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花姫の娘、政子姫と亀姫(德興院)|井伊直虎を彩る強い女人達。(13)

だぶんやぶんこ


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花姫は、直孝が生まれる前、政子姫を生んでいる。

直政が大喜びした、我が子の誕生だった。

井伊家の血筋を引いたのか、見目麗しく、聡明だった。

家康は、花姫の母を追い出し松平家縁の女人を送り込むことは当然だと考えていた。それでも花姫を悲しませるのは本意ではなかった。

そこで、花姫を養女とし、責任を果たし、幸せにさせたはずだった。

そして生まれたのが、政子姫。

家康は、井伊家に泊まる度に花姫に、実の娘のように言葉をかけ、似合いの相手を見つけると、にっこり笑った。

だが、直孝の誕生となってしまった。

直孝の誕生以来高まっている花姫の鬱積した思いに同情した。

そんな思いもあり、政子姫(1585-1627)の結婚で、償いとしようとした。

政子姫と東条松平家を継いだ家康4男、忠吉(1580-1607)との結婚を決めのだ。

養女ではなく実子と井伊家の姫との結婚だ。

花姫は、家康の意図を訝しく思いながらも、喜んだ。

直政が、松井松平家とともに支える東条松平家の主、忠吉に嫁ぐのだ。

今川氏はもちろん室町幕府を引き継ぐ大義を背負う忠吉は、家康が期待するお気に入りの子だ。

直政は、これ以上の相手はいないと涙ぐんだ。

東条松平家・松井松平家・井伊家が深く結ばれる結婚だ。

新参の井伊家、直政の娘が、家康の子の嫁となるのだ。

例えようのないほどの慶事であり、井伊家は家中一同祝の渦に包まれる。

花姫は、家康に切り捨てられた思い、数々の不可思議を忘れることは出来ないけれど、妻としての苦労が報いられたと家康に感謝する。

1592年、政子姫7歳が忠吉12歳に嫁ぎ、直政・花姫は家康実子の義父・義母となる。

以後、忠吉は、政子姫と仲睦まじく、井伊直政の後見の下、文武両道に秀でた家康の子に相応しい武将に育つ。

その後の秀吉の死、そして迎えた関ヶ原の戦い。

忠吉と直政は華々しい戦功をあげ、忠吉は、尾張・美濃国、清洲52万石藩主となった。

だが、忠吉は、関ヶ原の戦いで負傷した後、完治できず健康状態は良くない。

政子姫は、優しくて生母、西郷の局によく似た整った顔立ちの忠吉が大好きだった。

関ヶ原の戦いでは父、直政に守られ先陣となり戦い、数々の武勲を立て自慢だった。

 そんな忠吉が、痛々しい姿となり、もとに戻らないのだ。

必ず完治させてみせると覚悟を決めていたが、涙があふれるときもあった。

忠吉と政子姫の後ろ盾だった直政が、1602年3月24日、関ヶ原の戦いの戦傷により亡くなる。

二人は、がっくりと肩を落とした。

それでも忠吉は「(直政が)残してくれた命だ。必ず長生きして、井伊家の庇護者になる」と悲しむ政子姫を元気づけた。

政子姫も、うなづき、忠吉の健康を祈願して、津島神社本殿を建て替える。

だが、忠吉の病は回復せず、藩主としての精彩も欠き、次第にやつれていく。

政子姫の必死の看護も報われず、1607年4月1日亡くなる。

 政子姫も、後を追うかのように倒れた。

花姫は、追い詰められていく直勝を見続け、忠吉を思いやつれていく政子姫の詳細な状況を知り、心痛めた。

家康のために命をかけた直政・直政を引き継ごうとする直勝・家康の子として名をなそうとした忠吉。

彼らに降りかかる不幸を、許せず、天を恨む。

井伊家は、花姫と直政の結婚・政子姫と忠吉との結婚以来、家康一門に通じる家柄として譜代大名となった。

その大切な絆を失ったのだ。

井伊家の将来に暗雲が漂い、井伊家存亡の危機が、また、来たのだ。

忠吉が直勝と直孝を後見しつつ、二人の仲をどうにか繋いでいたが、忠吉の死で二人の争いは激化する。

直孝の後ろには家康が控えており、家康が前面に出てくる。

忠吉が亡くなると、清須52万石は、家康が一番可愛がった子、徳川義直が引き継ぐ。

家康がシナリオを書いていたかと思うほど、スム-ズに引き継がれた。

忠吉付家老、阿部氏・大道寺氏が引き続き家老となったぐらいで、政子姫の系統が残ることはなかった。

政子姫は、姫が生まれたが夭折し、子もなく、彦根藩に戻る。

花姫は傷心の政子姫を優しく迎えるが、続く不幸に疲労の色が濃かった。

家康はすべてを見越していたように、花姫と政子姫の暮らしが落ち着いた翌1608年、直政次女、亀姫(徳興院)と仙台藩主、伊達政宗の長男、伊達(だて)秀宗(ひでむね)(1591-1658)の結婚を決めた。

亀姫は、1598年、花姫と直政の間に生まれた末っ子の姫だ。

花姫は、直政が考えていた結婚だと亀姫の結婚を嬉しく受けた。

直孝が関与していることもあり、不信感は残るが。

不幸が続いていたが、井伊家は華やいだ。

花姫と政子姫は、亀姫の結婚支度を手伝い、気を紛らす。

1609年、花姫(1564-1639)は、嫁入り支度一切を取り計らい、亀姫(徳興院)を嫁がせた。

伊達(だて)秀宗(ひでむね)(1591-1658)は、仙台藩主、伊達政宗の長男であり後継となるはずだった。

だが、正室、愛姫が1600年1月23日、次男、忠宗を生む。

以後、政宗は忠宗を後継と考えるが、秀吉・家康にすでに秀宗を後継にすると表明しており、秀宗は微妙な立場になる。

この時、懇意だった直政が、忠宗が後継となるのはやむを得ないが、娘、亀姫と秀宗の結婚で、秀宗にも相応の武将としての名誉を保てるようにできると政宗に持ちかけた。政宗も喜んで応じた。

 独立心旺盛な伊達政宗は家康に対立することがあり、直政は間に立って和解に持ち込んでおり、政宗に信頼されていた。

その後、直政は亡くなり、形式的には、伊達家は忠宗と秀宗が並び立ったままだった。

だが、1607年、忠宗は家康養女と結婚し、後継であることを内外に示した。

ここで、家康・秀忠お気に入りの若き直孝が、妹、亀姫の結婚を推した。

それを受けて、家康は、正式に、秀宗と亀姫の結婚を決めたのだ。

以後、直孝は、伊達政宗、妹婿、秀宗と共に、秀宗の名誉を守る待遇を強く幕府に働きかけ続ける。

そして、秀宗の対面を保つに相応しい伊予宇和島藩10万石藩主に秀宗(ひでむね)がなることで1614年、決着が着く。

直孝の尽力が大きい。

直孝の並外れた外交・行政手腕を見せつけ、家康は大いに褒め、秀忠も一目置くことになる。

 花姫・直勝は、直孝の功名のために利用された虚しさが残る結果だったが。

亀姫は秀宗と仲睦まじく二男三女を儲けた。

嫡男、(むね)(ざね)(1612-1644)は、34歳で亡くなる。

次男、宗時(1615-1653)が継いで後継となるが、38歳で亡くなる。

二人とも父より早く、子なく、亡くなり宇和島藩を引き継ぐことは出来なかった。

三人の姫は、

長女、菊姫は1622年に生まれたが病弱で1642年結婚することなく亡くなる。

次女、万姫は1625年生まれたが病弱で1627年亡くなる。

3女、鶴松姫は1630年生まれたが病弱で1647年、結婚することなく亡くなった。

亀姫は、鶴松姫の産後が悪く、まもなく亡くなる。

5人の子を生み続け、それゆえ亡くなり、宇和島藩に血筋を残すことはできなかった。

秀宗は、亀姫を藩祖にも相応しいと慈しみ、32歳の若すぎる死を嘆き悲しんだ。

亀姫の功を末代残そうと、前藩主以上の菩提寺の建立に取り掛かる。

秀宗は、宇和島藩の菩提寺として、

1618年、母の菩提を弔うために臨済宗妙心寺派竜華山(りゅうげざん)(とう)覚寺(かくじ)建立した。以後、自身の菩提寺ともなる。

それとは別に、亀姫を特別の女人として、菩提寺を建立する。

前藩主富田氏の菩提寺を拡大修復して伊達家の菩提寺とし、篤く丁重に葬る。

五代藩主の墓所となった時、法名から臨済宗妙心寺派金剛山大隆寺と寺名が変わるが。

 宇和島藩の並び立つ菩提寺だ。

花姫も悲しみに暮れたが、亀姫が大切に想われていたことがよくわかり、寿命だったのだと思う。

家康は、忠吉が亡くなった時、政子姫に八条院智仁親王との再婚を申し出た。

だが、政子姫は断り、彦根城に戻った。

直孝に利用されるのは嫌だと、拒否した。

家康の嫁、忠吉の妻として生き続けることが、父母の望みだと信じていた。

だが、母、花姫と弟、直勝の立場はますます悪くなり、上野安中藩に移ることになってしまう。

傷心の母を支えたく共に、安中藩に移る。

だが、小大名、安中藩には、家康の子、清須52万石藩主、忠吉の未亡人を預かるには荷が重すぎた。

家康も政子姫が安中藩に居ることを好まない。

やむなく、政子姫は直孝が藩主の彦根藩に戻る。

直孝は、主君、家康の娘(嫁)として大事にもてなした。

彦根藩井伊家江戸屋敷ができると、江戸に移る。

彦根藩江戸屋敷は、政子姫にとって、落ち着かない屋敷だった。

だが、安中藩江戸屋敷に住まう母とゆっくりした時を持つようになる。

母と時間を共有でき、心落ち着く日べを過ごし、1627年11月5日、江戸屋敷で亡くなる。42歳だった。

「井伊家を大藩、彦根藩35万石とするために生きた生涯でした。母様や直勝のためではなく、直孝のために」と、自嘲気味に話した。

母、花姫は「いいえ、井伊家の行く末は運命だったのです。贖うことは出来ません。よく頑張ってくれました。安中藩の守り神となってくれたのですから」と褒めた。

1639年8月2日、花姫は、政子姫・亀姫が娘であったことを誇り、再び出会うことを楽しみに逝く。