貞奴、演劇を知る|女優、貞奴 幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人。(4)
だぶんやぶんこ
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伊藤博文は、近代国家、日本を誇示するために、欧米人に見せて恥ずかしくない演劇を作ろうとした。
そこで、1886年(明治一九年)、末松謙澄(1855-1920)らに「演劇改良会」を設立させた。
末松謙澄はイギリス留学が長く、イギリス西欧の文化法律に精通し、適任だと考えたのだ。
歌舞伎を近代社会にふさわしく変えることや、歌舞伎しか無い日本の演劇界に新しい演劇の道を開くことを目的とし、具体的に取り組み成果を上げるよう命じた。
翌1887年には明治天皇の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させ、歌舞伎の文化性が周知されるよう試みた。
出足は良かった。
その手腕を高く評価した伊藤は、1889年(明治二二年)、末松謙澄と娘、生子を結びつけた。
以後、末松謙澄は、義父、伊藤の後ろ盾を得てますます出世していく。
内務大臣を歴任する政治家となった。
末松謙澄を伊藤に紹介したのが演劇の質の向上を目指す福地桜痴(1841-1906)。
福地桜痴は、長崎で儒者であり医者である家に生まれ、漢学・蘭学から英語・フランス語と学び、幕府お抱えの通訳となり、旗本に取り立てられる。
維新後は、作家となり、語学を教えながら生計を立てる。
そんな時、渋沢栄一の紹介で、伊藤博文の通訳となり、伊藤に随行し海外視察に行くことになる。
渋沢栄一は、かって、一橋慶喜に共に仕えた同僚だったからだ。
大蔵省に入り、各国の会計法を学び、重要な役目を得るが、性に合わず、退職。
そして、政府系「東京日日新聞」発行所、日報社に入りジャーナリストとして健筆をふるい、影響力大で社長になった。
末松謙澄は同新聞の記者であり、優秀だった。
福地桜痴は、武士(幕臣)から始まり、ジャーナリスト・作家・劇作家・政治家・衆議院議員と多彩な経歴で、活躍する。
福沢諭吉のライバルとされる文化人であり、並び称される才知があった。
中でも、演劇に深く興味を持ち携わっていく。
海外視察で深く感じ入るところがあり、日本の芸術活動の向上に取り組む。
フランスやイギリスの戯曲や小説を翻案し、演劇改良論を書き始め、1886年(明治19年)の演劇改良会の発起人に加わる。
そして、演劇改良運動を具体的に実践する劇場の開設に執念を燃やす。
洋風建築の大劇場を建て新しい装置を取り入れた舞台での芸術活動を行うのだ。
「歌舞伎座」建設を目指す。
だが、演劇改良会は新しい演劇を目指すのか、伝統ある歌舞伎の近代化を図るのか、立場が不鮮明で1888年、2年で解消される。
貞奴は、この間、演劇への興味を深め、伊藤博文との繋がりで日本文化を牽引する人脈との付き合いが始まり、ウキウキして聞き入ったが、なくなってしまい残念だった。
それでも、すぐに、貞奴は演劇の面白さを実際に味わうことになる。
1889年6月、福地桜痴・渋沢栄一・大倉喜八郎など政財界の有力者と地元有力者の協力で日本橋蛎殻町に洋風演芸の大劇場「友楽館」が完成した。
その落成式に慈善芝居が企画され、芸者達に出演依頼が来たのだ。
新しいことが大好きな貞奴は、喜んで受けた。
今をときめく話題の一流芸者、貞奴が主役を演じ、切符を売りさばき、自らも切符を買うという大活躍だった。
貞奴演じる慈善芝居は大好評で「友楽館」の歳末の慈善公演は恒例化する。
翌1890年、男女混合劇を許す訓令(行政機関が権限行使するための命令)が出る。
それまで、芝居は男の役者のみ、女の役者のみでしか演じることができなかったが、男女共演を認めたのだ。
「友楽館」で男女混合劇を行うため、政府に働きかけ、訓令が作られたのだ。
だが、女優はおらず、男女共演の劇の実現は、現実には難しかった。
歳末の慈善公演だけでは興行にならず、せっかくの舞台が活かされないまま、経営難となり5年後、閉鎖されてしまう。
貞奴は、またも、がっかりだ。
それでも、主演女優の醍醐味は味わった。
18歳から、女優としての表現者の顔も持つようになっていたのた。
この事態に、女優を目指す動きが出てくる。
それまで、女優が認められていなくても、すべてを女性で演じる女役者一座は数多くあった。
歌舞伎の一段下の評価だが、女優の名はつかなくても、演じる女性はいたのだ。
名女優、市川久米八(1846-1913)は代表格だ。
女優が求められるようになると、率先して市川団十郎の弟子となり女優となった。
貞奴の年長の友だ。
「友楽館」に続き、1889年11月、福地桜痴らが強力に推し進めた「歌舞伎座」が木挽町(中央区銀座)に完成する。
外観は洋風、内部は日本風の三階建て檜造り、客席定員1824人、間口13間(23m)の舞台を持ち、最新の設備を導入した大劇場だ。
最新設備の舞台で、芸術活動として、歌舞伎が上演される。
「友楽館」での男女混合劇は失敗だったが、歌舞伎界は役者が揃っており、素晴らしい演劇が行われ、歌舞伎がより盛んになっていく。
「友楽館」がジリ貧になっていくと、貞奴は、歌舞伎の演劇に惹かれる。
もっと演劇を知りたいと、ひいき役者ができる。
そして、歌舞伎にのめりこんでいく。
この頃、好きな歌舞伎役者の後援者となって、金銭的にも支えるのが成功した芸者の証となっていた。
政財界の大物にひいきにされ、大きく稼ぐゆえの必要な散財と見なされた。
貞奴は、芸者の値打ちを上げるのに、歌舞伎役者を使うのは嫌だった。
演劇が好きになっていたのだ。
積み重ねられた歌舞伎界の奥深さを理解したくて、中村歌右衛門・尾上梅幸ら幾人かをひいきにし、熱心に、観て聞き話す。
貢ぐ間柄になるのを嫌い、割り勘で対等に付き合った。
そんな貞奴の潔い性格は、歌舞伎役者の中でも絶大な人気を得る。
著名な歌舞伎役者からの結婚の申込みがいくつもあった。
成田山のお不動様への信仰が深い九代目、市川団十郎(1838-1903)との親交が生まれたのもこの頃だ。
貞奴は、多くの歌舞伎役者と知り合い、演劇談義に花を咲かせるが、女性を活かせない歌舞伎に飽き足らないものを感じる。
次第に、新派に興味が移る。
歌舞伎役者との付き合いで、演劇を見る目、知識を身につけた。
この間の幾多の経験で、日本文化の表現に関心を持ち、日本と外国の文化の違いも学ぶことが出来た。
女優となる下地が出来たのでもある。