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芙美子の家への思い|林芙美子 「放浪記」を創る(15)

だぶんやぶんこ


約 4873

郊外開発が進められ目白文化村として売り出され、高級住宅地となったのが落合地域。

東京都新宿区中落合1丁目と2丁目の一部、3丁目と4丁目の大半、中井2丁目、西落合1丁目一部だ。

1914年、堤康次郎が、東京府落合村下落合の大地主、宇田川家から2667坪を購入。以後、毎年の様に早稲田大学や近衛家・相馬家所有の地所など周辺の土地を入手。

康次郎自身も下落合に住まい、経営する箱根土地の事業拠点も移し、本格的に開発、分譲する。

社運をかけて、意欲的に取り組んだ。

1922年6月に目白不動園が<第一文化村>として分譲を開始。

売り主は、箱根土地。

翌1923年、早大の所有地等を開発し<第二文化村>として分譲を開始。

落合は、関東大震災被害が軽微だったため、転入希望者が相次ぎ、好評だった。

1924年に <第三文化村>として開発分譲。

1925年には<第四文化村>として旧近衛邸跡地(のちの目白近衛町、現在の新宿区下落合の一部)とともに開発分譲。

1929年に<第五文化村>として開発分譲。

箱根土地だけには任せられないと、下落合周辺の土地を購入、島津家と連携しながら開発分譲したのが東京土地住宅。

芸術家たちが集う街を企図した。

その分譲地を買ったのが、洋画家、満谷国四郎や洋画家、金山平三ら。

金山平三が、スペインのマドリッド郊外にある芸術村アヴィラの名から「アビラ村」と名付けた。

東京土地住宅が、その名を取り分譲地「アビラ村」として売り出す。

1922年頃から分譲開始した東京土地住宅だったが、運が悪かった。

土地買収のために莫大な借り入れを銀行からしており、これからどんどん売って返済していくはずだった。

ところが、関東大震災が起き、金融不安となり、貸し渋りが始まった。

銀行の思うほどには分譲が進まず、1925年(大正14)には、返済が滞り、巨額の負債を抱えて経営破綻、箱根土地が引き継ぐことになる。

目白文化村は次第に人気が高まり、成功した文人、画家や作家・俳優などが住む地として、ステ-タスになっていく。

芙美子も目白文化村に家を建てたかった。

ついに念願叶い、1940年、「アビラ村」の一翼を担っていた島津氏所有の土地を購入した。

その土地購入は、緑敏の画家仲間であり、芙美子もよく知る、金山平三や洋画家、刑部人(おさかべじん)が橋渡しをしてくれた。

刑部人の妻、鈴子が、島津家の生まれだったことが大きい。

島津製作所の所有地だったことで、実家と交渉し、芙美子が有利に購入できるよう取り計らってくれた。

こうして、夫、緑敏が、コツコツと貯めた資金で、芙美子の念願だった300坪の土地を得た。

金山平三の妻が、らく(1888-1977)。

京都の商家に生まれた抜群の才媛で、京都府高等女学校(京都府立鴨沂高等学校)を卒業後、1911年(明治44年)に東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)に学び、卒業。

続いて、東京女子高等師範学校研究科に進学し、1913年、修了すると、東京女子高等師範学校の教師となった。

この年、国内にある7つの帝国大学(東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)の内、始めて東北帝国大学が、女子の入学を認めた。

らくは、黒田チカ、牧田らくと共に入学し、女性初の帝大生となる。

数学(幾何学)を専攻して卒業後、女子高等師範(お茶の水女子大)で教える。

 そして、1917年、金山平三と見合い結婚した。

1920年(大正9年)、東京女子高等師範学校教授となるが、教職は合わない、独自に研究を続けたいと退職。

 ここまで働いて貯めた資金で、「アビラ村」の土地を買ったのだ。

 芙美子は、教授となりながら退職した、らくの生き方を理解できるようで、理解できなかった。

それでも、学ぶ女性の先鞭となり、女子の大学入学や研究者としての道を広げた優秀な研究者である有名人だった。

文化教養に溢れた人たちと近所付き合いすることは、芙美子の自尊心を高める。

芙美子の故郷への思いを満たす土地だった。

鹿児島の林家から分家して本籍地を下落合に移していた。

そしてついに、旅に明け暮れた放浪者の故郷を、東京の下落合としたのだ。

心の故郷である夫との愛を育んでおり、その思いを形にする家でもあった。

あくまで芙美子の一方的な思いで、夫、緑敏から見るとどうだったのかはわからない。

でも二人の愛の巣とすることに決めていた。

夫、緑敏は、故郷を探す芙美子の意に沿って、動き、土地を見つけてくれた。

そして芙美子の思いを尊重し、芙美子が納得すると、いつものように、良いねとは言ってくれ、決めたのだ。

それで十分だった。

夫、緑敏とは、籍も入れていないし、ただの同居人に過ぎないが、この地を二人の故郷にすると一人で決め、含み笑いだ。

思えば、緑敏と人生を語り合ったり、生き方を話し合うことはなかった。

緑敏は、芙美子の心の声・言葉を受け止め、暖かく見つめ、意に沿って動くだけだった。

それで十分、芙美子は、理解されていると満足した。

芙美子は、緑敏を何もわかっていないのではないかと思うこともあった。

ところが、最近、二人で絵を描くと、緑敏とは同じ価値観を持ち、共に生きる伴侶だと自信が持てるようになった。

「緑さんが何を思い何を考えようといいじゃない。今、目の前で芙美子を見つめているそれだけでいい」と素直に思えた。

「死を迎えるまで、共に生きる伴侶との家を建てるのだ」と一人で決め、大声で叫び、盛り上がった。

緑敏には何も言わず、芙美子の幸せオ-ラが全開した。

実父と暮らした北九州の若松での暮らしは、部屋も十分あり快適だった。

7歳の時、母に連れられて家出して以来、しばらく木賃宿の生活だった。

このときは惨めだった。

下関で古着屋を初めて、なんとか家らしい生活ができたが、倒産し、預けられたのが鹿児島。

家はよかったが、居候の暮らしは、窮屈で反発し逃げた。

以来、尾道に落ち着くまで木賃宿の生活だった。

このときも惨めだった。

木賃宿は、親子三人が一間を借りるだけで、風呂も便所も台所も共同だった。

2年ほどだったし、楽しい思いでもあるが、住まいとしては最悪だった。

尾道に落ち着くと、商家の二階に間借りした。

二間の部屋があり、少し荷物や勉強道具も置けるようになる。

それでも、友の家を知ると、情けなく辛かった。

そして東京で作家になると決めて、19歳で岡野軍一との同居生活を始めた。

だが、岡野軍一は故郷に戻ってしまい、一人残されて下宿屋に住んだ。

個室ではあるが水回り関係は共同だった。

それでも、自由な独り暮らしだった。

住まいは不便で満足できなかったが自分で借りて家賃を支払う生活は、気兼ねがなく心落ちついた。

自立したいい気分だった。

 それからは、相手の家に転がり込む同棲の暮らしが続いた。

1927年、24歳で緑敏と結婚し、二人で見つけた借家に住まう。

長屋の一軒だけど、台所も、風呂も、便所も付いた家に住んだ。

次の転居が下落合だった。

二人で手を取り合って、にっこり笑えた暮らしが始まった。

そして、下落合の一軒家に住んだ。念願だった。

ここで、家を建てると決意した。

漠然とした夢から手の届く夢と変わる手ごたえを感じたのだ。

こうして得た土地だ。

故郷を持たなかった芙美子の新しい故郷づくりが始まる。

長年思い続けたこだわりを実現するのだ。

こんどこそ、母にゆっくりと暮らせる部屋を提供するのだ。

成功した姿を母に見せ、母の終の棲家とするのだ。

母と養父、沢井に対して、良い娘だったのかを考える時がある。

二人は、ずっと行商を続け、芙美子とは別居していたが、いつかは呼び寄せて、一緒に暮らし、落ち着いた楽な暮らしをさせたかった。

1932年、五ノ坂下の下落合の洋館に移り住んで、ようやく、呼び寄せることが出来た。

年老いた母を思い同居したかったが、なかなか出来ず、ようやく念願叶った。

だが、しばらく共に暮らしたが、遠慮がちになり、落ち着けないと、近くに引っ越した。

作家、芙美子の両親としての暮らしは、息が詰まったようだった。

別居しても、生活の面倒は見続けた。

女学校を出てから、借金取りに追われることもある、母と沢井を援助し続けた。

母からせがまれての援助だ。

作家として名が売れだすと、援助の額も大きくなった。

芙美子と17歳しか年の違わない沢井は、長く成功した商売はないのに、商売をしたがり資金援助を求めたからだ。

いつも使い果たしてしまうが。

沢井は、整った顔で人気者だった。

機嫌が良いときは男ぶりもよく、母ととても仲がよく、くっついていた。

しかし商売がうまくいかないと、母に当たり暴力もふるう、また予想外のお金が入ると帰って来なくなる。

それでも母には、19歳も年下の愛する人だった。

父、宮田に母が「出て行く」とわめき散らした時、沢井は一緒に生きると母に宣言し、共に逃げた。

それからは、手に手を取って二人で行商した。

その姿は芙美子もうらやましく思うほど仲が良かった。

芙美子が登校拒否し、下関に落ち着いた頃が母と沢井の一番幸せなときだった。

だが、商売はうまく行かず、倒産して芙美子を鹿児島に追いやった。

以来、二人だけのその日暮らしも、きっと楽しかったはずだ。

その幸せを芙美子が破り、狭い木賃宿の一間で親子三人身を寄せ合っての暮らしとなり、母を悩ませた。

母は芙美子に、母の生き方と同じになってはいけないと厳しく言い、勉強を続けさせた。

女学校に合格した時、一番喜んだのは母だった。

7歳から女学校を出るまで面倒を見てくれたのは、母と沢井だった。

芙美子も母の願いに応え、普通の女の子の生き方をしたいと思った時もあった。

女学校出の才媛であり家事が得意で家庭的な娘、芙美子として、岡野軍一と結婚をしようとしたのだ。

だが、岡野家が納得しなかった。

岡野軍一が芙美子を持て余したのでもある。

母の夢は果たせないと分かると、かえってさばさばしたいい気分だった。

職を転々としながら、結局、カフェーで高給を稼ぐようになり、母や沢井の援助をしてきた。

そんな母と養父、沢井だが、母が大好きな人であり、芙美子を育ててくれた養父であり、二人を我が家に呼び寄せた。

ようやく二人の面倒を目の前で見ることができ、ほっとした。

ところが、間もなく別居、そして、沢井は亡くなった。

東京に呼び寄せて9ヶ月後だった。

それでも、母が愛した沢井の最後の面倒を見ることが出来、責任を果たした満足感があった。

沢井は、芙美子にありがとうということはなかったが、母に看取られ静かに亡くなった。

納得していたのだと思う。

母は芙美子に感謝した。

芙美子には、緑敏と言う伴侶がいる。

流行作家としての地位を確立し、ついに土地を買い、家を建てることになった。

 緑敏との愛の結晶であり、独り身となった母に相応しい家を建てたい。