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芙美子、放浪の終り|林芙美子 「放浪記」を創る(8)

だぶんやぶんこ


約 1824

この間、近所に住む平林たい子と、とても親しくなっていた。

1926年1月、二人、揃って結婚を解消した。

たい子が、一足早く別れ、本郷区追分町の大国屋酒店の二階に移っていた。

芙美子は、文子を頼れず、たい子の家に転がり込み傷ついた二人の同居が始まる。

芙美子は同人詩誌『二人』を発行し売り込み「文芸戦線」「日本詩人」「文章倶楽部」に掲載されている。

たい子も同じように、売込中で、注目されていた。

芙美子もたい子も、そこそこ名が知られていたが、お互い、原稿料収入は少ない。

そこで「二人力を合わせて売り込み有名になり高額の原稿料を稼ごう」と苦しみを乗り越えバラ色の未来を手に入れると手を握り合う。

同時に、食べるために新宿のカフェーで一緒に働く。

そして、暇さえあれば、二人一緒に詩や童話を書き出版社に売り込みに行く。

芙美子は「文芸戦線」「日本詩人」「文章倶楽部」「文芸市場」「文芸公論」への掲載を続けている。

ライバルであり大切な友達、平林たい子。

たい子の一生は芙美子の比ではないほど波乱万丈だ。

諏訪郡中洲村(長野県)に生まれ、女学校卒業後、上京し電話交換手として働き左翼活動家と同棲。

関東大震災で検挙され東京から追放。

やむなく満州にわたるが、夫は逮捕、極貧の中で娘を出産。

娘は、栄養失調で間もなく亡くなる。

その時の壮絶な経験から「治療室にて」を書く。

以後も拘留されたり病魔に苦しんだりしながらプロレタリア作家として有名になり、ついには姉御肌の日本を代表する女流作家としての地位を築く。

男性遍歴も華麗だった。

アナキスト活動家、山本虎三・「のらくろ」作者の漫画家、田河(たがわ)水泡(すいほう)・美術家、岡田竜男・アナキスト活動家の作家、飯田徳太郎・社会運動家の作家、小堀甚二などなど。

 この頃は、作家としての売り込みもカフェの稼ぎも芙美子が上だった。

9月、平林たい子は、芙美子との共同生活に疲れ、左翼活動家の小堀甚二と結婚する。

天才的頭脳の持ち主であり時代を切り開きながら一直線に進む情熱の人、たい子だった。だが、芙美子との暮らしは合わなかった。

たい子は芙美子とは生き方が違うとプロレタリア文学を目指し、同じ考えの小堀甚二との同居を望んだ。

芙美子は愛されることを望んだが、たい子は愛することを望んだ。

たい子が幸せ一杯のオ-ラを残して去ると、一人残された芙美子は意気消沈した。

寂しくなって尾道に帰りたくなる。

10月になると、故郷のない芙美子の故郷、尾道に行く。

辛く悲しくなると、帰りたくなるのは尾道だった。

恩師や友人と会い、つらい思いを分かち合いたかった。

だが卒業して四年、皆それぞれの人生を歩み、思いを満たしてくれる友はいなかった。

自分でもよくわかっていたが。

足取りは重くなるが、今井先生に作家としての道を歩き始めたことを報告する。

そして、尾道を舞台に書き始めた小説「風琴と魚の町」を見せる。

今井先生は芙美子らしい巧みな表現に「もう立派な文学者だ。すばらしい」と絶賛する。

そして「小説家として生きるべきだ」と助言した。

その言葉は重く響き、芙美子を勇気づける。尾道に帰ってよかったと涙する。

「尾道の芙美子は小説家だ」と海に向かって叫ぶとますますその気になった。

故郷(尾道)を綴り、故郷(尾道)を卒業する日が来たのを感じた。

10月の終り、東京に戻った。

日が短くなってうら寂しい思いもあったが「必ず小説家になれる。きっとなる」と自分を奮い立たせる。

文学仲間と再会し、新宿のカフェ「つる屋」で働くことにし、下谷(したたに)(かや)(まち)(大東区)に下宿も決めた。

そして、たい子の別れた夫、飯田に預けていた本を取りに、駒込(豊島区)の大和館の下宿行く。

預けていた本が少なくなっていた気がした。

芙美子はたまらず「本がなくなっている。本を返して」とすごい剣幕で迫った。

1冊1冊が、骨身を削って買った、芙美子の宝だった。

その芙美子の剣幕をおもしろそうに見ていたのが、手塚(まさ)(はる)だった。