花姫とあこの方|井伊直虎を彩る強い女人達。(11)
だぶんやぶんこ
約 7311
家康は、大坂の陣の後、井伊家の後継を直孝にした。
それは我が子と確信したからだ。
直孝が我が子であり能力も受け継いでいると確信すると、時機を見て井伊家を継がせるつもりだった。
では、直孝の生母とはいったいどのような女人なのか。
直孝は、1590年に生まれている。
その前、家康は信長亡き後のどさくさで奪った領地支配の為に、駿河・甲斐・信濃の検地を始めた。
武田信玄・今川義元を大きく凌駕する大名となったと知らしめる為に、自ら率先して検地の状況を見回り担当する武将を激励した。
この時、直政率いる井伊家中が遠江を長年支配し続けた経験を生かし、家康から付けられた家臣団とともに大活躍した。
直政は、検地を主導し、成果を上げたのだ。
軍事だけでなく行政手腕・交渉力にも優れ、抜群の行政力があることを見せつけた。
気分を良くした家康が、井伊谷城、井伊家屋敷に泊まることがあった。
秀吉との勢力争いに敗れ、西方面に目を向けるのは気分が悪い。
比べて、以前に倍増する領地となった東方面での検分は、やりがいがあった。
今川領・武田領をわが領地とした満足感は笑いが止まらないほどだ。
家康を苦渋の中に置いた今川氏、追い詰めた武田氏を憎み、今川領、武田領を奪い取りたかった。そして、勝ち取った。
必ず名君として完全支配すると燃え、その思いをよく理解し働く直政を上機嫌で褒めた。
その時、もう一つの楽しみを見つける。
それは、あこの方の接待を受けることだ。
一時の熱い時を過ごす。
あこの方は松井松平家家老、印具徳右衛門の娘で、花姫の侍女として、結婚に従い、井伊家に来た。
家康は、女人が好きだ。男と女の営みも好きだ。
その為、子も多いし、側室も多い。
側室として迎え入れると警護は万全に出来、いつでも安心して会え楽しむことが出来るが、ときめきがなくなっていくのを実感していた。
側室にすると、次第に女人としての魅力が薄れていくのだ。
あこの方は、新領地の検分と新しく召し抱えたこの地に縁ある武将との対面に疲れた身体を家康の望むように癒す女人だった。
久しぶりに、緊張感と胸の高鳴る想いがあった。
秀吉と北条氏との緊張関係が続いており、家康は、秀吉の命令で北条氏と交渉して、秀吉臣下とさせ和議を結ぶ役目を負っていた。
督姫の結婚以来、北条氏への監視を強化してきたが、いよいよ北条氏との関係、秀吉の信を得るための和解方法など、決着をつける日が近づいてきた。
頭はフル回転で次の飛躍を目指していたが、戦いはなく身体は比較的悠だった。
直政も北条氏対応の為に家康の側近くで仕えることが増え、ようやく出来た駿府城下の屋敷に住まう。
すぐに、花姫やあこの方を井伊谷城から、呼び寄せる。
あこの方が駿府に来ると、家康は喜び、井伊家屋敷を訪れ、愛に燃える時を過ごす。
直政も、屋敷に住まう時が増え、花姫とあこの方が、同時期に身ごもる。
年末、秀吉は北条征伐を決め、翌年、出陣となる。
家康は、負けることのない戦いだとよくわかっていた。
どのような和議を結ぶかが課題であり、娘を嫁がせ関わりの深い北条家だが、家康に益をもたらす和議を結びたいと思い巡らしていた。
その戦いの直前、生まれたのが、直勝・直孝。
1590年2月、花姫が、遠江浜松、井伊谷城に戻り嫡男、直勝を生む。
続く3月、あこの方が、家康47歳の子、直孝を駿河中里(焼津市)にあった実家、印具氏屋敷で生む。
まもなく北条氏が滅亡し、家康の関東への国替えが決まる。
秀吉政権下ではあるが、家康は秀吉に次ぐ地位を確立した。
駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の五ヶ国140万石から武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国一部・常陸国一部の関八州250万石を得たのだ。
家康の出世の速さは半端ではない。幸運では表せない強運だった。
生まれてから桶狭間の戦いまで、三河の代々の領地は義元の直轄領のように扱われ、領地はないような状態だった。
1566年、三河を統一し、徳川姓を名乗る頃は、三河国29万石。
1568年、今川領に侵攻し遠江国を加えた時、二か国55万石。
1582年、武田氏を滅亡させ、信長より駿河国を得た時、三か国70万石。
1582年、信長死後、北条氏と同盟を結んだ時、五か国140万石。
1590年、一挙に250万石になったのだ。
家康は、高揚した良い気分に浸っている時、直政から子の誕生を聞く。
うなづき、上野国箕輪(群馬県)12万石という破格の領地を与えた。
その時「直孝を任せる」と指示した。
家康は、側室と認めた女人の子しか我が子と認める気がないからだ。
あこの方を側室とする気はなく、母子とも直政に預けた。
家臣最高の石高となった理由がここにあった。
直政は直孝をわが子とし公表したいと考えるが、家康の意向をつかみかねて、たちまちは印具氏に任せ密やかに育てることとする。
花姫は、あこの方が身ごもったと知った時、家康か直政かどちらが父であるか悩んだ。
直政は、花姫を主君の姫として有り余るほどの愛情を捧げ、慈しみ、側室の住まう場所は井伊谷城内にはなかった。
直虎亡き後、井伊谷城の奥を仕切っている花姫は、直政が帰城している間の動きはすべてわかっている。
八年間の結婚生活で、直政を知り尽くし、姫を儲けている仲だ。
しかも、複雑な家庭事情を隠さず話し、直政の生い立ちからの苦労話を聞いており、二人は隠しごとなく労わりあう仲なのだ。
1583年8月4日、父、松平康親を亡くした時の直政は、共に悲しみ慰めてくれた。
来客との対面などは二人で会うことが多いが、重臣との会議など花姫が関知しない直政だけで過ごす時もかなりある。
直政の行動の詳細まで知ることは難しく多少の不安もあるが、直政が花姫の侍女、あこの方に思いを寄せていれば感じる自信があり、奥には侍女がひしめいており密会の時を過ごす場を作るのは難しい。
どう考えても、直政との子ではない。
比べて、家康が立ち寄った時は、家中一同すべてを捧げて歓迎し、家康の為に屋敷をしつらえるほどだ。
駿河国・遠江国・甲斐国・信濃国の総検地の仕上げに入っており、家康が、新領地の掌握に自信を持った時であり、上機嫌で来訪し、あこの方が接待役になることを望んだ。
家康は、思いのままに、あこの方と濃厚な時間を過ごすことが出来たのだ。
家康は、過酷な役目をこなす直政を労りながら、何度か泊まった。
そして、駿府城下に直政の屋敷が出来ると、家康が時々、訪れ、あこの方と過ごした。
どのような時を過ごしたかは誰も言わない。
公然の秘密でも口に出すことはない。
花姫は、直孝が家康の子であるとの結論を出す。
直政の子ではつじつまが合わないことばかりで、家康の子であることは疑いようがない。
直政は我が子だと真面目に言うので、花姫は笑って受け入れ、二度と直孝を話題にすることはなかった。
花姫と直政は、相談し、あこの方を実家、印具徳右衛門の屋敷に送り届け、不自由のない暮らしを保証し、良い環境で子が生まれ育つようにした。
1590年3月、無事、誕生し、6年後、直政は、あこの方と6歳の直孝を居城、箕輪(高崎)城(群馬県高崎市箕郷町)下の屋敷に呼び寄せる。
成長を確認すると直孝のために選んでいた中後閑村(安中市)の庄屋、萩原図書を養育係としその屋敷内に直孝の屋敷を建て、1597年、教育を任す。
萩原図書の学識の高さは、よく知られていた。
直孝は、萩原図書から学ぶことの意義を教えられ、その屋敷から真言宗北野寺(群馬県安中市)に通い、英才教育を受ける。
次第に直孝は夢中になって学ぶようになり、中後閑村、萩原図書邸と北野寺は遠くて通うのは時間の無駄ということになった。
そこで、直孝の住まいとして北野寺内に薬師堂が建てられ、思う存分学ぶ。
直孝は、直政庶子として、目立たないように、それでも、最高の教育を受けながら成長していく。
眼光鋭く、剛直で無骨、寡黙な性格だった。
直政にも家康にも共通している。
直政は、直孝の近況を詳細に把握するが、静かに見守り、会うことはなかった。
まもなく、秀吉の死・関ヶ原の戦いと激動の時を経て、家康の世が始まる。
直政の活躍ぶりは素晴らしく、恩賞として関ヶ原の戦いの実質大将、石田三成の旧領、近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を得る。
すぐに国替えが始まり、翌1601年、直政は、改修された近江佐和山城に入る。
直孝は11歳、元服の時を迎え、今後をどうすべきか悩む。
家康は忙しく「任せる」との返事だった。
ここで、意を決して、直孝を城に呼び寄せ対面し、次男として家中にお披露目する。
そのまま直孝を城内に留め置き成長を見守るが、関ヶ原の戦いで受けた傷の回復は思わしくなく、わずか1年共に暮らしただけで、1602年、直政は、亡くなる。
花姫はかけがえのない素晴らしい夫、直政の死に、激しく動揺する。
夫、直政との結婚生活は、仲睦まじく素晴らしい日々だった。
直政は、花姫を主君の姫としてこれ以上ないほどに大切にしたからだ。
戦が続き直政の生死を心配しながらも愛に包まれ、穏やかに暮らしていた。
だが、直政亡き後、起こりうる予期せぬ事態に、不安でたまらない。
関ヶ原の戦い後、戦傷が癒えないまま亡くなった直政の日々の暮らしは苦しかった。
花姫のそばにいるときが以前よりは増えたが、それでも痛む身体で、諸将との取次のために家康の側、京にとどまるときも多かった。
療養に専念するようにと言っても聞かなかった。
亡くなったことを、今更嘆いても仕方がない。
直政の選んだ道だったのだと思うが、胸が締め付けられる。
一番の気がかりは、直孝だ。
直孝が生まれた時、すべて受け入れる直政にも、家康に対しても、許せない思いだった。それでも、家康の子の嫡母となるのは名誉だと思うしかないと、笑顔を作り受け入れた。
直孝は生母と共に育ち目の前にいなかったことで、忘れることができたが、次第に、直勝が嫡男であることを不安になった。
井伊家の後継は直勝なのだ、疑いようがないと、自身に言い聞かせ平静を保ったが。
ところが、近江佐和山城で直孝と共に暮らすことになり、直勝の将来に及ぼす影響が目の前の現実となり、息苦しくなり、悩む日々が始まった。
直政がいれば、平静を保てたが、答えがでないまま、直政は逝った。
花姫は、亡き母を思い「私も母と同じように生きることになりました」と涙ぐむ。
母の苦しみが分かったような気がして、自分の苦しさとなり迫ってくる。
花姫の父、松井(松平)康親は、松平一門の女人を妻とし、松平一門に加えられ、松井松平家となる名誉を得た。
まもなく生まれたのが、康重であり、松井(松平)家嫡男となる。
康重は、父を継ぎ東条松平家の家老として忠吉に仕えた。
武田氏滅亡後は沼津城の守りを任せられ8年間、北条氏と対峙した。
重要な役目ではあるがそれだけだった。
ところが、1590年、家康の関東入りに伴い大名となる。
忠吉の側を離れ、その後、丹波篠山藩5万石藩主となる。
家康は、康重を特別待遇とし、独立させたのだ。
松平一門のすべてが大名になれるわけではない。
花姫も喜んだが、康重の出生の秘密は間違いなかったのだと知るようになる。
花姫は、弟、康重は特別な人だ、と感じていた。
幼い頃、母、江原氏は亡くなったとされ、父、松平康親は再婚し、康重が生まれた。
家中は、弟を大切にし、花姫は忘れられた存在だった。
母の父、江原政秀(利全)は、徳川譜代の重臣だ。
駿府での家康の人質時代から近侍した側近だった。
だが1563年から1564年まで続いた三河一向一揆で一揆側に与し家康に敵対した。
政秀は一揆の首謀者格だった。
一揆が終焉する時、政秀は代表格で和議を結ぶ。
家康方の代理が松平康親だった。
その条件で、政秀の娘と松平康親の結婚が決まる。
政秀の娘は人質となったのだ。
そして、花姫が誕生し、まもなく謎の死となり、母は消えた。
花姫は、母を覚えていない。
母を知らずに育ち、なぜか母は殺されたと思っていた。
継母は、能美松平家当主、松平重吉の娘だ。
父、松平康親は継母に遠慮し、花姫も継母に甘えることはなかった。
そして、継母について信じられない過去を知る。
継母の初婚相手は、譜代の重鎮、家康一門でもある石川康正。
2人の間に石川数正と5人の姫が生まれた後に、夫を亡くしたとされていた。
そこで、家康は、継母に康親との再婚を決めたのだ。
継母は、五人の姫を連れて1565年、再婚し、父、康親は5人の姫を養女とし、育てた。
そして、継母は、松平康親との間に康重・忠喬と二人の子を産んだとされる。
1568年生まれの嫡男、康重は、花姫より3歳下だ。
石川数正の生まれは1533年。
数正と康重は異父兄弟のはずだが、年の差は35年、継母は50歳で康重を生んだことになる。
同一の生母とは考えられない。
しかも家康が特別待遇とした康重の母である継母は、家康より20歳以上年上になる。家康が愛するには年上すぎる。
石川数正と5人の姫の母が別にいたとも考えられるが、謎ばかりだ。
花姫は、弟、康重と忠喬の母は、別にいたのだと思っていた。
幼くて、継母とは屋敷も違い、康重・忠喬の妊娠出産を気づかなかったが、継母の子ではないと確信できる。
継母は高齢に思えたからだ。
花姫は、居り場のないつらい立場で成長し、なぜどうしての繰り返しだった。
大人になっても婿が決まらず、やはりいらない子だと、悲観し将来に望みを持たなくなりつつあった。
その時、井伊直政との結婚が決まる。
しかも、家康養女として嫁ぐのだ。
父母は大喜びだった。
なぜ、家康の養女となったのか、疑問だった。
継母が松平一門であり、康重が生まれたことにより松平氏一門として家を興したのだ。
松井松平家の娘となり、康重の姉であるがゆえに家康の眼鏡に叶い、認められ養女となったと自分に言い聞かせた。
感謝すべき慶事だが、どうも納得できなかった。
1581年、16歳で井伊直政と婚約。
家康の為に抜群の功を上げ続けるお気に入りの井伊直政の妻となるのだ。
どのような理由があっても結婚は、うれしかった。
婚約後まもなく、直虎のいる井伊谷城に入る。
本能寺の変があり、結婚式は延びたが、娘のように可愛がられ、ほんのひと時だったが、幸せだった。
こうして、井伊家の人となった花姫にまたしても不可解な出来事が起きた。
家康は、あこの方と愛し合っていた。
花姫は思いつく限りの場面を想定するが、間違いない事実だ。
勢力を伸ばし続け大大名となった家康には望む女人を手に入れる力を持っていた。
なのに、あこの方との逢瀬を楽しんでいた。
ひそひそと周囲に目を配りながら。
あこの方は幼い頃から、花姫に仕えた侍女だ。
同年齢であり、幼馴染であり、友達でもあった。
あこの方を思い出しつつ、花姫は、すべての謎が解けたように思った。
康重・忠喬の母は、あこの方の実家、印具(伊具)徳右衛門に近い女人だと。
鎌倉時代の執権北条氏の庶家に伊具流北条氏がいた。
この流れが時を経て、松井家に仕える印具氏に繋がる。
家康との接点もあり、康重の母は、松井松平家家老、印具氏の娘だと確信する。
あこの方は、康重の母の縁者なのだ。
家康が好む性格・容姿・教養を持っており、二代に渡って家康に愛され、二人とも子を成したのだと。
花姫は、母も自分も印具氏の娘によってつらい目にあっていると運命の繋がりに驚き、涙があふれ、ため息がでる。
花姫は、直政にあこの方と家康の関係を問いただしたことがあった。
だが、花姫が追求すればするほど、直政は寡黙になり、家康は直政を引き立てる。
花姫はますます、自分の思いが正しいと、哀しくなっていく。
この思いが続く中、直孝に関して何も言わずに花姫に預けたまま、直政は亡くなった。