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彦根藩井伊家とは|井伊直虎を彩る強い女人達。(10)

だぶんやぶんこ


約 6916

 直政の故郷は、遠江井伊谷だ。

高崎藩12万石は、家康重臣に加えられた証であり誇らしかったが、故郷を忘れることはない。

秀吉から得て、家康は関東の覇者となり、家臣も従わせた。

直政も離れたくない故郷だが、家康家臣としてやむを得ないと、高崎藩に移るのは光栄とありがたく国替えに応じた。

いつか、井伊家、発祥の地、遠江()伊谷(いのや)(静岡県浜松市)に戻ると信じていた。

そして、家康は、実質天下人となった。

領地の配分はどうにでも出来る権限を持ったのだ。

直政は、遠江に戻ることを願ったが、叶わなかった。

家康の命令に逆らうことは出来ない。

与えられた役目は重すぎるほどだ。つらかった。

だが、覚悟を決めて佐和山城に入る。

名城、佐和山城から城下を見て思う。

井伊家を遠江()伊谷(いのや)から高崎藩を経由して彦根に移したのは、家康。

豊臣秀吉が亡くなり、豊臣家の天下を守る為に、豊臣家を軽んじる家康に対し、石田三成は、毛利輝元・宇喜多秀家を大将に祭り上げ、天下分け目の戦いを引き起こした。

家康を相手に真っ向勝負を挑んだのだ。

三成は、完璧に敗れた。

実質大将として戦った三成の本拠、佐和山藩18万石を与えられたのだ。

戦功の大きさと豊臣家を乗り越え家康の世を築く為の大きな期待を表している。

だが、三成は19万4000石を得ていたが、直政は18万石。

三成は、名君として領内の信望熱く、領民は光秀・秀吉を慕い、三成を無残に殺した家康に強く反発していた。

直政は、家康への恨みが渦巻く難しい地を与えられ、試されたのだ。

天下分け目の主戦、関ヶ原の戦いで功を上げたが、深手を負い体調は万全ではない。

それでも、家康の意を汲み、石田三成の痕跡をなくそうと、井伊藩政の骨組みを固め、新城の築城を決める。

 家康の期待がいかに大きくても、重圧であっても、必ず成功させる自信はあった。

それでも三成を凌駕するためには、石高も三成以上が欲しかった。

何よりも、少し休みたかったが、かなわない夢だった。

まず、三成の居城は、家康の世の新藩主の居城としては不適格だった。

領民に家康の世を示す為に、新城、彦根城の築城が必要と家康に願い、了解される。

そこで、佐和山城の西方約2kmの彦根山に城を築くことを決める。

ここから、20年の歳月をかける築城が始まる。

幕府から奉行が派遣され近隣諸国に手伝い普請を命じ、対豊臣のための天下普請となる。

 直政は、自らが調略したり、東軍に引き込むことに関与した豊臣家恩顧の大名の行く末に力を発揮すること、そんな戦後処理をまず第一したかった。

優秀な外交の力を発揮し、戦後処理に奔走し、家康政権の基盤づくりに貢献する。

 家康の望むことではなかったが。

家康は、豊臣家を嫌っており、力で押さえつけることも必要と考えていた。

直政の甘さに気分を害することも合った。

それでも、直政は、戦傷を引きずり、働き続け、1602年3月、過労死となった。

直政の遺志を継ぎ嫡男、直勝が彦根城を築き彦根藩となり、石田三成の佐和山藩は消え去る。

井伊家は、遠江()伊谷(いのや)の国人領主から大藩、彦根藩主となる。

家康と直政の深い関係を示す画期的な出世だ。

だがそれだけではなかった。

直政には、男子二人、直勝、直孝が生まれていたが、家康は、直孝の成長の様子を逐一報告させ、その成長の様子を見守っていた。

直政が亡くなると、直政の遺志に沿い、嫡男、直勝を後継と認めるが「12歳はまだ若い」と藩政に関わらせない。

家康が命じた付家老が中心になり、藩政を執る。

家康は、気に入っていた鈴木重好と木俣守勝を筆頭家老とし政務を仕切らせた。

そして、すぐに直孝を江戸城に呼び寄せ、秀忠に仕えさせる。

江戸城で初めて直孝に会い、成長をわが目で確かめ、我が子だと確信したからだ。

家康が、直政を側に置いたように、直孝を井伊家中から引き離し秀忠の側近とすると決めた。

この時以来、家康の頭の中に、井伊家後継は直孝しかいなくなる。

家康からの付家老、椋原正直は、亡くなり、後継、正長は、まだ若かった。

1604年、家康からの付家老、西郷正友が亡くなり後継、重員(しげかず)と若い世代に代わる。

そのため、若い二人は干され、鈴木重好と木俣守勝が実権を握った。

1605年、椋原正長と西郷重員は協力し、藩政を主導する鈴木重好の不正を見つけ追及する。

 こうして、西郷重員(しげかず)と椋原正直は、付家老としての権限を確保する。

家康は、鈴木重好を追放するが、重好嫡男、重辰は井伊家に残した。

重辰を気に入っており、続いて藩政を執らせた。

ここで家康の付家老3家、西郷重員(しげかず)・椋原正直・木俣守勝と鈴木重辰が藩政を主導するようになる。

直勝は、直接藩政に采配を奮うことができず、いらだった。

それでも、天下普請での彦根城築城が続き1606年、天守が完成し、彦根城に入った。

同時に、元服し、磐城平藩(福島県)10万石藩主、鳥居忠政の娘と結婚。

伏見城で西軍勢を食い止め壮絶な死を遂げた英雄、鳥居元忠の孫姫だ。

後のことだが、鳥居忠政は1622年、出羽山形22万石藩主となる。

1628年、家督を継いだ直勝の義弟、鳥居忠恒は、直孝や幕府から無能とみなされる。

そのため、忠恒が、1636年亡くなると、申し出のあった養子を認めず、改易、所領没収。

そしておもむろに、忠恒の弟を、信濃高遠藩3万石で再興を認め再編した。

直孝の裁定だった。

直勝と正室、鳥居忠政の娘の仲は悪く、離縁した。

そのこともあり直孝は、鳥居家に厳しかったが、直勝に直孝の力を見せつけたのだ。

直孝は、関わるものすべてに緊張を与えるすごさと切れがあり、家光の信頼が厚く幕府内でも力を持つ証の一つとなる。

一方、直勝16歳は、結婚し、藩主として親政を行うのに十分な学識もあり、父の後継に相応しい藩主となると張り切ったが、思うようにはならない。

家康から付けられた家老が執るあまりの幕府べったりの藩政を嫌い、井伊家の誇りを守ろうとするが難しかった。

1610年、長年、井伊家を率いた木俣守勝が亡くなると、鈴木重辰を筆頭家老にする。

1585年生まれの重辰は、年齢が近く井伊家一門でもあり、直勝を藩主として尊重した。

そこで、共に新しい彦根藩政を執る、藩主、直勝の出番が来たと身構えた。

秀忠近習として将軍家に近づきながら頭角を現している直孝に対抗するように、井伊家一門に繋がる譜代の臣を重んじ、井伊家らしい藩政を執るはずだった。

だが、すぐに、重臣の内紛が起き、家康は、直勝をあざ笑うように、井伊家の筆頭家老を木俣守安に命じる。

木俣守勝の後継であり、母は、新野親矩(直虎の母の兄)の娘であり、直虎のいとこの子だ。井伊家の縁戚であり大義もある鈴木重辰以上の適材だ。

直勝は、すべてを見透かされた人事に唇をかみしめる。

それだけでは済まされず、内紛の責任を追及される。

元服したれっきとした藩主が決めた人事に対して、家康の横やりで取り消されただけなのに、能力を疑われる結果になった。

こうして、直勝が決めた人事は否定され、井伊家重臣の再編成となる。

家康は、直勝に井伊家譜代の臣を付け、直孝には家康が付けた家臣団を任せるとの裁定を下し、井伊家家臣団を二つに分けた。

家康は質量ともに井伊家譜代の臣を凌駕する家臣団を井伊家に送り込んでおり、井伊家譜代の家臣の比率は少ない。

この時点で、直孝が圧倒的力を持ち、直政の後継は、直孝と見なされる。

家康の再編の沙汰の後も、引き続き、秀忠の元にいた直孝は、藩主としての英才教育を受けつつ力をつけていた。

だが、国元では、家中の内紛状態が続く。

この時、豊臣家滅亡への最期の鉄槌、大坂の陣が始まる。

家康は直孝の力量を試す。

これで合格点を出せば、井伊家をまとめ任せるつもりだ。

井伊家総大将として出陣した直孝は、家康が満足する働きをした。

1615年、豊臣家が滅亡し大坂の陣が終わる。

ここで、家康の眼鏡にかなった直孝は、彦根藩を引き継ぐ。

嫡男、直勝ではなく次男である庶子、直孝が彦根藩15万石を引き継いだのだ。

嫡男、直勝は、出陣を許されず、安中の関所警護を命じられ、そのまま警護を続けるよう命じられた。

大坂の陣が終わると、この地でわずか3万石を分けられて上野(こうずけ)安中(あんなか)(群馬県安中市)藩主となる。

家康は待っていたかのように、直孝に異例の出世をさせる。

まず、彦根藩15万石を受け継がせ、大坂の陣の功だと5万石加増。

ここで、家康は亡くなるが、家康の遺言により、1617年、5万石加増。

家康の意思を引き継ぎ、家光も直孝を重用する。

直孝に5万石加増し、加えて幕府から蔵米5万俵(5万石相当)を任され、計35万石の譜代大名筆頭となる。

尋常でない家康と直孝の関係がだれの目にも明らかになる。

直孝の出世は、家康の子であり、家光の叔父、故だったのだ。

家光には信頼できる親族は少なく、直孝を頼りにした結果でもある。

直勝は、無理やり、上野(こうずけ)安中(あんなか)(群馬県安中市)藩主に落とし込められた。

嫡男として育っており、理解できず苦しくつらい。

そのため、幕府の沙汰に不満をもつ表情となり、幕府は、直孝の彦根藩主としての力を認めることができない不忠者と烙印を押す。

この時、直勝は妻と大喧嘩をする。

嫡男をないがしろにする家康、それを支持する妻の父、鳥居忠政・嫡男で義弟、忠恒が許せなかった。

妻と離縁し、家康の覚えはますます悪くなる。

直勝は、彦根藩主には戻れないことを知り、自由に生きることに決めたのだ。

家老、中島新左衛門の娘、お岩の方をと再婚する。

1616年、姫・1618年、直好が生まれる。

直好を嫡男と決め、お岩の方との仲も睦まじく、安定した暮らしとなり、彦根藩取り上げは許せない暴挙と思いつつも、受け入れざるを得ないと考える。

上野(こうずけ)安中(あんなか)(群馬県安中市)藩を守り直好に引き継がせたい。

今は、藩主として力が奮える。それで十分だと思い始めた。

一方、直孝には1612年生まれの嫡男、直滋を始めとして、松千代、直寛、直縄、直澄と5人の男子がいる。

直政から井伊家を託された花姫は、固い決意をし、動く。

堂々と、直政の遺志であると直孝嫡男、(なお)(しげ)と直勝の娘の結婚を願う。

直孝も父の名を振りかざされると断る理由はなく、結婚させるしかなかった。

35万石と3万石では、格が違い名ばかりの正室とする自信があったからだ。

花姫は、してやったりと笑顔がこぼれた。

生まれた子が彦根藩の後継となれば、直勝の血筋で井伊家は繋がると溜飲が下がる。

だが、35万石藩主と3万石の姫とは格が違い、両家の確執は大きかった。

彦根藩の重臣の多くは安中藩を相手にしない。

花姫の孫姫は身の置き所がなかった。

それでも、(なお)(しげ)は妻を慈しみ、嫡流の変遷に同情し、二人は強く結ばれた。

そして、嫡流を重んじたいと考え、妻を愛すれば愛するほど、家中で孤立していく。

直孝は安中藩を大事にし、友好な関係を持とうとする(なお)(しげ)に怒り、家督を譲らない。

間に入って悩んだ妻は、患い亡くなる。

花姫の思いは実らなかった。

(なお)(しげ)は、すべてに無常を見た。

父との諍いを終わりにし、妻の菩提を弔いたいと出家する。

直孝は、1658年、(なお)(しげ)を廃嫡し、末の男子、直澄を後継とする。

直孝は、(なお)(しげ)を追放する大きな決断をした後、種々の後悔の念が沸き上がり、急速に力を落とす。

今までの生き方、決断が正しかったか悩み、翌年、69歳で亡くなる。

出生の秘密を知っており、家康の思いを叶える為に生きる事は、重圧だった。

それでも、弱音を吐くことなく、やり抜いた。

花姫や直勝・(なお)(しげ)夫婦の思いは、痛いほどわかったが、それぞれ背負うものがあり、妥協は許されなかった。

(なお)(しげ)は父の3回忌を済ませると、後を追うように亡くなる。

一方、直勝は直孝に対抗するかのように1632年、嫡男、直好14歳に家督を譲り隠居した。

直孝の隠居を促したつもりだったが、直孝は隠居しなかった。

直勝は、病弱・愚鈍などなど言われなき汚名を着せられ、嫡流から支藩扱いとなり、無念の思いを持ち続けたが、上野(こうずけ)安中(あんなか)藩を嫡男、直好に引き渡すことが出来ホッとする。

花姫が直勝のためにと、渾身の力を込めて仕組んだ井伊直滋と孫娘の結婚。

直孝は、期待の嫡男、直滋が花姫やその孫に取り込まれていくのが残念でならなかった。

花姫・直勝と直孝の緊張が続く。

だが、直好にとっては意味がないことだった。

直好は3万石で育ち、彦根藩とは雲泥の差があると受け入れ、父ほどの闘争心はない。

幕府は、そんな直好の従順さを好感し国替えした。

直孝の嫌がらせでもある。

1645年、5000石加増で三河西尾藩へと国替えを命じられる。

国替えは、経費が掛かりかなりの加増がないと合わないが、三河西尾藩への国替えの加増は5千石で、与えられた役目(西尾城普請の完成)の負担も大きく、藩政を悩ます。

譜代であり、幕府の意向で国替えはよくあることだと、直好は素直に受けるが、直勝にはつらい。

ここで、直政が大事にした地、終の棲家と決めていた上野(こうずけ)安中(あんなか)藩から離された。

 西尾城(愛知県西尾市錦城町)は、西条城と呼ばれた城であり、直政が命を懸けて守った婿、松平忠吉に縁のある城だ。一応の国替えの大義があった。

築城半ばだった西尾城の総構えを完成させ、近世城郭、西尾城および城下町を築くのが使命だ。

直勝は、直好の為に、国替えを成功させるしかないと決意、彦根城築城の経験を活かし、陣頭指揮した。

こうして、築城を完成させ、三河西尾藩での暮らしに慣れ、ここが終の屋敷になると考えていた。

ところが、1659年、遠江掛川藩に国替えとなる。

直孝の最後の嫌がらせだ。

期待の嫡男の裏切りに自分を責めることも多かった直孝だが、直勝への恨みも持ち続けており、国替えさせたのだ。

直勝は、生きており、直孝の執念深さに驚きながら移った。

井伊家発祥の地、遠江に移ることは、大義があり良いことだが、藩財政的には、国替えはない方がよかった。

直孝は明らかに勝利者なのに、直勝に負い目があるかのように対抗意識を燃やし続け、この年、8月、死んだ。

直孝が亡くなると、直勝は、家光の元、国政を率いるほどの力を持った直孝の人目もはばからない仕打ちを笑って許せるようになる。

1662年、直孝より3年長生きし「病弱で、能無し」と決めつけた家康の思いの間違いを立証したと、自己満足しながら死を迎える。

どうあがいても太刀打ちできない力に挑み続けた生涯だったが、悔いはない。

直好の将来に不安はあるが、遠江国掛川城で亡くなる。71歳だった。

直孝と緊張感を持って生きることは、力及ばずと肩を落とすことも多かったが、おもしろかった。

家康の子と直政の子、差は明らかだが、直孝に対抗した一生だった。

花姫やお岩の方が待っているはずだ。直孝と張り合った一部始終を話そう。

 不思議不思議でほほえましい歴史を作った井伊氏。

だが、生臭く信じられないほどの愛憎の中でも、生き抜いた。

この後も井伊氏嫡流、直勝の家系は譜代の重鎮、直孝の彦根藩に翻弄されるが、直虎が育てた松下氏(中野氏)・小野氏・奥山氏ら、井伊氏譜代の臣が守り続ける。