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三月の指環

野村 あさ子


約 2260

 今日は仕事が休みで、もうしばらく、春の二度寝を満喫、と思ったが、飼い犬から強烈な肉球パンチを顔に喰らわされ、仕方なく起きた。着替える前に箪笥の一番上の、小さな抽斗を開け、銀の指輪を取り出し、右手の中指に嵌める。

 犬を抱えて居間に行き、パンを焼く。

 トーストしたばかりのパンの匂いが好きだ。亡くなった父も「朝はパン派」だった。食べながらスマホのネットニュースを見ていると、「新型コロナ経済対策としてお肉券で国産牛購入を促進」という見出しが流れてきた。デマか、フェイクニュースかなにかかと思ったが、どうやら検討しているのは本当らしい。

「ええ? そんなの貰っても困るなあ。うち、そんなに牛肉食べないし。ねえ、お父さん」

 私は指輪に話しかけた。父は牛肉が苦手だった。指輪は黙っている。

 窓の外は、いかにも春らしい、いい天気だ。日焼け止めクリームを満遍なく塗らなければ。「紫外線はシミの元ですからねー」と呟きながら手に目をやると、指輪が黒ずんで見えた。おやおや、と思ってよく見なおしてみたが、やはり黒ずんでいる。磨いてやらねばならない。

 指輪を磨きながら、今日やることを考える。今日こそ、トイレットペーパーを忘れずに買わないと、そろそろ危ない。買い物リストを書くことは書くのだが、そのリストを忘れて出掛けてしまうのが、私という人間である。

マスクは今日も品切れのままだろう。「トイレットペーパー、パン、トマト」と紙切れに書いた。

 やっと暖かくなってきて、暖房を使わなくなってきたので、今のうちにエアコンの掃除を済ませておきたい。クローゼットの中身の整理もしたい。

 そんなことを考えながら磨いているうちに、指輪はピカピカになった。

「よし」

 私は指輪を嵌めずに握りしめたまま、洗面所に向かった。

 指輪を鏡の前に置き、顔を洗い、化粧水をつけ、髪をとかし、日焼け止めクリームを顔と首と手に塗った。

 それから指輪を嵌める。結婚指輪はずっと嵌めたままだが、銀の指輪は、なんだか丁重に扱ってしまう。

 洗濯機を回し、犬を散歩に連れて行き、掃除をしている間に曇り空になってきた。部屋の温度も低くなってきたようだ。

「あれ、なんか肌寒いね」

 今日はエアコンの掃除、などと言っていたが、急に嫌になってきた。

「ほら、寒いし。暖房機能まだまだ使うかも。掃除はまあ、また今度」

 と呟きながらリモコンの暖房ボタンを押す。しばらくすると、部屋に暖かい風が漂ってきた。

 洗濯機が、ちゃらりら~と鳴って、仕事が終わったことを知らせた。洗濯物を干して、居間に戻る。暖かい部屋のソファの上で、犬が寛いでいる。

「いい御身分ですねえ」

 と話しかけながら犬の隣に座った時、ふと、右手の中指がなんとなく頼りなくなった気がして、慌てて目をやった。

指輪はちゃんと嵌っていた。

「は~焦った」

 こんなことが日に二,三度ある。どうしてかは分からない。別に指輪が緩いわけではない。だが時々、ちゃんと嵌っているかどうか確認しないと、不安なのだ。

 私はほっとして、右手で犬の背中を撫でた。

 午後。昼ご飯を食べてから本など読んだりしていれば、時間はあっという間に過ぎる。

「えっもう三時?」

 そろそろ買い物に行かなければならない。遅くなると、タイムサービス狙いの客で、店が混む。新型肺炎の感染者が鹿児島でも出始めたが、皆、まだ普通に歩いている。なるべく空いている時間に買い物を済ませたい。肺炎のことが無くても、人混みの中で買い物はしたくない。若い頃は、人混みなど平気だったが、最近はすっかり苦手になってしまった。

 身支度をして、外に出た。庭の桜が咲き始めている。

「お父さん、桜だよ」

 私はそう言いながら、桜に向かって銀の指輪を嵌めた右手を桜の木の方へかざした。父が亡くなる数日前に、この桜の枝の、花が咲いている枝を一本取って、父の病室に持って行ったことを思い出した。そのとき父は、花をじっと見ていた。

「ついでに本屋にも行こうかな」

 ふと思いついた。であれば、先に本屋に行かなければならない。先に食材を買いに行って、冷凍食品を持ったまま本屋に行くのは難儀だ。

 本屋は空いていた。

(あ、これ、前にお父さんに買ってあげた本だ)

 父にはよく、「この本を買ってきて欲しい」と頼まれたが、私が勝手に「これはお父さんが読みそうな本だ」と思ったものを買って渡すこともあった。今、私の目の前にある秋吉敏子著『ジャズと生きる』もそんな本のひとつだ。私はしばらくその本の前に立っていたが、(そうだ、早く帰って私もこの本を読んでみよう)と思い立った。結局、本は買わなかった。

 急いで買い物を済ませたが、トイレットペーパーは忘れなかった。時計を見れば四時半。夕食の準備まで『ジャズと生きる』を読んで過ごした。

 風呂に入るときは、銀の指輪は外す。風呂から上がると指輪を嵌める。そして寝る前にまた外してケースに入れる。VIP扱いである。私の成人の祝いに父が買ってくれたものだから、結婚指輪より付き合いが長い。結婚指輪の扱いが雑に見えるだろうが、こちらの方は、買ってくれた人が私のそばにいるから、その人を大事にしようと思う。