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芙美子のお友達|林芙美子 「放浪記」を創る(19)

だぶんやぶんこ


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芙美子には時々に思い出に残る大切な友人がいる。

個性が強すぎ野心ありありの芙美子に、強烈に反発する人もいたが。

それでも、人当たりがよく、面倒見がよく、博識で、面白く楽しい芙美子は、誰からも好かれる。

作家仲間は、常にライバルだが、変わらず仲の良い友達も多い。

鹿児島で出会った、異母姉、福江姉妹の母。

ほとんど話すこともなかったが、惹かれ合う、血の繋がりを感じた。

それゆえ、福江姉妹を我が子のように思え、支えたいと考える。

直方(福岡県直方市)でわずかの期間だが出会った下宿屋の娘やその友人。

筑豊炭田は好景気で活気にあふれていた。

乙女心を刺激する本や映画の世界を見開かしてくれ、文学への道を覗かせてくれた大切な友だ。

尾道の学友や師は、芙美子に生きる指針を与えてくれた大切な人だった。

女学校の友は、作家となる可能性を感じさせてくれた。そして、文を書くことで人助けできることを教えてくれた。自立への思い、決意を級友たちにより、培うことが出来た。

以後も、ずっと親しい付き合いを続ける。

 父、宮田麻太郎や経営する店で出会った人たちも、友であり、親戚だ。

後々までも、親しく付き合った。

以後もたくさんのめぐり逢いがあり、それぞれが芙美子の血肉となり、飛躍への拠り所となる。

友と巡り合う幸せを強く感じたのは、1939年、終の棲家とする土地の購入を決めた頃だった。

理化学器械の製造会社を創業した島津製作所は、ここ下落合に約一万坪の土地を持っていた。

京都で創業し成功し、東京での会社用地とするため購入したのだ。

嫡流の次男になる島津源吉が、この地の一部に建物を建てて住んでいた。

源吉の長男が、洋画家を目指した島津一郎(1921-2007)。

洋画家、金山平三(かなやまへいぞう)(1883-1964)は、洋画の大家で島津家と親しい友人、満谷国四郎(みつたにくにしろう)(1874-1936)を担ぎ出し、この地を、アビラ村(芸術村)とすべく奔走した。

金山平三(かなやまへいぞう)夫人のらく(旧姓:牧田)は、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)を経て、1913年(大正二年)、東北帝国大学に入り、女性初の帝国大学卒業生となり数学研究を続けた、有名人だ。

らくも賛成し、島津源吉も乗り気で、計画は進んだ。

だが、1925年、肝心の開発会社、東京土地建物が倒産し、アビラ村(芸術村)計画は、とん挫した。

その後、島津一郎の姉で画家、刑部人(おさかべじん)(1906-1978)と結婚した鈴子が家を建て、その隣に刑部人(おさかべじん)の妹とその夫の灰谷氏の家が建った。

この頃、緑敏と親交の深い刑部人(おさかべじん)が緑敏に「土地を買わないか。良いところだよ。近所付き合いしよう」と言い出した。

緑敏も「土地を探している。ぜひ買いたい」と応えた。

ここで、鈴子が実家、島津家に「土地を探している人(芙美子と緑敏)がいる。売って欲しい」と頼んだ。

娘の頼みだ。

島津源吉は、喜んで了承し、下落合4丁目の土地を芙美子に譲ることになった。鈴子の橋渡しに感謝し、芙美子は土地を買うと決めたのだった。

こうして、新築し入居した芙美子は、刑部人(おさかべじん)の妹とその子、炭谷太郎や・刑部鈴子とその子、若子ととても親しい近所づきあいを始める。

戦後、芙美子は、泰と同じ年の若子を招き、再々、共に昼食を食べる。

パンを焼いてバターを厚めに塗りその上に浅草海苔を載せるトーストと紅茶のメニューだった。

戦後すぐであり、めったに手に入らない貴重なバターをふんだんに使ったことで、子たちに大人気だった。

ちょっとした贅沢は、生活の質にこだわる芙美子には必要なことだ。

欲しいものは何でも手に入れる芙美子らしさ全開で、バターを手に入れた。人脈の広さ・深さを物語る。

泰より2歳年下の炭谷太郎を招いて遊ぶこともよくあった。

二人の仲良しぶりがとても嬉しくて「二人共、可愛いね」と芙美子が「ちゃんちゃんこ」を創り炭谷太郎に着せた。

「よく似合っている」とご満悦だ。

 芙美子の近所づきあいは、絶妙で、とても親しい友達となる。

芙美子も年齢を重ねると、ライバル視することの多かった作家や、画家を目指す若い人に思いやりを見せた。

高知県高岡郡窪川町(町村合併後)出身の抽象画家、今西(いまにし)中通(ちゅうつう)(1908-1947)との付き合いもその一つだ。

尾崎翠が住んでいた上落合に引っ越した芙美子と緑敏を、すぐ近くに住む画学生、今西(いまにし)中通(ちゅうつう)が訪ねて来て以来の付き合いだ。

緑敏とは以前から共に絵を描く仲だった。

この頃、緑敏は、毎日のように、落合の風景を描いていた。

今西(いまにし)中通(ちゅうつう)の実家は、松葉川村長や県会議員を勤め、高知商業銀行の設立に尽力した資産家だった。

育ちがにじむ温和で、心の映し出すままに描く、感性豊かな画を得意とした。

芙美子はとても気に入った。

親しく付き合っていたが、実家が昭和恐慌の波をもろに受け、倒産。

資産の大部分を失い、仕送りは途絶えた。

窮乏生活に陥った今西(いまにし)中通(ちゅうつう)を、芙美子は支援していく。

そして1940年(昭和一五年)結婚し、落合を離れて、遠ざかってしまった。

ホッとした反面、将来が心配だった。

やはりその後、肺結核を発症、画は売れず1950年(昭和二五年)窮乏の中で亡くなる。頼ってくれれば道があったかもと思い、とても悔しかった。

才ある今西(いまにし)中通(ちゅうつう)の死を緑敏と共に悼んだ。

高知県長岡郡吉野寺家(本山町)出身の大原富枝(1912-2000)も大好きな友だ。

父亀次郎は、吉野第一尋常小学校校長だった。

恵まれた家に育ったが、2歳のころ、肺炎を患い、以来、病弱な身体となった。

母を亡くすも、向学の志高く高知女子師範学校に進んだが、1930年(昭和一八年)教室で喀血し中退、以後、10年近い結核療養生活となる。

その間、文を書き続け、投稿していく。

ついに、1935年(昭和一〇年)「氷雨」で文壇にデビューできた。

以後、富枝は積極的に小説を投稿応募し「姉のプレゼント」で賞を得た。

続いて「祝出征」が掲載されるようになる。

 この頃、芙美子に、創作物を送り、指導を願う。

芙美子は激励の返事を書いた。

芙美子に認められたと大きな喜びと励みになり、富江は、作家として生きると決意し1941年(昭和一六年)東京に出てきた。

以来、作家としての地歩を固めていく。

どうにか目途が立った1946年(昭和二一年)、芙美子の家を訪ね、芙美子の言葉で力を得て、書き続けており、芙美子を目標としていると現状を話す。

喜んだ芙美子は「単行本を出すよう推すから、原稿を送ってくるように」と話した。単行本を出せるのは、作家として認められた証であり、とても感激し送る。

受け取った芙美子は、しいたげられた中で生きた女たちの執念・生き様を見事に描いていると、太鼓判を押し、自信を持って推し、単行本となる。

富江は、芙美子の心配りに感激する。

芙美子が高く評価した友に、太宰治(1909-1948)がいた。

太宰治の代表作の一つ『ヴィヨンの妻』は、芙美子との交流から生まれており、芙美子が装丁・挿絵を担っている。

それほど、芙美子は太宰治と親しかった。

太宰治の妻は、津島美知子(1912-1997)。

太宰治はペンネ-ムで、本姓は津島。

美知子の父、石原初太郎(1870-1931)は、山梨県巨摩郡大下条村(甲斐市)出身で、東京帝大で地質学を学び、農商務省に勤める。

その後、教育界に入り、島根県立第一中学校(松江北高校)・島根県立第二中学校(浜田高校)の校長となる。

そして広島高等師範学校に勤務、退職後、山梨県下の地質の調査研究を行う、有名な学者だった。

だが、美知子が東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)在学中に父が亡くなり、続いて東京帝国大学医学部在学中の兄(-1933)も亡くなる。

ここで、一家に余裕がなくなってしまう。

弟はまだ東京帝国大学に在学中だった。

美知子は、家族の為、山梨県立都留高等女学校教師となる。

優秀であり、寄宿舎の監督も兼任。

一家を支える収入を得つつ、興味ある文学への造詣を深め本をよく読む。

26歳となり、婚期の遅れを感じ始めた頃、見合い話が持ち込まれた。

紹介者は井伏鱒二であり、相手は新進作家、太宰治。

井伏鱒二は、広島出身で、母が法華宗の信者だったことから、総本山になる山梨県身延山久遠寺近くの下部(しもべ)温泉郷によく逗留した。

釣り好きであり、この地で釣りを楽しんだ。

ここで、同じく法華宗を信仰する石原初太郎と知り合う。

高名な故郷、広島の教師であり、釣りに活用すべき地質を話す初太郎と、意気投合し、親しい関係となる。

初太郎の死後は、石原家の後見者となっていく。

太宰治の実家は、青森県北津軽郡金木村の殿様と言われるほどの家だった。

県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などをつとめた地元の名士だ。

太宰治を引き立て、文学者としたのが、井伏鱒二。

ここで、美知子は、運命を感じ、教師を辞め、1938年、結婚。

以後、太宰治を世に出すため、井伏鱒二と共に踏ん張り、作家、太宰治は有名になる。

自分の力を生かしたと嬉しく、成し遂げた喜びがあった。

強い誇りを持ち、その後、幾多の女人と関係を持つ太宰治を黙って見守るが、太宰治は亡くなった。

そこで、作品その他財産すべて引き継ぐ。

芙美子は、太宰治との仲が良くなかった強過ぎる妻、津島美知子を受け入れられなかった。

 太宰治の愛人の一人が、太田静子。

太田静子は、滋賀県愛知郡で開業する代々の医者の家に生まれる。

女学校卒業後、実践女学校家政科(東京)に入るも、前衛的な詩歌文にのめり込み、国文科に転科して学棒とする。

だが、実家に反対され中退した。

それでも、東京に残り詩を書き続ける。

好きな絵も習い始め、自由に恋する人となる。

ところが、父が亡くなり、家のため、結婚せざるを得なくなり、兄の同僚に強く望まれ結婚。

芸術に生きたい思いは消せないままの結婚だったが、夫の理解はなかった。

平凡な結婚生活に耐えられず、離婚。

文筆業で生きていきたいと『斜陽』の素材となる日記を書き、太宰治を心酔する弟、通に推され、太宰治に送る。

感想を願い、作家になりたい思いを伝える。

日記を気に入った太宰治は、すぐに会いたいとの思いを伝え付き合いが始まる。

こうして、行き来しているうちに愛人関係になり、二人の間に1947年11月12日、治子が生まれる。

「一番愛しい子ゆえ、自分の一字を取り治子と命名する」と公言し認知した。

 それでも、太宰治は、離婚してまで太田静子と結婚する気はなかった。

太田静子は、結婚を迫る。

太田治子(1947-)を可愛がったが、愛人との子でしかなかった。

太田静子は、納得できず、太宰治を追い込んでいく。

太宰治は、衰弱した身体、思うほどの収入のない不安、4人の子たちへの責任の重さ等々に疲れ果て、別の女性と自殺した。

過去にも自殺未遂はあり太宰治の真意はわからないが、治子誕生の7か月後、1948年6月13日亡くなった。

太宰治の死後、身辺整理をしていく津島美知子は、残された治子を子と認めず、太宰治への相続放棄を求めた。

静子は拒否するが、美知子は、井伏鱒二に取次ぎを頼む。

静子は、井伏鱒二の申し出を断れず、わずかの一時金で相続放棄する。

太宰治とも井伏鱒二とも親しい芙美子は、作家、太田静子を、評価せず、積極的に推すことはなかった。

ただ、治子のために、津島美知子や太宰家と交渉し、『斜陽』の印税、養育料は請求すべきだと強く勧めた。

作家として生きたい太田静子は「ここで、折れれば、井伏鱒二は自分を推してくれるはずだ。作家として認められれば自力で育てられる」と信じた。

こうして、相続放棄する。

ところが、自ら発刊した『斜陽日記』は売れず、捏造にしか過ぎないとまで言われる。

太田静子は、あがいたが、作家の道はなかった。

子を抱えての苦しい暮らしとなる。

芙美子は「私が大切に育てる。治子を養女に欲しい」と頼んだ。

静子は、唯一の宝、治子を手放すことは出来ないと断り、自力育て、芙美子の願いは叶わなかった。

芙美子は、養女にしたくても出来なかった太田治子の面倒を見て、可愛がる。

『夫婦善哉』が大ヒットした小説家、織田作之助(1913-1947)は、芙美子を頼りにし、芙美子も頼られると断れず、面倒を見た。

その妻、輪島照子(1922-2004)の面倒も見ることになる。

大阪市南区生玉前町(天王寺区上汐)で生まれた大坂人、織田作之助は、太宰治と共に無頼派(ぶらいは)(第二次世界大戦後、近代の既成文学を批判し、反俗・反権威・反道徳的言動で時代を闊歩した作家)の中心にいた。

芙美子も共感するところがあり大坂での講演取材で顔を合わした時、声をかけた。

作之助は、感激した。

その後、作之助は、名も作品も売れ、東京に出る。

雑誌の企画で、対談の掲載が決まると、芙美子との対談を是非にと望んだ。

芙美子も快く受けた。

すると、妻、照子を連れて芙美子の家を訪ねるようになる。

芙美子は、芙美子流の最大のもてなしをした。

自ら手料理を振る舞い、酒を飲み語り明かしたのだ。

以来、良き友となり、芙美子を訪ねる。

すぐに、作之助は、大量吐血した。

芙美子は薬の手配などに奔走、親身になって世話する。

だが、その一か月後、1947年1月10日、織田作之助は亡くなった。

やむなく、照子が東京で密葬を行なう。

その時、照子を支えたのは芙美子だった。

輪島照子は、放蕩無頼の作之助の晩年4年間を共に暮らし、死を看取った事実上の妻だ。

作之助の初婚の妻は、一枝だった。

愛妻家だったが、一枝ががんで闘病中、華やかな美貌の舞台女優、照子に一目ぼれし愛し合い、一枝の死後、同棲した。

ところが、同棲中、宝塚の裕福な医者の娘で、天才歌手、名プリマの名を欲しいままにした笹田和子に、またしても一目ぼれし、入り婿になってしまった。

裏切られた照子は、言葉にならないほどの衝撃だった。

ようやく笹田和子と結婚したが、結婚は2ヵ月と持たず、追い出されてしまう。行き場をなくした作之助は輪島照子の元に戻ってくる。

流行作家として名が売れ収入が増えた。

お金が入ると、作之助は放蕩生活を続け、輪島照子の元に戻らない。

照子は、戻らなくなった作之助を待ち続けた。

病魔に侵されても作之助は、放蕩生活を続けたが、結核が悪化すると世話する人がいなくなってしまった。

照子のもとに戻り、照子だけが看病した。

こうして共に東京に行ったが、作之助は死んでしまった。

東京で葬儀後、大坂で本葬をすることを親族が決める。

照子は呼ばれなかった。

その上、わずかな一時金で、相続放棄を迫られ、了解した。

芙美子は、請求すべきだと強く言った。

だが、作之助の親族は、籍は入ってないし、遺書も残していない事実を突きつけ、一時的な同棲に過ぎない財産を狙っても与えないと、強く主張。

その迫力に負けて了解したのだ。

そのお金を使い果たし、行く場をなくした輪島照子が芙美子を訪ね来た。

芙美子は「居てもいいよ」と暖かく迎え入れ、1年余り共に住む。

その間、太宰治らと共に、身の振り方を考えた。

 照子の美貌はどこに居ても輝いていた。

芙美子が大阪弁で「めし」を執筆中、大阪弁の師匠とした石浜恒夫が、再々、芙美子の家に遊びに来ていた。

石浜恒夫を紹介したのは、作之助であり、照子とは面識がなかったが、芙美子の家で、顔を合わせた。

そして、二人は恋に落ちた。

こうして、照子は石浜恒夫と同棲し、新しい暮らしを始めた。

長続きはしなかったが、愛されることに自信を持った照子は、文士仲間に支援され「美貌の織田作の女」として銀座に文士バー『アリババ』を開く。

盛況だった。

芙美子も温かく見守った。

芙美子は6歳年下の太宰治・10歳年下の織田作之助を弟のように可愛がった。

来る者は拒まず、才ある者は延ばしたいと大きな心を持っていた。

そして、残された妻や子の面倒を見る。

大げさに「面倒なんて見れない」と嫌がるそぶりを見せつつ、太宰治・織田作之助に頼られると、その思いに応える。

太田静子・輪島照子に対しても、印税が少しでも、回るよう尽力した。

その時は短く、芙美子もすぐに二人の後を追ったが。

芙美子が、我が家のすぐ上になる四ノ坂沿いに住んでいた白系ロシア人の血をひく、大泉(おおいずみ)黒石(こくせき)(1893-1957)一家の面倒を見た時があった。

大泉(おおいずみ)黒石(こくせき)の父は、農家の出身だが非常に優秀でペテルブルク大学で学び、ロシア皇太子時代のニコライ2世の侍従として来日。

1891年(明治二四年)5月11日の大津事件(皇太子が切り付けられた)以後も在日。

そして、ロシア文学を学んでいた本山恵子15歳と出会い、愛し合い、1893年(明治二六年)10月21日、黒石(こくせき)が生まれた。

だが、母、恵子は出産後1週間、16歳で亡くなった。

その後、父はソ連に帰国を命じられた。

やむなく、母方の祖母の実家、長崎の大泉家で育つ。 

父は黒石(こくせき)を我が手で育てたく、引き取りたいと願い、清国(中国)にある外国人居留地、漢口(湖北省武漢市)のロシア領事となる。

ここで、すぐに黒石(こくせき)を呼んだ。

漢口には、日本人居留地も造られていた。

黒石(こくせき)は、小学校3年になっていたが、中国で父と共に暮らす。

ところが、まもなく父は亡くなり、日露戦争が起き、父方叔母のもとに引き取られ、モスクワ・パリで学ぶ。

育ちからか、自由奔放でアナキスト的思想を持ち活動した。

そのため、退学させられ、戦後、日本に戻らされた。

ロシアで学びたい思いが強く鎮西学院中学(長崎)を卒業後、ロシアに戻りペトログラ-ド大学で学ぶ。

非常に優秀だったが、ロシア革命の混乱の中で、日系人の黒石はすべきことが見つからず帰国。

旧制第三高等学校(京都大学)に入り1917年、第一高等学校(東京大学)で学ぶ。

そして、同郷、長崎出身の福原美代と結婚。

以後、小説家を目指し、幾多の職業を経て小説家として大成した。

だが、ロシア人の血を受け継ぐ大泉(おおいずみ)黒石(こくせき)一家は迫害を受けていく。

気にする大泉(おおいずみ)黒石(こくせき)ではなかったが、小説は売れず、執筆依頼はなく、窮乏生活を強いられた。

そんな時、大泉(おおいずみ)黒石(こくせき)一家への心無い仕打ちに怒った芙美子は、一家を食事に招いたりして支えた。

泰と同年代の娘、(えん)を特に気に入り、あれこれ面倒をみて可愛がった。

養女にしたいと思ったほどだ。

 芙美子は、人の心を掴む天才的才があり、人情に細やかで面倒見がよすぎるほどだった。

慕う人が多くおり、ぶつぶつ文句を言いながら、面倒を見た。

弱者の味方であり続けた。