光秀、誕生。父は光綱、母はお牧の方|明智光秀と愛娘、玉子(2)
だぶんやぶんこ
約 3481
1497年、生まれた父、明智光綱(1497-1535)は、長じて、斎藤氏に仕える。
奉公衆として将軍家に仕え、軍事に才を見せた。
そして祖父、明智光継に続いて、若狭守護、武田信豊の娘、お牧の方と結婚する。
お牧の方(1508-)は、若狭守護、武田信豊(1514-1580)の養女。
年齢が合わないので、信豊の父、武田元光(1494-1551)か祖父、武田元信(1461-1521)が実父だろう。
舅、光継の妻も若狭武田氏から迎えており、2代続く深い縁だ。
若狭武田氏は、斎藤家・明智家の軍事力を期待して、光秀の父、光綱と元光の娘、お牧の方との結婚を決めた。
その後、武田元光は、娘、光徳院を越前守護、朝倉孝景に嫁がせている。
朝倉氏の軍事力の助けがないと若狭を守れなくなったからだ。
若狭武田氏の力は、落ちていく。
1528年、朝倉孝景の妻、光徳院の姉、お牧の方が、光秀を生む。
武田元光嫡男、信豊は、近江守護、六角定頼の娘と結婚する。
妻の姉は、幕府管領であり山城・摂津・丹波守護、細川晴元(澄元嫡男)と結婚している。細川家・六角家の支援を期待しての結婚だ。
ここで、若狭守護、武田信豊と細川晴元とは、義兄弟になる。
光秀の母、お牧の方を通じて明智家は、幕府政権を率いる細川晴元や若狭守護、武田家・越前守護、朝倉家・近江守護、六角氏と深く結びつく。
だが、斎藤家と朝倉家の対立は激しくなっており、若狭武田氏が朝倉氏に従うと、斎藤家に従う明智家と敵対してしまう。
ここで、お牧の方は離縁となり、明智家を去る。
政略結婚は重要だが、状況が変わることが度々で、離合集散を繰り返し不幸な結果になることも多い。
光秀が生まれてまもなく、母、お牧の方は、父、光綱と別れ実家に戻った。
そこで、父が再婚した相手は、進士家の娘。
信教、貞連、康秀と弟が生まれるが、父は、病いを得て1535年、31歳で亡くなる。
継母は、光綱死後、子たちを引き連れ実家に戻る。
子たちは、進士家一門として育ち、後に、光秀に仕える。
光秀は、生まれてまもなく生母と別れ、7歳で父を失ない、それからまもなく継母と弟たちと別れた。
隠居の祖父、光継が、再び当主となり、一人っ子となった、孫、光秀を育てる。
だが、わずか3年、1538年、光秀10歳の時、亡くなった。
光継は、死に際し、3男、光安に「光秀を後見し、明智を守れ」と遺言した。
ここから、光安が明智家を率いることになる。
幼い光秀は、従う。
光秀は5歳から明智家菩提寺、崇(そう)福寺(ふくじ)(岐阜市)住職、快川紹喜(かいせんじょうき)に学んでいる。
快川紹喜(かいせんじょうき)は、土岐氏出身で臨済宗妙心寺派大本山妙心寺(京都市)住職を経て崇福寺の住職となった高僧だ。
光秀の並外れた知能を見抜き、伸ばし、可愛がった。
「心頭、火を滅却すれば、また涼し」と悠然と焼け死んだことで有名。
後のことだが、1564年、土岐氏が衰退し道三も死に、庇護者がなくなると、信玄に招かれ美濃を去る。
甲斐武田氏菩提寺、恵林寺(山梨県甲州市)の住職となり、信玄に深く帰依された。
だが、1582年、武田氏は、滅亡する。
武田家の庇護を受け親しく付き合っており、逃げてきた武田家旧臣や六角氏や反信長の武将を匿った。すると、信長から引き渡しを、命じられる。
快川紹喜(かいせんじょうき)は、寺内にいる限り引き渡せないと拒否した。
怒った信長勢は、寺内の僧らを含め150人余りを押し込め、刈り取った草を積み上げ、火をつけた。
全員焼死。その時、詠った歌だ。
武田氏は滅亡し抵抗する気のない武将たちだった。
彼らの最後の逃げ道まで無情に踏みつぶした信長勢だった。
その行為は許せないと、信長への決別と皮肉と怒りと憐れみなどつきせぬ想いを歌ったのだ。そして悠然と燃え盛る炎の中で焼死した。
光秀にとっては、耐え難くつらい、大きな出来事だった。
光秀は、父を亡くし、母と離れ、叔父、光安に見守られながら、1540年、12歳で道三に仕える。
将軍、義晴・管領、細川晴元体制ができ、武田元光は武力で幕府を支える重要な一角を占める。
1539年、武田元光は、嫡男、信豊に家督を譲り、その嫡男が武田(たけだ)義(よし)統(むね)となる。
そんな中、義晴は、功に報いると1548年、娘と嫡男、武田(たけだ)義(よし)統(むね)との結婚を決める。
将軍、足利義晴の娘婿となった若狭武田氏、武田(たけだ)義(よし)統(むね)。
成し遂げた思いだったが、平穏な時は続かない。
細川晴元は、内紛もあり、配下の三好(みよし)長慶(ながよし)の武力に太刀打ちできなくなった。
三好長慶は、晴元以上の力を持ち幕府を主導する勢いで、晴元遠い落としを図る。
武田信豊は、義晴の後継将軍、義輝・義兄、細川晴元を守り三好長慶と戦う。
だが、長慶は強く、負け戦が続き、多くの家臣を失い、若狭武田氏は疲弊していく。
ついに、三好(みよし)長慶(ながよし)は、京を制し政権を打ち立て、義輝は追われ、細川晴元は没落。
信豊は京での居場所をなくし、国元に戻る。
都での政権争いと武力衝突に資金を使い、国元では資金が枯渇していた。
側近の重臣が幾人も戦死しており、家中には、不平不満が満ちていた。
やむなく信豊は、隠居し、武田(たけだ)義(よし)統(むね)に家督を譲り、後継による人心一新で若狭武田家の態勢立て直しを図る。
だが、将軍の妹婿、武田(たけだ)義(よし)統(むね)と信豊は、12歳しか離れておらず我が子とは思えず、意思の疎通がうまく行かない。
将軍、義晴が推したため嫡男とし、将軍の婿となり、若狭武田家を継がせたが、しだいに、武田(たけだ)義(よし)統(むね)と対立していく。
武田信豊は、義(よし)統(むね)ではなく、間違いなく我が子である弟の信方か信由に家督を譲りたいと、家中を二分する内紛を起こしてしまう。
義(よし)統(むね)は、父弟や取り巻く重臣と戦うが、状況は不利だった。
やむなく、伯母、光徳院が朝倉義景の母であることから、朝倉氏に助成を頼む。
朝倉勢は強く、1558年、信豊を近江に追放し、義(よし)統(むね)が家督を守った。
だがそれ以来、朝倉家の影響を強く受けるようになってしまう。
同じ年、義輝は三好長慶と和睦し、京に戻り将軍としての務めを果たし、近衛家の姫と結婚し、朝廷・公家衆に支持される将軍となると決めた。
だが、亡命中の義輝を支えた女人は、進士家の小侍従だった。
進士家は、明智家と同じ奉公衆でありながらも、包丁道を受け継ぎ将軍の家族同様の信頼関係があり、常に付き従っていた。
小侍従も、京に戻るが、変わらず、将軍、義輝の愛情を一身に受け、進士家は将軍側近となり絶大な力を握る。
将軍、義輝と妻、近衛家の姫との仲は、睦まじくはならない。
義輝が、精力的に将軍としての職務を果たすと、傀儡を望む松永久通と三好三人衆との対立が激しくなる。
ついに、1565年、義輝・小侍従が殺される。妻、近衛家の姫は逃げた。
明智家は、進士家と深く結びつき、将軍の動きを熟知し支えていた。
祖父、光継は、進士氏と結婚。
祖父、光継の妹は、進士信連と結婚。
光秀の父、光綱が進士家から妻を迎える。
光綱の弟は、信連の娘婿養子、進士山岸光信となる。
光信の長女が、光秀の最初の妻となる。
光信の次女が、進士晴舎の子、貞連を婿養子に迎え進士家を引き継ぐ。
という具合だ。
進士貞連は、最後まで光秀と共に戦う重臣となる。
小侍従の父が、進士晴舎。
嫡男、進士藤延は、小侍従に仕え、1565年、将軍・小侍従を守り共に討ち死に。
小侍従亡き進士家は、急速に力をなくし光秀に従うことになる。
人脈は入り組んでおり複雑で、光秀死後、繋がりを消され真実は闇のかなただが。
明智家は、進士家と共に室町将軍家・細川家に近い、有力国人だったこと。
美濃守護土岐氏一門であり、美濃守護・守護代、斎藤氏に仕えていたこと。
若狭守護、武田氏・近江守護、六角氏とも縁戚で繋がっていたこと。
は、間違いない事実だ。
室町将軍の側近として、時の権力者と渡り合いながら生き、室町幕府下で政権を握った三好長慶のように、明智政権が作られても不思議ではなく、可能性はあった。
光秀は、激動の世で生きるべく、生まれた風雲児だった。