幻冬舎グループの作品投稿サイト

読むCafe
 

芙美子の棲家を建てる|林芙美子 「放浪記」を創る(17)

だぶんやぶんこ


約 6057

芙美子は、土地が手に入るとすぐに、自宅の設計に取り掛かる。

放浪の流行作家、芙美子の生き方の集大成だと、意気込んで、わくわくする仕事が始まる。

芙美子の棲家は、どこに行こうとも必ず帰りたくなる、求め続けた故郷でなければならない。

心の故郷でもある夫との愛を形とするための家でもある。

緑敏もにっこりと、いつものように「思い通りに設計すれば」と言う。

芙美子が必死になる時は、干渉しない。

ただそっと見守るだけだ。

その気遣いが嬉しい。

作家となる決意をした尾道。

良き妻とは言えない作家、芙美子を支え続けてくれる夫、緑敏の故郷、長野。

それぞれ芙美子の故郷だが、この落合は二人で決めた故郷だ。

芙美子は、人生の大きな節目に直面すると、興奮で目を輝かし、猛勉強を開始する。

家のないことが、故郷を持たないことに繋がり、いつも僻んでいた。

そして自虐的に放浪の人、芙美子となった。

幼少時からの旅の暮らしで、出会って感動した家のイメージを幾つも持っていた。

まず、尾道の女学校での裕福な級友の家を忘れてはいない。

新しい本をたくさん貸してくれ夢を語った級友の家もよかった。

芙美子と違うおおらかでのんびりした級友が多く、級友が育つに似合いののんびりとした家だった。

だが、それだけでは飽き足らない。

芙美子のイメージにあった家を見つけるために本を買う。

思い通りの家は見つからない。

それでも興味を持てた、参考にできそうな、学ぶべき本だけでもと、片っ端から購入し200冊を越えた。

我が家のイメージ作りに夢中になって、なかなか決まらない。

いくつもの家を転々として住んだ経験から、設計は自分ですると息巻いたけれど限界を感じていく。

芙美子は文を書かなければならない、時間も足りなすぎる。

家の設計は、建築家に任せることにした。

家をみれば人が分かる。人は家を造り家は人を創ると信じた。

芙美子自身を切り売りする自伝作家から客観的に時代を読み取り表現する作家への道を創ってくれたパリの建物。

パリで見て暮らした家もしっかり覚えている。

その巴里の家を忘れられなくて日本に帰って洋風の家に住んだ。

機能的で合理的なホテル暮らしを体験し、日本でも同じ暮らしをしたいと決めて帰り、下落合に住んだのだ。

そこで、

便所・風呂・台所が機能的で使いやすく便利に出来ていること。

ゆっくり休む部屋があり、仕事場である書斎があり、趣味であり夫の仕事場でもあるアトリエがあること。

母の部屋、使用人・書生も置ける住まいであること。

住む人が第一、客間は二の次。

これが、芙美子の求めた故郷となる家だ。

巴里で恋した苦い思い出から浮かぶ家も素敵で取り入れたいところもあった。

芙美子にとって無駄な恋はない、何かを与え、何かを求めて恋してそして大きく成長する。

建築家との親しい付き合いもあった。

パリの恋人白井晟一(せいいち)(1905-1983)は、京都高等工芸学校造形学科を出た後、哲学を学ぶために留学したが、建築も習った。

そのため、彼の設計は建築物の目的に沿い機能的であるより、哲学的に芸術的だった。

物語性に満ちた形態と光に対する独特の感性があった。

造形感覚での建築設計で独創的形状は強烈な存在感があり、見る者を圧倒した。

画家でもあり書家でもあった。

絵の好きな芙美子と価値観が似ており芸術家同士として、惹かれ合った。

芙美子は天をも貫くような燃えあがる感受性を持っている。

その感性に感動し共鳴した白井は、芙美子にパリの建築を説明し共に見て回った。

建築で感じる鋭い感性もよく似ていた。

白井と見て歩くパリは、二人だけの世界だった。

将来が定まらない白井の暮らしは緊張感の連続だったようで、パリで出会った2歳年上の芙美子に故郷を感じ、芙美子は白井の心のオアシスとなった。

芙美子も白井の情熱を受け止め、あらん限りの愛を与え、共有した。

だが、彼は孤高の世界をめざし、芙美子は孤高の感性を持っていたが、普通に生きる人の目を表現する人だった。

芙美子は、白井と美とは何か、自己表現とは何か、建築とは何かを、議論し、意見を言い合う。

パリでの白井との一言一句、聞き漏らさないと覚えている。

その姿は、白井に強烈に印象づけられた、目眩るめくひとときだった。

白井は、芙美子の圧倒的な作家としての存在感に、文章での自己表現・哲学への探求心を一時中断してしまった程だ。

芙美子に遅れて1933年、日本に戻った。

そして、建築設計を始める。

建築家として図面での詳細な自己表現に懲り、哲学的な建築の才能を開花させ、独自の表現で名を残していく。

白井の設計した建築物は少ないが、建築の為に書かれた図面は並外れて多く、設計を学ぶための教科書となるほどだった。

膨大な図面についていけず、白井流の設計を断念する者もいたほどだ。

完璧主義で細部にこだわり自分だけの建築の世界を創っていく。

象徴的な形態と光に対する独特の感性が、設計に現れる。

その上で合理性を満たす設計でもある。

依頼者の思いを汲み上げながら、自分の設計思想を崩さない独特の設計だ。近代主義(モダニズム)建築は、「空間」を建築創造の主題としていた。

それには迎合せず、それ以前の部屋単位の組み立てや、陰影や素材にこだわり、奥行き感、造形、人間の胎内感覚といった要素を重視した。

1940年、芙美子は自宅の設計を始めると、めくるめく恋をした白井に設計を頼もうかと考えた。

そこで白井の設計建築物を残らず真剣に検討した。

近くにあれば見に行った。

白井は1935年から、設計を始めており、まだ作品は少なかった。

価値観が同じだとパリで感じた心を震撼させる思い。

だが、日本での設計建築物には感動せず、少し違うと思う。

芙美子は、パリで幾人かの建築家と出会っている。

異国で知り合う数少ない日本人とは、気が合えばすぐに親しくなる。

芙美子は文筆関係者ではなく、利害関係のない芸術文化に関心を持つ日本人に会うことを望んだ。

そして、多くの知人を得た。

聞きかじった知識を芙美子流に理解し、説得力を持った話しにするのは得意だ。

芙美子のずば抜けた感受性は相手を見抜き、心酔させる魔力があった。

その一人が、フランス文学者、渡辺一夫。

彼は建築家ではないが、彼の師、辰野隆の父は、東京駅を設計した辰野金吾(1854-1919)だ。

渡辺一夫は、辰野隆と師弟でありながら、兄弟のようでもあり、辰野家のことをよく知っていた。

建築に興味がある芙美子は、辰野金吾の設計について、度々聞いた。

辰野金吾の設計手法、設計した建物や、性格、こだわりの頑丈さなどを、面白おかしく話してくれた。

また、坂倉準三(1901-1969)も友人だ。

東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業後、パリ工業大学で学んでいた。

坂倉とも意気投合し、日本の話で盛り上がり、政治のこと、建築界の動きデザインについてもよく話した。

戦後の復興に大きく貢献する建築家であり、モダニズム建築の秀作を次々と世に生み出した。

モダニズムは、伝統的な枠組みにとらわれない前衛的な表現をする芸術運動。

建築では、合理的・機能的で装飾のない近代建築運動となる。

芙美子の好きな、時代の先端を行く新しい流れの建築だ。

見た目は単純で軽快な感じだが、詳細にこだわり、最新の素材技術を応用した。

土木・建築のデザインも、芙美子は気に入った。

坂倉準三の友人に、山口(ぶん)(ぞう)(1902-1978)がいた。

山口文象は、東京高等工業学校(東工大附属高)を出て、1930年から1932年までベルリン大学、バウハウスでモダニズム建築を学んだ。

ドイツ在住の日本人左翼グループに入り、反戦活動もしていた。

その活動は、ナチスの認めるところではなく、追われ、ヨーロッパ各地を逃げ廻り、居り場をなくし、日本に戻るしかなくなった。

その途中で、坂倉準三を頼り、パリに寄った。

その時、芙美子は、一歳年上の山口(ぶん)(ぞう)と出会った。

一目で芙美子と似た境遇、価値観であることが分かったが、あわただしく日本に帰ってしまった。

ほんの一瞬の出会いだった。

芙美子が自宅の設計を考えたとき頭に浮かんだのが白井だったが、あまりに設計した建築物が少なく、判断が難しかった。

また見た限りでは、放浪の作家、芙美子の描く家のイメ-ジとは違和感があった。

パリでの一時は何だったのか、笑えてくるほどだった。

そこで、坂倉準三に頼もうとした。

坂倉は、パリ万博日本館の建設に忙しく、代わりに山口を推した。

こうして、山口文象と再び出会い、建築に対する思いを語り合った。

山口(ぶん)(ぞう)は1932年、日本に帰り着くことが出来た。

画家、安井曽太郎が紹介する能勢氏令嬢と婚約しており、帰国後すぐに結婚する予定だった。

ところが、左翼であり、追放されたと知ると、婚約解消を言われてしまう。

年齢も30歳であり、若いとは言えず、がっくり来た。

同情した画家、小磯良平ら友人たちが、設計事務所を開くよう手はずを整えてくれた。

友人の画家、中原実が、実家、日本歯科医科専門学校付属医院の設計を頼んだ。

以後、次々設計を頼まれる。

設計事務所として足元を固め、周囲に勧められ、1934年、画家、前田青頓の娘と結婚した。

すぐに、前田青頓の自宅を設計。

岳父の紹介で、着実に設計依頼者を増やし建築家としての名声を高めていく。

1936年、大田区久が原に小林邸の設計をすると自らも移り住む。

そして、前田青頓の娘と離婚し、1939年小林家の知人、千坂喜美子と再婚し、同地に自邸を建てた。

芙美子は、山口(ぶん)(ぞう)の設計した建物、(ぶん)(ぞう)の自邸の設計に取り組んでいる姿を見て、感じるところがあった。

「これで行く。これでいい」と手をたたいた。

山口(ぶん)(ぞう)に設計を任すと決めたのだ。

こうして、一流の女流作家、林芙美子の家の設計が始まる。

芙美子は金も出すが、口も出す、山口(ぶん)(ぞう)が閉口する施主だった。

山口(ぶん)(ぞう)を連れて、多くの家・素材を見に行った。

芙美子も山口(ぶん)(ぞう)も労働者の視点で、新しい独自の世界を創る新進の芸術家だった。

しかし、戦争への流れの中で、思想を抑え、目の前の仕事を黙々とこなさざるを得ない状況だった。

芙美子は(ぶん)(ぞう)へ、美しい家を望む。

(ぶん)(ぞう)も芙美子の思いに応える。

庭から見た主家の斜め外観、切妻屋根の下に廻る下屋の寄棟がきれいで、居心地良く感じられ入りたくなる風情がある。

さりげなく気品がある佇まいは心憎いほど美しい。

望み通りの家となる。

愛らしい家であることも望む。

小さな茶の間には、引き出し、釣戸棚、押入、神棚、床の間、掘ごたつなどが、こまごまと工夫され収まっている。

取り囲む一間幅の広縁は開放的で孟宗竹を中心とした自然の中にどっぷりつかってしまう。

とても愛おしい空間となっている。

その他、芙美子は事細かに自分の思いを伝えた。

山口(ぶん)(ぞう)は、得意のモダニズムを取り入れながら、和風民家風の素朴さ、おおらかさ、京和風の細やかさを表現する設計をしていく。

芙美子の強烈な個性を包み込む和の家が出来る。

祖父・父と優秀な宮大工の家に育った山口は、芙美子と同じ日本の風土を愛する同じ思想の持ち主でもあった。

横柄な芙美子をもてあましながらも、次第に芙美子を理解した。

二人で設計した、苦心の傑作の芙美子邸を山口(ぶん)(ぞう)は公にはしなかった。

芙美子の思いを実現する設計協力者でしかないと考えたからだ。

また、戦時下の重苦しい状況の中、二人は息をひそめて生きていくしかない状況でもあった。

こんな情況に中で、芙美子の我が家への思いは表に出されることなく静かに実現した。

芙美子の家の設計は、山口(ぶん)(ぞう)に設計者とは何か、設計者にとって建築思想とはどうあるべきか、労働者の住環境をよりよいものにするために果たす役割など、多くのことを考えさせた。

芙美子は、山口(ぶん)(ぞう)に戦後をにらんで、新しい時代を創造するために英気を蓄える、刺激を与えたのだ。

1941年 新居完成、引っ越す。

芙美子のこだわりが生かされ、芙美子の生き方そのものの、自由で、住む人を大切にした住まいだ。

書斎。

原稿を書くためにつくった部屋だが、納戸としてつくった小さい部屋が書きやすいと気に入り、書斎がわりに使うようになるが。

注意深く考え設計しても、直ぐに自分流に住みこなしてしまう芙美子。

庇が深くなっているぶん、納戸が落ち着くとご満悦の書斎となる。

アトリエ。

緑敏がひとりで絵を描いてもいいし、またいつでも二人で絵を描けるよう設計された天井の高い大きなアトリエが、芙美子と夫、緑敏の強い絆を物語る。

芙美子が夫のために、二人の愛の為に作ったアトリエだ。

二人とも忙しく、あまり活用されなかったが。

300坪の敷地に建てられた来客中心の豪邸ではない、家人のための和風の家が芙美子の家だ。

こだわりの庭は、芙美子の好む草花樹木で覆われ、芙美子の世界を表した。

上り坂の道に沿って建つ、階段を登っての玄関は、千光寺山でみた尾道の豪商たちの別荘にも共通する風景だ。

何が何でも成功すると言う決意で東京に出てきて、芙美子なりに成功を収めた証だった。

芙美子の人生の大きな区切りとなった。 まだまだ不安があるが、成功した、やったんだと自分をほめた。