ珍しく面白く笑顔がこぼれる。

長時間止まる時は、買い込んだ道具を使って、食事まで作り、乗客にふるまった。

ここでも芙美子は人気者だった。

しかも、パリに行く、パリに行けるんだと頭の中は興奮状態で、弾む心を抑えられない。

「巴里日記」は後回しになる。

車窓から革命後のソ連の現状の一端を垣間見る。

ソ連に入って、ソ連を出るまで、じっと見た。

そして田畑で働く人、駅周辺で働く人、乗客を見続け、ソ連での革命がすべての人々に平和と豊かな暮らしをもたらしたのではないと感じる。

南天堂に集まる左翼分子を思い出し、政治だけでは変わらない人々の暮らしがあるのだと、うなづく。

芙美子は、自分の生き様を忘れず、身近な人々の暮らしを書き続けて行くのだ。

ソ連を通過する感動の連続の一週間だった。

ベルリンを通過しパリに着いたのは、11月23日。