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直政と家康|井伊直虎を彩る強い女人達。(9)

だぶんやぶんこ


約 9892

 直政は、1582年、本能寺の変が起きた時、家康に従い堺に居た。

光秀を信奉する公家・武将が多い堺・大坂だ。

光秀の追手がすぐに来ると呆然とする家康を守り、逃避行の先頭に立つ。

この日を予期していたかのように、家康の周りには次々支援者が出てくる。

それでも、家康の直ぐ側で、逃避行の先頭に立てるのは直政だった。

家康から付けられていた家康家臣、西郷正友(正員)・椋原正直(政直)・木俣(きまた)(もり)(かつ)は長年共に戦い、気の合う信頼できる仲となっていた。

そこで、家康は、花姫の結婚に従い、井伊家に入り直政直臣、付家老となるよう命じた。

結婚はまだだったが、この時、木俣(きまた)(もり)(かつ)は、直政の側近くにいた。

鎌倉幕府打倒に威力を発揮した英雄、楠木正成を祖に持つ武門の家柄に生まれている。

光秀に仕えたこともあり、光秀の人となり、伊賀の地をよく知っていた。

そこで直政と知恵を出し合い助け合って、危機を潜り抜け、無事、家康を三河に戻す。

この時、家康と直政、木俣(きまた)(もり)(かつ)にはゆるぎない連帯感が生まれた。

木俣(きまた)家は、彦根藩筆頭家老を世襲することになる。

逃避行が無事に成功すると、一転、信長の急死のどさくさに紛れ以前に倍増する広大な領地を占領する。

直政は、信長領となっていた武田領への侵攻、その後の治安維持に大活躍する。

ここで家康は「直政は並外れた武将だ」と絶賛し、直政は、新参の家康家臣団の中、一歩飛び出した。

家康に褒められ胸張って、井伊谷城に凱旋した。

直虎は亡くなっており、報告し喜びの声を聞けない悲しみに涙したが、満足の死であったことがにじみ出た直虎の遺言を聞き、胸に篤く響いた。

待っていた花姫を見つめ、頷き、1583年初め結婚した。

直虎に自慢しつつ話した、家康に仕えて以来の数々の戦いに思いを巡らしながら。

直政は、1575年、家康に仕えるようになると、出身地が遠江であったことで、武田氏攻めに加わることを命じられた。

初陣は、1576年、長篠の戦いで武田勝頼に勝利した家康が、武田勢が遠江支配の拠点とした高天神城を奪還する戦いだった。

武田領と今川領の境にあった高天神城。

高天神城を今川氏から奪っい取った家康は、遠江支配の拠点としたが、武田勝頼に奪われ、勝頼の遠江支配の拠点となってしまった。

信玄が死に、長篠の戦いで武田勢に勝利した家康の存在を示すために、早くどうしても奪い返したかった。

家康も出陣し、高天神城に兵糧を運び込もうとする武田勢との遠江芝原での戦い。

直政の初陣だった。

その時、勝頼から家康暗殺を命じられた刺客1名、本陣に潜入した忍1名を討ち取る。

家康は大いに褒め、300石から3000石に大幅加増となる。

井伊家特有の不思議なお話だが、直政の洞察力と武功を家康が認めたのだ。

こうして、高天神城攻めの主要な一角を占めるようになった直政と井伊勢。

直政は果敢に戦い、家康は押せ押せで戦いを進めた。

ついに1581年初め(旧暦では前年)城は陥落した。

直政は、「徳川四天王」と称賛される本多忠勝や榊原康政らと共に先鋒を務めた。

そして忍者を使い城に供給される水源を断ち、兵糧攻めの成功に貢献した。

7年も続いた高天神城奪還の戦いを勝利した。

家康は直政を褒めた。

こうして直政は、家康の側近くで仕え、東条松平家を松井松平家とともに支え、遠江支配に力を発揮する役目を得た。

そんな時、東条松平家、家忠が1581年11月26日、子なく亡くなった。

そこで、家康は、4男、忠吉を東条松平家当主とする。

そして、花姫と直政の結婚を決めたのだ。

ここで東条松平家は家康の子の家系となり、名実ともに松平一門から飛びぬけた存在となった。

忠吉の母は、西郷の局だ。

信康亡き後、後継者と見なされている秀忠の母であり、西郷正友の義姉だ。

忠吉は、徳川家を背負う一人となることが約束されている家康が期待する息子だ。

以後、正友が忠吉の叔父として、井伊家と東条松平家を繋ぐ役目も担う。

正友の重要性が増す。

しかも、直政は、家康の婿であり忠吉の義父として、東条松平家を守るのだ。

直政と花姫の結婚と共に領地も加増される。

家康が、娘婿としての格式を持たせようとしたのだ。

直政の今までの戦勲に対する褒賞と花姫との結婚の祝いに井伊谷4万石を得た。

1575年以来の折々の忠勤・戦勲により祖父、直盛の領地に匹敵する3万石相当の石高まで得ていたが、ここで、大幅に加増された。

旧武田領侵攻に功があったゆえだが、家康の婿として認められた証だと感激する。

家康の元、遠江の盟主、井伊家となる夢の実現に向けての一歩を大きく踏み出す。

家康は冷静だ。

直政の力量を試しながら、婿として井伊家を取り込みつつ、思うように家臣団を編成していく。

直虎が家康の庇護を求めた時、家康は井伊谷3人衆を選び、井伊家の家政を取り仕切らせた。

そして直政と花姫の結婚に合わせて、井伊家を主導するべく付家老として西郷正友と木俣(きまた)(もり)(かつ)(むく)(はら)政直の3人を選び送り込んだ。

以前から直政とともに戦い、家康との取次の役目も担っていたが、正式に直臣となる。

この後、3人は直政家臣団の主力となって戦い井伊家中を監視しつつ、家康と取次ぐ。

直政の家臣でありながら、家康の命令を守る家臣でもあるという絶妙なバランスだ。

直政が、彼らを井伊家中でどのように扱うかを試した。

すでに、西郷正友とは親密な良い関係を築いており、伊賀越を木俣(きまた)(もり)(かつ)ともに乗り切り強い同志となっており、3人は自然と井伊家家老となった。

譜代の臣が、家康の影響力が強くなりすぎ自分たちが軽く扱われると不満を持つだけだ。

木俣(きまた)(もり)(かつ)は、三河に生まれ、幼少から家康に仕えた譜代の臣だが重臣ではなかった。

元服時の扱いに不満があり家康の元を飛び出し、信長に仕官し明智光秀に仕える。

思い切りのよい大胆な戦いぶりで戦勲を上げ、名を上げると、家康は、再び直臣とし迎え入れていた。

その後、直政に付け共に戦わせた。

直政と価値観がよく似ており、意気投合し、力を合わせると思いがけないほどの戦勲を上げることができた。

家康は、武田氏旧領を制圧した時、武田氏旧臣に反乱を起こさせず家康配下とする役目を木俣(きまた)(もり)(かつ)に与え、甲斐に入りし奮闘する。

信長や光秀に近侍した時があり、度胸が座った肝っ玉の大きさがにじみ出た。

勇猛で名高い名将、一条(いちじょう)(のぶ)(辰巳)山県昌景(やまがたまさかげ)土屋(つちや)(まさ)原昌(はらまさ)(たね)らに、一歩も引かず、家康家臣に迎えたいと丁寧に申し出、条件を整え、家康の家臣とした。

こうして武田旧臣を「甲州同心衆」として再編する。

家康は「よくやった」と褒めた。

一条(いちじょう)(のぶ)(辰巳)山県昌景(やまがたまさかげ)土屋(つちや)(まさ)原昌(はらまさ)(たね)が率いた軍団・旧今川家重臣に従っていた軍団などをまとめ、大軍勢とし、家康の臣に迎え入れた。

彼らの軍装は赤が多く、よく目立った。

その兵力すべてを引き連れ直政の元に行き、仕える。

家康も、信玄の命令で、名将、飯富(おぶ)(とら)(まさ)山県昌景(やまがたまさかげ)の兄)が赤い軍装で揃えた軍団を率い、武田家一の武勇を誇ったいわれを知っており、直政に通じるとうなずいた。

そこで、兵はすべて赤備えとするように命じ「井伊の赤備え」が誕生する。

木俣(きまた)(もり)(かつ)は幾多の功を認められ、直政の筆頭家老になる。

椋原正直も家康直臣だったが、直政と共に戦い、その後、直政の付家老となった。

西郷正友は、1571年、叔父、西郷清員に従い、家康に臣従した直虎に対面して以来、直虎・直政との長い付き合いが始まった。

直虎に気に入られ、次第に、直政に従い、直政を支えるようになっていく。

家康家臣ではあるが直政に付けられたことで、直政の筆頭家老になりたい、きっとなれると信じ、一途に尽くした。

その結果、家康からの付家老になったのだ。

夢の実現に一歩踏み出したと士気は高い。

家康は、井伊直政を譜代ではなかったが、気にせず出世させた。

幅広い視野で忠臣を抜擢する名君でありたいと願う家康には好都合な家臣だった。

その分、井伊家に影響力を強める必要があると、家康の意思に沿い動く3人と従う武将・兵を多数つけて送り込んだ。

実質、譜代化するために、抜かりなく家臣団をつけたのだ。

直政は付家老3人を高く評価しており、家康の監視の役目を持つとしても気にすることなく迎えた。

与えられた家臣を自分流に生かし、井伊家の発展に役立たせる自信があったからだ。

こうして、井伊家の軍事力は飛躍的に伸び、強さは群を抜いていく。

手柄は数え切れないほどだ。

譜代の臣の無念さはわかるが、まず、家康に認められなければ、井伊家の未来はないと、割り切った。

今川家から付けられ、引き続き家康から付けられた井伊谷三人衆(近藤氏・菅沼氏・鈴木氏)は付家老として大きな権限を持っていたが、直政直臣となる。

3人衆は直政の縁戚であり井伊一門衆とも縁戚となっており、強い結びつきがあった。

菅沼忠久は、奥山朝利の娘と結婚するが、死別し、鈴木重時の娘と結婚。

近藤康用(やすもち)は、鈴木重時の姉と結婚。

一門筆頭家老、中野直之の嫡男、三考の嫡男、三宣の妻が、近藤康用(やすもち)の娘。

直政は、井伊谷城を仕切った3人衆に好感は持っていない。直虎の意思に反することがあったからだ。

中では、直政の叔父(母の兄)鈴木重時の嫡男、いとこの重好を大切にした。

1569年、遠江侵攻に従った重時は、遠江国敷知郡(静岡県浜松市西区舘山寺町堀江)堀江城での戦いで戦死した。

家康は悼み、嫡男、重好に目をかけ、井伊家筆頭家老並みの力を持たせた。

直政も大賛成で、ここから、3人衆に上下関係が出来てぎくしゃくしていく。

直政は、3人衆の主君となり直臣とすると、これまでの家康家臣としての遠慮した対応とは違う扱いをする。

まず、康用(やすもち)の嫡男、秀用と重時嫡男、重好を競い合わせ戦わせ、重好に軍配を上げた。

次第に居づらくなった近藤秀用は、井伊家を出ていくことになる。

菅沼忠久が1582年亡くなると嫡男、忠道が継ぐが、直政は、忠道の性格・能力・忠誠心いずれも満足できず冷遇していく。

一族には、家康家臣、菅沼本家に戻るものも出てくる。

こうして、3人衆は解体され、鈴木家だけが家老として影響力を持ち残ることになる。

直虎から譜代の臣を重視するように願われ、その思いを叶えたかった。

中野直之を軸に、中野三考・小野朝之・奥山朝忠を小姓から側近、重臣へと取り立て、直政体制を作るつもりだ。

だが家康から強力な家臣団を送り込まれ、直政は強く人事権を主張できなかった。

そこで、時期を待とうと、井伊家が戦功を上げることを最優先とする。

譜代の臣は影が薄くなっていく。

結婚後、家臣団は再編され層が厚くなり、直政の軍事統率力の素晴らしさが、発揮され、幾多の戦いで、勇猛な活躍が知られるようになる。

1585年、秀吉・織田信雄勢との小牧長久手の戦いでは、抜群の戦功を上げ、秀吉や織田家にも名を轟かせ、勇猛な名将として、高名になった。

ここで、加増され井伊谷6万石を得る。

続く、1590年、北条攻めでは、直政勢は小田原城篠曲輪に夜襲をかけ、城内に突入し、勝ち進んだ。

華々しい手柄だった。

そして、北条氏との和平交渉の主要メンバーに抜擢され、家康の意に沿いつつ、秀吉の希望通りの和議を結ぶ。

家康は、この功を称賛し、直政は戦いでも和議交渉でも家中で際立った存在となる。

ここで、家康は、関東への国替えとなる。

戦勲に対する報奨と、直孝が生まれた祝いだと、直政に上野国高崎藩(群馬県高崎市))12万石を与える。

徳川家臣団の中で最高の石高を得たのだ。誇らしい。

上野国高崎藩の旧主は、長野氏だった。

家康は、長野氏に縁ある家臣を直政につけており、新領主は、長野氏一族や旧臣を取り込んで治めるのが、円滑な統治のために、一番効率がよいと教えた。

直政は、深くうなずきその通りにした。

12万石の大大名となった直政。

ようやく、家康家臣ばかりでなく、独自の家臣団を作ることができると胸を震わす。

直虎から引き継いだ譜代の臣を重用したい思いを忘れてはいなかった。

直虎は、新野親矩(にいのちかのり)・中野直由を重用したかったが、当主になる前に亡くなった。

一門衆筆頭として直由の後継、中野直之を重用した。

亡くなった新野親矩(にいのちかのり)には6人の姫と男子1人がいた。

残された子たちが、井伊家の中枢を担っていく。

長女は、井伊家を監視するため三岳城主となった和田奥平家、貞昌(常閑)に嫁いだ。

井伊家を今川氏配下として強く結びつけるためだったが、後、貞昌は今川家を裏切り、長女は実家に戻る。

次女は、新野家家老、戸綿太郎右衛門正金に嫁いだ。

3女は、遠江国人、西郷の局の父方の家系、今川氏重臣、戸塚正次に嫁いだ。

戸塚氏は西郷の局の実父の家だ。

彦根藩重臣として続く。

4女は、氏真側近、三浦正俊の嫡男、三浦元成に嫁いだ。

彦根藩家老として続く。

5女と6女と嫡男、甚五郎の結婚が決まらないうちに新野親矩(にいのちかのり)は亡くなる。

すると、氏真は、新野一族皆に、今川家に戻るように命じた。

井伊家と新野家との関係は一旦、途絶える。

そして、氏真が、5女と今川氏重臣、庵原(いはら)(とも)(まさ)(1556-1640)の結婚を決める。

彦根藩家老として続く。

その後、氏真は駿府を追われ北条氏を頼り、新野一族も同行する。

甚五郎は北条氏に仕え、6女は、北条家家老、狩野主膳と結婚し木俣守安を生む。

1590年には、北条氏は、家康らに攻め込まれ、戦い、改易。

嫡男、甚五郎は北条氏と共に戦い、戦死。

新野親矩(にいのちかのり)家は断絶する。

直政は、直虎の母の実家であり、今川氏一門であり、幼い時何度も命を守ってくれた新野家への恩を忘れていない。

嫡流は絶えたが、一族を井伊家に招く。

新野一族は直政の元、力を発揮する。

娘婿、三浦元就・庵原(いはら)(とも)(まさ)・木俣守安は、家老家となり井伊家を支える。

長野氏・北条氏に縁ある家臣を多く召し抱え家臣団の層は厚くなり数も飛躍的に増す。それでも、まだまだ、人事は家康が握り、井伊家譜代の臣の活躍の場は少ない。

積年の気がかりを解決するまでにはならないが、家康に縁ある家臣ではない、直政独自の井伊家家臣団を創り始める。

家康家臣だった付家老3人は、完全に直政を主君として忠誠を誓う。

彼らを指揮し、直政は、ひたすら家康から与えられた仕事をこなす。

軍事・外交の才はさえ、家康をうならせる働きをした。

家康の意向を第一に家康から付けられた家老や家臣団を重視した藩政を行ないつつ、独自の家臣団を築いていく。

家康は、直政の才を褒め、直政と花姫との間に生まれた娘、政子姫と家康四男、松平忠吉の結婚を決める。

取り次ぎの役目が、西郷正友だ。

西郷正友は忠吉の叔父になる。

義姉、西郷の局の次男が忠吉だからだ。

 他にも、結婚を祝い、懸命に働いた直政直臣もいる。

新野家の婿、戸塚正次は、西郷の局の親戚として大喜びだ。

また、戸塚家の本家、横地家、横地吉晴も北条旧臣だったが、直政に仕え、忠吉の縁者として結婚の取次に加わった。

1592年、松平忠吉と政子姫の結婚が無事執り行なわれた。

西郷正友・戸塚正次・横地吉晴もそれぞれの想いを込め、感激で身を震わせた。

横地氏は、井伊氏と並ぶほどの鎌倉幕府御家人であり、遠江の有力国人だった。

直政は、北条家重臣だった横地氏を、丁重に迎え、横地吉晴も応える働きをした。

直政と正友の関係は、政子姫と松平忠吉の結婚で、さらに緊密になる。

 秀吉が亡くなり、家康の世の始まりを予感した直政の働きは群を抜く。

まず、家康は秀吉恩顧の諸大名の切り崩しを図る。

表立って調略を勧めるのは、秀吉恩顧の有力大名、黒田長政や藤堂高虎など。

直政に家康との取次を任せる。

そこで、直政は、豊臣恩顧の大名を調略し家康方東軍支持とするために奮闘する黒田長政の後ろに控えた。

「(家康の)意向を受けて、私が居る。私を信用すれば良い」と長政を援護し、家康の威光を見せつけたのだ。

秀吉のお気に入りだった直政だ。

自らも率先して調略を進め、家康の偉大さと従えば益があることを説いた。

直政の名は高名だったこともあり、説得に心動かした豊臣恩顧の大名も多い。

次々家康支持を表明する諸大名の意思の確認、今後すべき役目を振り分けるのも直政の仕事だ。

そして関ヶ原の戦い。

戦いが始まると東軍指揮の中核を担うと同時に、忠吉に手柄を建てさせるために先陣切って戦った。

負けん気が強く、自分にも家臣にも厳しく、恐怖心を与えるほどだったが、常に死を懸けた突撃で必ず勝つという信念を貫いた。

家康大勝利の立役者となったが、戦傷を負う。

戦後も傷をかかえたまま亡くなる直前まで、豊臣家に与したり、心ならずも西軍とみなされた大名の名誉ある処分のために働き続ける。

西軍大将、毛利輝元の命を守り毛利家を守るために奮闘し、島津氏・真田氏への寛容な裁定でも力を尽くし成果を上げた。

家康の裁定は厳しく、恣意的でもあり、直政の働きがなかったら、関ケ原の戦い後、各地で内乱が起こった可能性も高い。

内紛を回避しての江戸幕府創生に大きな貢献をした。

家康は、戦功として、高崎藩12万石から佐和山藩18万石藩に加増国替えさせた。

西軍を実質仕切った石田三成の本拠を与えたのだ。

徳川憎しの思いが満ち満ちている、統治の難しい地だ。

 豊臣恩顧の大名で東軍となり戦った大名には倍増する石高を与えたが、直政には功績の割には、加増は少なかった。

まもなく1602年2月1日、直政は41歳という若すぎる死を迎える。

関ヶ原の戦いで、松平忠吉に手柄を立てさせるために突撃し傷を負ったのが原因だ。

家康から、松平忠吉を名将にすべく働くようくれぐれも申し付けられていた直政は、死に急ぐように戦い、亡くなった。

外交手腕が優れていたゆえに、秀吉の母、大政所を始め豊臣系の大名からも信頼され、豊臣恩顧とされる大名と親しすぎるほどの関係を築いた。

それゆえ、彼らを豊臣家から引き離し、味方とすることが出来たのだ。

また、家康の小姓となって以来、側近く仕え、家康の知られたくない部分も知った。

分相応をわきまえたつもりだったが、家康との強い結びつきを誇り、少し大胆になっていた。

家康は、時に、誰のための忠勤かと疑うこともあったほどだ。

相手に尽くしすぎるところがあり、それゆえ外交交渉をうまくまとめられた。

だが、文武に類まれな力を持っていた故に、あまりに目立ちすぎた。

結果として、これからという時に亡くなった。

忠吉も戦傷を受け、以後健康がすぐれず、1607年、亡くなる。

直政が、すべてをかけて戦い、守ろうとした家康の子を殺してしまった。

家康が、忠吉にかけていた思いが何だったのか、わからないまま亡くなった。

西郷正友は、兄の死後、苦渋の時を過ごしたが直政との出会いで生き返った。

以後「主君、井伊直政様の筆頭家老となり井伊家を大きくする」ことを生きがいとした。

常に直政と共にあることを誓ったが関ヶ原の戦い時は箕輪城代を命じられ動けなかった。

悔いが残る。

直政が亡くなると力をなくし、忠吉を偉大な大将とすることも出来ず、直政の後を追うように1604年、亡くなる。

直政筆頭家老になるはずが、志半ばで直政の元に逝く。

養子、重員(しげかず)が後を継ぐ。

直政の後継は、花姫の子、嫡男、直勝。

世代代わりが激しい。

西郷正友が亡くなると、息を吹き返したのが、鈴木重好。

直政のいとこであり、後継、直勝の後見人のような顔をし、正友に成り代わり一番家老の振る舞いとなる。

すると、家康より付けられた家臣団の不満が高まり1605年、家臣の不満を代弁し、椋原正直や西郷重員が、鈴木重好を訴え出る。

家康は、鈴木重好を隠居させ、井伊家を去らせることで決着をつける。

ここで、西郷重員が息を吹き返し、筆頭家老にも迫る勢いとなるが、1609年、急死。

西郷家は、嫡男、員吉が後を継ぐ。

妻は椋原正直の娘。

だが、員吉は若く西郷家は精彩を欠き、藩政を主導できず、大坂の陣で奮闘するも、わずかな加増の3500石で終わる。

筆頭家老を目指したが、四番家老の地位に定着だ。

(むく)(はら)正直を継いだ正長は、大坂の陣の前1614年、亡くなる。

嫡男、直政が継ぐも、母方の旗本安藤家を継ぎ、(むく)(はら)家は断絶した。

 家康は直政を高く評価し、それだけの功績をあげたが、娘婿として、井伊家を大切に大きくする気はなかった。

直政に課題と責任を与え続け、直政はその課題をこなすために自分の能力を最大限生かし応えたが、すぐにそれ以上の課題を与えられた。

直政は、限界まで働き続け、若くして死んだ。

家康にとって井伊家は、身内だ。

家康色の家臣団で構成する譜代とならなければならなかった。

ところが、直政は、直虎と同じように井伊家の歴史を大切にした。

家康から付けられた家臣団により井伊家は飛躍したが、井伊家譜代の臣も大切にしたかった。

井伊家が独自色を出すことは、家康の望むところではなかった。

そんなこんなで、直政は、井伊家を直虎の思うように再興できないうちに亡くなった。

家康の背中を見て必死に走り続けた人生だった。

時に見せる家康の笑顔が救いで息が切れても倒れそうになっても走り続けた。

家康の偉大さを見続け、共に走ることができたのは幸せだったが、直虎の真意を生かせないままに終わった後悔はあった。

それでも、死を前にして、素直に胸張って生き様を直虎に話せる自信はあった。

悔やむまい、十分生きたと、すべてを家康に委ね亡くなる。

直勝・直孝が育っており、役目を終えた。

次代に引き継ぐべき時が来たと逝く。