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巴里の芙美子|林芙美子 「放浪記」を創る(12)

だぶんやぶんこ


約 7069

ほぼ予定通りに着き、松尾氏・画家、別府氏らの出迎えを受け、パリでの生活が始まる。

松尾氏は、芙美子が生活できるように完璧に用意してくれていた。

すぐに、何物にも束縛されない弾んだ心のままに、芙美子は、24時間が短かすぎると憑かれたように動き出す。

演劇、オペラ、音楽会、美術館に次々訪れ、パリの文化すべてを吸収するとやる気満々で飛びはねた。

かねてからの手はず通り、パリに在する日本人を紹介された。

日本での交友がある人とは、すぐに、仲良しになるが、初めての人とは、名前と顔が一致するのに苦労する。

それでも、日本の友人たちに囲まれる安心感は格別だ。

女学校時代から夢見たパリ旅行だが、作家、芙美子を刺激し、大きくする旅行でもある。

パリに在住する人たちを訪ねては、近況を聞き、日本のことを伝える日が始まる。

そして、画家、外山五郎に出会う。

彼もパリに来ていた。

細やかに宣伝していた彼であり、予定通り、彼との衝撃的な再会をし、ここで恋に落ちるはずだった。

だが、パリでの出会いは平凡で、恋は生まれない。

一つの出会いが始まり終わる、想い出になった。

 外山五郎の祖父、外山寅太(脩造)は、新潟県長岡の出身。

昌平坂学問所に学び幕末の藩政改革に力を奮い、長岡藩の近代化に取り組んだ藩士だ。

戊辰戦争のときは黒田清隆率いる薩摩軍と戦い、明治維新後は福沢諭吉の慶應義塾に入り開成学校(東京帝大)へと進む。

その後、大蔵省銀行課から金融畑を歩みつづけ、晩年には日本銀行大阪支店長に就任した。

脩造の子、外山秋作が、大正初期、下落合に二階建ての西洋館を建てた。

次いで、詩や美術を好み、その道に進んだ長男、外山卯三郎(1903-1980)のために、母屋の南東側にあたる妙正寺川寄りに離れとしてアトリエを建てた。

卯三郎は、京都帝大を出て、美術評論家となり、1929年(昭和四年)、芸術研究会を結成。

活動の拠点とするため、()(おぎ)(杉並区)に新居を建て移る。

そこで、画家の弟、外山五郎22歳が、アトリエを使うことになった。

弟、外山五郎は中学時代からアナーキズムに傾倒していた。

立教大学へ進むが、コカイン中毒にかかる。

それでも、風景画を描き、音楽を楽しみ、気ままで奔放な生活を続けた。

1931年(昭和六年)学生生活を終えると、親しかった洋画家の別府貫一郎などとともにパリへ遊学。

絵画の勉強を本格的に始めていた。

 芙美子とは、学生時代、早稲田大学で開かれていたロシア語講習会に参加し知り合う。

以来、親交があり、芙美子は、パリへ着くと会うのを楽しみにしていた。

ところが話は合わず1931年(昭和六年)12月18日の日記に「不快此上なかつた」と記し、幻滅した。

 

4歳年下の外山五郎と芙美子では人生経験は大きく違う。

芙美子が付き合いを吹聴するのは、外山五郎にとっては苦痛だった。

芙美子に画才でも、生き方でも圧倒されていたからだ。

芙美子には痛くもかゆくもない出会いだったが、外山五郎は、帰国後は、神学の道を目指した。

 芙美子にとって、パリ到着から歓迎し、細やかな気遣いをしてくれた、読売新聞特派員、松尾邦之助・画家、別府寛一郎がとても大切だ。

男と女、ちょっとしたときめきがあった。

松尾邦之助は、新婚の妻ひろと共にパリにいたが、気にすることではない。

芙美子は、恋のときめきを感じる才はとても優れており、それを演出する才も持っていた。

どこでも小説の原型となる恋をしている。

 考古学者の森本(ろく)()(1903-1936)に出会う。

芙美子以上の貧乏暮らしだった。

すぐに、心のふれあいを感じ親しくなる。

キッチン付きのホテルに滞在していたが、客をもてなすには狭く、場所も気に入らなかった。

そこで、芸術家の集まる街、モンパルナスの自炊できるホテルを幾つか変わり、場所広さに納得し移ったホテルに、森本六爾を招く。

料理の好きな芙美子は、食料を買いそろえ日本料理を作りもてなした。

森本だけではなく、知り合った多くの友人を招き、日本料理をふるまうことができるホテルだった。

フランス料理も覚えていく。

パリにいる日本人すべてと友達になるつもりと思われるほど、走り回り、料理を作り、食べ、ふるまい、出会いを大切にした。

着物と下駄で、町を歩きまわり、可愛い日本の女の子だと覚えられ上機嫌だ。

パリの隅々まで、見て回り、そこに暮らす人々と同じ生活体験をしていく。

日本に送る原稿を書いている時以外は、すべてが取材で、気の抜ける時がなく、とても忙しい充実した生活だった。

それでも、森本六爾を食事に招き、一緒に食べるのは楽しかった。

向学心に燃え、研究する森本の影響を受けながら、夢中になって話した。

そして、同じ部屋で、森本は妻へ、芙美子は夫へ優しい手紙を書く。

だが、流行作家の芙美子とは、次第に、話が合わなくなる。

森本六爾は次第に、公私にわたって芙美子を頼るようになり、その姿に幻滅を感じる。

芙美子は、物書きだ。忙しすぎ森本に多くの時間を割くことはできない。

パリ暮らしは、順調で、多くの人に支えられて今の暮らしがあることに感謝し、いい本を書こうと思う。

そして、森本がイギリス経由で帰国することになる。

ほっとしつつ、芙美子も閃くところがあった。

留学先として一番人気のイギリスにも行きたくなったのだ。

イギリスとフランス揃えば、きっと良い原稿が書けると。

そこで、一人でロンドンに行く。

大阪毎日新聞の楠山義太郎が、待っていてくれ面倒を見てくれた。

芙美子なりに準備は万端のイギリスでの暮らしが始まる。

宿も用意され、案内されて見て回る優雅な旅だが、パリのように楽しく出かけたり交流の場を持てなかった。

遅れて、森本がロンドンに寄り日本に帰る。

森本に会い、見送る。それだけだが、ドラマになるとひとり頷く。

芙美子は残り、書かなくてはならないと奮い立ちながら、イギリスを見て回る。

超多忙なイギリス暮らしを続けた。

楠山義太郎の心遣いは、親切でいたれりつくせりだった

原稿を書き続け、ついに力尽き、気力が衰え、パリに戻る。

気が張っていたのが崩れ、食べる気力がわかず、栄養失調に陥り倒れた。

そんな時、ソルボンヌ大学に留学中の2歳年上の文学者、渡辺一夫(1901-1975)が、身体に良い食べ物を持って見舞いに来た。

激励され、日本文学の話で盛り上がり、感激する。

パリには頼りになる人がいる。頑張ろうと思う。

パリ滞在の原稿を書かなければならなかった。

元気を取り戻すと、イギリスでは書けなかった原稿を、一気に書いた。

ここから、シベリア旅行やパリ滞在に関しての原稿を書き始め、日本に送る暮らしとなる。

家族や読者のために、せっせと働く作家、それが芙美子だ。

そんな作家が大好きで、自分に自分が満足する。

芙美子は、小さい時から、働きお金を稼いでいるので、経済観念は非常に発達している。

金銭の出納帳をつけるのは日記と同じように当然のことだ。

使ったお金を詳細に書き残し、常に冷静に判断し、効果的な使い方に心がける。

自分でも納得できる、頑張る芙美子だ。

でもそれだけでは満足できない。

どこにでも買いたいものがあるのだ。

パリには特に欲しい物があった。

良いと思えばすぐに衝動買いが始まる。

すると、お金はなくなり「貧乏だ。貧乏だ。お金がない」との口癖が始まる。

稼がなければならないのだ。帰ればいっぱい小説を書かなければならないし、書きたい。

しっかりしなさいと自分を叱り、ようやく克明に「巴里日記」をつけ始める。

同時に、作家、芙美子に恋はなくてはならないものだ。

読者が期待する恋をしなければならない。

松尾氏・別府氏・外山氏・森本氏・楠山氏・渡辺氏と続く小説の素材になる恋物語も続けなければならない。

松尾氏。

芙美子のために心のこもった準備をしてくれ、パリでの暮らしを助けてくれた

芙美子も親しくした辻潤の後任で『読売新聞パリ文芸特置員』を引き継いでいる。

妻、ひろを連れての巴里赴任だが、芙美子は甘え、面倒を見させた。

もちろん、芙美子だけでなくパリに遊学したものの多くが世話になっている。

芙美子をパリに誘った別府氏・外山氏。

パリで学び研究する面白さを教えてくれた森本氏。

日本の考古学の通説を覆す説を提唱し、考古学の発展に大きく寄与。

自分の研究成果を立証すべくパリに来ていた。

その渡航費用の一切を出したのが、東京女学館教師、ミツギ夫人だった。

大切な人である。

裏切ってはいけないし、裏切るはずがなかった。

とても慎ましく暮らしており、芙美子を全面的に頼った。

楠山氏(1897-1990)。

早稲田大学を卒業後、大阪毎日新聞社に入り、コロンビア大学に留学し、さらにバージニア大学で学び、ロンドン特派員となった。

外国ぐらしが長く洗練されており、憎いほどの心配りで、芙美子は感動した。

芙美子がパリに戻るとすぐに、楠山氏もジュネ-ブで開催中の軍縮会議の取材に向かう。その途中、パリに寄り、芙美子と会った。

取材を終えロンドンに戻る途中にも会っている。

皆故郷を思い、それぞれが目的を持って暮らしている。

それでも、秘め事を持つのを楽しんだ。

日本に戻ると、過去の思い出とするだけだが。

芙美子が異常なのではない。

男性ならば当然とされたことだった。

作家、芙美子の恋は次々続いていく。

白井(しらい)(せい)(いち)(1905-1983)との恋が始まる。

白井は、1905年(明治38年)2月京都に生まれる。

伸銅(しんどう)(銅や銅の合金を圧延や押し出しし、板、管、棒、線などに加工)に携わる銅細工職人、白井七蔵の長男だった。

父は、日本を代表する見事な作品を作り、豪商としても名が知られていた。

だが、明治期、近代化に乗り遅れ低迷し、(せい)(いち)12歳で亡くなった。

母は、賢い(せい)(いち)に勉強させたく、東京にいる(せい)(いち)の姉に預ける。

日本画家、近藤浩一路と結婚した姉は、東京府本郷区湯島同朋町に住んでいた。

ここから、青山学院中学に通い、勉学に励むが、関東大震災が起きた。

姉の家は壊滅し、やむなく、京都の実家に戻る。

父を継ぐしかないと、京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学)に入学、卒業。

この間、京都大学の若き哲学者、戸坂氏に出会い、心酔した。

哲学を学びたくなり、1928年、ハイデルベルグ大学に留学。

次いで、ベルリン大学で学ぶ。

この間、ゴシック建築も学んだ。

そんな時、義兄、近藤がパリで個展を開催することになり手伝いがてら行く。

その時芙美子に出会った。

間を取り持ったのは、1932年、パリ大学、ベルリン大学に学び、後に美術評論家として名を成す今泉篤男(1902-1984)。

二人の間を行き来し、共に親交を深めるのが、大屋久寿雄(1909-1951)。

成城学園を卒業後、フランスに留学、リオン大学文科で学んでいた。

同盟通信社(日中戦争および第2次大戦の頃、東洋における最大の通信社)で重きを占めていく。

芙美子は、すでに二人と親しくし、今泉篤男・大屋久寿雄に案内され、美術館巡りなどをし、近くのカフェで飲んだり食べたりしていた。

 

パリでフランス語の通訳をしたり教えてくれたのが、文部省研究員、渡辺一夫。恩師は、東京大学の辰野隆。

辰野隆の父は、芙美子も名だけは知っている著名な建築家、辰野金吾。

渡辺一夫には、パリについて以来、世話になっている。

親しい友人となり、文学・建築の話をしたり、芙美子が手料理を創り食べ物の話で盛り上がった。

ロンドンからパリに戻り、寝込んだ時、とても親切に快癒を願ってくれ感激した。

今泉篤男と渡辺一夫は旧知の間柄だ。

いろんなことが結びつき、白井(しらい)(せい)(いち)との出会いとなった。

芙美子は、各地を放浪し建築物には興味がありよく見ている。

風景や建物を絵に描いたり、文にするのは得意だ。

興味を持ち、強く惹かれた建築家、白井(しらい)(せい)(いち)との交際の様子を「巴里日記」に書き始める。

芙美子は、現実の自分と小説の登場人物とが重なったり離れたりするのを楽しみ、悩む。

同時に複数の人を好きになる。

複数の物語の原稿を書くように、頭の中で平行して考えられるのだ。

しかし現実の交際の進展と「巴里日記」に書き綴る文とに納得できない矛盾が出てきた。

今までのように、複数の恋ができなくなり、小説の題材として客観的に書くこともできなくなる。

「ああ、だめだ、だめだ。どうしよう。やっぱりだめだ」と「巴里日記」の2ヶ月間を破り捨てる。

芙美子は、作家、芙美子の生活を赤裸々に描くことで、読者の共感を得る作風だった。

だが転換し始める。

自伝小説家から、文芸小説家になっていく。

芙美子は公私の間にいくつもの物語を織り交ぜながら生きていた。

現実の芙美子・作家の芙美子・理想の芙美子・見たくない芙美子といくつもの芙美子が、混沌と混ざり合うなかで生きていた。

白井との恋愛中にも芙美子は夫に愛情あふれる手紙を送る。

だが、限界が来た。

芙美子は、これ以上は考えられないほどの耐乏生活に浸る時もあれば、思う存分使い好き放題に暮らす時もある。

白井との恋にすべてをかけ、お金は使い果たす。

頭の中がパリ生活を吸収しつくし、あふれる思いとなった。

早く夫に、家族に言いたくて、じっくり書きたくて、日本に帰りたくなる。

金銭的に行き詰まっての帰国でもあり、帰りの旅費は借りるしかなかったが。

残された白井(しらい)(せい)(いち)は、傷心の中で、モスクワに一年間滞在。

この間、ソ連邦のイデオロギ-に深く共鳴し、帰化申請するも認められず、1933年(昭和八年)ウラジオスク経由で帰国することになる。

流行作家、芙美子の帰国だ。

けちけち旅行で、陸路のパリ入りだった。

だが、パリで知り合った人のほとんどは海路の旅だった。

負けるわけにはいかないと、帰りは海路の旅を選んだ。

マルセイユより横浜まで日本郵船の榛名丸での三等の船旅でしかないが。

船賃は、約350円。

甲板などにはプールもあり、乗組員や料理なども一流。

乗船客も富裕層がほとんどだ。

三等の船旅は、肩身が狭かった。

芙美子と同じ年齢だと、大卒の高給取りの会社員が月給50円の時代だ。

その視点からすると、豪勢な船旅だった。

普通の女人の1年分の収入を船旅に投じるのだ。

芙美子は、もったいないと思う。陸路で充分だ。

船室は、四人部屋だった。

同室になったのは、男性で大学の先生・音楽家・弁護士だ。

作家、芙美子は、中途半端で高級な船旅には小説の素材になる刺激を感じず興味がなかった。

作家、芙美子の頭の中に、読者の共感を呼ぶ小説が満ちていて、帰国後の収入に自信が持てたから、船旅にしたのだ。

これでも、流行作家としての精一杯の見栄を張っての船旅だった。

贅を尽くした船内、次々パーティーや催しが続くが、社交の場に出ることはなかった。

友達作りも恋も求めず、自分の客室で寝てばかりいた。

芙美子の小説の主人公は、いつも庶民であり、庶民の生き方しか考えられない。

人生経験が豊富であり、克明に記録し覚えている芙美子は、いくつものの生きる術を心得ている。

料理・歌・絵・朗読なんでも出来て人を惹きつける。

どこに本当に自分がいるのかわからなくなるほどに、演じることができた。

それでも、唯一の揺るぎない生き方は、自分は庶民であり、庶民の代弁者だということだ。

「巴里日記」は、昭和7年1月1日から4月24日までは毎日書いているが4月18日のみ空白。

毎日書いていた4月25日から6月30日までは、破り取った。