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貞奴誕生|女優、貞奴 幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人。(1)

だぶんやぶんこ


約 10290

明治・大正・昭和の時代、日本一の大女優として世界に誇る大輪の花を咲かせた、華やかな才女、貞奴がいた。

その奇想天外、信じられないほど痛快な生き様を綴る。

貞奴は、女優であるだけでなく革新的な生き方を貫き、数々の偉業を成し遂げた。

女優を創ることに取り組み、自力で日本初の女優養成所を作る。

女性が快適に働ける会社を創りたいと、自ら起業し経営する実業家となる。

 演劇の未来のため、児童劇団を作り、子たちの演劇への熱い思いを引き出す。

 演劇・俳優を目指す人をあまねく照らすために、芸事成就の寺、貞照寺を建立する。

それだけではない。

川上音二郎・福沢桃介という時代の寵児を愛し、成功させた、偉大な業績もある。

二人とも(さだ)(やっこ)なしには名を残せなかった。

大女優、(さだ)(やっこ)

1 (さだ)(やっこ)誕生

2 桃介との出会い

3 (さだ)(やっこ)、一流芸者に

4 (さだ)(やっこ)、演劇を知る

5 音二郎との出会い

6 川上座、完成

7 音二郎の民権運動

8 (さだ)(やっこ)、海外へ

9 (さだ)(やっこ)、国際女優になる

10 (さだ)(やっこ)、文化大使になる

11 (さだ)(やっこ)、パリに咲く華

12 大女優、(さだ)(やっこ)

13 (さだ)(やっこ)、日本一の女優に

14 (さだ)(やっこ)、さらなる高みに

1 貞奴誕生

(さだ)(やっこ)は1871年(明治四年)9月2日、生まれた。

廃藩置県が行われた年だ。

江戸幕府がなくなり明治新政府となったことを、人々がようやく肌で感じ始めた頃だ。

出生地は、東京府日本橋、芝明神(東京都港区)の近く。

書籍・茶・質屋を営む越後屋の12番目の子供だ。

母は、気が遠くなるほどの子供を生み続けた。

(さだ)(やっこ)は、源兵衛・花子・トヨ・タカ・留吉・久次郎・夏子・彦三・倉吉・勝次郎の兄姉がいる末っ子だ。

就職・結婚・養子入りと家を離れた兄姉も多いが、近くにいた兄姉たちが、生まれたばかりの(さだ)(やっこ)の顔を覗き込んだ。

不思議そうな顔をし笑う。「お猿さんみたいだ」と。

赤くてくしゃくしゃした顔だった。

だが、大人は、この世に生まれてまだ目も明かない赤子の顔に感動した。

見れば見るほど感心する、絵に描いたように目鼻立ちの整った顔だったのだ。

両親は複雑な思いで、じっと見つめた。

我が子だから可愛いのは当然だが、12人目の子なのだ。

「もう子供は十分。生まれなくても良かったのに」とそれぞれが胸中で思う。

父と母は、新しい明治の代となって4年、江戸が東京府となり、旧時代は崩れ去ったことを、恐ろしく感じていた。

江戸の世に戻りたいと切実に願っていたのだ。

母、タカは日本橋(東京都中央区)で町役人を務め両替商・質屋・書籍を手広く営む越後屋の一人娘だった。

江戸城奥御殿に努めた経験もある教養にあふれた知の人だった。

町家から江戸城奥勤めをするのは美人であることも条件だ。

母は、美の人としても有名だった。

タカには兄弟はいない。一人っ子だ。

タカが生まれた頃は、幕末ではあっても、江戸の町は落ち着いており、越後屋も手広く両替商を営んでいた。

何不自由のないお嬢様として、大奥勤めし、女人として最高の教育を受け、皆が高根の花と崇めていた。

だが、タカは、養子を迎えて、家を継がなくてはならない家付き娘だ。

両親は、越後屋にとって誰を養子に迎えるのが一番良いのか、頭を悩ませる。

熟考に熟考を重ねて選んだ婿が、高座郡小山村(相原村となり後に相模原市)生まれの父、小山久次郎だ。

父は、出身もよく、賢く、おとなしい、優しい人だったが、祖父母が見込んだほどの商才はなかった。

それでも母は、父を気に入り、結婚生活は順調だった。

一人っ子で育った母は、兄弟のいない寂しさを味わい子供が欲しくてたまらなかった。

子を待ち望み、まもなく長男、続いて次男が生まれた。

母は、これで越後屋の後継は大丈夫だと、感激の涙をあふれさせた。

ところが、以後も、次々子が生まれた。

そして12人の子となり、父母は「荷が重すぎる」と悲鳴を上げた。

江戸幕府の衰退に連れて越後屋の商いは少しづつ小さくなっていた。

だが、養子の父は、大店(おおだな)としての格式は守らなければならないと、万事、今までのしきたりを変えることはなかった。

派手な店構えも同じように続けた。

それどころか、幕府が倒れるはずがないと、思い込んでいた。

だが、1868年、幕府は倒れ、明治新政府が誕生した。

悠然と構えていた父は、貸し付けていた多くの債権が回収不能となるのをただ茫然と見ているだけだった。

その上、新政府により新たに貨幣制度が作られ両替商の必要性がなくなっていくのに、手を打てなかった。

金融の機能が銀行に移っていく。

父母は新時代の商売へと変わることが出来なかった。

債権の回収が出来ず、銀行への参加も出来ず、新商売を見つけることが出来ない。

日本橋の大店、越後屋を維持できなくなった。

引き払うしかなかった。

芝明神の小さな店に移り、店を続ける。

その時、(さだ)(やっこ)が生まれた。

(さだ)(やっこ)の兄・姉は、結婚したり働いたりと自力で生きる道を見つけて、次々、家計の苦しい父母の元を離れた。

(さだ)(やっこ)が覚えている一緒に暮らした家族は、すぐ上の兄、勝次郎と父母だけだった。

小さな店となり、商いはわずかとなっても、父母は以前の暮らしを忘れられず、豊かな暮らしを続けた。

その為、(さだ)(やっこ)に貧乏だった記憶はない。

(さだ)(やっこ)は、物心のつく4歳になると、琴・踊りの稽古に通う。

母は音楽が大好きで優雅に琴を弾いた。

その音色を(さだ)(やっこ)は、気持ちよさそうに聞いていた。

それを見て母は、嬉しくなって稽古に通わせたのだ。

(さだ)(やっこ)は、母の性格・素質を受け継ぎ、音楽が大好きだ。

稽古の行き帰りに日本橋(よし)(ちょう)(中央区)を通る。

そのにぎやかさも大好きで、喜んで稽古に行く。

越後屋を処分した資産で暮らしていたが、いつまでも続かない。

父母は、また行き詰まる。

母と音楽を楽しむ暮らしはできなくなる。

しかたなく、父母は、(さだ)(やっこ)の兄、倉吉に、(さだ)(やっこ)を預けることに決める。

倉吉は著名な彫金家(ちょうきんか)、加納夏雄(1828-1898)に弟子入りし、才能を見いだされ見込まれ、娘、冬の婿となった。

そのため、親戚であり、喜んで(さだ)(やっこ)を引き取った。

加納夏雄は、京都柳馬場御池の米穀商伏見屋に生まれ、望まれて親戚の刀剣商、加納治助の養子となった。刀剣が好きで興味があった。

養家に入ると、(つば)や柄の美しさに魅せられ、自分でも作ってみたいと、(たがね)を握る。

その様子を見た養父母は、素晴らしい才能を持っていると、彫金師、奥村庄八に引き合わせ、12歳から修行を始める。

奥村庄八は、加納夏雄の画才に驚き、まだまだ上を目指すべきだと、平安四名家と呼ばれた一人、円山派の絵師、中島来(なかじまらい)(しょう)に引き合わせ、14歳で師事し学ぶ。

ここでも、メキメキ才能を発揮し、写実を極める。

1846年、19歳で金工師(刀剣につける刀装具を作る工匠)として独立。

京都で高く評価される。

1854年、さらに腕を磨き幕府の役に立ちたいと、江戸に移る。

神田佐久間町(千代田区)に店を構えた。

明治維新となると、京都出身の高名な金工師であると見込まれ、明治天皇の太刀飾りを創る栄誉を得た。

  明治天皇が大変気に入られ、その縁で、新貨幣の原型作成を命じられる。

一生懸命に創り上げる。

原型だけを日本で作り、イギリスで、新貨幣の型を制作する予定だったが、担当のイギリス人技師ウォートルスは、加納夏雄の出来栄えに感嘆した。

出来栄えは、イギリスでの制作を超えると、イギリスに発注の必要はないと、言った。そこで、デザインから型の制作まで全て加納夏雄に任せられる。

以来、想像を超える仕事を得て、人も必要となり、高名になり、豊富な資金を得た。

そんな縁で、倉吉が弟子入し婿となり、貞奴も望まれたのだ。

皮肉にも、金銀の両替を家業とした(さだ)(やっこ)の越後屋は、全国が新貨幣に統一されたため必要なくなり、失業したのだ。

加納夏雄の養家、刀剣商も廃刀令が交付され仕事は減った。

越後屋の仕事を奪い、加納家は、新貨幣の移行にうまく乗り、山のような仕事を得たのだ。

加納夏雄は、(さだ)(やっこ)を育て嫁に迎え、加納家一門とするつもりで引き取った。

すぐ上の兄、勝次郎は父方の親戚、幡豆(はず)家に養子に行かされた。

父、小山家もそれなりの名家であり、幡豆(はず)家も裕福だった。

二人には相応の支度金が支払われ、父母は一時、経済的に楽になる。

こうして、(さだ)(やっこ)は加納家に行く。

だが、すぐに加納家の雰囲気に息が詰まる。

地味で真面目に仕事に精出す加納家は、(さだ)(やっこ)に不自由させないが居心地は良くない。母との音楽三昧の暮らしが恋しくてたまらない。

目の前の現実が面白くないと、どうしようかと考えるのが(さだ)(やっこ)だ。

いろんなことに関心を持って紛らわそうとする。

加納家が創っているものに興味を持ち、金属を彫って彫刻する技術、彫金の手法を見つめ続け、美しさに魅せられた。

丹精込めて創られた品々に心惹かれ、美しいものを見る目を養なう、日々となった。

それでも、周りにいる加納家の子たちとの付き合いには閉口した。

加納家の子たちが口々に「僕のお嫁さんになるんだ」と言うのだ。

その馴れ馴れしさに、気を悪くした。

幼いのに、あまりに可愛くて人気者だったゆえに引く手あまたとなったのだが。

(さだ)(やっこ)は型にはまった暮らしが嫌いだ。

「結婚相手は自分で見つける。勝手に決めないで」とむかつく。

加納家での暮らしが嫌になる。

母から「加納家が家だと思うように」と言われており、実家に帰ってはいけないと分かっていた。

思いついたのが、神田佐久間町から大人の足で三十分ぐらいの何度も通った日本橋(よし)(ちょう)の浜田屋。

一人でも行けると逃げることを考える。

琴や踊りのおけいこの行き帰りで見知った母の知り合いでもある女将(おかみ)可免(かめ)なら助けてくれると。

こうして、可免(かめ)の腕に飛び込んだ。

すぐに加納屋から迎えが来るが、(さだ)(やっこ)は「加納屋に戻りたくない」とはっきり言った。

その言葉に喜んだのが芸者置屋「浜田屋」の女将(おかみ)可免(かめ)

飛び込んできた(さだ)(やっこ)に最初は驚いたが、すぐに美的センス、音楽的才能等々を見抜いて、世のめぐり合わせに幸運を感じていたのだ。

そこで、母、タカに「ぜひとも預かりたい」と願う。

可免(かめ)は、時たま見かける(さだ)(やっこ)を目に留めており、友人の娘として迎えた。

まだ6歳なのに、大人びた優雅さと子供っぽい無邪気さを合わせ持つ(さだ)(やっこ)

可免(かめ)に「生家や加納屋は暗くて大嫌い。賑やかに人の行き交うこの家が好き」と訴えながらまとわりついた。

そんな(さだ)(やっこ)の様子を見て、母もやむを得ず「しばらくは預けます」と答えた。

(さだ)(やっこ)を預かった可免(かめ)は、望むように芸事を習わせた。

(さだ)(やっこ)は、しばらく芸事に遠ざかっていたので、水を得た魚のように生き生きと習う。可免(かめ)は、見込み通りと目を輝かす。

(よし)(ちょう)は新時代にうまく乗って、新政府の役人が多く訪れる花街となっていた。

目ざとい可免(かめ)は「芸者はいくらでも必要になる」と閃き、売れっ子芸者だったが、一歩引き、芸者置屋「浜田屋」の女将になった。

芸者を育て、儲けることにとても熱心だった。

それだけではなく「(よし)(ちょう)を一流の花街にする」と燃える思いもあり、一生懸命芸者を育てていた。

当時、(よし)(ちょう)は花街としては二流とされていた。一流は柳橋、新橋の芸者だ。

可免(かめ)はその評価が悔しくて才能ある娘を集め育て、一流の芸者とすることを目指したのだ。努力が実り、また天性の才があり、優秀な芸者を育て人気の芸者置屋となった。

そんな時、(さだ)(やっこ)に出会った。

柳橋、新橋の芸者に負けない芸のできる一流の芸者を育てたと自負し、(よし)(ちょう)界隈では、やり手の女将(おかみ)として名が知られた時だった。

少し自信が出来、もっともっと良い人材を集め、置屋を大きくしようと考えた。

また、一番出来の良い娘に、浜田屋を引き継がせたいとも思うようになっていた。

子がいないので、芸者を育てることは後継を探すことでもあり、そんなことも楽しみだった。

預かってからしばらくすると、(さだ)(やっこ)に習わせた芸事の上達ぶりに目を見張る。

可免(かめ)は、目に狂いがなかった、自分をはるかに凌ぐ芸者になると、胸躍らせる。

そして毎日「加納屋に取られませんように。養女にできますように」とお不動さま(成田山の御本尊不動明王)に手を合わせる。

(さだ)(やっこ)が浜田屋の芸者になるとは信じられないほど、(さだ)(やっこ)の実家は、かっては、名家だった。

それ故、兄、倉吉は、加納家の婿になり、(さだ)(やっこ)を預かったのだ。

可免(かめ)は、(さだ)(やっこ)がいなくなるのではとおっかなびっくりしながらも、のめりこむように、(さだ)(やっこ)のあらゆる可能性を探り、考えられる限りの芸事を試した。

すべてに想像を超える才能を見せ、ますます(さだ)(やっこ)が好きで好きでたまらなくなる。

養女にしたい想いは募るばかりだった。

そんな時、(さだ)(やっこ)7歳、明治になって11年目の1878年、父が亡くなる。

商売に関してはやることなすことすべてうまくいかない、情けない婿だった。

失意の中で母に謝りながら逝った。

ここで、母は、代々続いた越後屋を閉め、長男の元に行くことに決める。

母の苗字は、子熊。

養子に出した幡豆勝次郎・貞奴を除いて他の源兵衛・花子・トヨ・たか・留吉・久次郎・夏子・彦三・倉吉は小山姓だった。

父は小熊家の籍に入っていなかったのだ。

母の父母の考えであり、それだけの婿だった。そして、亡くなった。

すでに、貞奴の兄姉は、それぞれ一家を成していた。

長女、花子は、水戸藩家老、中山家の奥に勤め、当主、中山信徴(1846-)との間に、1872年(明治2年)信徴の第4子、信光を生んだ。

いわゆる家女房として、信光を育て、信光は子爵、青木家を継いだ。

子爵、青木信光の母となるが、公にはされず、中山家に勤め続ける。

貴族院議員や企業の役員となる信光は、貞奴より一歳年下でしかなく親しい親戚付き合いをし、後々、青木邸近くに、貞奴が屋敷を建てることになる。

小山倉吉は加納家の冬と結婚。

長男、潤一と長女、ツルが生まれる。

潤一の次男、倉次郎の子が、玉起。

貞奴が最後を託し、養女とした大好きな娘だ。

 10人(一人夭折)の兄姉は個性的な生き方を貫き、それぞれが(さだ)(やっこ)とつながる。

(さだ)(やっこ)が音次郎や桃介という伴侶と暮らしていた時は、それぞれとの関係で付き合うが、晩年は、自由に思うように親しく行き来した。

ただ、個性が強すぎる(さだ)(やっこ)であり、衝突もあったが。

 母、タカは、(さだ)(やっこ)を連れてはいけず、最終的に、どうするか悩む。

可免(かめ)は、お不動様に手を合わせ、貞奴との出会いに感謝し、ご加護を祈った。

そして、改めてタカに「((さだ)(やっこ)を)我が子として育て一流の芸者としたい」と頼む。

母は(さだ)(やっこ)可免(かめ)に預けた時は、(さだ)(やっこ)を芸者にすることは考えなかった。

芸者にすることは、(さだ)(やっこ)を身売りさせることだと、親として恥だと考えていた。

そこで、一時預けることだけを了承した。

だが、父が亡くなり覚悟はできた。

貞奴が望む生き方をすれば良いと。

お金も欲しく、可免(かめ)の用意した高額の支度金を受け取り、養女とすることに同意した。

(さだ)(やっこ)は、代価を支払われて芸者置屋「浜田屋」に引き取られた。

(さだ)(やっこ)可免(かめ)は、実の母娘のように仲良く、(さだ)(やっこ)には喜びしかなかったが。

それでも、子供心に父の無念の死、母の苦悩を感じ、閉められた店を見て胸が張り裂ける思いだ。

きっと母を喜ばせると決意する。

可免(かめ)(さだ)(やっこ)を娘に出来て嬉しくてならない。

ずっと成田山新勝寺(千葉県成田市)へのお参りを欠かさなかった。

篤い信仰心を持っており、成田山のご加護で(さだ)(やっこ)と巡り合い、念じた通り娘となったとご加護を感じる。

御本尊不動明王(お不動様)に感謝し、お祈りを捧げる。

(さだ)(やっこ)は抜群の才女であり、加えて、育ちから来る品のよさが備わっていた。

ちょっとした動作がきれいで上品に周囲を(なご)ませる力があり、可免(かめ)にはない魅力だ。

可免(かめ)は「((さだ)(やっこ)は)特別の娘だ。お不動さんのお導きで出会えたんだ」と毎日、嬉しそうに話す。

そして成田山新勝寺に再々(さだ)(やっこ)を連れお礼参りする。

次第に、(さだ)(やっこ)もその篤い信仰心を受け継いでいく。

「宗教心も生き方も同じに育っている。娘以上の娘だ」と可免(かめ)(さだ)(やっこ)を溺愛した。

(さだ)(やっこ)7歳で本格的に柳橋、新橋の芸者に負けない芸者になるべく多くの芸事を習う。

可免(かめ)には、養女とした娘たちが幾人もいた。

彼女たちが「血のにじむようなつらい修行だ」と泣く習い事だ。

だが、(さだ)(やっこ)は泣くのを不思議そうに見る。

踊り・三味線・小唄・鳴り物(太鼓・鼓)・琴そして作法も習うが、難なくこなし、群を抜いて早くうまくなる。

素早い粋な着付けも見事にこなし、可免(かめ)は感心するばかりだ。

次第に「一流の芸者じゃもったいなさすぎる、(さだ)(やっこ)は日本一の芸者になるべきだ」と思いを変える。

「お不動様は悪魔をやっつけるために、恐ろしい姿をされ、すべての苦しみを乗り越えられた。仏様の教えに従わないものがあれば、無理にでもお導き助けてくださる仏様のお使いです。お姿は恐ろしいけれど、お心は人々を助ける優しい慈悲にあふれておられる。お不動様は(さだ)(やっこ)の心の内にあり、必ず護ってくださる。見た目は観音様の優しさやお地蔵様の暖かさとは違うけれど必ずご利益を下さる。(さだ)(やっこ)はお不動様と固く結ばれている。何事にも負けない強さを生まれながらに持っている。(さだ)(やっこ)と親子になれてこんな幸せはない」と可免(かめ)(さだ)(やっこ)を抱きしめる。

(さだ)(やっこ)が生まれた翌1872年、学制が制定され皆義務教育を受けるよう決まった。

小学校では、男女共学もある学校制度が定められたが、国民の意識改革はまだまだで、自己負担が大きく、普及しなかった。

女の子は勉強しなくてもという意識があった。

女子教育が当然の時代までには進んでいなかったが、(さだ)(やっこ)は、女の子でも大手を振って行ける小学校があることを知っており、行きたかったが、行かなかった。

可免(かめ)は一流の芸者になるための修業を何より優先させ、お稽古の合間に近くにある私塾で読み書きを学ばせた。

これで十分だと思っていた。

続いて、算数・国語・お習字なども暇を見ては習わせた。

年齢に応じて学ばせている。

教養の必要性はよく知っていた。

芸事一番だが、学問もおろそかにすることなく育てた。

「この子の頭の中を見てみたい」と思うほど教えられたすべてを吸収する素晴らしい頭脳だった。

だが、貞奴は生涯学業をおろそかにしたことを悔いる。

きちんと学校に行き、学びたかった。

1883年、(さだ)(やっこ)は舞踊と鳴り物(太鼓・鼓)を習熟し、お座敷で披露できるまでになる。

わずか12歳で雛妓(おしゃく)(半玉、芸者見習い)になり、()(やつこ)として座敷に出る。

まだ見習いだが、稼げるようになったのだ。

異例の速さだ。

この年、鹿鳴館が完成し、政府高官らの舞踏会が頻繁に開かれるようになる。

彼らは夫人令嬢を伴い参加する。

国策に関わる社交の場に、女性が出ていくようになったのだ。

あくまで彩を添える華にすぎないが、注目度は男性以上だった。

公式の場で、女性が表に出るようになった画期的出来事だった。

家内では一定の力を持つ夫人令嬢だが、外に向けて出る事はほとんどなかった。

ところが、鹿鳴館では、パ-トナ-となり、堂々と盛装して踊った。

洋装での慣れない場での踊りで、社交の役目を果たさなければならず、しり込みする女人も多かったが。

新しい政治体制になった明治時代の到来だ。

江戸時代とは違う政治経済軍事等々の体制づくりが、急ピッチで進んでいく。

顔合わせ・打ち合わせ・密談・接待などなどでの新しい人間関係を築く必要が多々あり、接待の場、お座敷の利用が飛躍的に伸びた。

そこには、芸者がなくてはならない。

可免(かめ)は、とても忙しくなった。

そして、胸震わせ、(さだ)(やっこ)を待ち受ける世界が来たのだ、と実感していく。

こうして、芸者、(さだ)(やっこ)が誕生した。

可免(かめ)は、(さだ)(やっこ)を見つめ、政財界の一流が集まるお座敷にのみ出させる。

場の盛り上げ方・受け答え・話題の作り方・座を引っ張る力量を身に着けるよう細心の注意で仕込む。

(さだ)(やっこ)は、新聞・本も熱心に読み、教養を深めていく。

可免(かめ)から一本気な仁侠(にんきょう)心と小気味のいいたんかを受け継ぎつつ、教えを受け芸者としての腕を磨く。

可免(かめ)の意図を推し量ることはなかったが、毎日が面白かった。

記憶力抜群で会話を覚えることが出来、次第に何が今話題なのか、政治経済の現状も理解し、自分の意見を言うようになっていく。

こうして、わずか16歳で、芸事をすべてこなし一人前の芸者になる準備ができた。

ここで可免(かめ)は、考える。

一流の芸者と認められるには、最初が肝心だ。

一本立ちの芸者となった証のお披露目は、派手で豪華であればあるほど、評価が高くなる。

一流の芸者になる早道だ。

だが、莫大な費用がいる。

そこで、最高の芸者は最高の人、総理大臣、伊藤博文を後援者としなくてはならないと決めた。

伊藤博文とは付き合いがあり、頼み、快諾を得る。 こうして、伊藤の後ろ盾で、(さだ)(やっこ)と名乗ることになる