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緑敏(1902-1989)の決めたこと|林芙美子 「放浪記」を創る(16)

だぶんやぶんこ


約 5321

緑敏は、画家を目指していた。

だが、芙美子に出会い、見切りをつける。

以後、描くことは減り、描いていた絵も処分してしまい、わずかしか残らない。

画風としては、後期印象派的な画風だった。

印象派は、19世紀にフランスで起きた芸術運動で、描く対象の輪郭や固有の色より、周囲の光や空気の変化を捉え描くのを特徴としている。

セザンヌ・ゴッホ・ゴーギャン・モネ等の巨匠が生まれた。

緑敏が好んで描いた下落合の風景画はセザンヌのタッチに似ている。

バッケの絵は油絵の具をたっぷりと塗り込んで、重厚感を出してモネのタッチに似ている。

信州の郷里の山の絵にも、影響が表れている。

 芙美子が、緑敏と共に絵を描きたいとせがみ、1932年4月、緑敏は芙美子の「林芙美子像」を描いた。

芙美子も嬉々として「自画像」を描いた。

一緒に同じ対象を描く。

芙美子は、幸せを満面に表し、最高の笑顔で描いた。

緑敏は、丹前を着て机に向かい一心に書いている芙美子が一瞬、顔をあげた表情を描いた。

荒いタッチだが、執筆の真剣さが、芙美子の緊張感あふれる顔立ちから伝わる。

 芙美子は、幸せオ-ラ全開で、自由奔放な筆使いと色彩に溢れた自画像を描く。顔もポーズもデフォルメされ、芙美子の鋭い感性が炸裂する。

緑敏の真面目な優しさと芙美子の際立った個性が表現され、生き方さえも描き出す絵だ。

緑敏は、絵が好きで才能もあった。

まじめに勉強し、絵を描き続ければ認められ、画家として生きていけると信じていた。

だが、芙美子に出会ってしまった。

芙美子は文でも、絵でも、はるかに自分を追い越す才能を持っていた。

その能力に目を見張りながら、芙美子に頼られ甘えられて、共存できるのではと思いつつ、同居生活を送った。

現実は、芙美子に食べさせてもらう同居人でしかなかったが。

出会いからすべて芙美子が主導権を握っていた。

すぐに、芙美子から願われ結婚したが、その目は夫の愛が続くのか、夫婦愛とは何か、不安の中で思い悩んでいた。

芙美子は、人を信じやすく、信じたがっていた。

しかし裏切られることも多く、人間不信に陥り、寂しげな目をしていた。

現実は、愛される人が芙美子であり、芙美子の高い理想についていけず離れていくことがほとんどだったが。

緑敏は、寂しげな目の奥に、燃え上がる炎が見え隠れしている芙美子に魅入ってしまった。

単純にも守ってあげたいと思い、大きく手を広げ、受け入れた。

この頃、緑敏は、一人前の画家になるのは難しいし、両親にこれ以上の仕送りを頼めないと思っていた。

そんな時、芙美子がカフェーで稼ぎ、仕送りに頼らなくても生活は安定するとの話だった。

悪いことではないと、結婚を承知した。

二人で居れば楽しかったし、おいしい料理を作り、大きな素晴らしい美声で歌う可愛いお嫁さんだった。

結婚後、知った芙美子は、すさまじく怒る時もあり、近寄りがたい迫力でいつ果てるともなく文を書き続ける時もあり、どうしたらいいのかわからなくなるほどの、今まで見たことがなかった七変化を簡単に演じる不可思議な人だった。

 そんな時は、どうすべきかわからず、ドキドキだった。

それでも、その繰り返しが分かっていくと、いつまたどこかに飛んでいくかもしれないけど、その時までは仲の良い夫婦でいようと思えるようになる。

依頼、芙美子に干渉することなく合わせ、ずっと画家を目指し描き続けた。

芙美子の存在は、緑敏の感性に刺激を与え、絵を描くのがおもしろくなっていた。

緑敏は、芙美子の存在により、新しい画法に目覚めることが出来たのだ。

ところが、結婚後、しばらくすると、芙美子に原稿依頼が来るようになった。

驚きながらも、芙美子は普通の人ではないと知っていたので、作家として独り立ちできるのは良いことだと喜んだ。

緑敏の絵は、時には画展で入選するが、売れるまでにはなりそうもなかった。

次第に、芙美子の望むように側にいて、芙美子の信頼に応えるのもいいじゃないかと思い始める。

ところが、パリ行きを芙美子が独断で決めた。

その時は我慢ならなかった。

洋行には無限大にお金が掛かるという時勢で、芙美子の母親の面倒も見ており、芙美子の安全とその間の生活も心配で、もう少し後にすべきだ。

しかも恋人を追ってのパリ行きと噂になっており、芙美子のわがままに疲れはてた。こういう噂を立てることは芙美子の得意とするところであり、気にすることではなかったが。

それでも、芙美子は、パリ行きにかける夢を、目を輝かせながら語り続ける。

すると、その想いを実現させてやりたくなってしまう。

それからは、あるゆる伝手を頼り、パリでの芙美子の世話を頼み、芙美子が思い通りにパリで暮らせるよう手はずを整える。

パリに旅立った後の芙美子の後片付けは骨の折れる仕事だった。

几帳面な緑敏は、芙美子の原稿を丹念に読み、驚き感動しながら、片付ける。

合わせて芙美子の仕事内容、これからの原稿収入、頼まれている原稿の予定など芙美子のマネジメントもきれいに整理していく。

家族の暮らしはどうにかなるほどのお金はあった。

芙美子の残したメモ、日記、原稿を読み進むにつれ、作家、芙美子と、共に暮らしている芙美子との違いがはっきりしてきた。

芙美子は、対外的には、作家、芙美子として生きているのだと、よくよくわかる。

緑敏にだけ、いつも、そのままの芙美子だった。

口先では何を言っていても、緑敏を頼りにしていることがよくわかった。

その後、パリから送られてくる原稿やその他の雑事を編集者と話し合いながら、作家、芙美子への期待の大きさ、本の売れ行きを初めて具体的に知る。

芙美子が留守となり後を任され、作家、芙美子の偉大さを感じた。

芙美子は、母や緑敏のために、必死で書き責任を果たそうとしているのがありありだった。

自分のためでもあるが、それより誰かのために生きるのが好きなのだ。

そんな芙美子が愛おしくてならない。

作家、芙美子には一切干渉せず、何も思うまいと決めた。

作家、芙美子のすることは、恋であっても、浪費であっても、許そうと思う。

パリから帰ってきた、小さい身体を大きく見せるように肩肘張っている可愛い姿を見て、理解できない作家、林芙美子だが、理解できないまま支えることが緑敏の天職だと感じた。

芙美子の心の支えとなり、雑事を取り仕切り、芙美子がすべてを任せられる存在であることが、生きる道となる。

芙美子の留守中、一人になって時間が空いた分、絵を描くことに没頭した。

翌年、没頭した成果が出て「春陽会」に入選を果たした。

だが、いまいち個性を表現できず、絵は売れなかった。

ここで、ひと区切りと納得した。

画家を断念し趣味とし、芙美子の秘書に徹する。

画家として努力し、それなりの作品は描けたが、芙美子の迫力のある表現力にはかなわない、芙美子が作家として大成するのを助け、趣味で絵を描けばいいと決めたのだ。

芙美子の作家としての血の出る努力を知り、自身の画家としての甘さを感じ、芙美子を支えたかった。

浮き草のように揺れながらどこへ行くか分らない芙美子だが、必ず帰ってくるし、帰るところは緑敏しかない。

喜んだり悲しんだりしながら帰ってくる芙美子を見守れば、また必ず強い気力を蘇らせ飛び出させることが出来た。

そのつど、作家、林芙美子は成長していく。

長い二人の結婚生活で、緑敏も不満を爆発させるときがあったが、芙美子は軽く聞き流した。

緑敏は、苦笑いし、芙美子に何も意見を言わず、好きにさせて、距離を置いて見守るだけとする。

このほど良い距離感が、芙美子をたまらなく幸せにするのが分かったからだ。

芙美子はどんどん流行作家としての地位を築き、文筆活動も多忙を極めていく。

秘書や書生がいないために緑敏自身がその役をする。

芙美子は欲張りで出来ると思うと、次々、緑敏に想いを打ち明け頼りにし、過大な注文を出していく。

編集者との打ち合わせ、原稿料の交渉、取材旅行の交通機関、食事から旅館の選定までの一切、出会う人々の人選、原稿の整理、資料集め等々、緑敏に任される役目は増える一方で、忙しすぎるほどだ。

信州の田舎で、のんびり育った優等生の緑敏には、我が道をゆっくり進むのが性に合っていたし、そんな生き方をしたかった。

時には、芙美子のわがままに付き合い、芙美子の思いを満たすことができるかどうか、不安になる。

また、芙美子に振り回される人生、自分の一生これでいいのかと思い悩む。

じっくり、自分の画才を見つめ直し、芙美子の才能をじっくり評価する。

芙美子は努力と根性と野心の塊だ。

芸術家には必要な能力だと認めざるを得ない。

そして、芙美子が書く文は、普遍的な意味を持ち、後世に残すべき作品だと確信する。

画家、手塚(まさ)(はる)は、あまりに普通だ。

個性の強さがなければ、注目されないし、売れない。

逡巡し再び、手塚(まさ)(はる)は林芙美子を支え生きていくべきだとの結論に戻る。

それが、手塚(まさ)(はる)らしい個性的な有意義な生き方だと。

あまりに難しい林芙美子といつまで共に暮らせるかわからないが、今現在、林芙美子は手塚(まさ)(はる)を必要としている。

それだけ十分だ、と納得する。

 

こうして、芙美子のマネージャー兼秘書役に徹し、雑事万端を引き受ける。

芙美子のことを「先生、先生」と呼び、移り気な芙美子の心を鷹揚に穏やかに、にこにこと支える役目に徹する。

執筆中も時間が許す限り共に居り、一緒に調べたりする。

外出の際、何を着ればよいかを決めるのも、着付けを手伝うのも自然にこなす。 

芙美子は、(まさ)(はる)に頼りきりだ。

そして思う存分、執筆に没頭する。

 (まさ)(はる)は、芙美子の才能を開花させることに貢献していると自負する。

だが、芙美子の生き方をゆっくりとした軌道に修正させることはできなかった。

本来の寿命を先取りするように、強く激しく生きて1951年、48歳の短命で終わった。

それから38年、芙美子と暮らした年月よりはるかに長く生きて1989年、87歳で亡くなる。

亡くなった芙美子の代わりのように愛し、一番手をかけたのが、芙美子の好きな薔薇を育てることだ。

と言っても、芙美子が好んで口にした言葉、

「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の花は芙美子自身を指しており、特別大好きな花はなかった。

多種多様な建築を調べ上げ、すっきりと風が通る庭にしたい、日本の家には竹が似合うとか、家族団らんの花言葉を持つピンクあじさいを好んだ程度だった。

そこで、自宅を建てる時、下段の純和風の民家には日本式庭園を造る。

芙美子の庭とし、竹と草木・山野草。

上段は、(まさ)(はる)の庭とし四季折々の花を植えた。

特に大好きな薔薇にこだわり洋風庭園とした。

庭の手入れは、(まさ)(はる)の仕事であり、すべて任された。

(まさ)(はる)は、薔薇を大切に育て、芙美子に自慢し、芙美子も嬉々として眺め、薔薇好きになっていく。

芙美子が亡くなると、裏山を購入し、薔薇の栽培に打ち込んだ。

薔薇はとても素晴らしく咲き乱れ、隣に住んでいた洋画家、刑部人(おさかべじん)(1906-1978)をはじめ、梅原龍三郎(1888-1986)や中川一政(1893-1991)など、数多くの画家たちが「描きたい」と集うようになる。

このころ、描かれた薔薇の絵の多くが、緑敏の育てた薔薇だと言われた。

梅原龍三郎は「緑敏氏の薔薇でなくては描く気がしない」とまで言った。

画家として名を残さなかった緑敏だが、薔薇の花を育て、梅原龍三郎や中川一政の薔薇の名作を生み出した。

芙美子の死後、その業績・生き様を残すために、力を尽くし、まとめ上げた。

そして、絵画と共に生きるために銀座みゆき通りで「中林画廊」を経営し、梅原龍三郎ら近しい人の絵を展示する。

画家を目指す若い人たちに低価で発表の場を提供することで、芙美子の願いだった後進の育成に努めた。