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直虎の死|井伊直虎を彩る強い女人達。(8)

だぶんやぶんこ


約 3871

(なお)(とら)と花姫の楽しい語らいが続いていた時、本能寺の変が起こった。

1582年6月21日、信長は死んだ。

初々しく可憐な花姫の目が涙であふれ、直政の死が目の前にちらつく事態となった。

信長の招きで、京に居るはずだったからだ。

直虎は、落ち着くようにと家中に言い渡し、次の報を待つ。

家康・直政が無事かどうか、早く知りたい。それまで生きた心地がしなかった。

信長の死の報が届いて3日後、無事との報が届く。

(なお)(とら)と花姫は手を取り合って喜んだ。

まもなく、直政から井伊勢すべてに出陣命令が出る。

結婚式は当分延期となった。

信長は武田氏を滅亡させると、武田領を家康に分け与えた。

ただ大半は信長の領地としたため、家康は領地の配分に不満を持っていた。

武田氏との戦いの主戦力は家康であり、直政らの働きが大だった。

武田領の大部分を家康が得て当然のはずが、信長はその多くを信長領とし、家康には渡さなかったのだ。

犠牲ばかり強いられ信長の思うままに操られていると、信長への鬱積した思いを積もらせていた。

ちょうどその時、本能寺の変が起きた。

直政は家康と共に大坂堺に居た。

京ほどではないが光秀を信奉する武将がひしめいている。

すぐにも光秀の手の者による家康主従の捜索が始まるはずだ。

直政はわが身に代えて家康を守ると決意し、光秀の追手からの逃避行の先頭に立った。多くの危機があったが、どうにか乗り切り、無事、本拠、浜松城に戻ることが出来た。

すぐに、家康は、信長亡き後の混乱のときであり、旧武田領すべてを配下に置くと奮い立ち、侵攻を始めた。

直政も、先頭に立って戦う。

家康の思い通り、信長の死のどさくさに紛れて信長領となっていた甲斐・信濃を奪い取る。

当然の権利だと、その地の支配者となっていた信長重臣を追い出す。

表立った侵攻は避け、地元民支援の形で信長勢を追い払う。

旧武田領を奪い返し、家康領としていく。

ところが、上杉勢も北条勢も信長の死に乗じ、旧武田領に侵攻してきた。

家康と対峙することになる。

ここで、家中が混乱していた上杉氏は、総力を上げての侵攻は無理だと、北条氏と和議を結び、兵を引く。

ここから北条氏対家康の戦いになる。

家康は、慎重だった。

信長死後の今後の情勢が不確かであり、見極めるためにも、死闘に至る戦いはせず兵力を温存し、分け合う形で決着をつけたい。

北条氏との和議の交渉が始まる。

直政は、武田氏の旧臣の調略を長く続けており、武田領に詳しく、武田旧臣を多く召し抱えていた。

そこで、家康は北条氏との和議交渉を担当するよう命じる。

家康の婿として大役を命じられ、力量を試された。

大役に奮い立ち堂々と交渉し、家康の意に沿う和議を結び、約5か月続いた戦いを収束させる。1582年末だ。

家康は思い通りに領地を広げ満足した。

それでも、体勢を立て直した織田方から、領地の返還要求が来たらどうするか心配の種となるが、織田家の内紛は続き、家康に領土返還を要求できる者はいなかった。

秀吉が信長後継の座を確実にした時、家康は旧武田領の支配体制を築き、確実に自らの領地としていた。

(なお)(とら)は、直政の無事を確認すると、張りつめた糸が切れたように病に臥せることが増えていく。

慶事が続く中で、病に伏せる姿を見せたくなくて、8月に入ると自耕庵(浜松市北区引佐町(いなさちょう))に住まいを移す。

父、直盛の菩提を弔うために1561年、建立した寺だ。

以後、悔しい時、悲しい時、一人熟考したい時に訪れ、亡き父と話した。

父から元気を得て心落ち着かせると、父に見守ってくれるよう頼み、井伊城の屋敷に戻り、井伊家当主としての任を果たした。

それから20年が過ぎ、直政と花姫との結婚が決まると、あとはすべて花姫に任せ、井伊谷城を去ると決めたのだ。

自耕庵を終の棲家とし菩提寺とするために整備していた。

こうして、出家し祐圓(ゆうえん)()と名乗り、心穏やかに晩年を過ごすはずだったが、身体はすぐれず、移り住むとますます気力が失せる。

南渓瑞聞(なんけいたんぶん)和尚が側を離れず力づける。

今まで和尚とのゆっくりとした語らいの時はなかったと和尚の顔を見ると語りかける。

問題を抱えての悩み相談ばかりで会っており真剣だったし、出家後は俗世を離れての修養に打ち込み緊張感のある付き合いばかりだった。

ようやく、今を大切に豊かな時間とするべく話せる時が来た。

そんな語らい、思いの丈を話せる時間を持てたことに感謝する。

花姫も訪れる。

直政が戦勲を上げた報告と見舞いを兼ねて。

穏やかな笑顔を交わしながら、直政と花姫の仲睦まじい様子を聞くのが無常の喜びだ。

日々の暮らしの大切さが思い知らされ、結婚が待ち遠しい。

命をかけて戦う直政の無事を祈り心配し続けた日々が嘘のようだ。

花姫がいれば、直政を天が守ると心の底から思えた。

天命を信じ委ねれば良いのだと、花姫に直政を託し、別れを告げる時が来る。

花姫も直虎を引き継ぐ天命を感じているかのように、冷静だった。

直政が家康の婿と決まり、信長を殺した光秀から家康を守る逃避行というおお仕事に向き合い成功する。

ここで、抜群の知恵を見せた。

次いで、混乱する甲斐・信濃など旧武田領で信長が領した地を奪い取る。

ここで抜群の軍事力を見せた。

続いて、旧武田領を巡る北条氏との和睦交渉。

抜群の外交力を見せた。

直政は、家康の婿として及第点を取り、家康のなくてはならない武将にまで成長していく。

直虎は、直政の北条勢との戦いの様子を聞くころには、意識が薄れていたが、活躍ぶりはよく分かった。

信長の死から天下人の道を歩み始める家康。

そのあまりに劇的な状況で、直政は、家康の娘(養女)婿として活躍する場を得た。

直政は幸運な星の元で生まれたのだと、(なお)(とら)は、もうろうとした意識の中で、亡き父母に報告する。

祖父、直宗の戦死。

父、直盛の討ち死。

許婚、(なお)(ちか)の謀殺。

曾祖父、直平の死。と続く不幸を身体全体で受け止め、その後に続く、井伊家の凋落が走馬灯のように頭をめぐる。

井伊直親は婚約者だったが結婚しなかった。

結婚していたらどのような井伊家を創っていったか、興味深いが、直虎は直親には興味を持てなかった。

小野朝直は、幼なじみの近習の筆頭だ。

気に入っていたが、筆頭家老の次男でしかなく、結婚できる相手ではなかった。

直虎に直親との結婚への興味を失わせた素敵な武将だったが。

中野直之は、父が気に入っていた。

直親が亡くなった時には一門筆頭として、婿養子に迎えたいと考えたこともあったが、(なお)(ちか)が戻り、直政が生まれ、かなわない夢となった。

(なお)(とら)も、婿に迎えてもよいと思っていたが。

若かった青春時代の思い出の数々が浮かび、意識が薄れるなかでも微笑んでいた。

波乱に満ちた一生だったが、家康を選択したことは間違いではなかったと自分を褒めた。

花姫を、直政を託すに相応しい女人だと受け入れた時、この世ですべきことを終えた。

花姫を直政の元に届けてくれたのは瀬名姫だ。

それは、西郷の局と西郷正友の縁でもある。

冥土で、瀬名姫に早く会いたい、ゆっくりと話したいと思う。

花姫は、父、松平(まつだいら)(やす)(ちか)には厄介な存在だった。

母を不幸にし、家康にひれ伏する卑怯な父親と、冷たい目で見続けたからだ。

松井松平家を背負う(やす)(ちか)は、花姫の思いはわかるが他に選択の余地がなかったと詫びた。花姫の母とはよく理解しあったうえで、静かに別れたのだと。

幼い花姫には理解できなかったが。

以後も父娘の葛藤は続く。

家康も感じるところがあり養女とし、直政との結婚を決めた。

この時、ようやく、花姫は父の胸中、心の葛藤を察した。

そして、家康の駒として井伊家に送られることを受け入れた。

その思いを(なお)(とら)に切々と話した。

すると「井伊家で新たな幸せな人生が待っています。直政も苦しくつらい日々を送りました。二人で過去を洗い流し寄り添って生きる道が待っています。安心なさい」と厳しくも優しく励まされた。

この時、花姫は目を見開きうなずいた。

直虎と花姫、二人は、固い絆で結ばれた。

1582年9月12日、(なお)(とら)は、病床の身を静かに横たえ、思い通り生き抜いた満足感のうちに自耕庵で亡くなる。46歳だった。

後、自耕庵は、(なお)(とら)の法名を取り妙雲寺と名が変わる。

不思議不思議でつながる面白い人生を生き抜いた、直虎の最後は静かだった。