幻冬舎グループの作品投稿サイト

読むCafe
 

斎藤道三とは|明智光秀と愛娘、玉子(3)

だぶんやぶんこ


約 5567

1540年、12歳の光秀が、主君とし、師と仰いだ斎藤道三。

道三は戦国の世、颯爽とのし上がっていった立志伝中の英雄だ。

理解しがたいほどの暴虐非道を働いたが、この頃、下級武士として生まれ、自分の才を信じ壮大な夢を持ったならばやむを得ないことでもあった。

 

1494年、山城(やましろ)(京都府南部)乙訓郡(おとくにぐん)の西岡で生まれる。

父は、松波庄五郎(1482-1533)。

祖父は、松浪基宗。

松波家は、藤原北家日野家一門に通じ、代々北面の武士(院御所の警備)を務めた。

 

道三の父、松波庄五郎が生まれた頃の京は戦乱が続き荒れていた。

公家・朝廷は領地からの税収が途絶え気味で、松波家の生活も苦しかった。

松浪基宗は、凛々しく賢い幼子の嫡男、庄五郎を見つめ「この子の出世の道はない、高僧として名を挙げさせ、家名を守る」と思い定める。

そこで、日蓮宗本山、妙覚寺(京都市上京区)に預ける。

 

松波庄五郎は、幼いながらも自分の置かれた状況をよく知っていた。

自らの才知に自信もあり、夢をもって入寺し、高僧の道を進む。

修行の傍ら、手当たり次第に本を読み覚え、運動神経も優れ武芸の修練もするほどだったが、僧の道も能力だけではなく出身・財産により決まると悟る。

 

そんな時、照明用油を納入する油問屋、奈良屋と親しくなる。

夜の行事の多い妙覚寺に、再々納入に来ていた。

松波庄五郎が、将来に絶望し鬱々とした日々を過ごしている時だった。

羽振りの良さそうな奈良屋又兵衛に愚痴を言う。

奈良屋は、熱心に聞き頷き、娘婿に望んだ。

松波庄五郎には、金持ちの商人の婿になる夢のような話だった。

以来、娘婿の話に乗って、奈良屋の娘と逢瀬を続け、1494年、道三が生まれる。

 

奈良屋は、大山崎油座(おおやまざきあぶらざ)(本拠、京都府乙訓郡大山崎町)に属する豪商だった。

大山崎油座(おおやまざきあぶらざ)は、石清水八幡宮に灯り油の納入を始めた神人(神主・下級神職)により始まった。

その後、幕府や朝廷の庇護を受け、材料えごまの仕入れ・製油・販売まで独占的な特権を得て、主に寺社に灯り油を売り、それに繋がる種々のものを納入し、大規模な商いをするようになっていた。

 

だが、京大坂の商いだけでは限界があり、競合業者も出てきて、商売の発展を望めなくなる。

そこで、有力戦国大名や各地の寺社に販路を広げようとする。

その思いに合うのが、武士・僧として一流であり、容姿端麗これ以上の男はないと思えた庄五郎だった。

 

庄五郎は、奈良屋に出入りするも優柔不断で、僧としての修行も怠らない。

武将の家に生まれ、高僧になることを望まれており、商人となる踏ん切りがつかない。目先のことだけでなく将来を見つめ、決意をするまで時間がかかる。

 

 そんな時、1496年、妙覚寺に、美濃守護代家、斎藤利藤の末子、日運(1484-)が入門した。

父、斎藤利藤は斎藤妙純に敗れて実権を失い、利藤の嫡孫、利春が後継となる。

美濃守護、土岐成頼は、溺愛する土岐元頼を後継にしたいと、斎藤妙純の重臣、石丸利光に持ちかけ、すべてを託す。

その意を受けて、石丸利光は、美濃守護代、利春とともに、斎藤妙純に対し反乱を起こした。

利春は戦いの最中、病死。そこで、日運が後継となる。

だが、戦いは敗北。石丸氏は滅亡、土岐元頼は自刃、日運も処刑されようとしたが、まだ幼いと、僧となることで、助命された。

 

日運より2歳年長で修行の経験が長い庄五郎は、貴公子のような落ち着きと賢さがある日運を可愛がり、面倒を見た。

日運も庄五郎に感謝し、共に高僧の道を目指し、学ぶ。

だが、日運と庄五郎では、待遇に差があり、憤慨した庄五郎は高僧の道を諦めた。

 

長らく待たしたが、奈良屋の婿養子になることを決める。

こうして、裕福な油問屋、奈良屋又兵衛の娘婿養子になった。

その後、1506年、日運は守護代、斎藤彦四郎と共に斎藤家をまとめた彦四郎の弟、長井利隆(長弘の父)に呼ばれ美濃に帰国する。

 

還俗して斎藤守護代家を継ぐよう願われるが固辞し、修行の道を進み1516年、斎藤家菩提寺、常在寺(岐阜市)住職となる。

道三が菩提寺とし、篤く庇護し、美濃支配の拠点ともなった寺だ。

 

別々の道を歩む日運と庄五郎は、親しい付き合いを続けた。

そんな時、日運は美濃で販路を広げるように、庄五郎を誘った。

喜んだ庄五郎は、山崎屋と名乗り商いを始め、美濃に出向く。

常在寺で待っていた日運は、守護、土岐家・守護代、斉藤家・小守護代、長井家に推してくれた。

日運の影響は大きく、商いは順調に大きくなる。

 

美濃は内紛の続いており、優秀な武将が必要だった。

庄五郎の氏素性を知った美濃小守護代の長井利隆が召し抱えたいと誘った。

1510年、喜んだ庄五郎と道三は、長井家に仕える。

 

道三16歳は、利隆の嫡男、長弘に小姓として仕える。

裕福な奈良屋で育った道三は、高い学問を身に着け、父から武芸を習い武将としての学識も身に付けていた。父以上に、容姿才知飛び抜けており、父の希望の星だった。

商人から転じ、武士の道を歩み始まる。

 

ここから、道三は武将としての才を発揮し、長井利隆はその器量に感心した。

そこで「長井家家老、西村家を継ぐように」と命じた。

1512年、道三は18歳で、長井家家老、西村家の娘婿養子、西村正利となり、西村家を継ぐ。

階段をかけ上がるような出世だった。

 

1515年、長井利隆が亡くなり嫡男、長弘が継ぐ。

長弘は、美濃守護、土岐政房の策する家督騒動に関与し、能力があり秘密を守る家臣を必要だった。

非公然活動を難なくこなす庄五郎と道三は、とても貴重な家臣となる。

長弘の懐深く入り込んでいく。

道三の力を発揮するときが来た。

 

土岐家を実質率いるのは守護代、斎藤氏であり斎藤家が誰をどのような形で推すかによって、美濃守護の後継者を決めることができた。

斎藤家は平安時代、鎮守府将軍藤原利仁の子、叙(のぶ)用(もち)が齋(さい)宮頭(ぐうず)(伊勢に置かれた神宮を統括する長官)になったことから名とした。

以後、越前を中心に勢力を広めた。

国司に代わって美濃を支配する役目を持った一族がおり、鎌倉幕府となっても在地し、以後も美濃に勢力を持つ。

室町幕府が始まり、美濃守護が土岐氏になると従った。

 

当初は土岐氏も斎藤氏も在国することは少なく京に在した。

守護、土岐氏の筆頭守護代は、富島氏がなり、斎藤氏は二番手で美濃を仕切る。

富島氏の力が増し続け、土岐氏は、思うままに美濃を仕切る富島氏に不満が増した。そこで、土岐氏の意向を受けて、1444年、斎藤宗円(利永の父)が、富島氏を誅し守護代の地位を奪い取る。

ここから内紛が始まり、国元美濃での戦いとなった。

 

宗円は、守護、土岐氏に支援され、守護勢と共に戦い勝利した。

この間、守護勢を自分の軍勢に取り込み、土岐氏以上の力を持つことができた。

土岐氏は、富島氏の排除を望んだが、斎藤氏の台頭は望むところではなかった。

斎藤家の権力奪取は、あまりに強引すぎ恨まれ、1450年、斎藤宗円は暗殺された。

 

嫡男、利永(日運の祖父)が後を継ぎ、父以上の強権で暗殺に関わった反斎藤派を一掃する。

粛清を終え、自信を得た利永は、1456年、土岐氏の後継者争いに強引に加わる。

そして、土岐成頼を推し、力づくで守護とする。

 

1460年、利永は、亡くなり、嫡男、利藤(日運の父)が継ぐ。

この時、利永の遺言で、西山浄土宗善(ぜん)恵寺(ねじ)(岐阜県八百津町)住職の叔父(利永の弟)妙(みょう)椿(ちん)が、後見となる。

妙(みょう)椿(ちん)は、持(じ)是院(ぜいん)と名付けた居庵を持っており、以後、本家、美濃守護代家と区別し持(じ)是院(ぜいん)家を名乗る。

利永以上の智謀を備え、後見とは名ばかりで、利藤を重んじることはなく、自ら美濃を仕切っていく。

 

そんな時、1467年応仁の乱が起きる。

妙(みょう)椿(ちん)は、土岐氏・冨島氏の力を徹底的になくし、美濃での覇権を確立すると決意、そのために西軍に属し、抜群の戦力を見せ、勝続ける。

東軍に属した富島氏の領地を奪い、土岐氏の領地も支配下に置く。

 

こうして持(じ)是院(ぜいん)家は、本家の美濃守護代家、利藤以上の美濃一の実力者となった。

西軍の雄となり、各地で戦う西軍を支援し、勇猛さを知らしめた。

若狭守護、武田氏を追い詰めたのは圧巻だった。

 

この間、京に留まり将軍・公家衆と親交し一流の文人としても高く評価される。

文武両道の名将と崇められる。

美濃で室町将軍の法要を行ったり、義視・義材(よしき)(後の10代将軍、義稙)父子を歓待するなど、美濃、斎藤氏の財力と威勢を内外に知らしめ、将軍庇護者としても名を残す。

 

ここから、持(じ)是院(ぜいん)家を宗家以上とし、残すための体制作りを始める。

後継を、甥(兄、利永の次男)妙純とし養子とした。

結婚相手は、親しく付き合った公家、甘露寺(かんろじ)親(ちか)長(なが)の娘。

 

また、甘露寺(かんろじ)親(ちか)長(なが)嫡男、元長の娘を養女とし、尾張上四郡守護代、織田宗家、敏広に嫁がせ、織田家との縁を深めた。

豊富な資金で人脈を広げ、妙純を美濃一のゆるぎない存在とし1480年、妙(みょう)椿(ちん)は亡くなる。

 

この日を待っていた、妙(みょう)椿(ちん)に忍従を強いられていた守護代、斎藤利藤(利永の嫡男)・小守護代、石丸利光らが、復権を目指し動き出す。

 斎藤利藤は、応仁の乱以来、持(じ)是院(ぜいん)家の支配下にあった領地を戻すよう要求。

妙純との戦いを始める。

だが、妙純は守護、土岐成頼を味方に取り込み、勝利。

 

敗北した利藤は、すぐに、越前守護、朝倉氏景との関係を深め、朝倉勢を味方にすることで、必ず勝利すると策を作るが、これも敗北。

幕府の庇護を受け、存続するしかなかった。

 

朝倉氏景は、越前守護代だったが、父と共に旧守護、斯波氏を実力で追い払い1471年、越前守護となった。

だが、主君、斯波氏追放には、反発も大きく、斯波氏譜代の臣が従わず内紛が続き、手を焼いていた。

 

そこで、応仁の乱で共に戦って以来、朝倉氏と親交がある妙純は、一計を案じる。

足利一門斯波氏以上に大義名分のある足利一門を形式的に国主にすれば、斯波氏を抑えることができるはずだ。

そうすれば、朝倉氏は越前守護として権威を保ち、内紛を終わらせ、家中を安泰に保ち治めることができると持ちかけ、朝倉氏は納得した。

ここで1482年、妻の実家、甘露寺家が動き、将軍家の支持を取り付け、扱いやすい将軍の弟、鞍(くら)谷(たに)公方(くぼう)(鞍谷氏)を選び、斯波氏を引き継がせ、越前国主とした。

朝倉氏は、将軍家に近い足利一門を国主に据え、その代わりとなり越前を治めることで、大義名分ができ、朝倉氏景の領国支配は安定した。

ここで、安心して幼い13歳の後継、貞景に後を託し、1486年、亡くなった。

斎藤妙純は、朝倉貞景の後見人ともなり1491年、娘(祥山禎公)を嫁がせる。

越前守護、朝倉貞景の義父となった。

 

斎藤家中で圧倒的力を持った妙純は、守護、成頼の後継は、嫡男、政房と決める。

だが、父、土岐成頼は側室を愛し生まれた弟、元頼に家督を引き継がせたかった。

土岐(とき)政房は、正室、美濃守護代、斎藤利永の娘を母とする嫡男であり、家督を継ぐはずだった。

ところが、守護、土岐成頼は、妙純の影響下の嫡男、政房を気に入らず、弟、元頼の擁立にすべてをかける決意をした。

 

1487年、美濃守護代、利藤を呼び戻し、じっくり策を練る。

美濃守護、土岐成頼とその子、元頼対嫡男、政房の家督をめぐる争いが本格化する。

美濃守護代家を引き継ぐ利藤は、有力国人、石丸利光・近江、六角高頼・尾張下四郡の守護代、織田寛村・伊勢、梅戸貞実らを味方とした。

着々と体制を固めたつもりだった。

だが妙純の相手ではなかった。

 

利藤の策略を知り、1495年、妙純(妻は、甘露寺元長の妹)は、尾張上四郡守護代の織田宗家当主、寛広(母が甘露寺元長の娘)の支援を受け、土岐成頼・利藤勢を追い詰める。

そして、成頼に勝利し、政房へ守護職を譲らせた。

翌年には、朝倉貞景の支援を受け、近江、京極高清(妙純の娘婿)らと共に、元頼を追い詰め自害させ、利藤を隠居させる。

 

こうして、斎藤妙純(利国)は、思い通りに、政房を美濃守護とし、自ら美濃を支配する。

政房は弟に翻弄され、内紛で土岐家の力を落とし、やっとの思いで守護になったのだった。

すべて、守護代、斎藤妙純の力だ。

 

妙純は、近江・出雲・隠岐・飛騨4ヶ国の守護、京極家の家督引継ぎにも介入し、強引に、娘婿、京極高清を後継とした。

だが追われた前守護、京極政経は、六角高頼の支援で反抗を続ける。

1497年、妙純は京極家の内紛を一掃すべく六角高頼を攻め、優位に和議を結んだ。

 

成し遂げた満足感で美濃に戻る途中、予期せぬ土(つち)一揆(いっき)(民衆の政治的要求の戦い)に遭遇し嫡男、利親と共に、戦死。

近辺に十分な兵を置かず、油断していた。

 

ここで、妙椿・利国(妙純)・利親と続いた持是院家は大混乱に陥る。

利親嫡男、利良はまだ幼く、妙純次男、又四郎が守護代となるが1499年、急死。

3男、彦四郎が守護代となるが、父、妙純とは比べられないほどの凡人だった。