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直政と花姫の結婚|井伊直虎を彩る強い女人達。(7)

だぶんやぶんこ


約 1971

直政は、21歳の誕生日、1582年3月4日に合わせ、井伊谷城で、元服した。

(なお)(とら)は、直政の切れ長の厳しく突き通しすべてを見抜く目、濃い眉、鼻筋の通った端正な顔立ちをじっと見て涙を浮かべた。

「今日の日を迎え心より祝福します。よく頑張ったと思います。顔も性格も技量も井伊家を率いるにふさわしい。きっと井伊家は伸びるでしょう。素晴らしい武将になりました。ありがとう」と直政を褒めた。

側には、家康の養女となった18歳の花姫がいた。

婚約が決まり、少しでも早く井伊家に慣れ、当主の妻として力を奮ってほしいと迎えていたのだ。

結婚式は元服時の予定だったが、武田攻めの最終段階であることや、全国平定をまじかに見据えた信長から呼ばれることも多く、武田勝頼を攻め滅ぼして後と延期された。

直虎は早く花姫に会いたく家康に願い、直虎の元で花嫁支度をすることに決まった。

直政は元服の儀式を済ませ、家中の忠誠心を確認すると、急いで家康の元に行った。

ようやく、直虎と花姫との語らいの時が始まった。

花姫は、想像以上に、美貌を備えた奥深い面差しの賢女だった。

時々見せる愁いを浮かべた表情が気になったが。

「生きていてよかった。これ以上の幸せはありません」と花姫に感謝の言葉を述べ「井伊家のすべてを任せます」と優しい笑顔で頼み、花姫もにっこりとうなずいた。

 花姫は、松平(やす)(ちか)(松井忠次)の先妻、江原政秀の娘だった。

父、(やす)(ちか)は、戦功を上げ続け、家康の覚えよく、松平一門、松井松平家となった。

花姫を井伊家に送り出した翌年の1583年、北条攻めに出陣中、陣中で亡くなるが。

(やす)(ちか)は、松井松平家を起こす時、松平一門、能美松平家、松平重吉の娘と結婚し、初婚の妻は離縁となった。

1568年、離縁させられた江原政秀の娘が、花姫(1565-1639)の母。

江原氏は、信濃守護、小笠原氏の一族で、1471年頃三河に移り、三河守護代を努めた幡豆(はず)小笠原氏に属した。

江原城(愛知県西尾市江原町字屋敷)を居城とし力を伸ばした。

松平氏に従っていたが、家康が今川義元に従うと、江原氏も義元に従い、当主、忠次は桶狭間の戦いで戦死。

以後、江原氏は、家康に従うも、三河一向一揆で家康に敵対する。

まもなく家康に降伏し、所領安堵され、花姫の母は、松井忠次(松平康親)との結婚で、家康への忠誠心を見せることになる。

そして花姫が生まれるも、家康は、江原氏への不信感を引きずっており、離縁となり、松井忠次(松平康親)に能見松平家、松平重吉の娘との再婚を命じる。

継母の元、花姫は育つが、生母のいない屋敷では居場所がなく寂しい少女期だった。

そんなこともあり、早く嫁いで、家を出たかった。

結婚を待ち焦がれていた時、16歳で直政との結婚を知らされた。

家康から、家康の娘(養女)として嫁ぐこと。

直政は非常に秀でた武将でありしっかり支えること。

など笑顔で聞かされ、感激して受け入れ、結婚を待ち焦がれる。

すると、井伊家で花嫁支度をするようにと、婚約中に井伊家入することになった。

高名な直虎に会えるのも楽しみに、井伊谷城に入る。

花姫は、母への冷たい仕打ちに納得できず、父にも継母にもなつけず、家康も嫌っていた時があった。

年齢と共に、家康の力の偉大さを知り、今川領を支配下に置き、武田領をほぼ制圧するためには、無慈悲なことをせざるを得なかったことが分かってくる。

母への同情は変わらないが、松平(やす)(ちか)の娘として堂々と生きるしかないと思い定めての結婚だ。

直虎の願いを聞き喜んで、それでも、希望と緊張感で身体を固くし井伊家に入った。

(なお)(とら)は、花姫の生い立ちすべてを理解し、思いを見通したようにおおらかで優しかった。

ようやく母と思える人に出会えたと涙ぐんでしまった。

母もきっと直虎と同じような人で、今の花姫を見て喜んでいてくれると思えた。

父、松平(やす)(ちか)の武勲があり、家康が見込み出世街道をかけ上っている直政との結婚となったのだ。とても素敵な結婚相手であり、感謝すべきだと思う。

母のためにも、与えられた役目をはたし、喜ばしたい。

結婚後、まもなく、父は役目を果たしたように亡くなり、複雑な思いが残るが、父と別れた。

花姫は、生きる喜びを見出し、直虎が義母となる幸せに、酔う。

直政とともに、井伊家を守りたいと思う。