芙美子再びの東京|林芙美子 「放浪記」を創る(7)
だぶんやぶんこ
約 7682
年が明けて1924年、母と沢井に別れを告げ、東京に戻る。
東京の復興が、急ピッチで始まっていることを知ったからだ。
「私はたった一人。ひとりで挑み必ず作家になり成功する。尾道のみんな見てらっしゃいね」と唄いながら東京に戻り、間借りの暮らしを始める。
孤独な暮らしだが、一途に作家を目指す。
それでも食べなくてはいけない。
気分は作家であり、未来の作家にふさわしい仕事を探す。
書生気取りで文士や学者宅での掃除・洗濯に雇われるが、芙美子を認める人には出会わず「ただ、こきつかわれるだけなのは、いやだ」とすぐに辞めた。
生活が成り立たなくなり、玩具工場やカフェでも働き、産院の手伝い、毛糸売りと何でもありの生活となった。
作家とは言えない仕事で暮らすしかない。
一日じゅう働いても、その日をどうにか過ごす収入しかなく「こんなはずじゃない。あまりにも理不尽だ」と嘆く。
それでも「私は作家。生まれながらの才がある」と独り言をつぶやき、童話と詩を書き続ける。
最悪と思うときは、もう新しい道が始まっているのだと後で知る。
「市民座」劇団員募集の張り紙がふと目に付いた。
朗読や音楽に自信のある芙美子は「女優になるのもいいかも」と劇団の門をたたいた。
「作家になるのは大変だ。難しすぎる。ダメかもしれない」とやけくそになっていたせいもある。
面接した小柳京二は芙美子の話を聞いて、女優は難しいが詩人としての才を感じた。
そこで座長であり詩人で俳優の田辺若男に引き合わした。
田辺若男は「芸術座」(松井須磨子と島村抱月が立ち上げ一世風靡したが二人の死で解散)俳優だったが、独立して劇団を立ち上げていた。
田辺は芙美子に会うと、詩やら文学の話を始める。
芙美子の得意中の得意の分野だ、二人は尽きることなく話し続けた。
田辺と意気投合した芙美子は「初めて志を同じくする人と出会った、運命の出会いだ」と胸震わす。
もう芙美子は止まらない。
「(田辺の)生き様は私の目指す作家と同じだ。共に生き文学の道を突き進む」と決意した。
何のつてもない田舎娘の芙美子だ。
どんなかぼそい縁でもしがみつくしか生き残りの道はないと本能的に感じていた。
幾日か考えたが、押しかけるように田辺の田端(東京都北区)の家に入り込んだ。
ここから二人目の同棲が始まる。
田端は文士が多く住む、芙美子が憧れた地だった。
ここに住めばどうにかなる。と胸が弾んだ。
芙美子は相手を一目で見抜き決めつけるところがあり、この人だと決めたら迷うことなく突進する。
すると必ず愛が生まれる。
自ら進んで愛をつかまなければ、愛は生まれないと肌で知っていたのだ。
田辺は、喜んで迎え入れた。
芙美子の作った詩が心を打ち、忘れがたい人となっていたのだ。
お互い惹かれ合い、岡野の次の同棲相手となった。
芙美子を愛し、芙美子の才を見せたくて、すぐに文学仲間に紹介する。
田辺に連れられて文学仲間では有名な本郷白山上(文京区)の南天堂に行く。探し求めていた文学を志す仲間がいた。
予期しなかった展開となり、ただただ運命の悪戯を喜んだ。
田辺は仲間に「才能ある詩人で、僕の恋人」と紹介した。
個性的な左翼思想の持主ばかりだが、芙美子は、拍手で迎えられた。
南天堂は、一階が書店で、二階がカフェレストランとなっており、その奥に小さなスペースだが文学者のたまり場があり、いつも誰かいた。
田辺の友人は萩原恭次郎・高橋新吉・辻潤・壺井繁治・岡本潤・小野十三郎・神戸雄一・友谷静栄・平林たい子らアナキスト(無政府主義者)やダダイスト(既成の秩序や常識を否定、攻撃する主義者)と称せられる多彩で優秀な面々だった。
思想史を飾る人々が出入りし震災後は先進的な表現を求めるシュルレアリスト(超現実主義者)と呼ばれる人々も集まり盛り上がっていた。
芙美子の詩を読み尽くした田辺は、芙美子を一層認め愛した。
仲間に、自慢するように「すごい詩人で、僕の妻」と話す。
芙美子は、妻と紹介されたのは初めてだった。
嬉しくてうれしくて、夫と共にこの場にいるのが信じられず夢の中のようだった。
文学に情熱を燃やす面々との自由な論争に最初はおずおずと加わる。
過激な左翼思想に驚き、深い文学の知識を尊敬したり、生活感に違和感を感じたりと、五感を強烈に刺激され面白くて仕方がない。
しばらくすると入り浸る。
だが現実は甘くない。
芙美子は、俳優としては認められず、劇団ではすることがない。
しかも、田辺の詩は売れず、劇団の収入も少なかった。
生活費もままならず、カフェで働くしかなかった。
田辺との生活費を稼ぐのは、仕方がない。
芙美子を称賛し、妻と呼ぶ愛する詩人だ。
南天堂で田辺により、人生で初めて、詩人であることを文学者たちから認められたのだ。
作者として生きることが夢ではなく、現実となったのだ。
田辺の為に、文学の為にカフェの女給で稼ぐと決めた。
目的を定めると驚異的な力を発揮する。
稼ぐための要領はすでにわかっていた。
すぐに売れっ子になり予想以上の高収入を得る。
職を転々と変え自活することさえ難しい収入にあえいだのは、岡野と別れ田辺と同居するわずか一年だけだった。
岡野と同居の時、働いたのは見栄ゆえだった。
岡野には芙美子が居候となっても慎ましく暮らせば、生活できる送金があった。
生活苦とは言えない。
美人でもなければ背も低い芙美子がなぜ高給を稼ぐのか、皆は不思議がる。
だが、すっと相手の懐に飛び込んで心をつかむ話術は天才的だった。
芙美子に出会った客は、魅せられ指名しお金を貢ぎ、そのうち強烈な個性に打ちのめされるのだ。それでも憎めない。
それどころか満足感を与える不思議な魅力があった。
いつしか芙美子は田辺の収入を遙かに超えて働く人だった。
生活費はすべて芙美子が出していたが、それ以上に貢ぐ女になる。
田辺はこずかいを十分に得て満足したが、芙美子の強い存在感に追い詰められていく。
そして裏切る。
芙美子の鋭い感受性は公演を見て田辺と女優の恋を見抜く。
芙美子の収入を当てにして女優と遊んでいたのだ。
そんな田辺を許さず追及する。
田辺は侘びたが、恋を否定しなかった。
芙美子は、直ぐにあきらめた。
こうして、貢ぐ女の生活は数ヵ月で終わる。
田辺は、芙美子の文学の才を花開かせる出会いの場を作ってくれた恩人だ。
それで十分だと、心のけじめを付けた。
田辺との恋も終わった。
田辺は芙美子との出会いで作家としての限界を悟り、俳優を主な仕事とし、詩は趣味として著作に励む。
芙美子は、田辺を通じて多くの知人を得ていた。
ここからは一人だ。
それでも、頼りになるはずの仲間がいる、前を向いて生きるのだ。
まず、芙美子は、美貌の詩人、友谷静江に近づく。
南天堂の華として崇められていた。
もてもての静江だったが、アナキスト詩人、東洋大学の岡本潤(1901-1978)を選び、結ばれ同棲した。小野十三郎(1903-1996)との仲もよかった。
この頃、東洋大学は詩人の宝庫と言われるほど多くの逸材が出た。
その多くが、南天堂に姿を見せていた。
田辺の紹介があったことで、静江と親しくなり、共に詩を作るようになった。
そして、静江を通じて、東洋大学の詩人グループの輪の中に入る。
そこで「(田辺に)裏切られて独りぼっち」と悲劇の主人公を気取り、泣く。
そんな芙美子を慰め励ましたのが、裕福な東洋大学生、神戸雄一だった。
芙美子は優しく慰められると弱い。
再び、恋し、一緒に暮らし始める。
行く当てがないのだから仕方がない。
3人目の同棲相手が決まった。
神戸との愛の暮らしが始まると、芙美子は作家になりたいならなくてはならないと突き動かされるものを感じる。
「静江さんと共に作った詩を発表したい」と神戸にせがむ。
岡本潤や静江との付き合いが深い神戸は「いいよ」と軽く応えた。
こうして、神戸の資金援助で1924年7月、静江との共作、同人詩誌「二人」を刊行する。毎号八頁で三号まで作る。
静江を前面に出しての詩集だが、芙美子は活字となった詩を見て感無量だった。
作家としての第一歩を踏み出した。
神戸雄一の実家は、宮崎県串間市で、幅広く漁業・農林業を営んでいた。
雄一は、少年時代から、小説家を目指し、東洋大学で学び、詩人・小説家として、南天堂に出入りした。
8月、南天堂に集まる作家が参加しプロレタリア文学(社会主義思想や共産主義思想と結びついた文学)誌「文芸戦線」を創刊する。
芙美子も張り切って詩を発表する。
次いで「日本詩人」にも詩を寄稿するようになり、掲載される。
田辺・神戸との縁で、あれよあれよという間に作家になったのだ。
あんなに憧れ、ドキドキしながら目指した作家だったが、拍子抜けするほど、簡単だった。
お金にならないのが困るが。
芙美子の現実の仕事は、カフェの女給だ。
それでも、芙美子の文学の才を認める人が増えていく。
手ごたえを感じた芙美子は、同人詩誌「二人」を持って「指導を受けたい」と一流作家を訪ねる。
今まで敷居が高くて訪ねることができなかった近くに住む作家に会う勇気が出たのだ。
自分の作品をもって売り込むことが作家の第一歩だと、元気よく歩き始めた。
その為の詩集の発行だった。
本郷の富士ホテルで寝ながら書くと評判の詩人・小説家の宇野浩二を訪ねた。
宇野は詩を読み、まだ無名の芙美子に「話すように書けばいいんですよ。うまくかけてます」とただの先輩のように気さくに話しかけた。
作家仲間のように話しかけられ、芙美子の創作方法を認めた助言を受けた。
「一人前の作家として認められた」と感激だ。
女性をうまく書くと有名な小説家、徳田秋声に会いたくて、紹介状なしに行く。
秋声は驚くこともなく招き入れ、持参した詩を真剣に読んだ。
そして涙ぐみながらいい詩だとほめた。
「いつでも来てよい」と親しげに言ってくれた。
厚かましいのが取り柄の芙美子だ。
以後もちょくちょく顔を出し、ごちそうになったりお金を借りたりもする。
秋声は、日本では現実を赤裸々に描くと解釈された自然主義文学(客観的な真実の描写を行う)作家だ。
加賀藩家老に仕える侍の家に生まれたが、明治の世となり、没落し、苦しい環境で育った。
紆余曲折の後、尾崎紅葉門下となり花開き、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに門下の四天王と言われるまでになり、連載小説『雲のゆくへ』がヒットし、作家としての地位を固める。
次に、静かに現実を見つめ、それを飾り気なく書き込んでいく作風で、自然主義文学者として本領発揮、島崎藤村、田山花袋と並ぶ大家となる。
芙美子の作風とも似ており、生涯の師とした。
10月、2歳年上の前衛詩人、野村吉哉が詩集「星の音楽」を出し、芙美子は面白く読む。
南天堂で出会うと、野村に「素晴らしい」と話しかける。
野村も芙美子の詩をよく読んでおり誉めてくれた。
お互いが、詩才を認め合い意気投合する。
ここでもまた「同じ志を持つ詩人二人の運命の出会いだ」と稲妻が走る。
神戸雄一の優しさで立ち直った芙美子だが、詩人としての刺激は感じることがなかった。
野村と、結ばれる。
12月、正直にこの間の野村との出会いを話し、神戸雄一との別れとなる。
多摩川べりの小さな借家で野村と暮らし始める。
神戸雄一(1902-1954)は、芙美子を愛し、芙美子に作家としての道を開いた満足感で自分の進むべき道を歩み始める。
詩・小説を書き、雑誌の編集をしていく。
お互い、にっこりと別れた。
その後の1944年、故郷の宮崎の日向日日新聞社(宮崎日日新聞社)に招かれて文化部長となり、詩・小説を書き続けつつ、若い詩人の育成に努める。
芙美子の生き様に影響を与え、文学者を育てる意義に目覚め、得意とした。
友谷静枝は、利用された思いが残る。
だが芙美子とは育ちも違い、才能も違い、何よりもハングリー精神の差を見せつけられ、悔しく思いながらも納得する。
自分らしく生きるしかないと、慶大教授、上田保と結婚し文学を趣味とする。
詩を書き続け、充実した豊かな暮らしを得る。
野村吉哉の叔父は、評論家として名高い千葉亀雄だった。
早稲田を中退し、国民新聞、読売新聞、時事新報、東京日日新聞などの記者や学芸部長を歴任している。
モダニズム(前衛的)文学を目指す横光利一、川端康成らを新感覚派と名付け、後援し、世に広めた人でもある。
時流を見る確かな目を持っていた。
芙美子は恩師、今井が早稲田出身だったことで、早稲田大学に憧れていた。
千葉亀雄とのわくわくする出会いが生まれ、野村との新たな暮らしは楽しかった。
野村には高名な叔父が付いており、後押しされて作家として一流になるはずだ。
芙美子の後押しもしてくれるかも知れないと、期待が膨らむ。
1925年、芙美子と野村は、渋谷区道玄坂へ引越し、4月には、世田谷太子堂の二軒長屋に移る。
文学仲間の紹介で、より文学者が多く住む地域に移ることになり、幸せな気分だ。
隣は、壺井繁治・栄夫妻、近くには平林たい子夫妻が住み、文学仲間とより親密な付き合いが始まる。
同じ志を持つ作家夫婦として、友人に恵まれ、充実した暮らしとなる。
壺井繁治は香川県小豆郡苗羽村(小豆島町)の生まれで早稲田出身だ。
同郷の妻、栄は遠縁になる。
栄は繁治と文通していた。
役場勤めをしていた栄は、文学への熱い思いを募らせ文通だけでは物足りず、繁治と結婚し東京に住みたいと、意を決して繁治の元に押しかけた。
結婚までは、考えていなかった繁治は、驚き狼狽するが、栄は、故郷の親族一同の望みであると説き、結婚させたのだった。
芙美子と栄はよく似た状況で上京し、芙美子は失敗したが栄は成功した。
栄は上京後に夫や芙美子ら女流作家に影響され、見よう見まねで文章を書き始める。
そして夫の力で作品が掲載される。
芙美子から見ると「何の努力もなしに、作家になっていくんだ」と複雑な思いがあった。
芙美子は四歳年上の栄に甘え、よく物をねだった。
家庭の切り盛りが上手で、家事全般のことは、栄に頼べば手に入れることができたからだ。
堅実な栄は、芙美子を「厚かましい」と思い理解できなかったが、文学者としては認めた。
だが、芙美子と野村の暮らしは、新居に満足したころから波風が吹き始める。
まず収入。
生活費の大半は芙美子がカフェで稼いだ。
しかも、わずかだが詩の原稿料も得るようになっており鼻息は荒い。
野村は肺病をわずらっており不安定な精神状態で、叔父の配慮で原稿を書き、出版社から収入を得たが、書く原稿は少なく、収入も少ない。
それでも、野村は、素直には芙美子に感謝しない。
家計を芙美子に頼りながらも、芙美子に癒しを求めた。
芙美子は、精一杯働き、詩を書き、家事をこなす。
忙しすぎて、病身の野村をいたわる時間はない。
すると、野村は「(芙美子は)冷たい。これでは、病気は良くならない」と気分転換を求め、芙美子の稼いだお金で遊ぶ。
しかも、将来不安に苛まされ、機嫌のいい時と悪い時が代わる代わるある、不安定な精神状態よなっていく。
そんな野村にかまっていられないと、芙美子は、書き続け、働き続ける。
反対に、芙美子の頑張りに対し、野村から芙美子へ感謝といたわりがあるはずだと求めた。
だが、野村は応えない。
それどころか芙美子に当たることが増えていく。
次第に、野村のいい加減さを許せなくなる。
ついに、何者にも動じない迫力で徹底的に野村を非難し鋭い言葉の嵐を吹付けた。
野村は耐えられず暴力を振るう。
1926年1月、追い詰められた野村は新しい恋人のもとに逃げ、1年2か月の同棲暮らしは終わる。
その間、芙美子は南天堂を起点とした交友関係をますます広げていた。
野村から詩人仲間、松下文子を紹介されていた。
松下文子は、才色兼備を絵に書いたような芙美子の憧れる女人だった。
そして、親しくなり、文子に野村との軋轢、愛されない悩みを打ち明けた。
文子は、北海道旭川の大地主の一人娘で詩人を目指した。
尾道の裕福な友と似た包容力のある穏やかな性格で、気兼ねなく付き合える雰囲気を持っていた。
美しく、文学の才もあり、仕送りも多く裕福で、大好きになり甘え何でも話す。
野村の暴力から逃れるためと称して、松下文子の家を訪れ、ついには、転がり込むようになっていく。
文子の家で7歳年上の小説家、尾崎翠に会う。
芙美子は尾崎翠の天才的に鋭い感性に衝撃を受ける。
この独自の感覚には勝てないと、悔しくて情けなかった。
文子と尾崎翠は長い付き合いがあり、文子と芙美子の関係より深く、お互いを尊敬し認め合っており、仲の良さでも嫉妬する。
度々、尾崎翠と出会い、表立っては仲良くするが、密かに小説家としての火花を散らす。
大好きな文子と、もっともっと親しくなりたかったが、尾崎翠がいる限り、芙美子は一歩引くしかなかった。