彦根藩家臣|井伊直虎を彩る強い女人達。(14)
だぶんやぶんこ
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直政死後、直勝と直孝の泥仕合のいがみ合いが続いた。
直孝は、直勝の敵う相手ではなかったが、負けたくなかった。
直政は、家康からの付け家老三人を一番上級家臣とし、同じく家康より付けられた井伊谷三人衆をその次に置き、そして井伊谷一門衆・譜代衆を従えた。
北条氏改易後、故郷を離れ、家康から領内の高崎藩12万石を与えられ上野国箕輪城(群馬県高崎市)居城とした。
高崎城を築城し、1598年には、居城を移し、高崎藩とする。
藩主となると、家康に従った後付けられたり、自らが見出した今川氏・北条旧臣を登用し、軍事領・政治力を増していった。
直勝は、井伊氏嫡男として、井伊氏譜代の臣に囲まれて育ち、鈴木氏・松下氏・小野氏・中野氏・奥山氏・今村氏などと相性が良かった。
直孝は、全く違い、井伊家で過ごした期間は短く、直政死後、秀忠に仕え修養を積み武将としての力を磨いており、井伊家家臣より家康が付けた家臣との相性が良かった。
家康は、直孝を血の繋がった子とみなし、遠江の国人、井伊氏を受け継ぐ直勝を問題とせずつらく当たる。
直政は亡くなる時、直勝を後継とし、家康の了解を得て筆頭家老を木俣守勝(1555-1610)と鈴木重好とする。
直勝は、そのまま受け継ぐが、直政の祖母の実家、鈴木家との親交が深く、鈴木重好より重んじ信頼した。
そして藩主となって三年目の1605年、椋原正長・西郷重員(正友の後継)らが鈴木重好・重辰親子の不正を暴き、家康に訴えた。
鈴木重好が、上級に位置するはずの家康からの付家老の後継、椋原正直と正長親子・西郷重員を無視する独断での藩政を行っていたことが要因だ。
その時、譜代の臣に、家康に信頼されている直孝と家康から能力を疑われている直勝、どちらを支持するか突きつける。
大方は、直孝を支持した。
家康は、すぐに、鈴木重好を隠居させ、重辰に家督を継がせる裁定を下す。
そして、椋原正直と正長親子・西郷重員と鈴木重辰と和解させた。
それだけでは終わらせず、内紛を起こした藩主、直勝の責任が大としたが。
以後、井伊家は、木俣守勝・椋原正長・西郷重員(-1609)・鈴木重辰が主になり藩政を執るが、鈴木重辰の立場は悪くなる。
1598年、椋原正直が隠居。後継は、正長。
1604年、西郷正友が亡くなる。
1609年、養子、重員が継ぐも急死。
続いて、1610年8月29日、木俣守勝が亡くなる。
と代替わりが続き、藩政は混乱する。
そこで、直勝は、鈴木重辰と椋原正長を筆頭家老に任じた。
当然のことだと考えた家老人事だった。
だが、家康は激怒した。
直勝の任命を取り消し、木俣守勝の嫡男(養子)守安を筆頭家老に任じた。
その上で、家康が井伊家に付けた家臣団を直孝付けとし、井伊家譜代の家臣団を直勝付けとして分けたのだ。
そして、この間の内紛の責任を取るようにと直勝を江戸に呼び、謹慎させた。
ここで、大坂の陣が始まる。
直勝は、出陣を命じられなかった。
井伊家総大将となった直孝が、華々しい活躍を見せ、大坂の陣が終わる。
そして、正式に、直孝が彦根藩主、直勝が安中藩(群馬県安中市)主となる。
直孝は、上野白井藩(群馬県渋川市白井)1万石を得ており白井藩を返上させ、近くにある安中藩を井伊直勝に与えたのだ。
かって、直政が得ていた高崎藩の領地の一部でしかないが。
こうして井伊氏は、直孝の彦根藩15万石と直勝の安中藩3万石に分けられ、宗家は直孝となる。
家康系の家臣団が彦根藩に残る。
井伊家譜代家臣団が安中藩に付けられ、直勝は、直孝と縁の薄い井伊家譜代の家臣を引き連れ安中藩に移る。
家康の家臣や、家康が召し抱えた今川氏や武田氏や北条氏の旧臣が大勢を占めるのが、井伊家宗家、彦根藩となる。
直孝が率いる。
直孝は、彦根藩の家老衆を、家康からの付け家老を中心に、井伊家縁者・直政付きの家臣だが大坂の陣で共に戦い功を認めた臣などをバランスよく配した。
直虎と直政が旧知の新野親矩の娘が、井伊氏と今川旧臣とを結ぶ重要な役目を果たす。
筆頭家老が、守勝を引き継いだ木俣守安(1585-1673)。家康が任じた。
順次加増され木俣家は1万石を得る。
父は狩野主膳。母は新野親矩の6女。
北条家重臣、狩野主膳(伊豆を領した名家)の子として生まれたが、1590年、父は八王子城を守り戦死。
新野家は氏真に従い北条家に仕え、新野親矩の6女は、狩野主膳と結婚した。
夫の死、北条家改易の後、直政に呼ばれ、直政の付家老、木俣守勝(1555-1610)と再婚する。
木俣守勝は、家康から直政の付家老に命じられた直政の第一の臣だ。
木俣守勝は亡くなる時、家康にも直虎の母にも繋がり井伊家筆頭家老としての大義を果たすことが出来る、木俣守安を後継にした。
新野家につながり、井伊家譜代の臣をまとめる才もある木俣守安が最適だと考えたのだ。
だが直勝は、譜代の臣を活かし井伊家らしい藩政を行いたいと、鈴木重辰と椋原正長を筆頭家老とした。
ここで、家康は、怒った。
直孝も、木俣守安を筆頭家老に推した。
直勝の人事は覆された。
直政にも縁がある木俣氏だが、三河譜代の家康家臣であり、家康の命令で井伊家筆頭家老となった大恩を忘れることはない。
守安は家康の意向を第一とし、筆頭家老として、直孝に従い、彦根藩を主導する。
次席家老、庵原家5000石。
今川義元に仕えた名軍師の太原雪斎の家系。
最後まで今川家に忠誠を尽くした名将として名高い庵原将監もいる。
氏真に従い北条家に仕える新野一族、新野親矩の7女が、当主、朝昌(1556-1640)と結婚。
朝昌は今川家家老を引き継ぐはずだったが、武田氏に寝返り裏切る。
武田氏滅亡後、家康に仕え、次いで、井伊直政に仕えるが、一度、離れる。
ここで、新野親矩の娘が果たした役割は、大きい。
朝昌の井伊家帰参を願い続ける。
直政の死後、松平忠吉が間を取り持ち、井伊家に帰参するように命じ、直孝に仕えた。
大坂の陣で華々しく戦い、戦勲を挙げ、直孝が高く評価し家老とする。
三席家老、長野家4000石。
家康が関東に入った時、直政は、上野国高崎藩(群馬県高崎市)12万石を得る。
箕輪城を居城とする。
旧箕輪城主が上野長野氏、長野十郎左衛門家業正(1491-1561)。
妻は、上杉朝良(関東管領、上杉憲政のいとこ)の娘。
かって上野国は関東管領、山内上杉氏の支配下にあり、上野長野氏は、上杉氏に従いこの地の箕輪衆を取りまとめ率いた重鎮だ。
業正の死後、嫡男、業盛(1544-1566)が継ぐが、武田氏に敗れ一族散りじりになる。
上野国を追われた業盛の弟、業親の子が業実(1570?-)。
武田氏に仕え、滅亡後、家康に仕える。
業実の母は、遠江衆である匂坂城(静岡県磐田市匂坂)主匂坂一族であり、井伊氏との通婚も続いていた。
そこで、1580年、家康は、直政と業実の生母が縁戚という理由で、直政の小姓とする。直政に従い、直政を見ながら成長し、武将としての資質を磨き頭角を現す。
秀吉の母や、正室、朝日姫の接待の役目では見事な働きを見せ、大政所、なかはいたく感激するほどだった。
武功でも素晴らしく、北条攻めでの篠曲輪の夜襲の成功に、秀吉・家康から褒美を得ている。
長野業実の武将としての資質を見込んだ家康は関東への国替えに伴い、1590年、直政の領地を旧主、長野氏の領地が良いと、上野国高崎藩を与えた。
そして、新領主は、旧主を取り込んで領地の円滑な統治を始めるのが、一番効率がよいと、直政に教えた。
そこで、直政は、長野業実に長野氏に縁ある旧臣を集めさせ、行政や治安を担当させる。
長野業実の働きは素晴らしく、高崎藩政は想像以上に早く軌道に乗る。
以来、直政は、重用する。
直孝は、直政を引き継ぎ、長野業実の大坂の陣で大活躍に感心し、庵原朝昌と共に家老職とする。
西郷家3500石。西郷藤左衛門家
西郷の局の義弟、正友から始まる。
河手家4000石。河手主水家。
初代、良則は、直政の姉、高瀬姫(春光院)の婿となる。
旧武田家重臣で、家康に仕え、1583年、直政に付けられた。
直政の姉婿としての権威で、井伊谷時代からの重臣 鈴木重好、家康の付家老 木俣守勝・西郷重員(正友の子)・椋原正直らと並ぶ重臣となる。
高瀬姫が亡くなり、子が継ぐが、三代目で、子なく血縁が切れると断絶。
直孝には、それほど価値ある親戚ではなかった。
幕末、井伊直弼により再興。
中野家3500石。中野助太夫家。
当主、井伊直平の父、直氏の弟、中野直房を祖とする。
直政一族の中で、重臣として続くのは稀だが、分相応にしっかりと宗家を支えた。
直虎も可愛がった中野直之を始めとする。
直孝は、一門家老も一人は必要と、家老に任じ続く。
小野田家の祖、為盛。小野田小一郎家3000石。
三河小野田を発祥の地とした代々今川氏家臣。
家康が引馬城を奪うと攻め込んだ時、今川氏を裏切り家康に味方し功を認められた。
そして、家康に仕え、直政に付けられた。
大坂の陣で活躍した後継、為躬を評価した直孝は、700石で召し抱える。
以後も、力を発揮し1000石にまで知行を上げる。
彦根藩が大藩になるにつれ、石高も上がる。
横地吉晴2600石。横地修理家。
横地城(静岡県菊川市)を居城とした旧北条家家臣。
勝間田氏(今村氏)・戸塚氏は分家であり、宗家になる。
1051年、源氏の嫡流、源義家と伊豆の豪族、相良光頼の娘との間に生まれたのが、横地家永。
遠江国横地を与えられ、拠点とし勢力を広げた。
1476年、今川義忠により滅ぼされる。
以後、一族は散り散りとなりながらも、今川氏・武田氏・北条氏と仕える。
北条攻めでは、八王子城主、北条氏照の城代として徹底抗戦し、当主、横地吉信は、狩野主膳一庵と共に戦死。
井伊氏との縁戚もあり、直政は、戦勲を褒め、北条家滅亡後、嫡男、吉晴を召し抱え、家老とする。
三浦元成2500石。三浦与右衛門家。
今川家重臣の家柄。
直政が取次、家康に臣従させ、仕えるようにした。
新野親矩の長女が三浦元成の妻だった縁が大きい。
改めて、家康から直政に付けられ、後に、家老となる。
宇津木家2500石。宇津木治部右衛門家
北条家重臣、宇津木治部右衛門泰繁(1572-1635)は、北条家滅亡の後、家康に仕え、1590年、直政に付けられる。
母は、北条氏照の娘。
泰繁は、砲術家として名高い。
大坂の陣の戦功に応えて、家老とする。
脇家2000石。脇五右衛門家
当主、脇豊久は、旧甲斐武田家、足軽大将、本郷八郎左衛門の甥であった武田家重臣。武田家滅亡後、家康に仕える。
1583年、直政に付けられ、直政は知略のある勇猛な戦いぶりに感心し、家老とする。
岡本家1950石。岡本半介家。
武田家重臣、小幡信貞の家老、岡本半介宣就(1575-1657)。
武田家滅亡の後、家康に仕え、直政に付けられる。
兵法の奥義を極めており、直孝の軍師となり、厚遇された。
大坂の陣の戦功もあり、家老となる。
他の重臣には。
戸塚左太夫家1600石
氏真に仕えた後、家康家臣となる。
新野親矩の3女の婿、戸塚左太夫正次が始まり。
西郷の局の実家、戸塚氏の一族であり推され、家康から直政に付けられた。
遠江国榛原郡勝間田庄戸塚を本拠とした鎌倉幕府御家人であり、井伊氏とのつながりは古く長い。
印具徳右衛門家1500石。
井伊直孝の母、あこの方の実家であり、井伊家重臣となる。
松平倉之介家1200石。花姫の実家。
花姫の弟、松平康重(1568-1640)の七男、康久で、花姫の甥になる。
花姫が安中藩に去ると、直孝が、客分として迎え、嫡男、康富から家臣となる。
花姫付きの松平家家臣は安中藩に移ったが、直孝は、直政の正室、花姫を重んじる姿勢を見せるため、あえて招き重臣とした。
直孝は疎遠だったが、井伊家譜代に繋がる重臣も、彦根藩家臣として取り込んだ。
奥山家・鈴木家・今村家など藩政に重く関わることはないが、体面を保つよう配慮した。
今村氏は、今村源右衛門家、800石として残る。
奥山氏は奥山六左衛門家、朝忠(-1629)が1500石から700石となったが残る。
朝忠の弟、朝重・朝家は安中藩に移った。
井伊氏一門であり、直政の母の実家だが、重臣にはなれなかった。
奥山親朝(-1497)の嫡男が、朝利(-1544)。
朝利の嫡男が、朝忠で直親・直政に仕える。
朝利の長女は、鈴木重時に嫁いだ。
朝利の次女が、井伊直親に嫁ぎ直政の母となる。
直政の生母の実家であり井伊家筆頭家老格であり、直政は、家康の付けた三家老と共に、鈴木重好を家老とした。
奥山朝忠は甥、鈴木重好の下に付けられたが、気にすることなく、良好な関係を築いた。
それゆえ、鈴木氏が追放されると、奥山朝忠も格下げされ、続くことになる。
鈴木平兵衛家500石
鈴木重時(1528-1569)の嫡男、鈴木重好(-1635)が始まり。
鈴木氏は、鎌倉時代末期から三河に土着し有力国人となった。
当主、鈴木重勝の時、義元に臣従。今川配下となる。
次いで、井伊谷7人衆の一人として、井伊家の仕置を主導するよう送られる。
そこで、見込まれ、娘が、井伊家当主の弟、井伊直満(-1545)に嫁ぎ直親の母となる。
重勝を引き継ぐ嫡男、鈴木重時は、義元戦死後も氏真に従うが、裏切り、家康に臣従。
家康が井伊家を取り仕切るため送る井伊谷三人衆の一人となり、家中を仕切っていく。
重時は、直政の父、直親の叔父。
重時の妻は奥山朝利の娘。直政の母の姉だ。
重なる縁で、直政は、重時を筆頭家老とする。
重時を引き継いだのが、重好。
だが、1605年、重好は井伊家を追放され、1618年、秀忠の指示で水戸徳川家に仕え、子孫は水戸徳川家5000家老として続く。
彦根藩家臣としても残った一族は小禄となる。
近藤秀用(1547-1631)
井伊谷7人衆の一人として井伊家に派遣され、次いで井伊谷三人衆の一人となる。
遠江の有力国人で、本拠が武田氏の領地と接し、激突した戦いが続き、武力では特に秀でて、直政の片腕となった。
だが、独立心旺盛で、直政とは合わず冷遇された。
1602年、直政の死後、秀忠から5000石を得て、旗本として続く。
菅沼忠久(-1582)
井伊谷7人衆の一人として井伊家に派遣され、次いで井伊谷三人衆の一人となる。
一族である菅沼宗家、定盈の調略に乗り、氏真を裏切り、鈴木氏・近藤氏も味方につけ、家康の遠江入に大きな功があった。
妻は、鈴木重時の長女。
早く亡くなり、嫡男、菅沼忠道(1566-1603)が継ぐもまた37歳で亡くなる。
幼い嫡男、勝利が後を継ぐが、直孝は厚遇しようとはせず、一族は井伊家を去り、秀忠に仕え旗本になったり、菅沼宗家、定芳に召し抱えられた。
家康が亡くなると、彦根藩主、直孝は、思い通り、藩政を主導し、新たな家臣団を創り上げる。
直政・直勝を引きずる鈴木氏・近藤氏・菅沼氏・椋原氏を退けた。
そして、気が合い、能力を認めた木俣守勝が名実共に、筆頭家老となる。