安中藩家臣|井伊直虎を彩る強い女人達。(15)
だぶんやぶんこ
約 1564
井伊氏宗家を追い出され安中藩に移った直勝は、煮えたぎる思いだったが、江戸幕府に逆らうことなど、出来ることではなく、従う。
花姫の意向もあり、井伊家譜代の臣をできるだけ多く引き連れる。
最も信頼したのが、3000石を与えた鈴木重辰。
3万石の藩では、負担が大きすぎ、その他の譜代の臣には不満が残る。
そこで、1634年、重辰が亡くなると分割相続を持ちかけ、藩の負担を減らそうとする。
だが、鈴木家は納得せず、出奔。
旗本になることを願うが、実現せず安中藩士、鈴木家は消えた。
以来、筆頭家老は、松下家。
直政の母の再婚相手、松下清景(-1597)が始まりで、直政の養父の家系になる。
家康からの付家老が主流を占めるまでは、鈴木家とともに、井伊家筆頭家老格だった。
清景に男子なく、中野直之の次男、一定(1574-1641)を養子に迎え、続いていく。
その他の家臣団は、直虎が付けた井伊家譜代の臣が多い。
彦根藩では目立なく存続した小野氏・奥山氏は、安中藩政では重きをなす。
安中藩は、直勝の幕府・彦根藩に対する複雑な思いを受け継ぎ、幕府からの厳しい目を向けられる。
直勝は従順に幕府に従ったつもりでいたが。
安中藩政を安定させ、戦禍を受け荒廃していた安中城を修復拡張し、城下町建設では成果を上げた自負があった。
そして、1632年、家督を子の直好に譲って隠居した。
幕府は直勝の奮闘ぶりをよく見ており、安中藩の立て直しが出来たと見極め、直好を1645年、5000石加増で三河西尾藩に国替えとする。
西尾城と城下町の改築が中途のまま残されており、その完成のための国替えだ。
直好も、父を引き継ぎ、幕府に対して負けん気があり、必死で役目を成し遂げる。
ようやく城や城下町が活気を取り戻すと1659年、掛川藩に国替えを命じられる。
井伊家本拠地近くへの栄転のはずだったが、掛川藩に移った3年後、1672年、直好は亡くなり、嫡男、直武が継ぐ。
直義ほどの覇気がない直武(1650-1697)は、幕府から暗愚とみなされた。
前藩主、北条氏重は、63歳まで生きて、養子の願いも出していたが、認められず、無嗣改易となった外様大名だった。
直武も、北条氏のように扱われていると恐怖していた。
宗家、彦根藩があり掛川藩井伊家は、幕府にとって必要のない藩とみなされているのだ。
それでも、懸命に藩主を務めた。
1694年、井伊直朝(1680-1715)が継ぐ。
ますます、幕府から用無しの藩とみなされていく。
ついには、発狂したと幕府からみなされ、1705年、改易だ。
この道を創ったのは直孝だった。
嫡男、直滋を奪われたと確信し、花姫・直勝を憎んでいた。
能力のない直勝の家系は抹殺されるべきだと厳しくし、直勝・直孝の死後、実現した。
幕府は、彦根藩主、井伊直興の4男、直矩を、越後与板藩主とし、再興させる。
わずか2万石となるが続く。
直勝の存在は忘れ去られ、彦根藩の支藩のようになってしまった。
直勝と彼が信頼した家臣団は一掃される。
彦根藩は、直虎・直政が再興した井伊家とは違ってしまった。
直虎を受け継ぐのは直政から直勝に引き継がれた上野安中藩であり、彦根藩は家康お気に入りの庶子、直孝に与えた藩となった。
直勝の安中藩は国替えが続き改易に追い込まれ、彦根藩から後継が入り続き、直勝の家系ではなくなる。
直虎・直政は、家康と直孝を結ぶ役目を果たしただけとなった。
寂しいが、これも歴史。