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明智家と光秀の祖父、明智光継|明智光秀と愛娘、玉子(1)

だぶんやぶんこ


約 5359

明智光秀の家系は、謀反人の家系であると封印されてしまう。

それゆえに、家系は、謎に包まれた。

それでも、天海・坂本龍馬に繋がる優秀な家系として伝聞されていく。

複雑で不確かで不合理な生き様しか残らない光秀だが、愛娘、玉子に強く影響を及ぼす野心的な生涯だった。

細川家との関係が深い故、光秀の武将としての器の大きさが、ぼかされてしまうが、父娘の愛が熊本藩の礎になったとの想いで二人の生きた姿を記したい。


目次

  1. 明智家と光秀の祖父、明智光継
  2. 光秀、誕生。父は光綱、母はお牧の方
  3. 斎藤道三とは
  4. 道三、政争の中で、偉力
  5. 道三、国盗り成功
  6. 小見の方と深芳野
  7. 道三の家族
  8. 流浪の光秀
  9. 玉子誕生、伸びる光秀
  10. 信長との出会い
  11. 母の死
  12. 光秀の子、そして玉子の結婚
  13. 光秀の家臣団
  14. 光秀、葛藤の時
  15. 玉子との別れ、光秀立つ
  16. 光秀死す
  17. 玉子、幽閉
  18. 玉子と忠興、再びの暮らし
  19. キリスト教に惹かれる玉子
  20. ガラシャ玉子、誕生。

明智光秀は、1528年生まれ。

父は、明智光綱24歳。母は、お牧の方19歳。

信長より6歳、家康より15歳、秀吉より9歳、年長になる。

3英傑より早く生まれたゆえ、追われるように、生き急がざるを得なかった。

 

光秀の生まれた明智家は、美濃源氏の嫡流、美濃・尾張・伊勢の守護大名、土岐氏の一族になる。

恵那明智町(岐阜県恵那郡)に在し、名とする。

南北朝の時代、美濃守護、土岐頼貞9男、長山頼基を始めとし家を興し、その子、頼重より明智を姓とする。

土岐家が、本拠を岐阜長森に移すと、明智家も従い明智庄(可児市)へ本拠を移し、明智城(岐阜県可児市明智)を築き、居城とする。

 

室町幕府が開府されると、室町将軍に直接仕える奉公(ほうこう)衆(しゅう)(将軍に近侍する武官官僚)となり、京に在し将軍近くで務める。

そのため、公家衆との縁も深くなる。

 

数代続き、明智頼尚の子に明智光継(1468-1538)が生まれる。光秀の祖父だ。

若狭守護、武田元信(1461-2521)の養女と結婚する。

後妻は、進士氏。そして、尾関氏。

生まれた子たちは、父、光綱・次男、進士山岸光信・3男、光安・4男、光久・5男、原光広・6男、光(みつ)廉(かど)。長女と次女、小見の方。

 

最初の妻の実家は、若狭武田氏。

若狭武田氏は、1440年、若狭守護となった武田(たけだ)信(のぶ)栄(ひで)から始まる。

将軍、足利(あしかが)義教(よしのり)の命令で若狭守護、一色氏を討ち取り、恩賞として守護職を得た。

それまで、若狭と丹後守護・伊勢半国守護・尾張知多郡と三河渥美郡分郡守護は一色氏だった。

だが、足利一門、一色氏の勢力が大きくなりすぎ、将軍を脅かす存在となり、恐怖した室町幕府将軍、足利(あしかが)義教(よしのり)が、追い落としを図ったのだ。

 

強い軍事力を持ち、将軍に近侍していた武田(たけだ)信(のぶ)栄(ひで)こそ適任だと、討ち果たすよう命じた。そこで、武田(たけだ)信(のぶ)栄(ひで)は策を弄して、一色一族の暗殺を企て、成功したのだ。

将軍は感激し、若狭守護とした。

武田(たけだ)信(のぶ)栄(ひで)はまもなく、亡くなり、弟、武田(たけだ)信(のぶ)賢(かた)が継ぐ。

 

信(のぶ)賢(かた)は、兄を引き継ぎ、若狭武田氏を大きくすると張り切ったが、翌1441年、後ろ盾だった将軍、義教が暗殺されてしまう。

状況は一転、勢いを盛り返した一色氏の反攻が始まり、鎮圧に追われる日々となる。

それでも、若狭守護としての権威を守り領国安定支配を目指し、懸命に戦い続けた。

 

そんな時1467年、応仁の乱が始まる。

一色氏に追い込まれ形勢は不利な時だった。そこで起死回生を目指し、管領、細川勝元率いる東軍に属し、西軍一色氏を一掃すべく戦う。

東軍勢として丹後国に侵攻し、一色氏を追い詰める戦功をあげ、勢力を盛り返す。

1469年には、丹後守護、一色義直に勝利し、丹後守護を奪い取った。

若狭・丹後守護となり、ひととき、成し遂げた喜びに浸る。

 

若狭武田氏は安芸武田氏の分家だった。

安芸武田氏は宗家、甲斐武田家の分家だ。

その若狭武田氏が、若狭・丹後守護、安芸分郡守護にまでなった。

安芸武田氏と立場が変わり、本拠も若狭となり、宗家、甲斐武田氏と肩を並べるまでになり、得意の時だった。

 

だが、如意ヶ嶽(京都市左京区)での戦いで、西軍、斎藤妙椿に敗れ、一転、形勢不利となった。がっくりした中、信(のぶ)賢(かた)は、1471年亡くなる。

美濃斎藤家の躍進ぶりを見せつける戦いで、若狭武田家の苦難の前触れだった。

 

後継となった弟、国信は、身の程を知り、中央の政争から身を引き丹後からも撤退、若狭国の治世安定に集中すると決めた。

中央政治から遠ざかると、若狭武田氏の権威・威力がなくなり、国人衆への抑えが効かなくなり、領民支配も思うようにならなう。

不遇の身となった寂しさの中で、1490年、亡くなる。

 

次男、元信が継ぐ。

元信は、このままではジリ貧だと、思い切って中央政争の中に身を置くと決めた。

管領、細川政元(勝元嫡男)に近づき支え1493年、明応の政変を起こす。

将軍、義稙を追放し、新将軍に足利義澄を擁立する大きな政変だったが成功した。

こうして、新将軍、義澄の庇護者となり、若狭武田氏の権力は飛躍的に伸びた。

将軍から側近くに居ることを望まれ、京に在し、若狭武田氏最高の時を築いた。

 

勢いに乗って1506年、一色氏を追い払うと決め、総力を上げて丹後に侵攻した。

だが、失敗。

また、坂道を転げ落ちるように力をなくしていく。

今度は、一色氏が、若狭武田氏に勝利した勢いに乗って、若狭侵攻を始める。

隆盛のときは短く、また、追い詰められてしまった。

 

越前守護、朝倉氏の支援を受けどうにか、若狭を守り撃退するが、1507年、後ろ盾だった細川政元が暗殺された。

すると、大内義興・細川高国(細川政元の養子)に擁立された足利義稙が蘇り、翌年、再び将軍になった(永正の錯乱)。

義澄は近江に逃げた。

元信は後ろ盾を失い、京には居れなくなり、失意の中で、若狭に戻る。

 

それからは忍従の時となり、若狭守護としての力を保てなくなった。

そこで、次の権力者を、細川政元後継、澄元ではなく管領、細川高国と見極めた。

細川高国を支えると決めた武田元信と後継、元光は、1521年、細川高国と対立した足利義稙を追放することに成功。

義澄の子、義晴を新将軍に擁立し、復権を果す。

ようやく栄華のときが蘇る。

 

だが、この時も短く、管領、細川晴元(政元の養子、澄元の子)と共に丹波勢が裏切り、義晴を攻めてきた。

1527年、元光は高国と共に迎え討つが敗北し、将軍、義晴を守り、近江国に逃亡。

それでも再起し、越前守護、朝倉孝景・播磨守護代、浦上村宗の支援を受け、勢力を盛り返し京都を奪還した。

 

その時はまた短く、細川晴元・三好元長から攻め込まれ、高国は、京を追われる。

また再起し、支持勢力をまとめ、京を奪い返すが、1531年、味方と信じた播磨守護、赤松政祐に裏切られ、浦上村宗と共に細川高国も討ち死。

 

細川高国を亡くすと、武田元光もまた急速に力をなくす。

すると若狭の海賊衆が一色氏や細川晴元と結び蜂起した。

若狭武田氏は、本拠若狭さえも奪われそうになる、窮地に追い込まれた。

 

それでも、幕府第一の実力者となった管領、細川晴元が、自らも疲弊消耗し、戦いを避けたいと将軍、足利義晴・元光に和睦を持ち掛けた。

武田元光は、命拾いする。

 

将軍家を支え政権中枢に関与し続けた若狭武田氏だが、浮き沈みが激しく、勢力の維持に苦しんだ。

そのため、政略結婚により、勢力を保つ戦略が必要不可欠であり、幅広く慎重に結婚を決める。

 

若狭武田氏、元信は、嫡男、元光と管領、細川澄元の娘との結婚を決め、管領家との結びつきを強めた。

共に戦った奉公衆、土岐氏一族、明智家の軍事力を高く評価し、必要不可欠と決め、元信の養女と光秀の祖父、光継(1468-1538)との結婚を決めた。

明智家の嫡流を受け継ぐ、嫡男、光秀の父、明智光綱が生まれた。

 

武田元信の養女はまもなく亡くなり、明智光継は、美濃衆、進士氏と再婚する。

進士(山岸)氏は、南北朝の頃、一族、山岸光義が加賀から美濃入りし始まった。

鎌倉を攻め落とし鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ英雄、南朝方総大将、新田義貞・脇屋義助兄弟と共に、加賀越前で北朝方と戦った有力国人が進士(山岸)氏だ。

北朝を率いる足利尊氏と互角の戦いをした新田義貞とともに戦ったが、次第に南朝方は力を落とし1338年、越前藤島で新田義貞は、討死した。

 

新田義貞亡き南朝勢では越前を守ることはできず翌年、脇屋義助が新田一族や南朝側の山岸光義らと共に越前国大野郡から温見峠を越えて美濃の根尾谷に入った。

以来、本巣郡根尾(岐阜県(ぎふけん)本巣市(もとすし))を本拠として再び戦う。

ここから、山岸光義は美濃国人、進士山岸氏と名乗り、土岐氏に仕える。

 

光義の嫡男、光明は、美濃守護、土岐頼遠の婿となった土岐氏一門だ。

3代、満頼・4代、頼慶・5代、貞朝 と続き6代、光貞から幕府奉公(ほうこう)衆(しゅう)となり将軍の側近くで仕え進士家を名乗りとする。

明智家と進士家は、土岐氏一門であり、奉公(ほうこう)衆(しゅう)としても同僚だった。

その縁で、通婚を繰り返す、深い親戚となる。

 

また、進士家は、足利将軍ゆかりの地の支配を任されて将軍家に近侍する。

そして、将軍の食膳の調理を行う庖丁(料理作法)流派を作った。

将軍のための饗応料理の料理法や、箸・膳の飾り方・食事作法など、庖丁道(料理に関する諸作法)・膳部(かしわでべ)(食事に関する決まり)一切を取り仕切る進士流庖丁道だ。

将軍の食膳の調理を進士氏が世襲していくことになった。

 

将軍家の食の安全を任せられたのでもある。

その縁で進士貞連の姉、進士晴舎の娘、小侍従(-1565)と将軍、足利義輝が愛し合うことになる。

 

光秀の祖父、光継が進士家から妻を迎えると、光継の妹が進士光貞の嫡男、信連に嫁ぐ。絡み合った縁が続く。

再婚で生まれたのが、次男、明智光信。

奉公(ほうこう)衆(しゅう)として将軍に仕え、同僚でもある進士山岸家、信連の娘婿養子となる。

光継の妹と信連の間に生まれた娘であり、いとこ同士の結婚だ。

 

ここまでは母は確かだが、以後、生まれる子たちの生母は不確かだ。

光秀に近づくと、全てが不確かになるが、進士氏か尾関氏のどちらかとする。

 

尾関氏は、清和源氏を始めとして、平安時代初期には、尾張大森城 (愛知県名古屋市守山区)を築き周辺を支配した豪族だ。

だが隣地を領する水野氏との水利・領地を巡る戦いで1467年、水野勢に敗北落城。

一族は散り散りになるも、同族の小関源五左衛門を頼り、その居城、鍋屋上野城(名古屋市千種区)に身を寄せ、織田家に仕える。

 

若狭武田氏と一色氏の戦いは続いていた。

1478年、若狭武田氏は、尾張国知多郡の分郡守護、一色氏を攻め、勝利した。

ここで、一色氏は分郡守護を解任され、若狭武田氏が代わり、領地を得た。

その戦いに斎藤家とともに明智家も参陣しており、織田勢も加わっている。

織田勢には、尾関氏もいた。

 

 美濃と尾張は隣国であり、通婚もあり、この頃、明智家と尾関家は親しくなり、尾関家は明智家に従うことがあり、結婚となった。

尾関氏との間に子が生まれ、明智家の人脈は、尾張に浸透していくことになる。

 

1500年生まれた、3男、光安。

光綱の死後、明智家を率いる勇将だ。

妻は、美濃守護代家、長井利安の娘。後継が養子の秀満。

 

続いて、長女が生まれ、長井利安の嫡男、斉藤利賢に後妻として嫁ぐことになる。

先妻から生まれたのが光秀筆頭家老、斎藤利三。

 

4男、光広は土岐一門、原氏へ養子入りした。

 

明智家は、守護、土岐氏・守護代、斎藤氏に仕えており、強い縁が結ばれた。

 

5男、光廉は、三河広瀬城(愛知県豊田市)主三宅高貞の娘を妻に迎えた。

光安の後継ぎとなり、光秀の娘婿となる秀満が生まれる。

 

三宅氏は、後醍醐天皇に忠節を尽くした南朝の英雄、備前(岡山県)児島郡常山の国人、児嶋高徳の一族。

南朝の衰退と共に三河広瀬に移り在地し、城を築き三宅氏を名乗り、勢力を持った。

一族に摂津国島下郡(大阪府茨木市)三宅城を本拠とした有力国人がいた。

幕政を主導する細川家に従い、複雑な政争の中で勢力を保っていた。

三河三宅氏と摂津三宅氏は通婚を繰り返す一門であり、進士家・明智家とも親しい同僚だった。また、織田氏の領地内であり、尾関氏との関係もある。

幾つかの縁が重なり、光廉と結婚となる。

 

後に、摂津三宅氏は、将軍、義輝に従い、その死と共に散り散りになるが、三河三宅氏は代々続き、家康に従い、譜代の臣となる。

 

末の姫が道三の妻となる小見の方。