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直勝と直孝、別離|井伊直虎を彩る強い女人達。(12)

だぶんやぶんこ


約 6418

花姫が、恐れていたことが次々起こる。

直政が亡くなると、嫡男、直勝が後継となった。

ところが、直勝は、12歳であり幼いと彦根藩主として力を奮うことがない。

父、直政に恥じない藩主になると、奮い立っているのがよくわかったが、可哀想に出番がなかった。

直政は14歳から武将として戦い指揮した。

父の生きざま武勇伝を母、花姫から何度も聞かされていた直勝は、納得できないまま日が過ぎた。

16歳になり、元服・結婚をしても、まだ幼子扱いだった。

直孝は、秀忠の元、価値ある役目を与えられ頭角を現しているのにだ。

花姫は、1年余り、直勝と直孝を側近くに置き、見比べ、特徴を掴んでいる。

直勝は、生まれた時から御曹司として大切に育てたこともあり、直孝に比べ温和な性格で、直孝のような鋭さ自己顕示欲はなかった。

直勝の性格の弱さが気になるが、藩主としての能力に差はないと、二人を見て確信した。

だが、家康や家康から付けられた家臣団は、直勝の能力を認めなかった。

花姫は うろたえ張り裂けるような危機意識を持つ。

それでも、予期していたことだと直勝を守り、井伊家を守ると自分に言い聞かせ、直政の妻としての威厳を持って藩主、直勝の意向を重視するよう発言を続ける。

直勝の権威がなくなるに連れ、家康に近い家臣団と井伊家譜代の家臣団の対立が激しくなる。

直政は、直虎の意向を守り、譜代の臣を大切にしたい思いを持っていた。

花姫も同じだ。

直勝に、井伊家の誇りを守るよう励まし、直勝も父に認められる働きをしたかった。

1610年、家康が付けた筆頭家老、木俣守勝が亡くなると、鈴木重好の嫡男、重辰を筆頭家老にする。

ここで、直勝は、自分の意思を貫いた。

秀忠近習として将軍家に近づきながら頭角を現している直孝に対抗するように井伊家一門に繋がる臣を重んじた。

鈴木家を高く評価している家康も認めた人事だ。

直政の曽祖父が、鈴木重勝。

「井伊谷三人衆」の一人、鈴木重時の父だ。

重勝は、今川義元が三河へ侵攻すると、臣従した。

1560年、桶狭間の戦い後、家康が今川氏から離反しても、重勝は氏真に従う。

重勝の嫡男、重時の妻は奥山氏。

井伊直親(直政の父)や中野直之、小野朝直とは妻が姉妹同士という関係だった。

引き継いだ重時も氏真に従った。

そのため、重時は、今川方として家康と最前線で戦った。

遠江侵攻を企てた家康は手を焼き、家臣、菅沼定盈に、一族になる遠江国人、菅沼忠久への調略を命じ成功。

続いて、鈴木重時・近藤康用も調略し成功。

こうして、家康は遠江の有力国人を味方とし、遠江侵攻の手引きをさせた。

1569年、家康から先陣を命じられた重時は堀江城での戦いで討死。

家康は功を褒めた。

嫡男、重好はまだ12歳だったが、後継に認められた。

重好は、1573年、三方が原の戦いを初陣とし、家康から認められる武将となる。

以来、家康は、近藤・菅沼と共に「井伊谷三人衆」とし井伊家を主導する役目を与える。

三人衆は、直政に従い、出陣し戦うようになる。

1600年、関ヶ原の戦いで、重好は井伊隊の先陣となり、素晴らしい戦勲を上げる。

その後も、長宗我部盛親の領地没収等で、力を発揮し、功を上げた。

難しい案件をこなし、直政は、重好を5500石筆頭家老とした。

家康からの付家老と共にだが、凌駕する権限を与えようとした。

直政は、鈴木家を筆頭に井伊家譜代の臣を重用するように、努めたが、死後、家康に近い家臣が反発し巻き返しを図る。

1605年、井伊家を主導しようとする重好に反発した家康からの付家老、西郷氏・椋原氏は家中に図り、直政娘婿、河手氏、・井伊一門、中野氏・直政義父、松下氏を巻き込み重好の行状を非難する訴状を、家康側近に提出した。

重好の金銀の不正流用、年貢未進の不正処分、役儀や賞罰・知行宛行の不正などなどだ。

 できすぎた話に譜代の臣は納得しないところもあったが、家康の力は圧倒的に強く、家康の意向でもあると言われると反対はできなかった。

家康は、重好を隠居させて井伊家から離し、嫡子の重辰に5500石の知行と筆頭家老としての立場を継承させると決めた。

表向きは家督の引き継ぎだけだが、鈴木家の権限は大幅に減った。

 家康の意図は他にあり、重好は利用されたのだ。

そのこともあり、家康・秀忠は、ほぼ同待遇で水戸家家老に推し、重好以後、代々明治まで、水戸藩家老として続く。

重好は、家中騒動の責任を取り、井伊家から離れるが、嫡男、重辰はその立場や知行を継承した。

幕府へ鈴木氏の不正を訴えたが、結局、処罰はなく、鈴木家の筆頭家臣としての地位に変わりがなかった。

訴えた家臣団にも不満が残るが、重辰の権力は重好に比べ減り、受け入れざるを得ない。

ここで、家康は直勝に目を向ける。

直勝15歳に、藩主としての家中の内紛の責任を追及する。

藩政に責任持って携われなかった直勝なのに、能力を疑われる結果になった。

直勝は、納得できなかった。

それでも気を取り直し、家康に近い重臣の顔色を見ながら、鈴木重辰を信頼し藩政を執ろうとする。

まもなく、1610年、木俣守勝が亡くなる。

筆頭家老、木俣守勝の存在は大きかった。

直勝は、これでようやく藩主としての力を奮えると、喜んだ。

鈴木重辰と椋原正直を筆頭家老とする。

だが、家康は、直勝をあざ笑うように、井伊家の筆頭家老を木俣守安に命じる。

木俣守勝の後継であり、直虎のいとこ(母の兄、新野親矩の娘)が母であり、直虎のいとこの子になる。井伊家の縁戚であり大義もある適材だ。

直勝は、自分の意思は無視されて、ただ受け入れるしかない。

ここで、家康は、井伊家の家臣団を2つに分けた。

直勝には井伊家譜代の臣。

直孝には家康が付けた家臣団。というように。

家康は質量ともに圧倒的な家臣団を井伊家に付け、井伊家譜代の家臣の比率は少ない。

それだけでも後継を直孝と考えているのがわかる分け方だ。

同時に、家康に忠誠を誓う優秀な譜代の家臣は、直孝に従うようにした。

直孝は、家康の再編の沙汰の後も、引き続き、秀忠の元にいた。

そして、藩主としての英才教育を受けつつ力をつけていく。

だが、国元では、家中は騒ぎ、再び、内紛状態となった。

彦根藩はひとつなのに、直勝と直孝に家臣団を分けられ、それぞれに従うように命じられたのだから、藩主、直勝の面目は立たない。

その時、豊臣家滅亡への最期の鉄槌、大坂の陣が始まる。

家康は直孝の力量を試す場だと考える。

これで合格点を出せば、井伊家をまとめることが出来るはずだと。

直孝が井伊勢の総大将となり出陣した。

直孝は、家康の期待に沿う働きをし、戦後、1615年、正式に井伊家の惣領として家督を継ぐ。

直孝は、彦根藩18万石のうち15万石を受け継ぎ、兄、直勝は残りの3万石で安中藩主となった。

直孝は、すぐに大坂の陣での功だと、5万石加増され、彦根藩は20万石となる。

ここで、直勝の痕跡をすべて消し去った。

直勝は、上野安中3万石藩主でしかなくなる。

花姫は、息もつけないほど興奮し、直勝の行く末を見守っていた。

予期していたが、母と同じ立場に立ったのだと、恐れおののく。

正室が生んだ嫡男、直勝を差し置いて、側室、あこの方から生まれた直孝が井伊家総領を引き継いだのだ。

母は、子を身ごもったまま殺されたかもしれないと感じていた。

直勝は生きている、それだけでも良かったのかもしれない。

想像を絶する兄弟の石高の差に涙する。

これでは直勝が率いる井伊家譜代の臣に、十分な待遇を与えることができないと。

それでも、花姫以上に怒り狂う直勝を見て慌てる。

直勝の命を守るために、落ち着かせなければならない。

何が起きても不思議ではないのだ、安中藩を守らなければならないと、念じながら、大きな愛で包むように直勝を静かに見つめる。

あの優しかった直勝をこれほど追い詰める家康・直孝が憎い。

「藩主としての能力は十分あります。時を待つように」と直勝を励ます。

直勝の妻は、家康が決めた譜代の重臣、鳥居忠政の娘だ。

関ヶ原の戦い時、伏見城を守り、壮絶な死を遂げ、家康が最高の忠臣だと称賛した鳥居忠政の後継だ。

家康が直政の後継を直孝にするような態度をとった頃から、直勝は自分を抑えることができなくなる時があった。

主君、家康への不満を漏らしたり、直孝への湧き上がる悔しさに我を忘れ怒った。

妻は、そんな直勝を支えるどころか冷たく見下したような態度をとった。

許せず、暴力をふるってしまう。

妻は、もっと直孝を立て家康に忠誠を尽くせば、高崎藩に国替えとなった可能性があったのに、直勝に家康への忠誠心がなかったために、3万石にされたと責めた。

妻は、直勝の能力の限界を見て、直勝の暴力に耐えられないと実家に戻った。

こうして妻と離縁した直勝と共に花姫は、1615年、安中藩居城、安中城に移る。

すべてが、昔に帰ったような居心地の良さがあった。

1590年以来、直政と共に過ごした、大好きな地だった。

大きな違いは、直政と共に移り来たときは、高崎藩(群馬県高崎市)12万石だったが、今はその一部、安中藩3万石(群馬県安中市)となったことだ。

花姫は「かっての領地の一部だけ」と苦笑いしながらも、直勝に昔のことを語り掛ける余裕が出てくる。

直政との仲は、直孝をめぐり険悪になった時もあったが、愛し愛される蜜月がほとんどだった。

1590年、旧主の居城、箕輪城に入ると花姫の両親供養の為に上野国浄土宗、安国寺(高崎市箕郷町)を再興し、花姫を感激させた。

まもなく新城、高崎城の築城を始め、完成後移る。

すると、1598年、高崎城下(群馬県高崎市高松町)に安国寺を移し、花姫がお参りしやすくしてくれた。

花姫に、あるがままに両親を受け入れてほしいという直政の温かい心だった。

直勝にも思い出多い地であり、花姫の全幅の信頼を寄せた笑顔に包まれ、次第に落ち着いていく。

それにしても、直孝に彦根城を奪われたのは悔しい。

直政が1600年、佐和山城に入城すると、佐和山の地に宗安寺を建立した。

花姫を喜ばせるためだ。

その思いがよく伝わり嬉しかった。

そして直政が亡くなり、1603年、彦根城の建設が始まると、直勝が、宗安寺を城下に移転した。

父の法名から宗を、母の法名から安を取り宗安寺との寺号にし、花姫が開基したのだ。

「良き夫、良き子に恵まれ、幸せだった」と熱い思いを噛みしめた時もあった。

だが、全てを残して、直勝とともに安中藩に移った。

とても悲しく残念だった。

それでも、現実を受け入れるしかない。

井伊家当主、直政に嫁ぎ、嫡男、直勝を生んだこと。

もともとの井伊家の所領は3万石程度。

井伊家の歴史を遡れば、これが分相応なのだと納得しようと考える。

花姫が納得して、前を見て進まないと、直勝の存在さえも危うくなるのだ。

しっかりしなくてはと気を引き締める。

かって建立した安国寺は国外になってしまったが、新たに建立する力はなく、浄土宗大泉寺(安中市)を庇護し菩提寺とする。

つらかったが、改修改装し、菩提寺として整える。

以後、再々大泉寺に参り、父母や亡き人に近況を語ると心落ち着く。

何度も参っているうちに、大泉寺こそ菩提寺だと思えてくる。

心の拠り所を得て、余裕が生まれる。

花姫は、直勝の離縁に賛成だった。

直勝は、小藩、安中藩主として堂々と藩政を取るべきだと考えたのだ。

鳥居忠政の娘が正室として、目を光らせている限り、幕府に遠慮せざるを得ない。

安中藩を守りたいが、幕府に不相応に遠慮し、従うことはないと腹を決めた。

井伊家嫡流として、誇りを持ち続け、藩政を執るべきだから。

万が一、改易となるも受けて立つしかない。

ここで、直勝に自分が選んだ娘を引き合わせる。

安中藩主として、再婚し、子をなすことが務めだから。

花姫の結婚の時、あこの方と共に、母方の三河江原氏(愛知県西尾市江原町字屋敷)出身の侍女も付き従った。

花姫の老女(筆頭侍女)となり公私共に花姫に尽くした第一の臣だった。

その後、江原氏は、この地の豪族で直政の家臣となった中島新左衛門に嫁ぎ、(りゅう)崇院(そういん)お岩の方が生まれていた。

中島新左衛門は、直政が去った後もこの地に留まったが、再びめぐり逢い、直勝が召し抱え、群馬郡室田村(高崎市)の代官にした。

同時に、花姫は、お岩の方を召し抱えた。

母方の血縁になるお岩の方は、花姫と似て、美しく、聡明だった。

そこで、お岩の方を美しく着飾らせ、直勝に引き合わせる。

直勝も母の意図をよくわかっていた。気に入り、側に置く。

1616年、姫が、次いで1618年、嫡男、直好が生まれる。

花姫にはお岩の方は娘も同然であり、とても可愛く思う。

お岩の方と直勝の仲睦まじさに、笑顔がこぼれる日々となる。

もう思い残すことはないと、ずっと秘めていた行動に出る。

直孝に、直孝嫡男、直滋と直勝の娘との婚約を申し出たのだ。

直政が決めていたことだと、不退転の決意で強く求める。

直孝も認めざるを得ず、1630年、結婚となる。

花姫は、ようやく一矢報いたと、フ-と息を吐きく。

それでも、成就した喜びはなく全身の力が抜け虚脱感に襲われただけだが。

二人が仲睦まじくあるように祈る思いだったが、心配はいらなかった。

孫娘から仲の良さを知らせる便りが度々届き、幸せなのだ。

間違ってはいなかったと、達成感に酔いしれる。

早く子が生まれ、彦根藩を継ぐ子になって欲しいと願う。

だが、次第に、子は生まれず、直孝との相性が悪いことを知る。

再び恐れていた事態が起き、血の気が引く。

間違ったことをしてしまったのかと、頭が混乱する。

そんな中、孫姫から直滋とはずっと睦まじく暮らしており、安心するようにとの便りが続く。孫姫は自分の立場、花姫の思いを理解していた。

「孫姫は幸せなのだ。自分の生きる道はわかっており前に向かって進んでいくはず。直孝に一矢報いたのだ。これでよかった。結婚は成功だった」と何度もつぶやく。

こうして、花姫は、すべきことを成し遂げたように安らかに、直勝・お岩の方に見守られながら、1639年逝く。74歳の大往生だった。

お岩の方も5年後、1644年に亡くなり、花姫とお岩の方は仲良く、大泉寺に眠る。

残された直勝と直好にはいばらの道が待っていたが。