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桃介との出会い|女優、貞奴 幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人。(2)

だぶんやぶんこ


約 8595

(さだ)(やっこ)が芸事の修行を続けていた1881年のことだ。

修行は楽しかったが、慣れてくると、それだけでは満足できない好奇心がむくむくもたげてくる。

そして乗馬に惹かれた。

動くこと、動くものが大好きなのだ。

可免(かめ)に「乗馬を習いたい」と頼んだ。

(さだ)(やっこ)の望みを何でも叶えるお不動さまは、可免(かめ)だから。

可免(かめ)は、名高い馬術の名人、草刈庄五郎(1831-1896)が良いと会いに連れて行ってくれた。

庄五郎は、可免(かめ)の常連の客であり、ごひいき客でもある大切な友人だった。

乗馬を習いたい名家の子女から芸者衆まで幅広い活発な女性に教えていた。

(さだ)(やっこ)は、草刈庄五郎から乗馬を習うことになる。

草刈家は、江戸時代、仙台藩に八条流馬術師範家として仕えた。

始まりは、古く1500年代半ば、甲斐源氏、小笠原氏から馬芸を学んだことだ。

そこから、独自の馬術を編み出し八条流を創り、その妙技が高く評価された。

馬術は武芸の一つであり武士にとって重要だった。

また、乗馬は武士以外には許されなかった。

以来、諸藩に呼ばれ馬術師範として仕えるが、特に、仙台藩・尾張藩では八条流が気に入られ、独占的に教えるようになる。

代々、仙台藩江戸屋敷で馬術師範をしていた草刈家だったが、庄五郎は、新しい時代が来て、役目を終えた。

やむなく、次にどうすべきかを考える。

八条流馬術師範家として生き残るために、幅広く馬術を教え、流派を守ろうと考える。

そのための資金を、尾張藩、徳川家に願う。

了解され出資を受けて、本所緑町(墨田区南部)に土地を得て馬場を開く。

仙台藩・尾張藩からの収入が流派の屋台骨を支えていたが、藩からの収入が途絶え、幅広く教える方式を取ったが、武士がいなくなると生徒は減少していく。

望むもの誰にでも馬術指導を行なっていくが、苦戦していた。

そこに追い風が来た。

1871年(明治四年)新政府は町民でも、馬子(まご)(馬を引く人)がいなくても、馬に乗ることを許したのだ。

武士しか乗馬できなかった制度が廃止された。

乗馬に憧れていた裕福な町民らが教えてほしいと集まってくるようになる。

草刈庄五郎は、名人芸を持ち、教え方もうまく、引く手あまたとなる。

自信を得た草刈庄五郎は、もっと生徒を増やしたいと、男女の制限をなくした。

そのことが話題となり、裕福で運動神経に自信のある女人が次々馬術を習い始める。

美しい女人がいれば、相乗効果で、芸人から商工業者まで男性も増えた。

こうして、乗馬を習うのが流行となり、ステ-タスとなっていた。

そんな噂を聞いた(さだ)(やっこ)が、興味を持って、可免(かめ)に頼んだのだ。

まだ10歳の(さだ)(やっこ)だったが、乗馬を始めると、すぐに馬と慣れた。

愛馬を選び、決まると、めきめき上達する。

しかも、馬場でいろんな女性と巡り合い、別の世界を知り、楽しくて仕方ない。

多くの著名な女性に可愛がられた。

 中でも道場一、有名だったのは唯一の女性の代言人(のちの弁護士)として一世を風靡(ふうび)した園輝子だった。

お召(おめし)縮緬(ちりめん)(将軍が好んだ最高級の絹織物)の羽織(はおり)仙台(せんだい)(だいら)(仙台だけで作られる最高級絹織物)の(はかま)でさっそうと馬に乗り、隅田川べりを疾走する姿は黒山の人だかりだったと聞かされた。

(さだ)(やっこ)が習い始めた時はすでにやめていたが。

  園輝子の生きた軌跡は、不確かなことが多いが、(さだ)(やっこ)の波乱万丈な生き方に通じる。この頃、稀有で見事な生き方を貫いた女人は、不当な評価をされることが多い。

(さだ)(やっこ)は、園輝子の生き様を自分なりに高く評価し尊敬した。

明治新政府は、代言人に関して、次々、法律を定める。

1872年(明治5年)司法職務定制により代言人が設けられた。

資格は必要なかった。

1876年(明治九年)代言人規則が制定され試験による免許制になる。

性別は問われない。

1893年(明治二六年)弁護士法が制定され、弁護士は成年男子と決まる。

女子は排除だ。

園輝子(1846-1925)は、日本史上、最初で最後の女代言人となる。

生まれたのは江戸、1846年。まもなく、茨城県の土浦に移り育つ。

父は医者で、裕福だった。

四人兄弟で、兄と弟は医者。

妹は、園家が設立した地元初の女学校の教師となる。

幼いときから才気煥発、13歳で父親から和歌を習い始めた。

1865年、19歳で水戸藩士に嫁ぐ。

続く明治維新、廃藩置県の大変革で士族は禄の代りに一時金として公債証書を得る。

その使い方を巡って夫と対立。

1868年、娘、豊子が生まれる。

夫婦の諍いは続き、夫の考える商売は、武士の商法で破滅は見えていると主張。

夫の生き方に納得できない輝子は憤慨して、1871年、別れ、娘を連れて実家に戻る。

妹とともに3年ほど女学校で教えたが、将来や娘の教育のことを考えてもっと学び、将来の道を付けたいと、東京に出た。

法律に興味があり、その道に進見たくて、娘を残しての単身上京だ。

園家は、長男が亡くなり、弟は三田家に養子入りしており、輝子が園家を継ぐことになっていたが、その役目は娘、豊子が受け継ぐことにした。

そこで、妹に預けたのだ。

知性溢れた輝子は、親戚の明治政府官僚の代書の仕事をした。

3ヶ月後、代言人と出会う。

1874年、弁舌には自信があり代言人を手伝い始め、すぐに自ら、弁護活動を始める。

この時、代言人の法律はなく、輝子は思い通りに代言人として活動をした。

女性代言人は、輝子ただ一人。

すぐに、輝子は有名人となり、裁判所に向かう輝子を見る人垣ができるほどになる。

裁判にはかならず勝つとまで言われ、多くの裕福な顧客を持ち、1874年から11年、代言人を続ける。

代言人として挨拶するときの衣装は、小倉袴に靴、髪は束髪。

輝子のお気に入りの姿で、弁舌爽かに論旨堂々たる「お姫様代言」となる。

束髪は手間がかからず簡単に結える髪型。いろんな形がある。

輝子の束髪は、日本婦人の束髪の元祖と言われたほど有名になる。

おしゃれで実用性のあるものだった。

代言人は、収入の良い好きな職業だったが、次第に活躍の場がなくなっていく。

免許制になっても、しばらくは猶予があり免許がなくても仕事が出来たが、試験に合格し免許を取る必要が出てくる。

試験に合格するためには、それなりの勉強が必要で、学校に行く必要があった。

だが、性別は問わないとされても、女子が入学できる学校はなかった。

試験を受けることさえも難しく、大きな壁にぶち当たる。

そこで、副業を考える。

1876年、浅草並木町で、女代言人の氷店を開く。

この年は、まれに見る熱さで、大繁盛だったが、毎年は続かず、やめた。

救いは、代言人を続け、輝子の人脈が広がったことだった。

顧客でもあった鳶の者などは、輝子が望めば、瞬く間に数百名、勢揃いをするのだ。

中江兆民・風月堂などなど名高い人々も輝子に救われ、毎年輝子に餅を送る。

世話になった人に、餅を送る習慣も、此の時からだと言われるほどだ、

輝子の付き合った男性。

東京で引き立ててくれた官僚との濃密な付き合い。

1876年、代言人試験を受け、代言人となった渡辺小太郎。

その他にも、いくつか恋をしている。

渡辺小太郎とともに代言人として生きるしかないと決めた輝子。

だが、不仲になった。

女人の輝子は、代言人を続けられなくなっている。

大義名分は、男女を問わない代言人の受験資格だった。

だが、女子で試験を受けた人はいない。

園輝子は、男子しか代言人になれない現実に、どう贖ってもだめだと、代言人になることはあきらめた。

納得できず、次に何をすべきか考える。

そこで、妹ともに創立から携わった女学校で教えたことを活かしたいと考える。

教育が、今の困難を解決する原点になると確信していた。

男子にも負けない学力を持たせると女子教育にかける決意をする。

方策を考えるうち、アメリカでは女子の高等教育の場があると知る。

学べば、資格を得られるとのこと。

「そうだ。アメリカでは代言人に女子もなれるのだ」と信じた。

留学しなくてはならないと、動き出す。

そこで、面識のあった慶応義塾の福沢諭吉に、支援と教えを受けたいと尋ねる。

諭吉は「婦人の洋行の皮切りとしては大賛成だ。だが男子の洋行では日本の金を捨てて来たものも多い。無一文で行って大いに稼いで持って帰って欲しい」と皮肉を込めた冗談を言いながら賛成した。

 福沢諭吉の長男、一太郎・次男、捨次郎も留学しているが、投じた資金ほど勉強していないと不満だった。

輝子の少し後、留学させた桃介には、多くのお金をせびられ送ったが、結局、お金をどぶに捨てたと怒った。

輝子は諭吉の反応に失望し、ますます闘志を燃やして、アメリカの先進的な女子教育の在り方を学び持ち帰り、日本で活かすと決意した。

輝子39歳の時だ。

貯金と支援金を集め、どうにか出発の準備ができた。

1885年 (明治一八年) 12月19日出航、サンフランシスコには翌年1月7日に到着。

出国の際、決意の歌を残す

動かじな この身を千々に くだくとも 國にちかひし 大和こころは

外国の 露とこのみは きゆるとも 意むなしく たちかへるべき

サンフランシスコに着いた。

まもなく、資金を預けていた銀行が破産したことを知る。

頼みの銀行が亡くなり、お金も消えた。

以後、苦労しながら働き学ぶことになる。

まず、小学校に入学、英語の勉強を始める。

そして2年、英語の会話・読み書きを学び、42歳で卒業した。

この間、経済封鎖に追い込まれた輝子を助けたのが教会の人たち。

教会との付き合いが始まると、恩もあり、キリスト教に感化されていく。

こうして、輝子は卒業後、サンフランシスコ婦人会(園輝会)を創立。

キリスト教の布教に努めつつ、勉学も続けたいとシカゴの学校に入る。

続いてニューヨークの学校に転校、女子教育のあり方を学び続ける。

この間、人権を守り福祉の向上を目指し、貧民の救済のために活動する世界婦人矯風会の演説を続け、多くの聴衆の賛同を得た。

 こうして、キリスト教の精神に基づく女子教育の普及の目的に向けて、講演を続け、一流の演説家として高名になる。

藤井領事・外務省官僚、早川鉄冶・渡米していた日本鉄道社長、奈良原繁・教育普及に尽力した土方久元伯などと、話し、女子教育のための学校づくりの協力の約束を取り付けた。

教会からも資金援助を受けることが決まり、日本での学校設立への準備が整う。

こうして、意気揚々と1893年帰国。

そこで、福沢諭吉に会う。

アメリカで自伝を出版し資金を得て、女性の権利拡大のための運動を続けたと報告。

諭吉は、皮肉が真実となり、黙って呆然と見つめ「吾々男は、恐縮の他はない」と話した。

いよいよ、1894年、倚松女塾学校を作り教育者となる。

必須学科は読書、習字、作文、算術、英学、家計簿記、修身、家事経済及び衣食住に関する事、衛生及び育児法の要旨、礼儀法、和洋裁縫、和洋料理。

現代からすれば、男女平等に法律家を目指す教育には程遠いが、盛りだくさんの教養科目を教える。

和歌及び挿花の類は選択とする。

開塾の時、祝辞を述べたのが、牧師、美山貫一・ 渋沢栄一 ら。

来賓には、キリスト教徒、津田仙・津田梅子ら、各界名士の婦人たち。

錚々たる人達が集まった。

華々しい始まりだった。

ところが、学校を初めてまもなくから、日本のキリスト教会との諍いが始まった。

園輝子は、独自の教育論を持っていた。

主な出資者、キリスト教会の言いなりにはならない。

日本で活動する教育改革を目指すキリスト教信者の教育と違った。

輝子はなんと言われようとも独自教育を貫く。

それは、キリスト教会からの支援が絶たれることにつながった。

資金難となった倚松女塾学校は閉鎖に追い込まれた。

生涯をかけた事業だったが、4年にも満たない期間で閉鎖となった。

誇り高く、志を曲げることは絶対にできない輝子は、1898年、伊豆伊東で伊藤婦人会を結成。

小規模になってしまったが、女子教育の重要性を説き、活動する。

だが、キリスト教会からの支援を断たれ、教会から離れると、園家の信仰する法華宗に傾く。

そして、1904年、58歳で「充分、力いっぱいやりきった」と満足感を感じ、池上本門寺で出家、日輝法尼となる。

本門寺の境内の奥深い静かな地に右松庵を建立、住まいとする。

園家を引き継いだ証として、父母・妹の墓所を作り、終の棲家と決める。

庵建立資金を除き、財産全部を渋沢栄一に預ける。

こうして、金の心配もなく、世俗には一点の執着もない、悠々寂々毎日古今東西の書を読み耽るのが仕事となる。

それでも慈善活動は続けた。

本門寺大客殿の新築への資金を寄付。松苗千本の寄進。

土地の学校への寄付、貧民生徒の毎年教科書贈与。

赤十字、愛国婦人会、日清日露戦役軍需品寄附等々。

人を助けても決して礼を望まない生き方を最後まで貫く。

1925年、79歳で大往生だ。

(さだ)(やっこ)がこの頃知ったのは、若き園輝子の逸話ばかりだが「凄い生き方をした人だ。羨ましい」と思う。

以後、園輝子が話題になったり、新聞に掲載されるとよく読んだ。

折々、思い出す。25歳年長の尊敬する人だ。

馬術を習い始めて5年、運動神経抜群の(さだ)(やっこ)15歳は、愛馬を持ち、息もぴったりで乗馬に自信を持つようになる。

忙しく長時間の練習はできないが、寸暇を惜しんで愛馬と触れ合う。

愛馬に顔を寄せ話しかけ、飛び乗り疾走すると、心落ち着き篤いものがこみ上げた。

愛馬は、心の友であり、親友だった。

草刈庄五郎の教えは「馬術の上達は愛馬との会話の中で生まれる」だった。

愛馬の思いがわかるようになり、上達したのだと思う。

良き師に巡り合えたと、草刈庄五郎と出会えたことが嬉しい。

草刈庄五郎は、折々、宣伝を兼ねて、馬術の演習会を開く。

そんな時貞奴の存在は光り、草刈庄五郎の教え方にも力が入る。

貞奴の練習にも力が入り、実力を確かめたくて遠出したくなった。

行きたいところは、成田山新勝寺。

可免(かめ)と何度も参ったお不動様に会いたくなる。

50㎞以上も離れた成田山新勝寺までの遠出を決めた。

可免(かめ)もお参りに行くと言えば、許した。

気楽に一人でお参り出来るのだ、ルンルンだった。

さわやかな風に吹かれ、颯爽と愛馬と共に走った。

見慣れた成田山新勝寺なのに、新鮮で美しく感じる。

良い気分に浸りながら、愛馬と共に、ゆっくりお参りを済ませると、晴れ晴れとした気分になったが、予想以上に時間がかかってしまった。

急いでの帰途、運悪く野犬に遭遇し、馬が立往生してしまう。

人馬一体となって訓練を続け、愛馬と(さだ)(やっこ)とは強い信頼関係で結ばれている。

それでも愛馬が興奮すれば何が起きるかわからない。

愛馬にけがをさせることはできない。(さだ)(やっこ)も振り落とされたくない。

演習会が迫っている。無事に戻らなければならない。

頭が真っ白になるが、必死で、鞭で振り払いながら野犬が去るのを願ったが、対峙したままで動きが取れなくなった。

その時、現れたのが岩崎桃介。

すぐに事情を呑み込み、棒切れを持ち、対峙し野犬を追い払ってくれた。

これが桃介との運命の出会いだった。

(さだ)(やっこ)は極度の緊張から逃れ、ほっとし、桃介に礼を言うのが精いっぱいだった。

桃介は「岩崎と言います。慶応の学生で寮生活だ」と言っただけで立ち去った。

その言葉だけは、頭にきっちりと入った。

(さだ)(やっこ)は、家に戻っても誰にも言わず、桃介との夢のような出会いを思い出しては、にやにやドキドキだ。

桃介は俗世間に汚れていない超然とした品の良い学生だった。

知らない世界の人のようでとても新鮮だった。

「出会いを導いてくださったのは、お不動様だ」と信じた。

しばらくは夢の中にいるようだったが、いてもたってもいられなくなる。

きっと運命の人だと、行動を開始する。

学生ではとても買えない高価なお菓子をもって、慶応の寮を訪ねた。

桃介が真実を言ったかどうか分からない。

それを確かめるだけだと自分に言い聞かせた。

すると、いつもの落ち着きを取り戻すことが出来た。

そして、堂々と、桃介の在宅を確かめる。

少し待たされたが、桃介が現れた、ちゃんと会えた。

(さだ)(やっこ)は会えてほっとした程度だったが、桃介の驚きは普通ではなく、言葉も出なければ地に足がつかないほど慌てふためいた。

周囲の友人たちの冷やかしに照れながらも、嬉しさを隠せない桃介の初々しい顔に引き付けられる。

 きっちりと礼を言い、お菓子を渡して、頭を下げて帰った。

後ろで聞こえる桃介への冷やかしの声が嬉しい。

(さだ)(やっこ)は初恋の人に再会し、運命の人だと確信した。

ますます、お不動様のご加護だと、ほおが緩む。

「いける。大丈夫」と度胸がついた。

その後、理由を付けては手土産を持って慶応の塾舎を訪ね、楽しい時間を共に過ごす。

桃介の好きそうなものを思い巡らし、手土産とするのが無上の楽しみになる。

会いたくて会いたくて、初めて知った胸が痛くなる思いだった。

会って四方山話をして笑いこける、ありきたりのとても充実した時間が過ぎる。

だけど、桃介の様子がどこかおかしいと思い始めた。

すると、桃介の不在が続き、桃介はアメリカ留学へと旅立ったと聞く。

初恋は終わる。

一年にも満たない短い付き合いで、理由を聞くこともなく終わってしまった。

芸者仲間や、お座敷で知る世界とは全く別の世界を垣間見て、桃介が好意を抱いていると強く感じていたのに、信じられないあっけない結末だった。

福沢家との関係を予想はしていたが、桃介の心の動きを、つかめていなかったことが悔しくて悔しくて涙があふれる。

とても大切な時間だったが、苦い思い出に変わる。

(さだ)(やっこ)が一本立ちの芸者としてお披露目する時期が近づきとても忙しく、感傷に浸る間はなかった。

だが5年後1891年(明治二四年)桃介の貞奴への想いは終わっていないと知る。

乗馬を習い続けていた貞奴は、20歳で上野池之端での母衣引(ほろいん)競技会(きょうぎかい)に出場。

一反10メ-トルの長い絹の布をなびかせて疾走した。

油断があったのか、無理があったのか、運命か、白布が池畔の柳に引っ掛かかった。

絹の布は、柳に巻き付き、貞奴は、宙を舞うように落馬。

貞奴は一瞬何が起きたかわからず、失神した。

すぐに、驚き駆け寄る関係者観衆の声が聞こえ、正気に戻った。

多くの声の中に、桃介の声があり、聞き分けることが出来た。

見つめる人たちの中に桃介がいたのだ。

貞奴の柔らかい身体は衝撃に耐え、けがはなかった。

桃介の大丈夫かとの声が心に深く残った。

ただ、桃介を見て、うなづいただけで、別れたが。