下落合の洋館に住む|林芙美子 「放浪記」を創る(13)
だぶんやぶんこ
約 3209
1932年6月、日本に戻った。
船の中で「会いたい、会いたい」とつぶやき思い焦がれていた人、夫、緑敏が迎えに来ていた。
ひたすらまっすぐに、胸に飛び込む。
そして、何日も何日も、パリ生活を語り続けた。
この頃、緑敏は芙美子のことを「先生、先生」と呼び、移り気な芙美子の秘書役に徹していた。
芙美子を尊敬しつつも包容力を持って、芙美子を温かく見守った。
だれもが、芙美子にはもったいない夫だと噂するほどだ。
何を言われてもニコニコと芙美子のそばに、一歩引いて立っていた。
心中の葛藤を見せることはなかった。
芙美子に自分が必要なことを芙美子以上に感じており、作家として芙美子が書き続けるためには、自分が必要不可欠との責任感で動いた。
芙美子は、上落合850番地の借家に1930年5月から1932年8月まで、一年と三ヶ月、暮らす。
松下文子と尾崎翠が以前住んでいた家で、二年ほど空き家だったが、尾崎翠の紹介で移り住んでいた。
戻ると早々、芙美子は緑敏に「この家は、嫌だ。二人の家には似合わない」と大声を出した。
「パリと同じような暮らしをあなたと共にするの」と家探しを始めた。
真剣で必死だった。
緑敏はいつものように「わかった。わかった。でも焦ることはない。ゆっくり探そうよ」と応える。
その言葉に突き動かされるように、芙美子は探すんだと何度も口にする。
そして、緑敏が、探すのだ。
大正末期から昭和初期、目白文化村(第一文化村から第五文化村)が造成され販売された。
周辺地域に強烈なインパクトを与え、旧下落合4丁目(中落合4丁目・中井2丁目)の地主たちは、競って文化村を模倣した住宅を建て、分譲あるいは賃貸した。
そこここに西洋館、あるいは和洋折衷の家が建ち並び、芙美子はその景観を「ムウドンの丘」と呼びとても好きだった。
第二文化村の近く妙正寺川(落合川と呼んだ)の北側に住みたかった。
吉屋信子が、第二文化村にほど近い南斜面に家を建てて住んでいたこともある。
信子と張り合って建てたかったが、とてもお金がなく、借家探しとなった。
掛け声は大きくても、芙美子はあまりに忙しく、緑敏に任せきりだ。
緑敏は、下落合界隈で「落合川」の写生することが多かった。
武蔵野台地の斜面から湧いた泉水が、川へと流れ込む「水はけ地」が縮められていつのまにか「ハケ」「バケ」「バッケ」と呼ばれる。
この貯水池の堰から放流される滝のある風景を画家は好んで描き、春、夏、秋と季節毎にこの堰を中心にして、画架を立て絵を描いている画家が大勢いた。
緑敏もその中の一人で、この「バッケ」を描いた。
絵を描きながら芙美子の願う家探しもしなければならない。
共に絵を書く画家たちや周辺の人たちに、家探ししていることを告げ、いい家があったら紹介してくれと頼む。
すると、五ノ坂下の最先端の和洋折衷住宅が空き家で、地主の老人に「借りてくれ」と声をかけられた。
家賃は50円と高額だった。
「あんまり気に入らないのだが」と言いながら緑敏は芙美子を案内した。
芙美子は感嘆の声を上げ、即決。
緑敏には分不相応に思えたが、芙美子には満足できる家だった。
1932年(昭和七年)の秋、五ノ坂下の下落合の洋館に引っ越した。
元の家から、わずか150mほど東へ寄っただけだが。
以後、1940年(昭和一四年)、四ノ坂の中腹に島津家所有地の土地を買って家を建てるまで、九年間、住み続ける。
芙美子は、その洋館を「お化け屋敷」と名付け気に入った。
手前を西武電気鉄道が通り、その向こう側に「落合川(妙正寺川)」が流れている。
“ムウドンの丘”と呼んだ段丘、五ノ坂の斜面に「ようやく住むことができた。万歳」と叫びたい気分だ。
南側に向いたアトリエのバルコニーから外を眺めると、下落合から上落合のバッケが原が、きれいに広く大きく見渡せた。
そして、北側の目白崖線(バッケ)に、ひな壇状に建ち並んだシャレた洋風の家々も見渡せた。
次はあそこに住むと、自信に満ちた顔で、ニッコリ笑う。
洋館1階は、広い応接室に食堂、隠居部屋、バス・トイレ。
2階の奧には、書斎として造られた畳敷きの部屋があり、この屋根裏10畳大の部屋を改造して書斎にした。
その隣りが3畳の化粧室、続いて緑敏の洋間書斎。
そして広いアトリエ。
アトリエの一部を寝室とし、片隅にベッドをふたつ並んで置いた。
このアトリエから、2階のバルコニーへ出入りし、窓際に鳥籠を置いて、2羽のヤマバトを飼った。
パリで、合理的なホテル暮らしを体験し、日本でも同じ暮らしをすべきだと考え選んだ家だ。
便所・風呂・台所が機能的で使いやすく便利に出来ていること。
ゆっくり休む部屋があり、仕事場である書斎があり、趣味であり夫の仕事場であるアトリエがあること。
美しいデザインであること。などの条件を満たした家だった。
パリの面影もあり、成功した作家の住まいとして何とか及第点だと、得意満面で引っ越した。
ここで、養父と母を呼び寄せる。
念願だった。
隠居部屋を決めていたが、居心地は良くなかったようだ。
しばらくすると、近くに引っ越してしまう。
それでも養父母の面倒を側近くで見る暮らしが始まった。
これで良いと嬉しい。
次に、少女を雇う。
一家の世話のためだが、小紋の和服地で仕立てた洋服を着せ、記者へお茶を運ぶこともあった。
パリの暮らしを日本で、芙美子らしく、実現したのだ。
その暮らしを満喫した。
ヨーロッパ旅行は、芙美子にとって満足のできる楽しい旅行だった。
その延長線上に日本での洋風生活が始まった。
芙美子は、働いてお金を得るのが好きだ。
そのお金を自分流に自由に使うのはもっと好きだ。
収支を顧みず、欲しい物は何でも手に入れる生活だった。
お金が無くなると反省するが、また同じことをした。
ここで、家族や、留守を守ってくれた夫への感謝の心を表すことにお金を使う喜びを見つけた。
芙美子は書きまくり、流行作家としての収入を得、安定した生活を実現する。
仕事は山のように頼まれる。
芙美子が元気でさえあれば、経済的に恵まれ、成功した流行作家となるはずだ。
ただ小説の糧となる、興味があるもの何でも手に入れなければならない暮らしは守りたい。
そのためには、膨大なお金が必要だ。
時には、こんなに贅沢していいのかなと思うほど使う。
すると、急に将来不安になったりもする。
芙美子は気まぐれだ。
だが、素晴らしい伴侶が控えていた。
夫、緑敏は、芙美子のマネージャーに徹する。
じっと見つめると、芙美子の扱いが段々分かってくる。
芙美子の浪費を逆なでしないように気を配りつつ、その時その時夢中になっているものには出し惜しみせず使わせ、それ以外はやんわり興味をそらせば、お金は残っていくことを。
こうして、芙美子に知らせないように少しづつお金を残していく。
芙美子は、気に入った人、大切な人には何かしてあげたくてたまらなくなる、お節介な性格だ。
書けば、好きな人に手をさしのべることが出来るのだと思うと、上機嫌で何でも仕事を引き受ける。
書くのは好きで、いくらでも書けた。